第26回3000字小説バトル
 投票〆切り2月末日/参加作者はレッドカードに注意!
  INDEX
 エントリ 作者 作品名 文字数 得票なるか!? ★ 
 1 さゆり  遠い世界へ  3000   
 2 narutihaya  浜中さん  2875   
 3 3カウント  反抗  2954   
 4 青野 岬  レンガの家  3000   
 5 堀井安樹  迎え火〜ブルーを撃ち抜いて  2258   
 6 ごんぱち  朽ち行くを見ながら  3000   
 7 棗樹  白球残像  3000   
 8 橘内 潤  『Quo Vadis』  2995   
 9 るるるぶ☆どっぐちゃん  ライアン、プライベートコンサート  3000     


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バトル結果ここからご覧ください。




Entry1
遠い世界へ
さゆり

 キャンプファイヤーの火が赤々とみんなの顔を照らしていた。炎はめらめらと夜空を焦がし、天空に上っていく。轟々と薪の燃える音。はぜる火花。火を囲んでクラスメートと合唱しながら、私の心は喩えようもない幸福感に酔いしれていた。

「こゆきをお嫁さんにするんだ」
この言葉を能代君が言ったと聞いた時の幸せな気持ちを今も忘れない。彼はいつもクラスの中心にいたけれど、高校生には不似合いなほどニヒルでクールな雰囲気が漂っていたし、女の子のことなど眼中にないといった感じで飄々と日々を過ごしていたように私には思えたから尚更。その後も告白された訳ではなく、二人きりで会ったこともなかったけれど、いつだって彼の視線は優しく暖かく私を包みこみ、私はその中で憩えた。

 ある日教室に入ると、彼を中心に固まっていた一団からヒュ〜と口笛が聞こえ、同時に「お嫁さん!お嫁さん!」コールが巻き起こった。顔を赤らめて席に着くと彼がやってきて、「そのままのほうがいい」と言った。いつもはふたつに結んでいる髪だったが、私はその日、時間が無くて結えずに、制服には不似合いなほど長すぎる髪を垂らしたままだったのだ。ノートをとるときも、お昼ご飯を食べる時にも髪はさっと垂れてきて、そのたびに両手で後ろに払うのだけれど、結わずに過ごした。そんな小さな束縛もたまらなく嬉しいものだった。

 そしてキャンプファイヤーの夜、寒くて両腕を回し震えていた私に、彼は自分のカーディガンを脱ぎ、背中にそっとかけてくれたのだ。突然の優しさに驚いて見上げると、いつもの笑顔があった。
「わぁっ!」女性陣から羨望の声があがった。
「お嫁さんお嫁さん」男性陣は囃し立てた。
彼は照れて頭を掻き人ごみの中に消え、そして私は。
私は、炎のようにどくどくと赤く燃えたつ心を抱え立ち尽くしていた。
本当にそんな日が来るといい。心から願った。

3月が来た。
彼は受験した四つの大学を全て滑った。

一浪して再挑戦する覚悟を決めた彼は、東京の予備校に進むのだと言った。「私もついていく」間髪を入れずに私は言った。地元に就職が決まっていたけれど、彼と離れて暮らす位ならそんなもの蹴ってもいいのだ。

 東京に行きたいと両親に申し入れた。彼とのことも、正直に打ち明けた。彼が学業を終えるまでの辛抱だと心を尽くして話してはみたが、予想どおり父の怒りは凄まじかった。
「なんてふしだらな娘だ。そんな娘に育てた覚えはないぞ」
父は私を溺愛していた。三つ違いの兄もいたが、兄が不満をもらすほど私に対して甘かった。しかし、いくら説得しても聞かない私に父は、包丁を持ち出した。「行くな」と言った。「目を覚ませ」と言った。
家は村に唯一あるスーパーで、野菜、魚から、薬、長靴に至るまで売っている、所謂何でも屋だったが、それらが所狭しと並べられた棚を蹴散らし、父は私を追い回した。

 結局、私は我を通した。大人から見たら不安定極まりない状況だったろうが、本人は至って弾んでいた。初めての東京、小さなアパート、勉強机と僅かな台所用品、着替え、そして愛だけは溢れるくらいに携えて二人は新生活をスタートさせた。彼は大手の予備校に入学し浪人生活を始めた。私は会社員となり、電車で通勤する社会人としての一歩を踏み出した。

「こゆきの作る料理、ほんとに美味しいなぁ」
彼は手放しで私の料理を誉めてくれた。それが嬉しくて色々なものに挑戦もした。家が商売をしていたために、私は小さい頃から食事当番を受けもたされ、お料理はお手の物だったのだ。彼の家は、母親が保険の外交をしていたので、夕食時にも一人で済ますことが多く、そのせいかほんの少し手を加えただけの料理でも、「美味い美味い」と大騒ぎして食べてくれる彼に、限りなく私の母性本能゙は擽られた。生活費は殆ど私のお給料で賄っていたけれど、そんな事はたいして問題ではない。彼の夢を叶える為に二人の未来の為に、今があるのだと思った。

東京に来て、一年目の春が来た。
彼は再び受験に失敗した。
意気消沈する彼に、かける言葉はなかった。

二年目の春。
妥協して少しレベルを下げてみた。
しかし、大学の門は固く閉ざされたまま。
強張った顔を見るのが辛かった。

三年目の春もダメだった。
「もう、こちらで働きなさい」
痺れを切らした彼の親から電話が入る。

私も入社三年を迎え、重要な仕事を任されるようになり、残業も増えていった。彼との夕食も、中々ままならず、会話も少しづつギクシャクするようになった。「俺はヒモさ」自嘲めいた言葉も吐くようになった。「そんな事ない。私は信じてる」大学に受かりさえすれば、全てが解決するのに。固く閉ざされた大学の門が恨めしかった。それでも不安を押し隠し私は未来だけを見つめようと思っていた。

「お嫁さん、お嫁さん」あの日のクラスメートの笑顔。はぜる火花。羨望の眼差し。幸せだった私を幾度反芻したことか。

 残業のはずが、思わぬテンポで仕事が片付いて家路についたのは、まだ日も高い五時前だった。アパートに辿りつき、鍵を開けようとしてふと、手を止めた。鍵は閉まっているのに人の気配がする。「帰ってるのかな?」予備校はここから電車で一時間もかかる所にあり、帰るのはいつも暗くなってからの筈。不思議に思いながら寝室に入ると、そこには見知らぬ少女と彼がいた。

 青天の霹靂だった。
 彼はいつものニヒルな感じを崩さず「妹みたいなものさ」と嘯いたがその場の空気は取り繕いようもなかった。私にはわかる。彼と少女との間には、二人だけの世界が出来上がっていたのが。かつて私と作り上げた暖かな世界。それが二人の間に厳然とあることを認めたとき、喩えようもない嫉妬が私を襲った。

 血が逆流するって、こんな事を言うのかなと思った。以前、職場の先輩がご主人に彼女が出来て、妊娠までしていると聞かされた時「あまりのショックに、血が逆流したのよ」と話していたけど、今の私それと同じかな。それで?って聞けばよかったな。逆流した血は、どうやって元に戻したのですか?先輩。私今、この手を足を一体どうしたらいいの?教えて、先輩。

 少女は帰り、彼と私が向きあった寝室を不気味な沈黙が支配した。
 彼は不貞腐れたように、ベットの上でタバコをふかした。
 煙は狭い寝室を縦横無尽に駆け巡り、私の涙腺を刺激した。
 信じて疑わなかった彼が、一緒に未来を夢見ていたはずの彼が遥か遠くに霞んだ。

 私はフラフラと台所に入った。そこに置いてある特大の姿見に見知らぬ女が映っていると思ったら自分だった。昔、彼が好きだと言った髪は、短くてバサバサでちっとも揺れない。肌はくすんで目は窪んでいる。いまさっき、帰った少女とは雲泥の差だ。

 笑いたくなった。逆流した血は、笑いの神様を誘うのだろうか。あまりに辛い出来事には自動制御装置が働いて、人を守ってくれるとでもいうのだろうか。

 人間の幸せの量は、定まってないと偉い人が言っていたけど、私はやっぱり一定だと思う。私は味わい尽くしたのよね。きっと。それも嬉しかったけど、今度生まれ変わったら、小さな幸せを長く配達して貰うのもいいなぁ。ねぇ神様、お願いしていい?

「お嫁さんお嫁さん」
クラスメートの笑顔が浮かぶ。はぜる火花。天空高く舞い上がる炎。
どうぞ私も連れて行って。高く遠い世界へ。
あの日の炎のように真っ赤な血が、手首からゆっくり滴り落ちている。


Entry2
浜中さん
narutihaya

 大晦日の夜に、僕は居酒屋で浜中さんが来るのを待っていた。混み合った店内の端っこのテーブルで、チューハイライムをちびちびと飲んでいる。一人で飲んでいるのは、僕だけだった。僕は店の奥からずっと人の出入りを見ていた。きっと彼は来ないだろう。来るわけがない。大晦日の夜に、僕は自分の父親ぐらい歳の離れた男が来るのを待っていた。

 浜中さんは、僕が3年ほど前に勤めた会社の同期だった。同期といっても、それは毎月の様に顔ぶれが替わっていく様な職場で、たまたま同じ日に入社したというだけだった。でも、それがきっかけで、僕と浜中さんは毎晩二人で飲みに行く様な間柄になった。
 大学を出て初めて勤めたその会社に、僕は半年ほどしかいなかったのだが、その間の事はよく覚えている。怪しげな教材を訪問販売している会社で、僕らは朝から晩まで名簿にかじりついて、ひたすらに電話をかけ続けた。1日に100件以上かけて、そのうちでまともに話を聞いてもらえるのは、よくて5件ぐらいだった。話ができた客はルーズと呼ばれ、僕らは1日に5ルーズは取らなければならない。さらに、毎日の5ルーズの中から、週に3件はアポイントを取りつける。そして、訪ねた3件の中から1件を成約に結びつける。そうすれば、月に4件の契約が取れる事になる。それが会社が僕らに要求する理想的なモデルだった。
 でも、実際にそうしたペースで契約がとれる人間はいなかった。僕らは毎日、毎時間、毎分、「いりません」と電話を切られ続けた。ようやくアポをとっても、自腹を切って訪ねた先は留守だったりする。休日も返上で、朝から晩まで働き通し、それでも1月に1本の契約がとれるかどうか、というのが正直なところだった。そして、契約の取れない人間を待っているのは、10万足らずの給料と上司からのきつい追及で、大半の人間は3ヶ月ももたずに辞めていった。
 こんな職場だったから、残り続ける古株というのは、どうも一癖ある人間ばかりだった。電話の時だけ博多弁になる課長は、元自衛隊のジェットパイロットだったと言った。係長には住む家がなく、会社のそばのビジネスホテルから通ってきていた。彼の前職は、老人から投資名目で金を騙し取ったあげく、会長が刺し殺された会社だった。借金があって毎日アンパンしか食べない主任は、テレアポのプロについて僕に語ってくれた。ある不動産関連の会社では、受話器の向こうのほんの少しの音も聞き漏らさない様に、頭から毛布をかぶって電話をかけるのだそうだ。電話一本で何千万という取引を成立させてしまうそのプロの机には、ある日花が飾ってあったと、彼は言った。
 つまり、みな筋金入りの嘘つきなのだ。そんな中で、僕にとっては浜中さんだけが、普通に話の出来る人だった。

 彼はいつも、広島弁と大阪弁の混ざった様な独特の語り口で、ぼそぼそと電話をかけていた。僕らは基本的に、「明るく元気に、声の高さはドレミのラでしゃべれ」と教えられていたから、彼の話し方は悪い見本の様なものだった。それでも、彼はそれなりの成績をあげていて、課長もそれを黙認していた。
 ある日、彼は僕が以前に契約し損ねた女子高生と電話をしていた。僕と話した時には、彼女は「将来、何をしたいかが分からないから、何を勉強すればいいのかが分からない」みたいな事を言って、なかなか誘いにのってくれなかった。
 浜中さんだったら、どうやって彼女を口説くのだろう。僕はそう思って、聞き耳を立てた。しばらくの間、彼はいつもの様に半分寝ているみたいな口調を続けていたのだが、突然、声を荒げた。
 「なにをいうとるんや。あんた、毎日学校と家の間往復しとるだけやろう。そんなんで将来、なにになりたいかなんか分かるわけがない」
 僕は思わず隣に座る浜中さんを見た。部屋の一番奥で振り向いた課長と目が合った。それぐらい大きな声だった。
「悩んでもなんもええ事なんかあらへん」
僕は浜中さんの目にうっすらと涙が浮かんでいるのを見つけた。

 その日の帰り道、いつもの居酒屋で、僕は浜中さんに涙の事について触れてみた。チューハイライムを飲みながら、彼は言った。
「わしの娘が、ちょうどあの子とおんなじ、高校の2年生や。去年ぐらいから学校行かん様になりよってな。もう辞めるとか言いよる。ずっーと部屋にこもってな、わしが声かけても出て来えへんのや」
彼はグラスをぐいっと飲み干して、店員におかわりを頼んだ。
「わしが、あの子と将来のこととか話しとる間も、わしの娘は、部屋の電気もつけんと、一人でおるんや。そない思たら、ついほろっといきそうになる」
 僕は泡だらけの生ビールを一口飲んだ。とても苦い泡だった。僕は黙って、その苦いビールをちびちびと飲み続けた。浜中さんも2杯目をちびちびと飲んだ。浜中さんはチューハイライムしか飲まなかった。
 「自分、あんまり酒は好かんみたいやな」
3杯目を頼んだ時、浜中さんは言った。
「人生はシラフでないと」
僕は前に読んだ小説にあった一節を言ってみた。僕は酒は嫌いではなかったが、酔う事は嫌いだった。酔いが僕の人生から、僕を連れ去ってしまう様に感じていた。
「人生はシラフでないと」
浜中さんは両手をテーブルの上に置き、背筋を伸ばす様にして、僕の言った事を繰り返した。彼の細いやや垂れ下がった目が、僕をじっと覗き込んだ。
「ええか。人生は地獄なんや」
浜中さんはそう言った。じんせいはじごくなんや。僕は頭の中でその音声のつながりに、緩慢に意味をあてはめた。そして、わずかな昼休憩の間に、喫茶店でむさぼる様にエロ本を見る課長や、延々と電話をかけるふりをして時間をつぶす係長の姿を思い返した。僕が握る受話器からは、深い沈黙だけがいつまでも続いていて、その電話の向こう側には、浜中さんの娘が一人立っている。
 暗い妄想にとらわれた僕を見てとった浜中さんが、肩をすくめ、おどけた口調で言った。
「アホやなあ。自分はすぐそうやって真にうける。まじめすぎるんや。ほら、飲め。もっと飲め。シラフで寝るやなんて、そんなアホらしい事できるかあ」
 浜中さんが飲みかけのチューハイライムを僕の前に置いた。僕はそれを飲み干した。ビールよりはましに酔えそうな気がした。

 気がつくと、店内には蛍の光が流れている。僕は両頬を伝う涙に気がついて、慌ててそれをぬぐった。僕は席を立ちながら、涙の理由を考えた。ひとりだからだろうか。この大晦日の夜に、僕は3年前に半年しかつきあいのなかった男と、偶然出会う事を期待するしかなかった。僕は徹底的にひとりだった。でも、それは僕が自ら望んだものなのだ。
 寂しいなんて、僕は思わない。
 僕は店をあとにした。駅へと向かう僕の背中を、新年の風が冷たく押した。
「人生は地獄なんや」
頭の中で浜中さんが繰り返した。きっとそうだろう。それは人の数だけ世界に溢れている。でも、と僕は思った。初詣客でいっぱいの電車がホームを駆け抜けていく。
「地獄だけでもないよ。きっと」
アルコールの抜け切らない頭で、僕にはそう言うのが精一杯だった。


Entry3
反抗
3カウント

コレはもうこの世にいない愚かな人間の嘆きとして聞き流して欲しい。

あの学校には沢山のクラスがあった。昔は荒れていたらしく、学校全体を巻き込むのクラス同士の大きな紛争も二回経験したらしい。
その後、学校は大きく建て直された。教員の力によって、彼らの思いどおりに。
組み分けは偏見を混ぜ、大体の成績順に分けられて、そのカタチは変えられることはなかった。教師は、はっきり言って全員を見下していたけどその中でもクラス別に大きく対応の仕方を変えていた。
僕のクラスには、優しい、頼れる大人として接していた。僕のクラスは成績は良かったが、気が弱い生徒ばっかりだったので、洗脳しやすかったのだろう。この学校の支配者が誰なのかと言うことを…。
僕らも含めた一部は『先進クラス』と称され、教師はなぜかこの少数のクラスを中心に学校を動かしていた。
残りの多数のクラスに対しては『発展途上』と勝手にみなし、学校の方針も、教育のスピードも配慮せず置き去りにしたままだった。だから先進クラスとの差は呆れる位に広く、縮まる様子もなかった。
反抗する奴は暴力で押し付けた。誰も逆らえないような空気がいつの間にか出来ていた。特に『先進クラス』は、ムダに大人で自分たちが潰されないような術を知ってたから、逆らうことも反論することも避けていた。

ある日、教師の一人が刺された。それは、教師に落ちこぼれのレッテルを貼られ、好きなように扱われていた、発展途上クラスが起こした教師に対するイカレタ反抗だった。
教員は怒り狂った。当然彼らも恐ろしさは知っていたはずだ。しかし、一部の生徒はこんな学校に疑問を持っていた。ただ、反旗を翻すことができないくらいに彼らは強く、この学校を支配していた。       
疑問を持っていると言っても生徒は洗脳されていたのだ。
校長は僕たちにこう言った。
「学校の平和は侵された。我々はコレを許さない。」
自分たちの今までの行動や、対応の不備を認める素振りも無く。いや、それを打ち消す為に現実に起きた事件の内容や、悲惨な状況をだけを表し、自分たちの『報復』の正当性、事件の異常性を強調させた。教師は、当然のごとく力には力で反撃を考える。
事件の後に流された彼らの独占的な、画一化された情報に生徒は洗脳された。生徒はクラス紛争以来、平和と言う言葉を間違えていたのだ。
「『報復』もやむおえない、学校の平和を守ってくれ!」
と。
生徒は何も知らなかった。
僕にはこの事件には、反抗の他にもメッセージという意味もあるように思える。返ってくる倍以上の反撃を、それに伴う自分の命をも顧みない、学校、そして教員に対する自殺的反抗。イカレルほど彼らは病んでいたのだ。
その意味を考える暇も無いくらいに、知ることすら許されないかのように話は進んでいった。洗脳作業と同時に教師は、平和を守る為と称した、『報復』の計画を着々と練っていた。
そして、全ての準備が済んだとき、今さらながら生徒を納得させる為に、彼らはクラス会を強引に開かせ、自分たちの対応に対する賛成を求めた。しかし、賛成を求めたのは先進クラスだけだった。生徒の過半数にも満たない少数に意見を聞くだけでその報復が成り立つかのように。
先進クラスは当然のように『賛成』の結論を出す。僕を除いては。

僕は転校生だった。今まで書いてきたような学校の『暗黙の了解』や『システム』は僕が死んでから知った事だ。そもそもこの事件が起こったのは僕が転校してきて直ぐのことだったのだ。暗黙の了解だから知っているわけが無い。
入れられたクラス運の悪さもある。僕は、前の学校で(前の学校の状況はココと全然違っていた)生徒代表とかをやる正義感いっぱいの生徒だったため、『平和主義』、『紛争反対』を掲げたこのクラスに入れられた。そして、リーダーが不甲斐なかったこのクラスの新しいリーダーに任命されてしまった。

コレは最初に聞いた話だけど、このクラスは昔はイカレテいてクラス紛争が起こったときに先陣を切って暴れていた。今とは違い『軍国主義』を掲げていたのだ。その時に、教師にボコボコにされて、多くの補修時間を課せられ、『主義』から変えられてしまったらしい。いつしか、過去の過ちを認め、今のカタチにいたった経緯をリスペクトするようになる。そもそも短時間で主義そのものを洗脳される事自体、今考えれば、おかしな事だと思うけど。
 僕はとんだ偽善者集団の中に入れられていたのだ。今考えてみれば、頭はイイみたいだけど馬鹿なクラスだった。いや、頭が良いんじゃなくて、勉強ができて教師に好かれているだけだ。

僕は転校生だったせいか、この事件を冷静に見ていて、この流れに疑問を持つ。まあ、疑問を持ったのは僕だけじゃなくて、みんなだったのかもしれないけど…。
僕が、他の人と決定的に違っていたのは、新しい学校で自分をアピールしようとしていた事と、何も知らなかったことだった。
だから、クラス会の中で意見を求められた時、張り切って手を上げた。
「僕らのクラスは平和主義を掲げています。だからその生徒達の行動は悪い事だし、それなりの罰は与えるべきだけど、暴力には反対です。暴力に暴力で反抗する事は僕達の考えとは違います。それに先生は大人なんだから、落ち着いて話し合うべきじゃないでしょうか?悪い事ばかりを掲げるんじゃ無くて、事件の原因や、次が起こらないように、対策を練るべきです。悪いものを押し付けるだけでは、必ず次が起こるのではないでしょうか?起こるべき芽を摘むことが今とるべき行動だと思います。」
言い終わった後の僕は満足感でいっぱいだった。でも周りを見渡し、賛成を求めた時、かなりの違和感を感じた。そして、その時の教員の怒りと、憎悪の表情を僕は忘れない。
少しして、教員は僕を睨みながら教室を出て行った。前のリーダーが上手く教員と話をまとめたらしい。「あのヒトはおかしいんです」とか「新入りですから」とかごまを擦っていたんだろう。他の生徒はほぼ無関心で僕の話題で盛り上がっていたから、教室は騒然として僕には分からない。

今も疑問に思う。このクラスの何処が平和主義なのかと。リーダーは教師の言いなりで、他の生徒はいい加減な位に無関心。何の為に頭がいいのだろう?学校で何を学んでいるのだろう?自分たちの主義すら知らないし、無関心なのではないのだろうか?学校の中で平和主義を掲げる唯一の存在なのに。

なぜ?

その後、当然のように僕は校内放送で校長室に呼ばれた。まだ僕は自分の意見が間違っているとは思えずに、苛立ちを持ち、反対にこの矛盾に疑問と恐怖を感じながら、校長室に向かった。
扉を開けると校長が座っていた。中に入って校長に近づいたその時、背中に激痛が走った。何が起きたか分からずに後ろを振り返る。倒れるのと同時にさっきの教師のニヤけ面が目に入った。背中に手をやると生暖かい感覚にサムケを覚えた。それは、遠のく意識のせいだったのかもしれない。そんな事はどうでもいい。

僕は死んだ。

その後この『報復』がどうなったのか、この学校はどうなったのか、今さら書く気も無い。
ただ、学校が作る架空の平和に僕は殺された。でも今でもこの学校は何も変わらない。矛盾に満ちている。平和と称された人殺しは今も続いている。


Entry4
レンガの家
青野 岬

 妻がいなくなった。
 寝室には脱ぎ捨てられた僕のパジャマだけが、脱いだ時のそのままの状態で主人の帰りを待っていた。書き置きなどは何も残されておらず、家の中から妻の持ち物だけが無くなっていた。妻の姿とともに。
 妻がいなくなったのは、なにも今回が初めての事じゃない。新婚当時、二年目の夏、そして今回が三度目だ。最初に妻がいなくなった時、妻は自分の実家にいた。原因は僕の浮気だった。会社の先輩に誘われてお酒が入っていた事もあり、ついつい遊んでしまった……そう、ただの『遊び』だったんだ。世間ではよくある話しだよ。僕は妻の事を、世界で一番愛している。
 それなのに妻は、怒って実家に帰ってしまった。僕はあわてて妻を迎えに行き、誠心誠意反省しているフリをして謝罪した。そしてなんとかその場を収め、妻を連れて帰る事に成功した。
 たかが浮気くらいでこんなに簡単に家庭が壊れてしまうなんて、僕は心底ビックリした。それまでの僕達の家庭は、ほんの一息で簡単に吹き飛ばされてしまうような『藁の家』だったんだ。僕はしばし愕然とした。
 僕の所に戻って来てからの妻はどこかよそよそしく、夜は僕に抱かれる事をかたくなに拒むようになった。たかが一度の浮気なんかで、大事な家庭が壊れてしまうなんて冗談じゃない。そして僕は思った。「藁よりも、もっと頑丈な家を作らなくては」と。
 僕は仕事が忙しく、残業で帰宅が午前様になる日も多かったので、妻が欲しがる物はとにかく何でも買い与えるようにした。妻を美しく飾る宝石や、柔らかな素材できたワンピース、他の女達が目の色を変えて羨むようなブランド物のバッグや靴。家の中は、たちまち妻の持ち物であふれ返った。
 習い事だってさせてやったし、友達との旅行だって快く、送り出してあげた。妻のまわりでは、きっと僕の評価はうなぎ上りだったはずだ。だから妻は、過去の僕の浮気なんて帳消しにするくらい、僕に感謝すべきだったんだ。
 そうしたらどうだろう!今度は妻が浮気をして家を出て行った。
 妻が家に戻らずにどこかほっつき歩いている事を憂いた僕は、さっそく興信所を頼んで妻の素行を調べてもらった。すると妻は大学時代の恋人のマンションに身を寄せて、半同棲生活を送っている事がわかったんだ。 
 逆上した僕はナイフをポケットに忍ばせて、妻を連れ戻す為の行動を起こした。仕事をサボってふたりが暮らすマンションに来た僕は、そのまま近所のコンビニで時間を潰しながら妻が出て来るのを辛抱強く待った。やがて妻が出て来て、駅前のロータリーに車で来ていた男と合流した。どうやら、これからふたりでドライブらしい。
 その時の妻の嬉しそうな顔ったら……あんなに笑う妻の顔を見るのは、初めてだった。僕は怒りと悔しさで崩れ落ちそうになり、思わずポケットの中の冷たいナイフを脂汗にまみれた手で握りしめた。
 そのまま僕もタクシーに乗り込んで、妻達の車を尾行した。ふたりは洒落たイタリアンのお店で食事を済ませた後、そのままふたりでマンションに戻って来た。僕はタクシーから降りるとマンションの駐車場通路に先回りして立ち、ポケットからナイフを取り出して妻達にそれを誇示した。それを見た妻達は顔面蒼白のまま、身動きも出来なくなった。ざまあみろ。
 僕は勉強だってずっとクラスで一番の優等生だった。大学だってこいつらよりもずっとずっといいとこを出てるし、一流の商社で働くいわゆるエリートってやつなんだ。そんな僕のプライドを傷つけたからには、それなりの罰が必要だ。
 ちょっとナイフで切り傷をつけて脅してやったら、相手の男は一目散に逃げ出したよ。大笑いだね。残された妻は「信じられない」といった表情で呆然としていた。僕は妻の体を、きつくきつく抱き締めた。妻は僕の腕の中で迷子になった子猫のように震えていた。可哀想な妻。そして僕は誓ったんだ。妻の為に、そして僕達の幸せな家庭の為に藁でも木でもない、誰も壊す事の出来ない頑丈な『レンガの家』を作ろうと。 
 妻を連れ戻して来てから、僕は気付いたんだ。なんでも欲しがる物を買い与えるなんてのは、本当の愛じゃないって。きっと妻は寂しかったんだ。ごめんね、わかってあげられなくて……。僕は妻を許し、自分のこれまでの勘違いを心から反省した。これからは妻の事を、もっともっと理解して大事にしてあげたいと思った。
 そして僕は再び興信所に頼んで、妻が僕と知り合う前にどこでどんな生活をしていたのか、詳細まで全部調べ上げた。自分の妻について知るのは夫として当然の権利であり、義務でもあるはずだ。  
 妻の友人関係も、全部精算させた。友達なんていらない。彼女には僕さえいればいい。変に悪知恵を吹き込まれたら、また厄介だからね。何か困った事が起こったら、夫婦でよく話し合って解決すればいい。それが夫婦ってもんだよ。
 お金も、必要最低限の生活費以外は渡さない事にした。もちろん、カードや通帳も全て取り上げた。僕達の間に余計な贅沢は必要ないってわかったんだ。物欲を越えたところに、真実の愛は存在しているんだから。
 外出だって、もちろん禁止した。携帯電話も、またおかしな男に引っ掛かったらかなわないので解約した。ふたりの絆を強めるのに、僕以外のカスみたいな男なんて必要ない。
 今は本当に便利な世の中になって、生活に必要なものはトイレットペーパーひとつから全部電話一本で手に入るんだ。素晴らしいよ。その代わり僕も極力、残業は減らして妻と一緒にいる時間を作った。早く子供も欲しくて、一生懸命セックスもした。
 急激な暮らしの変化(これは『痛みを伴う改革』だと僕は思っている)に、最初は抵抗し戸惑っていた妻もやがてあきらめたのか、自分にも負い目があるからなのか、何も言わなくなった。僕はいつも二十四時間、君の事だけを考えているよ……だから、妻はもう寂しくなんかないはずだったのに。

 それでも、妻はいなくなった。僕ひとりを残して。
 僕は有休を取って、思い付く場所をかたっぱしから捜しまわった。妻の実家にも、親戚の家にも、友人の家にも妻の姿は無かった。一体、妻は何が不満だったんだろう。僕らの『レンガの家』は、まだまだ完璧なものではなかったんだろうか。
 今度、僕達の家庭にコッソリ忍び込んで来ようとする奴がいたら、脅すだけじゃ済まさない。煙突から忍び込んで、そのまま大きな鍋で煮込まれたおとぎ話の狼のように、たっぷりとこらしめてやる。夫婦の幸せを邪魔する奴に、僕は容赦しない。
 そして妻が戻って来たら、今まで以上に愛してあげよう。仕事なんて辞めたっていい。子供もいらない。僕には、妻さえいればいい。そうだ、そうだったんだ……どうして今まで、そんな大事な事に気付かなかったんだろう。僕はもう、何もいらない。妻とふたりで、誰にも邪魔される事なく、手と手を取り合って静かに歳をとって行かれればそれでいい。必要以上のお金や人脈や知識が、一体何の役に立つと言うんだ。
 ……残った貯金でふたりのお墓を買おう。墓石は、素敵に冷たい白御影石がいい。きっと妻も僕のこの提案を気に入ってくれるだろう。レンガの家と、白御影石の墓。そして妻。僕は他に、何もいらない。
 
 さあ、妻を探さなくては!僕の愛おしい妻を!どんな手段を使ってでも!
 僕達の物語は、まだ終わっちゃいないんだから……。


Entry5
迎え火〜ブルーを撃ち抜いて
堀井安樹

 とても気分が悪い。
 「一日のうちで一番気温が高くなるのは、午後二時前後です。」
昔どこかでそんな話を聞いたような気がする。誰だ、私にそんなどうでもいい知識をつけたのは。世の中には、知らなきゃ知らないでいたほうが幸せということが沢山ある。例えば、今が一年中で一番暑い時期の、とりわけ一番暑い頃合だ、なんてこともそうだ。

 病院の前まで来たら、看護士に見送られ元気に退院してゆく人を見てしまった。
凄く悔しくて泣けてきそうになったので、急いで回れ右をして、近くの公園のベンチに座っていた。泣き顔でお見舞いに行くわけにはいかないのだ。
 そしてそのうちに、強い日差しを浴びながら眠ってしまった。

 時間にしたら十五分も眠っていないはずなのに、立ち上がると酷い眩暈がと吐き気がした。この気分の悪さが、日射病によるものなのか、熱射病によるものなのか、私には判らない。別にどっちでもいい、このまま死ねるわけでもなさそうだし。

 病院の中には季節が無い。外の世界は影が焼きつきそうな炎天下であっても、そんなことにはお構いなしに、いつでも現実世界を拒絶する冷ややかな空気に満ちている。さらに時間の進み方が明らかにおかしい。ゆったり、と言えば聞こえは良いけど、本来治るべき人の病の快癒までゆっくりになって、そして治らないまま死んでしまいそうで、たまらない気持ちになる。
 だからもともと私は病院という場所が嫌いだった。この3ヵ月でますます嫌いになった。でもこうして毎日通っている。大好きな由宇に会うために。

 由宇は手鏡を覗き込んでいる。そして私に言う。髪が伸びてしまったから切ってくれないか、と。もちろん私は切ってあげる。由宇がそう望むことならなんだってやってあげる。
 でも、薬のせいですっかり少なくなってしまった由宇の髪に鋏を入れる時、私の手は震えた。何か取り返しのつかないことをしようとしている気がしたのだ。
 どうしたの? と由宇が問う。人の髪の毛なんて切ったことがないから、失敗しそうだなあと思って。私は慌てて取り繕う。
 いいよ変になっても、また伸びるんだから。由宇は優しく笑う。
 違う、それは違うんだ。心の中で叫びながら少しだけ由宇の髪を切った。

 3ヵ月前、由宇のお母さんに突然呼び出された。そして由宇があと数ヶ月だけしか生きられないことを聞かされた。そんなことは教えて欲しくなかったのに。どうせ由宇がいなくなってしまうのなら、私は何も知らないまま、最期まで彼と下らないお喋りをしていたかった。

 約束してたのに、一緒に花火見に行けなくてごめんね。由宇は本当に申し訳なさそうだ。仕方ないでしょ、病気なんだから。私はそう答えた後、迷って迷って、でも付け加えた。来年は絶対に連れて行ってね。
 由宇は「ゆびきりげんまん」をしてくれた。

 病院を出て私は泣いた。最近はもうあまり泣かなくなっていたけれど、今日は泣いた。ゆびきりなんかして、由宇を嘘つきにしてしまった。ごめんね、由宇。私が代わりに一万回殴られて、千本の針を飲むから、許してね。
 でも小指を結んでいた何秒間かは、こうして約束しておけば来年は由宇と一緒に花火を見られると本気で思っていた。私はあの時、ほんの一瞬で消えてゆく夢を見ていたのだ。

 泣き腫らした顔で堤防沿いの道を歩くと、海の上を滑ってくる夕方の風はとても冷たく感じられる。だから薄いブルーの闇の先に揺れている小さな炎が、とても暖かそうに、魅力的に見えた。
 何をしているのだろう、と思ったのだけれど、やがてそれが迎え火であることが解った。迎え火を見るなんて随分久しぶりのことだったので、足を止めて見入っていると、そこの家の人らしいおばあさんに、珍しいでしょう、と声を掛けられた。
 「うちも迎え火焚くなんて、久しぶりなんですけどね。今年は、ほら、うちの人の新盆でねえ。ちゃんとしてあげようと思ってね。」

 なんだかおばあさんはうれしそうだった。その明るく穏やかな表情の理由は、残念ながら私には計り知れない。それでも迎え火を焚くこの場に漂う、今まで私の知らなかった、何か前向きな空気は感じとることができた。

 「何処からいらっしゃるんでしょうね、ご主人」
私がそう言うと、おばあさんは少し驚いたようだったけれど、ほほほ、と笑って
「さあ、どこでしょうかねえ。」と空を見上げた。
 つられて頭上を仰げば、次第に濃さを増してゆく夕闇のブルーが広がっている。流れ星を見たような気がした。でもわからない、それは流れ星ではなかったのかもしれない。あのブルーの彼方から、もう亡くなってしまった人の魂がやって来るのなら。まだこちらの世界で生きている誰かに会いたくて、やって来るのなら。

 闇のブルーを撃ち抜く流れ星のように、会うべき人の元へまっすぐに飛んで来る、光り輝く死者の魂を思い浮かべた。私はその美しさにきっと心を奪われるだろう。そしてその輝きは、両手で受け止めたらほんのりと温かいだろう。
 由宇はもうすっかり弱ってベッドで寝ているばかりだけど、来年の夏にはまた元気になって、私の元へ来てくれる。その思いは、突然の停電で困り果てていたとき、暗闇のなか手探りでみつけた一本の懐中電灯だった。

 次の夏、私は道案内の小さな火を燈して、心を穏やかにして待っていよう。そうしたら元気になった由宇が、輝きながら一直線に飛んできてくれるだろう。
 夕闇のブルーを撃ち抜いて届く輝きを、私は両手を広げて受け止め、抱きしめよう。

 またひとつ、岬の向こうに流れ星が落ちていった。


Entry6
朽ち行くを見ながら
ごんぱち

 その痣には、小さなかさぶたがついていた。
『早瀬さん、これって』
 パート介助職員の中井は、同僚の早瀬に囁く。
『ああ、どっかにぶつけたのかな』
 利用者の服を、早瀬は畳む。
「はい冬木さん、タオルおかけしますね」
 早瀬は利用者の肩にバスタオルをかける。
「寒くて申し訳ありませんね、すぐにお風呂入られますからね」
 利用者は――痩せ細った七十代の男、冬木は、虚空を見つめたまま、何も言わなかった。
 痣は、冬木の腕や脇腹に数カ所見られた。
(こんな痣が、自然に出来るわけない……)
 中井は自分の腕をつねる。赤い痕ができた。もっと強くつねれば、痕は痣になり、食い込んだ爪の形に皮膚が破れ、滲んだ血は小さなかさぶたを作るに違いない。
 丁度、冬木の身体に出来ている痣とそっくりな形に。

「虐待?」
 若い男の課長は訝しげな顔をする。
「間違いありませんよ」
 スタッフルームの椅子から立ち上がらんばかりの勢いで、中井は言う。
「あの痣、家で出来てるんです。送迎に行った時だって、家族の人まるで物を扱うみたいにしたし!」
「他のデイサービスを利用している時についたかも知れないだろう?」
「それならそれで家族が報告するべきでしょう」
「老人っていうのはすぐに内出血が出来るもんだよ」
「爪の痕がある内出血がですか?」
 両手で中井はテーブルを叩く。
「すぐにしかるべき所に言いましょう。ケアマネか役所か、いや、警察でも!」
「……中井君」
 課長は大きく溜息をついた。
「痣が一つや二つ出来たぐらいで、警察が取り合ってくれるわけがないでしょ」
「しかし――」
「いいかい」
 怒鳴ろうとする中井を、彼は遮った。
「介護サービスは、利用者自身と契約を結んでいるわけじゃない。この意味、分かるね?」

 昼食時。
 中井は、ミキサーで砕いた食事を盆に載せ、冬木のいる一番端のテーブルに持って行く。
「お待たせしました、冬木さん」
 ナイロンのエプロンをかけられた冬木は、窓の外に表情のない目を向けていた。
(やっぱり増えてる)
 その横顔に付いた痣を、中井はしっかりと頭に叩き込む。
(警察へ通報するには、はっきりした証拠を掴まなきゃ)
「はい、お食事ですよ」
 中井は隣りに座る。
「ご飯です」
 飯をすくったスプーンを、冬木の下唇に当てる。反射的に開いた口に、スプーンを差し込む。
「さ、呑み込んで下さい」
 冬木は無表情で、飯を口の中に溜めている。
「ほら、冬木さん、呑み込みましょ。ごくん、ほら、ごくん!」
 幾度か中井が自分で唾を呑み込んで見せる。
 すると僅かに冬木の喉が動いた。
「はい、お魚ですよ。はい、お口開けて下さい」
 冬木が僅かに口を開けると同時に、口から先ほどのご飯が溢れ出て、エプロンにこぼれる。
「失礼しました。呑み込んで下さいね」
 冬木の汚れた口の廻りをおしぼりで拭く。
(証拠が揃うまでの間、せめて)
 彼の顔には、見覚えのない痣が、また増えていた。
(心穏やかに過ごせる様に、介助をしよう)

 数日後の朝。
「うわ」
 車椅子用トイレの中で、冬木の紙おむつを下げた中井は小さく声を上げる。
「どうしたの、利用者さんの前では、そんな事言っちゃだめよ?」
 冬木の身体を支えている早瀬が尋ねる。
「あ、つい」
 中井と早瀬は冬木を便器に座らせる。
「そんなに汚れてる?」
「ほら、これ」
 中井が冬木の紙おむつを指さす。
「――本当ね、お腹壊してるのかな」
「これ多分、昨日の晩からですよ」
 中井は紙おむつの合わせ目を破り、脚の間から引き抜いて捨てた。
「これじゃ、床ずれも悪くなっちゃいますよ……」
 車椅子の後ろに引っかけたバッグから、新しい紙おむつを出す。
「来る前に替えといて欲しいわね」
 早瀬が、冬木の口から流れ落ちるよだれを拭いた。
「さ、まだ出そうなら出しちゃいましょう、ほら、しー、しー」
 冬木の下腹部を揉みながら、早瀬は声を掛ける。
「それじゃ、私は清拭用のタオル持って来ます」
「うん、シャワーボトルもね」

「えっと……」
 午後のカリキュラムのため、中井は本棚を漁っていた。
「あった」
 本棚から大きな水墨画教本を取り出す。
 すると引っ張られて、隣りの数冊の本が一緒に落ちた。
「ありゃありゃ」
 散らばった本の一冊に、中井の目が留まった。
 自費出版の短歌集。
 作者は、冬木だった。
 ページを開く。
 他愛のない素人の短歌。
「普通の人だったんだよね……」
「中井さーん!」
 寝室から早瀬の声がした。
「はい?」
 本の片付けもそこそこに、中井は寝室に向かう。
 ベッドの上で、冬木が嘔吐していた。横向きで寝ていたせいで、窒息する事はなかった様だが、シーツも枕も、冬木自身の服も汚れていた。
「……タオルと着替え持って来ます」
「あ、待って、先に看護婦さんをお願い」

「結局冬木さん大丈夫だったのかしらね」
 利用者が帰った後、中井と早瀬は洗濯物を畳む。
「救急車も呼んだし、病院なら大丈夫だと思いますけど」
 トゥルルルルルルルル……。
「電話?」
「外線だから事務で取るでしょ」
 二人が洗濯物を畳んでいると、課長が戸口にやって来た。
「あ、早瀬さん、中井さん、いたね」
「どうかしたの?」
 早瀬が尋ねる。
「冬木さん、食中毒だったって」
「他の利用者さんからは何も聞いてないけれど?」
「ああ、原因は家での食事らしいから」
 それだけ言うと、課長は立ち去った。
「傷んだものを食べさせたんですかね?」
「そうなるかしらね」
 早瀬は呟く。
「ただ、体力も落ちてるでしょうしね」

「お早うございます、冬木さん」
 中井は冬木に水のみに入れた茶を差し出す。
 表情の変化も見せず、呑み込む事もほとんどせず、冬木は口の端から茶をこぼす。
「ありゃありゃ。少しは飲んだ方がいいですよ」
 高齢者は喉の渇きに鈍感になる。その上冬木は、食事をほとんど取らず、水分が絶対的に足りない。
「さあ」
「ぇっ、えっ、ぇっ……」
 咳というにはあまりに弱々しいむせが聞こえた。
「あ、失礼しました」
 呼吸が収まるのを待ってから、中井は再び冬木に茶を差し出す。
 だが、やはり口の端からこぼれ落ちてしまう。まるで呑み込む事を拒絶している様だった。
(……傷んだものは食べたのに)
 中井は僅かに眉をひそめる。
 びくっと肩を震わせた。
 僅かに生じた不快感。
 苛立ち。
 進み始めた思考は止まらなかった。
 一日中家にいて、呼吸以外の生命に必要な行動をほとんど取らず、どんな傷をしても表情一つ動かさない。移動も排泄も摂食も、それどころか寒暖の感覚や痛覚さえも全て介護者に委ねて。
 そんな日々が続く。続く。続く。続く。続く。続く。
 手厚い介護を続ければ続けるほど。
 健康を維持すればするほど。
 より永く。

「お早うございます!」
 玄関のドアを開け、中井は大きな声で挨拶する。
「あ、待ってたよ、いつもありがと」
 冬木の車椅子のハンドルを持ったまま、中年の女が笑う。
「それじゃ、お連れします」
 中井は冬木を車椅子ごと玄関から降ろし、車へ向かう。
「ああそうそう、連絡帳に書いてあるけど、明後日の利用日、帰りを五時半後にして貰える? 病院に行かなきゃなんなくてさ」
「冬木さんのお薬ですか?」
「ははは、あたしが行くんだよ」
「そうですか……お大事に」
 中井は運転手と一緒に、冬木を助手席に座らせる。
「それじゃ、行ってまいります」
「はいお願いね!」
 車は走り出した。
 中井は振り返り、一礼した。
 女の姿はもうなかった。


Entry7
白球残像
棗樹

 富士山に行った。
 高速にのって河口湖を目指し、着いたらとりあえず一番のビュースポットと言われる湖沿いの公園を訪れると、湖岸に設けられた遊歩道に沿ってくすんだ緑色のポンポン状の植物がみっちり植えられていて、何かと思ったらラベンダーだった。青紫色の愛らしい花の散った後のラベンダーは見るも寒々しく刺々しく、もともと寒さに弱い連れは、ポンポン越しの富士に冷たい一瞥を与えただけでさっさと車に戻り、ガイドブックを拡げている。せっかく来たのだから、と僕は一人で駐車場を横切り、遊歩道に沿って歩く。真冬の平日の午後三時、ゆるゆると細長い公園の中で動いているのは僕だけだ。
 右手に富士と湖を見ながら遊歩道の終わりまで歩き、湖の反対側の景色を眺めながら同じ道を戻る。葦のような薄のような背の高い植物が立ち枯れて小さな藪のようになっているところを過ぎると急に視界が開け、懐かしい匂いを含んだ風が頬を撫でた。乾いた土と石灰と錆びた金網の匂いに混じる、グローブとバットとロージンバッグと白いボールの残り香。遊歩道とラベンダー畑から一段低い場所はすでに中学校のグランドの端っこ(グランドのさらに向こうに校舎がある)で、緑のポンポンをまたいで段差を飛び降りると、僕は十年ぶりに真冬のグランドに立っていた。
 スパイク痕のないまっさらな土を踏みしめる。試験期間中なのか校舎の窓の中にもグランドにも人影はない。グランドはもう何日も使われていないらしく、靴裏から伝わる感触はふわりと柔らかい。さらに一歩グランドの中心に向かって足を踏み出そうとして、自然に頭が下がる。グランドに足を踏み入れる時は脱帽のうえ一礼、という馬鹿馬鹿しい掟が今も自分の神経系を支配していることに毒づき、軽く頭を振って記憶の中の黒いしみを払い落とした僕は、小高く盛り上がったピッチャーマウンド目指して歩き始めた。そこで何をするつもりもないけれど、まあ、山があるから人は登るのだ。
 歩いているうちに自然と腰が落ち体重が爪先にかかってくるのがわかる。何度も突き指を繰り返したせいで不格好に膨れたまま元に戻らない中指の関節に息を吹きかけ、信じられないほどの高みで鳴き交わす鳶の声を聞きながら、無意識のうちに左の手のひらの中心を右の拳で叩いている自分に気づく。ファイトファイトファイトオウレイオウ!、と叫び出さないでいるのが不思議なくらいだ。僕は立ち止まり、大きく息を吸い込む。外野は湖面からの風と湖を取り巻くなだらかな丘を駆け下りてくる風とがぶつかる場所になっているらしく、レフトの守備位置の後方で風が巻き、小さな土埃が上がっている。ああ、フライの時は気を付けなきゃと思いかけてはっとし、何でそんなこと考えてんだ、と自分で自分に突っ込んだ時、視界の端を白いものが横切った。思うより早く身体が反応していた。僕は咄嗟に右手をのばし、地面を這うように鋭くバウンドしてくるボールを掴もうとした。
 捕ったと思った瞬間、指のあいだを白い影がすり抜けた。けして難しいボールではなかったのに触れることさえ出来なかった自分に呆然としながら、センターの遥か後ろ、グランドの一番奥深いところへ一直線に転がってゆくボールを見送っていると、背中に「へったくそー」という声が飛んできた。無視していると彼女は小走りでやってきて、せっかく投げてあげたのに、となじった。投げてくれなんて誰も頼んでない、と言うと、彼女は「でも、投げて欲しそうだったわよ」と得心顔で笑った。
 僕は肩を竦め、ボールに向かってじれったくなるくらいゆっくりと歩き始めた。グランドのどんづまりにある側溝の中からボールを拾って振り返ると、彼女は僕を待ちながらさっきと同じ場所に立ってぴょんぴょん飛び跳ね、身体を温めようとしていた。寒がり女の哀れな姿に少し心を動かされ、僕は緩やかに腕を振り上げた。途中でワンバウンドして胸元に届くくらいのやさしい球を返すつもりが、思ったより距離がのびてボールは彼女のすぐ足元ではねた。逃げるかなと思ったら、彼女は器用に腰を捻ってバウンドしたボールを宙で受けとめた。
「ナイス、キャッチ!」
 思わず声を出すと、彼女はふふんと得意気に笑い、ボールを返してきた。指がかじかんでいるせいですっぽ抜けたらしく、ボールは僕の立つ場所から十メートルも左に逸れたが、真っ直ぐ飛んでいれば僕の頭の遥か上を通過したと思われるから、女の子にしてはなかなかの肩だ。(コイツ、結構やるじゃん。)
 僕は意地を張るのをやめ、転がるボールを走って追いかけた。コートの裾がばさばさと風にはためき、走る僕の邪魔をする。構わず走りながら足の裏が妙にすかすかするし、やけに滑りやすくておかしいなと考えていて、突然、スパイクじゃないからだと気づいて笑いを噛み殺した。身体が勝手に記憶を反芻し、僕を導く不思議。(でも、けして不快じゃないんだ。)だからといって、高校生の時の記憶通りに今の僕が動けるとは限らない。投げ返したボールは飛びつこうとした彼女の指の三十センチも上を通過し、今度は彼女がボールを追って走る羽目になった。何回かそういうことを繰り返して身体が温まり力加減もわかってきたせいで、男と女のキャッチボールにしては珍しく、ボールは淀みなく二人のあいだを往復し続けた。弧を描いて飛ぶボールの縁が陽射しに光り、心地よい重みが胸に響く。捕って投げるだけの単調なリズムに時間を忘れる。
 僕らは一時間もそうしていただろうか。いつのまにか日は傾き、富士の白い山肌にほんのり赤みが差していた。下校を促すチャイムが鳴ったのをきっかけに、僕は彼女に向かって「ラスト!」と叫んだ。その一瞬、彼女は何かを探るような眼差しを僕に向けた。わけの分からないまま両手を出して構えると、突然、彼女の身体がぐらりと揺れた。え? と思った瞬間、細い腕が上半身ごと捻れてしなり、身体の横で風車のように回転した。そのまま手首のスナップを効かせて放たれた鋭いボールが、膝の高さに一直線に飛んでくる。ボールの軌跡を目で捕らえていながら僕はまごつき、反射的に左手を出していた。
 ボールは剥き出しの手のひらの一番薄い部分に当って落ちた。撃ち抜かれたような痛みに耐えきれず手首を握って地面に座り込むと、彼女が慌てて飛んできた。
「今のってソフトボールの投げ方だろ?」
 必死の形相で僕の手をさする彼女に訊ねると、彼女は頷き「中学高校とソフト部だったの。これでも主将」とあっさり言ってのけた。もちろん、僕にはまったくの初耳の話。
「三年も付き合ってるのに黙ってるか、普通?」
「だって普通、男はこういうの聞くと凄いひいちゃうじゃん」
 そこだけ少女のような口調になった彼女は、挑戦的な眼付きで僕を見上げた。そうとは限らないんじゃ、と言いかけて急に笑いがこみ上げてきて、僕は言葉を続けられなくなった。
 一世一代の大勝負に出たらしい彼女が「何よ、何で笑ってんのよ!」とうろたえるのを尻目にボールをピッチャープレートの上に置き、駐車場に向かって歩き始めた。グランドを出る間際、またうっかり頭を下げそうになって踵を返し、湖越しの冨士を仰ぎ見る。

 彼女ならキャッチボールの相手にだって不足はないさ。そうだろ?

 吐く息が蒼天に溶けて消えた。
 追いついてきた彼女に告げる言葉を胸で温めながら、僕は富士に一礼した。


Entry8
『Quo Vadis』
橘内 潤

 大口径の銃が咆え、ついさっきまで仲間だった男の左胸を食い千切った。
「……拓哉、ごめん」
 唇を噛んだのも一瞬、美穂は身体を旋回させると同時に引鉄を引く。
「Gyooohooo!」
 顔面の右半分を失った天使が、金属が激しく擦れあうような絶叫をあげて倒れる。だが、倒れこむ天使の背後から、二体の天使が左右に飛びだす。聖者のごとき瞳と裏腹な悪鬼のごとき牙が、左右から美穂の首筋に迫る。
 美穂が反応できたのは片方だけだ。抜き撃った銃が右方の天使を肉塊に変えている間に、左方の天使が肉迫していた。もはや回避は不可能だ。
 表情を持たない天使が勝利を確信したのかはわからない。どちらにしても、美穂が自身の死を確信することはなかった。
「――やっ!」
 美穂のものでも、まして天使のものでもない裂帛の気合が大気を振るわせた。つづいて、風船の割れるような音。
 はたして、天使の牙は美穂の喉を噛み千切ることはなかった。ゆっくりと振り返った美穂の視界で、頭部を内側から破裂させた――否、破裂させられた天使が地に臥していった。
「美穂、大丈夫だった?」
 心配そうに駆け寄ってきたのは、猫のような形状の耳をした少女――由布だ。
 ニューマン――対天使用生体兵器。人類の叡智の結集たる彼らは、超常的な能力をもって生まれてくる。自身を中心に半径三十メートル内の物理法則を支配する――いわゆる超能力を有している。いま、天使の頭部を破壊したのも、由布の能力によるものだ。
「み、美穂! 血がでてるよ!」
「え……なんだ、かすり傷よ。たいしたことないわ」
 強がりでなく本当にかすり傷なのだが、由布はいまにも泣きだしそうだ。
 ニューマンはその戦闘能力とは対照的に、繊細かつ温和な性格をしている。自らの出自を嫌悪し、自殺するものすらいるほどだ。兵器としてみれば未完成といわざるをえない。しかし、もはや一刻の猶予もない人類には、ニューマンの実戦投入以外に道はなかった。そこで採られたのが、人間三人にニューマン一体を最小単位として編制することだった。
 昌樹、美穂、拓哉、そして由布は第六三連隊所属第八九小隊として第八中継基地の防衛に当っていた。戦略的価値の低い基地であり、連隊本部もまさかここに天使の大群が現れるとは思っていなかった。
 想定外の敵大群を前に連隊本部は撤退を開始したが、その手際は御世辞にも誉められたものではなかった。命令系統の混乱から、所属小隊の半数近くが置き去りにされた。見捨てられた兵士たちのほとんどが、最後まで援軍を信じて死んでいった。昌樹を隊長とする第八九小隊も、撤退行動中に天使の一群に捕捉されて応戦を余儀なくされた。
 本隊との連絡が途絶えていたことが、視野を狭窄させていたのかもしれない。天使の挑発に乗せられた拓哉が、由布の勢力圏を越えてしまう。「しまった――」と拓哉が気づいたときには、天使の爪がその胸を深々と引き裂いていた。ニューマンの勢力圏外で、人間が天使に勝つことはできない。それは食物連鎖ともいえる厳然たる事実だ。そして、天使に肉体手段で殺された人間はただちに天使化する――天使として生まれ変わる。確認されている唯一の、天使の繁殖手段である。
 拓哉が天使化して間もなく、昌樹は拓哉を撃ち殺す好機を手にする。だが昌樹はためらった。まさに引鉄を引かんとしたとき、拓哉だった存在が悲しげな表情をしてみせたのだ。
 天使は感情を持たない――昌樹がそれを思いだしたとき、好機は去っていた。拓哉の撃った銃弾が昌樹の胸を貫いた。幸運といえるのならば、肉体手段で殺されたのではないので、天使化しなかったということだろう。
 その後戦闘がどうなったのかは、既に述べている。
「由布、泣かないで」
 美穂は由布の髪を優しく撫でる。
「ここにいたら、また天使が襲ってくるかもしれない。早く移動しましょう」
 美穂の言葉に、由布のふっさりとした耳がぴくりと動く。
 ニューマンの容姿はその戦闘能力でなく、温和な性格を体現している。華奢な体躯と猫のような耳。愛らしい顔立ちと色素の薄い毛髪――その外見は、彼らが天使に比肩する超常能力の持ち主であることを忘れさせる。
 由布は大きな瞳一杯に涙をたたえて、美穂を見上げる。
「昌樹たちを置いていくの?」
 美穂は目を逸らす。
「――そうよ」
 由布の能力ならば、死体を背負って逃げることはできる。しかし再度、天使群に発見されたとき、それが命取りになるかもしれない。
 ここは戦場であり、感傷は死を招く。ニューマンはそれを甘受しえない。だからこそ、人間が決断を下さなければならないのだ。この戦争における人間の意味とは究極的なところ、この判断のためだけでしかない。
「二人は置いていく。いいわね」
 美穂は、今度は由布の目をしっかりと見ている。
「……うん、わかった」
 納得も反抗もしない――うなだれた耳はそういっていた。
「行きましょう。警戒は頼んだわよ」
 美穂は踏み出した足で感傷を断ち切る。後れて由布も歩きはじめた。
 この後、ふたりは無事に連隊本部と合流できた。だが今回の戦闘で、第六三連隊は所属する百二小隊四百八名のうち、五十小隊二百名を失った。なお公式記録には百四十名と六十体と記されている。
 戦略上、今回の戦闘は局地戦であり、拠点維持に固執する必要はなかった。その意味で、連隊本部の早々の撤退は好判断だったといえる。軍事的損失も少なくはなかったが、挽回可能の範囲内である。
 しかしこの局地戦は、他に代えがたき損失を美穂に与えた。
 美穂は昌樹を――婚約者を失った。

「美穂……まだ起きてたんだ」
 深夜、目が覚めてしまった由布は、目を開けたままの美穂に気づいた。
「うん、眠れなくて」
 答える声に力はない。
 無理もない――と由布は思う。目の前で婚約者が死んだのだ。由布は口を開きかけたが、かける言葉が見つけられずにいた。
「いいよ、無理しなくて」
「……ごめんなさい」
「どうして由布が謝るのよ。由布はなにも悪いことしてないんだから。それに――」
 耳を伏せる由布を、美穂はぎゅっと抱きしめる。
「それに愛も結婚も、はじめから無意味だったんだから」
 抱きしめられているので、由布から美穂の表情はうかがえない。けれど、その声は涸れていた。
 人間の性行為から生殖機能が失われて久しい。人工授精やクローン技術はニューマン創造以外に行き着くことはなかった。反面、延命技術は進歩をつづけ、平均寿命は現在進行形で急勾配を駆け上がっている。
 生殖機能の喪失、延命技術の進歩、天使化現象と戦争――人類は黄昏を迎えていた。愛だの恋だのはとうに枯れ果て、残されたのは恐怖を忘れるための手段だけ。
「わたしたちは愛も結婚も、本物を見たことがないんだもの。はじめから紛い物だったんだから……」
 美穂の腕に力がこもる。苦しくはないが、由布は胸がつまる気がした。けれど、本当のところは由布自身にもわからない。由布も――ニューマンもまた、祝福された生命ではないのだ。
 失ってしまったものたちと、最初から与えられなかったものたちの、どちらがより不幸だろうか――美穂の髪を撫でながら、由布はそんなことを考える。
 そして初めて、天使もまた不幸なのではないのか――と思った。
 美穂の擦れたささやきが、空を小さく震わす。
「神さま、どうして……」
 その問いに答えるものは、まだ現れない。


Entry9
ライアン、プライベートコンサート
るるるぶ☆どっぐちゃん

 鉄塔が風に揺れている。空を突き抜けてしまうような高さだから、揺れている方が安全なのだ。鉄塔は赤と白に塗り分けられていた。昔から鉄塔は赤と白だけれど、最近の鉄塔の赤は随分とその色を薄めてきている。鉄塔の赤は朱色を通り越してオレンジに辿り着き、もうすぐ黄色へと辿り着こうとしていた。これも安全の為だという。鉄塔は将来、真っ白に染まるらしい。
「どうだい」
 少年はそう言って私に振り返った。
 久々に聞く少年の声だった。この所ずっと雨が降っていたのだ。雨が止まなければ私達は、こんな所へ散歩に来ることなど出来はしない。
 少年の腕が青空に伸びていた。真っ白な腕だった。突き抜けてしまうような白さだった。
「どうだいあの鉄塔は。凄いだろう」
 少年は得意そうだった。
「あの鉄塔は哲学なんかじゃあ建たないんだぜ。物理学さ。物理学が、あの鉄塔を建てたんだ」
「そうだね」
 私は答えた。
「だから私は物理学なんて嫌いだよ」
 私は少年を見上げ、笑い、本を開いた。開いたのは五百五十二頁目だった。この本には珍しく、図がある頁だった。
「相変わらずなんだね」
 少年は腕を下げ、言った。
「久しぶりだから変わったかも知れないと思っていたけど、先生は相変わらずなんだね」
「そうだよ。そう簡単に変わってたまるか」
 私は答え、ぱらぱらと本をめくった。五百五十二頁。六百九十頁。そして何も無い中表紙。本は終わる。
「雨」
 少年はぽつりと言った。
「雨、止んだね」
「ああ」
「止んだね。あんなに降り続けていたのに」
 少年は私を見ていた。私は本から目を離し、少年を見つめる。
「あんなに降り続けていたのに。いつから降っていたか思い出せない位に降り続けていたのに。雨は止んでしまった」
「ああ」
「いつ止むか、いつ止むか。そう思っていたけど」
 少年はまた空に手をかざす。
「止んでしまえば呆気無いものなんだね」
「そうだな。雨なんてそんなものだよ」
 少年は私を見ていた。そう思っていた。だが違った。私は勘違いをしていた。少年は私の背後にある鉄塔を見ていたのだ。
 私はそれに気付いた。
「昇ろうか」
 一つ息を吐いて私は言った。
「そうだね、昇ろうか」
 少年の手を引き、鉄塔を昇る。雨の痕跡は何処にも見当たらなかった。雨はあんなに降り続けていたのに。
「雨、止んだんだね」
 少年は息を弾ませ、言う。
「止んだよ。雨は止んだ」
 少年の手を引き、私は答える。
 私達は鉄塔の頂上へと辿り着いた。
 頂上には誰も居ない。途中までは鳥が飛んでいたり、錆びたパイプの隙間に草花が生えていたりしたが、頂上には誰も居ない。何も無い。私達の他は誰も居ない。
「どうだい、この眺めは」
 空に手を広げ、少年は言った。
「素晴らしいだろう」
「そうだね」
 楽しそうな少年の姿を見て、私は笑った。
 そして笑いながら、空に突きつけるように、私は本を開いた。
「そんなにその本は面白いの?」
 少年は尋ねた。
「面白いよ」
 私は開いたページを指差した。
 開かれていたのは四百九十一頁だった。びっしりと書き込まれた文字の脇に、一人の男の写真が小さく添えられていた。写真は白黒で不鮮明で、屋外の眩しい光の中では良く見えなかった。だからここでは、この写真の人物と目が合うことは無かった。
「この人の本は、一人の人間が狂っていく、詳細な記録なんだ。この人のはその反対。一人の人間が正気に戻っていく記録だ。こっちの人はね」
 私はぱらぱらと本をめくり、少年に語った。
「この人は自分の才能の無さをずっと嘆き続けている。この人は、この本には何も書かれていない、ということを躍起になって証明しようとしているんだ。改行もせず二段組で何百頁もかけて」
 私は立ち上がった。
「この本はだから」
 びり、びりっ。乾いた音だった。
「こんな風に所々抜けていても構わないんだ。むしろ所々抜けていた方が面白いし、本人達の為でもあるんだよ」
 私は引き裂いた頁を小さく折り畳む。
「物理学の本は、こういうふうには使えないだろう?」
 私は手早く五、六機の紙飛行機を作り、少年の前に掲げた。
「物理学の本は、所々抜けていたら、困るからね」
「そうだね」
 少年は答えた。
「さて」
 私は歩き出した。かつん。かつん。青空に鉄塔を歩く私の足音が響いていく。音はすぐに何処かに吸い込まれ、聞こえなくなる。
 私は屋上の縁に立った。
「こっちへ来なよ」
 私は少年へ手招きをした。少年は私の手招きに応じ、私の側に寄る。
「ほら、これを持って。こうやって構えるんだ」
 私は少年に紙飛行機を何機か手渡した。
「こう?」
「そうだ。良いぞ」
 眼下にはおもちゃのような街並みが広がっている。その上に、青空が広がっている。
 その街並みと空の真ん中を目掛けて、私は飛行機を投げた。
「それ」
 紙飛行機はふらふらと街並みと空の真ん中を飛んで行く。
「飛ぶものなんだね」
 少年は言った。
「紙飛行機の癖に、随分飛ぶんだね」
「ああ。それっ」
「空を飛ぶことに関しては僕も随分調べたけれど、でもこんなに簡単に飛べるなんてね」
「そんなことは良いから、ほら、投げてみるんだ」
「ああ、解ったよ。それっ」
 少年は小さく叫び、飛行機を投げた。
 飛行機はどんどん飛んでいった。
「初めての癖に、随分うまいな」
 私は少年の紙飛行機を目で追いながら言った。私の紙飛行機達は少年の紙飛行機に次々に追い抜かれていった。
「くそう。私の負けだな」
「誰の頁が一番飛ぶかな」
 悔しがる私の隣で、少年は言った。
「え、ああ。そうだな」
「ニーチェかな」
「ああ、ニーチェは良く飛ぶね。だけどボルヘスもなかなか具合が良いよ」
「そう」
「ヤホンの絵もなかなか良い。この前試したんだが随分遠くまで飛んで行ったよ」
「あの人、哲学者じゃないじゃないか」
「同じようなものだろ」
「まあそうだけど」
 少年は楽しそうに笑った。私は、少年に勝とうと、様々な折り方で色々な人を飛ばし続けた。
「ねえ」
「なんだい」
「あのさ」
 少年の手が、私の肩に触れた。
「なんだよ」
「あのさ、もしも」
 私は紙飛行機を飛ばす手を休め、振り向こうとした。
 だが、私は間に合わなかった。
 少年は何処にもいなかった。
「おい」
 私は叫んだ。返事は無かった。
「おい」
 返事は無かった。
 足下に少年の持っていた紙飛行機が落ちていた。
 かさかさと、小さな音を立て、それは鉄塔の天辺から地上へと落ちていく。

 少年はその日から姿を消した。
 少年は見つからなかった。私は職を辞め、少年を探す旅へと出掛けた。
 旅を続ける中で、私はバイオリン芸人になった。バイオリンを弾きながら、私は旅を続けた。
 懐かしい鉄塔を見かけたのは、旅に出てから三年目だった。私は少年と暮らしたあの街に戻ってきていた。
 鉄塔は白くはなって無かった。赤くなっていた。真っ赤に染まっていた。
 私は少年を探し、今日もバイオリンを弾く。
 鉄塔が、風に揺れていた。
 ばちん。音を立て、バイオリンの弦が切れる。続いて聞こえる聴衆のざわめき。
「うるさい」
 私は聴衆に一言告げて、演奏を続ける。
 無い弦を弓が通過するたびに、少年との思い出が頭に浮かんだ。
 少年が、私に何かを告げようとしている。そしてそれが私に伝わる前に、曲は終わってしまう。
 演奏を終え、頭を下げる。聴衆は割れんばかりの拍手を私に浴びせかける。
 真っ赤な鉄塔が風に揺れている。
 雨はあれからずっと降っていない。