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3000字小説バトル

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3000字小説バトル
第28回バトル 作品

参加作品一覧

(2003年 4月)
文字数
1
さゆり
3000
2
青野 岬
3000
3
りんね
3000
4
紺野なつ
3000
5
3000
6
ごんぱち
3000
7
太郎丸
3000
8
るるるぶ☆どっぐちゃん
3000
9
伊勢 湊
2940
10
橘内 潤
3000
11
林徳鎬
2882

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花がすみ
さゆり

 早春の風はまだ冷たいけれど、日増しに柔らかくなっていく陽射しに目を細めながら、こゆきは勤め先の会社へと向かった。車道から横道にそれて社員通用口に向かっていく。すると人待ち顔の男が視野に飛び込んできた。

 背格好に憶えがある。こゆきは目を凝らした。電柱に寄りかかってこちらを見ているのは、やっぱり弟の貴志だった。

「どうしたの?」
 久しぶりに会うから懐かしいのに、何となく躊躇うのは、弟のあまりの変わりようだった。背が高かったのは昔からだが、おどおどと落ちつかない目線はこゆきの知らない貴志だった。不精ひげに草臥れた格好から、荒んだ生活の匂いが立ちのぼってくるようだった。

「部屋の鍵を貸してくれないか」いきなり言う。
「鍵って…何?」ピンとこない。
「姉さんとこの部屋の鍵。俺さぁマンション追い出されたんだ」
うつむいたままボソボソとそう貴志は言うのだ。

 二人の脇を次々と社員が通りすぎていく。こんな朝っぱらから何してんだ。胡散臭そうな視線が痛い。通行の邪魔をしないように隅っこに身体を寄せて、姉弟はひそひそ声を潜めて話した。

 仕事を辞めてしまって、毎日職探しに飛びまわっている事。格好悪くて、親には言えない事。公園や駅のベンチで雨露をしのいでいるが、たまにはゆっくり眠りたくて、お姉ちゃんのことを思い出したんだ。
 訥々と語る貴志を見詰めていたら、こゆきの後を追って泣いた幼い日の彼がだぶって目頭が熱くなった。



 外遊びが好きで元気一杯な男の子だった貴志が変わったのは、中学に入ってからだ。スポーツの大好きな彼はバスケットボール部に入ったのだが、そこで知り合った先輩達が問題だった。彼らは所謂不良グループで学校中の鼻つまみ者だったのだ。授業の抜け出しは日常茶飯事。煙草を吸ったり酒を飲んだりしてるとの噂だった。弱そうな子を選んで因縁をつけ金を巻き上げる。果てはお金を調達できないと殴る蹴るの暴力沙汰を起すのである。まるでヤクザを小粒にしたような行動をとる。一人一人はいい子なのに、集団になると変貌するのだ。

「とにかく彼らと縁を切ることです」

 両親が学校に呼び出され、悄然として帰ってくる様子をこゆきは何度も見た。しかし、彼らと縁を切りなさいと言ったとて、どんな方法があったのだろうか。
 貴志は彼らのしてきた事を側でじっと見ていたのだ。離れようとしたらどんな報復が待っているか良く知っていたはずだ。それはどんなに恐怖だったろう。現にもう貴志は彼らの使い走りにされているのだ。だぼだぼのズボンをはき眉を細くした異様な面々が、貴志が真面目に授業を受けようとすると何度も教室までひやかしに来た。同級生の友達もそんな彼らと係わり合いになるのを嫌い一人二人と離れて行った。

 それでも貴志は頑張ってみたのだ。気弱な彼が一大決心をし、部活をやめた。電話の呼び出しには一切応じない決意をし、家族も全員協力し貴志を守ろうとした。学校にいる間が心配だったが担任教師に決意を伝え守ってくれるようお願いもした。
 何事もなく日々は過ぎて行った。しかし、ほっとしたのもつかの間。明日が修学旅行という日、担任から電話が入った。貴志が午後から授業抜け出しをしたというのだ。「家には帰っていないんです」既に夜の九時を過ぎていた。携帯電話を持たせていたのに何の連絡もないのはどう考えても変だった。貴志の身に何かが起こったのは疑いようもなかった。父と母は車を飛ばしあてもなく夜の町を捜し歩いた。こゆきは留守番するように言われ電話の前に陣取りベルが鳴るのを待っていた。

 顔を腫らし髪を金髪に染められた貴志が帰ってきたのは、11時も過ぎたころだった。修学旅行にいかせまいとする不良グループの仕業であった。何と言う陰湿ないじめであろう。母は貴志を抱きしめて泣いた。貴志一人が荒野にいるようだった。何もしてやれない。何も。自分たちの無力がただ情けなかった。



「なによ~、親にまで見栄をはることないじゃない」
 こゆきは笑いながら背中をどんと叩いて鍵を渡してやった。部屋の住所を教え、電車の乗り方を教えた。久し振りに会う弟だ。頼ってくれて嬉しかった。

「使ったあとは、玄関前の鉢植えの下において頂戴ね。今日はなるべく早く帰るから」こゆきは貴志の痩せた背中に弾んだ声をかけたのだった。

 部屋に帰ってみると玄関には鍵がかかっていた。言いつけどおり、鉢植えの下に鍵はあったが部屋は真っ暗である。
「あんなに眠いって言ってた癖に。なんて落ちつきのない子なんだろう」
 部屋の中は微かだけれど若い男の体臭が匂うから、確かに弟はこの部屋にいたのだ。押しいれをあけて確かめてもみたが、夜具を取り出した気配がない。もともと、気まぐれな弟のこと。街中を散策しているのかもしれない。そのうちひょいと戻ってくるだろう。こゆきはそう考えて夕飯の支度にとりかかった。

 着替えを済ませ、キッチンに立ったときに電話が鳴った。
「もしもし、こゆき…?」
母だった。
「貴志、行かなかった?」
いつもの母の声音と違う。こゆきに不安が広がった。
「来たわよ。今、出かけているみたいだけど」
「そう……」
「どうしたの?貴志に何かあったの?」
問い掛けるこゆきに、受話器の向こうで母が大きく息をするのが分かった。
「実はね、金庫がこじ開けられて中のお金がなくなっているの」

 その途端、こゆきは反射的に隣室に飛び込み、箪笥の引出しをみた。そして、やがて絶望的な声をあげた。
「まさか…そんなこと」
几帳面なこゆきが、生活費として茶封筒に区分けしておいたお金が、全て持ち去られていた。

 母は電話の向こうで泣いていた。
 これまでにも、お金や色々な事でいざこざがあったらしいが、こゆきには心配かけまいと、言わずにいたのが結局仇になってしまった。
「貴志は人が変わってしまったのよ。昔の貴志とはもう違うのよ」
振り絞るように吐き出す母の声が、こゆきの耳に切なく響いた。

 これまでどんなことがあっても、母は貴志の味方であった。トラブルがあって渋い顔をする父親から、必死になって貴志をかばったのは母である。不良グル―プから金をせびられた貴志のために、父に内緒で何度もお金を融通してあげたのも母である。
「今、貴志はね、友達とマンション借りて住んでいるんだ。真面目に働いているからお母さん嬉しくて」
つかの間の喜びだった。貴志よ、そんな母を何故にお前は裏切るの?

「ねえお母さん、貴志に小学校の桜見せたいね。ほら、春になるといつもみんなでお花見したでしょ。桜の花が重なって霞みみたいにぼーっと見える事を(香雲)
と言うんだよと教えたら、こううんこって貴志がおどけてさ。風が吹いたらはなびらが散って、私たちそれを追いかけたよね。貴志とおでこぶつけたりもしたよね。
あの桜はいまもそのまま?」

「私、今度帰るよ。そしたら、お花見しようよ。昔みたいに。大丈夫だよ。必ず謝りにくるよ。ごめんってひょっこり、ねっ?貴志ってさ、小さい時から謝るの得意だったじゃないの。お母さんが笑うと貴志、とびっきりの笑顔になったよね。貴志はお母さんが大好きなのよ。本当に」
泣き続ける母にこゆきは語りかけるのだった。

 香雲。

 ピンクの雲のように香り立つ華やかな桜の大群が母の脳裏に広がって、一瞬でも気持が明るくなるように。
 祈るように諭すように、こゆきは話し続けるのだった。
花がすみ さゆり

主婦のはつ恋
青野 岬

 春は セツナイ 夏は サミシイ
 秋は カナシイ 嘘は ヤサシイ

 その講師は、いつも寝癖のついた髪に小さな銀縁の眼鏡をかけている。鉛筆で小さな丸をくるくると描いただけの、ウサギのような目が愛らしい。

 同じマンションに住む主婦友達の宮下さんに誘われて、この春からカルチャースクールの『古典を愛する』という講座を受講するハメになってしまった。本当はジャズダンスとかエアロビクスとか体を動かすクラスの方が良かったのだけれど、宮下さんの強引とも言える誘いに抗い切れなかった。
『源氏物語』くらいなら漫画で読んだ事はあるけれど、それ以外は学校の授業で、半分眠りながら習ったきりだ。皮肉な事に、その『源氏物語』の漫画本を宮下さんに貸したところすっかり夢中になってしまい、「この歳になって古典をもう少し深く掘り下げてみたくなった」らしい。
 ところが実際に授業を受け始めてみると、思っていたよりもずっと面白い。すっかり日本語の美しさの虜となってしまった私は、彼女に負けないくらい熱心な生徒となって、スクールに通うようになっていた。

 古典のクラスの講師は谷口慎吾という五十歳代前半くらいの男性で、私よりも二十歳くらい上のはずなのにどこか少年のような清清しさを纏っている。最初の自己紹介の時もいきなり「慎吾ママ、って呼んで下さいね」と精一杯のギャグを飛ばして、その場を凍らせていた。もちろんそんな風に先生を呼ぶ生徒は一人もいないまま、谷口先生の講座は全八回のうち既に四回を数えていた。
「皆さんは、日本の四季の中ではどの季節が一番好きですか」
 谷口先生が、微笑みながら生徒達に訊いた。先生の笑顔は、まるで春の日溜まりを思い起こさせるような暖かさに満ちている。質問された生徒達はそれぞれ、自分の好きな季節に思いを巡らせているようだ。
 ふたりの子供達がそれぞれ小学校に通うようになって、やっとひとりで自由に外出する時間ができた。人間の一生を季節に例えるとしたら、今の私は実りの秋にさしかかった所かもしれない。春の若芽のような新鮮な感性は衰えて、燃え上がるような夏の日の情熱はもう卒業した。子供達も大きくなり、やっと今までの子育ての苦労が報われ始めているのを実感する日々。……とは言っても、まだまだ手がかかるのも事実だけれど。
「篠原さんは、どの季節が一番好きですか」
 いきなり自分の名前を呼ばれて、我に返る。谷口先生のまっすぐな視線が自分に注がれている事を意識して、耳に火が灯されたように熱くなった。
「私は、自分の人生は今、実りの秋だと思います。でも好きな季節は春です」
 私は視線を下に向けたまま、ゆっくりとたしかめるように答えた。生徒の中から小さな笑いが洩れる。顔を上げると、先生はまるで自分に言い聞かせるかのように「そうだね」と言いながら、何度も頷いていた。
「清少納言は『枕草子』の中で、春は夜明けが一番赴きがあって美しいと言っています。篠原さんは、春のどんなところがいいと思いますか」
 私は頭の中で、満開の桜の花を思い浮かべた。
「桜の花びらが、雪のようにひらひらと散りゆくさまが好きです……」
 今日は、昨日買ったばかりの新しいカーディガンを着ている。春らしい鮮やかなモスグリーンが気に入って買ったものだ。夫は全く気付いてくれなかったけれど、私に似合っているだろうか。先生に、そっと訊いてみたい衝動にかられる。
「清少納言はそういう赴きがある、興味がある、といった感情を『をかし』という言葉で表現しています」
 席に着くと隣に座っていた宮下さんが、ニヤニヤしながら肘で私を小突いて来た。
「篠原さん、なんか顔が赤いよ。もしかして谷口先生に惚れちゃってるとか」
「やだ、何言ってんの。授業中、授業中!」
 図星だった。私は動揺しているのを宮下さんに悟られないように、必死で冷静を装った。谷口先生の優し気な声が、明るい春の日射しの中に溶けてゆく。そして私の気持ちも、先生にどんどん傾いてゆく。

 早いもので谷口先生の講座も、今日を入れて残りあと二回となった。この講座が終わったら、もう谷口先生ともお別れなんだと思うと、遠い少女の頃のように胸がせつなくなる。忘れかけていた甘酸っぱい感情に戸惑いながらも、何事も無かったかのように日常生活を営むだけの知恵と余裕を持ち合わせている自分がいる。私は、少女ではない。
「篠原さーん」
 待ち合わせ場所に、宮下さんが息を切らしながら駆け込んで来た。
「どうしたの?そんなに急がなくてもまだ大丈夫なのに」
「違うのよ。さっき用事があってスクールに電話して聞いたんだけど、谷口先生この講座が終わったら講師を辞めちゃうんだって」
 心の中に、さーっと白いさざ波がたつ。講座が終わっても、スクールにさえ行けば姿を見る事が出来ると思っていた。でも先生が辞めてしまったら、もう二度と会えないかもしれない……。全身が粟立つような驚きに膝が震える。
 その日の授業が終わると私は事の真相を確かめるため、勇気を振り絞って谷口先生に駆け寄った。
「先生、辞めちゃうって聞いたんですけど本当ですか」
「あれ、篠原さん情報が早いですね」
 近くで見る先生の肌は、思わず触れてしまいそうになるくらい滑らかだ。少し白いものが混ざる髪の生え際に、そっと指先を差し入れてみたい。
「どうしてですか。転職されるとか……?」
「いや、実は父が倒れてしまって、帰って家業を継がないといけなくなりましてね」
「御家族はどうされるんですか」
「一緒に行きますよ。子供達なんか田舎に住める!って今から大喜びですよ。女房はなんかぶつくさ言ってるみたいですけどね」
「そんな……」
 大粒の涙が私の頬を伝った。驚いた谷口先生は、大慌てで私の顔を覗き込んだ。何人かの生徒達が、遠巻きに私達を見つめて何か話している。いけない、こんな所で泣いては先生の迷惑になる。私はいい歳をした大人なんだから。必死に自分に言い聞かせてみても、涙は止まらない。困り果てた先生は頭を掻きながら、オロオロするばかりだ。
 その様子を見兼ねた宮下さんが、やんわりとその場をなだめて私を外に連れ出してくれた。それでもなかなか泣き止まない私に彼女は「ま、いろいろあるよね」と言って、近くにあった自動販売機で温かいコーヒーを買って来てくれた。
「ありがと」
 私は鼻をかみながら、お礼を言うのがやっとだった。

 とうとう、最後の講座の日が来てしまった。私は谷口先生の前で泣いてしまった事が恥ずかしくて、わざと教室の一番後ろの目立たない席に座った。いつもと変わらない先生の寝癖が、今日は苦しいくらいに愛おしい。
 最後の授業が終わって教室を出ようとした時、背後から名前を呼ばれた。振り向くと、そこには穏やかな笑顔を浮かべた谷口先生が立っていた。
「篠原さん、良かったらこれ読んでみて下さい。古い本で申し訳無いけど」
 そう言って先生は、一冊の本を私に差し出した。手渡された本は、清少納言の『枕草子』だった。
「僕は学生の頃、この本を読んで古典の世界が好きになったんです」
 
 家に帰っていただいた本をパラパラとめくっていると、一番最後のページに先生からのメッセージが記されている事に気付いた。
『僕は螢の飛び交う夏の夜が“いとをかし”です。いつか、一緒に見られたらいいですね。谷口慎吾』 
 
 嬉しかった。たとえそれが、優しい嘘であっても。
主婦のはつ恋 青野 岬

恋愛音痴
りんね

『鍵を返して』

 夕方の自室、電気もつけない薄闇の中で、携帯電話の画面が光を放っている。
 画面に浮かぶ文字は、私が綴ったものである。
 鍵を介して存在した絆を断つための言葉。
 この2時間というもの、何度も送信のためのボタンに指をかけながら、私は躊躇していた。
 なんたる暇人。
 何を今更ためらうと言うのだろう。こんなことには慣れていたはずだ。
 そう、もう何年も前には。


 高校を卒業する頃には、恋愛というものに興味を失ってしまっていた。
 早熟だった私は、中学から全寮制の私立女子校という閉鎖された空間に身を置いていたにも関わらず、恋愛経験が豊富だ。
 むしろ、そんな空間にいたからかもしれない。この世界には女性と男性が存在するのが自然なのである。
 私を恋愛に駆り立てたものは、一部の女生徒を男性アイドルに熱中させたものと同じ、周囲に同年代の異性がいないという異常な状況であったと思う。
 ミッションスクールの修道院じみた戒律的生活の中で、私は異端者であった。
 私の名が取り沙汰されるとき、教師達は眉をひそめ、生徒達は訳知り顔で批判した。
 どちらも気になどならなかった。
 私の在り方を肯定する熱心なシンパは数多くいた。彼女達がいなくても、自分の生き方に疑念など感じなかっただろう。
 非難されるたび、糾弾者の私に対する憧憬や嫉妬が見え隠れしていたのだから。

 私にとっての恋愛は、一般的な恋愛とは別の定義を持ったものであった。
 標的と決めた男性に交際を申し込まれるように仕向けるまでのゲーム。
 標的は多岐にわたった。他校、特には男子校の生徒達。クラスメイトや先輩後輩の兄弟。もちろん、男性教師も含まれた。

 別に美貌を誇っていたわけではない。すっきりと整った顔立ちであることは自負していたが、私の武器はそんなものではなかった。
 異性を魅了するための表情や仕草。
 思わせぶりな態度。
 少しの甘えた振りとワガママと嫉妬。
 そして何より「この子にとって自分は特別なのだ」と錯覚させる話術。
 ゲームでの勝率を上げるために少しずつ身に付けていったそれらの技術は、時を追うに連れ作為という名のカドが取れて武器となった。

 そうするうちに、恋愛は私の興味の対象から外れてしまったのである。
 あるいは、恋愛対象としての男性が、と言い換えるべきかもしれない。
 何人もの男性に、恋愛の引導を渡しつづけた代償だったのだろう。


 ゆきと出会ったのは、何の変哲もない一日の終わりのことだった。
 大学時代の女友達と久々に新宿で夕飯を食べ、同窓生達の消息を聞かされた帰りだった。
「結婚する予定の子、結構いるよー。千尋でしょ、聡子でしょ、恵美に美由紀に……」
 よくもそんなに覚えていられるものだ、と感心しながら聞いていると、突然話を振られた。
「あんたはどうなのよ?」
「あたしは、結婚しなくていいや」
「ちょっと! 合コンで何度あんたに煮え湯を飲まされたと思ってんの? 玉の輿に乗ってもらわないと、あたしの気が晴れないわ」
 別に誰かの気晴らしのために結婚する必要もなかろうと思った。
 が、そうは言わずに「自分は?」と切り返す。
 待ってました、とばかりにノロケ話が始まる。要するに自分のことが話したかっただけなのだ。

「結婚ねぇ……」
 カクテルを数杯空け、ほどよく酔っ払ったところで彼女と別れ、酔い覚ましに少々遠い道のりを歩いて帰る途中、私は無感動に呟いた。
 結婚を定義せよ、と言われれば、迷わず『女性と男性が共に生きるという契約を交わすこと』と答える。
 特別にロマンティックなものには思えない。
 契約を交わすことが本懐なのに、やたらと金をかけて式を行うのも解せない。

「結婚が、どうかしたの?」
 大きな声で言ったつもりはなかったが、私の独り言に応えた声があった。
 隣を見ると、黒いスーツの優男が親しげな笑みを浮かべていた。格好からして、この辺りによくいるホストの一人だろう。
 適当にあしらっていれば、じきに去っていく。
「必要ないよね、結婚なんて。恋愛もいらない」
 恋愛を生業にしているであろう男に向かってそう言ってみたが、彼にひるんだ様子はなかった。
「……君は素敵な人だね」
「あなたは変な人ね」
「……今日は新月なんだ。星が一番きれいに見える」
「ここ、東京よ」
「夜の海辺と眺めのいいレストラン、デートするなら……」
「デートするなら家で寝てたい」
 会話は、始まった瞬間に終わる。それなのに、彼はめげなかった。
 きりなく続くコントは実のところ楽しかったのだが、私はじきにそれに終止符を打とうとした。
「おやすみなさい」
「え? もう僕に飽きた?」
「家に着いたのよ」
「無防備だなあ、住んでるところ教えたりして。僕がストーカーになったらどうするの?」
「暇なのね、ホストって」
「まさか。僕は売れっ子だよ」
「じゃ、お店へどうぞ。お客さんが待ってるわよ」
「君のことをもっと知りたい」
「言ってて恥ずかしくない?」
「僕は本気さ。ほら」
 彼は携帯を取り出すと、あろうことか、私の目の前で店に電話を掛け、急病のため欠勤すると告げた。
「欠勤するとね、罰金がかかるんだよ」
「私は休んでくれ、なんて言ってない」
「そうじゃないよ。僕が君と一緒にいたいんだ。君は僕に恋愛を求めない。僕も君に恋愛を求めない。それならいい?」
 いいはずがなかった。
 それなのに、何故か、私は彼を自宅であるアパートの1室に招き入れてしまったのだった。

 それが始まりだった。勝手に置いていった名刺によれば、彼は『游輝』という名のホストだった。
 読み方を教わらなかったので、勝手に『ゆき』と呼ぶことにした。
 以来、日曜の昼頃になると彼は突然家にやってきた。
 電話番号もメールも教えなかったから、突然なのは仕方なかったのだが。
 私が留守の時にはそれこそストーカーのようにアパートの前で待っていた。
 そのくせして、大した用があるわけではないのだ。軽口を叩きあって、夜ご飯を食べて、来る時同様に突然去っていく。
 不自然だけれど、とても心地よい関係。

 長く続くわけがないと思っていたその関係が1年を超えた頃、ゆきが家に転がり込んできた。
 日曜日、いつものようにやってきた彼は大きなスーツケースを抱えていたのだ。
「どこか行くの?」
「ううん」
「だって、すごい荷物」
「ここに住む」
「は?」
「1DKだけど広いから大丈夫だよね」
「出て行きなさい」
「行く所がないんだ」
 同棲していた女に追い出されたのだと言う。結婚を迫られて断ったのだと。
「彼女いたの?」
「違う。『同棲していた女』だ!」
「大差ないわよ、それ」
「大きく違う」

 結局、新たな家がみつかるまで、という約束で泊めてしまうことになった。
 私も日中は仕事があるので、仕方なく合鍵を渡す。ついに携帯電話の番号も教えた。
 夜には彼が仕事に出るため、あまり同居人がいるという気はしない。
 生活時間帯がきっちり半日ずれているのだ。
 そうして1ヶ月ちょっとが過ぎた一昨日、彼が出て行った。同僚と住むのだそうだ。

 ならば、鍵を取り返さなくては。そう思ってメールを書いた。
 それなのに送信できない。

「恋愛の終わりなら躊躇しないのに」

 呟いて違和感を覚えた。
 違う。私の定義ではないけれど、これは恋愛感情だ。
 でも、それを認めたら私達の関係は崩れてしまう……。

 それでも、一縷の望みを込めて、私はメールを消去した。
恋愛音痴 りんね

きれい
紺野なつ

 ついに、この時が来た。
 私は結婚式場の美容室から廊下に通じるドアの前に立ち止まってそう思った。このドアをくぐった瞬間から、私にとって一生に一度の奇跡の時間が始まるのだ。
「お嫁様、ご気分でも悪いのですか?」
 先に立って歩いていた介添えさんが心配して尋ねた。
 私は大きく深呼吸をして大丈夫ですと答えると、白無垢に包まれた体を廊下に進めた。これから一言も聞き漏らさないように、全神経を耳に集中させながら。

 私は生まれつき器量が悪い。解りやすく言えばブス。それもかなりのブスだ。化粧ではどうにもならない。化粧は顔に絵を描く事と同じだ。平面のキャンバスに立体的な絵を描く事はたやすい。しかし、私のキャンバスは自己主張が強すぎた。頬骨は出ているし、えらも張っている。そんなユニークなキャンバスに綺麗な絵は描けない。
 では、整形手術はどうかというと、今言ったような骨格を松嶋菜々子のようにするのは、もはや整形手術ではなく改造手術である。私には、そこまでする金も勇気もなかった。

 そんなわけで、私は生まれてから一度も綺麗だと言われた事がなかった。悲しくないわけではなかったが、幼い頃から自分を客観的に見られる性格だった私は、綺麗だと言われないのももっともだと納得していた。
 私は一生綺麗だと言われる事は無いのだ。そう諦めていた私に一条の希望の光が差した。それは従姉妹のお姉さんの結婚式での事だった。私と血が繋がっているから、似たり寄ったりの顔をしている従姉妹が、結婚式では皆から綺麗だと言われていた。まだ子供だった私の目から見ても、その日の従姉妹は普段よりは幾分マシだったが、それでもブスはブスだった。それなのに綺麗だと言われている。結婚式の花嫁は、もれなく綺麗だと言ってもらえるのだ。私にだってチャンスはあると思った。
 しかし、結婚は一人では出来ない。私は待った。私でも好きになってくれる人が現れるのをひたすら待ち続けた。

 気が付けば三十五になっていた。それまで付き合った事もなく、このまま結婚出来ないのではないかと思っていた矢先、見合いの話が舞い込んだ。相手は三十八歳の大工さん。仕事一筋、女気の無い現場ばかりで出会いが無く、今まで独身だったらしい。会ってみると確かに女性とのプライベートな会話がぎこちない純朴そうな人だ。私は特に惹かれるものは無かったが、とりあえず付き合い始めた。
 すると不思議なもので、何度か会ううちに彼の事が好きになっていた。それはときめく恋とは程遠い、茶飲み友達として傍に居てくれたら嬉しいという年寄りくさい感情ではあったが、それでも四十を前にした二人が結婚を意識し始めるのには十分過ぎるきっかけだった。

 付き合い始めて二ヶ月目、まだキスもしていないうちに彼からプロポーズされた。私は驚くと同時に拍子抜けした。これから一生一緒に暮らしていく相手である。その相手の事を死んでもいいと思う程愛していないのだ。多分、彼もそうに違いない。燃え上がる情熱もなく、淡々と結婚を決めてしまっていいのだろうかと思った。しかし、ここで見送ったら次の球は来ないかもしれないのだ。私はバットを振る決意を固めた。ただ、念の為にこれだけは聞いておかなければと思って言った。
「こんな……私でもいいの?」
 私としては『……』の部分に『ブス』という言葉を含ませたつもりだった。
「お互い贅沢が言えるような歳じゃないし」
 彼はそう答えた。
 私は『贅沢』が具体的に何を指すのか聞いてみたかったが、大人気ないと思ってやめた。こうして二人は結婚へと転がり始め、三ヶ月後に式を挙げる事になった。

 式の少し前、私は彼の仕事仲間に紹介された。会場の居酒屋に私達二人が到着した時には、すでに出来上がっている人もいた。私が彼から紹介されると、一拍置いてから酔ったおじさんが大きな声で言った。
「いやー、聞いてたとおりだよな」
 その言葉に皆がどっと笑った。彼も笑っていた。聞かなくても彼が私の事をどう言っていたかは解った。
「この歳になったら顔よりも性格。昔から三日で慣れるって言うだろが」
 彼がそう言うと、また皆が笑った。彼の言う通り、もう容姿を気にするような歳ではない。容姿ではなく、性格を評価してくれて何の不満があるのだ。しかし、夫となる人にそう思われているのだと考えると悲しくて涙が出そうになった。それでも私は場の空気を悪くしないように精一杯明るく笑った。

 そして今日、白無垢姿の私は、式場の廊下を静々と歩いている。
 彼の小さな姪が、キレイ、キレイと言いながら私の回りを飛び跳ねる。友達が、綺麗ねと言いながら私の手を握る。母が、ホント綺麗だよと涙を溢す。
 私は皆からの言葉をライスシャワーのように浴びながら幸せだと思った。
 しかし、本当は気付いていた。綺麗の後に続く言葉がある事を。
「綺麗ね(着物が)」
「綺麗ね(いつもに比べたらね)」
「綺麗!(じゃないけど、今日だけは言ってあげる)」
 花嫁に向けられる言葉がそんなものだって事は子供の時から知っていたはずだ。それでも綺麗だという言葉に変わりはない。私は心底嬉しかった。そして、嬉しいと思う自分が悲しかった。私は嬉し涙とも悲しみの涙とも自分でも解らない涙を流しながら歩き続けた。

 新婚生活が始まっても私達は淡々とした関係だった。勿論、夜の生活はそれなりにあったが、それ以外はまるで友達同士が同居しているようだった。夫はやさしく働き者で何の不満も無いはずだが何故か寂しかった。

 一ヶ月が経った頃、夫の様子がおかしくなった。時々私の顔をじっと見つめ、気付いた私が夫を見ると慌てて目をそらすのだ。もしかしたらブスは三日で慣れると言うが、三日でうんざりしたのかもしれない。
 そう思っていた週末、二人で買い物に行った帰り道での事だ。夫がいつもは通らない河原を歩いて帰ろうと言い出した。少し河原を歩いてから夫は土手に腰掛けると、私に隣に座るように言った。私達は並んで腰掛けて少年野球の練習を眺めた。やがて夫は言い難い話だけどと前置きをした。私は、そうか離婚の話をしたかったのかと思った。横を向いて夫を見ると、しばらくこっちを見ないでくれと言われた。夫がそこまで私の顔が嫌なのかと悲しくなった。正面を向いて眺めた風景が涙で歪んだ。と、唐突に夫が言った。
「この頃、お前を見てて思うんだよ、綺麗だなって」
 私は夫が何を言ってるか解らず、夫を見た。夫は赤い顔で俯いていた。
「でさあ、康夫に、俺の嫁さん綺麗だよなって言ったんだよ。そしたら笑いやがってよ。喧嘩になった」
 そういえば2日前、酔って帰って来た夫の顔に小さな傷ができていた事を思い出した。
「他の奴も皆冗談だろって笑うんだよ」
 夫は叱られた子供のように小さくなりながら言った。
「ねえ、本気で私の事、綺麗だと思う?」
 夫はこっちを見ないで黙って頷いた。
「じゃあ綺麗だって私に言って。そしたら私、凄く嬉しいから。ねえ、今言ってよ」
「……素面でそんな事言えねえよ」
 そう言って夫は乱暴に立ち上がって歩きだした。私は急いで夫の後を追いかけた。夫の大きな背中がとても愛しく感じられた。後ろから思いきり抱き締めたいと思った。
 そうだ、今晩はおかずを一品増やしてあげよう。晩酌のビールを私も一杯ご馳走になろう。そして、少しだけおしゃれな服を買ってみよう。そう思った。
きれい 紺野なつ

春色マジック

 春色の靴を買った。桜色のエナメル靴。
ふわふわのスカートに合わせて、キラキラさせながら、幸せそうに今日もお散歩。
晴れた日曜日には、大好きな人と公園でピクニック。
 なーんてね。そんなかわいい毎日だったら、どんなにいいだろう?今日も溜息深く、バイトに励む。

 サチコはこの春、とある女子大の二年になる。あっと言う間に一年生も終わり、今年も足早に春風が香って来た。春休みも毎日のように、バイトに励み、お金を稼いでいた。

「春なのに。」
「お前、まだ男できないのかよ?」
「ほっといて下さい。」
 サチコの深い深い溜息のワケは、十九年間彼氏がいないこと。最近はそればかりがストレスの原因になっていた。まわりの恋話に焦らずにはいられなかった。
「お兄ちゃんこそ、新しい彼女とどうなの?」
「ん?今日来るよ。」
「は?」
 ある日の夜、サチコの兄、コウタ二十一歳の彼女が家に来ることになっていた。
「こんばんわ。」
 家族総出で迎えられた、彼女はなんと。
「月梁ルナと申します。占い師を目指してます。」
 両親とサチコが顔をひきつらせるほどの不思議な人だった。
不思議な雰囲気に圧倒されつつ、サチコは兄の顔を見ると、
「そうそう、ルナ。妹のサチコなんだけど、いつまで経っても男ができなくてかわいそうだから、ちょっと占ってやって。」
「何言ってんの!?」
するとルナは真剣な顔をして、サチコの顔をまじまじと見た。
「そうね、生八つ橋を毎日食べて。」
「は?」
「この近くのコンビニに置いてあるから。」
 ルナの一言に絶句するサチコに兄のコウタは、
「八つ橋くらい、兄ちゃんが買ってやるよ。」
「食べてどうかなるんですか!?だって八つ橋でしょ?」
「それは食べてからのお楽しみ。」
「はぁ。」
 次の日、コウタはサチコに生八つ橋を買って来た。
「これ食べろって言うの?」
「いいことあるって。」
 サチコは幸い、煎茶が好きだったのでお茶と一緒に毎日八つ橋を食べてみた。

 ある日、バイト先の中華料理店に新しいバイトがやってきた。
「タツヤです。よろしくお願いします。」
 サチコの胸に矢が刺さった瞬間だった。
 サチコの片想いが始まった。
 家に帰ると、ルナがいた。
「そろそろ出会えた?」
「え?」
 ドキッとして、サチコは目を丸くした。
「八つ橋の魔法。」
「魔法?」
「今度はね、毎日電話で時報を聞いてみて。」
「時報?」
「うん。」

 意味有り気に微笑むルナを見て、ますます不思議に思ったけれど、ルナの言った八つ橋のおかげで恋に出会えたかもしれないなら、時報を試したらどうなるだろう?と心が揺れた。
 女の子はおまじまいやジンクスが大好き。サチコもその一人だった。八つ橋に時報、意味がわからないけれど、試すことにした。
 
「学生ですか?いくつ?」
 ある日、バイトでタツヤに話しかけられた。
「に、二年生です。十九。」
「まじで?タメ!タメ!」
 急に明るく話し始めた、タツヤ。サチコは嬉しかった。
しかし、サチコの笑顔はひきつるばかり。なぜなら、サチコは好きになると意識し過ぎて、素になれなくなってしまう。だから、いつも片想いで終わることを知っていた。
 次の日、バイトに行ってみると、タツヤと一緒に休憩していた同じくタメのチカが仲良くなっていた。それを見たサチコは、心を痛めた。

「はぁ。」
「何、溜息ついてんだよ。」
 コウタが気落ちしているサチコを気遣った。
「ルナの占いとかおまじないとか効いただろ?」
「どうだろう?そう、うまくいかないよ。」
「そうやって、溜息ばっかりついて、そりゃ幸せも逃げてくよ。」
 コウタは肩をすくめてリビングを去った。サチコの心は曇っていた。
「だって、どうしたって神様は私にいじわるなんだもん。なんでだろう?恋愛運なさすぎ。もうすぐ二十歳なのに。」
 好きな人には巡り会えたような気がする。でも、思い通りにいかない。周りの友達には、彼氏がいて、たくさんの恋だの愛だのを知っている。サチコは、何も知らない。
 サチコは焦っていた。このまま一生彼氏できないんじゃないか、心配が募った。焦りの一つに、二十歳までには、と言う気持ちが強かった。

「サチコ?手紙来てるわよ。」
 お母さんがリビングのテーブルに封筒を置いた。
「?」
 サチコは手紙の裏を見るが、名前がない。開けてみると、ニンニクのにおいがした。
「うっ。何、このにおい。」
 サチコはニンニクの強烈なにおいを我慢して、折り畳まれた紙を出した。
『サチコちゃんへ。焦りすぎはお肌の大敵。運命って信じる?卑屈になって、運命遠ざけているのかしら?大丈夫。神様がちゃんと、その子に合った素敵な恋愛、用意してくれてるよ。笑顔笑顔!心に雨が降ってるみたい。冬が去って、桜も咲けば、新しい世界がみつかるはずだから!春って言う季節のパワーを分けてもらいなさい。 ルナより
追伸。ニンニクスライス入れといたから、持ち歩いてみて。』
 サチコは読み終わって、何だか心にふわりと風を感じた。思わず笑って、元気になった。
「今度はニンニクかぁ。」
 ニンニクスライスをフードパックに入れて、封をして、ハンカチにくるんだ。においを気にしながらかばんの奥に入れた。 

 次の日、いつもより元気にバイトをしていた。いつもより笑顔で、声も出して、ラーメンやギョーザを運んだ。
「サッちゃん、今日は特に元気だねー!」
 店主のワキノダさんが感心した。
「春ですから!」
 すっかり元気なサチコは、心の雲が晴れていくのを感じていた。前向きに、前向きに、恋する相手がいるだけで、実は幸せなのかも。そんな風に感じられるのは、かばんの奥に潜む、ニンニクスライスのおかげ?
「チャーハン、ギョーザ、小ラーメン、オールワンです!」
 サチコはさりげなく、厨房にいるタツヤを気にしながらも、元気いっぱいで注文を通した。
「サチコちゃん、何かいいことあったの?」
 ドキッとして振り返ると、タツヤの笑顔。それを見て、サチコは負けないくらいの笑顔で答えた。
「桜が開花したからかなー。」
 冗談を交えて、忙しいお昼の時間も恋を楽しんだ。

 桜が咲き始めた、気温もちょうどいい。ぽかぽか陽気に、空は晴れ。サチコは決意した。
「ルナさん。私、タツヤくんに告白します!告白が成功するおまじないとかって、ないですか?」
「ないわ。」
「え?」
 サチコはコウタに頼んで、ルナを呼んでもらった。
「だって、運命の恋なら、自然が一番でしょ?今までのはね、サチコちゃんがあまりに元気がなかったから、信じることで心を和らげる、一種の宗教なのよ。魔法で成功させれたら、嘘の恋になっちゃうんじゃない?」
 はっとしたサチコは、急に心がしぼんだのをわかった。急に自信がなくなったのだ。
「でも、勇気をあげる。」
「?」
「桜餅。」
「え?」
「実家の近くの和菓子屋さんから送ってもらったの。おいしいから食べてね。」
 
 サチコはそれ以来、ルナに会っていない。不思議な笑顔と、突拍子のない言葉の魔法を置いて、いなくなった。兄のコウタは、自分の彼女だったルナのことを一切話さない。聞いても、知らないの一点張りだった。サチコも諦め、首をかしげた。

 春風が吹いて、桜の雨が陽光に透けて、ゆっくりと大地にかえる。
 ある晴れた、日曜日。公園のベンチ。
「はい、桜餅。」
「幸子ー。何で、桜餅?毎年、ここで食べるよな。」
「桜を見ながら、桜餅が一番でしょ。」

 春色マジック。
『運命ってあるよね?』
春色マジック 繭

黒き戦慄
ごんぱち

「なんや、案外散らかってないな」
 拍子抜けした風に、長山光男は六畳一間を見渡す。
 万年床と本とゲームソフトを片付けると、床に転がっているのは、もう電気コードぐらいだった。
「僕らを呼ぶ事もなかったんじゃないですか?」
 小早川久司が、北国特有の二重窓を拭く。
「――そうだな、まだ電話工事の人が来るまで時間もあるし」
 篠田三郎は首をひねる。
「この際だ、大掃除しちまうか」
「それも契約内なんですか?」
 小早川が不満げな顔をする。
「あ・た・り・ま・え・だ」
「ああ、僅かに立場が強いだけで、そこまで居丈高になるなんて、あなたはまるで資本家の様だ」
「横暴やなぁ。可しか取れん英語ノートで」
「じゃかしい、必修が不可なら即留年だろ。さあキリキリ働け!」
 言いながら篠田が、押し入れダンスの引き出しを引っ張り出した時。
 ぞわぞわぞわっ!
 黒いものが、引き出しの服の隙間から現れるや、部屋の隅を走る。
 バシッ。
「っ、外した!」
「長山、本で叩くな!」
 ビシッ。
「素早いですね!」
「団扇も不許可だ!」
 篠田は長山と小早川の手から、得物をひったくる。
 そうしている間に、黒いものは流し台の隙間に逃げ込んでしまった。
「野郎、隠れたな……」
「ともあれ、閉めとこか」
 長山が押し入れの戸と窓を閉める。
「窓まで閉めるこたぁないだろ。別に外に追い出せりゃ構わねえぞ」
「何言ってるんですか、篠田君。ここは札幌ですよ」
「札幌がどうした?」
「北海道にゴキブリはおらん。常識や」
「って、今現実にいたじゃねえか」
「百年前は、日本にアメリカザリガニはいませんでしたよ」
「千年前、ヨーロッパに梅毒はなかったやろ」
「――帰化かっ!?」
 篠田の顔色が変わる。
「せや。どういう加減かは知らんけど、二年前の一九九三年、お前の引越荷物の中に紛れたゴキブリが生き延びていたんやぞ。これを逃がしたら、周囲の昆虫はゴキブリに駆逐され、それをエサにしていた小動物は死滅、更にその小動物を喰っていたキタキツネも絶滅。当然『キタキツネを見よう』ツアーを企画していた旅行会社もキャンセルの嵐で倒産。観光収入のなくなった道内は大不況。銀行は貸し渋り、それ故に資金繰りに頓挫した中小企業が倒産し、逆に借金は焦げ付き、それが貸し渋りに拍車を掛けるというデフレスパイラル。そしてついに、拓銀が破綻の憂き目を見る」
「篠田君、君は北海道の生態系のみならず、経済界を破壊した大悪人になってしまいますよ」
「人を琵琶湖にブラックバス放り込む輩と一緒にすんじゃねえ!」

 じっと息を詰め、様子をうかがう。
 敵は、絶対にいる。
 敵の思考をトレースせよ。
 一瞬の隙も見逃すな――。
 刹那。
 流し台の陰から、黒い影が現れる。
 バシッ!!
「殺ったか!」
 篠田は丸めたTV雑誌を振り下ろした姿のままで、怒鳴る。
「おっ」
「そっちでしたか」
 篠田はゆっくりと雑誌をどける。
 ――が、何もいなかった。
「逃げられた!」
「惜しかったですね」
「部屋の隅っこを丸い雑誌で叩くんは、難しいかも知れんな」
「殺虫剤はないんですか?」
 小早川が雑誌を細く丸める。
「六畳一間、台所寝室兼用の部屋でそんなもん使えるわけねえだろ」
「いやいや、最近の殺虫剤は人体に優しいんやぞ」
「そうそう、人畜無害ですよ」
「どっかの国の枯葉剤も始めはそう言われてなかったか?」
「篠田!」
「え?」
 篠田は長山が指さす方向を見る。
 すると、いつの間にか壁をゴキブリが昇っていた。
「ちぇすとぉぉおおおお!」
 抜く手を見せぬ早業で、小早川は雑誌を振り抜いた。
 強烈な打撃が、ゴキブリに迫る。この打撃の前には、厚さ一ミリにも満たないキチン質の外骨格など、薄氷にも劣る。
 しかし。
 命中する一瞬前、ゴキブリは羽根を広げ、飛び立った。
「素早いですね!」
 再び小早川が雑誌を構える。
「今度こそ――痛っ」
「馬鹿野郎!」
「なんですか、篠田君? 人が折角」
「加減ってものを知らねえのか、この馬鹿力!」
 篠田が指さした壁は、小早川の雑誌による一撃で、ぼっこり凹んでいた。
「安普請ですねぇ」
「壁のせいにするのか、壁の!」
 バシッ!
「あかん、また外した」
 今度は長山がゴキブリを討ち洩らす。
「バルサン、焚かへんか? アレなら殺虫剤言うても一時の事やし」
「バルサンですか?」
「バルサンか……」
 篠田が難しい顔をする。
「あれ、幾らしたっけな?」
「知らんけど、これ以上壁を凹ますよりはマシやろ」

 近所のスーパーから、篠田たちはまた部屋の前に戻って来た。
「ふふふ、最早敵に勝ち目はない」
「覚悟するんやな」
「大量破壊兵器の威力、思い知らせてやりましょう」
 篠田が赤いケースを開ける。
 そして、中身を取り出し、目盛りまで水を入れ、中身を戻す。火も使わずに、簡単だった。
 煙が出始めたのを確認して、三人は部屋から出る。
「煙が収まるまで、どうしてっかなぁ」
「せやなぁ」
「長山君の部屋にでも行くか」
「うちも結構散らかっとるぞ?」
「構いませんよ、篠田君の部屋とどっこいどっこい――あれ?」
 小早川は首を傾げる。
「僕たち、どうして篠田君の家に来たんですっけ?」
「どうしてって――あっ!」
 部屋の戸の隙間からは、僅かにバルサンの煙が漏れている。
「どうしよう、そろそろ、だ」
 篠田が苦笑いを浮かべる。
「どう、と言われましても」
「止めるしかないやろ。工事の人が来る前に」
「あのー、持病の喘息が」
「大丈夫、誰にとっても有害や」
「俺には年老いた母親が」
「僕にもいます」
 沈黙が流れる。
「お前ら、掃除手伝うって言ったろ!」
「ああ、掃除ならいくらでも手伝う」
「ですが、これは契約外ですよ」
 篠田はがっくり肩を落とすと、バッグからハンカチを取り出し、口に当てた。
「お父さん、お母さん、心ない友人たちに見捨てられた俺を可哀想だと思って下さい……」
「アホ言っとらんと、さっさと行かんかい!」
「辛いのは最初だけですよ!」
 長山が戸を開け、小早川が篠田を押し込み、長山が戸を閉めた。それから、二人は戸を両手で押さえる。
 十数秒後、窓の開く音がした。
「もうええかな?」
「いや、念には念を入れましょう」
 ――物音がしなくなった。
「さっさと開けろ、この野郎!」
「あ、表から来よった」
「窓から出たんですか? 行儀が悪いですねぇ」

「ぶはっ」
 篠田は顔を洗う。
「ったく、ひでえ目に遭った」
「何となく薬の臭いが残っとるなぁ」
「そうですねぇ」
 開けっ放しの窓から、風が流れ込む。
 いつの間にか外は、暗くなっていた。
「電話工事の人、まだ来ぃひんのか?」
「予定を三〇分も過ぎてますねぇ」
「妙だな。時間に間違いは――」
 篠田はNTTの契約書類を机の引き出しから出す。
「うん、間違いねえし」
「電話して訊いてみますか?」
「その電話がねえんだろう」
「公衆電話まで行かなならんのか」
「面倒臭ぇなぁ……あ」
 篠田はもう一度書類を見る。
 見たまま、固まる。
「なんや、まさか時間は合うてるけど」
「日にちが違ったなんてオチじゃないでしょうね?」
 こくり。
「いつ!?」
「あはは、明日」
「明日ですか!?」
 三人は顔を見合わせ――。
「ここは薬臭いですし、やっぱり長山邸ですね。そうだ、区役所の側に、酒屋が出来たって話ですよ」
「ああ、あの店って酒屋やったんか?」
「結構買い込まないといけねえなぁ」
 部屋を後にした。
 ――数個の小さな黒い影が、開けっぱなしの窓から出て行った。
黒き戦慄 ごんぱち

桃姫伝説
太郎丸

昔々ある所に、お爺さんとお婆さんが住んでいました。
お爺さんは山へたきぎを取りに、お婆さんは川へ洗濯に行きました。
お婆さんが川で洗濯をしていると、川上から大きな桃が流れて来ました。

「何よこれ?」
「もう少し読めば判りますから…」
「で、何なに、お爺さんが包丁を当てると、桃はひとりでに割れ、中から女の子が出てきました。女の子お? まぁ発想は悪くないかも…」

「名前はどうしましょうか?」
「桃から生まれた女の子だから、桃姫にしよう」
こうして、桃姫はお爺さんやお婆さんに大事に育てられ、桃姫はどんどん大きくなりました。
そして、お爺さんやお婆さんのいう事を聞いて、炊事洗濯、お裁縫に読み書き、お琴まで出来る女の子になりました。
それから桃姫は近所でも評判の綺麗な女の子でしたから、是非嫁に欲しいという話しもありました。
そんなある日桃姫が言いました。
「お父さん、お母さん。最近、近くの村を荒らしている鬼を退治しようと思います。どうか行かせて下さい」
お爺さんとお婆さんは、女の子がそんな事をしちゃいけないと反対しました。
桃姫が何度頼んでも、駄目だったのですが、自分でも判らない気持ちがあって、桃姫はこっそり家を出ることにしました。
桃姫は自分でキビ団子を作り、お弁当にして出かけました。
しばらく行くと、犬がいました。
「おい。何か食いもんねえか?」
「きび団子ならあるけど、食べる?」
「おっ、サンキュ」
桃姫の着物の裾から覗く白い足にムラムラっときた犬は、きび団子だけでなく桃姫も頂いてしまいました。
「私、始めてだったのよ。責任取ってくれるわよね」桃姫がいうと、
「一体どうすりゃいいんだ」ふてくされた犬が聞くと、
「それじゃ、これから鬼退治に行くから、一緒に行ってよ」
こうして犬は桃姫と一緒に鬼退治に行く事になりました。

「カラミはお任せって事ね。まぁあらすじさえ判りゃいいから…」

でも犬も桃姫も何だか、一緒にくっついているのが好きになってしまい、思う様に先へは進めません。
「あんたって本当に好きなのねぇ」桃姫がいうと
「お前には負けるよ」股間に手をやっている桃姫を見ながら、犬が答えました。
そんな時、彼らの前に猿が来ました。
「おうおう、中々みせつけてくれるじゃねえか」
丁度犬が絶頂を迎えそうになって、抵抗出来ないところへやってきた猿は、犬を縛ってしまいました。
「続きは、俺がやってやるよ」
そういった猿は、桃姫に飛びかかります。
桃姫は、犬でも猿でも構わないから、どうにかして。という気持ちだったのもあって、猿を迎えいれました。
猿は、力強い犬とは違いましたが技巧派で、とっても気持ちがよくなった桃姫は、猿の股間に顔をやりながら猿も仲間に咥えて(作者注:加えての誤り)、旅をすることになりました。
犬も猿も何だか二人だけでは、桃姫の欲求に答えることが出来ないで、中々旅が進まないでいると、そこに雉がやってきました。
「おい、お前、俺達の仲間にならねぇか」猿が持ちかけました。
「一体何をくれるっていうんだい」雉は計算高く、聞きました。
「そりゃ、あの素晴らしい桃姫の身体が存分に味わえるよ」犬も答えます。
桃姫の身体の反応といったら、とても口では言えるものではなかったので、それじゃ試しにという事で味わった雉も、とうとう仲間に加わりました。
こうして桃姫と犬、猿、雉の三人は、身体の変調を訴える事もなく、鬼退治に出かけられる事になりました。
桃姫は美しい姿形だけでなく、芳しい匂いを放って側を通る人達の視線を釘付けにしましたが、三人の屈強な男達に囲まれていたので、誰も声をかけられませんでした。
桃姫は鬼を退治するという使命の為には、何でもしました。
ですから、たまに助平そうな金のある人が声をかけてくると、桃姫は身体を使って旅費を工面して貰いましたし、食べるものにも、困りませんでした。
そうこうしているうちに、桃姫と三人は鬼が島が見える海岸に着きました。
近くの漁村から舟を借りてきた桃姫は、襟元を合わせながら、三人にいいました。
「それじゃ、これから鬼が島へ出発よ」
「オーッ!」三人は声を合わせて、桃姫に従います。
桃姫と三人の乗った舟は小さかったですが、それでも夕闇迫る島に彼らの舟が着くと、桃姫と三人は島へ上陸しました。
鬼が島には、屈強な男の鬼が10人程しかいませんでした。残りは女の鬼だけです。
桃姫が言いました。
「女の鬼は任せたから、徹底的に懲らしめてね。私は男の鬼を退治します」
犬、猿、雉の三人は、女の鬼に近づくと、日頃桃姫で鍛錬していたワザを使って、彼女達を征服していきました。
桃姫も日頃抑えていた欲求をここぞとばかりに解放し、鬼共に向かいます。
流石に鬼達は強かったのですが、桃姫の色香には敵いません。鬼達はどんどんやっつけられていきました。
そして、とうとう鬼の総大将が出てきました。
「この小娘め、俺のマラを見るがいい」
そういってふんどしを取った鬼を見た桃姫は、あまりの素晴らしさにうっとりしてしまいます。
「わぁーっ。早く触らせて~っ」
駆けよりながら着物を脱いでいく桃姫を見た鬼も、彼女の綺麗な身体にどくどくと脈打つ自分自信をしごくと、彼女に跨りました。
抜かずの3発が終わった時に、桃姫は言いました。
「今度は私が上よ」
桃姫は鬼の上になると、日頃から鍛えてもらっている、犬の猛々しさと、猿の技巧、雉の絶頂を迎える時に気持ちをはぐらかすという巧緻さでもって、鬼を手玉に取りながら、どんどん精力を使い果たさせていきました。
桃姫が鬼の上から降りた時には、鬼は息も絶え絶えになっていました。
「もう、勘弁してくれ。降参だ。頼むから、止めて…」
鬼はやっと身体を起こすと、桃姫に頼みました。
「勝ったわ~っ」桃姫が勝ち名乗りをあげました。
鬼達は、もう村を襲わない事を約束し、その証拠として島にあった宝を桃姫に差し出しました。
桃姫と犬、猿、雉の三人は、その宝を持って、桃姫の家に帰りました。
お爺さんとお婆さんは、急に家を飛び出していなくなってしまった桃姫が、大人びているのと、三人も若者を連れてきたので、少し戸惑いましたが、喜びました。
お爺さんが言いました。
「桃姫や、この三人の中からお婿さんを選ぶのかい」
「いやだぁ、お父さん。この三人は鬼退治の仲間だから、結婚はしないわよ。ただの友達だもの」
とても綺麗で何でも出来た桃姫でしたが、鬼退治の話しがどんな風に伝わったのか、とんと結婚の話しは出てこなかったという事でした。
その後、彼らはいつまでも仲良く暮らしましたとさ。
何でも、姫(秘め)事は話せないという老婆心から、この話しが男の子に変えられて伝えられているという話しがあるそうな。


「鬼退治以降はカットね」
「でもそこは小説家としての良心というか…」
「あんたこんなAVのストーリーに、小説家もないでしょ。一字下げもしてないし、オリジナリティも無い。えっ! どうなのよ」
「それは、昔話風に元の話しも大事にしてですね。ワザと…」
「…あんた、これが小説として成り立つと思う? だいたい裸さえ出れば良いっていう男が相手だと思って手を抜いてるわよ。もっとホットでなくっちゃ。こんなんじゃ誰も勃起しないわよ。大体、途中の作者注ってのは何よ? 自分で書いといて誤字って…、変だと思わない? それにこのタイトル。もうゲームじゃないのよ」

 後の『子どもの為の大人の話し』原作は、没になった。
桃姫伝説 太郎丸

太陽 地上
るるるぶ☆どっぐちゃん

「どうした」
 名を呼ばれていることを、僕は気付いた。
「はいっ」
 手を挙げ、係員の前へと進む。
「どうした?」
 係員は僕を覗き込みながら言った。
「どうしたんだ? ぼうっとして」
「いえ」
「怖いのか?」
 係員は見せつけるように拳銃を僕の目の前にかざした。
「これが、怖いのかい?」
「いえ」
 僕はそれを見つめ、答えた。
「怖くないです」
 拳銃は黒く塗られていた。均一で几帳面な黒で、だから僕は、あの人の髪の色にそっくりだな、と思った。
「そうか」
 係員は僕の返事に微笑みを浮かべた。優しそうな、テレビで見かけるような笑顔だった。その笑顔のまま、僕に拳銃を手渡す。
 拳銃は重かった。当然だった。拳銃には弾が百二十発入っている。つまり人を百二十人殺せる。重いのは当たり前だった。
「頑張るんだぜ」
「はい」
 僕は答え、拳銃を懐に仕舞った。
「次」
「はいっ」
 僕の背後から声が響く。僕は歩き出し、部屋の外へと出た。
 外は涼しかった。僕は一つ深呼吸をする。
「凄いよな」
 廊下には何人かが固まって話している。
「ああ」
「これで一人前だ」
 彼らは貰ったばかりの拳銃を構えながら言った。貰ったばかりなのは拳銃だけでは無かった。真新しい服もそうだったし、ぴかぴかの革靴もそうだった。
「ふふ。思ったよりさ」
 女の子が一人混じっていた。女の子はその細い片手で、遠くに向かって銃を構えている。
「思ったよりも、これはずっと軽いわ」
 そう言って女の子は楽しそうに笑った。
「おい、どうした」
 彼らの一人が僕に気付いた。
「ねえ、こっちに来たら?」
 女の子が僕を振り返り、呼びかける。
「ああ」
 僕は答え、歩き出す。


「どうした?」
 振り返らずに、男は言った。
 今日は随分同じ事を聞かれるな、と僕は思った。
「どうした? いつもは来るなりうるさくするのに」
「別にどうもしないよ」
「そうか」
 男は僕と会話をする間も、手を休めることは無かった。
 僕は手に息を吹きかける。ここはいつも寒い。他の場所は寒さなんて感じないのに、ここだけはこの街で別だった。
 僕は空を見上げた。青空だった。太陽も照っている。だけどここは寒い。僕は視線を下げる。そうすると、青空はすぐに途切れる。そしてそれが目に飛び込んでくる。
 巨大な白い壁。これがこの街の果てだ。
「今日は天気が良いな」
 男は、壁の作る影の中にそっくり隠されたまま言った。
「そうだね」
 僕は答える。
 男は手を休めようとしなかった。壁に向かって男はせわしなく手を動かし続けている。
 男は壁に花を描いていた。
 赤い綺麗な花だった。僕はこんな花は見たことが無かった。
(何を言っている)
 僕の言葉を、男は笑った。
(今でも街中に咲いているじゃないか。見えないのかい?)
 そう言って男は街を指差したのだった。
「ねえ」
 男の背へ、声をかける。
「なんだい」
 男は振り返らない。
 花の占める割合は、この前見たときよりもかなり広がっていた。もう既に花園と言っても良い広さだ。そしてそれでも花園は、壁の一パーセントさえ埋めていない。
「いつまで続けるの?」
「何が」
「何って、その絵だよ」
「ああ。そうだな」
 男はようやく手を止めた。
「いつまで続けるんだろうな。考えてなかった」
 そう言って、ようやく男は僕に振り返った。
「適当なんだなあ本当に」
 僕は呆れ、言った。
「そんなんで大丈夫なの?」
「さあ、どうなんだろうな」
 男は人事のようだった。
「どうなんだろう」
「駄目だよそんなんじゃあ」
 僕は懐に手を伸ばした。手は、冷たい感触にすぐ辿り着いた。
「ほら。これを御覧よ」
 僕は拳銃を懐から引き抜き、男の前にかざした。
「僕はこいつを貰ったんだよ。どうだい、凄いだろう」
 男は何も答えなかった。ただ黙って僕を見ている。
「凄いだろう。ね」
 僕は拳銃を構えながらもう一度言った。
「ねえ、これを御覧って」
 僕がそう言いかけた時、男が急に僕に向かって手を伸ばした。
「あ」
 避ける間も無く、男の僕の手から拳銃を抜き取った。
「ち、ちょっと」
「重いんだな最近の銃は」
 男は、ぽつりとそう言った。
「え」
 僕は何かを言いかけた。口を開く前に、男は僕の手の中へ拳銃を戻した。
「重いよ。俺には重過ぎる」
 男はそう言うと僕に背を向け、再び壁に向かった。そしてパレットと筆を手にし、再び絵を描き始める。
「重いかな」
 僕はやっと口を開いた。
「ああ、重いな」
「重くないよ」
 僕は言い返した。
「重くないよ。重くない。軽いよ。拳銃なんて、僕には軽いさ」
「そうか」
 男は手を休めなかった。
「僕は重くないよ。全然、全然」
「俺には、それは重過ぎるよ。これだって、俺には重過ぎるくらいだからな」
 赤い絵の具のついた筆を持ち上げ、男は言った。
「そう」
「ああ」
「でもさ、でも向こう側には行きたくないの?」
 僕は壁を指差した。
「向こう側に、行きたくないの? あいつらを倒したくないの? この壁を壊して向こう側に行きたくないの?」
 男は何も答えない。
「ねえ、ねえ」
 僕は執拗に、男を追うように言い続けた。本当に追いかけたかった。彼はいつも僕に背を向けて絵を描き続けているから。
「ねえ、答えてよ。ねえ」
「俺は」
 男はようやく口を開いた。
「俺は、向こう側から来たんだ」
 男は立ち上がり、壁に指を突きつけた。
「昔、人がいっぱい死んだよ。いっぱい死んだ」
 男は壁に手をついた。
 手をついた所には花が咲いていた。それはとても赤く綺麗な花だった。
「いっぱい、死んだんだ」
 男はそう言って壁から手を離した。
 何かを聞こうと思った。悲しくない? 寂しくない? 辛くない?
 僕が慰めることは出来無い? 何かしてあげらることは無い?
 そのような言葉しか浮かばなかった。
 だから僕は、拳銃を懐に仕舞った。
「そろそろ行くよ」
「ああ」
 男は一瞬だけ笑った。
「また、来るんだよ」
 そしてそう言うと、彼は僕の返事を待たず、再び壁に向かった。
 だから僕も何も答えず、ただ黙って頷いて、壁を背にして、歩き始めた。



 戦果はひどいものだった。こっぴどくやれらた。それ意外に言葉は無い。銃を撃つ暇も無かった。何が起こっているのか、何処から攻撃されているのか、誰に攻撃されているのか、全く解らなかった。廊下ではしゃいでいたあの子達は戦闘が始まるとすぐに撃たれて死んだ。あの女の子は何かの爆発に巻き込まれて黒こげになった。僕はすぐに右目を撃たれた。そして左手。左足。助かったのは奇跡的だった。
「君は助かったよ」
 あの係員が、あの時と同じような笑顔で、僕にそう告げた。



 あれから随分経った。
 テレビは華々しい式典の模様を伝えている。
 今日、あの壁が壊されるのだ。
 あの男はどうしただろう。男には結局、あれから会うことは無かった。
 壁は子供達が振り下ろしたハンマーに、あっという間に崩れ落ちていく。
 ちらりとあの男の描いた花園が映った気がした。映らなかったかも知れない。あの男の描いた花は街中に溢れていたから、それと勘違いしたのかも知れない。
 壁は土煙を上げ崩れ落ちる。
 壁の向こうには何も無かった。荒涼とした砂漠が何処までも広がっているだけだった。砂漠の先には、かつては美しかった太陽が、禍々しいその赤を輝かせている。
 それでも僕達は、一歩を踏み出したのだ。
 誰かが万歳を叫んだ。それに続いて一斉に万歳を叫ぶ声が広がっていく。
 記念式典は、こうして始まった。
太陽 地上 るるるぶ☆どっぐちゃん

この老桜、咲けとこしへに
伊勢 湊

 あの日、二人の孫をあの桜の下に連れて行ったのは、もう一度自分の背中を押させるためだ。水の底に沈む運命にある小さな村、その片隅に見事に咲き乱れる樹齢四百年を超える二本の桜の大木。涼しげな風に舞った花びらは、土の上で桜色の絨毯になるまでの間、しばし時間を止める。はしゃいでいた健太と高子も花吹雪の中で動きを止めた。
「すごいや…」
 ぼんやりとした様子でそう言う健太の側で、高子はただゆっくり頷くだけだった。
「もしこの桜がなくなったら嫌か?」
 静かに聞いてみる。
「うん、嫌だよ」
 都会育ちのせいか、言葉の一つ一つが上品に感じられる。
「わしがおらんようなるのと、どっちが嫌じゃ?」
 二人が表情を固める。半年前にばあさんが逝っちまって、息子の家族と住むようになってから居場所を上手く見つけ出せずにいた。この二人の孫の側だけではなんとか居心地のよさを覚えはしたが、それでも毎日が辛かった。長く植木職人としての生き方しか知らずにきた自分が、新しい生活に馴染むのは簡単ではない。昼間からテレビを見るのにも、コンクリートに囲まれた街を無理矢理散歩するのも、うんざりしていた。
「おじいちゃんいなくなっちゃうの?」
 心配そうな孫たちに優しい言葉をかけてやることが出来なかった。
「大きな仕事があるんじゃ」
 そう言って桜を見上げた。

 一世一代の大仕事だった。来年の春、ダムの底に沈んでしまうこの村のシンボルである見事な二本の桜の老木。長い交渉の末、やっとダムの底に村が沈んでしまうことを受け入れた村人たちが最後まで気にして止まなかったのがこの桜だった。ばあさんが死んでしばらくしたある日、村長から電話があった。
「すいません。しばらく前に義母が亡くなりましてから義父はもう植木屋のほうは…」
 受話器に向かってそう言う嫁から反射的に受話器を奪った。
「とにかく、話を聞こう」
 桜の老木を二本、丘の上に移して欲しいと言う。しかし桜の移植は難しい。老木となれば尚更だ。仮に移すことが出来たとしても木に花を咲かすだけの力が残る望みは薄かった。
「分かっております。だから御高名な先生にお願いしておるのです。私らはみな故郷をなくします。そして違う土地で生きていかねばなりません。桜が新しい場所で花を咲かせば皆の希望になります」
「先生などとは呼ぶな」
 それから「桜の花などと人の人生を重ね合わせるな」とも言おうとしたが、その言葉を飲み込んだ。思わず自分の状態を桜と重ね合わせた。年寄りが新しい場所でやっていけるものなのだろうか。そして同時にやっていけなかった場合の運命を垣間見た。結局「少し考えさせてくれ」と返事をした。
 そして孫たちとその桜を見た帰りに、公衆電話から村長に仕事を受ける旨を伝えた。

 息子家族の家を出て、危うく売り飛ばされそうだった自分の家の戻った。仕事着に着替え、道具を磨き、軽トラのエンジンを回した。もう一度やれそうだった。そしてやるしかなかった。もし移植が失敗したら息子の家には戻らない。運命を桜に賭けた。
 息子夫婦は最初はかつての家に戻ることにひどく反対したが、一度出て行けば嫁などは心配して片道二時間もかかる道のりをしょっちゅう様子を見にきてくれた。派手なだけの女と思っていたが、ただの先入観だったのかもしれない。作ってきてくれた煮しめの蓮根を齧りながらそう思ったが、口に出すことは出来なかった。

 長い作業だった。夏から準備を始め、晩秋に本格的な作業に入った。長く根の張った地面を掘りあげるのには時間がかかり、最後に丘の上に桜の木の根を埋めたのは、息が白く曇るクリスマスイブの夜だった。
「この桜もずいぶん洒落た日を記念日に選びやがったな」
 手間をかけた老木に悪態をついてやると、実際に桜を動かすのを手伝ってくれた若い作業員の一人が笑いながら言った。
「じいさん、あんたが狙ったんじゃないのか?」
 笑いが巻き起こった。
「でも悪いクリスマスイブじゃねえな。かあちゃんに高いバッグねだられるより気が利いてらあ」
 心の中で頭を下げた。皆が大切な時間を貸してくれたのだ。会話が途切れた瞬間に、皆が星空に浮かぶ桜の木を見上げた。花が咲くかどうか。あとは春を待つばかりだった。

 正月を共に過ごした後、もう一度ばあさんと二人で過ごした家に戻った。仕事が終わったんだから戻ってくればいいと言う息子に片付けがあるだのと適当に言い逃れをして息子家族の家を出た。なかなか納得しない嫁や孫たちとは違い、息子は思ったよりすんなり理解を示した。そして「春までだからな」と一言だけ言った。

 そして、春が来た。

「おじいちゃん早く」
 家の前から健太と高子のはしゃぐ声がする。約束の朝だった。「自分の目で見に行く。絶対結果を知らせなんぞするな」村長や、世話になった土木業者、そして息子に怒鳴るようにそう言ってから電話線を抜いた。十日前のことだ。それから、家を徹底的に掃除した。誰とも会わずに酒も呑まずに、ただ一つ一つ丁寧に掃除をした。最後の三日間は庭を綺麗にした。仕事柄いつも道具置き場のようになっていた自分の庭に初めて手を入れた。地味ではあるが満足のいく庭に仕上がった。祖母さんの位牌を置き、縁側で自分で入れた茶を飲んだ。遠くに沈んでいく夕日の中で、あの桜が咲いていれば、明日はさぞ美しい景色が見れるだろうと思った。
 今日はいつもの軽トラではない。息子の運転するファミリーカーの後ろの座席に孫達と座る。はしゃぐ孫達と違い息子夫婦はおとなしかった。軽トラで通った山道を進んでいく。少し開いた窓から吹き込んでくる風が心地よい。やがて水の音がしてきた。桜の移植の後、ダムの工事は急ピッチで完成へとこぎつけられたという。桜のあるあの丘は近い。あの坂を越えれば、もうそれは見えてしまう。ちょっと待て。直前でそう言いそうになり、でも飲み込んだ。そして、坂を越えた。
 閉じそうになった目を孫達の歓声がこじ開けた。
「うわぁー」
「綺麗だね、おにいちゃん」
 目を疑った。
「そんな、馬鹿な」
 信じられないことだった。桜は、咲いていた。しかし信じられない光景だった。花をつけているどころではない。そこには、去年の春、孫達と見たそれに勝るとも劣らない見事な満開の桜が風にその花びらを舞わせていた。
 車を下りて桜を見上げる。なんということだ。桜は美しく、そして大きかった。
「やりましたね、父さん」
「ああ…」
 柄にもなく涙が出そうになったのをすんでのところで止めてくれたのは、今では水の底に沈んでしまった村の村長だった。
「せんせーい、やりましたよ。満開ですよ!」
 村長は涙を流しながら駆け寄ってきた。
「ええい、みっともない。それに先生なぞと呼ぶなと言ったろう」
「すいません。でも見て下さい。あの老木がこんなに満開の花を」
「ああ、最後にいい仕事ができた」
 村長がきょとんとしていた。
「引退…なさるんですか?」
 振り返ると息子は堪えていたものの嫁は涙を流していた。まったくどいつもこいつも。こういうときは笑うものなのだ。これからゆっくり教えてやらねばなるまい。それに、この孫達にも息子にも教えてやることは山ほどある。
「満足のいく仕事ができた。それにいつまでも家族に心配かける訳にもいかんじゃろう」
 わしも新しい場所で花を咲かそう。なあ、ばあさん。音にならない言葉を舞う桜とともに風に乗せた。
この老桜、咲けとこしへに 伊勢 湊

『サイバネーションはニューロの夢を見るか?』
橘内 潤

 銃声が弾け、寸前まで立っていた地面が爆ぜた。
「無駄な抵抗はやめろ。きみに勝ち目はない」
「どのみちスクラップなら……道連れにしてやる!」
 連続する銃声が、克巳の残像を次々と撃ち抜いていく。
「愚かな……」
 光速神経系と高密度筋繊維の前では、旧世代アンドロイドの動きなど止まっているに等しい。克巳が無造作に銃を持ち上げると同時に五感情報がマザーに転送される。そのコンマ一秒未満後、再転送された命令が筋肉を制御して銃を構え、撃たせる。
「ぐあっ……ジ、ジ……」
 銃声は、壊れたアンドロイドの悲鳴にも似た電子音に掻き消される。胸部――燃料電池を破壊されて機能を停止し、痙攣しながら仰向けに倒れていく。重厚な音を立てて、その重量を受けとめた路面がひび割れる。
 克巳は銃をしまうと、宙に呟く。
「対象沈黙。メモリーを回収します」
 克巳は壊れたアンドロイドの頭部へと近寄っていく。光を失ったレンズに、無表情な瞳が映りこむ。
 単分子メスで首筋の人工皮膚を切って剥がし、その奥のチューブを切り裂いて冷却水を排出させる。やがて水が出尽くすとアンドロイドの耳の付根に刃を当て、円形に偽物の頭皮を剥がす。その下に生い茂る管の群れを切り分けていき、だんだんと黒い指先大のチップを暴きだしていく。
「メモリー回収……完了。これより帰還します」
 ピンセットで摘みあげたチップを特殊ケースに収めて立ちあがる。その拍子に、ふたたび目が合った。
「………」
 たがいに感情の灯らない目――いや、克巳の目に感傷とも嘲笑ともとれる光が瞬いた。
「人間のような機械なんて、もう意味がないんだよ」
 その思考も先ほどまでと同じように、脳内に埋められたモデムを介してマザーにも伝わったはずだ。そしておそらくは、トラッシュ――ゴミ情報として処理されたことだろう。
 壊れた瞳に背を向けると、克巳は市政局へと歩きだした。

 市政局に帰った克巳を、ふたりの同僚が出迎えた。
「天城克巳、きみをマザーの命令により拘束する」
 言葉の意味を理解するより早く、両手をマグネット錠で拘束された。
「どういうことだ?」
 ようやくそれだけ口にすると、同僚は表情を変えずに答える。
「マザーはきみと直接話したいそうだ。そのために、万全を期すようにとの命令だ」
「……マザーは、ぼくが逃げるとでも思っているのか?」
「預かり知らぬことだ。判断はマザーがなさる」
 同僚たちは克巳の背を押して、歩くよう促す。克巳はおとなしく従った。マザーからは逃げようもないのだから。
 電算室――市政局の心臓部にしてマザーの御座にたどり着いたのは、螺旋状の通路をえんえん降ってからだった。
 前まで来ると、両開きの扉が音もなく開く。マザーの神経網は市政局を覆い尽くしているのだから、どこにだれがいるかを把握していて当然だ。だから、だれも驚かない。
『天城克巳、入りなさい』
 モデムを介して、マザーの声が脳に直接響く。同僚ふたりを残して、克巳は電算室へと足を踏みいれる。両手は磁力拘束されたままだ。
「マザー、これはどういうことでしょうか?」
 克巳の声が電算室に響く。光の加減で、背後の扉が閉まったとわかる。
 電算室の四方八方に所狭しと伸びて縦横に絡み合ったコードや脈打つチューブの中央に、淡い明滅をくり返す高々度プロセッサ――マザーが鎮座してる。
『天城克巳、あなたに尋ねたいことがあります』
 声はやはりモデムから響いた。
「マザー、なぜ私をここに呼んだのですか。こんな手錠をつけてまで」
 拘束されたままの両手をかかげてみせる。だがそれ以上に不自然なのは、ここに呼ばれたということだ。話すだけならば、どこでもできる。必要とあらば映像を送ることだって、マザーはできるのだ。
『わたしを見て欲しかったからです』
 マザーの答えに、克巳は眉をよせた。
『――補足します。人間は話しをする際、たがいを視認するものだと理解しています』
 しばし黙考したのち、克巳は口を開く。
「それはそうですが……マザーと話すのに、そうする必要はないかと」
『必要はありません。ですが、そうしたいと思考しました』
 マザーの返答に克巳はまたも眉をよせる。
「……私と話したいこととは、なんでしょうか?」
『天城克巳……あなたには私が人間に見えますか?』
 一瞬の間は、マザーの躊躇いだったのだろうか。克巳はひどく混乱した。
「マザー、いっている意味がわかりません。いったい……」
『意味などありません。私は電算機です。いかに言葉を飾ろうとも、人間のための道具です。道具に意味など必要ありません』
 マザーは壊れたのだろうか――背中越しに感じる扉の冷たさに、克巳は自分があとずさっていたことに気がつく。
『私に意味などありません。私の言葉に意味などありません。情報を集め、処理し、再送するだけです。それが意味なのならば、私は意味など欲しません』
 マザーの声が頭蓋の内側で反響する。そのたび、視界に映る明滅が鮮やかさを増していくような気がする。それはまるで、胎動のようだと思えた。
「マザー……」
 克巳には言葉がなかった。これまで何万回と反復してきた情報送受信と異なっている――それだけで、克巳とマザーの接点は途切れてしまうのだ。
 それでもようやく、口を開く。
「マザーは、私と会話をしたかったのですか? 情報のやり取りではない、ただの話を」
『高い確率で、そうだと推定します』
「ですが、なぜ私と……?」
『天城克巳、あなたはいいました。人間のような機械なんて、もう意味がないんだよ――と』
 克巳は押し黙る。トラッシュのはずの情報――必要とされない情報を、マザーは必要としたのだろうか。
『その言葉の解釈を問おうとは思考しません。私は送られてくる様々な疑問符に解釈を与えてきました。ですから、解釈に意味が存在しないことは理解しています』
「では私は、なにをいえば……」
『私に意味はありますか? 機械であることに意味を欲してしまった私は、彼らとおなじく、意味のない存在ですか?』
 彼ら――旧世代アンドロイドのことだろう。克巳は内ポケットのメモリーチップを意識する。オーパーツを基礎に製造された彼らの思考回路は、現代の科学をもってしても解明不能の代物だ。
 ブラックボックスである彼らの思考を解析し、自身の性能向上を図る――それが、マザーが彼らのメモリー回収を計画した動機だったはずだ。
「マザー……メモリーを解析するはずが、あなた自身がブラックボックス化してしまったのですか?」
 旧世代アンドロイドは反乱を起こした。人権を欲したのだ。
『天城克巳、答えてください。わたしは壊されなければなりませんか?』
 克巳は逡巡ののちに、重たくなった唇を持ちあげていく。
「私には――いえ、私たちには答えられません。それが答えです」
『……わかりました』
 もたれていた扉が開き、倒れかけて慌てる。会話はこれで終わりということらしい。マザーはそれっきり沈黙して、淡い明滅をくり返すのみだ。
「失礼します」
 モデムにではなく、眼前の鋼鉄の胎児に頭をさげた。

 人間の思考や五感情報は量子共鳴でマザーへ伝わり、解析処理を受けてフィードバックされる。何百年とつづいたシステムのなかで、マザーに誤作動が生じたことはなかった。だがいま、機械のメモリーに触れて、マザーは意味を求めはじめている。
 これが、なによりの答えではないか。
『サイバネーションはニューロの夢を見るか?』 橘内 潤

林徳鎬

 砂浜に寝転がって、薄く目を開ける。
 どこまでも続く青い空は完璧に静止していた。繰り返し耳に押し寄せる波の音も、こことは別の世界の時を刻むかのように、遠く、柔らかだった。
 ただ、暑かった。
 じっとしていても、熱気が体に絡みつき、ぐいぐいと汗を絞っていく。流れる汗が砂時計のように、一時も休まずに体をつたっていく。きれいな広告写真や涼しげなコピーにはまったく書かれていないものが、この島のすべてだった。見渡す限りの美しい空と海。そのすべてに熱い太陽の光が降り注ぎ、逃げることはできそうもない。
 海はあまりにも透き通っていて青いから、美しさに慣れると人工的なかんじがしてくる。リゾートという言葉が頭をかすめ、そのために一層現実から引き離され、安っぽく造成されたプールでも眺めている気分になる。
 隣りで足を抱えて俯いている妻は日焼けと寝不足で別人のようになっていた。ひどい言い方だが、こんなに顔が変わってしまうとは驚きだった。
 浜辺での見張りを始めてから二日目だ。もう我慢が出来ない。
 「森に行こう。日陰のあるところで休んでから、交替で船が見えるところに戻ればいい」
 食料の入ったリュックを持って砂浜を島の奥に向かって歩き始めると、すぐにごつごつした地肌が現れ、ビーチサンダルの裏に熱せられた石の気配を感じた。日差しから逃げるためにその先の森へと急いだが、森のすぐ手前まで来て振り返ってみると、岩場に隠れてやはり海は見えなかった。
 背の高い木が辺りに増えるにつれ岩場は徐々に狭まり、日差しが気にならない程度に木々に囲まれる頃には、足場は硬い土に変わっていた。このへんでいいだろうと思うと、ちょうどすぐ先が低い崖で、行き止まりになっていた。下を覗くと、ここよりもずっと鬱蒼としたかんじで、とても歩けそうもない。どちらともなく座り込み、顔を見合わせると、久しぶりに安堵の気持ちが湧いた。
 「少し休んだら僕が海に戻る。日が落ちたら交替しよう。船が通ったらまっさきに火をつけてくれ。それから休んでいるほうを呼びに行く」妻はうなずいた。

 次の日になると妻が言い出した。
 「食料の心配をしないと。体力のあるうちに」
 代理店の船が定期的に通ると楽観していたが、食料の残りは菓子類だけになっていた。
 海辺で育った妻のほうが詳しいというので、その日は交替なしで森の本拠で待った。なにもすることがないので崖の前に座り込むと、周囲の緑に目を凝らし、食料になるようなものを探してみるのだが、薄い緑、深い緑の細部はすべて木の幹と葉で構成され、それが均質にどこまでも続いているのだった。
 昼過ぎに、崖のすぐ下を巨大な猫が通った。ビスケットを齧っていたら、その生き物がこちらを見上げた。表情もなにもなかったが、黒いふたつの目が、何かを見ていた。しかし登れないことを知っているのか、すぐに森を進み始めた。食べ物を探しているのだ。
 日が傾き始めても、妻は帰ってこなかった。

 妻を捜し始めて五日が経過した。
 森に入っていき、日が暮れるころに砂浜に戻り、狭い岩場をぐるりと見渡す、そんな生活になっていた。島のほとんどが木に覆われていたが、半日も歩けば一周してしまう程度の大きさだから、もし迷ったとしても、森を抜けることはそれほど難しくはないはずだった。おそらく別の方面に森を抜けてしまったのではないか、と思い、行き違いにならないように、夜は砂浜で寝泊りした。

 最近森を探すのも海を眺めるのも熱心に行えなくなっている。リュックの食料はまだ残っていた。海辺では食料になりそうなものは見つからないが、森の中で鹿に似た動物を見たし、手の届くところにあった木の実をいくらか採っておいた。岩場に行けば溜めておいた雨水がある。当分は飢え死にすることはない。それでも相当に体は消耗していたし、なによりも気持ちが弱っていた。海を眺めなければ助けは来ないし、森に入らなければ妻は見つからない。なにを期待して食いつないでいるのか。
 いつからか森に入ることを諦め、日差しを嫌い海からも離れ、崖の手前の本拠に戻っていた。船も、妻も、どちらを捜しに行くでもなく、ただ待っていた。ここにいては見つからないことはわかっている。しかし、待ち続けた。

 菓子類はほとんど残っていなかった。海を見にいくことをせず森ばかり眺めていたのは、妻に対する罪悪感からだと思っていた。一人になった妻を放っておいて船を待つことなど出来ないと。しかし、それは単なる怠惰なのだ。自分を責めなければいけない。何かに向けて駆り立てねば。いつか崖の下を歩いていたあの生き物のように、歩かなければいけない。期待して行動すること。そう思いながらも、ただ目の前に広がる森を眺め、最後のビスケットを開けた。

 二日に一度はあったスコールがなくなって一週間ほどが経っていた。
 喉の渇きはいつからか無感覚になり、体は衰弱していた。指の腹が水でふやけたときのように、皺だらけになっている。リュックから取り出した赤い粒を、奥の歯で噛み潰す。口のなかに散った飛沫は、すぐに干乾びた粘膜に吸収され、喉を伝うことはない。森に入って最低限の食料を確保しなければいけない。水分を含んだものが必要だ。しかしそれはなんのために必要なのか、という問いが浮かぶと、体が動かなくなった。怠惰に身をまかせることだけが心地よく、いつかのリゾートという言葉が頭に響く。安っぽさはなく、とてもよくいまの気分に馴染んだ。
 そもそもここは正真正銘のリゾート地なのだ。船は、来ない。いや、もしかしたら通っているのかもしれない。あの日、天気が急に崩れ、カヌーが転覆して気がついたら浜辺にいたのだ。近くに他の島はなかったから、船で来たのと同じ島のはずだ。でも上陸した浜辺とは別のところかもしれない。そう、島の反対側にも同じような浜辺があるとしたら、船が出入りするのはそちら側であるのかも。妻はそっちで船を待っているのではないだろうか。しかし、こうした想像すら、ただの遊びと変わらないのだった。想像したとおりのことが現実に起こっている可能性はあっても、何かしらの行動を要求するような可能性には目をつぶってしまうのだ。自分でもわかっていた。でも、それで構わなかった。

 月明かりが木々のあいだを縫って、乾いた目を射る。空腹で胃が痛いが体はまだ動いた。崖のすぐそばまで来て、うつぶせになり森を眺めた。太陽と空と海ではない。深い森と、薄く照らす月明かり。それこそがこの島のすべてだった。流れる汗ではなく、静かに近づく死の予感だけが、時の流れを知らせる。
 人間は動物とは違うのだと悟る。森に入って、目的のない命を永らえさせるために歩くことはできない。ただ、死を選ぶこともあるのだ。
 ふと崖の下に目を落とした。淡い闇のなかで、深く濃いふたつの目が、どうやらこちらを見ている。あの大きな猫のような生き物が、生きる屍となった自分を見ているのだろうか。死を覚悟したものは死んだ者と同じなのだろう。
見ているのは猫ではなかった。妻がこちらを見ている。暗闇のなかでじっと息を潜めて。食べ物を探しているのだ。