第29回3000字小説バトル
 投票〆切り5月末日/参加作者はレッドカードに注意!
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 エントリ 作者 作品名 文字数 得票なるか!? ★ 
 1 さゆり  片割れ  3000   
 2 青野 岬  臨月  3000   
 3 浅田壱奈  恋の目隠し  3000   
 4 橘内 潤  『ホルツシュベート 〜木彫りの剣』  3000   
 5 太郎丸  勝っても負けても(豆腐バトル奮闘記)  3000   
 6 伊勢 湊  胡桃豆腐  3000   
 7 ハマナチカラ  Wイカフライランチ  2320   
 8 ごんぱち  平城魔道行  3000   
 9 Ruima  その歌の続きを  3000     
 10 るるるぶ☆どっぐちゃん  シスターストロベリー  3000   


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バトル結果ここからご覧ください。




Entry1
片割れ
さゆり

うららかな春の日。公園のベンチで空を眺めていた。
色々な形の雲が大空をすべるように流れていく。

こゆきは戯れに雲の形をなぞらえてみた。あの丸いぽっちゃりした雲は自分だ。角張っているのは太郎、そして華奢な感じの雲は宮野。丸いこゆきの雲と角張った太郎の雲は、仲良く並んで進む。離れ過ぎるわけではなく、べったり近づく風もない。その微妙な距離は、まるで今の自分達みたいだ。

一年も付き合っているのに太郎は未だにこゆきに触れようとはしない。土曜の夜など酔った勢いでわざとしなだれかかってみても、こゆきの気持ちに気付かぬふりで太郎は頑なに門限を守り家まで送り届けるのである。尤もそういう太郎はこゆきの家族には「きちんとしている」とひどく評判がよく、祖母などは「はっ」と折り目正しいお辞儀をする彼に目を細めている。「真面目が一番よ」結婚の意志を伝えた時に、母はそう言って祝福してくれた。

いつのまにか空の上では異変が起きていた。丸いこゆきになぞらえた雲は、さっきまで寄り添っていた太郎の雲から離れ、華奢な宮野の雲と並んでいるのである。おいてけぼりを喰った形の太郎の雲はますますいかつい様相を呈し、憮然としている。そんな太郎を煽るようにこゆきと宮野の雲は益々親密さを増し、寄り添い重なり、遂には溶け合うように一つになった。

こゆきは顔がほてってくるのが分かった。
雲に気持ちを見透かされているような気がした。

太郎から宮野を紹介されたのは、付き合って少ししてからだ。ひょろりと背が高く物静かな彼には自動車会社の営業という仕事は向いてないのではないか。初対面からこゆきはそんなことを思った。

「いつも係長にはお世話になっております」宮野は長い睫をしばたたかせて柔らかく微笑んだ。男にしては大きな目だ。こゆきは、いつか牧場でみた馬の目を思い出していた。

日がたつにつれて分かったのは、宮野の太郎に寄せる忠誠ぶりだった。しかし太郎は宮野に厳しく、こゆきの前でも叱り飛ばすのである。二人の男は何もかも対照的だった。太郎が三十の若さで係長になるほどのやり手なのに比べ、宮野は仕事に対しては淡白だった。いつも飄々として、仕事よりも趣味に重きをおいている感じがした。太郎は酒が強いが宮野は全く飲めない。太郎はいつも飲んでも乱れないのを自慢にしていたが、週末のデートの時など流石に疲れがでるらしく酔いの周りも早かった。そんな時太郎は宮野を呼び出した。呼び出しを受けても宮野は嫌な顔ひとつせず、真夜中だろうが雨の日だろうが、手入れの行き届いた車で迎えに来てくれた。こゆきにも礼儀正しかった。ドアの開け閉めもまるで乗客に対するタクシー運転手のように丁寧で音を立てなかった。

宮野の気持ちに気がついたのは、婚約が本決まりになってからである。いかにもおざなりな「おめでとうございます」の声に顔を上げると、宮野が血走った目で見つめていた。あれほど丁寧だったドアの開け閉めも乱暴になった。刺すような視線を度々感じた。

最初は「まさか」と思った。
華やかさには縁がなく、事務服を着ていると会社の備品みたいだと揶揄されていた自分である。二人の男に愛されるこの今という現実にこゆきは酔っていた。新聞や雑誌の「宮」と「野」の字だけ特別太くかかれているように、向こうから目に飛び込んできたりした。「宮殿」だったり「野原」などと書かれていて勿論宮野には何の関係もなかったのだが。

 女には一生に一度大輪の花が咲き誇る「旬」の時期があるのだと、物の本で読んだのを思い出す。


「こんな話があるんだ。原始時代、人はまんまるで強くて頭がよくて威張ってた。神様には反抗ばかりしてたんだ。ある日、目に余る悪さをして神様を本気で怒らせた。とうとう神は人を真っ二つにしてしまった。それから人はずうっと半身を探し続けている。恋とは失われた片割れと一体となるための作業なんだよ。素敵だと思わないかい?二人で一人前なんてさ」
太郎には珍しい熱弁だったとこゆきは今、思い出している。
誠実な気持ちは痛いほど伝わった。
照れ屋な彼の愛情表現はいつも遠まわしである。

何時の間にか雲は流れ去り、真っ青な空が広がっている。昼下がり、暖かな日差しを受けて子供達がそれぞれの遊びに興じている。笑顔で見つめる若い母親達だ。自分も遠くない将来、あの仲間になれるのだ。結婚式は明後日に迫っていた。

結婚式に宮野は欠席した。風邪をこじらせて高熱が出たというのが理由だったが、こゆきには、自分の花嫁姿を見たくないのだ、と思えた。ひな壇から見えるぽっかり空いた宮野の座席が自然に目に飛び込んでくる。気にすまいと思うのに気になって、来賓の祝辞もどこか上の空だった。

新婚旅行に向かう新幹線の中で、太郎はいびきをかいて眠ってしまった。悪友に飲まされたことと、新幹線のホームで胴上げされのが災いして、一気に酔いが回ったものらしい。無理もない。太郎は新婚旅行の休みをとるために、ここしばらく残業続きだったのだ。
「疲れたのね」こゆきは薄く鬚の伸びた太郎の横顔を見ていた。粗雑な所はあるけれど優しい人だ。大きな手に太い二の腕。寝顔は案外幼く駄々っ子みたい。ああ結婚したんだぁ。不意に喜びが襲ってきた。わたしはこの人に人生を託したのだ。もう、心を揺らしてはいけない。「宮」にも「野」にも今日限りさよならだ。

ホテルに着いて夜の食事を終え部屋に戻ったら、見ていたように電話が鳴った。こゆきが受話器をとると少しの沈黙の後に「宮野です」といつもと変わらぬ声がした。黙って太郎に受話器を渡すとなにやら低い声で話をしている。

「何でもないよ、仕事のことでちょっと」
 いくら気心が知れているからといって、まさか新婚旅行先まで仕事の話を持ち込むとは思えない。故意に用事を作って掛けてよこしたに違いないのだ。

 ベットに入っても太郎は何かに心を奪われているようにぎこちなかった。応えるこゆきにも後ろめたさがあり、しっくり行かなかった。折角の新婚第一夜は、味気ないものになってしまった。いびきをかいて眠る太郎の隣で、こゆきは暗い天井を見つめながら一昨日眺めた雲を思い出していた。澄み渡った青い空のもと、ゆっくりと一つに重なった白い雲を。隣にいるのが宮野だったらと考え慌てて打ち消した。

 新居に戻ったのは一週間後である。新居は郊外の一軒家を借りることができた。太郎の職場からは少し遠いが小さな庭がついているのが気に入ったのだ。荷物はまだ片付いていない。今夜必要なものを取り出し、雨戸を閉めようとこゆきが立ち上がった時、窓の外をさっと黒い人影が走った。「きゃぁ」こゆきの叫び声を聞きつけた太郎が男にタックルして転がした。

 それは宮野であった。しかし、青ざめた顔に無精ひげの宮野の目はこゆきを見てはいなかった。彼はただひたすら太郎を見ていた。

そのとき。
ポジとネガが反転したように全てがぐるり裏返り、初めてこゆきは理解した。

 宮野が愛したのは、こゆきではなく太郎だったのだ。新婚のベットに確かに宮野はいたけれど、こゆきの隣ではなく、太郎の傍らにはべっていたのである。

太郎は何を思ってこゆきを妻に迎えたのか。二人の男は薄暮の中で、黒いオブジェになったようにぴくりとも動かない。

 片割れ
 今のこゆきには、その言葉に頼るしか術がない。


Entry2
臨月
青野 岬

 足の爪を自分で切るのが難しくなって来たので、しばらくの間、実家に帰ることにした。お腹はすでに西瓜でも入っているかのように、丸く大きく迫り出している。夫は私のお腹を撫でると「元気に生まれて来いよ」と呟いて、名残惜しそうに東京へ帰って行った。
 最初の妊娠は『流産』という形で、あっけなく終わってしまった。その分、今回の妊娠に寄せるまわりの期待は無言の圧力となって、時に私を憂鬱にさせる。自分の体なのに、みんなの体になってしまっているような居心地の悪さを感じて、早く自分だけの体を取り戻したいと思っていた。
「痛っ……!」
 強い胎動を感じて、思わず小さな悲鳴をあげた。右の脇腹がポコンと三角に盛り上がっている。多分『すえはち』が、お腹の中で足を突っ張っているのだろう。盛り上がっている部分は踵だろうか。
『すえはち』というのは、夫がつけたお腹の赤ちゃんの胎名だ。
 それは出産予定日が、八月の末であることに由来している。妊娠後期のエコー検査では、立派な男の子の『シンボル』がモニターにしっかり映し出されていた。それを聞いた夫は大喜びで、今から一緒にキャッチボールをする日を心待ちにしている。
「準子、いるの?手があいてるんだったら、お醤油を買って来てくれない?」
 台所の方から母の声がした。私は子供のように「はーい」と大きな声で返事をして、よっこらしょ、と縁側から家の中に上がった。

 真夏の強い日射しは、午後三時を過ぎてもまだ容赦なく照りつけている。それでもコンクリートに囲まれた都会の篭った暑さとは違い、青い草の匂いを纏った爽やかな風は汗をかいた体に心地よかった。
 昔ながらの田舎の道を少し歩くと、大きなカラオケボックスの看板に出くわした。その先には去年開通したばかりの新しい道路が通っている。母に教えられた通りに道路を左に曲がり五分ほど歩くと、『酒・たばこ』の大きな文字が書かれたコンビニエンスストアの看板が見えた。
「いらっしゃいませー」
 自動ドアが開いて店に入る。冷房が効いた店内には流行りの曲が流れ、色とりどりの商品が明るい蛍光灯の下できちんと陳列されていた。私は銘柄を確認して目当ての醤油を手に取ると、そのままぐるっと店内を一周してレジに向かった。
「あら準子ちゃん?宮田さんとこの準子ちゃんじゃないの」
 レジにいた中年の女性が、私の姿を見るなり懐かしそうな微笑みを顔一杯に浮かべて話し掛けて来た。
「そうです……あ、もしかして坂口屋さんの」
「そうなのよ、新しいバイパスが通ることになって、こっちに移転して来たの。古い酒屋だったからねぇ……この機会にコンビニにして。ところで、おめでた?」
 坂口屋のおばさんは、昔と変わらない人なつっこい笑顔で私に訊いた。
「そうなんです。昨日こっちに帰って来て、出産まで実家で世話になるつもりです」
「あら、いいわねぇ……。あ、健一呼んで来ようか?ちょっと待ってて」
 健一というのは坂口屋のひとり息子で、高校の三年間共に机を並べた仲だった。卒業してから家業も継がずに都会へ行ったと噂で聞いて、お互いにそれっきり会うことも無かった。その坂口君が戻って来ている。私の胸は思いがけず高鳴った。
 しばらくして、店の奥から見覚えのある背の高い男の人が出て来た。
「おお、準子かあ!久しぶりだな……こっちに戻って来てんのか」
 それは日に焼けて年相応の精悍さを増した、坂口君の姿だった。
「ん、臨月に入ったんで出産までこっちにいるんだ。坂口君も、戻ってたんだ」
 若い頃の友人とは、不思議なものだ。十何年も会っていなくても顔を合わせたとたん、さっきまで一緒にいたかのように言葉が自然と溢れて来る。
「準子は、あんまり変わんねぇなぁ」
「坂口君もね」
 私達は顔を見合わせて笑った。
「あんた達、店で立ち話も何だからそのへん散歩でもして来たら?」
 おばさんのお言葉に甘えて、私達は少し外を歩くことにした。店を出る時、坂口君はよく冷えたペットボトルの麦茶を冷蔵庫から取り出して、私に手渡してくれた。

「このあたりも、すっかり変わっちまったよ。バイパスも通って便利にはなったけど、なんだか騒がしくなってなぁ」
「そうだね……でもあの頃とは時代が違うしね。仕方が無いのかもね」
 私達は昔通っていた学校に来ていた。校庭の隅には大きな池と藤棚があり、歴代の卒業生が植えた樹が涼し気な木陰を作っている。
「でも、ここはそんなに変わってないだろ?配達でたまに来るんだ」
「うん。なんかここだけ、時間が止まっちゃってるみたいだね」
 坂口君は私の言葉に大きく頷いて、ペットボトルの麦茶を豪快に喉に流し込んだ。つられて私もボトルに口をつける。よく冷えた麦茶が喉を滑り落ちてゆく。
「いつ生まれるんだ?」
「臨月に入ったばかりだから、あと三週間ちょっとくらいかな」
「うちの下の坊主と同じだ。八月生まれで、もうすぐ二歳になるんだ」
「お子さん、いるんだ……」
 心の中の澄んだ泉に、小さな石を投げ入れられたような気持ちになった。さざ波が同心円状に音もなく広がって、私の心を奇妙にざわめかせる。
 いつも放課後の教室の窓から、夕暮れのグランドを走る坂口君を見ていた。お気に入りのアディダスのジャージの少しヨレた感じとか、雨上がりのグランドのぬかるんだ泥の匂いまで、しっかりと思い出すことが出来る。あの頃伝えられなかった想いが懐かしい情景に誘われて、必死に出口を探しているような気がした。
「あのね、私」
「ん?」
「坂口君のこと……い、痛っ!」
 その時急にすえはちが暴れ出した。まるで「それ以上、言っちゃ駄目!」って怒っているように思えて、私はすえはちに阻止された言葉をそのまま飲み込んだ。
「おい、どうした?」
「ごめんね、いきなりすえはちが暴れて。もう大丈夫」
「ビックリした……この分だと男の子かもな」
 坂口君は今の騒ぎに気を取られたせいだろうか、私が言いかけて止めた言葉をそれ以上追求しなかった。
「ところで、すえはちって?」
「この子の胎名。ダンナがつけたの」
「そっか。すえはち、元気に生まれて来いよ。大人になったら親孝行するんだぞ。母ちゃん泣かせたら、俺が承知しないからな」
 坂口君は目の前の子供に言い聞かせるように大きな声でゆっくりと、私のお腹に語りかけた。すえはちはそれに応えるかのように、何度も私のお腹を力強く蹴り上げていた。

「ただいまー」 
 頼まれたお醤油を持って玄関の引き戸を開けると、中から夕餉の支度の匂いが溢れて来た。母の作る懐かしい煮物の匂いだ。
「準子?遅かったじゃない。お夕飯に間に合わないかと思ったわよ」
「ごめん、お店で坂口君に会っちゃって……あの坂口屋の健一君」
「あら坂口屋さんの……。あそこも大変よね、せっかくお店を新しくしたとたんにお嫁さんが子供を連れて出て行っちゃって。ああ、それより早く手を洗って来て手伝ってちょうだい」
 私は黙ってテーブルの上にお醤油を置くと、その足で洗面所に向かった。ついでに足も洗おうかと思い、風呂場に行って水道の蛇口をひねる。ふいに、さっき校庭で坂口君に言われた言葉を思い出して、胸が締め付けられた。
 足の甲に流れ落ちる水を、じっと見つめてみる。足の爪がだいぶ伸びていた。今度夫が来た時に切ってもらおうと思う。今は、私ひとりの体じゃないんだから。
 すえはちは、とても静かだ。眠っているのかもしれない。


Entry3
恋の目隠し
浅田壱奈

 「私、好きな人ができたの。」
 唐突に話しかけて来たと思えば、その内容も唐突だな。
 「へー。誰なの?」
 景子の好きな人なんてどうでも良かったが、さして仲良くもない私にわざわざ言いにきたのだ。それなりの反応を期待してるに決まってる。だから、なるべく興味あり気に聞いてみた。
 「実はね。」
 そう言うと、景子は私との距離を詰めてきた。
 「松本俊矢。」
 少し声のボリュームを弱くして、クラスメートの名前が挙げられた。
 松本ね。特徴を言えと言われても困るくらいの平凡な奴だ。
 「誰にも言わないでね。」
 「わかってる。」
 誰にも言われたくない内容を、仲良くもない私に言いに来たのには、それなりの理由があるのだろう。名前を聞けば深く考えないでもすぐわかった。
 松本とは、小・中そして高校とずっと一緒だ。これでけ揃えば、私の処に来た理由はすぐ浮かぶ。
 「それでね、協力してくれないかな。」
 正直面倒だと思った。けど、断って陰口言われるより、面倒な思いをする方がましか。
 「うん。いいよ。」
 私は、本心を悟られないように満面の笑みで答えた。
 「ありがとう!じゃあさ、松本の好きなタイプとか知らない?趣味とか…なんでもいいの。知ってる限り教えて!!」
 そうくると思った。
 私はあんまり松本としゃべったことが無いんだよなぁ。ってゆうか、興味ないしね。そんなわけだから、景子が期待してるようなことは知りません。残念でした。
 という内容を、もっと丁寧に説明してあげた。
 「そうなんだ…。」
 景子は肩を落とした。
 そうなんです。ごめんなさいね。
 「もっと近づきたいな。」
 恋する乙女だな。
 「まずは、普通に話しかけるなりして、松本の情報を集めてみれば?」
 我ながら、気の利いたことを言えないもんだ。
 景子は、そうねと返事をして、友達と戯れる松本をボーっと眺めていた。
 かなりお熱だな。恋をすると周りが見えなくなると言うけど、今の景子がそんな感じかな。

 それから景子は、私の言葉に押されながら松本と会話をする努力をした。
 そして少しずつ、血液型や誕生日・趣味などを聞き出していった。
 少し前までは遠い存在に感じていたのに、毎日少しづつだけど、松本に近づけているのがわかると、景子は喜んでいた。
 その勢いで携帯の番号を聞き出してしまえと言ったが、そこまでの勇気はまだ無いと言っていた。

 その翌日、景子はいつもより上機嫌で私の処に駆け寄ってきた。
 「私、とうとう松本の番号ゲットしちゃったの。」
 そう言って景子は、携帯を制服のスカートのポケットから取り出して、メモリーを呼び出しているのか携帯をカチカチやり出した。
 「やったじゃん!」
 でも、昨日はもう少し時間がいると言ってなかったか?
 なんとなく、どうやって聞き出したのか気になったので景子に質問をしてみた。
 「実は、直接本人に聞いたんじゃなくて、松本の友達の友達に聞いてもらったの。」
 えっ?それはいいのか?普通、知らないうちに自分の番号を回されるのは嫌だろ。景子はそんなこともわからないのか。
 私は少し引いた。
 でも、恋をすると周りが見えなくなるんだし…そんなものなのかな。
 「それで電話したの?」
 気を取り直して、進展具合を確認することにした。
 景子は高かったテンションを低くしたのか、手に持っていた携帯をポケットに戻した。
 「まだしてない。」
 景子は教室の真ん中にいる松本を眺めた。
 「でも、今日電話してみる。」
 松本を眺めながらつぶやいた。

 それから何日かは、目立った進展がなかったのか、景子の口から松本の話題が少し減ったような気がする。
 そんなことを思っていたら、景子が私の席にズカズカやってきた。
 「ちょっと聞いてよ!!」
 なんか知らないけど機嫌が悪いな。
 「松本の奴、さっき吉田さんとしゃべってたのよ!」
 同じクラスの吉田さんか。
 「それで?」
 「なんで他の女としゃべってんのよ!」
 冗談…ではなさそうだな。景子は本気で怒ってる。
 そりゃクラスメートなんだから会話くらいするだろ。
 「私以外の女としゃべるなんて…。」
 景子は、友達とはしゃいでいる松本に目をやりながら言った。
 嫉妬だな。度が過ぎるくらいの嫉妬だ。それくらい好きなのね。
 もっとも私は、本気で人を好きになったことがないから、景子の考えは理解できないけど。

 昼休み、私は友達と食堂で、ご飯を済ませて教室に戻ってきた。
 教室に入るとき、ふと教室の真ん中にいた松本が視界に入った。いつもの友達とはしゃいでいる。
 すると、景子が松本の元へ寄ってきた。これもいつもの光景だ。
 私が二人から視線を反らそうと思ったとき、景子が松本に何かを渡すのが見えた。
 ノートの切れ端を4つに畳んだ手紙だ。
 わざわざしゃべりかけに行ったんだから、口で言えばいいのに。そういうやり取りが楽しいのかな。
 景子は松本を前にして、幸福の笑みを浮かべていた。

 この日の放課後、私は不覚にも教室に忘れ物をしてしまい、それを取りに教室に戻ってきた。
 もう誰もいないと思っていた教室に松本がいた。
 そうか、今日の日直って松本だっけ。松本がいようといまいと私には関係ない。
 さっさと忘れ物を回収して帰ろうと、自分の席へと向かった。
 「なぁ、吉村。」
 私に気づいた松本が話しかけてきた。
 「お前、最近藤田と仲良いよな。」
 松本が私の席の前に立った。
 「うん。」
 なんか、顔が真剣だな。
 「あいつ、毎日電話かけてくるんだ。」
 へー。そんな話は聞いたことないな。
 「手元に携帯がなくて出れないときってあるだろ?そんなときは、必ず不在着信が20件以上あって。」
 本当に松本が好きなんだな。
 「番号教えた覚えないのに。」
 それは知ってる。
 「今日昼に、手紙貰ったんだ。」
 松本の顔が真剣だ。
 「『なんで私以外の女としゃべるの?二度と私以外の女としゃべらないでね。』って書いてあった。」
 ええ!?そんな手紙を渡したのか。景子の考えが理解できない。
 でも、恋は周りを見えなくするから仕方…ないか?
 松本が話を続ける。
 「昨日の夜、あいつ俺の家に来てさ。」
 おお、大胆な。
 「家も教えたことないのに。」
 松本の顔が真剣だ。
 「なんであいつ、俺の家知ってたんだろ。」
 なんででしょう?
 思い当たる節はあった。
 景子は、松本の電話番号を友達の友達から聞いたと言っていた。なら、家の場所もそうしたのかもしれない。
 けど、私は違うと思った。根拠はないけど。
 「なんか、ずっとあいつに見られてる気がして。」
 景子が松本の家を知っていたのは、
 「どこにいても見られてる気がして。」
 松本の後をつけたのではないだろうか。
 「本当…気が滅入ってさ。」
 根拠はないけど…。
 松本は、真剣な顔を下に向け、右手で覆った。

 次の朝、私は松本の話が頭から離れなくて、ボーっしていた。
 「おはよう。」
 景子が、いつも通りに挨拶をしてきた。
 そして、いつも通りに松本を眺める。
 私も松本を眺めた。初めて意識して眺めた。
 松本の顔は真剣で、心なしか何かに怯えている風だった。
 「ねぇ。」
 景子は相変わらず、松本を眺めながら話しかけてきた。
 「何?」
 人を好きになるということは、どこまで周りを見えなくするものなのか。
 「昨日の放課後、松本と何話してたの?」
 景子は相変わらず、松本を眺めていた。


Entry4
『ホルツシュベート 〜木彫りの剣』
橘内 潤

 杖で地面に円を描くと、エトヴァルトはその中心に立った。
「この円が、ぼくとスヴェンの死線だ」
「死線?」
 スヴェンと呼ばれた少年は、木剣を片手に尋ねかえした。エトヴァルトは、こほんと咳払いをして説明しだす。
「いいかい……スヴェンがぼくを倒そうとしたら、ぼくが呪文を唱える前にこの円の内側にいなくちゃだめなんだ」
 手にした杖で、描いたばかりの円周を指す。円周からエトヴァルトまで、スヴェンの足で二歩に満たない。
「この円よりも遠くからだと、スヴェンの剣が届く前にぼくの魔法が完成する。だから、ぼくの勝ち。呪文を唱える前に円の内側に来られたら――」
「先生の魔法が完成する前におれの剣が届く。だから、おれの勝ち」
 エトヴァルトの言葉をとって、スヴェンがつづけた。
「その通り。だからこの円を、魔術師と剣士の死線というんだ。もちろん、死線の大きさは一定ではない」
 魔術師がより速く魔法を完成できれば、円は小さくなる。剣士がより速く踏み込めれば、円は大きくなる。だから、円の大きさは対峙する魔術師と剣士の力差によって変化する。
「ふぅん……その円の外にいたら、剣士は絶対に魔術師に勝てないんですか?」
 エトヴァルトの説明を反芻したのち、スヴェンは首を傾げて尋ねた。
「勝てないね」
 エトヴァルトは即答してつづける。
「だから、もしスヴェンがその状況になったら、一目散に逃げだすことだね」
 逃げられればだけど、と口の端を悪戯っぽく揺らす。スヴェンはまた首を捻る。
「もし逃げられなかったら?」
「死ぬね」
 またも即答されて、スヴェンはかくっと首を垂れる。
「死ぬって、そんな……」
「それが嫌だったら、せめてどんな相手からでも逃げられるくらいには強くならないとね。ほら練習、練習」
「はぁい」
 あしらわれた気もしたが、スヴェンは手製の木剣を構えて素振りを再開する。まだ本物の剣は早いと、エトヴァルトが手ずから作った木製の剣だ。一見、長剣を模した木彫りの玩具だが、魔術を使って内部に埋めた重りを増減できるように工夫されているのだ。「スヴェンが成長すれば、この剣も成長するのさ」、スヴェンと出会って初めての誕生日にそういってプレゼントしたのだった。以来、五年以上もスヴェンと成長を共にしている。
 体側に両手持ちに構えた木剣を、体重を乗せた踏み込みとともに振り下ろす。踏み込んだ足で地を蹴り、その反動を使って上体が流れるのを抑える。そのまま残した軸足へと重心を戻し、振り抜いたのと同じ速さで元の構えまで剣を振り上げる。
 鞭になりなさい――その、エトヴァルトの教えどおりに、踏み足で生んだ力を木剣へ伝えようとするのだが、なかなか上手くいかない。「基本は極意だよ。一朝一夕でどうにかなるわけ、ないだろ」とうそぶくエトヴァルトを見返そうと、スヴェンはへとへとになるまで素振りをつづけるのだった。
 ふと、その手がとまる。
「ねえ、でもさ」
「うん?」
 杖をもてあそびながら夕食の献立を考えていたエトヴァルトは、顔を上げて少年を見る。
「もし逃げることもできなくって、戦うしかなかったらどうすればいいの?」
 難しい質問だな、とエトヴァルトは眉を寄せて思案げに杖をくるくるとまわす。
「そうだね……そのときは――」


 石造りの柱列が支える歩廊を、スヴェンは走っていた。手にした剣は、道々切り伏せてきた魔物たちの赤黒い血に塗れて、とうに切れ味をなくしている。着込んだ革鎧も、張りついた返り血ですでに地の色がわからないほどだ。
「どけぇ!」
 新たに立ち塞がった醜悪な魔物に、走る勢いと剣の重量をいっぱいに使って、遠心力のままに刀身を叩きつける。柄を握る手に、魔物の剛毛に覆われた頭皮の奥で頭蓋骨が砕けた振動が響く。
「ふん!」
 致命傷を与えた感触と同時に下肢を踏ん張り、手首を返して刀身を引き抜く。奥深くまで刃が食い込んでしまっては、容易には引き抜けなくなるからだ。血と脳漿がビロードの滝となる。
 剣を引き抜く動きにあわせて、重心の移った踏み足を支点に身体を反転させる。さっきまでの軸足を踏み足に換えて、踝、膝、腰、胸、肩、肘へと踏みしめた力を螺旋に巻き上げていく。踏み込みの反動を最後に剣へと伝えて、背後から襲いかかろうとしていた有翼の魔物へ叩き込む。頚に吸い込まれた斬撃が、砂を押し固めたような皮膚を砕き割る。その手応えが高揚とともに神経を駆け上がり、視界の中では引き抜いた剣にすがるように鮮血が迸る。
 髪が血塗れるのも厭わず、スヴェンは縦横に剣を振るう。摺り足による歩法は、鉄の延棒を血飛沫の旋風に変える。
 それからさらに何匹目かの魔物を切り捨てたのち、ようやくたどり着いた行き止まりには、スヴェンの身長の倍はあろうかという両開きの扉が待ち受けていた。魔城の最奥を守るのに相応しい、見るものを圧倒する荘厳さを具えた扉だ。守る魔物はいない。切り捨ててきたうちの一匹がそうだったのかもしれない。
 肩を揺すって息を整えるスヴェン。それを待っていたかのように、見えざる手に押されて扉が開く。
「先生……」
「久しぶりだね、スヴェン」
 開いた扉のさき、石造りの広間の中央にエトヴァルトは――魔城の主は立っていた。杖を一突きすると、魔術師の足下から環状の光が広がって、ふたたび足下へと収斂する。辛うじて両足が乗るだけの光の円に立ち、エトヴァルトは口の端を揺らす。
「これが、いまのぼくとスヴェンの死線だ」
 魔と契約した魔術師に呪文は要らない。意志の一振りがすなわち魔術として立ち現れる。多くの勇者を屠ってきた、この世に在ってはならない力だ。
「いますぐ逃げるのなら、見逃してあげても――」
「それでも」
 かつての師にして育ての親であった男の言葉を、青年はさえぎる。そして告げる。
「それでも、おれは逃げません」
「勝てないよ」
「それでも、です」
 視線が交錯する。師弟ではなく親子ではなく、魔術師と剣士として死線に相対す。剣士は剣を構える。魔術師は悠然と佇む。
「うおぉぉおお!」
 雄叫びを上げてスヴェンが駆ける。踏み破らんばかりに足裏が床を蹴り、一大の颶風のごとくエトヴァルトへと迫る。彼我の距離はあっという間に詰まる。だが魔術師の余裕は崩れない。その剣は死線に遠く及ばない。
「おぉおぉおお!」
 それだけで魔物すら射殺せそうな眼を、魔術師は涼しい顔で受け止める。ふっと眩しそうに目を細める。
「………」
「うぉおおぉぉおおぉお!」
 呟きは、死線を越えようと踏み足を叩きつける剣士の咆哮に掻き消される。刃が流線となって襲いかかっても、魔術師は構えない。呪文は必要ない。終わりにしよう――その意志でこと足りる。
 銀の弧がまさに死線を断ち割らんとした刹那、魔術師の口が動いた。死を覚悟したのは剣士。


 「もし逃げることもできなくって、戦うしかなかったらどうすればいいの?」
  難しい質問だな、とエトヴァルトは眉を寄せて思案げに杖をくるくるとまわす。
 「そうだね……そのときは――」
  エトヴァルトは悪戯をする子供のような顔をする。
 「そのときは、相手に手加減してもらいなさい」


 思い出したのは、師の肩口から胸元までを切り裂いてからだった。大きくなったな――最後の言葉が耳の奥に木霊して鳴り止まなかった。
 抱擁がスヴェンを朱に染めた。

 木彫りの剣が墓標代わりのその墓は、英雄の師が眠る墓として伝わっている。


Entry5
勝っても負けても(豆腐バトル奮闘記)
太郎丸

 ひゅるっと口に入ったそれは、ひと噛みもせずに、簡単に喉を過ぎてしまった。それでも口の中には甘い大豆の香りが残った。
 私は余韻を味わうように、少し口を開け目を閉じた。
「はぁーっ…」
 思わず溜息が漏れる。
 刻んだネギや削り節どころか、摩り下ろした生姜も、醤油さえ使っていないのに、この味の深さはどうしたことだろう。
 この美味さに言葉は要らない。
 表現のしようもない。
「美味い」ただそうとしかいえない。なんと貧弱な表現力よ。
 だがそれでも幸せだった。
 私は次の欠片を口に運ぶべく、その白い固まりにスプーンを入れる。

 事の起こりは、webで知り合った仲間とのオフ会での事だった。
 趣味で小説なんぞを書いている私達は、バトルと称して小説を書く腕を磨いている。というか遊んでいる。
 中には小説家を目指すべく勉強している人達もいるが、私のようにただ楽しんでいるだけの者もいる。
「何かテーマがあってのバトルって面白いよねぇ」
「それじゃやりましょうよ。でもハンドルネームが変っちゃうのは嫌だから、タイマンでも内緒でやりましょ」
「良いよ。それじゃぁ、どんなテーマにする?」
「ラーメンにしましょ」
「ラーメン?」
「そうラーメン。どっちが読んで美味そうだと感じるかってどうですか?」
「ラーメンかぁ…」
 テーマ付きの小説というのも面白いと乗り気だった私も、美味そうに感じる小説なんぞは書いたことがないし、最近下ネタばかりの私には、荷が重い。
「ラーメンは駄目っすよ、美味しい店が多いから。豆腐なんてどうっすか?」
 なんて横から三ちゃんがチャチャを入れてきた。
「豆腐…」
 躊躇していた私は、ひょっとしたらこれは書かなくても済むかも、なんて思っていると、お題を言い出したセイちゃんが、憎たらしくも余計に乗り気になってきた。
「豆腐。いいですねぇ。それにしましょ。今度の3000字でね」
(さ、3000字も何を書くんだ。1000字だって書けそうもないのに、3000字なんて埋まらない。しかも締め切りって後3日しかないじゃないか)
「それじゃ負けた方が、美味しい豆腐を食べさせてくれるという事で…」
 途中でチャチャを入れた三ちゃんは、人の気も知らないで、煽るだけ煽っている。

 私は豆腐というものが、特別好きだという訳ではない。
 豆腐は食べるが、鍋の添え物としてだとか、冷奴や、湯豆腐くらいのものだ。まぁごま豆腐や玉子豆腐なんていう、毛色の変ったものもあるが、あれは大豆から出来ていないから、豆腐とは呼びたくない。変なところに拘っていても仕方がないが、とにかく美味い豆腐なんぞ食らったことがあるだろうか?
 そういえば、大阪に出張した時に連れられて行って食べた湯豆腐は美味かった。そこの店の湯豆腐の入れ物は、まるで木で出来たお風呂のような形状をしていた。豆腐で有名な京都の側だったせいもあってか、これは美味いと思ったものだ。
 私が記憶に残る豆腐の美味さといったら、それくらいのものだった。
 これでは、書けるはずもない。…ない。書けるか!
 もうヤケだ。好きに書こう。私は、未来の話しとして小説を書き始めた。


 乗合からタクシーに乗り換えたセイは、トラベラーズカードをスロットに挿し込むと、行き先と会話不要モードを告げ目を閉じた。タクシーは少しの間ホバリングをしていたが、ゆっくりと上昇を始め、スピードと一緒に高度を上げ始めた。
 旅の疲れからか少しうとうとしていたが、窓から見える景色は、やはり田舎としかいいようがない。見える建物はどれも古いタイプだったし、今ではここの産業も観光くらいのものだった。しかも老人相手の懐古趣味的なものばかりだったから、40代などという私のような若者には見向きもされていない。私だって用がなければ、こんな古びた火星くんだりまでやっては来ない。


 出来た。苦汁(ニガリ)と題されたそれは、何とか3000字に収まった。
 話しは、料理人である主人公のセイが、曽祖父の為にTOFUを作って食べさせるが、ニガリが判らずに苦労する話で、ちょっと感動物でもある。料理人とはいえ、機械が作る食べ物の味を決定するだけのプログラマーだったセイではあるが、調理するという喜びを知るという話しにもなっていて、なかなかの力作だ。
 と思ったのだが、時間を置いて読み返して見ると、感動物になっていないし、どうしても豆腐を食べたいとは思えない。これはやはり私が豆腐の美味さを知らないからなのだ。表現力が無さ過ぎる。
 そう私は文章が下手だ。文章から滲み出す雰囲気がどうしても美味しく感じない。今まで感動物さえ書いた事もない。このままじゃ、負けてしまう。
 掲示板に負け表明でもしようか…。
 プロじゃなくて良かったなぁ。なんて思う自分が情け無い。
 とにかく…、今日は寝よう。

 今日は休みで良かった。なんとか豆腐の話しを考え直そう。小説を書かなければ…。

 しかし書けない。全然書けない。没になった作品を手直ししてもどうしようもない。
 気持ちが悪くなる話しだとか、少しエッチな話しなら慣れているが、どうやったら美味そうだと思える話しなんか書けるんだろうか? 感動物が得意の相手では土俵が違い過ぎる。

 子供が豆腐を作る話しにするというのは…。いやいや子供の話しはこの間使ったばかりだから駄目だ。

 私は結局、インターネットで調べた「なんちゃって豆腐」の作り方をそのまま実践してみることにした。何といっても簡単に出来そうだったし、家にはニガリが無い。それをそのまま書いてしまおう。奮闘記だ。(これは面白いかも知れない。新機軸だ)

 100gの大豆を水洗いし、3倍程の大きさになるまで、たっぷりの水につける。
(3倍程の大きさになるには、10時間程かかってしまった。これで間にあうのか?)
 水を切り、2カップの水と一緒にミキサーで細かくする。
(何でもこの時に細かくしないと、ざらざら感が残るらしい。私はミキサーを廻し続けた)
 深い鍋で水2カップ分を沸騰させ、その中に砕いた大豆を入れ弱火で20分煮る。焦げないようによくかき混ぜる。
(これは思ったよりも重労働だが、なんとも良い匂いがしてきた)
 布巾などで、これをこす。
(湯気がもうもうと立ち上る。なんとも熱い。しかし熱いうちにやらなければならない。しかし熱い。めっちゃ熱い。…おからはどうやって料理しようか?)
 ゼラチンパウダーをこさじ1杯豆乳に混ぜ、器に入れて冷蔵庫で冷やす。
(少し冷ました豆乳に混ぜたゼラチンが溶けだした)

 冷蔵庫から取り出されたそれは、たまに女房が作る杏仁豆腐モドキの牛乳カンに似ていなくもない。というか、まるでそのものだ。

 水と大豆とゼラチンしか使っていない。それでもこれは立派な作品だった。調味料もいらない。
 大豆から作って正解だ。今度はニガリを手に入れ、まずはおぼろ豆腐でも作ろうか。それとも大豆の変りに、枝豆でも使おうか? 料理は楽しい。

 スッと入ったスプーンに乗せられたそれは、プルプルと踊っていた。
 私は早く食べてといっているそれを、今度は口の中でゆっくりと味わう。
 歯をあてなくても、滑らかに解けてしまうその感触が妙に嬉しくて、口元が緩んでしまう。
 私は口の中で崩れてしまったであろうそれを、ゆっくりと飲み下す。
 そしてやっぱり、少し口を開け目を閉じてしまう。
「美味い」ただそうとしか言えない。


Entry6
胡桃豆腐
伊勢 湊

 健ちゃんのお父さんが病気で亡くなってから初めての夏。高校時代から付き合っていた私達が大学進学のために一緒に東京に出てからは三度目の夏になる。健ちゃんは故里に帰るなり、いまはもう閉めてしまった実家の豆腐屋で豆腐を作り続けている。お父さんの最後の豆腐を夏の商工会祭りまでに復活させて臨時の出店を出すという。

 湯葉を取り除いた後の鍋に砕いて山芋と豆乳で溶かした胡桃のペーストを加えて素早く混ぜる。この作業に健ちゃんは一日の大半をかける。何度やっても豆乳は不手く固まってはくれない。私は調理場で真剣に鍋を見つめる健ちゃんの側で胡桃の殻を割り続ける。
 あの日、健ちゃんの部屋で一緒に前期試験の勉強をしていたときに医大に進んだ同級生の拓朗君から電話があった。片桐光男?ああ覚えている。グルメ評論家だろ、雑誌で親父の胡桃豆腐を酷評した。いまさらそれがどうしたんだよ。なんだって、本当か?だとしたら、それは許せんな。奴が今年も商工会の祭りに来るって?そうか。もちろんだ。復讐してやる。
 電話の内容の全てを聞き取れたわけではなかった。でもだいたいは想像がついた。去年の夏、健ちゃんのお父さんが病気で店を閉める少し前に作り出し、商工会の夏祭りで発表した胡桃豆腐。今でも覚えている。とても美味しかった。でもそれはグルメ評論家の片桐光男に雑誌で五つ星評価で一つ星をつけられた。当時は誰もそれをあまり気になどしなかった。一人の評論家の言葉を気にしても仕方がない。それに、胡桃豆腐が売れなかっただけで豆腐が売れなくなったわけでもなかった。でも、その電話を受けてから健ちゃんは人が変わったように豆腐つくりを勉強し、夏休みに入るとすぐに故里に戻り、今はもう閉めてしまった店の調理場で胡桃豆腐を作り続けた。
「どう?」
 熱気の立ち込める調理場で毎日何度もくり返す言葉を口にしてみる。
「…うん。もう少しだ」
 びっくりして、そしてそんなに喜ぶ自分のことなんて忘れかけていたくらいの喜びが込み不げてきた。毎日「ダメだ」をくり返すばかりだったのに。健ちゃんが豆腐になる前の豆乳の固まりを手で差し出してくれて、私はそれをそのまま口に入れた。
「やだ、凄く美味しい!」
「だろ?」
 満面の笑みを浮かべる私達の背中に声が飛んできた。
「暑いのになにいちゃついてんだよ」
 ボストンバックを抱えた拓朗君が立っていた。
「拓朗!」
「間に合いそうだな。じゃあ仕不げといきますか?」
 拓朗君が二本のノコギリを掲げた。なにか分からなかったけど、とりあえず私にも胡桃割り以外の仕事ができたみたいだった。

 知り合いの住職さんに断わって寺の裏山に入る。どうやら竹を切るらしい。何のために竹を切るのかはまだ教えてもらっていなかった。それも凄く気になったけど、やっぱりどうしても聞いておきたいことがあった。
「さっきね、出来たての豆腐食べた。凄く美味しかったよ」
「急がずにオレも食べてくればよかったなぁ」
 拓朗君は山道を進みながら笑ってそう言う。
「でも、やっぱりいまさら復讐ってどうしてかな、って思う」
 目の前に竹林が生い茂っている。拓朗君は切るべき竹を選びながら、蝉の声にかろうじて掻き消されないくらいの声で話し始めた。
「偶然だったんだ。大学の教授に、いつも学生同士だと絶対に行かないようなところにゼミの仲間とつれていってもらったんだ。慣れてなくて肩が凝るような店さ。そこにたまたま片桐光男がいた。例の料理評論家さ。そして前菜が運ばれてきた。たらの芽の胡桃味噌和えだった。そこで奴が言ったんだよ。これ胡桃の味噌なの?悪いけど普通の酢味噌に替えてくれないかな、オレ胡桃食べれないんだ。って」
「それって…」
「健二の専攻もちろん知ってるよね」
「心理学」
 そういえば前に少し聞いたことがあった。
「胡桃が苦手な人がいる。それは仕方ないし、その人には当然美味しいとは思えない。それはいい。でも、点数をつけるとなると」
「略式化された暗示…」
「そう。血液型占いと一緒さ。A型はこんな人ですよ、って言われ続けると無意識にそれをカテゴライズして自分すらも当てはめていく。そして、それは自分は信じないって言っても確実に無意識下に刷り込まれていく。略式化されていれば特に」
「でも、それじゃあいくら胡桃豆腐を作ったって…」
 拓朗君は目をつけた竹を軽く叩いてから地面に投げ出されていたノコギリを手にとった。
「だから、竹を切るのさ。それに健二だって復讐なんて大袈裟な言葉を使ってはいるけれどおやじさんの仇をとるつもりなんてないのさ」
 なんとなく分かり始めていた。健ちゃんは、きっとあの胡桃豆腐を食べる機会を失ってしまったみんなのために、きっとそれを復活させようとしているのだ。

 商工会祭りの会場の中心から少し外れたところに立てられたテントに道具を運び込む。片桐光男は胡桃が食べれないのならば彼から多い星をもらうことはできないだろう。でも、だから健ちゃんの側に拓朗君がいて、私がいる。人が集まり始めた。中央ブースに片桐光男の姿も見えた。お昼が近付き他の店はもうとっくに始まっている。
「さて、やるか」
 健ちゃんのかけ声。店の前に大きな会議テーブルを二つ並べてその不に真っ白な布を被せる。そして竹を切って作った器に薄く黄色がかった小さな胡桃豆腐。その不に少し胡桃味噌がかけられ、竹の楊子が添えられている。それをテーブルに並べていく。
「いかがですか?食べてみて下さい」
 通り行く人に声をかける。それは静かな始まりだった。「きれいだね」竹の器を見てそう言った一人のお爺さんが小さな器を手にとった。
「これは、美味い」
 小さく健ちゃんが腰の辺りでガッツポーズをしていた。美味しくないはずがない。しっかりした味のお豆腐を口に含めば次の瞬間には優しい胡桃の風味が一杯に広がる。胡桃味噌がそれを後押しするけれど、波のように豆腐それ自体の味がまた迫ってくる。
「ちょっと私にもちょうだい」
「はい、どうぞ」
 その後のおばさんのリアクションは何も知らなければサクラじゃないかと疑ってしまう程。試食の度に「美味しい」と声があがる。その度に人垣が増えていく。用意した豆腐が売れていく。味が、この味がみんなに広まっていく。
 片桐光男が商工会の人たちと出店を回り始めているのが見えた。
「じゃあ、いくか」
 健ちゃんが仕込んだ鍋をテーブルに出した。まずは出来たての湯葉を取り除き、それから胡桃のペーストを混ぜ、豆乳が固まったばかりの出来たての豆腐の固まりを竹の器に入れて差し出す。
「さあ、みなさん。滅多に食べれない出来たての胡桃豆腐だよ。さあ、食べてって」
 たくさんの手が伸びてきて、それが口に運ばれ、そして歓声にも似た「美味しい」と言う声の数々。あの調理場で健ちゃんにもらったあの豆腐の味を、今たくさんの人が味わっていた。
 その側を片桐光男が通り過ぎようとしていた。一瞬体が固まった。健ちゃんのほうを見た。健ちゃんは鍋から固まったばかりの豆腐をひと掬い竹の器に入れて、何ごともなく、ただ差し出した。
「お一ついかがですか?」
 片桐光男はまごつきながらそれを受け取り口に運んだ。少しだけ驚いた顔をしているように見えた。でも、それだけだった。ただ、その後にもそこにはたくさんの胡桃豆腐を求める人たちがいて、ただそれだけで、私達は忙しくて、幸せだった。

今作は京都は大徳寺の「泉仙」さんの胡桃豆腐と東京は江古田の「市菜」さんのできたて豆腐を勝手に参考にさせていただきました。ちなみに実際の一般的な胡桃豆腐の製法(一般的には胡桃豆腐とは葛をつかって固めたものです)とは異なりますのでご了承ください。


Entry7
Wイカフライランチ
ハマナチカラ

イカフライおかか弁当って知ってます?
これって大昔のオハナシになっちゃうのかな?
大好きだったんですよ、イカフライおかか弁当。

最後に食べたのってもう15年くらい前になっちゃうと思うんで、
中学3年生以下の人には馴染めないオハナシなんだけどね、
セブンイレブンに昔、あったのよ「イカフライおかか弁当」。
それって、どんな弁当かって?
そりゃもう神様のように崇められた弁当でしてね、
幕の内弁当の次に大きな弁当箱に、どーんとご飯が盛られ、
ライスな土地の北半球には「おかか」が敷き詰められて、
もう半分の南半球には「そぼろの玉子」が敷き詰められて
またその上にイカフライと玉ねぎのかき揚げが乗ってて、
隅っこにシバ漬けがちょこんと乗っていて、
それで怒涛の380円は、涙モノだったわけですよ。
あと70円くらい出せば焼肉弁当とか食べられるんだけど、
380円のイカフライおかか弁当にカップヌードルつけて500円。

つまり

消費税なんてなかった昭和の学生の黄金メニューだったのさっ!

いやーホント、よく食べたよイカフライおかか弁当。
たしかイカフライが3つに切られてて、メインディッシュであるそれを
どのタイミングで食べるか?ってのも課題のひとつでして。
特に溜まり場だった友人宅で
そいつとWイカフライになっちまった時なんか。

まず、炭水化物を取らなきゃなんで、おかかの乗りの少ないご飯を1口。
それで、イカフライを1切れ。
そして玉子ご飯。
それで玉ねぎのかき揚げ三分の一。
ここはね、申し合わせたようにムービングしちゃうんだけど、なぜか?
玉ねぎのかき揚げは美味しくないんだけど、味が濃いんだよね。
それで、味のない玉子ご飯とカップリングさせちゃうのが正しいの。
しかし
メインディッシュのイカフライは分厚いイカ肉の感触と
口の中でスパークするティストに比べ、
塩味のまくりが足りない。
それで、おかかご飯。
日本中に点在、もしくは群在していたおよそ99%の
イカフライおかかランチジャンキー達は、絶対にその食べ方をしていたんだ。

なぜか?

それは、その食べ方が正しいからなんだ。
礼儀・作法・テクニック。
どれを取っても申し分ないほど完成されたセレモなんだよね。

問題は次の展開。

例えば付け合わせにカップヌードルを用意したものがいたとしよう。
しかし、それは誤りだ。
イカフライおかか弁当には、赤いたぬきでなくてはならないんだ。
だから決してGreen-Foxであってはならない。
(和名:緑のきつね)
覚えておいて欲しい。
緑のきつねじゃ、かき揚げ同士、玉ねぎのかき揚げに失礼なんだ!
そして、カップヌードルを食すためにフォークに持ち換えていると、
弁当のご飯の下に水溜りが出来ちまうんだっ!

ハナシを戻そう。
ここではあくまで、イカフライおかか弁当のみを友人宅で向かい合って、
もしくはOh、Yey(和名:あ、うん)の呼吸を分かち合えるカップルが、
どのようにしてこの後の展開をすれば、
より、スマートに
より、フレンドリーに
より、楽しい食事ができるのか、という、オハナシだ。

その極意。

まず、相手の箸の動きを見るべし。
彼の箸がイカフライに動いたら、あなたはかき揚げに行くべきである。
この時、あなたは、彼ってば、動物性タンパク質に飢えているのかしら?
などと考えてはいけない。
断じていけない。
同情は攻撃に最大の足枷を着せる。
あなたの箸の間には、塩辛いけど美味しくないかき揚げに
今、挟もうとしているのだから。
その後の展開をよく考え、実行に移すべきなのだ。
雑念は無念にぶち込むのが正しい。
リメンバー・アイ・オブ・ザ・タイガーである。

つまり

3分の2が残ったかき揚げを、半分にするか、さらに3分の1にするか。

これは彼のイカフライが噛み千切られるて2度のチャンスを生むか、
それとも1口で頬張り、その快感に身を悶えさせるのか、

奥深いのである。

そして、う・・・不味いと思いながら玉子ご飯に箸を潜らせたあなたは、
もはや彼に負けたも同然、
これまでの駒の・・・もとい、箸の進め方が全て無駄になってしまう。

その時あなたは、おかかご飯を頬張り、
海と山の「少年の夏休みハーモニー」を喉の奥に通過させ、
彼に余裕の笑顔を見せるべきなのだ。
やられた!かき揚げ&おかか攻撃を序盤から見せるとは!
彼の顔色は一瞬曇り、負けじとシバ漬けに箸を伸ばすかもしれない。
そんな彼のA-クイックに、
あなたは逃げ場をさえぎられた子兎になってしまうかもしれない。


こんな時こそ、考えるんだ。
落ち着いて・・・
まだ、勝ち目はあるはずだ。
落ち着くんだジェシー。


その時、あなたはひらめくはずだ。
そうだ、その通りだ、いいぞジェシー。
弁当箱の縁についたおかかをそっと、箸でめくって舌先に運ぶのだ!

彼の目にはもはや希望の色が失せ、

やられたよ、ジェシー。僕の負けだ。

と、瞳で訴えてくるだろう。

しかし、戦いに飢えたあなたの箸は、彼にとどめを刺すこととなる。

イカフライの上に玉ねぎのかき揚げを乗せて、
そいつを箸先にそっと持ち上げ、
一寸の狂いもこぼすこともなく唇に移動させ、
洗練された身のこなしで噛み砕くのである。

天才だ、まさに天才だ。
その時、日本中に点在、もしくは群在するイカフライランチジャンキー達は
笑顔の、汗まみれのあなたに賞賛をたたえ、
今ここにスーパーエクセレント・イカフライ・キングの誕生に涙するだろう。

・・・って、そんな訳ないぢゃん。

ハナシを今日のトップにリバースして、
とりあえず、
美味しくなかった玉ねぎのかき揚げも
味のしない玉子ご飯も
肉厚のイカフライも
ところどころ味の異なるおかかご飯も
ショウガが混ざってると歓喜したシバ漬けも、

頼むよアゲイン。
復刻してくれよセブンイレブン。
あれ、ホントにそれはそれで美味かったんだってばー(悶)

つか、小説じゃないね、コレ。


Entry8
平城魔道行
ごんぱち

 ぎゃあっ、ほぎゃあっ……。
 夜更けの山中で、壮年の禅僧はふと足を止めた。
「物の怪か」
 僧は印を結び、経を呟く。
 ほんぎゃっ、んぎゃっ……。
「まさか、本物!?」
 彼は、樹の根が張り巡らされた夜更けの山中を、まるで整地された道の様に走り抜ける。
 んぎゃあ、ほんぎゃっ!
 果たして、生まれて間もない男の赤ん坊が、元気な泣き声を上げていた。
「貴族の中には跡継ぎに困っている者もあるというのに」
 産着一枚着せられていない、有り触れた間引き子。
 僧は背負っていた行李から、替えの下帯を出し、赤ん坊の身体を包む。
「すまんな坊、寺に戻ったら産着をあつらえてやるからな」
 彼の言葉が分かったのか、暖かな布の感触に安心したのか、赤ん坊は泣き止んだ。
 その時。
 周囲からは、微かな唸り声が聞こえて来た。
「功徳一つに破戒が百。まこと成仏は難しい」
 木々の間に、無数の山犬の眼光が見えた。
「いっそ魔道に堕ちて天狗になるか」
 行李に収めていた直刀を、抜き払った。

「和尚さま!」
 寺の長い廊下を少年の面影の残る僧侶が走る。
「和尚さま!」
 走る。
「和尚ぉ!」
 もっと走る。
「おしょおおおおおおおお!」
「やかましい!」
 廊下の曲がり角から出て来た初老の僧が、僧侶をひっぱたく。
「あ、そこにいた」
「騒ぐな、と何度言ったら分かるのだ、弓空」
 和尚は、眉をひそめて見せる。
「でも声は出さなきゃ届きませんよ。いくら小さい寺でも」
 弓空は不満げな顔をする。
「小さいは余計だ。本堂の掃除は終わったのか」
「はい。そりゃもうピカピカです」
「なら、出かけるぞ。今日はくれぐれも粗相のないように――いや一切、顔を出すな。些事は持然にやらせる。お前は必ず粗相をするからな」
「ひどい! わたしはいつも良かれと思ってやってるのに!」
「儂の弟の椀に蝉を入れたのはどこの誰だ?」
「またまた、そんな事にこだわっちゃいけませんよ、和尚さま。こだわりを捨てる事が空に至り輪廻から抜け出す――」
「儂に問答を振る等、五十年早いわ!」

 兄弟子の持然が香炉に香をくべると、奇妙な香りの煙が広い部屋に立ちこめていく。
(へえ、これが天皇ねぇ)
 和尚の影に潜んだ弓空は、寝床で横になっている初老の女を眺める。
(あんまり綺麗じゃないな)
 顔立ちに気品はあるが、美形ではなく、なにより病にやつれている。
 和尚の顔には、炭を縫い込んだ防毒面が着けられていた。
『腸掴みを行う。持然は薬を持て。弓空は近寄るものを追い払え』
 弓空は音もなく影から飛び出し屋根裏へ上がる。その動きの滑らかさは、蜘蛛のようだった。
 天井裏から部屋を確認していく。
 皆、香の効果で眠っていた。
(ちぇっ、拍子抜けだなぁ)
 弓空は香が焚かれてから三度目の呼吸をする。
 偵察を終えた弓空が、和尚たちのいる部屋に戻ろうとした時。
 カカッ!
 軽い音を立てて、小さな刃物が二本、柱に突き刺さった。
(やっぱりいたか!)
 弓空は、両腕を構える。
『毒をまき散らすとは、霊験あらたかな聖が聞いて呆れる!』
 暗い色の衣に身を包んだ男が、腕を後ろに廻して立っていた。口には細工のしてある布を防毒面代わりに巻いている。
(治療をお前らが理解できんから眠らせただけだろう)
 男の腕が一閃した。
 寸前まで後ろに隠れていた腕から放たれる刃は、見切る事は不可能に近い。
 しかし。
 その時既に、弓空は男の真横にいた。そして手には、男の着けていた防毒面があった。
「天狗か……お、ま……え……」
 男はその場に崩れ落ちた。
(さあ、て)
 弓空は、男から奪った防毒面を自分の口に巻き、大きく息を吸う。
『物分かりの悪い連中には、強制的に眠って貰うぜ』
 いつしか、彼は先の男と同じ装束の者達にぐるりと取り囲まれていた。

 和尚が印を結び、縫合した女の傷口に指先を触れると、痕は完全に見えなくなった。
『お疲れ様でした』
 弟子の持然が替えの衣を渡す。
『……もっと早く治療していれば』
『保って半年、これも天命でございましょう』
 ガタッ。
『弓空か?』
 どさっ。
 屋根裏から弓空が落ちてきた。身体中に傷が出来、血にまみれていた。
『どうした? お前ほどの手練が?』
 和尚が駆け寄る。
『毒血を抜いた、だけです。奴らの記憶も、きちんと、消しました』

 夜の山道を、和尚と弓空たちが歩く。
「――少し、休もう」
 和尚が足を止め、樹の根に腰を下ろす。
 この数カ月で、ぐっと老け込んでいた。
「どうぞ、師匠」
 持然が竹の水筒を手渡す。
「ああ、ありがとう、持然」
 一口水を飲んでから、和尚は夜空を見上げる。
 星空に、針のように細い月が浮かんでいた。
「天皇が崩御してからわずか半月で、流罪か」
 和尚が小さく笑う。
「まあいい、生きていれば何者にでもなれる」
「――和尚さま、そろそろ発ちましょう」
 少しして、弓空が声をかけた。
 ところが、和尚はうつむいたまま寝息を立てている。
「弓空、負ぶって差し上げろ」
「ああ」
 弓空が和尚を背負い、一行は出発した。
(おれが犬に襲われたのは、こんな所だったんだろうか)
 ふと、そんな事を考えていた。
(だとしたら、立場が逆転だな)
 僅かな重みを感じながら、彼は歩く。
「なあ持然兄、鞍馬を抜けたらどこへ行く?」
 弓空は後ろを歩く持然に尋ねた時。
 腹から、何かが出ていた。
 おぼろげな月明かりを反射するそれが、刀身である事に気付くまでにはずいぶんと長い時間が必要だった。
 じわりと熱と痛みが腹からこみ上げる。
「……持然?」
「和尚の首を喜ぶ貴族たちは、少なくない」
「おまえ、は……」
 和尚もろとも貫かれていた。
「お前が損得勘定の出来そうな奴なら計画に乗せてやったし、ずっと弱ければ殺さず放っておいたんだがな」
 短刀の輝きが、弓空の人生最後に見たものだった。

 弓空は目を開いた。
 夕焼けに染まる山の中だった。
(ここはどこだ? 夢だったのか?)
 身体が軽い。
 このまま飛べそうなほど。
 ばさっ。
 後ろから羽ばたきが聞こえた。
 次の瞬間、弓空は空に浮かんでいた。
「羽根――天狗?」
 天狗。
 輪廻転生から抜け出す二つの道のうちの一つ、魔道に生きるもの。法力を持ちながら悟りに至らなかった僧の成れの果て。
 高く空に昇る。
 修験術の浮遊を行うだけで、何億倍も高く飛べた。全ての法力、修験力が信じられないほど増大していた。
 少し目を凝らしただけで、空のかなたまで見えた。
(ん? やけに京が二つ――いや一つは廃虚だ)
 日が暮れ、闇が訪れる。
 無数の星が夜空を彩る。
 目を凝らすと、星の光の一つ一つの廻りに、小さな粒のようなものが廻っていた。
 地面に目を向ければ、地の中まで見えた。
 だが。
「和尚様……」
 ぽつりと呟く。
「仏にしてみれば、悟らずに永遠に己のままである天狗は、最悪の苦しみに見えるだろう」
 にやりと笑う。
「上等だ。和尚様が転生するまで、己のまま、何億年でも、何兆年でも待ちましょう。また一緒に、贅沢三昧で暮らしましょう」
 星々は、いつもと変わらぬ風に輝いていた。
「さあて、何をして待とうかなぁ」

 まだ幼い少年が憎しみに満ちた表情で、木刀を振り樹を叩く。
「坊、そんなに樹を苛めるな」
 どこからともなく声がした。
「何者だ!? 物の怪か? 姿を現せ!」
 少年の目の前に、男が現れた。
「誰だ!」
「礼儀を知らん坊だな」

 ――鞍馬山には天狗が棲むという。
 名を僧正坊。霊験あらたかな大天狗である。


Entry9
その歌の続きを
Ruima

 マンションの隣の部屋からは、いつも同じ歌が聞こえていた。


『……長い間 夢を見ていた』
「あ、今日も歌ってる」
 明るく澄んだメロディ、落ち着いたスローテンポ。
 題名は知らない。だけど、歌好きのお隣さんと薄い壁のおかげですっかり聞きなれた曲。歌詞を聞く限りは女性シンガーの歌のようだけれども、ハスキーな声の彼が歌っても、不思議と全く不自然ではない。
『眠りの国で 王子様を待っていた』
 思わず続きを共に口ずさむ。こぼれ出た程度の小さな声だから、きっと壁の向こうには届かない。下手な歌を聞かれても恥ずかしいだけだし、その方がいい。隣の彼も、自分の歌声がこんなにもはっきりとうちまで聞こえているとは思ってもいないのだろう。もっとも、彼の歌はとても上手で、音痴な私とは比べるのもおこがましいのだけれど。
 起きたばかりで寝ぼけ気味の頭の中に、綺麗な歌は、すんなり入り込んでくる。
『何をしていても
 目の前に誰がいても
 私の心は眠っていて ここにはいなかった』

 このお隣さんについて、私はほとんど何も知らない。知っているのは壁越しの歌声と、「浅月 隆」という名前だけ。一人暮らし。声から推定するに、若い男性。
 アパートに住み始めたのは私の方が先だ。二ヶ月前、仕事から帰宅すると、朝までは無人だった隣の部屋に表札が入っていた。それから、うちのドアの前に小さな包み。『隣に引っ越してきました浅月です。ご挨拶代わりに田舎の名産品、みかんジャムです。よろしければどうぞ』、そんな手紙が添えられていた。すぐにお礼をとチャイムを鳴らしたものの、留守だった。どうやら向こうは、私の帰宅前に外出し、朝っぱら帰ってくる、という生活をおくっているらしい。だから、歌を聞けるのも、この朝の僅かな時間だけ。そしてこんな時間に訪ねるわけにもいかないから、私はいまだに彼の姿を見たことがない。
 けれども、たった一つ、覚える確信。彼は絶対に、悪い人じゃない。だって、こんなにも優しく歌を歌う人だもの。

『そこは優しいから そこは暖かいから
 そこは傷つかずにすむから
 夢の中に私はいすぎてしまった
 だけど もうここにはいられない』

 そこで唐突に、ぴたりと歌がやむ。けれども驚きはしなかった。やっぱり、今日も。お隣さんは、何故かまだ一度もこの先を歌ったことがない。メロディからしても、必ず続きはあるはずなのに。いつも必ず、ここで途切れてしまう歌。
 綺麗な歌だから。それに、ストーリー性を持った歌詞だから。私は彼が越してからの一年間近く、ずっと続きを待っている。友人に尋ねれば、もしかしたら一人くらい曲名を知っているかもしれない。だけど、私は彼による「続き」を聞きたかった。彼の声で、聞かせてほしかった。
 ずっと眠り続けていた(いる?)「私」。その姿が、なんとなく他人事には思えなくて。居場所を失った彼女は、いられない、と言う彼女は、どうなってしまったのだろう? どこへ行ってしまったのだろうか?

 そして歌は、はじめから繰り返される。



 そんなある日、別れた恋人の夢を見た。同い年で、いつも馬鹿騒ぎしては一緒に笑った。何をしても楽しかった、そんな頃の夢。現実で最後に見た彼は、年甲斐もなく泣き出しそうな顔をしていたけれど、夢に見るのはいつだって眩しい笑顔。私の、一番好きだった表情だ。
 目覚めてからも、残る余韻。そして、その夢が現実ではなくなってしまった喪失感。もう、数ヶ月前のことなのに。
 それらの感情を断ち切るようにベッドから身を起こした途端。不意に、隣から壁を通して甲高い女性の声が響いてきた。
『私達、もう駄目だよ!』
 目覚ましを解除しようとしていた手が思わず止まる。朝早くに家にいる女性。おそらく、彼女。そしてこれは、いわゆる修羅場というやつで。
『待てってば! どうして突然そんなこと言うんだよ』
『誤魔化さないでよ。隆だって気づいてるくせに』
『何にだよ?』
『私、隆のこと好きだよ。他の誰といる時より安らぐし、一緒にいて楽しい』
『じゃあいいじゃないか。何が駄目なんだよ!』
『でも、これは恋じゃないんだよ』
 ああ、どこかで聞いた台詞。
 デジャ・ヴ。……そう、数ヶ月前の私達だ。
 居心地が良かったから、お互い気付かない振りをしていた。何かが違う、僅かな惑いを胸の奥に押し込めて、私達は笑い合った。私は彼が好きだったし、彼も私を好きでいてくれた。終わってしまった今だって、それだけは自信を持って断言できる。だけど、その関係に終止符を打ったのも、やはり彼の優しさだったのだと思う。真面目で誠実な人だったから、偽ることも妥協することもできなかったのだろう。
 きっと、隣の二人も同じなのだ。彼と彼女はお互いが大好きで。
 それでも。いや、だからこそ。
『さようなら』
 ガチャン、ドアの開閉。遠のく足音。続く静寂。

 しばらくして、微かに聞こえてきたいつものフレーズ。
『……夢の中に私はいすぎてしまった
 だけど もうここにはいられない』
 今日もやはり同じ所で途切れる歌。いつもより弱々しい、少しかすれた声を通して、彼の痛みが伝わってくる。開いたばかりの彼の傷。今だ癒えない私の傷。夢から起こされた彼。別れた恋人を夢見続ける私。そして、夢から出て行く決意をした歌の中の「私」。
 彼の歌が傷に染みて、心が痛い。涙がこぼれる。同調する感情。置いてきぼりにされた私達の先、抜け出した「私」。彼女もまた、悲しみにくれるだけなのだろうか。
 どうしようもない気分だった。耐えられず、私は衝動的に、彼との間を隔てる壁を思い切り叩きつけていた。
「ねえ、続き、歌って!」
 それは、私が初めて彼へと投げかけた声だった。怒鳴るように、泣き叫ぶように、私は続けた。
「お願いだから、聞かせてよ……!」
 一気に叫んで息をつく。体から力が抜ける。私は壁にもたれかけたままずるずると、崩れ落ちるように床に座った。止まらない嗚咽が苦しい。乱れた呼吸を整えながら、私はじっと耳をすました。隣からは、何も聞こえてこない。無音。
 そして。どれだけの間、そのままじっとしていただろう。長く重い沈黙の後、静かに、だけど確かに届いた壁越しの歌声。

『ここでは何も生まれない ただ優しい夢を見るだけ
 だから もう 行かなくちゃ
 気づいたのだから 目を開けなくちゃ』

 はっとした。再び溢れてくる、さっきとは違う熱い涙を、慌てて手の甲で拭う。
 そう、大切なのは夢ではなく。夢は時に幸せを、時に元気をくれるけど、見てるだけでは何も生み出さない。眠りの国で夢を見るのはもうやめだ。だって私は、この現実で生きている。
 気づいたのだから、目覚めなくちゃ。
 気づいたのだから、行かなくちゃ。
 上手く回らない頭のまま、冷蔵庫に駆け寄る。昨日の帰りに買ってきた、私の好きなお菓子屋さんのフルーツゼリー。味も確かめずとにかく二つ掴み取り、玄関を飛び出す。すぐにサンダルが左右違うのに気付いたけれど、戻る間がもどかしい。いいや、どうせ隣りだ。
 その間もBGMのように、流れ続ける穏やかなメロディ。あの頃のようには笑えないけれど、もう私は夢を見ない。彼も一人で歌う必要はない。だって、この歌はこんなにも優しい。

 チャイムを鳴らすと、ドア越しに近づいてくる綺麗な歌声。
 扉を開けながら、彼は最後のフレーズを歌いきる。壁越しでない、彼の歌。

「おはよう」


Entry10
シスターストロベリー
るるるぶ☆どっぐちゃん

「だから絶対おかしいだろそれ。超持ち辛いだろ? 普通だったら絶対そう持た無いよ。何なんだよそれは一体。おかしいよ。100%おかしいよ」
「先生。100%おかしいとか、そういう言い方はちょっと考え物だぜ。だって考えて見てよ。100%おかしい筈なのに、僕は実際こうやって持ってしまっている。それだけで色々と矛盾が生じてくるじゃないか。そもそも100%とかそういう言い方は」
「何言っているのか解らん。もっと解りやすく話せ紛らわしい言葉を使わないで簡潔に」
「ええ、ああ、そうだな。じゃあ先生。ちょっとフォークボールを投げてみてくれないか」
「何でフォークボールが出て来るんだ? おいおい、ちょっと待て。まさかそれでバッティングでもしようって気じゃあ無いだろうな」
「そのつもりだよ」
「それはまた素敵な提案だな。バッティングときたか。だけどな、今はそうじゃあ無いんだよ」
「フォーク、投げられないの?」
「投げられるよ。でも今はそういう問題じゃ無いんだ」
「投げられないんだ」
「投げられるって言ってるだろ。ちゃんと話を聞けよ」
「投げられないんだね」
「オーケー。投げてやるよ」
 先生はそう仰られると白衣を脱ぎ、腕をぐるぐると回しました。
「良いか。一球だけだぞ」
「さあ来い」
 先生はその細身に似合わない豪快なフォームで振りかぶります。あまりに豪快過ぎて多少バランスを崩しておられますが、それにより何て言うか、危うい緊張感が伝わってきます。
「凄いねマニャちゃん」
 とあたし。
「凄いねカニャちゃん」
 とマニャちゃん。
「ごぅ」
 気合いと共に放たれるフォーク。しかし。
 パカン。
「ホームラン、かな」
 白球の行方を眺めるヨーイチ。ヨーイチの持っているバット代わりのギターが、がああん、と響いています。構成音はF#B#C#E。どうやらF#セブンスの形にヨーイチは握っていたようです。
「意外と落ちるね先生のフォーク」
 ヨーイチはそう言うと何かメモを取り始めました。
「もう一球だ」
「え?」
「もう一球勝負だって言ってるんだ」
「でも一球勝負じゃ」
「うるさい。ていうか今のはちょっと油断したんだ。今度が本当の勝負だ」
「ていうか先生。勝負とかじゃ無くてさ」
「良いから構えろ」
「良いけど」
「よし、行くぞ」
 パカン。
「ぬがああ」
「凄いなあ、さっきよりも落ちてたよ」
「もう一球だ」
「良いよ、どんどん来て」
「行くぞ。今度こそ本気だ。本気で投げるからな。今度こそ勝負だ」
 ぶん。
「よっしゃあ」
 先生はヨーイチを空振りに斬って獲りました。先生やった!
「先生」
「なんだ」
「ずるいよ。フォークと見せかけてスライダーだなんて」
「え。ああ」
「フォーク、って言っただろう僕は」
「いや、ていうかフォークだったよ」
「握りからして明らかに曲げてきてたじゃ」
「うるさいな。ていうかギターは野球やるものじゃないだろ。野球はお終いだ」
「先生」
「野球はお終い」
「ちぇ」
 ヨーイチはそう言うと、また何かをメモして、ギターを降ろしました。
「お疲れ様でした先生」
 とあたし。
「ずるいよカニャちゃん。あたしだって先生のお汗拭いてあげたいのに」
「喧嘩するな。お前達は双子なんだから」
「カニャちゃんカニャちゃん」
「マニャちゃんマニャちゃん」
「ほら、暴れるな。言うことを聞け。お前達は何だ? 言ってみろ」
「双子です」
 とあたし。
「双子です」
 とマニャちゃん。
「うむ。お前達の役割は何だ? 言って見ろ」
「双子です」
 とあたし。
「双子です」
 とマニャちゃん。
「そうだ。お前達は双子なんだ。双子として作られたんだ。だから仲良くするんだ。良いな」
「解りました」
 とあたし。
「お前達は双子ロボットなんだからな」
「解りました」
 とカニャちゃん。
「ふう。それにしてもなかなか順調にはいかないな」
 先生は呟くようにそう仰られると、ソファに座りました。
「先生、お疲れのようですね」
「そうかもしれないね」
 ふう、とため息をつく先生。
「なかなかうまくいかないよ。ギターロボットを作ったのに、ギターを弾かないで、ギターで打ってばかりいる。素振りばっかりしている」
「そうですね。ヨーイチは野球が好きですね」
「あたしも野球好きだよ」
 とマニャちゃん。
「マニャちゃんはルール知らないじゃない」
「でも好きよ。だってなんだかおかしいんだもの彼らの動きが」
「おかしいかな」
 とあたし。
「ストリッパーロボを作ったのに全く脱ぎたがらない。駄目、恥ずかしい、見ないで。おいおい、何なんだよそれは。何で泣き出すんだ全く」
「何だかそう言われた方があたしはドキドキしちゃいますけど」
「それに涙を流すロボットなんて、珍しいですね」
「お前達は気楽で良いね」
 先生はそんなあたし達を見て、何処か遠くでも見るような眼差しで微笑みました。
「お前達は本当に自由で良いね」
「そんな」
「先生、ヨーイチがまた暴れてる」
「くそ、またか。ヨーイチ、振るな。歌え。歌うんだ」
 先生はソファから立ち上がり、早足でヨーイチの元に向かいました。
「俺、甲子園目指すよ。そして大リーグ」
「頼むから止めてくれ」
「大変そうね先生は」
 とあたし。
「そうね。ご飯でも作ろうか」
 とマニャちゃん。
「そうね。そうしましょう」
 二人で揃って台所へ向かいます。
「今日は何にしましょうね」
 と冷蔵庫チェック。
「ああ、カニャちゃん見て」
「ひゃあ、マニャちゃん」
「お魚しか無いわ」
「どうしよう、あたしお魚なんて捌けない」
「あたしだって捌けないわ」
「マニャちゃん捌いてよ」
「無理よう、カニャちゃん捌いてえ」
「あたし無理よう」
「あたしだって無理よう」
「えーん、どうしよう」
「えーん、マニャちゃーん」
「カニャちゃーん」
「仕様が無いな」
「あっ」
 振り向くとそこには先生が、ヨーイチを連れて立っていました。
「貸して御覧。私がやるよ」
「先生有り難う」
 とあたし。
「先生有り難う」
 とカニャちゃん。
「ほら、くっつくな。危ないよ」
「先生好き」
「優しくて好き」
 先生は見事な包丁捌きを見せ、お魚をどんどん切り分けていきます。
「すごーい」
「すごーい」
「もう六枚おろしくらいにはなったのかな」
 とヨーイチ。
「先生は完璧ね」
 とあたし。
「頭も良くて、美形で、優しくて、料理も出来て」
「本当に完璧」
「俺達なんて、必要無いように思えるくらい完璧だね」
 とヨーイチ。
「そうね、本当にそうだわ」
 とカニャちゃん。
 あたしは何も言わずにいました。
「お前達は気楽で良いね」
 先生は笑いました。
「ねえ先生」
「なんだい」
「先生は、いつも完璧なロボットを、って仰ってますけれど、完璧なロボット、ってどんなロボットなんでしょう」
「良い質問だね」
「あたし想像出来ません、先生より完璧なものなんて」
「随分買いかぶられたね」
「先生」
「私を殺せるくらいになったら完璧かな」
 先生はさらりと、本当にさらりとそう仰られました。
「先生はとても優しい人だね」
 ヨーイチが言いました。そして椅子に腰掛け、ギターに手をかけます。
「本当に優しい人だよ」
「無理だわ殺すなんて」
 とあたし。
「うん無理ね。あたし達は、あたし達はとても優しい先生を」
 とカニャちゃん。
「うん、あたし達の先生を」
「とても愛しているもの」
 ヨーイチのギターと共に、あたし達はそう言いました。
「ははは」
 先生は笑われました。
「お前達は気楽で良いね。そして自由で」
 何処か遠くを見ながら、笑われました。