第31回3000字小説バトル
 感想票〆切り7月末日

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 エントリ 作者 作品名 文字行数 得票なるか!? ★
 1 鈴矢大門  雨天限定  3003   
 2 青野 岬  送り梅雨  3000   
 3 伊勢 湊  のぶさん  3000   
 4 立花 聡  友達以上、つまりは親友  2998   
 5 ごんぱち  胃の中の蛙  3000   
 6 橘内 潤  『Libera ME』  2995   
 7 るるるぶ☆どっぐちゃん  ミラーボーイ ミラーガール  3000   

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Entry1
雨天限定
鈴矢大門



 滝のように雨が流れていく。今日の天気予報は晴れのち曇りだったはずなのにこいつはどうしたことだろう。僕は店の軒先で天を仰いだ。雨宿りをし始めてからもう小一時間程経っている。眼前の道を歩く人はなく、雲に夕闇が加えられて徐々に景色から色が消えていくのがわかる。天気予報なんてもう信じない。今までだって傘を持っていけば晴れ、やめれば降り、とにかく僕の裏を書くことに必死の天気は僕の信じる天気予報をことごとく外してくれる。将来は絶対外に出ない職業についてやる。……ん? 足音がする。僕はもはや向かいの店の看板さえ見えないほどの雨のカーテンの中を透かし見るように目を凝らしてみた。徐々に姿が現れてくる。女の人だ。この雨の中傘もささずに猛ダッシュでこちらに向かっている。その女の人は真っ黒いスーツを雨でぐしょぐしょにしながら僕の隣に恐ろしい勢いで突っ込んでくる。ああっ、やばい、ぬれる、せっかく乾いたのに。そんなことを考える僕にお構いなしに、女の人はジャっという音をたてて僕の学ランの右半身をぬらした。
「ああっ、ごめんなさい!」    
「あ、いえ…。大丈夫です…。」
「ホントごめんなさい! 急いでたもんだから…。ハンカチかなんかを貸してあげたいんだけど、ご覧の通りびしょびしょで…。」
「本当に大丈夫ですから。気にしないでください。ハンカチならありますし…、あ、使います?」
「ええっと、借りても良いですか? ありがとうね。あーあ、ついてないわー、今日は。」
「どうぞ。」
 僕は、ハンカチを渡すと全身を拭きだし、さらには上着を脱いで絞って水を出すという荒業に出た彼女をぼんやりと見た。きれいな長い黒髪は今はぬれてしまって顔にへばりついており、抜けるような白さの肌は化粧をしていないのか、流れた跡もなく、うっすら光を放っている。そこまで観察してから、ようやく黒と白のコントラストが僕の目を射た。とてもきれいな人だなあ、と、やっと思った。
「あなたも天気予報にだまされたのかしら?」
「え? ああ、はい。今日は曇りって言ってたから。」
「そうよね、そう言ってたのに。全く、気象庁に文句言わなくちゃ。あたし、よくだまされるから。」
「はは、まあ、自分で選んだことだし、仕方ないかなあ。」
「高校生の癖に妙に悟ったこと言うわね…。でも、ま、その通りなんだけど。うーん、やむかしらねえ。」
「どうでしょうかね。やんでくれないと家に帰れないですねえ。」
「そうね。でもボーっとしてても仕方がないし。お祈りでもしましょうか。」
「何をですか?」
「雨がやみますように。」
「ああ。そんなことで雨がやむのかなあ?」
「何事も挑戦よ。じゃあいくわよう………。」
 雨はやまなかった。それから少なくとも一時間は振り続けた。ようやくやむ頃には辺りはもう真っ暗で、彼女の顔さえ見えなかったが、白い額がぼうっと周りから切り離されたように光っていたので、どこにいるかはわかったけど。その一時間の間、僕らは意味のない世間話やちょっとしたプライベートな話題なんかに興じた。そして、雨がやんで、家に帰り始めてから数分して、お互い名前も言っていなかったということに気がついて、少しだけあきれた。彼女は十八歳で、今年から大学一年だそうだ。今日はアルバイトの面接が会ったそうで、わざわざ出してきたスーツが台無しだとぼやいていた。まあ、大して重要なこともない、ただの雨宿りの話である。
 それから、僕は名無しの彼女にたびたび会った。それはいつも雨の日で、僕らはそのたびに天気予報にだまされていて、雨宿りをした。僕らは少しずつ仲良くなり、結構込み入った話でも雨宿りがてらするようになっていった。でも、名前は知らないままだった。知っても、大して意味がないから、だと思う。雨の日だけ出会う、お話好きな不思議な彼女。雨の日がやって来るたび、彼女の情報が増えていく。
 やがて一年が過ぎた。初めて彼女に出会ったときにはまだ高校三年生だった僕は大学生になった。そして今、晴れている今日、大学の構内で、僕は彼女の前にいる。
「晴れの日に会うなんて珍しいわ。今日は雨が降るんじゃない?」
「うん、実はそのことで、言いたいことがあるんだ。」
「うん、なあに?」
「どうして僕らはいつも雨の日にしか会わなかったかわかる?」
「………。どうして?」
「そんなによく会うのなら晴れの日にも会うはずだ。でも会わなかった。何でだと思う?」
「うーん…。」
「言っても良いかな?」
「どうぞ。」
ここで、僕はひとつ呼吸を置いた。そして、告げる。
「僕はあなたのことが好きだ。初めて会った日に見たときから、多分、ずっと。黒い髪と白い肌がきれいで、でもきれいなくせに妙に突拍子もないことをしたりするそのギャップがすごく面白くて。不思議で不思議でたまらなかった。だから僕は雨の日にはいつもあなたのことを探した。どうしてもまた会いたかったから。前に話したときに天気予報にだまされることが多いって言ってたから。会えたらいい、と思って…。」
「ふうん……。そうなんだ。じゃあ、あたしも言って良いかな?」
「何を?」
「初めて会った日、ホントはアルバイトの面接なんてなかったのよね。わざわざスーツ着て、傘も持たずに家を出て、一日中君を探してたの。なんでだろう。わかるかな?」
「……。」
「あたしは君がしょっちゅう天気予報にだまされてるのを知ってたのよ、高校のときから。あたしの高校は君の高校のそばにあったんだけどね。よくびしょびしょで走ってる君の事を見てた。早く帰らないとどんどんぬれるのに律儀に信号で止まったり犬におびえたりしながら走ってるところをもう何度も見たわ。君のことが頭の中にへばりついて取れなくなるくらいになるまで何度も見た。大学になって君に会えなくなってしばらく経って。でも会いたかったから、あの日から何とかして君に会えるようにがんばろうと思ったの。ちなみにスーツは誓いの証。で、見事的中。すごくない、これって。」
「………てことは…」
「お互いがお互いのストーカーって事ね。でも、こんだけ純粋な愛はもう見つからないんじゃないかしら? あたしたちはお互いに相手の事を見続けてたみたいだし。こんな純愛、いまどき流行らないわよ。」
「うん、多分。僕、普段は運命って言葉なんか笑い飛ばすほうなんだけど、こいつを見逃しちゃあ、運命に悪い気がする。あなたも、そう思うだろう?」
「もちろんじゃない。あたしのほうがキャリアは長いんだから。」
「そうだね。それじゃあ、いこうか。」
「そうね、たまには晴れの日のデートもいいわね。」
「あ、ところで、名前教えてよ。」
「ああ、あたしの名前は霧島雪歌、キリシマユキカよ。」
「僕の名前は鈴矢霞、スズヤカスミだ。これからよろしくね。」
「ふふっ。」
「どうしたの?」
「あたしたちの名前、雨だらけね。」
「ホントだ。霧と雪と霞か。雨ばっかりだね。」
「よほど雨と縁が深いのかしら。」
「そうかも。会う日はいつも雨だったし。ね、ところで今日はどこに行く? せっかく晴れてるんだから。」
「うん、そうねえ、大学散歩は? 案内してあげる。」
「初めてのデートで散歩ぉ? うーん…、あ」
「どうしたの?」    
「雨。降ってきたみたいだ。」
「あーあ。あたしたち、ほんとに雨だらけね。」
「じゃあ、これからデートは全部屋内にしようよ。雨天限定のデートはもう卒業だ。」
「いいわね、それ。」



Entry2
送り梅雨
青野 岬



 雨季特有の蒸し暑い曇り空の下、私は待ち合わせ場所を目指してハンカチで汗を拭き拭き歩いている。毎月、第三日曜日の午後は娘とデートすることになっているからだ。
 私達夫婦は三年前、娘が小学五年生のときに離婚した。こうして月に一度、離ればなれになってしまった娘と会うことは、別れるときに妻が強く希望したことだった。『夫婦は別れれば他人だけれど、親子の縁は一生切れない』というのがその理由らしい。
 待ち合わせ場所である大きな噴水の前には、わずかな涼を求めてたくさんの人々が集っていた。携帯電話の画面を食い入るように見つめる金髪の若者、他人のことなど視界から消えてしまっているカップル、疲れてうたた寝してしまっている中年男性……。
 ひとり暮らしをするようになって外食が増えたせいか、腹回りを中心に贅肉が気になるようになって来た。優雅な独身貴族を気取りたいところだけれど、実際は仕事と溜まった日々の雑用をこなすので精一杯の毎日だ。
 私は小さなため息をひとつつくと噴水の縁に腰掛けて、流れ落ちる汗をもう一度拭った。
「パパ、おまたせ」
 背後から声を掛けられて振り向くと、そこには息を切らしながら微笑む娘の姿があった。
「梨花か……なんだ、走って来たのか」
「うん、今日は部活だったから。えっと十分の遅刻だね」
 娘はすらりと伸びた長い腕を自分の顔の前に差し出して、時計を見ながら早口でそう言った。
「部活は、硬式テニスだっけ?忙しそうだな」
「もうすぐ試合なんだ。私も今年は選手に選ばれちゃったから、もう毎日大変だよぉ」
 そう言って唇をツンと尖らせる娘の、小麦色に焼けた肌が眩しい。
 娘の長身と運動神経の良さは、母親ゆずりだ。どちらかと言うと文系で、本を読んだり映画を観たりするのが好きな私の遺伝子ではない。そう、そんな私達が結婚すること自体に、最初から無理があったのかもしれない。今さら何を言ったところで、どうしようもないことだけれど。
「二時十五分か……。さて今日はこれからどうしようか。久しぶりに遊園地でも行くか?」
「それがねパパ。悪いんだけど、今日は早めに帰りたいんだ」
「どうした?誰かと約束でもあるのか」
「友達と待ち合わせて、新しいラケットを見に行くことになってるの」
「そうか……わかった」
「うん、ごめんね」
 娘は特に悪びれた風もなく、淡々とした表情のまま私に告げた。娘には娘の生活があり時間があるのだから、それは仕方のないことだと思う。月に一度のこの逢瀬も、娘にとってはそろそろ重荷になって来ているのかもしれない。でも、それを直接娘に確認するのは、もう少し先延ばしにしたい気がした。
「じゃあ、何か冷たいものでも飲むか。汗かいただろう」
「さんせい!」
 子犬のように小さく何度も飛び跳ねながら無邪気に笑う娘を、今はまだ手放したくない。 
 私はゆっくり立ち上がると、娘と肩を並べて歩き始めた。隣を歩く娘の背丈は、もうすぐ私に追い付きそうだ。部活の決まりなのか、短く切り揃えられた髪から覗く首筋のラインが瑞々しい。まだ研摩されていない『女の原形』が、娘の中にもたしかに存在している。
 少し歩くと、またすぐに汗が吹き出して来た。蒸し蒸しとした空気が体にまとわりつき、どんよりとした雲が重く低くたれ込めている。
 私達は白とブルーを基調としたお洒落なカフェテラスで休憩することにして、入り口にあるガラスの扉を開けた。娘と一緒でなければ、まず足を踏み入れることの無いタイプの店だと思う。若い女性客が中心の店内は隅々まで冷房が効いていて、汗をかいた体に心地いい。私達はウェイトレスに案内されて、一番テラス側の席に着いた。
「梨花は何にする?好きなのを頼んでいいんだぞ」
「うーん、そうだなぁ……じゃあ、これ!」
 娘がそう言いながら指差したのは、色とりどりのフルーツやアイスクリームで飾られた大きなパフェだった。会うたびにどんどん大人っぽく変わってゆく娘が見せた幼さに、思わず安堵してしまう自分が可笑しかった。
「お母さんは元気か?」
「相変わらずだよ。毎日、仕事だカルチャーだって飛び回ってる」
「お母さんらしいな」
 それだけ話すと、後はもう話すことは何も思い浮かばない。それは娘も同じなのか、さっきから忙しそうに携帯電話から友達にメールを送るのに夢中になっている。
「夏休みは、どうするんだ?また松江のおばあちゃんとこか」
「うん、それと沖縄行くの。お母さんと、杉山さんと三人で」
「杉山さんって誰だ?」
 私の問いかけに、娘はメールを打つ指を止めて顔を上げた。
「……もしかしてお父さん、お母さんから何も聞いてないの?」
 みるみるうちに、娘の表情に戸惑いの色が浮かぶ。
「お母さん、再婚するんだよ……同じ職場の杉山さん、って人と」
「……そうか」
 そのまま娘はうつむいてしまい、目の前に置かれた豪勢なパフェに手をつけようとはしなかった。気まずい空気が、私達に重くのしかかる。私は運ばれて来たアイスコーヒーを飲みながら、自分の軽率な質問を悔いた。
 ふいに窓を打つ雨の音で、私は我に返り窓の外を見た。次の瞬間、鉛色の空に閃光が走り、大きな雷鳴が響く。大粒の雨はすぐにバケツをひっくり返したような豪雨になり、道行く人々が雨を凌げる場所を探して走り回っているのが見えた。
「送り梅雨、だな」
「えっ」
 娘が顔を上げた。少し驚いたその表情は、若い頃の妻に驚くほどよく似ている。妻も昔は、表情豊かな快活な女性だった。お互いに噛み合わない窮屈な結婚生活の中で少しずつその輝きを奪っていたことを思うと、いたたまれない気持ちになる。
「送り梅雨ってのはな、梅雨の終わりに降る大雨のことだよ。この雨が止んだら梅雨が明けて、本格的な夏が来る」
「送り梅雨、かぁ……」
 離婚という結末を迎えて、私達家族は崩壊した。そんな大人同士の事情の中で苦しみ、不条理な傷を受け入れるために葛藤している娘の姿を目の当たりにして、私は喉の奥が苦しくなった。
「ほら、早く食べないとパフェが溶けるぞ。パパのことは気にしなくていいから食べなさい」
「うん……」
 鼻を赤くした娘は照れくさそうに笑うと、柄の長いスプーンを手に取って自分の顔ほどもある大きなパフェを食べ始めた。子供らしい無邪気さを残しながらも、私の気持ちを気遣うくらいに、娘は大人になっていた。
 白い梨の花の咲く頃に生まれた梨花。お転婆で、男の子と走り回っては生傷がたえなかった梨花。ピアノが嫌いで、泣きながら発表会に出た梨花。母親に叱られると、こっそり私に助けを求めに来た梨花。笑顔がとびきり可愛い梨花……愛おしい、この世でたったひとりの私の娘。
 私はかいてもいない汗を拭うふりをして、ハンカチで目頭をそっと押さえた。

「パパは、再婚しないの?」
「そうだな……いいひとがいたらな」
 私は娘のために微笑んで、再び窓の外に目をやった。雨は小降りになり、西の空には雲の切れ目から青空が覗いている。
「ほら梨花。早く食べないと、友達との待ち合わせに遅れるぞ」
「あ、いっけない」
 娘はさっきまでの泣き顔がまるで嘘のように、アイスクリームの冷たさと甘さに顔をほころばせた。この雨が止んだら、娘を外の世界に快く送り出してあげようと思う。私は小さく頷いて、グラスに残っていたアイスコーヒーを一気に飲み干した。
 
 何もかもが煌めく熱い夏は、もうすぐそこまで来ている。




Entry3
のぶさん
伊勢 湊



 あの頃、僕たちはのぶさんのことをインジャンのぶと呼んでいて、変わったおじちゃんだったけど、みんなのぶさんのことが嫌いじゃなかった。小学校が終わってからの帰り道、のぶさんはいつも川でシジミを獲っていて僕たちが寄って行くと一緒に小魚や川エビを捕まえて遊んだ。シジミ以外に獲ったものはそのままのぶさんの晩御飯になった。のぶさんには家がなくて川べりの使われていないボートにトタンで屋根をつけて寝泊りしていた。いつもいつもニコニコ笑っていて、どんなに遠くからでも僕たちを見つけると手を振ってくれる。そんなのぶさんを、僕たちは好んで由な暮らしをしているんだと思っていた。

 のぶさんが川から姿を消したのは、僕が中学二年のときだった。白内障を起こしていたのだという。ふらふらと道に飛び出したのぶさんは軽トラにぶつかった。怪我自体はたいしたことなかったが、その一件がきっかけとなりのぶさんは施設に入ることになった。そのとき初めて養護施設で働く父さんからのぶさんが知的障害者だということを聞いた。この町に生まれたときから障害があり、障害者手帳も持っているのだという。若い頃に父親が漁の途中で波に飲まれて行方不明になり、程なくして母親もどこかへいなくなってしまった。それ以来、ずっとのぶさんは一人川でシジミを獲って暮らしてきたのだという。のぶさんにはずっと前から施設に入らないかという提案はしてきていたらしいが、なぜそれをずっと断ってきたのか、そしてなぜ今回受け入れたのか、本当のところは良く分からない。
「断ってきた理由はようわからんけど、のぶさんも今回の事故で気が付いたのかもしれんなぁ」
 ナイターを見ながら手酌でビールを注ぐ父さんが言う。
「なにに?」
「なににて、なんちゅうか疲れとか、不安とか、そういうもんやな。おまえに分かれ言うのは無理やろうけど」
「なんや、子ども扱いしおってからに」
 しかし、それ以上は聞きはしなかった。確かに実感として僕にそんなことは分からなかった。

  お盆になると入園者の人たちは家に戻りしばらく家族と一緒に過ごす。日頃は面倒が見切れなく仕方なしに施設に預けている家族もお盆のような長めの休みにはほとんどが迎えに来て久しぶりの再開を果たす。
しかしそんなお盆の間でも施設に残る人もいる。様々な理由で帰る場所がない人たちだ。そんな人たちを父さんは家に連れてくる。それで特に何をするというわけではない。ただ一緒にテレビを見て喋ったり、スイカを食べたり、将棋を指したりする。
 ある日、父さんと母さんが晩飯の材料を買いにみんなで買い物に行くというので僕とのぶさんが留守番をすることになった。あんまり暑いので縁側で二人してバケツに水を張って足を付けているとのぶさんがタバコを差し出してきた。悪びれた様子もない。たぶんそれがいけないこととは知らないのだろう。僕はそれを受け取った。ライターを借りてみようみまねで火をつける。むせるような煙が喉元でくすぶり僕はすぐに煙を吐き出した。濃い煙が中空に舞う。のぶさんはゆっくりとそれを吸い込み、吐き出した煙に青い空がそのままの色で透けていた。
「のぶさん施設に来てよかった?」
 小学校のころに見た自由なのぶさんを思い出しながらそう訊ねた。
「うん。そりゃあシジミ獲らんでええけえ楽じゃし、みんなおるけー楽しいっちゃ」
「そうやね」
「はー、わしも年やからほんまはシジミ獲るのきつかったんよ」
「たまには行きたいやろ?」
 そういうとのぶさんは笑って顔の前で手を振った。
「はあええ、はあええ。あれ結構きついんぞ」
 笑い声に蝉の声が混じった。

 夏の終わりに、のぶさんがいなくなった。夜十一時、のぶさんの部屋を職員が見回りに行ったら布団の中にいなかったという。同じ部屋の者たちは静かに寝息を立てていた。
「のぶさんが無外やって。なんで…」
 家にも電話がかかってきて父さんが呼び出される。無外、つまり無断外出には職員一同顔色が変わる。施設が始まった一年目、僕がまだ幼稚園のころ無外した人が山の中で凍死体で発見されたことがあったという。のぶさんに限って大丈夫だと思う。しかし、万が一がありえる。
「オレも、行く」
「ええから、おまえは寝とけ」
 そういうわけにはいかなかった。たぶん、のぶさんの無外の原因は僕にあった。
「一人だって人が欲しいときやろ。オレやったらのぶさんの顔も分かる、それに…」
 なかば張り上げるようにそう言ったが、最後のほうは言葉がしぼんだ。
「それに?」
 昨日の夜のことだった。父さんと母さんが何気なく喋っていた。僕は音楽番組に魅入っていて話の全てが耳に入っていたわけではなかったが、一つの言葉が飛び込んできた。のぶさんの母親が見つかった。「ほんまに?」びっくりして聞き返すと父さんは「まあな」と言ったっきり何か考え込んでしまった。僕はお気に入りのバンドが出てきたので再び画面に魅入っていった。
「今日の夕方、父さんとこに家からワープロ持ってったやろ。あんときのぶさんに会うてん。それで、あんま深こう考えんと言うてしもうた。のぶさん、お母さん見つかったんやって、って」
 父さんの拳骨が飛んできた。
「馬鹿野郎!おまえ何言うたか分かっちょるんか!」
「分からんかったわ…分からんかったんじゃ、ボケェ!」
 自転車で走り出す僕を父さんはもう止めなかった。ただ背中から「山には入るな、わしらが行く」という声が追いかけてきた。

 のぶさんは、思っていたよりずっとすぐに見つかった。どうしてそうしたかは自分でも分からない。でも僕は自転車を小学校のときの通学路を走らせていた。その夜は昼間と同じくらい辺りが見渡せる満月で、僕は川の浅瀬に人影を見つけた。人影は膝まで水に浸かって、そして、シジミを取っていた。自転車を停めて川へ降りていく。
「のぶさん、なんぼ満月でもよう見れんじゃろ。帰ろう」
「嫌じゃ」
 のぶさんはシジミを取りつづけていたが指の隙間からは砂がこぼれ落ちるばかりだった。
「なんで?楽しい言うとったやん」
「あそこにおったら自分の金はない。わしはシジミ取って金貯めて母ちゃんに会いに行く。じゃからもう帰らん」
 なんと言えばよいのか分からなかった。目の前でのぶさんは何かに急かされるように川の底を掘りつづけていた。そのとき橋の上で車が停まった。父さんの車だった。
「のぶさん帰るぞ」
 父さんが声をかけた。
「わしは帰らん」
「のぶさん、はあええっちゃ。言わんかったんは悪かった。謝る。でもな、もうのぶさんがシジミを掘るこたぁない。わしと一緒にお袋さんのとこへ行こう」
「先生と?」
 のぶさんの動きが止まった。どこか冷たい風が肌の上を流れた。
「のぶさん、お袋さんはお墓の下じゃ。じゃから、もうシジミは掘らんでええんよ」
 のぶさんの動きが止まった。そしてゆっくりと水の中で膝をついて四つん這いになって、泣いた。月明かりの下でいくつもの波紋が出来た。
「わし馬鹿じゃけえ、母ちゃん顔よう覚えちょらん。じゃから、もう一度、もう一度会いたかったのぉ」
 絞り出すその声に僕も父さんも何も言えずに立ち尽くしていた。言うべき言葉が見つからない。そういうときは誰にだってあると思う。ただ、悔しかった。どうにもできないことだけど、それが悔しかった。のぶさんの姿を見続けることが出来ずに見上げた空から、月が僕を見下ろしていた。




Entry4
友達以上、つまりは親友
立花 聡



 小川の脇の柳が風に踊っていた。枝垂れる木々はお互いの葉を擦りあわせ、涼し気な音を放っている。水面には木陰が傾きかけた陽光で煌めく。浅い川底には鯉が待ち合わせをしているかのように同じ場所にユラユラと漂い、濃紺の鱗を光らせる。 
 その並木から一つ道を隔てた駄菓子屋には三つ小さな影があった。子供が軒下でアイスを舐めている。皆、額に汗を光らせ日焼けした腕でその汗を拭う。口元を汚した子供の一人が、思い出したかのように少し口を動かした。すると別の子供が、焦点があっていない目つきでまた、同じように口を動かした。おそらく不条理な暑さへの悪態だろう呟きは、なんの障壁もなく伝染し、結果また別の口が動いた。
 
 「あちぃ」
 「おばちゃーん、ティッシュちょうだい」
 「高橋おせぇなぁ」
 「なあ、どうするよ、これから。もう高橋こないで」
 「おれんちでゲームしようで」
 「ありがと。手が汚れちゃってさ。あぁ、拭かないでいいよ。おれ拭くから」
 「それいいね。やっぱ夏はクーラーの利いた所でゲームっしょ」
 「えっ、吉田んち行くの?プール行くんじゃないの」
 「高橋来ねーじゃん。あいつが行きたいって言ったんだから、行く事になったんだし、あいつ来ねーなら、別に行かなくてもいいじゃん」
 「おれんち、スイカあるよ」
 「いいね、吉田んちに決定」
 「待って、おれ電話しとかなくちゃ。伊藤はいいの。電話せんで。携帯貸すよ」
 「別にいいって、お前んち程うち厳しくないから。それよりさっさと電話して行こ。ここ暑くてたまんねぇ」
  一人が手提げの水着の入った袋を振り回しながら走り出した。一人がそれに続き、電話を持った少年はそれに気付いてまた慌てて駆け出した。先頭の少年は道路の車を軽く確認すると車道を素早く横切る。一人が柳の幹を蹴り上げた。後の少年達もそれに続き、葉のざわつく音が聞こえると、少しでも大きな音を出そうと競い合った。

 玄関に靴を脱ぎ捨てると、斉藤直樹は自分の部屋へと走った。階段をちょうど登った所にある窓から赤い西日が入り込んでくる。直樹は靴下を脱ぎ捨てながら、階段を駆け登った。
 「直樹帰ったの?手洗いしてよ」
 「後で洗うから」
 適当な返事をしながら、自室の襖を開けすぐに机に向かった。
 六畳程の部屋は散らかっており、扇風機はつけたままだった。西日の差し込む窓のカーテンを閉め、机の一番下の引き出しを開けた。そこは直樹の宝物箱だった。ひどくくすんでしまっている古びたものから、真新しい色をしたものまで無造作に詰め込まれていた。
 その中から薄い緑色をした封筒を引っ張りだした。封筒には斉藤君へと書いてある。直樹は封筒からうさぎの柄がプリントされている便箋を取り出し、読みかえしてみた。何度か読み替えすと、便箋を太陽にすかしてみたり、匂いを嗅いでみたりした。二ヶ月程前にもらったのに不思議といい匂いがする気がする。初めてもらったラブレターを眺めていると、渡すときの彼女の顔が浮かんできた。
 
 「直樹、またこんなとこに靴下脱いで。ちゃんと洗濯機に入れてって何度もいってるでしょ」
 階段を登る母の足跡に気が付いて慌てて直樹は元あった場所に封筒を戻し、勢いよく閉めた。
 「ねぇ、お母さんいつも行ってるでしょ。お父さんがいないんだから、お母さんやおばあちゃんに世話を焼かせないように自分の事はちゃんとしてって」
 「分かってるって、次からちゃんとするから」
 「次からってねぇ、あなた。何度もそれは聞いたわ。でも、治らないから言ってるの。ん、どうしたの?」
 「何でもないよ」
 「今なんか隠したでしょ」
 両手を後ろに組んでいる直樹を見て母が不思議がる。
 「隠してないよ、いいから出てって。すぐ下降りるから」
 直樹は母の背中を軽く押して促した。
 「もうお風呂湧いてるからすぐ入りなさいよ」
 直樹が隠した右手の人さし指はほんのり赤く腫れている。引き出しで詰めた人さし指を直樹は随分長い間覆い続けていた。

 蝉の音がせわしなく体育館の中を包んでいる。数百人の生徒が暑さを我慢しながら整列している。間延びした校長の言葉は熱に耐えきない人を倒れこませ、するときれいに揃っていた一列は少し歪になった。暗幕の引かれていない室内は、幾分か風のある外よりもむしろ暑いように感じた。
 松本引っ越すんだって。
 どっか寒いとこらしいぜ。
 式の間、伊藤や吉田の言っていた松本の転校の話を思い出した。
 
 手紙を受け取ってから松本との関係は以前のようにあっさりしたものではなくなり、意識すまいとすればするほど彼女を避けてしまう。誰かが倒れた音が聞こえて振り向くと後ろの松本を見ると目が合った。慌てて前を向き直した。
 ようやく終業式が終わり教室に帰る途中、前を歩く松本を目で追っていることに気が付くと、隣の友達に努めて饒舌にふるまってしまう。渡り廊下の柱で鳴いている蝉の声がやけに直樹を急かし立てた。

 寄せ書きには、
 元気でね。
 としか記せなかった。最後の挨拶は、どちらかと言うと騒ぎ立てるタイプの彼女にしたらやけに淡白だった。それは直樹の心を揺すぶった。
 大掃除も終盤に差し掛かり、机を元の位置に運んでいると急に目元が痒くなった。窓を見てみるとクラスの女子が黒板消しを叩いている。教室へ入り込む風に乗って、直樹の目に入ったのだった。何気なく眺めていると、急に直樹は返事をするべきだと言うことに気が付いた。お互い一つの黒板消しを持って叩き合い、チョークの粉が二人とも目に滲みて笑いあった事があった。いつのまにか彼女の掃除場所である理科室に向かっていた。無意識に早歩きになる。しかし、決断は少し遅かった。既に理科室には誰もいなかった。
 直樹は急いで後を追った。もう確かな決意を抱いていた。校門を出て右に曲がり、角のパン屋を越えていつもの柳並木続くの川沿いを走った。やけに気分が高揚し、にやけていた。おれってばかだな。走りながら呟いた。
 息が上がり、立ち止まりそうになったとき、見慣れたランドセルに気が付いた。止まりかけた足にまた力が戻り、彼女の肩まで辿り着く。肩を叩くとセミショートの髪が軽やかに舞った。 
  
 柳並木の終わりには小さな橋がある。欄干がない為、端に座る事ができる。直樹はそこでうなだれて座る吉田を見つけた。
 「どうしたんだよ、こんなとこで」
 吉田は何も言わずに直樹を見て、にやっと笑った。
 「ん、別に」
 笑顔が突然雲に隠れた太陽のせいで暗く見えた。
 何も喋らないでいると、伊藤が隣に座ってきた。でも何も喋らずそのまま腰掛けていた。
 川の鯉は今日は暑さのせいか顔を出さない。うなじが太陽が照りつけてちりちりと焼ける音がする。三人の中に沈黙が漂っている。
 「おれ今日振られた」
 「まじで、おれも」
 「伊藤もかよ、実はおれもなんだ」
 また沈黙が支配する。
 「せーので誰か言おうぜ」
 「そうしようか」
 三人で声を合わせる。
 「せーの」

 気が付くと名前まで三人で声を合わせていた。

 その日三人は、初めて缶コーヒーを買った。大人になる為だと、皆で決めた。初めて飲んだコーヒーの味は、とても苦く少し酸っぱかった。
 「だめだな、おれたち」
 また、声が揃った。

 いつも私たち仲良くしてるよね。本当にありがとう。今までよりもっともっと仲良くして、友達以上になってください。
 志穂




Entry5
胃の中の蛙
ごんぱち



「うぷ」
 大野泰介は、箸を捨て口を押さえた。
 目の前の大お好み焼きの残りを見つめる。
 六〇〇グラム。通常の大盛りに匹敵する量。
(こ、これぐらい)
 右隣の女は後三口。左隣りの男は顔色一つ変えずに箸を動かし、前回チャンピオンに至っては、既に完食し、紙ナプキンで口を拭っている。
(俺が、ビリかよ?)
 油のギトギト光る鉄板に置かれた、焼きソバと豚バラ肉とエビとイカを閉じこめた小麦粉の塊。
 豚の脂身を見つめただけで、その重たい脂気が舌の上に浮かんだ。
「ううっぷっ!」
 テレビカメラに収まらない位置に置かれたポリバケツは、青かった。

 青い空を、バスの窓越しに見上げる。
「――嫌な事を思い出しちまった」
 大野は呟く。
 窓の外を流れる木々は、もう葉をすっかり落としている。
 車内は、親子連れや、中年女二人連れ、老人の一団等、雑多なツアー客が談笑している。
(所詮、井の中の蛙だった、か)
 枯れ葉が一枚、窓の縁に引っかかった。
 痩せた腹を撫でる。
(俺はただの会社員だったんだ)
 バスがカーブを曲がり、風が変わったのか枯れ葉は飛んで行った。
『なに? 紅葉全然見えないじゃない!』
『ホテルからも見えなかったわよね?』
『水晶細工の工房見学だって、押し売りみたいなもんだったし』
『格安ってこんなもんかなぁ』
(有給休暇で、一万円ポッキリの紅葉見物&寿司食べ放題バスツアーに参加する程度の)
 他の客たちの声をぼんやりと聞き流しながら、大野は目を閉じた。

 午前十一時を廻った頃、バスは林道沿いにある寿司店の駐車場に停まった。
 通された宴会場の一角にカウンターがしつらえており、数名の板前が並ぶ。
「さあ、皆さんお待たせしました」
 ツアーコンダクターがにこやかに話す。
「寿司屋花岡での食べ放題サービスです。制限時間一時間の間なら、どんな高級ネタでも握ってくれます。見て下さい、このトロの美しさ。イクラの輝き。イカだって身が透き通っていますよ!」
 ツアー客たちは、表情をほころばせる。
『すごいじゃん、大逆転ってカンジよね』
『うんうん、思いっきり食べちゃうよー』
『――おとうさん、どれがおいしいの?』
『トロっていっときなさい。おいしくなかったら、あたしが食べるから……』
『回ってない寿司なんて久し振りだなぁ』
「それではみなさん!」
 ツアーコンダクターは、大きい目覚まし時計を置く。
「用意――」
 その時。
(?)
 寿司屋の従業員たちが、皿を持って入って来た。
『え?』
『な、なんなのこれ!』
『まさか喰えってんじゃ――』
『わーい、ボクのり巻き大好き!』
「スタート!」
 ツアーコンダクターは手を振り下ろした。
「そののり巻きは前菜です。食べ放題コースは、それを召し上がってからにして下さい」
 早口で付け加え、彼はにやりと笑った。
「ちょ、冗談じゃないわよ!」
 若い女が怒鳴る。
「こんなに食べろっての?」
 のり巻きは、直径三〇センチほどの大皿に、山盛りに載っていた。重量にして二、三キロはありそうだった。
(……アホらしい)
 大野は大きく溜息をついた。
「お喋りなんてしてていいんですか? そら、寿司が逃げますよ」
 濁った目でツアーコンダクターは笑う。
「パパぁ、他のお寿司、食べられないの?」
「何も食べないで待ってなさい、こののり巻きはお父さんが全部食べるから!」
 言うや否や、親子連れの父親は、猛然と息子ののり巻きを食べ始めた。
 一つ。
 二つ。
 三つ。
 ……四つ。
 五…………つ。
「うぷっ」
 父親は喉に詰まりかけたのり巻きを、茶で流し込んだ。
『……そうね』
『食べるしかないかなぁ』
『お腹一杯になってしまいますね』
『こんな寿司だけなんですかねぇ』
 父親に触発されたのか、皆はのり巻きを食べ始める。
(こんなもん、お前らに喰えるわけねえだろう)
「――おや、そちらの方」
 ツアーコンダクターがにやにやしながら、大野の前に来る。
「どうなさいました? 食べて下さい。それとも、もうお腹いっぱいですか?」
 大野の前ののり巻きは、一つも減っていなかった。
(何故喰う?)
 かの父親は、十個目ののり巻きを、目を白黒させながら呑み込んでいる。
(何の目的で)
 十一個目を掴み、口に押し込んでいる。
「なあ、添乗員さん」
 大野が静かに声を掛ける。
「なんです?」
「そっちのカウンターに用意してあるネタ、随分少ないが、足りるのか?」
「はははは、心配には及びません。通常営業用のネタを買い取ってでも、ネタギレなんて事にはしません。ですから、さあ、ご遠慮なく、召し上がって下さい」
「そうか。それでももし、ネタギレになったら?」
「食べ放題が嘘という事ですから、料金をお返ししますよ。これが売りなんですから、全額返したって構いません」
 心から馬鹿にした様に、ツアーコンダクターは笑う。
「そう……か」
 大野は皆を見回す。
「みんな!」
 大声で怒鳴った。
「のり巻きは俺が引き受ける。持って来い!」

 のり巻きを掴む。
 四ついっぺんに。
 口に入れる。
 掴む。
 入れる。
 掴む。
 入れる。
「噛んでないの、この人?」
 掴む。
 入れる。
「ペースが全く変わらないよ」
 掴む。
 入れる。
「どんどん早くなってる!」
 腹に次々に収まっていくのり巻きを感じながら、大野は食べ続ける。
(味はまあまあ。もう少しペースアップしても戻さないな)
 大野の口の動きは早くなって行き、腕の動きがスローに見えて来る。
 みるみるうちに、一皿空になった。
「お、おい、あんた一体何なんだ」
 ツアーコンダクターが目を見開く。
「ダメだぞ、あんたがいくつ喰ったって、食べ放題になるのはあんただけだ。他人の分を肩代わりなんて出来ない……」
 掴む。
 入れる。
「だから止めろ、おい! 止めろってんだよ!」
 ツアーコンダクターが、大野に掴み掛かる。
「ツアコン、さん!」
 だが一瞬早く、かの父親がツアーコンダクターの前に立ちはだかった。
「あなたは、私が妻と子供の分を食べてた時、何も言わなかった。い、今さらそんな事言っても、無駄です」
「そうよそうよ!」
「そうですねぇ……」
「私たちは、食べまくらせて貰います」
「たかが一万円のツアーで、こんな高級ネタ喰われてたまるか!」
 掴む。
 入れる。
 掴む。
「添乗員さん」
 大野がツアーコンダクターを真っ直ぐ見つめる。
「喧嘩を売ったのは、あんただぜ」

 夕日に包まれた上鷹野駅前で、大野たちはバスから降りた。
「本当に、ありがとうございました」
 親子連れは深く頭を下げる。
「すごいね、おじちゃん」
 子供が、にぱっと笑う。
「パパとはぜんぜんちがう。かっこよかった!」
「坊や」
 大野はしゃがむと、子供の頭を撫でた。
「俺は生まれつきの才能を、訓練で少し伸ばしただけ。できる事をやっただけだ」
 ぽん、と腹を叩いてみせる。
「でも、君のパパは、君たちのために、勝ち目のない勝負に挑んだ」
「あ、あの……お話は、もう、いい、で、す、か?」
 父親が青白い顔で口を挟む。
「え? ああっ、どうぞ、どうぞ」
「どもっ!」
 父親はロボット――もしくはトイレ(大)を我慢している人間――のような歩き方で走り去る。母親と息子も、後を追って行った。
「ふふ、素人が無茶するからだよ」
 大野は、小さく笑う。
(素人、か……思い上がりなのかも知れない。井の中の蛙かも知れない、だが)
「見せてやらぁ」
 夕日は落ち、空は青紫に染まっていく。
「蛙の底力!」
 一番星が輝いていた。




Entry6
『Libera ME』
橘内 潤



 二対の銃口が睨み合っていた。落ち窪んだ鋼鉄の眼窩は、殺人の意志にぎらついている。
「リン……どうして?」
 美穂は対峙する相手に問いかける。答えを期待してのことではなく、隙を窺うためだ。美穂とリンを結ぶ直線上に、うつ伏せの由布が映る。物理法則を歪める異能の少女は、背後からリンの銃弾を受けて倒れたきり動かない。少女から広がる血の赤が、視界の隅に焼きつく。だが、いま駆け寄るわけにはいかない。
「どうして――? 決まってんだろ。天使に用があるのは、元老院のクソジジイだけじゃないってことだよ。あたしたちオフィートも、天使のサンプルを集めてるってこった」
「オフィート……」
 その名には聞き覚えがあった。戦中世代以下の若者を中心に構成される反元老院組織――要するにレジスタンスだ。
「あんた、美穂だっけ? 仲間を撃ち殺してまで天使を捕獲した目的が、クソジジイどもの長生きのためにだなんて、あんたは赦せんのかよ!?」
 作戦の過程で天使化した雄平は、リンが殺した。計画に関わった他の小隊も、同様の犠牲を払ったのだろう。そうして捕獲した天使は、その特異性――常物理下において天使は食物連鎖の頂点に立つ。ニューマンの異能による歪物理圏でしか、天使は殺せない――を抽出解析して天使を殺せる兵器を造る……というのは「ついで」であり、すでに二世紀を生きている元老たちの延命研究が主目的であるとは、実しやかに囁かれている。
「だからといって……由布を撃った理由にはならないわ。由布は、リン――あなたを信頼して背を預けてたのよ」
「理由? そんなの決まってんだろ。そいつがニューマンだからだよ。天使と胎児を混ぜて造ったバケモノだぜ? そのバケモノ一匹造るために、あたしがどれだけ仲間を殺してきたと思ってんだよ!」
 天使は生殖器官を持たない。爪や牙など肉体手段で人間を殺した場合にのみ、接触感染という形で種を増殖させる。ゆえに食事はしない。捕食すなわち生殖だからだろう。ゆえに天使化した人間はもはや人間ではない。殺らなければ殺られる。
「美穂……あんただってわかるだろ? あたしたちは天使を殺すために――仲間たちと平和に暮らすために戦ってるはずだろ? それなのに……あたしはあと何人、仲間を撃ち殺せば赦されるんだ?」
 リンの瞳は乾いたままだ。だが、慟哭はしかと伝わってくる。美穂よりひとつ年上のリン――美穂より一年多く、戦場で生きてきた女性。美穂よりはるかに沢山の仲間を殺して生きてきたのだろう。
「……じゃあ、あなたたちオフィートはその天使をどう利用するというの? 返答によっては、銃を下ろすかもしれないわよ」
 ちらとだけ横に流した視線の先には、四肢を切断されて喉と翼に杭を穿たれた天使が転がっている。致命傷でも死にはしない。常物理において、人間に与えられた傷で天使が死ぬことはない――いかに非常識じみていようともだ。それを逆手にとって、歪物理下で致命傷を与えた瞬間に常物理へと復帰させることで天使を生け捕りにする。
「どう利用するかなんて、決まってんだろ。天使もクソジジイもぶっ殺せる兵器を造るんだよ。そこのバカモノみたいに油断なんかしない、完璧な兵器をね――!」
「――!」
 言葉尻と同時に、リンの銃口がニューマンの少女へ向かう。それは、美穂に対して完全な隙を見せた瞬間だった。しかし、由布が撃たれる――その思考が、美穂の意識から決定的な一瞬を奪った。
 そして一瞬後、美穂は肩を押えて倒れていた。手から落ちた銃が瓦礫を転がっていく。
 銃声が尾を引いて響き、硝煙の先でリンが薄笑いを浮かべいる。
「壊れかけのバケモノを気にするなんて……あんた、甘すぎだね」
 リンは雄平を――苦楽を共にしてきた仲間を、天使に首筋を噛み切られたと同時に撃ち殺している。生きてきた戦場の数と、殺してきた仲間の数とが趨勢を決めた。
 銃を突きつけたまま、リンは無造作に距離を詰める。
「本部からは、あんたの引抜きも命令されてたんだけど……どうにも気が合いそうにないね」
「……その結論だけは、気が合ったわね」
 この状況でまだ皮肉を返せる自分に、美穂は苦笑してしまう。だが銃を拾うだけの力は残っていない。右肩を押える手は見る間に染まっていき、血と一緒に力が抜けていくのを意識せざるをえない。
 リンはあと数歩の距離――外しようのない距離で立ちどまり、引鉄に指を掛けていく。見下ろすリンを、美穂は全身の力を振り絞って睨み返す。
「いい目つきだ……苦しまずに逝かせてやるよ」
 銃身が陽光を鈍く照り返す。それが眩しかったが、美穂は目を閉じるまいと唇を噛み、意識の破壊される瞬間を待った。

「……え……?」

 銃声が木霊し、生温い鮮血が美穂の顔へと降り注いだ。胸元に赤い噴水を咲かせたリンは、死を理解しないままに、天を仰いでどうと倒れていく。溢れる血がその身体を浸す。
「だれ、が……」
 ――だれが殺ったの?
 最後まで言葉を紡ぐことなく、美穂の意識は闇へと沈んでいく。残されたのは血溜まりと、天使と呼ばれる肉塊だけだった。


 査定部執行班、通称「パラディン」
 ライフル――歪物理戦闘には不向きな長射程火器。だが人間やニューマンの暗殺には最適な武器。ライフルを所持する暗殺部隊パラディンは、娯楽を供するための作り話ではなかった。
「わたしたちは囮だったのね……」
 査定部が企画したオフィート構成員の燻り出し――それが、今回の天使捕獲作戦の実体だった。リンと雄平は以前から査定部に目をつけられていたのだという。
 暗殺の機会を窺うために、ぎりぎりまで介入を遅らせた――それが、致命傷の由布が放置された理由だった。
「由布、調子はどう?」
 治療棟の一室、線の細い少女が寝台に横たわっている。全身を覆う包帯とチューブが痛々しい。
「うん、元気だよ。美穂も元気そうだね」
「わたしは肩を撃たれただけだったから……」
 美穂も肩口の動脈を打ち抜かれていた。だが迅速な処置が功を奏して、もう治療バンドを貼っているだけだ。
 由布を撃った弾は心臓を掠めていたのだそうだ。それでも処置が早ければ、こんなことにはならなかったはずだ。
「ごめんね、美穂。わたしが油断しちゃったせいで……。今度からは、もっと頑張るから」
「……」
 いまから伝えなければならない――美穂はその役を自ら買ってでた。
「由布……もう、いいの。頑張らなくても、もういいの」
 由布は答えない。自分の身体だ、とうに理解していたのだろう。
「あなたはもう、歪物理圏を形成できないの。もう、戦場に戻ることはないのよ」
 重傷を負ったニューマンは、高い確率で異能を喪失する。異能を失った彼らは、ひ弱で臆病なだけの役立たずだ。もう兵器ではない。
「……そう」
 たった一言。異能を失ったニューマンは慰み物として再利用される。だれもが知っている。
「……」
 美穂はポケットから一粒の錠剤を取りだし、由布の手に握らせる。
「……」
 由布は錠剤を美穂の手に返す。ゆっくりと唇を開く。
「全部終わったら、迎えにきてね。……待ってるから」
 震える声で、それでも笑顔を向ける由布。美穂は抱きしめる。きつく、きつく。
「……痛いよ、美穂」
「ごめんね、ごめんね……赦して……赦し、て……」
 泣きじゃくる美穂。由布は強く抱きかえす。自分の体温を焼き付けるように、強く、強く。


 わたしたちは赦されない。




Entry7
ミラーボーイ ミラーガール
るるるぶ☆どっぐちゃん



「大分片づけたけれど、でもまだまだだからさ、ぱっと食べて、ぱっと始めようね」
「そうね」
 あたしは答え、彼の方へ振り向いた。
 足下で、欠片がかちゃかちゃと音を立てる。
「僕の分は良いからね。まだあまりお腹が空いていないから、一段落つくまでやるよ」
「いつもそう言ってお昼を抜くのよね」
「後で食べるよ。とにかく鏡は全部壊さなくちゃならないからね」
 彼はそう言うと眩しそうに目を細め、カーテンを閉めた。カーテンを閉めてもこの部屋はあまり暗くならない。キラキラとした鏡の欠片が、部屋中を覆っていた。
「とにかく全部壊さなきゃならない」
「そうね。でもあたし思うのだけれど、やはり一つくらいは残しておいた方が便利じゃない?」
「君はまだそんなことを言うのか」
 彼はそう言い、あたしの顎に手をかけた。彼の手が視界に入る。彼の手には複雑に絡まり合った細かい線が走っている。それは何かの呪いのようにも見えるが、それでも、見つめていると何故か心が落ち着く。
「君もやはり女の子なんだね」
「そうね」
 彼は笑い、そしてあたしから手を離した。
「とにかく、僕はもう少し続けるから。お昼、早く済ませるんだよ?」
「はあい」
 あたしは台所へ向かった。お昼はパンケーキにしよう。そう思いながら、テレビのスイッチを入れた。お昼のテレビは面白くない。チャンネルをかたかたやり続けた末にあたしはテレビを諦め、ビデオのスイッチを入れた。
 ビデオは昨日彼が観ていたものだろうか、あの女の子が見ていたのだろうか、アダルトな内容のものだった。男の人が女の人の手を舐めていた。思いがけず綺麗な指だった。あたしは、何故女の人の指が舐められることになったのか、そこまでの経緯が知りたくなり、巻き戻しボタンを押した。ビデオを観るのは少し苦手だ。テレビは巻き戻せないけれど、ビデオではそれが出来る。あたしはすぐ細かいことが気になり、巻き戻しをしてしまうので、いつまで経ってもビデオ視聴は終わらない。
 あたしはビデオを最初から最後まで観てしまった。何故女の人の指を舐めることになったのかについては結局解らなかった。ストーリーには脈絡が、全く無かった。全編に、あん、という音声が、絶え間なく入っていた。それは女の人の口の動きとも、勿論男の人の口の動きとも合っていなかった。誰の声かも解らなかった。あたしは女の人の、その本人の声が聞きたかった。色々なことを、指を撫でながら聞けたら楽しいだろうな、と思った。
「ねえ」
 声に振り向くと、入り口に女の子が立っていた。
「ごめん。起こしちゃった?」
「うん。でも良いよ。面白いビデオが観れたから」
「面白かった? あたしは全然解らなかったよ」
 あたしは戸棚から小麦粉を取り出した。
「パンケーキ作るけど食べる?」
「うん」
 女の子は椅子に座った。
 女の子は昨日この家へ来た。大通りに倒れていたのを、あたし達が運んできたのだ。気がついた女の子に、家は何処? と聞くと、思い出せない、と答えた。
 パンケーキはとてもうまく作れた。
「おいしいわ」
 女の子はそう言って笑った。
「そう。良かった」
 彼女は妖精のように可愛い。


 女の子は食べ終わると、眠い、と言って、椅子に座ったまま寝てしまった。あたしは毛布をそっとかけてやる。
 台所を出るともう夕方だった。あたしはテレビのスイッチを入れた。夕方のニュースの時間だった。いなくなっていた女の子が見つかった、というニュースが報じられ、その後は天気予報になった。過去三日の天気が表示される。雨。くもり。晴れ。嘘つけよ、と、あたしは何故か思ったが、本当は昨日の天気も思い出せなかった。
「ねえ」
 声が聞こえ、あたしは振り返った。
 彼がいた。
「ごめんね、お昼早く終わらなくて。ほら、女の子がいたしさ」
 彼は何も答えない。
「どうしたの? もしかして怒った?」
 あたしは彼の手を取った。彼の手は血まみれだった。鏡は素手で割るので、こうなるのは仕方が無い。
「そんなに怒らないでよ。あたしのせいじゃないんだからさ。本当よ。ねえ、ご飯を食べなよ。そうしたらさ」
「終わった」
 彼は唐突に言った。
「全て終わった。全て壊し終わった」
 彼はいきなりあたしを抱き締めた。
「本当?」
「ああ」
 そう言って彼はあたしにキスをした。
「本当だよ」
 いつの間にかベッドの上にまで欠片が散乱していて、それで身体を切ったが、彼の手も血まみれだったし、大体そんなことは本当は全然気にしていなかった。
「全て壊し終わったよ」
 彼は引き裂くように、あたしの服を脱がしていく。
「全て終わった」
 彼があたしの中へと進入する。あたしはそれを喜んだ。出来るだけ身体を広げて、迎え入れた。彼は目を閉じていた。あたしは彼の頬を撫でた。
「ねえ」
 あたしは声の方へ顔を上げた。
「ああ、ごめん。起こしちゃったね」
 女の子だった。
「良いよ。面白いものが観れたから」
「そう。それは良かった」
「ねえ、パンケーキが食べたいわ」
「ごめん。今ちょっと無理だわ。だって凄く気持ち良くて」
「そう」
「冷蔵庫の中に牛乳とかき氷があるからそれを食べたら?」
「解った」
「ケチャップもあるから」
 少女の後ろ姿へ向かってそう言った。そして再び、あたしは陶酔の中へと落ちる。



 その翌日、あたし達は記念に、近くのレストランへお洒落をして出掛けることにした。
 あたしは白いドレスに長手袋。彼はタキシード。ステッキを粋に構え、とても格好良かった。女の子には、あたしの小さい頃のお気に入りだった服を着せてあげる。
「準備出来た?」
「まだ。ちょっと待ってて」
 彼はそう言って、奥の部屋へ何かを探しに行ってしまった。
 待っている間、あたしは帽子の位置がきちんと決まっているか気になり、何度も帽子に手をかけた。
「ねえ」
 女の子が言った。
「これ使ったら」
 あたしは手渡されたものを見て驚いた。
「これ」
「手鏡よ。それがどうかした? 女の子だもの。持っていて当たり前だわ」
 女の子は笑った。
「よし、これで良いぞ」
 彼が部屋に入って来た。
「ええ」
 あたしは慌てて返事をする。
「どうした、慌てて」
「なんでも無いわ」
「パンケーキありがとう」
 女の子が唐突に言った。
「さあ行きましょう」
 あたしは女の子の手を引きながら、手鏡を服の下へ隠した。
「よし、行こうか」
 彼はそう言うと歩き出した。
 あたしはその後ろ姿と、そして彼のキズだらけの手を見て、鏡のことを今更言い出す気には、どうしてもなれなかった。だからあたしは鏡を見て帽子の位置を直し、また服の中へと隠し、そして歩き出した。
「今日も綺麗だね」
 彼はあたしを見てそう言った。
「あなたも素敵よ」
 あたしは、鏡のことは内緒にすることに決めた。肌身離さず持っていれば見つからないし、それにこうやって持ち歩いていれば、いつか自然に割れることもあるだろう。
「良い天気だな」
「そうね」
「お昼はパンケーキが良いな」
 あたし達は三人並んで歩く。女の子とあたしは手を繋いでいた。女の子はとても可愛い。彼女はあたしの子供の頃の服を、あたしよりもずっと可愛く着ていた。
「世界はどんどん綺麗になっていく」
 彼は言った。
 初夏の陽気に上気した肌に、鏡がひんやりと心地良かった。
「君も、どんどん綺麗になっていく」
「嬉しい」
 あたしは顔を赤くして答えた。そして絶対見つからないように服の中の鏡を、心臓の上へと移動させた。





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