第32回3000字小説バトル
 感想票〆切り9月15日

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 エントリ 作者 作品名 文字行数 得票なるか!? ★
 1 立花聡  ある晴れた日  2995   
 2 満峰貴久  ベースギターの想い出  3000   
 3 橘内 潤  『月魚』  2937   
 4 松田めぐみ  依存症  3000   
 5  (作者の希望により掲載を終了いたしました)    
 6 佐藤yuupopic  クラフトテープ、ブラインド  3000   
 7 伊勢 湊  ラストピース  3000   
 8  (作者の希望により掲載を終了いたしました)    
 9 ハンマーパーティー  雨の中の女  3000   
 10  るるるぶ☆どっぐちゃん  サマーケーキ  3000   
 11 ごんぱち  真夏の情景  3000   

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Entry1
ある晴れた日
立花聡・・・・・



 暑い。
 僕らは蒸した林の中を進んでいる。木漏れ日が時折、顔の端をとらえ、すぐまた影となる。足下の木の葉を踏み付ける音すらも、僕を刺激し、引き金を持つ右手を硬直させる。小さな葉音にすら僕はびくついて、振り返る。そして誰もいない事を確認する。
 緊迫感は大きな障害だった。鏡には映っているのに、自分からは確認できない。そんな感覚は僕の奥の方に深く浸透し、頭に鈍痛を加え、集中力や行動力を束縛する。それは直接的には手足のだるさを伴い、そして内面では凝り固まった腫瘍をさらに肥大させてゆく。そうして狭まった五感がまた、僕らに緊張を増幅させる。そしてそれが延々と繰り返される。終わりない螺旋階段、僕は不条理と言う言葉を思い起こし、歩き始めたときのような柔らかく包み込む高揚感は随分昔に影を潜めていた。
 もう一時間近く、こうして歩き続けている。べったりとした視線の感覚が付きまとう。靴の踵を減らすような、緩やかな消耗が僕に襲い掛かる。流れ出す汗が下着を湿らして不快感を増幅させ、握りしめた銃身は時間とともに重くなる。緊張の重しからは、まだ当分解放されそうにない。時間とは常に一定に流れているのではないと改めて感じさせられた。
 ここまでの間に、僕らは三人の仲間を失った。
 斉藤、石橋、亀井。特に石橋が撃たれた事は僕の心を揺るがした。常に隣を歩いていた彼がやられたと言う事は、つまりそれは自分でも当てはまり得た事だった。そのうえ最も仲が良かったと言う事も僕にはショックだった。これから僕は、いったい誰と話をすればいい。ほんの些細な問題意識しか感じられない自分に磨耗している精神を感じた。
 「敵はこの山中の至る所に潜んでいる。油断してはならない」
 酒井さんの言葉を思い出し、反芻させられた。
 
 大きく厚い雲が空を覆い始め、辺りは薄暗くなっていった。重くのしかかる色眼鏡の風景に僕は、気怠さが込み上げて、徐々に大きくなり、膨張したそれは僕の頭を押さえ付けた。そして気が付くと自分の靴を眺めて歩いていた。靴ひもをさも珍しそうに見ているかのように誰かの目には映ったかもしれない。
 視界に先を歩いている酒井さんの足が入り込んで、立ち止まっている事に気が付き、僕も足を止めた。先頭の石井が左手を少し挙げていて、それから左の薮の中に向けた。
 「敵」
 石井が呟く。
 男二人が、僕らに背を向けて何かを待ち構えている。敵と言う明確な存在の出現に僕は興奮し、先ほどまでの暗鬱とした思いは走り去っていた。
 音を殺しながら木陰に身を隠す。そして銃口を男に向けて、僕は酒井さんの指示を待った。
 脈が早い。汗が止まる。
 合図で走り出す。四人で囲み、確実に狙う。赤い液体が散布される。きれいだと、遠くの方で誰か僕に囁きかけてきた気がした。
 「ふせろ」
 誰かの声が響いた。反射的に声を追う。低い姿勢の酒井さんの視線は別の二つの影を指していた。石井と佐藤が走り出す。僕も続いて走った。
 スピードが上がる。視界が狭まり、景色が襲い掛かる。加速する景色とともにザザザと音が出る。頬に枝が当たる。木を縫って走る。
 僕が到着すると、既に優劣はついていた。僕は石井と佐藤の少しにやけた顔を見た。頬に違和感を覚え、なぞってみると血が少し出ていた。
 
 暑い。
 「もう随分と近づいたと言う事だろう」
 「敵本陣が見え次第、特攻をかける」
 蚊にさされたみたいだ。腕が痒い。
 「石井、佐藤は先に走り出して揺動させろ。おれも後から続く。砂谷はおれたちを援護しろ。いいな」
 痒い。痒い。指先は僕の停止の命令を振り切る。
 「聞いているのか、砂谷」
 「は、はい。了解しました」
 「ぼんやりするな、これからだぞ」
 「はい、すみません」
 頭に分厚い重力が影響を及ぼす。

 しかし、集中は容易に戻らなかった。僕らは男達を無傷でしとめた。その事は僕以外の三人を高揚させていた。僕はそれを見て少し興醒めした。しかし鮮明な現実感を持ったのではない。興醒めは自分の空想の中、むしろ妄想の湿った空気が心を包み込んでいた。そのせいで今まで張り続けていた緊張の糸が湿った空気を吸い込んで弛んでしまった。関係のない事ばかり頭に浮かんでくる。
 何かが明確だった意識に霞みをかける。友人との別れた後、数十メートル離れた友人をアスファルトの陽炎が包んでいくような、そんな曖昧な掠れ具合。たわいもない事ばかりが思い浮び、散漫になった精神は真剣に辺りを警戒しながら歩く先頭を見て、滑稽だと思わせた。
 
 しかし、散らばった思いは意外と早く集まった。目的地を確認すると、急激に集まりだした。意識の集結を脳内で感じ、興奮した。小さな建物を十名程が守っている。警戒は緩い。すぐさま酒井さんが突入のタイミングを計り、あとの二人は辺りを警戒しながら、一点を凝視している隊長を気にかけていた。石井、佐藤が突然音なく駆け出す。前方の男が建物の裏手へ歩き出したからのようだ。それに酒井さんも続く。僕は慌てて三人の後を追った。
 すぐ前を走る味方の影だけ目で追っていた。その影は撃つ。敵が被弾する。
 「きたぞー」
 誰かの声が響く。
 影は視界の異物を全て狙う。二人、三人目。鮮やかに道ができる。
 何かがちらついた。素早く撃つ。四人。
 チャッチャッと胸ポケットのライターが跳ねる。足場が砂地に変わり、足音は乾いた音だ。
 灰色の壁が大きくなる。減速しきれずに、両腕で壁に手を突き、止まる。背中を壁につけ息を少し整える。
 目標はこの裏。 
 横の三人は息を殺す。石井と佐藤が、身を隠しながら前方を各々両端から確認している。集中が駆け上がる。アドレナリンが駆け回る。
 目を閉じ、三つ数える。
 ひとつ。ふた…。落ち着いてきた。冷静さは成功の要素。目を開けたら、突入。
 隣に仲間がいない。出遅れに気付く。
 追う。走る。
 灰色の遮蔽物は小さくなる。そして視界が広くなる。自分を守るものはない。

 その先には敵が待ち構えていた。一瞬では確認できない程だった。落ち着きだした頭の中が暴走を再び始める。石井と佐藤がやられている。酒井さんは反対側の壁、応戦している。血が沸き立った。
 アドレナリンは、引く事を許さない。止まれない。
 そのまま突っ込む。
 極端に狭い視界の中で、ひたすら何かに引き金を引いた。
 辺りから体に重たい圧力を感じた。足下が滑り、転ぶ。脳に伝達される揺れる画面の端に、奴らの旗が見えた。

 
 「……めでとうございます」
 「おしくも優勝を逃してしまった青組連合の方。来年は頑張りましょう」
 拡声機の音が聞こえる。
 「おっ、起きたか、砂谷。おしかったなー」
 「あれ、なんで寝てんの、おれ」
 「熱射病で倒れたの、覚えてないのか」
 石橋が煙草に火をつけながら言った。
 「やっぱ、こんな暑い日はきついよな。他にも何人か倒れたんだって」
 「もうすこしだったんだ」
 「らしいな」

 この大会は始まってから十年になるそうだ。大学のサークル同士集り、絵具で水を赤く染め水鉄砲でサバイバルゲームをする。年々エスカレートして、今年は山を一日借り切っての大会だった。赤く濡らされたら、死亡。そしてどちらかが、相手方の旗を濡らし、勝敗を決める。
 二度めの参加で僕は酒井班になり、つかの間の軍人ごっこを楽しんだ。
 明るい太陽の下で疑似的殺しあい。
 彼女は異常だと言う。



Entry2
ベースギターの想い出
満峰貴久・・・・・



 今は昔、日本中の中学、高校生は男女を問わず、グループサウンズという、一大バンドブームに夢中になっていました。そんな頃のお話。

「なあ、斎藤、俺、ベースギター持ってるんだけど買わないか」
 高校二年の昼休み、神田がいきなり僕に言った。
 金額は2万円。ギター本体は2万8千円の新品で、5千円する黒の専用ハードケースをつけて、合計3万3千円のところ、差し引き1万3千円もお得だという。
 当時は安い映画館なら3本立てで150円、喫茶店のコーヒーが一杯100円くらい、ラーメンも100円、アルバイトの時給は100円前後で、高校生が1万円稼ぐのに1ヶ月はかかった。
「無理だよ、そんな金あるわけないよ」僕は即座に答えた。然し、別の興味が僕の心を動かした。
 神田という男は、柔道部に籍を置く、グループサウンズとはかけ離れたイメージの無骨な男で、髪型も角刈りだった。そんな男が何故、しかも、バンドの中では一番地味で目立たないパートであるベースギターという楽器を持っていたのかということが不思議だった。当時、バンドをやっている連中即不良という認識は一部で根強くあったものの、女の子たちの熱狂的な支持を受けて、カッコイイ、カワイイという方向に変わりつつある頃のことだ。然し、人気があるのはヴォーカルで、次はリードギターかドラムスだった。

「で、そのベースってどんな形してるの?見てみないとわからないよ」僕は冷やかし半分で尋ねた。
「斎藤は、確かビートルズが好きだって言ってたよな?」神田は上目遣いになりながら、しかし、自身たっぷりな笑顔を作って言った。
「え?」僕は少し動揺した。まさか僕がビートルズの大ファンだということを承知の上でベースギターを買えって言っているのか。
「うん。店員の話だと、これはビートルズが使っているのと同じ形で、今一番人気があるんだって言っていたぜ。どう、欲しくない?」
神田はもうすっかり僕の心の中を見透かしたようで、見下した目つきになっている。
「そのビートルズのポール何とかって言うのが使っているのとそっくりなバイオリン型のベースギターなんだよ」
 僕の頭の中で何かが弾けた。(欲しい、どうしても買いたい、そうだ、夏休みももうすぐだし、2万円ならバイトすれば何とかなるだろう)
 もう神田の話なんかどうでもよかった。僕の頭の中では$映画「ビートルズがやってくるヤァヤァヤァ」でポールが逆光のスタジオライトの中、ドイツ製カールへフナーのヴァイオリンベースを弾きながら「アンド・アイ・ラブ・ハー」を甘くせつなく歌っている姿と自分の姿が重なって焼きついていた。
「カ、カウ、かう、買うすぐ買う、今買う。今すぐ持ってきて。金なら何とかする。欲しいよう、今すぐ欲しいよう」
 僕は必死で神田の袖を引っ張っていた。
 僕にとってビートルズは神様、まさに雲の上の人たちという存在だった。中学一年のときにラジオで初めて日本に紹介された曲を聞いて以来の大ファンで、レコードも全部持っているし、映画だって何十回見たかわからない。映画の中の仕草や、台詞までほとんど覚えている。もちろん字幕のほうだが。昨年あったビートルズの東京公演だって、中間テストの前の日だったにもかかわらず何とかチケットを手に入れて行ったのだ。このときのチケット代、2100円は兄に借りた。大事なときに金がないのはいつものことだ。
 だから、本物ではないとしても、あのビートルズが使っている楽器とそっくりな物をもてるということを考えただけでも身震いがするほどなのだ。
 次の日、例によって、僕は夏休みになったらバイトをして必ず返すからと、兄から借りた2万円を握りしめて学校に行った。その日の授業内容はほとんど覚えていない。
 放課後$神田がどこかに隠していたギターの黒いハードケースを目の前にして、二人はお互い笑顔で向き合った。そのケースはボディーの部分が普通のものよりだいぶ小振りで、ネックの部分が異常に長い。あの映画の中で見たものとまったく同じものだった。何が始まったのかと、残っていたクラスの数人が回りに集まってきた。
「じゃ、これ、2万円ね」
 僕は剥き出しの札をポケットから取り出してすばやく神田に押し付けた。お金さえ渡してしまえばこのベースギターはこっちのものだ。途中で神田の気が変わったりしても、もう関係ないことなのだ。
 周りにいた連中から、オーッと言う声が出た。本当は、今すぐにでも家に飛んで帰って、一人だけでじんわりと喜びを噛みしめながらギターと対面したいと思っていたのだが、ここはひとつ太っ腹なところを見せて、みんなにも拝ませてやろうという気になった。神田のものから、自分の物になったのだというお披露目みたいな、証拠固めみたいなものだ。
 みんなが注目する中、僕は厳かにケースの留め金をパチン、パチンと丁寧にゆっくり外していった。そして、ふわりと蓋を開ける。一瞬、眩暈のようなものを感じ、背中がゾクッとして血の気が引いた。
「な、何じゃあ、これは」
「ええっ?こ、これが、お、お、お前が言っていた、バ、バ、バ、ヴァイオリンベースかよーう。えーーーっ?ふざけんじゃねーぞー。全然違うじゃねーかよー。バイオリンの形にもなってねーぞ。こんな、ひょうたんをつぶしたような形の、どこをどう見たらそっくりだなんていえるんだよう。誰が見たって似てねーよ。それに、何だよ、このヘッドに付いてる下品なガラスのダイヤは、余計なもん付けてるんじゃねーよ。形を似せてるだけでコピーにも何にもなってねーじゃねーか。金かえせっ。これで2万円なんてとんでもねー。1万円だっていらねーや。とっととこれもって帰りやがれってんだ、このバーたれがあっ」
 と、声に出して一気にまくし立てられない自分が悔しかった。長い時間呆然とギターを見つめたまま、ふと正気に戻って顔を上げると、周りにはもう誰もいなかった。
 僕は仕方なく、そのいかさまベースギターをケースに収め、重心のバランスが悪くてひどく重く感じられるケースを、ずるずると引きずるようにして帰っていった。

 数日後、一杯食わされたという思いで、もう絶対口を聞かないようにしようと思っていた神田が、涼しい顔をして近寄ってきた。その手には新しいギターケースが提がっている。何のつもりなんだこいつは、と思いながら睨みつけていたが、そんなことなど一向に気にしている様子もなく一方的に話しかけてきた。
「よう、俺、あれからいろいろ雑誌とか見て研究してさあ、ビートルズのジョン何とかっているじゃない、あれが持ってるのとそっくりなギターを見つけたんだよ。やっぱり、ビートルズが一番だよな。すぐに楽器屋に行ってそっくりなやつがあったから買ったんだ。一応店の人にも聞いてさ、このギターは人気があるやつですよねって。そうしたら店の人も、もちろん、これは今、一・二位を争うほどの人気ですって言うからやっぱり俺の目は確かだって、すぐ買っちゃったんだ。だからさあ、これからメンバー集めてバンド作ろうぜ。ビートルズのコピーバンドだぜい」
 神田はそう言うと、手に提げていたケースから得意げにギターを取り出した。
 しかし、そのギターはジョン・レノンの使っているリッケンバッカーの黒いモデルではなく、色は黒でも、モズライトというメーカーの、ベンチャーズモデルだった。




Entry3
『月魚』  
橘内 潤・・・・・



「わたし、もう帰らないと」
 そうして春海は月を見上げる。
 満月を一晩過ぎた、どこか不安そうで貪欲そうな月を見上げる。
「だめだよ、帰さない。春海はもう、ぼくのモノなんだから」
 夏樹は手にした鎖を引寄せる。
 窓枠にあごを乗せていた春海は、首輪から伸びた鉄鎖にひかれて深緋色の絨毯を這いずる。その両手首は後ろ手に鉄枷を嵌められ、その両足首はそれぞれに鉄球をひきずり、石畳に敷かれた絨毯の長い毛足が赤錆びた音を包み込む。照明は夏樹が階下から持ってきた蜀台と、窓――石壁の一部を四角に切り取っただけのもの――から差し込む月明かりだけ。ゆれうごく薄い光は、石造りの室内に一層の寂寥を添える。
 夏樹は木製の粗末な寝台に腰を下ろして、春海を見つめる。
 やがて春海は、頬と膝とで夏樹の足許まで這いずってくる。月光を透かす華奢な裸身は、錆の浮いた拘束具を痛々しいまでに実感させる。
 窓から寝台までたった数歩の距離を這っただけで、春海の肌は上気する。足許から夏樹を見上げれば、胸にかかる黒髪が流れ落ちて赤味の差した頬が露わになる。薄く開かれた唇が、此処でない何処かを見つめる瞳が、夏樹を捉える――否、夏樹が囚われる。
 春海の一挙手一投足に、夏樹の五感は支配される。思い出したように擦れあう鎖のささやきが、規則正しい律動でもって零れる吐息が、耳朶をくすぐる。陽光を知らない白磁の皮膚はほのかに染まり、烏の濡れ羽のごとき光沢を帯びた黒髪が瞳を縛って放さない。窓から流れ込む夜気に紛れて、ねっとりした汗が匂いたっては鼻腔を満たし。ひりついた喉は吻合の味を思いだす。手に触れた頬は温く、極め細やかなサテンのように。
「お願い、もう帰らないといけないの」
 懇願の眼差しで見つめ、頬を撫でる夏樹の手へと舌を這わせる。
 指の一本一本にしゃぶりつく春海を、黙って見下ろす夏樹。薄目の唇から時折覗くぬめった舌先が指に絡みつき、撫でるように扱くように、唾液腺から分泌される潤滑油を塗し込んでいく。
「ああ……春海は、奉仕すれば帰してもらえると思っているんだね。でも駄目だよ」
 溜息を交えて告げられる言葉に、春海は反応を返さない。ただ一心に手指への奉仕をつづけている。
 夏樹は微かな苦笑を浮かべる。
「春海、きみは売られたんだ。帰れる場所なんて、もう何処にもないんだよ」
 むしろ慈しむような柔らかな口調も、春海に耳にはまるで入らない。否定するでもなく拒否するでもなく、ただ無心に奉仕をつづけるだけ。やがて五指のすべてを唾液で光らせれば、上目遣いに夏樹を見つめて褒美をねだる。つまりは、帰してくれ、と。だから夏樹は、駄目だ、と首を振る。
「早く帰らないと、父さまも母さまも心配するの」
「ふたりとも死んでるよ。潮は首吊りで、葉子は入水で」
「兄さまがきっと心配してるわ」
「それはないね。きみに兄などいないのだから」
「いるわ!」
 初めて、春海が声を荒げる。
「へえ。だったら、兄さんはなんて名前だ?」
「名前……」
 口ごもる春海と、憐れむような夏樹。
 俯き、唇を噛んで必死に記憶を手繰る春海を、夏見は黙って見守る。春海はやがて、思いつめた面差しで夏樹を見上げる。
「名前……わからない。わからないけれど、きっと待ってるわ」
 訴える瞳が、悔恨を滲ませる瞳と絡みあう。
 夏見は目を瞑り、ひとつ息を吸って目を開く。そして口を開く。
「駄目だ。帰すことはできない」
「なぜ……なんで? 兄さまが待ってるわ。帰らな――」
「きみに兄などいない、だから駄目だ!」
 怒声に刺された春海は、びくんと硬直して言葉を失う。とうに紅潮の退いた肌は、月光に静脈を透かして蒼白く輝き。
「……わたし、帰れないの?」
「そうだ。帰れない」
「帰れないのね」
「帰れないんだ」
 何遍となく繰り返した言葉。


 これは、月と魚のおはなし。

「ねえ、お月さま?」
「なんだい、不器用な魚」
「わたし、溺れるのにはもう飽きたわ」
「飽きたから、どうしたいんだい?」
「飽きたから、水から上がりたいの。もう上がっていい?」
「ああ、いいとも。きみが好きなときに、上がればいいさ」
「どこまで行っても水のなかよ。どこから上がればいいの?」
「ぼくが出口だよ」
「お月さまが、出口なの?」
「そうだよ。ぼくのところまで泳いでくればいい」
「わたし、喰べられちゃうの?」
「そうだよ」
「それは、嫌だな……」
「では、永遠に溺れているといい」
「それも嫌」
「じゃあ、喰べられるかい?」
「それも……嫌」
「どちらかひとつ、選ばなきゃ」
「……そもそも選びようがないわ。だってわたしは、不器用な魚。溺れることしかできないもの」
「そうだな。選びようがない」
「でも、溺れてるのにはもう飽きたのよ」
「そういわれても、どうしようもないね。なぜって、きみは“不器用な魚”という存在なんだから。もしも泳げるとしたら、きみはもう“不器用な魚”ではなくなってしまうのだから」
「……不器用なわたしは、みんながあなたのお口に飲み込まれていくのを、見送るしかできないのね」
「そうだよ。でも、それでいいじゃないか」
「あら、どうして? わたしは寂しいわ」
「ぼくと二人っきりでは、つまらないかい?」
「ん……そうでもない、かしら。こうしてお話してるの、楽しいわ」
「それなら、いいじゃないか……不器用な魚でも。溺れながら、ぼくを見上げていればいい」
「お月さま、あなたは溺れるあたしを見下ろすだけなのね。手を触れることも、喰べることもできないのに、それでいいの?」
「いいさ。ぼくの手は爪が鋭すぎて、きみの身体を裂いてしまう。ぼくの口は大きすぎて、空気と一緒にきみを吸い込んでしまう。だから、見下ろすだけで満足なんだよ」
「わたしは不満よ。だって、溺れているのは飽きてしまうんだもの」
「だけど、きみには選びようがない」
「そうね。わたしは溺れるしかできない」
「溺れていなよ。見ているからさ」
「溺れているわ。しかたないから」

 これは、月と魚のおはなし。
 既望月と溺魚の想話。


 窓枠にあごを乗せ、ただ月を眺めていた。
 春海がこの石造りの部屋に囲われて以来、変化のあるものは窓枠から覗く月だけだった――それもまた、不変の周期で干満を繰り返すだけだが。
 ただひとつの窓は、太陽の眠る時間にしか開かれない。陽光は重い石戸に遮られ、月光と星光だけが春海の本繻子のごとき艶やかな肌を撫でる悦予に与かれる。
 見上げる月は真円をわずかに過ぎた、撓んだ円を模っており。見つめているだけで吸い込まれそうになるも、後ろ手に繋ぐ鉄枷が、足首を捕らえる鉄球がそれを許さない。天上へと落ちそうになる身体を、無言で縫い止めるのだ。
 夏樹はいない。
 いつも夜になると現れて、窓を開放する。そのあと居残るのか、また出て行くのかは日によってまちまちだ。夏樹が何者でどんな理由があって自分を監禁しているのか、春海は知らない――否、なにも知らない。自分が何者でいったい何時から囚われているのか、それすらも春海は知らなかった。ただ、おぼろげに父がいて母がいて、そして兄がいたような気がするのだ。
 思いだせない兄の顔が、堕ちてしまおうとする心を繋ぎ止めて放さないのだ。

 泳ぐことも溺れることも、叶わない。
 ただ、月を見ている。




Entry4
依存症  
松田めぐみ・・・・・



 残業を終えて家に帰ってきたのは午後11時を過ぎていた。着替えもせずに、ぼんやりコーヒーを飲みながらタバコを吸う。コーヒーを2杯飲んで一息つくと、さっきまで足元をうろついていたウサギの姿が見えない。名前を呼びながら探すと部屋の隅でうずくまっていた。
「どうした? 具合悪いの?」
(さっきまで元気だったのに……)
 そんなことは関係がないことは知っていたはずだ。自然界では底辺に位置するウサギ。肉食動物の餌として存在し、病気になることはそのまま死を意味する。限界まで逃げ続けなければ、強がっていなければならない。具合が悪ければ悪いほど元気ぶって見せる。強がって見せる。最近食が細くなっていた。糞が小さく量が少なかった。でも、この気候のせいだと思っていた。
「何処が痛いの?」
 返事が帰ってくるわけはないけれど、聞かずにはいられない。頭を撫でていると静かに目を閉じたが、それもつかの間でひきつけを起こした。のた打ち回る姿につい大声を出してしまった。
「何処が痛いの? どうすれば良いの?」
 抱き上げてタオルに包んで病院の診察券を探す。午前0時前。病院の留守番電話は冷たく営業時間のみを告げた。こんな時間、東京ならあるかもしれない。でも、仙台で開いている動物病院などあるのだろうか、しかもウサギを診てくれる病院……。
 動物病院は限りなくあるけれど、ウサギなどを診られる病院はまだまだ少ない。動物病院とは、つまり犬猫病院であることが多い。
 PCの電源をONにしてインターネットで探す。ウサギは激しく痙攣している。マウスを持つ手が震えて上手く動かせない。ウサギの毛が目に入る。コンタクトを震える手でなんとか外して皿の上に乗せる。ケースに入れられないほど私の手は震え、ウサギの痙攣は治まらない。いらつきながら自分の手をピシャリと叩く。PCの画面が見えない。あ、眼鏡、眼鏡。
祈りながら検索する。
「あった! あった! あった! 待っててね、電話するからね、連れて行くからね!」
 焦点のあっていないウサギの目をみながら携帯を手にする。しかし、押せない。震える手では携帯のボタンは小さすぎる。携帯を放り投げて自宅の電話でかける。
 1コールで女の人が出た。状況を説明しようとするがパニックのために上手く出来ない。
「ひきつけを起こして、痙攣してて、まだ痙攣してて、えっと、えっと……。」
女の人は冷静に言う。
「なんの動物ですか?」
「あ、スミマセン。ウサギなんです。ミニウサギ。」
「すぐに連れて来てください。」
 大まかな場所を聞くと、やはりそう遠くはない。しかもわかりにくい所ではない。
 通勤用のバッグを肩に引っ掛けて、ウサギを抱いて外に飛び出す。鍵を忘れて、部屋に戻り再び外へ。階段を下りてから雨が降っていることに気がついた。傘を取りに戻っている時間などない。ウサギをタオルにしっかりと巻いて車まで走った。ヒールをぬかるみに取られて涙が出た。
(あぁ、なんでパンプスなんて履いているんだ。)
 エンジンをかけると同時に発信させる。片手でウサギを抱き、片手でハンドルを握る。ウサギの痙攣は治まらない。
「もう少しだよ。頑張って、頑張って、死なないで。」
 絶えず声をかける。もし死んでしまったら。
「やだやだ、死なないで。」
 何度クラクションを鳴らされただろう。今の私を邪魔したら、殴り殺す自信があると変な自信を持った。雨はさらに強くなった。
 明かりのついた病院を見つけると、なおさら涙が出た。
「すぐに開けます。」
 チャイムを鳴らすと、インターホンからさっきの女の人の声が聞こえた。白衣を着たその人は、先生だった。
 聴診器をお腹に当てる。
「お腹が痛いのでしょう。痙攣が治まるように注射をしますね。抑えててください。」
 ウサギは抵抗するほどの力は残っていないようだった。注射をされてしばらくすると痙攣は治まり、なんとか目の焦点も合ってきた。
「兆候はなかったの?」
「ここ2週間ほど食が細くなってて、糞も小さくて少なくて、気にはしていたんですけど。
元気があったので。」
「ウサギの元気はあてにならないのよ。あてになるのは糞だけ。明日の朝来られる? 今日はとりあえずの処置だから。」
「ハイ。あの、大丈夫でしょうか?」
「なんとも言えないな。容態が急変したらすぐに連れて来てね。お腹を暖めて擦ってあげて。今日は一晩付きっ切りで看病するつもりで、好きなものを何でも食べさせてね。」
 24時間のスーパーでウサギの好物のセロリを買い込む。葉の部分しか食べないから、トマトも買って、残りの部分は私のサラダになる。
 帰ってからずぶ濡れの服を着替えようと、ウサギをそっと下ろすとガタガタと震えだして、明らかに痛がっている様子でのたうちまわりだした。言われた通りにお腹を擦ってると少しは楽なようで、じっとして目を閉じる。私は着替えを諦めてずっとお腹を擦った。
「ごめんね。お腹痛いんでしょう? 私にはこんなことしか出来ないの。なんとも不甲斐無いのだけれど、ごめんね。もっと早くに気がついていれば、こんなに痛い思いをしなくても良かったのにね。此処には敵はいないのよ。もう無理をしなくて良いのよ。」
 携帯の目覚ましで気がつく。いつの間にか眠ってしまった。そして案の定風邪をひいた。体中が暑い。熱を測ると38度3分。鏡を見るとなんとも情けない顔。ウサギは静かに寝ていた。そっと頭を撫でると目を開けて、また閉じた。パジャマに着替えて今度はベッドに潜り込んで眠ろうとした時、ウサギが動いた気配があった。見に行くとお腹が痛い様子でのた打ち回り始めた。そっと手をお腹に当てた。
(あれ? 濡れている?)
 ウサギを持ち上げると下痢をしていた。ウサギは下痢をすると死んでしまうと聞いたことがあった。
(どうしよう。死なないで、死なないで。)
 お腹を擦る。落ち着くまでの2時間お腹を擦り続けた。そして服を着替えて急いで病院へ行った。レントゲンの結果、やはりお腹にガスが溜まっていて、相当痛いようだ。注射をしてもらって明日また来るようにといわれた。
ウサギは静かに寝ている。寒気がひどくて熱を測ると38度5分。私が倒れるわけにはいかない。風邪薬を飲んで、タオルケットを掛けてウサギの傍で横になる。
(自然界の底辺の動物かぁ。私と変わらないね。私も人間界の底辺の人間だよ。)
 翌日になっても私の熱は下がらずに、仕事を休んで動物病院に行った。
「良くなってきたようだね。食欲も出てきたでしょう?」
「はい。ペレットはまだ食べませんが、野菜類は随分食べるようになりました。でも、下痢をしたのです。」
「そう。お腹が動き出したようね。お薬出しますから明日はそれで様子を見て明後日また来てください。でも、油断は出来ませんから。あなたも熱っぽい顔をして、ウサギさんより先に倒れないようにきちんと病院へ行くようにね。」
 夜になると、ウサギはペレットを少し食べた。私もインスタントラーメンを作って今日始めての食事をした。
 きっと他の人から見れば、ペット依存症のさみしい女に見えるだろう。事実そうなのだろう。
(仕事辞めようかな。ずっとウサギの傍にいられるような、家で出来る仕事にしたいな。)
ギャンブル依存症でも、買い物依存症でも、アルコール依存症でもない。ペットに依存するくらいいいじゃないと思いながら、ウサギのお腹に手を当てた。




Entry6
クラフトテープ、ブラインド  
佐藤yuupopic・・・・・



 オレンジジュースを買いに行く途中。
 道ばたに、額にクラフトテープ、貼りつけた、見たことのない男が坐って煙 草、まずそうに吸っていた。そんなにまずいなら、吸わないと好いのに、使役み たく吸っていた。
 でも、煙草よりクラフトテープ、気になって、「どうしてですか?」と、覚え たての日本語で、たずねた。
(なぜって、日本人に見えたから)

「第三の目、見えすぎて、困るからだよ。あいにくバンドエイド切らしてて」

 英語通じるんだ、頭の中から聞こえるみたいな、声。空気、全然震わせない 声、音とはどこか違うカンジで、どこかで聞いた気、する。"Stadelsches Kunstinstitut"の、キーファーの前? ううん、違う、中央駅の構内放送? ド イツ語、全然出来なかったけど、訳あってほんの少し暮らしただけの町。の、

「サードアイ?」
 (瞬間、フラッシュバック、バックグラウンド、ミュージックビデオ。
 Third Eye Blind"Semi-Charmed Life"、だいぶ前の曲、景色トぶよ、に走るヤ ツ。
 間奏のハミングが、好き。キモチもトぶよ、に走るから、好き)

「気をゆるめると、きみのアタマの中も見えるよ。だから、外に出ると、たいが い煙で視界狭めるんだ。あんまり、好きじゃないけど」

「きみは好きでしょ? 赤い箱、羽ばたいてる形……金の鳥みたいな、が見 え……ああ、ウィンストン、……かな?」
 胸ポケットの辺指さされ、
「ソフトパック、だけど」
 反射的に取り出して、振って見せる。
「やあ、箱に見えた。俺は、ことに、その味が苦手だな」
「どうして見えすぎて困るのに、そんなとこ、坐ってるの?」
「人を待ってるから」
「ああ、なるほど」
「きみを待ってた」
「嘘」
「そう、嘘。友達を、待っている」
 ふウン。

「きみを待つのは明日だ。あのピンクのブーツ、履いてくるとイイ」
「マゼンダの長いの?」
「いや淡いピンクの型押ししてあるヤツ、靴箱の二段目だ、ええと、模様……花 模様の方、そっちの方が断然似合ってる」
 ああ、この人、本当にアタマの中、見えるんだ。

「授業終わったら、ここにくればいいの?」
「五限目は比較造形概論 III、か」
「そう。あんなおかしな学問よく知ってるね」
「いや、全然わかんないよ。時々きみの学校で教えてるけど」
「嘘」
「これは本当。きみの学年は教えたことないや」
「学校で、わたし、見たことある?」
「ない」
 ふウん。

「さあ、オレンジジュース、買いに行っといで」
「もう、そんなに飲みたくなくなった」
「それは悪いことしたね」
「あのね」
「何?」
「ブーツの模様、デイジーだよ」
「へえ、デイジーて花、なんだ」


 (明けて、昨日からみたら、明日)

 今日はオレンジジュース、買いに行く途中。じゃなくて、道ばたで額にクラフ トテープ、じゃなくてバンドエイドを貼りつけて坐って煙草、まずそうに吸って いる、そんなにまずいなら吸わないと好いのに使役みたく吸っている男、に用 事。
「やあ、履いてきたね。実物の方が、いい」
「リクエストにお応えしました」
「そのスカートと、よく似合ってるね(目を眩しそうに細める)」
「それはどうも、ありがとう(スカートの裾を持って旧式におじぎ)。あなたこ そ、そのシャツ、バンドエイドによく似合ってる」
「……それは、どうかな」

 立ち上がると、思ったよりも上背があって、手も足も、首もヒョロ長い。坐っ ている時とこんなに印象が違う人、そうそういないかも。どうやって折りたたん でいたのだろう。 
 それに、こんなに大きな日本人、初めて会った。日本語の先生はみんなわたし より、小さかったり、ほとんどかわらないくらいだった。レストランで隣り合わ せた”NOMO”はテレビで観るより大きくてびっくりしたけど(ロブスターをむし ゃむしゃ食べている所に、迷惑かな、と思いながらも、声かけたけど、全然いや な顔しないで、丁寧に手を拭いてから握手してくれた。人として、とってもカン ジがいいな、こう云う人好きだな、と思った)、ここまでじゃなかった。”DAI- MAJIN”はもっと大きいかも知れないけど、会ったことない。し、それよりこの 人の方が、うんと大きいかも。見上げると、首が痛い。
「四分の一は、ここの国製だよ」
「ああ、そうなんだ。わたしは、半分だよ」

 額にバンドエイドを貼った男と、カットが高速な映画、観て、蟹をカゴいっぱ い、なにもしゃべらないで、ばかみたく、食べて、ワインおいしかったね、て、 煙突の影、長く伸びる、工場脇の川沿いを、デイジーのピンクのブーツで砂利、 ジャらジャらジャくジャく云わせて、時々、向こう岸にきらきら、している、ビ ルや高速道路の、灯りを眺めるのに、足を止めると、ジャらジャらジャくジャ く、も止まるから、少し先を行く男が、確かめるように、振り返って、「ああ、 いる。いるのは”見えてる”けど、音が止むと、不安だ」、て目で、口には出さ ないけど、その度にかなしいような顔で少し笑うから(意外に気が小さいんだ。 そう云うの、やじゃないかも)、いつの間にか手、あったかいような、そうでも ないような、わたしの手全部飲み込むみたくでっかい手、つないで歩いて、それ から。
 男の、部屋、(ぼんやりいい匂いがする。煙草の匂いは全然しない。本当に普 段は吸わないんだ。本棚がいっぱい、床にも山積み、なだれ寸前のもある、蹴ト ばさないように、気遣って、歩く。男の足は反射的に、よけている。ああ、ここ は、この人の部屋だから、当たり前か。半分はレコード棚。頼んだら、聴かせて もらえるのかな。急にちょっと眠くなって、疲れているんだなと思う。何の先生 か、わかんないけど、ここ、きらいじゃないかも)の、真ん中のでっかい真っ赤 なベッドで一緒に。
 朝まで、眠った。


 (明けて、昨日からみたら、また、明日)

 淹れてくれたコーヒー、泥みたく濃くて苦いけど、おいしい、背中と肩に散っ ている、うす茶色いそばかす、星みたい。夜は気づかなかった、
「おかしいこと考えるンだな」
「何が」
「星、みたいかな」
「うん、そんなカンジ」
「他人の考え方、て、おもしろいな」
 アタマの中が、直接、つながっているみたいな変なカンジ。わたしには相手の 声は聞こえないけど、こっちからは全部つながっている、電話の片通話、みたい な、カンジ。でも、慣れるとか、じゃなくて、初めから、こう云うもんだ、て考 えるより、思っている自分の方が、何よりも変な、カンジ。

 第三の目、ふさぐモノ、
「寝る時もそのままなんだね」
「一人なら、しないよ」
「それ、はがしてみせて」
「もっと、全部見えるけどいい、かな?」
「全然かまわないよ、もっと見たらいいよ」

 完全に銀色の目、なんてはじめて見た。
 きれいだなア。
 でも、青いんだ。

「その曲、やめてくれないかな、あんまりイイ思い出ないから」
「曲?」
「今、アタマで歌ったろ、"Semi-Charmed Life"」

 なんでも見えるんだなと思っ
「見えるよ、や、かな?」
「やじゃない、」
「ああ、知ってる。でも言葉で聞くと、うれしい」
 た。
 全然やじゃない。

「何処かで会ったことあるかな」
「ないね、俺、ドイツ行ったことないし、ましてやフランクフルト、なんて写真 の中だけだ」
「気のせいかな」
「気のせいだね」
「でも初めて会う気はしない」
「俺もだよ」
「変だね」
「そういうもんだよ」
「そうかな」
「そうだよ」
「こうゆうの、よくあるの」
「ないよ」
 ふうン。

 わたし。
 この人。
 好きかも。

「ありがとう、俺もだよ」

(註)
1…Stadelsches Kunstinstitut(シュテーデル美術館、ドイツ、フランクフルト)
2…キーファー(アンゼルム・キーファー、'45年生まれドイツの美術家)
3…Semi-Charmed Life(Third Eye Blindの'97年のヒット曲)
4…ウィンストン(Winston、煙草の銘柄)




Entry7
ラストピース  
伊勢 湊・・・・・



 故郷にこの季節に戻ってきたのは十年ぶりになる。お盆より十日早いだけなのに、全てが終わりの予感をはらんだお盆とは違って見えた。太陽は眩しさを隠すことなく主張し、蝉の声は自分達の死が近いことなどまるで気にしていないように夏の空気を精一杯に振るわせていた。
「あんた帰ってくるならちゃんと電話せんとね」
「急に休みが取れたんだよ」
 麦茶の入ったグラスを居間に持ってきてくれたお袋に到底納得などしてもらえない言い訳をする。実家自体に帰るのもしばらくぶりで、なんとなくお客さまを演じてしまう。
「お盆はね?」
「仕事」
 短く返事をする。お袋はたぶん今の僕の生活についていろいろ聞きたいはずだ。実家に帰るとそういう話をしないといけない雰囲気が付きまとう。僕はそれを煩わしく思う気持ちを隠さずに前面に押し出した。友人や親戚が集まる前のこの時期に戻って来た理由の一つにはいちいちそういう話をしたくないというものもあった。
「恵子ちゃんは一人で家にいるんかね?」
「別れたよ」
「そうなの?」
 驚きと失望の入り交じった複雑な声でお袋が言った。
「なんでね?」
「いろいろとね」
 五年近く付き合って、後半の二年半は一緒に住んでいた。年齢的なものもある。周りは自分達以上に結婚を確信していただろう。僕自身もそれを否定したこともなかったが、それを確信したこともなかった。だから、いろいろというのは嘘ではない。まさか携帯の着信音が原因である日突然家を出て行ったとは言えなかった。自分でもなぜそんなことをしたのか分からい。でも僕はその電話が待ち遠しくて、そうせざるを得なかった。去年の夏、かつて約束を交わした彼女から葉書が突然届いた。僕はそこに書いてあった携帯電話の番号をすぐに登録し、その番号にだけかつての二人の思い出の曲を着信メロディーを設定して、葉書そのものは大学卒業以来一度も開いていない分厚い心理学の専門書に挟んで隠した。夏の終わり、夕食後に電話がかかって来たときは「昔の友達からなんだ」と誤魔化した。そのくせタバコを買ってくるとか言って携帯を持ったまま外に出た。特別な話をしたわけじゃなかったけど、なぜかそうした。二度目は年の瀬の十二月だった。「お正月こっちに帰ってくる?」ありきたりの言葉。僕は「まだ分からないんだ」と答えた。それだけだった。そこから少しずつ何・かが音もたてずに崩れていった。忘れていたわけじゃない。でも言えなかった。僕は正月には恵子の実家に一緒に行く約束をしていたのだ。
 「わがままなのかもしれないけど、一番欲しいものをあなたは私に与えてはくれないと思う」年が明けて、恵子はそんな短い一文だけを広告の裏紙に残して家を出て行った。

 再会を望んだのは新しい未来を思い描いたわけじゃない。その点たぶん恵子は誤解している。しかし自分が恵子が一番望むものを与えられるかどうかは正直言って分からない。
 懐かしい場所。デパートの名前は変わってしまったけれど、地下にあるこのパン屋は何も変わっていない。高校時代の放課後にいつもくるみミルクパンを齧りながらとめどなく話をしたあの頃のままだった。特に腹が減っていたわけではなかったが思い出に動かされコーヒーとくるみミルクパンを買って併設されているテーブルに座った。約束の時間まで十五分。壁の時計で確認して視線を戻したそこに、彼女はいた。
「久しぶりだね」
「ああ」
 ぶっきらぼうに返事を返す。一瞬にして自分が高校生に戻った錯覚を覚えた。
「私もパン買ってくるね」
 翻って少し膨らんだスカートがセーラー服に見えた。僕は彼女が見ていない隙に中指と親指で強くこめかみを押さえる。彼女が同じパンを持って戻ってくる。聞き慣れたレコードを聞いているような感じだった。時間の流れは世界中のどんな偉い博士だって解明していない。もしかしたら黒い円盤の中に閉じ込められた音楽たちのように同じところを流れ続ける時間だって存在するのかもしれない。そんな気がした。
「私もね、ここすごく久しぶりなの。近くに住んでるのに」
「どれくらいぶり?」
「あれ以来、かな」
 鮮明に思い出す。三年間だから。彼女はそう言った。僕が東京の大学に行く前日のことだった。近くの都市の看護学校へ進むことになった彼女。その期間は三年間で、卒業したら東京に出てくると僕達は約束していた。今にして思えば三年間は短い時間ではなかったと思う。それでも僕は待った。でも結局そのあと彼女が東京に来ることはなく、約束の日が過ぎてから、それまでの気持ちが全部ただの幻だったかのように急速に彼女のことを忘れたつもりだった。何人かの女の子と付き合い、どれも長続きせずに別れた。恵子と出会ったのはさらに二年後のこと、高校時代からの友人から彼女が東京に来なかった原因と思われる話を偶然聞いた少し後だった。
「あのとき、どうして言ってくれなかったの?」
 しばらく懐かしい思い出話をした後、来るとは分かっていたけどやはり気まずい沈黙の後で僕は尋ねた。結局それを話すために、きっと僕達はここにいた。
「ありふれた理由よ。悩ませたくなかったから」
 彼女が看護学校を出る直前、彼女の父親が倒れたという。その後、彼女は地元の病院で働き始めた。父親は残念ながら目を覚ますことがなく、それから母親と五才下の妹と三人で暮らしてきたという。
「せめて教えてくれたら。電話だって良かった」
「ごめん。あのときは出来なかったの」
「どうして?」
 彼女は少し俯いた。会えなくて別れていく二人。ありふれた話。そう自分にいい聞かせながら僕は答えを待った。たぶん彼女も同じことを自分に言い聞かせていたのかもしれない。
「信じちゃいそうで、期待しちゃいそうで…。そうして欲しくないのに、そうして欲しいと思っちゃう自分がいたの。戻ってきて欲しいって」
 僕は上手く答えの言葉が見つけられず、甘く香ばしいくるみミルクパンを強く噛み締めた。

「聞いたよ。同棲してるって」
 歩き慣れた道を駅まで歩く。再開発で変わった景色がこの世界の時間の流れを正常に戻そうとしていたけど、僕の足にはこの道はまだ慣れ親しんだ道だった。
「ああ」
 本当のことは言わなかった。いずればれるだろうけど、仕方がないことだった。
「そっちは?」
「うん。最近一応付き合っている人はいる。ちょっと年上だけどお医者さん」
 最近、か。妹が社会に出たのだろう。
「結婚するの?」
「分からない。でもその前提のお付き合いってことにはなってる」
「そうか」
 やっぱりちょっと悔しかった。彼女が苦しんでいるとき、恵子と会う前、いやたぶん恵子と出会ってからも僕は自分のことしか考えていなかったというのに、それでもやっぱり悲しかった。
「自分の…」
「えっ?」
「いや、なんでもない」
 気持ちを確かめなきゃ駄目だよ。そう言いかけて止めた。別にその台詞を言うのが格好悪いと思ったからではない。確かめようにもどうすれば分からなかった自分がいた。でも、今はもう違う。だから分かる気がした。きっと彼女はそれを知っている。そのうえでの決断であり、そのための今日のこの時間だった。
「オレたち、遅れた失恋だな」
「そうだね」
 自問自答を繰り返した日々、疑いもなく鳴き続ける蝉、半永久的に続くかと思える眩しい太陽。いつもよりも早く、今年はそれらが終わっていく。
 汽笛が近くに聞こえた。もう駅はすぐそこだった。




Entry9
雨の中の女  
ハンマーパーティー・・・・・



 急に雨が強くなったので、明雄は買い物にいくのをやめた。テレビをつけるとサッカーの試合をやっていて、見るでも見ないでもなくそのままにして寝転がった。
 兄が朝につくっていったコーヒーを暖めなおそうとしていたとき、玄関のチャイムが鳴った。
 明雄は黙って玄関に行き、魚眼レンズに目をやった。長い髪をずぶ濡れにした女が立っていた。うつむいているので顔はよく分からない。兄の彼女でないことは分かった。まだ会ったことはないが二人が映っている写真は飾ってある。
 うすら返事をしながら玄関を細目に開けた。女はうつむいたまま黙って立っている。雨がアルミの雨樋にあたる音が強いので、少し大きい声でたずねた。
「兄の知り合いのかたですか?」
 女が目をあげた。化粧はしていないがきれいな顔立ちだった。表情もやさしげだ。長い髪から雨滴がしたたり落ちている。
「雨、すごく強くなっちゃって」
 前からの知り合いのような口調で女がそう言う。明雄は戸惑って次の言葉を探した。ドアを大きく開けて固定させた。
「兄はいないんですよ。僕はただの居候なもんですから。ちょっと待ってください」
 ユニットバスへ行き、かけてあったバスタオルをつかんで足早に玄関に戻った。
「とりあえず、これで拭いてください」
 女はバスタオルを受け取るとゆっくりと髪を拭きはじめた。
「電話してみます」
 女は何も言わなかった。明雄は携帯をとりに部屋に戻った。兄にかけると電源が入ってないか電波が届かないところにいる旨のメッセージが流れた。
「兄に連絡とれないみたいで。何時ごろ帰るか分からないんですよ」
「土曜日はいつもデート?」
「いや、いつも飲み会とかで遅いみたいなんです……。ちょっとすみません」
 コーヒーメーカーが音を立てだしたので台所に戻ってスイッチを切った。玄関に戻りかけて、思いついてコーヒーカップに注いだ。
 女も帰るつもりはないらしく、半開きのドアの前に立っている。雨はさっきより強くなり風も吹いてきた。
「コーヒーどうですか。砂糖とクリームいります?」
 女はバスタオルを軽くたたんで明雄に返すとコーヒーを受け取った。
「ありがとう。暖かい。このままでいいわ」
 バスタオルからほんのりと女の香りが漂った。
「ここ兄のアパートなんで勝手にあがってもらうわけにいかないんですよ。すみません」
「知ってるわよ」
 女は小さく笑いながら言った。
「もともと干渉しあわないんです。僕は一ヵ月の会社の研修が終わったら田舎の実家に帰るので」
「そう」
 女は手ぶらだ。ベージュ色のブラウスがはりついて下着の線があらわになっている。マニキュアはつけていない。空色のサンダルを履いていた。
「あの、あれですか? 兄とつきあってるとか、兄とつきあってたとか、そういうかたですか?」
 女は無言で笑ったままだった。しばらくして口を開いた。
「あたしはなんにも悪いことしてないのよ」
「僕に言われても困りますけど」
 女が唐突に核心にせまるような言葉を吐いたので明雄は戸惑った。勢いでそう言い返した。少しいらだった。
「兄には話しておきますよ、あなたが訪ねてきたこと。お名前は?」
「言わなくても分かるわよ」
「はあ」
 隣の住人が中から鍵を開ける音がして、少しドアを開いてすぐに閉じる音が聞こえた。つづけて鍵を閉じる音がした。
「兄弟で冷たいのね」
「いや兄弟とか関係ないですよ。そういうことじゃないと思うんですけど」
 テレビのサッカー中継の声がぼんやり遠くに聞こえた。誰かがゴールを決めたらしく、アナウンサーがかん高い声で叫んでいるのが分かった。
「ごちそうさま。おいしかった」
「いえ。立ったままですみません」
 女は、そんなこといいのよ、と言いながらドアに手をかけて明雄に近づいた。
「ここであなたと関係したってお兄さんに言ったらどうなるかしら」
「どうにもなりませんよ」
 女の匂いに少し鼓動が早くなるのが分かったが、また唐突なことを言われて醒めた。
「激しく求められたって言ったら」
 からかわれている、と思うと明雄はいらだちが増した。大人の女にからかわれるほど自分は子供じゃないということを示したかった。言葉でやりすごそうと思った。
「無理ですよ。兄は僕のことよく分かってますから」
「冷静なのね。たしか三つちがいよね」
「当たり前のことを言ってるだけです。もし万が一、そういう関係になったとしても、兄は僕に干渉しませんよ」
「レイプされたって言ったら?」
「なおさら無理です。誰も信じません」
 女の目が潤み、涙があふれてきた。小さく笑いながら涙だけが目尻から零れていった。明雄は黙ってバスタオルを女に差しだした。
「あなた、お兄さんにそっくりよ」
 明雄は言葉に詰まった。女は静かにバスタオルを受け取るとうつむいて目にあてた。
「理屈で負けるのよ。いつも冷静でぶっきらぼうで。自信に満ちあふれてて」
「まあ似てるかもしれませんね」
 明雄はそう言いながら、こんな言い方も兄貴みたいだと思った。女はバスタオルとコーヒーカップを差しだすと黙ってふりむいて階段のほうへ歩きだした。明雄はとりあえず足元にコーヒーカップとバスタオルを無造作に置いた。
「ちょっと待って。傘」
 明雄は玄関横の洗濯機置場に無造作に立てかけてあった透明のビニール傘を取ると、軽く埃を払った。足元のコーヒーカップを倒してしまい、残っていたコーヒーがこぼれた。明雄は舌打ちをしながら靴に足を入れた。
 女は階段を降りてアスファルトを歩きはじめていた。ハイヒールの踵が雨音のなかで小さく響いていた。明雄は傘を開いて女の頭の上にかざした。
「これ返さなくていいですから。百円ショップで買ったビニール傘なんで」
 女は黙っている。
「僕にいろいろ言われても、どうにもなりませんよ。とりあえず、そういうことです。冷たくてすみません」
「分かってるわ。あなたたち、ほんとそっくり」
 女は横目で明雄を見るとまたそう言った。
「しょうがないです。似てしまったものはしょうがない。どういう事情があったか分かりませんが、兄と連絡とって話し合ってください。僕はもう来週で実家に帰るので。とりあえず駅まで送ります」
「ごめんなさい。ありがとう」
「いえ。とにかく僕ら兄弟はお互い干渉しない暗黙の了解があるんで。何もしてやれません」
 商店街を通って駅に近づくにつれ人が増え、みんな傘のなかに背をちぢめるようにして歩いていた。屋根のあるところまでついて、明雄は傘を閉じて女に手渡そうとした。女は受け取らなかった。
「いいの」
 明雄は女が切符を買い、自動改札に入るまでつきそった。自動改札を抜けてから女が振りむいた。
「そっくりなのはね」
 改札を行き過ぎる人ごみのなかで女の声は聞き取りづらかった。
「はい?」
 駅のアナウンスや発車のベルが響いていた。学生のグループが大笑いしている声が構内に反響していた。
「そういうやさしいところも」
 女はそう言うとプラットホームのほうへ歩いていった。明雄は黙って女を見送った。女はもう振り返らなかった。すぐに人ごみにまぎれて分からなくなった。
 商店街のほうを振り返って雨の様子をうかがっていたが、まったく弱まる気配を見せなかった。
 明雄はビニール傘を開いて歩きだしたが、風も強くてジーンズがべったり足にはりつくのが分かった。裸足で靴を履いたのでがぼがぼと変な音がした。鼻腔に女の匂いが少し残っていた。



Entry10
サマーケーキ  
るるるぶ☆どっぐちゃん・・・・・



 花火の音で目が覚めた。
 どずん。どずん。どずん。三連発で赤、青、黄色とあがる。薄暗い室内にちかちかと光が瞬いた。音も凄いが色も凄い。一瞬全てが光に包まれてしまう。
 私はサイドボードに手を伸ばした。赤ワインのボトルが置いてある。三口ほど飲んだ。
 窓の外を見下ろす。凄まじい量の人、人、人。みな空を眺めている。次の花火があがるのを待っている。
 花火は昨日始まった。昨日、私は仕事だった。一日中、遊園地のゾウの前で歌を歌った。花火はどがん、どがん、と上がっていく。誰も私の歌など聴いていなかった。
 ワインを置き、ギターを取り出す。
 二弦と四弦が切れていた。適当に爪弾く。そこそこにうまく弾けた。どがん。また花火があがる。私の視界を真ピンクが覆う。夢みたいな色使いだ。こういう色は良く夢に出てくる。自分の胸から吹き出す血の色だったり、旅路の果てに見つけた宝島で見つける、伝説の宝物の放つ光だったり。
「宝島の夢なんてまだ見るの?」
 娘の声に振り向く。娘は背後のテーブルに居た。
「起きてたのか。悪い子だな」
「眩しいしうるさいし、眠れないわ」
「それもそうだね」
 私はギターを止めた。ギターはさらに一弦と三弦が切れてしまった。五弦と六弦だけが残っていた。弦を張り替えなければならない。だがそれはもう二、三ヶ月は先のことだ。どうせこの時期は商売にならない。花火のせいで、歌など誰も聴きはしない。
 この時期は、貯めた金を使う時期だった。
「何処か行こうよ」
 娘が言った。娘は口の周りを白いクリームでべたべたにしていた。ケーキを食べていたのだ。
「またケーキを食べていたのか。悪い子だね」
「そうね。でも」
「でも?」
「パパの口の周りも、クリームだらけよ」
「え、そうかい?」
 私は頬に手をやる。クリームがべったりとついていた。
「また悪戯された」
「うふふふ」
 私達は並んで洗面台の前に立った。
「何処かへ行きましょう」
「そうだね」
 私は顔を洗い、シェービングクリームを顔中に塗って髭を剃る。
「何処が良い?」
「何処でも良い」
 娘は顔中をクリームだらけにしたまま、歯を磨いている。


「あらメイちゃん、お出かけ?」
 マンションの玄関を出ると、同じ階に住んでいる女に声を掛けられた。
「こんばんは。ほら、メイ、挨拶なさい」
「こんばんは」
 娘は小さくそう言って頭を下げた。
 娘は、名をメイという。私はあまりこの名で呼ばない。
「メイちゃん、可愛いねえ。また遊ぼうねえ」
「はい」
 娘は曖昧に微笑んで頷いた。
 娘は人見知りだった。叱られるのが怖いのだ。私はあまり叱らない。だから家では自由に振る舞う。
「こんなに大きくなってねえ。小さい時から知ってるんだよメイちゃんのこと」
 メイは、実は姪だった。まさか妹も、自分の娘をこんなロクでも無い兄に預けることになるとは思いも寄らなかったのだろう。
 メイは、あまり愛されないで育った。人の心を読めてしまうのだ。それで気味悪がられた。それで随分酷い目にあったのだろう。妹が死んで、それで家に来るようになった最初の頃は何も喋らなかった。子供を育てるのは随分疲れるだろうな、と思っていたので、私は思いきり安心した。そして安心している内に、娘は悪戯を覚えたのだった。
「大人しい子ね、メイちゃんは」
 女は娘の頭を撫でて、それで部屋へと入っていった。
「行こう」
 娘は私を促し、階段を駆け下りる。
 マンションを出ると、そこはまだ裏通りであるにも関わらず、凄い人出だった。
「沢山人がいるね」
 娘はそう言って、人混みの中へと分け入っていく。手を引かれて、私もそれに続く。
 娘は人見知りであるが、何かにつけて外に出たがった。外に出たら頭の中には人々の凄まじいばかりの思念が渦巻いて、辛いだけのはずなのだが。
 どかん。また花火があがる。
 世界中が真っ赤に染まる。
 私達は街をぐるぐると回った。様々な場所へ、私達は行く。娘は水着を買った。大人っぽい黒のビキニだった。大きくなったらこれを着て海へ行くのだ、と娘は言った。
「海へ行って、世界中を旅するの」
「じゃあ私は置いていかれてしまうね」
「ついてきてくれないの?」
「ついてきてほしいのかい?」
「ついてきてくれないの?」
「ついていくよ」
 私は結局酒ばかりを三本ほど買った。昔は服や本など、買いたいものが沢山あったが、最近はそれらには興味を失ってしまっていた。
 私達は映画館へ行った。古い映画のリバイバルだった。白黒の画面に英語の台詞。機器の故障か、それともそう言う趣向だったのか、字幕が出なかった。私達はぼんやりと画面を見続けた。
 花火の音はここには届かない。
「綺麗な女優さんだったね」
「良い映画だったわ」
 娘は言った。
「とても良い映画だった」
 映画館を出ると、花火の音が聞こえた。
 私達はその後も数軒の店を冷やかして、つまらないものを幾つか買った。
 歩き疲れて、私達はレストランへ向かう。
 私達の入ったホテルの最上階にあるその店は、どうやらファミリーなレストランでは無かった。子供連れの客は私だけだった。薄暗い照明。強い酒の匂い。店の奥では半裸の女性が天井から伸びたポールにその身を絡ませている。その隣で、もう一人の半裸の女性は、赤く光るビニールの服を脱ぎ、全裸になった。
「楽しそうな店ね」
「そうだね」
 娘はケーキを注文した。あまりクリームの載っていないケーキだった。
「これ、あんまり美味しくないわ」
 娘は随分そのケーキをけなした。いわく、甘さが無さ過ぎる、スポンジにコシが無い、フルーツが入り過ぎている。
「ケーキは、クリームを食べる食べ物なんですからね」
「そうか、残念だったね」
 私はビールを頼んだ。ケーキもビールも、凄まじい値段だった。
 私達は周りを数人の美女に囲まれていた。
 店の奥にポーカーの台があった。私と娘は周りを美女に囲まれながらそこへ行った。
 空いた席に座る。ディーラーの周りにも女が沢山いた。どうやら女にもてるらしい。確かに色男だし、それに腕も良いのだろう。
「楽しんでいって下さいね」
 男はそう言って私にカードを投げた。
 私はどんどん金をスった。男は滅法ついていた。カードの操作もしているのだろう。
 娘は私の脇にいて、ニヤニヤ笑っている。
「これ、私のオゴリですよ」
 男は私の前に、一杯のカクテルを置いた。
 私がその杯を取ろうとした時、遠くで強い音がした。
 グラグラと周りが揺れ、杯が倒れる。
「花火が、花火がお城に!」
 人々が叫んでいた。私は窓を横目にちらりと見た。
 どうやら城に花火が誤って打ち込まれたらしい。女王陛下の大きなお城が、花火の光と共に崩壊していくのが見えた。
「お城が! そんな! そんな馬鹿な!」
 城はバラバラと崩れていく。ハートのエース。クローバーのキング。ジョーカー。
「お城が、お城が、お城が」
 人々は窓にはりついて城の様子を見つめている。
「お城が、まさかトランプの城だったなんて」
 ディーラーの男が、ぽつりと呟いた。
 私は手札を見た。ロイヤルストレートフラッシュだった。私はロイヤルストレートフラッシュが嫌いだったので、手札を全交換した。
「そんなことも知らなかったのかい」
 私はそう言って、配られた札を見た。
 ファイブカードだった。
 城はどんどん崩れていく。人々は逃げまどっている。
 私はファイブカードを台の上に広げる。
 娘は隣でニヤニヤ笑っている。




Entry11
真夏の情景  
ごんぱち・・・・・



「釣れないなぁ」
 釣竿を持ったまま、五月雨千世さんは手の甲で額の汗を拭う。
 真夏の昼間近、蝉の声が遠くの林から聞こえて来る。
 鷹野市立大学の近くには、まだ田圃が残っており、幅五メートルもない用水路は、ちょっとした釣り場となっている。
 少し離れた場所にメロンの温室が、遠くには団地や交通量の多い道路も見えるが、農道を伝って田圃の真ん中まで来ると、そんな喧噪は耳にも目にも鼻にも入らなくなる。
 千世さんは背中まであるロングヘアをぎゅっと握って、ポニーテール風に持ち上げる。
 柄物のシャツにジーパンという、素気ない服装で、化粧一つしていないが、十人中九人までが振り向くほどの美少女だった。
 彼女は竿を上げる。
 だが、餌のミミズは、もうすっかり息絶えてしまったらしく、ぴくりとも動かなかった。
 でも千世さんは、エサを替えるでもなく、そのまま仕掛けをまた川に戻した。
 にゃあ。
 村山家の飼い猫、村山エルザがやって来る。茶虎の柄で、やや小柄な体格からメスである事が分かる。
 エルザは、千世さんに頭をすり寄せて来た。
 ごろごろごろごろ。
 いつもよりも愛想が良い。
 一人と一匹は、それからしばらくの間、丸い玉浮きを見つめていた。
 太陽に照らされる田圃からは、生臭いような青臭いような臭いが立ち昇り、暑さを倍増させる。
 強い日差しと空の青さは、稲の色をより緑に際だたせる。
 用水路は、多少の護岸工事はしてあるものの、水底は土のままで、背の高い草が何本か水面に顔を出し、様々な虫が飛び交っていた。
 飽きたのか、暑くなったのか、エルザは草の陰に寝そべった。

 ざばあっ。
 千世さんは、布のバッグに収まった軍用水筒の水を頭からかぶる。
 それから、餌を入れた画鋲のケースを開け、弱りかけたミミズを土の上に放し、少し水をかけた。
 にゃっ、うにゃっ。
 途端に暴れ始めたミミズに、エルザがじゃれ付く。
 エルザの魔手を逃れたミミズの何匹かは、土に潜った。
 千世さんは、餌を替えることもなく、また浮きを見つめる。
 太陽はいつの間にか一番高いところに昇って、千世さんの影はほとんど見えないほどに短くなり、近くの道路には逃げ水と陽炎が現れていた。

 ぴく。
 浮きが動き、波紋が広がった。
 千世さんはすっと竿を引き上げる。
 だが、相変わらず針にかかっているのはミミズ一匹。
 正午を廻り、蝉の声が一段と大きくなって来た。
 ふと、千世さんは辺りを見回す。
 エルザの姿がない。寝そべっていた草の陰は、太陽が動いたせいか影がなくなっていた。
 と、用水路の対岸の草陰に、エルザの茶色い毛並みが見えた。
 千世さんは荷物を持って、橋を渡りエルザの隣りに来ると、草の上にどっかり胡座をかく。
 ちょうど近くにある木の影が落ち、しかも林から吹いてくる風が通り抜ける。
 エルザは寝転んだまま、あくびを一つ。
 ゆっくり動くエルザの腹と、千世さんの呼吸のリズムが、いつの間にか合っていく。
 日陰の涼しい風、蝉の声、エルザの寝言。そのどれもが、ほどよい眠気を誘っていた。

 にゃああっ、にゃあああおっ!
 千世さんが竹の皮の包みを出したとたん、エルザがやかましく鳴き始めた。
 包みを開くと、白いおにぎりが二つとタクアンが三切れ。
 千世さんはおにぎりをがぶりとかじる。
 梅干しの酸味とほどよい塩加減が、米の旨味を引き立てる。
 にゃー、なぉぅ。
 おにぎりに口を近付けようとするエルザを、千世さんはぽいと放る。
 ……にゃっ!
 おにぎりに飛びかかろうとしたエルザの前足を、千世さんは指二本でつかまえて投げる。
 放り投げられたエルザは、一回転して足から着地する。
 にゃにゃっ。
 その後、エルザは十八回おにぎりへのアタックを試み、その全ては失敗した。

 食事を終えた千世さんは、また釣り糸を垂らす。
 エルザの方は呑気な顔に戻って、彼女の隣で眠っている。
 空では、真っ白い雲が強い太陽の日差しを浴びて、まるでそれ自体が発光しているかのように輝いていた。
 団地のベランダで布団を叩く、ぱたぱたという音がここまで聞こえて来た。
 エルザがふと頭を起こす。
 遠くの空に一片の黒い雲があった。
 にゃあ……。
 瞬く間に空が雲に埋め尽くされたかと思うと、まるでフラッシュでも焚いたように空が光った。
 千世さんは時計の秒針で時間を計る。
 七秒後。
 ――ずずごごごず。
 地響きのような雷が鳴った。
 エルザは温室のボイラーの下に潜り込んでしまった。
 ぽつ。
 用水路の水面に、小さな波紋ができて、消えた。
 ぱつ。ぷつ。ぽつ。ぱつ。ぷつ。
 波紋がいくつもでき、重なりあっていく。
 灼けたアスファルトが濡れ、独特の匂いが漂う。
 ぼーあ。ぐーぁ。ぼーぅ。
 ウシガエルの声もし始めた。
 だざざざざざぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ。
 ものの五分もしないうちに、なま暖かい大粒の雨が降り始めた。
 団地のあちこちで、布団が取り入れられていく。遠くの道路を走る車も、心なしか急ぎがちになる。
 千世さんはバッグからビニール袋を出して敷き、ビニールシートを頭からかぶった。
 ばばばばばばばばばばばばばばばばば。
 シートを雨が叩く。
 周囲の景色が雨に煙り、遠くの団地は輪郭しか見えない。
 だが、依然蝉の声は林の方から聞こえ続けている。
 雨に冷やされた風が、すぅっと通り過ぎて行った。
 だだだだだだだだだ。
 用水路沿いの道は雨でぬかるみ、泥にジーパンが汚れた。
 でも千世さんは、そこから動くでもなく、水面に浮かぶ浮きを見つめていた。

 雲が切れ、また太陽の強い日差しが射し込んで来る。
 千世さんはビニールシートの水をぱっと払ってから、木に引っかける。腕や服の裾はびしょぬれだった。
 舗装された農道の上にできた水たまりが、青空と雲を映す。
 千世さんが座っている周囲の草に無数の水滴が付き、太陽の光を反射して輝いている。
 雨粒に乱されていた用水路の水面は、ようやく静かになって、浮きの動きがよく分かるようになった。
 にゃあ。
 エルザは千世さんのそばに座り、毛づくろいを始める。毛は、ボイラーの錆が付いて少し汚れていた。
 蝉の声が、また一段と大きくなる。
 一時間もしないうちに路面の水たまりも、草の露もすっかり蒸発し、ただむっとまとわりつく湿った空気だけが残った。
 濡れた袖が乾いた頃、千世さんは水筒の最後の水を飲み干した。
 水筒の蓋を閉めて、千世さんはエルザの鼻先をちょんとつつく。
 なゃ。
 千世さんは釣竿を上げると、まだ朝に付けたミミズがそのまま残っていた。

「お魚釣りに行ったんじゃないの、おねーちゃん?」
 テーブルの夕食を見て、妹が怪訝そうな顔をする。
「行ったわよぉ」
 味噌汁と卵焼き、それに温野菜ともスープとも付かないものを千世さんはテーブルに置く。
「ボウズだったんだ?」
「うん――いただきまーす」
「いただきます」
 二人はご飯を食べ始める。
「それじゃ、今日一日ずいぶんムダに過ごしたねー」
「ううん、全然そんなことないよ。いろんな事があったんだから」
 千世さんはビールを厚手のグラスに注ぎ、飲み干した。
「蝉の声も聞いたし、太陽の光で肌が痛くなったし、夕立で濡れたし、村山さんとお話したし、風も吹いたし、それに」
「それに?」
「魚も釣れなかったし」
「それは『いろんな事』に入るの?」
「そりゃ入るわよぉ」
 ビール瓶に付いた雫が、テーブルの上を濡らしていた。





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