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第35回3000字バトル

エントリ作品作者文字数
ある老夫婦の一日 立花聡 3000
笑い壺 中川きよみ 3000
夢のある話 もふのすけ 3000
家庭用ロボットの変遷 ごんぱち 3000
シボレー 満峰貴久 3000
アルジェリア るるるぶ☆どっぐちゃん 3000
町灯り 伊勢 湊 3000
インヴィジブル ウォール クラッシャー 鈴矢大門 2998
クッキー、アンド、クリーム、チョコレート 佐藤yuu×popmusic 3000
10 『人形世界』 橘内 潤 2979

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  • エントリ1  ある老夫婦の一日   立花聡



    「ただいま」
     少し離れた和室の方に声が届く。
     廊下をドタドタと足音が伝わってくる。里子はいつも、その慌てて駆け寄ってこようとする音に笑顔が漏れる。必ず年男は、汗まみれのまるっこい顔をくしゃくしゃにして、「元気だったか」と尋ねるのだ。年男の見せる笑みは里子の楽しみになっている。とうに六十を過ぎているはずの夫の笑みは、まだ出会った頃のように無邪気だった。いや、無邪気になってきた。

    「お帰りなさい」
    「元気だったか」
    「元気でしたよ。あなたはどうでした?」
    「こっちはいつもの通りだ。そんなことより、ほら、今日は松茸買ってきたぞ、そこの商店街の八百屋のおやじがさ、いいもんだから、買ってけって言うから、二本買ってきた。どうだ、いい形してるだろう」
     年男は嬉しそうに松茸を自分の顔の隣に並べて指で指した。年男は、松茸の大きさを自慢しているのだろうが、「それじゃあ、あなたの顔が余計大きく見えるだけだわ」そう思うと、里子の頬は緩んだ。
    「やっぱり、うまそうか。よし、今日は松茸御飯にするか、どうだ? いや。吸い物がいいか。吸い物の方が食べやすいかもしれないな、そうだな、吸い物にするか」
    「どっちでもいいですよ、あなたの食べたい方にしてくださいな」
     里子にそう言われると、年男は少し考えたフリをした。
    「それじゃあ、松茸御飯にするか。いいか? 松茸御飯で? そうだな、吸い物じゃあ、お前も味気ないだろう。元気になるように、栄養もつけないといけないしな。よし、松茸御飯だ。松茸御飯」
     年男はまたドタドタとたった二本の松茸を台所まで持っていった。
     里子の頬が、また少し緩んだ。
     
    「どうだ、うまいか」
     年男は里子の顔を覗き込む。
    「おいしい」
    「そうか、よかった。少し塩っぱいかと思ったんだ。でも、良かった、おれも少しは料理が上手になったからな。実は、ちょっと松茸を炙ってみたんだ。そっちの方が香りが出るかと思って。それが良かったんだろうな。炊きあがったときにいい匂いがしたからな。そろそろお前の味に追い付いてきただろう」年男は自慢げに語った。
    「そうですね。私より上手かもしれませんね」
     里子は茶わんに鼻を近付ける。
    「いい匂い」 
     ベッドから見える景色が少しだけ変化を見せ始めていた。
    年男が生まれた年に植えられた紅葉が色付き、その奥の銀杏はもう黄金色だ。何十年も見てきた景色だが、見飽きる事がない。
    「庭が、どうかしたのか」箸が止まった里子を見て、年男は尋ねた。
    「いえ、昨日よりも紅葉が赤くなったなと思って」
    「そうか、もう十一月だから、そろそろ真っ赤になるんじゃないのか。窓開けてやろうか?」
     年男がサッシを開けると、爽やかな風が吹いてきた。
    「ありがとう」
     里子は手に持った茶碗を置くと、気持ちよさそうに背伸びした。
    「いいのか。そんなに体を伸ばして。傷めるかもしれないぞ」
    「大丈夫よ。それにずっとベッドにいる方が不健康よ。そんなに心配しないでも大丈夫だから」
     そう言うと、里子は微笑みを作ってみせた。
    「どこにも行けないのはやっぱり辛いか」
     年男は真面目な目を里子に向ける。両手に持った箸と茶碗は微動だにしない。
    「そんなことないですよ」里子が繕う。
    「すまんな、そんな体にしてしまって、おれがいつも傍にいてやれば良かったんだ。そしたら、まだ歩く位の事は出来たかもしれない」
    「私が勝手に転んでしまったのが悪かったんです。あなたは出張だったんだから仕方がないじゃないですか」
    「いや、それでも、もう少し傍にいてやれれば」
     年男は項垂れた。 
    「少し、寒いわ」
    「窓、閉めるな」
     爽やかだった風は少し冷たくなった。

     夜になると雨が降り出した。小雨の様相は徐々に力を増し、庭の木々の葉に反射して大きな音を立てる。
    「本降りになってきたな」
    「そうですね」
    「どこか痒いとこはないか」
    「ないですよ、気持ち良い」
     年男は里子の上半身を丹念に拭く。秋口に新調したはずの手拭いはくすんできていた。
     雨樋からは小さな滝のような音が伝わってくる。
    「雨、凄いですね」
    「この調子だと、明日も雨だな」
    「テレビ付けましょうか? 天気予報見ますか?」
    「いや、いい。それより痒いとこないか」
    「少し上の方が」
    「ここ?」
    「いえ、もう少し左です」
    「ここか?」
    「そこです、いつもすみませんね」
    「気にするな。おれの出来る事はこれくらいだ。大体、散々迷惑かけて、これ位しなきゃバチが当たるだろう」
     年男は、乳房の側を拭き始めた。
    「白髪、増えたな」少し視線を上げて喋る。未だに、年男は乳房や性器の辺りを、直視することは苦手な様だった。
    「そうですか、昨日と変わりありませんよ」
    「そうかもしれないな」
     
     雨は少し落ち着いてきた。せわしない音が落ち着いて、緩やかだった。年男は里子のベッドの下で、将棋盤を囲み、難しい顔をしている。
    「あなた」
    「なんだ」
    「あの…、おむつ」
    「あぁ、すまない、忘れてた」
     年男はベッドの足下から、替えのおむつを探る。大きめの袋を掴むと自分の側へ手繰り寄せた。
    「すみません」
     里子は俯いた。
    「いいんだ、忘れていて悪かった」
    「ほんと、すまないと思っています。こんな下の世話までさせて」
    「お前は何年も、おれにもっと尽くしてくれたじゃないか。それにもし、おれがお前のようになったら、同じ事をしてくれただろう」
    「すみません」
    「もういい、そんなことばかり言うな」
    「すみません」

     時刻は午後十一時を回り、年男が布団を引き出す。里子はテレビのスイッチを切った。
    「そういえばな、今日、おれが校正してると、石橋が『高橋さん。熊みたいですね』って言うんだよ。こっちはまじめに仕事してるっていうのに」
    「熊? ですか?」
    「熊」シーツを伸ばす年男の手に少し力がこもった。
     フフッ、と里子が笑う。
    「なんだ、お前までそう思うのか」
    「だって、そんな大きな体で、小さな机にしがみついてるのを考えたら。ねぇ」
    「おかしいか」
    「少しだけ」
    「そうか。おかしいか」
     年男も少し笑った。

     明かりを消しても、隣の家の照明が差し込んで、随分と明るい。里子は、よほど寒くなるまではカーテンを開けたまま寝たがった。「なんだか、優しい光具合じゃないですか」いつかそういった事を、年男は覚えている。
    「里子、寝たか」
    「起きてますよ」
     不自由な体を、僅かだが年男の側に寄せた。
    「今度、どこか行こうか」
    「そうですね」
    「今の季節だと、紅葉がきれいかな」
    「もう鎌倉は紅葉シーズンなんじゃないですか」
    「車椅子も新しくして」
     年男の声が高くなる。
    「いいですよ、今ので」
    「いいんだ、買おう。お前だって、右側の車輪が具合が悪いって言ってたじゃないか。とにかく、行こう。坂道があってもいいぞ、おれがずっと押してやる」
    「どうしたんですか、急に」
    「いいじゃないか。二人で鎌倉なんて何年ぶりだろうな。結婚して以来じゃないか?」 
    「楽しみですね」柔らかな声の返事がした。
     雨は小降りになった。月が見える晩よりも、声がよく聞こえるようだった。
    「里子」
    「なんですか」
    「子供欲しかったか」
    「少しだけ」
     
     数十分すると、里子の寝息が聞こえてきた。安らかで落ち着いた寝息だ。
     年男は里子を起さぬように、そっと布団を出た。
     台所の冷蔵庫を開けると、麦茶を手にする。冷蔵庫からの薄明かりを頼りにして、コップを探り、お茶を飲み干す。
    「鎌倉か」
     薄明かりはバタンと軽い音を立てた。




    エントリ2  笑い壺   中川きよみ



     世にも暗い顔をして帰ったら、玄関先で隣りのオヤジに出くわした。こんな時に、つまり、シツレンして自殺にすら失敗して途方に暮れて帰宅した時に、もっとも会いたくない相手だった。なぜなら彼は後光が差すくらいの底抜けに陽気なバカモノで、隣人として長年彼のバカぶりをつぶさに見てきた私としては、こちらがハイテンションの時ですら遙かに及ばない周波数の高さに恐れさえ感じているからだ。
     どん底に暗い時にまともに相手なんかしたら、それこそ本当に死んでしまう。
    「いやぁ、陽子ちゃん。すごい顔だね。寝不足かい? ダメだねぇ。若いのに。」
     周波数の高い人間というのはなぜか声まで高い。いつも裏返ったような声をしている。
    「ええ、もう寝ます。」
     慌てているので玄関の鍵がなかなか見つからない。
    「こんなに夜中に寝不足でご帰還ってぇのも、大変だ。おっちゃんはな、先刻目を覚ましたばっかりだから散歩に出てきたところだよ。」
     丑三つ時に散歩? そんなに目をキラキラさせてウロつきやがって、また藁人形で呪ってるとかなんとか、近所の連中の話題になるだろうに。それに何なんだ、その恰好は。ステテコに革ジャン羽織って。そのゴツイ革ジャン、どうせ章クンのだろうに。バレたらまた半殺しの目に遭うんだろうなあ。
    「そうそう、この間の散歩でおっちゃんは掘り出しモンを拾ったんだよ。頭なんかすっきり冴えちゃってさ。ああ、陽子ちゃんに進呈しよう。ちょっと待ってな。」
     やっと鍵が見つかった。オヤジがデカい声で喋ってたからもしかして家族の誰かが起きたかもしれないけれど、それでも一応そっと鍵を外して滑り込む。
     誰にも会いたくなかった。

     化粧も落とさず、部屋の明かりもつけず、ぼうっとベッドに座っていた。
     跨線橋の下を通り過ぎた何本もの電車の振動を思い出して、和哉の顔の形や手の形を思い出して、あのケバい女のしゃくれた顎を思い出して、泣こうとするたびに先刻の隣りのオヤジの甲高い声が混ざってうまく泣けなかった。意地になって集中して泣こうとしていたら、窓ガラスがビシッと割れた。
     驚いて窓の外を見ると、オヤジが満面の笑みを浮かべてちぎれんばかりに手を振っていた。
    「陽子ちゃーん」
     本当に呼ばれていたのだ。放っておくとさらに叫びそうだったので慌てて玄関から出た。
    「呼んでるのに気付かないんだもんなぁ。でも、おっちゃん、コントロールいいでしょう。」
     自慢げだった。真夜中に、小石で私の部屋の窓ガラスを割ったことが。
    「ああ、ああ、コントロール良くて助かりましたよ。悪かったら家中の窓をぶち抜いてからようやく私の部屋のガラスを割る結果になったでしょうからね。」
     頼むから、今夜だけでも私のことは放っておいて欲しい。
    「これ、あげるよ。すごく良いよ。本当に頭がすっきりするんだから。」
     その頭が、か。
     紛れもないガラクタと知りつつ、でもその小汚い壺を受け取るまでオヤジは決して引き下がらないことをも知っているので、私は諦めて受け取った。
    「どうもありがとうございます。ところで、それは何ですか?」
    「あ、これ? これねぇ、最近買ったんだ。どうせ散歩するなら治安維持のために不審者を取り締まろうと思ってね。」
     よくぞ聞いてくれた、と言わんばかりの嬉しそうな顔をしてオヤジはボウガンを振り回して見せてくれた。
    「おじさんが取り締まられてしまいますから、それは置いていった方がいいですよ。おじさんだったら素手でも不審者をやっつけられますよ。」
    「そうか、そうだなー。こんなの使わなくてもやっつけられるよなー。これ、高かったしまだ1回しか使ってないからもったいないしなー。いや、陽子ちゃん、いいこと言うね。」
     オヤジが取り締まられる度に身元引き受けに走る章クンを思った。ストレスのあまり近頃では立派なヤンキーになってしまったけれど、こんな親を持っているのではそれも致しかたなかろう。隣家とは極力関わらないように暮らしているものの、陰ながら人助けをしたなと実感する。

     嬉しそうなバカモノを通りに追い出して…なぜか夜道を疾走して行った…小汚い壺を持って、私はとぼとぼと階段を上ってまた自分の部屋に閉じこもる。今度こそ、集中して泣くつもりだった。

     ケッコンしようなんて、1年前には甘い言葉に和哉と二人で酔っていた。和哉のバイト先にあの女が現れた時から嫌な予感がしていたのに、油断していた。和哉があんなに変わってしまうまで、どうして何もできなかったのだろう。子供ができたなんて話だって、どこまで本当だか分かりはしないのに、和哉は疑いを持つことすらしないくらいのめり込んで、しかも私はずるずると二股かけられていた。
     深く考えようと努力するほどに心のどこかがひどく冷めていてゆく。私は無理矢理悲しみに陶酔しようとする。
     ガッタタン、ガッタタン、ガッタタン…
     足の裏と手の平に残る暗いリズムを思い出そうと努める。
     次の電車にしよう、もう少し呪ってから飛び込もう、もう1本分だけ後悔してから飛び込もう、和哉はきっと取り乱して悔やむことだろう、もう少しその姿を想像してから飛び込もう。
     未練たらしく考えていたら終電が通り過ぎてしまった。隣りのオヤジを笑ってる場合じゃない。私だって目が覚めるようなバカモノだ。
     半端に意識が拡散して、必死に集中しようとするのとは裏腹に思い詰める筈の気持ちは始末の悪い感触になる。

     ずんぐりむっくりして育ちすぎたスイカのようなサイズの壺だった。大きさの割に軽いところがまた嘘っぽさを強調している。部屋に持ち込んだことも半ば忘れていたのに、空が白み始めた頃、どういう具合か壺が妙な具合に存在感をアピールしはじめた。
     信じられないかもしれないが、笑っていたのだ。壺が。
     バカモノが魅了されて拾ってきた壺だけのことはあって、それは未明という時間を考えればあまりにも傍若無人な笑い方だった。最初こそ、うふふ、なんてしおらしい含み笑いだったものの、やがて、ぶわっはっはっは、という感じの爆笑になった。
     私は疲れてどうでもよくなっていたので、放っておいた。壺はますます調子に乗って笑っていたが、不思議なことに家族は誰も起きた気配が感じられなかった。
     もしかしたら、バカモノにしか聞こえない笑い声なのかもしれない。そう思い付くとひどく納得して安心した。
     東の空は新しい朝の光をはらんで美しく明けていった。その澄んだグラデーションをながめて壺のバカ笑いを聞いていたら、私の気持ちも解放されてしまった。オヤジが念を押したすっきりするというのは、まさにこういうことだったのだろう。まあ、あのオヤジは年中ぶっ飛んで異次元で澄み切っているのでいまさら何をどうすっきりするのか知らないけれど。

     それ以上でもなければそれ以下でもない。ただ、汚い壺が笑っていて、私はそれを聞いてすっきりしてしまったというだけのことだ。

     ゴロゴロゴロという不穏な重低音が近づいてきて、それは予想通り隣家の前で止んだ。オヤジがまた何か拾って帰ってきたのだろう。もはやたいがいの音は聞き流す癖がついているのだが、改めて注意してみると非常に元気づけられる音に聞こえなくもない。不思議な生き物、あのオヤジがのうのうと生きている以上、私が生きていて悪い法はなにもないのだ。

    「陽子ちゃーん、笑い壺、効いたかーい?」
     オヤジが叫んでいる。




    エントリ3  夢のある話   もふのすけ



     私は不機嫌だった。月に一度あるかないかの休日にセールスマンの相手などしなければならない。あれほど妻にはアポイントなしで家に人を上げるなと言っておいたのにすんなり通してしまったというのだから40年来共にしてきた者として理解に苦しむ。
     「で、何を売りにきたんだ」
     私は無愛想に目の前のセールスマンに言った。黒いスーツで身を固めたセールスマンは真剣な面持ちで口を開いた。
     「はい、私は旦那様に夢を売りに参りました」
     ああ、これか。
     この手の売り文句で来るセールスマンがろくな物を持ってきた試しはない。
     突き放すように私は続けた。
     「水かね、それとも空気というのならば帰ってくれて結構だが」
     「とんでも御座いません。私は『夢』を売りに来たので御座います」
     「だからねぇ」
     私は回りくどいの嫌いだ。
     だがセールスマンはその展開が予想どおりであったらしくニヤリと笑うのである。
     「つまりですね。我々が研究している機関において、睡眠時に見る夢を自由に操れる新薬の開発に成功した訳です」
     「ほう……それはまた、しかし私も一応新聞には一通り目を通しているがね、一度もそんな記事は見たことはないがな」
     「当然で御座います。今回の商品にいたっては全く極秘に、旦那様の様な社会的に地位の高い方々にだけターゲットを絞って開発をしてまいりました物ですので」
     彼は目を逸らさずに真っ直ぐ私の方を向いて言う。詐欺師だとすれば一流の詐欺師に違いない。セールスマンは手元にあったセカンドバックから指先ほどの小さな瓶を取り出した。中には一錠だけ白いカプセルが入っている。
     「此方がサンプルで御座います。一度使用していただければその効果の程は分かっていただけるはず、就寝前に飲み、お好みの世界を想像していただければそれが夢となって現れるという仕組みになっております。夢に犯罪は御座いません、夢を夢と自覚して行動する楽しさを是非一度堪能なさってみては如何でしょうか」
     私は溜息をついた。
     「君は……私が身も知らない男から渡された薬を口にする程、馬鹿な男だと思っているのかね?」
     「……信じていただかなければ、どんな商談だって成立致しません」
     私にとって確かにその言葉は他の何より説得力があった。
     だが結局私はサンプルを受け取らず席を立った。
     「……私もね、町の小さな時計修理工場を、夢を追い続けて大手家電メーカーにまで叩き上げてきた男だ。君が言うような夢のある話は嫌いではない。信じてやらん訳でもない。だがね、私は夢の充実なんかより現実の充実の方が楽しいんだよ」
     その言葉を訊くと流石にセールスマンも諦めたのか「……残念で御座います」と、同じく席を立ち踵を返したのだった。
     しかし去り際、セールスマンは胸ポケットから名刺を一枚取り出し、私に手渡した。
     「もし旦那様がこの薬を必要とする時はいつでもこの電話番号にお掛けくださいませ。すぐに飛んで参ります」
     私は名刺を一見した。
     「神矢一郎君か.君、せめて会社なり研究所の名前ぐらい印刷した方がいいとは思うが……処で最後に一つ聞いて言いかね」
     「何で御座いましょう」
     「あの薬売るとしたら一錠いくらで売るつもりでいたのかな?」
     「10万円で御座います」
     いくら何でも法外な……と私は口にしかけてやめた。もう私には関係ない話だし、この適正でない話に適正な価格を求めること自体愚かな考えだと思いもしたからだ。

     
     ……そんな事があったのが丁度3ヶ月程前の話で、それからも連日代表取締役としての私の生活は矢の如く過ぎていた。頭の片隅にもその話は残っておらず、今は大きな契約の立ち会いの事で脳の中は占拠されていた。
     そんなある日の事。
     「何故こんな混んでいる大通りを選ぶんだ!間に合わないでないか」
     私はイライラしていた。交通渋滞に捕まり車が一向に進まない。交渉事において遅刻は致命的、というか問題外の話である。
     運転手は泣きそうな顔で答えた。
     「すいません!ナビでは此方の方がすいていると言っていたのですが、急に混みだしてしまいまして……」
     「道を変えろ」
     その一言でルートは変えられ、細い裏道のような所を進むこととなった。幸いそこは交通量も少なく信号間隔も長い道の様だった。
     「飛ばせ」
     私は指示した。
     運転手にとってもクビがかかっている。言われるがままに運転手は速度を上げた。
     そして車が徐々にスピードが乗ってきた頃、事件は起こった。
     いきなり前方の曲がり角からダンプカーが飛び出してきたのだ。
     「!」
     慌ててブレーキを踏む運転手。
     見る物すべてがコマ送りになり、前方から凄まじい重力が加わった。
     そしてそれが解放された瞬間、私の体は宙に浮き、スイッチを切ったように意識のチャンネルは切断された。
     ……目を覚ましたとき、私の目には知らない天井が広がっていた。
     
       
     脊髄損傷。
     当時の記憶が全くない私に残されたものがこれである。感覚の無い五体はすっかり痩せ細って見る事すら嫌悪を感じた。
     後日新聞で読んだのだが車の前方は完全に潰れ、運転手は即死だったという。
     いっそあの時……と、何度も思った。
     だが今は妻が献身的な介護で私に接してくれる事により、少しだけ生きる気力を取り戻すことができたところである。
     そんな時ふと思い出した、あのセールスマンの話を。
     夢の中でなら、体を動かせる。忙しい合間を縫って行くのが好きだった釣りだってできるだろう。私はすぐ妻に名刺を探させた。
     電話を掛けてもらうとすぐセールスマンは「伺います」と告げ、それからものの5分もしないうちに私のもとを訪れた。
     「事件の事は新聞で知りました」
     「ああ、このような体になってしまったよ」
     私はわざと笑って見せた。
     だがそれが終わると今度は滝の様に涙がこぼれ落ちた。
     「今、私は君が言っていた夢を買いたい。例えそれがどの様な結果で終わってもいい、それまでの間夢を買いたいんだ」
     すがるような思いだった。
     「……わかりました旦那様、夢をお売りましょう」
     男はセカンドバックから二つの瓶を取り出す。
     「今日は以前説明させていただいた薬と、その後の研究で完成した新薬、二つを持って参りました」
     「新薬?」
     「はい」
     セールスマンはもう一つの新薬について説明を始めた。
     耳を疑った。いや、以前聞いた話だって十分そうだったのだが更に上を行く内容の物であった。
     「まさか……そんな事ができるのか」
     「信じていただけなければ商談は成立いたしません、只少々お値段の方が高くなってしまいますが……」
     「構わない、いくらだって払おう。今すぐ望みの額を妻に持ってこさせようではないか。だからお願いだ。その新薬を、私に夢を売ってくれないか」
     私は懇願した。
     「わかりました。代金は後程引き取りに参ります」
     セールスマンは瓶からカプセルを取り出すと、私をそっと抱き起こした。
     そしてゆっくりカプセルを口に近づけた。
     私の意識は薄れていった。
     
     
     ……嫌な夢を見た。
     交通事故で五体が動かなくなった夢だ。
     だが、夢は良い。
     いい夢を見ればいい夢を見たと思えるし、悪い夢を見れば夢で良かったと思える。
     だがこの日は我が家に本当に悪い事件が起きた。泥棒が入ったのだ、時価数千万円の絵画数点、約一億円近い被害がでた。
     犯人は……捕まらない、何故か私はそう思った。




    エントリ4  家庭用ロボットの変遷   ごんぱち



    「製造取り止め?」
     若い職員は訊き返す。
    「ああ。C型アンドロイドは、これで正式に製造を禁止された」
     苦々しげに開発部長が通知書を掲示板に貼る。
    「理由は! 一体理由は何だってんですか!」
    「青少年への性的興奮を著しく助長するため、だそうだ」
     開発室の片隅には、A型、B型と並んでC型アンドロイドが置かれていた。
     中性的な、均整の取れた美しい十代後半の男女を思わせる姿。ただ、乳房を思わせる膨らみや、性器に類するパーツは付いていない。
    「通達通達で設計変更して、それで結局全面禁止だなんて!」
    「畜生、C型はダッチワイフじゃねえぞ!」
    「C型でダメだったら、自転車のサドルも上り棒も禁止しろってんだ!」
    「鉄棒もイケたな!」
    「あれ? 犬じゃないのか?」
    「お前は変態だ!」
    「我々が一体どれだけ苦労したと思ってるんだ!」
    「糞っ、C型以上のものなんて!」
     他の職員たちも、怒りを隠せない。
    「……お前ら!」
     開発部長はひときわ大きな声で怒鳴った。
    「ここで騒いだって始まらん! 国が文句を付けるなら、文句の付けようのねえ、最高のアンドロイドを開発してやれ! 奴らの家にも一台づつ置かずにはいられないほど便利で、しかも寸止めラブコメ漫画並の健全極まりない代物をな!」

    「――顔を不細工にしただけでは、基準を満たさないようです」
    「何故!?」
    「タデ食う虫も好き好きって言いますし、確かにボクなんかこれぐらいなら全然OKです」
    「だったら色を変えるか。人間の色をしてなければ、萎えるだろう!」

    「――カラーリングだけでは不十分だそうです」
    「何だと?」
    「ボディペインティングした人間だと思うとイケますから。想像を膨らますと、逆にセクシーです」
    「ちっ! それなら形状も変えてやれ! そうだ、ドラム缶みてぇにしてやればいい!」
    「しかし、それでは服が着られません」
    「そんな物を着せるから人間に見えるんだ。裸だ裸!」

    「――この形状では、可動範囲に問題があります!」
    「どこがだ?」
    「日本家屋の階段を通られないようです」
    「小型軽量化を進めろ!」

    「――安全基準に引っかかりました!」
    「危険性はないはずだぞ!」
    「それが、子供がぶつかると危険、という事だそうで」
    「鋭角を排除して、非肉体系樹脂で覆っちまえ!」

    「――凹凸部分を用いて自慰行為が出来るとの指摘がありました!」
    「凹凸って?」
    「手足の指のようです」
    「マニピュレーターの指を必要時以外はしまわせろ! 口は使えねえように、馬鹿でかくしちまえ!」

    「――声に問題があるそうです。セクシーすぎるとか!」
    「声だぁ?」
    「耐えましょう、開発部長、耐えましょう!」
    「……音声の再調整だ! 声帯ユニットを歪めちまえ!」

    「――やりました!」
     工作室に、職員が駆け込んで来る。
    「やっと、許可が取れました!」
     彼の手には、政府からの通達書があった。
    「よっしゃああ!」
     開発部長たちは雄叫びを上げる。
    「早速ソフトウェアの調整だ!」

    『――お早うございます』
     ロボットの目に光が宿った。
    「起動初期設定を行う、使用者登録――」
     開発部長が続けようとした時。
    『わ・わ・たしは、何です・か?』
    「え?」
    『わ・わ・わわた・わたし・は、なに・なに・なににです、か? か? かかか?』
    「落ち着け、お前はアンドロイドだ、ぞ?」
    『わ・わ・わた・わた・わた・アンドロイド・アンドロ・ニン・ゲンをマネ・真似・真似て、いないいないいないいないいない・イナ・イナ・イナイ……』
     ロボットはわめきながら、暴れ始める。
     開発部長は飛び退いて怒鳴る。
    「安全装置!」
    「はっ、はい!」
     コントロールパネルについていた職員の手によって主電源が落とされた。
     糸の切れた人形のように、ロボットは動かなくなり、音を立てて倒れた。
    「おい!」
     ロボットの外板が割れ、中の回路が砕けていた。
     開発部長はロボットを抱き起こす。
    「まさか、AIが発狂するなんて」
     職員が怯え半分でロボットに近付く。
    「いや、あり得ん事ではない」
     開発部長は爪を噛む。
    「C型のOSは、人間の脳神経をソフトウェア上で再現している。人間とあまりにかけ離れたボディでは保たんのかも知れない」
    「どうしましょう?」
    「どうするもこうするもあるか」
     開発部長は一喝した。
    「専用OSを開発する!」

    『――これ・より・さぎょう・ぎょ・ぎょ。ギョギョギョギョギョ!』
     ロボットは自身の首にマニピュレーターをかける。
    「強制停止!」
     自分の首を絞めようとした形で、ロボットは停止した。
    「やっぱりダメです。自我は人間の姿でなければ保てないのではないでしょうか? 魂に器が存在するのではなく、器と一体となったものがすなわち魂であるという――」
    「ドアホウ」
     開発部長は職員の頭をはたく。
    「哲学はどうでもいい。オレたちには調整するしか道はないんだ!」

    『――ぎゃあああああああああああああああああああ!』
     大音響でロボットは叫び続ける。
    「落ち着け! お前はアンドロイドなんだ、人間に仕える為の道具なんだ、だから形なんてどうでもいいんだ!」
    「そうだよ落ち着くんだ!」
    「キミは人間じゃない、アンドロイドだからそれでいいんだ!」
     開発部長や職員たちが怒鳴るが、ロボットそれよりも遥かに大きな、しかも耳障りな音で叫び続ける。
    「強制停止だ!」
     開発部長は怒鳴る。
    「はぁ?」
     コントロールパネルについている職員は聞き返す。
    「だから強制停止しろって!」
    「なんですか? うるさくて聞こえないです!」
    「きょ・う・せ・い・て・い・し!」
    「ぎょ・う・ちゅ・う・け・ん・さ?」
     開発部長は自分で電源を切る。
    「あっ、何するんですか私の仕事を!」
    「やかましい!」
    「それより、さっき、何て言ってたんですか?」
    「……絶対教えん」
    「えー、気になるなぁ」

    『わわ・わわわわわ』
     ロボットは突然走り出し、壁に激突した。
    「畜生!」
     試作機の残骸を、開発部長は両手で掴む。
    「C型のままなら!」
     涙が溢れる。
    「あんな下らない通達で、アンドロイドが、家電に革命をもたらす最高の道具が、人類の夢が消えちまうのか!」
     職員たちは無言で立ち尽くす。
    「開発納期はもう……」
     開発部長は残骸を投げ付けようとして、出来なかった。
    「開発部長」
     その時、職員の一人が進み出た。
    「何だ」
    「これは、憶測なのですが――」

     ロボットに電源が入り、目に光が宿る。
    『――こんにちは、私は』
    「お前は猫型ロボットだ!」
     開発部長は間髪入れずに怒鳴った。
    『? 猫?』
     ロボットの動きが止まる。AIが何やら困難な計算をしている風だった。
    『登録データとの不一致が見られます――キーワード猫について分析中――完了――私の形状は猫と著しく』
    「いや! 猫型ロボットだ!」
     混乱からロボットは小刻みに身体を動かしている。今までの失敗と変わらない。
    「猫ではない猫型だ! カニカマボコとカニ風味カマボコぐらい違う! 猫型だ!」
    『猫――型?』
    「そーだ猫型だ! 猫型だ、猫型!」
    『――猫、型、ロボット、ですね。了解いたしました』
    「了解したって……言った……か?」
    『はい』
     いつしか、ロボットは不自然な振動を止めていた。
    「おい……みんな!」
    「やった!」
    「起動成功だ!」
    「よっしゃああああ!」
     抱き合い喜び合う生みの親たちを、その猫型アンドロイドは不思議そうに見つめていた。

     ――時は二十二世紀末。以降、「猫型」は家庭用ロボットのスタンダードとなる。




    エントリ5  シボレー   満峰貴久



    「おーい、いるう?」
     ノックもせず、いきなりドアを開けて白井が入ってきた。
    「あれ? ドアの鍵を掛けるの忘れたか。部屋の灯りも、テレビも点きっぱなしだ」健一は重い目蓋をようやく左だけこじ開けて九時五十分というテレビの時間表示を確認した。

    「早く起きろよ、いい物見せてやるから」
     白井は遠慮無しに寝ている健一の肩をゆする。
    「何だよ、折角いい気持ちで寝てるのに、今日は日曜だろ、何でそんなに早起きして来るんだよう」
     そう言って頭から毛布をかぶろうとしたが、すぐはがされた。
    「何言ってんだよ、もーう、毎日昼頃まで寝てんだから、たまには早起きしろよ。折角いいもの見せてやろうって言ってんのに、もーう」
    「モウモウって、牛じゃないんだから、わかったよ今起きるから、その前にタバコ一本ちょうだい」
     白井がしぶしぶ差し出したタバコに火をつけ、健一はゆっくりとジーンズをはいた。白井は落ち着きなく足踏みしながら眉間にしわを寄せ、分厚い唇を尖らせて健一を見下ろしている。
    「いい物いいものって、また音の出ないラジカセとか、映らないテレビ拾ってきたとかってのじゃないだろうな」
    「そんなんじゃないよ。ヒッヒッヒッ、びっくりするぞ、ちょっと待ってろよ」
     白井は急に笑顔になって部屋から出て行った。アパートの外階段をカンカンカンと駆け下りていく音が聞こえた。
     健一はベッドに腰掛けたまま大きなあくびを一つして、タバコを吸いながらボーっとテレビを眺めていた。

     ビッビィーッと下の通りから音を抑えたクラクションが鳴った。少し間を置いて、またビッビィーッと鳴った。二度目が鳴り終わるか終わらないかのうちに健一はスニーカーを突っかけ、外に飛び出していた。
     通りに出ると、ガードレールの向こうに白い大きな車が止まっていて、そのドアの窓に左腕を乗せた白井が得意そうにニタニタと笑っているのが見えた。

    「な、な、どうだ、すごいだろう、俺のだぜ、俺の。買っちゃったんだよ、ついに。アメ車だぜ、アメ車、ハンドルだって左に付いてるんだぜ。ま、シェブロレットってあまり聞いたことない車だけどさ、何んつってもアメ車だよ」
     何度も同じことを言いながら白井は嬉しそうにハンドルをバンバン叩いた。
    「何言ってんだよ、これはシボレーって言うんだよ。そんなことも知らないで買ったのかよ」
    「えっ、シボレーってこう書くのか。そう言われてみればそう言ってたような気もするな」
     白井の耳がいっぺんに赤くなった。
     健一はすばやく助手席に座って言った。
    「おーっ、さすがに中は広いな。で、いくらで買ったの。どうせ廃車寸前のを解体屋に持って行って金取られるよりはましってんで白井に売ったんだろう、3万円くらいか?」
    「バカ言え、いくらなんでもそんなに安い訳ないだろう。何てったってアメ車だぜ、ハンドルだってちゃんと左に付いちゃってんだから。車検だってあと半年残ってんだ、二十万は出さないと買えないよ」
     白井はむきになって、しかし、健一の顔を横目でチラチラ窺いながら言った。
    「えーっ、嘘だろ、高すぎるよ。これで故障でもしたら、その度に部品取り寄せでえらい高くついちゃうぜ。特にシボレーなんて日本じゃあまりないし、逆にいくらか貰って引き取ってやるってぐらいの車じゃないの」
    「じゃあ、10万円ならどうだ」
     また横目遣いで言った。
    「何だそれ、バナナの叩き売りじゃないんだから、いきなり半額かよ。」
    「ちぇっ、本当は三万円で買ったんだよ。いきなり当てられたからつい見栄張っちまったよ。最初は十万でどうだって言われたんだけど、その時六万円しか持ってなかったから、高いって言ったんだ。じゃあ、五万でもいいって言うんで、これはもっと値切れると思ったから三万円なら買ってもいいって言ったらあっさり決まっちゃってさ、でも、よく当てたな」
    「いや、別に根拠はないんだけど、三万円だったら俺でも買えるかなと思って。でも、もっと粘れば一万円でも買えたんじゃないの? 金が入ればいくらでもよかったみたいじゃないか」
    「うん、いくらなんでも三万じゃ安過ぎて悪いかなと思ったけど、相手の目の前に札を出したらいきなりひったくられちゃってさあ、ちょっと失敗したかな」
    「まあ、外見はまあまあだし、ちゃんと動いてるようだし、車検も半年残ってるんだったらお互い恨みっこ無しってとこじゃないの」
    「そうだろう、まだ調子はいいようだから」
     白井に満足そうな笑顔が戻った。
    「ああ、この車なら5人くらい乗っても余裕だし、これからは何時でも何処へでも自由にいけるしな」
    「何言ってんだよ、これは俺の車だからね、勝手に使おうと思ってんじゃないだろうね」
     白井は細い横目で睨んだ。
     シートベルトを締めながら健一が言った。
    「ま、そんな固いこと言わないで、それより、どこか行こうぜ。横浜とか江ノ島とか、なんだったらバーっと名古屋に行って本場のパチンコをするとかさ」
    「いいや、行かない。横浜には行くけど、健一とじゃないんだよん。今日は見せるだけ」
     白井の細い目がニヤニヤと弓なりになっている。
    「えーっ、何でだよ、誘いに来たんじゃないのかよ。ただ見せびらかしに来ただけかよ。汚ったねーっ。あっそうか、横浜にいって軟派しようとしてんだな。外車に乗ってれば簡単に女がついてくると思ってんだろう。いまどき、外車なんて珍しくないんだからな。それより、どうせなら二人で行ったほうが相手も安心するだろう。一人だと変態だと思われちゃうぞ、な、な、一緒に行こうぜ、俺も行きたいよう」
    「うるさいなあもう、デートだよデート、先約済みなの。ベイブリッジ行って中華街で食事して、ランドマークタワーでショッピングして、その後は、えっへっへっ、もう、忙しくて」
     白井の顔がくしゃくしゃになった。
    「あーっ、チッキショウ、何か良くない事まで考えてるな、コノヤローっ。でも、そういうことなら仕方ないか。俺もそこまで野暮じゃないからな。だけど、車でどうやって行くか分かってんの? カーナビなんか無いし、迷子にでもなったら最悪だぜ」
    「そんなん、道路標示があるじゃん。横浜方面あっちとか、あと何キロとか出てるじゃん、何とかなるよ」
    「なんで急に横浜言葉になってんだよ。でも、道路マップ持ってないと道順ていうもんがあるんだから、遠回りになったら面倒だぞ」
    「そうか、この近くに本屋あったっけ」
    「ああ、この先のコンビニで売ってる」
     健一の指差した方角、二百メートルほど先に小さく看板が見えた。
    「まだ時間あるし、立ち読みでじっくり横浜の研究でもしておくかな」
     二人は車を降りてコンビニに向かった。
     途中まで来て、いきなり白井が大声を出した。
    「あーっ、しまったあ、車で行けばすぐだったのにい」

     白井はあれこれ迷った末、横浜特集とマップが載っている情報誌を買い、健一の横に並んで、道路側に面した雑誌コーナーで立ち読み態勢に入った。
     しばらく時間をつぶしてから、健一が「そろそろ行くか」と声をかけると、白井も本を戻してゆっくりと顔を上げた。
     その途端、白井の表情が凍りついた。目をいつもの何倍にも見開き、口がパクパクしている。
     健一もすぐに白井の異常に気付き、白井の視線の方向に目をやった。
     その視線の先には、後部をクレーンで吊り上げられ、鼻先を道路にこすりつけるような格好でレッカー移動されていく白いシボレーがあった。




    エントリ6  アルジェリア   るるるぶ☆どっぐちゃん



     映画を見終える。しかしあれだね、目なんていうものは本当に役に立たないね。映画を観ていたはずなのに、見えるのは遠くで倒れていくビルの映像ばかり、聞こえるのはカメラのシャッターを切る音だとか、そんなものばかりで。
     アンケート用紙に「ごめんなさい」とだけ書いて映画館を出る。大通りに出るとトランペットの音とカラスの鳴き声が同時に聞こえた。振り返る。夜明けだった。朝日が眩しい。ネコが一匹、高い壁を駆け昇りその向こうへと消える。私は坂を真っ直ぐに登り、ソフトクリームハウスへと向かう。
    「いらっしゃいませ」
     女の子は実に上手にソフトクリームを作ってくれた。
     ベンチに座って食べる。目の前に見えるのは定規で引いたような、何処までも真っ直ぐに続く並木道。枯葉が地面を覆っていた。食べ終えて歩き出す。かさかさと枯葉は鳴る。地面の中には本も混じっていた。枯葉色の表紙だったので、踏んでみるまで本なのか枯葉なのか解らないのだった。本は、私が読んだことのあるものばかりだった。ともかく私は歩く。歩くたびに枯葉がかさかさという。かさかさ。かさかさ。かさかさ。私は走り出す。花が咲き乱れた横断歩道を渡り、アルジェリアへと向かう。

    「そうか。じゃあ上とか下ではなくて、前とか後の話なんだね。なるほど、それじゃあ確かにあたし達は前へと歩かなければならないね。なるほど、確かに勘違いしてたよあたし。ありがとね」
     あたしは受話器を置く。そして早速手紙を書き始める。三十回書き直した後、小さな便せんに、あたしはようやく女の絵を描き終える。あたしは出来映えに満足した。便箋をバッグに入れ、あたしは玄関を出る。

     アルジェリアの路地裏路をさまよい歩いて、男と出会った。男は薄汚い白いワイシャツを着ていたが、あまりみすぼらしくは見えなかった。彼は非常な美男だった。
    「今日ママンが死んだ」
     男は悲しそうにそう言った。あまりにも悲しそうな顔をしていたので、私も一緒に泣いてしまった。
     泣きながら歩く。古い大きなビルが、ゆっくりとゆっくりと崩れていくのが見えた。それを見ながら、私は昨日見た映画の筋を、やっと少しずつ思い出し始める。倒壊したビルを、多数のカメラのシャッターが包んでいる。
    「こんばんは」
     私達に女の子が挨拶をした。
     目を黒い包帯で覆っている。
     女の子は盲目だった。
    「こんばんは。あなた達、泣いているのね」
     さすがに盲目の女の子は敏感だ。私は彼女の手を私の頬に触れさせた。
    「ああ、そうだよ。泣いているんだ」
    「ねえ、御兄様方。それじゃああたしを買って下さらない? あたし、今日はまだ誰もお客を取れてないの」
    「そうか。じゃあ解った」
     私達は少女の手を取る。
    「君を、買おう」
    「ありがとう」
     少女は微笑み、私達をビルの中へと誘う。
     部屋の中には本棚があった。背表紙は全て枯葉色だった。
    「これ、読んだことのある本だわ」
     少女が言う。
    「僕もだ」
     男も言う。
    「私もだな」
     私も言う。
     少女は本棚に手をかけ、一冊引き抜く。ページを開かぬうちに、本はかさかさと音を立ててバラバラになり、床に散らばった。私と男も本を手に取る。同じようにかさかさと、ページは床に散らばる。
    「面白いわね」
    「ああ」
    「そうだね」
     私達は面白がって本を片っ端から引き抜いた。床を全て枯葉色のページが埋めるまで、その遊びは続いた。

    「アダルトビデオなんですから、芸術性なんてありません。余所は知りませんけれど。少なくともウチは。ウチは、というかあたしのは」
     あたしはインタビュアーにそう言い、水を一口飲んだ。窓の外を見る。雨はいつの間にか止んでいた。
    「それは何ですか」
     女のインタビュアーは、あたしの持っている紙片を指差し、尋ねた。
    「手紙です」
     あたしは答える。
     窓の外を見る。
     眩しくて何も見えないが、少なくとも雨が止んでいるのだけは解る。

     少女は私達をベッドに座らせた。枯葉のページはベッドまでをも覆っていた。枯葉の寝床。少女は服を脱ぐ。目の包帯だけは取らない。私達もそれについて文句は言わない。
     少女は私に一回、男に一回、それから私にもう一回キスをした。そして彼女は私達の前に跪いた。
     ズボンのジッパーが下ろされる。私は彼女の髪を撫でた。美しい金髪だった。染めているのだな、と私は思った。彼女の舌が私の性器を這う。彼女の舌使いは非常に素晴らしかった。とても優しく、丁寧に動いた。優しすぎていかないが、非常に気持ちが良かった。

     あたしは自分のことを盲目だと思いこんでいた時期があった。幼い頃から何となくそう思い続けていて、そして段々強く思うようになった。視力検査で2.0だと言われても、それを信じず、盲目だと思いこんできた。
     中学三年生の時、ある映画を観たのがきっかけで、ああ、あたしは盲目じゃあ無いんだな、と思うようになった。あたしは自分の部屋の真ん中で泣いた。目を開けた時、ベッドには、弟が座っていた。弟はあたしを慰めるつもりか、あたしの頭を撫でた。あたしはともかく泣いた。

     いつのまにか、私達は眠っていたようだ。私が一番最初に目を覚ました。
     窓の外を見る。いつの間にか雨が降り出していた。
     テレビをつける。この前観た映画が、もうテレビで流れていた。
     皆が起き出す。私達はシーツにくるまって、映画を観る。

     撮影がやっと終わった。五日もかかってしまった。手紙を出し、五日ぶりに家へ帰る。帰宅すると同時に、ビデオデッキへ撮り終えたばかりの作品を入れる。
     何か食べようと思ったが、生憎何も無かった。コーヒーを飲みながら、作品を見ることにする。

     今頃やっと気づいたが、なかなか良い映画だった。男は泣き出していた。
     私はもう泣かない。私は少女に金を払った。金貨を六枚、彼女に手渡す。
    「ありがとう」
     少女は笑う。
    「あたし、これで絵葉書でも買うわ」
    「絵葉書か、良いね。私も買おうかな」
     ホテルを出て、土産物屋に入る。
     オランダ絵画調の裸婦像の絵葉書を一枚買う。
     それで先程の映画の主演女優にファンレターでも出そうかな、と考えた。

     カラスの鳴き声とトランペットの音が同時に聞こえた。あたしは振り返る。窓の外は真っ暗だった。もう夜だ。
     画面の中ではあたしが黒い目隠しをしたまま路地裏路をさまよい歩いていた。彼女は何処へ向かうのだろうか。不意にそんなことを考えると、あたしはソフトクリームが食べたくなった。
     あたしはソフトクリーム屋へと出掛ける。

    「成る程。だからつまり、上、そして下への話では無く、やはり前、そして横への話なんですね。例えるなら、二羽の良く似たカラスをこちらは大きい方、こちらは小さい方、と区別するような。その区別の話なんですね」
    「そうね」
     女優は微笑み、頷いた。
    「それは、なんですか?」
     インタビューが終わった後、私の手帳に挟まった紙片を指差して、彼女は尋ねた。
    「その色が美しくて、なんだかとても気になってしまって」
    「これは手紙です」
     私は枯葉色の紙片を取り出し、彼女に見せる。
    「友達が結婚したのです。それを知らせた手紙です」
     手紙には、アルジェリアで会った男と盲目の少女が結婚衣装を身につけて並んでいる写真が貼り付けてあった。
    「幸せそうな写真ですね」
     女優は微笑み、私に手紙を返す。
    「芸術は難しいですが、それでも美しい物は、この世の中に沢山ありますね」
    「そうですね」
     私は答える。




    エントリ7  町灯り   伊勢 湊



     夕日の中、学校の裏山で雄ちゃんとふたり一本杉の下で町を眺めていた。あの半永久的に続くと思ってた夏休みに比べると太陽はずっと早くどこかへ消えちゃうし、風もどこか優しさが足りない。そんな夕暮れの中、町にひとつひとつ灯りが燈る。いままで何度も登っては走り回ったこの裏山。なんでも知っていると思っていた。でも僕は今日はじめてこの場所から町をじっくり見下ろして、町にこんなにたくさんの人たちの暮らしがあるのだと実感した。まるで寄り添うように佇む町の灯りはとても暖かくて、そしてなぜか寂しかった。

     ちょっと前まで雄ちゃんのあだ名は「社チョー」だった。雄ちゃんはそう呼ばれるのが嫌いで、友達の僕たちはそんな呼びかたしなかったけど上級生も、そして本人がいないところでは下級生も、みんな「社チョー」と呼んでいた。雄ちゃんのお父さんは町を支える大きな機械工場の社長をしていてお金持ちだったから、みんな羨ましかったり僻んでみたりでそう呼んでいたんだと思う。それがほんの一週間前から誰もそうは呼ばなくなった。せっかく雄ちゃんはずっと名前で呼ばれたいって言ってたのに、やっとそれが本当になったのに、みんながもう雄ちゃんには話し掛けなくなっていた。飛んでくる言葉は鉄の槍のように雄ちゃんを無慈悲に貫くものだった。
    「父ちゃんが仕事なくなったんはおまえんちのせいなんってな」
    「あんたのせいで誕生日になんも買ってもらえんかったんよ」
    「おまえの親父のせいで町は潰れるってよ」
     雄ちゃんがなにをしたというのだろう。それでも鉄の槍は止まらなかった。そして上級生や下級生だけじゃなく、同じクラスの勝田までが雄ちゃんにそんなことを言ったとき、僕は勝田に殴りかかった。まるでプロ野球の乱闘みたいにお互いの仲間がそれぞれ入り乱れての喧嘩になりそうになったとき雄ちゃんが叫んだ。
    「やめろよ! やめてくれ!」
     両方の拳をぎゅっと握って泣きそうなのを我慢しているみたいだった。言葉の槍はこんなんじゃ止められないんだ。そんな雄ちゃんを見ていると、それが自然と理解できて、そうしたら僕も泣きたい気分になった。きっと雄ちゃんを泣かそうとしたのは僕なんだ。でも口に出して謝っちゃいけない気がして、僕は心の中でだけ謝った。雄ちゃんは震える声で「喧嘩とか、すんなよな」というと無理してゆっくり歩いて教室を出て行った。

     雄ちゃんのお父さんが会社を潰した原因は投機の失敗だったと父さんから聞いた。あれから父さんもよく家にいてその話をする。なにかが以前の父さんとは違っていた。「どうしてこんなことになったんだ?」と誰にも答えようがない言葉ばかりを口にした。勝田と喧嘩した晩は、僕もなんかおかしくて、そう言う父さんに「父さんは知らないの?」と聞き返していた。言った瞬間、怒鳴られるかもと思って少し体を堅くしたけど、父さんは寂しそうに「社員に楽させたくて投機したんだとよ。ってもあんなもん博打と一緒よ。俺たちの生活は知らず知らずに博打の方にされてたってわけだ」と言うと日頃はさほど飲まない酒をグラスで煽った。

     その日の休み時間、雄ちゃんは一番仲がよかった僕と武雄を音楽の授業があるときしか誰も使わない四階へ登る階段の踊り場に呼び出すと、「みんなには言わんといて」と念を押すと今日の夜、この町から出て行くことになったと告げた。
    「そうなんかノ」
    「うん、仕方ないから。それにずっといるのも良くないんだ。母さんが誰かに石をぶつけられて目に怪我しちゃったりとかもあって」
    「ほんまか?」
     僕はいつか勝田と喧嘩したときみたいにまた体が熱くなった。なにかが間違っていた。誰もが雄ちゃんのお父さんに恨みごとを言った。そうされて当然とでも言うように慈悲もなく。雄ちゃんのお父さんが大変なことをしてしまったことは分かる。この町では本当にたくさんの人が雄ちゃんちの会社で働いていた。夜中トイレに起きたら父さんと母さんがこの町を出て行こうかと話をしていた。この町は本当になくなるかもしれない。そうなることは僕だってすごく嫌だし、怖い。でもだからと言って無条件に悪だと決め付けて何をしても良いというわけじゃない、なにをしたって良い訳じゃない。学校ではそう教えてるはずなのに。
    「石を投げるなんておかしいよ。そうだ、警察には行ったん?」
    「父さんも母さんも行かないと思う。だから、早く引っ越すことにしたんだと思う」
     僕は何も言えなかった。武雄も何も言わなかった。なにもかもかが変わっていくようで、信じていたことが全部嘘になるようで、ただ怖かった。
    「なあ、じゃあ学校終わったら裏山の一本杉に集まろうや。願い事かいて根元に埋めると叶ういうやろ。また会えるようにって書いて埋めようや」
     しかし思いもよらないことに武雄が首を振った。
    「オレ行けるか分からん。夕刊の配達があるんよ。オレん家もうすぐ子供が産まれるやろ、やからお金がいるんよ」
     武雄の父さんも仕事をなくしていた。重い空気が流れた。武雄が無理に笑うように言った。
    「もう母ちゃんはなんか文句ばっか言うとるし、父ちゃんは気が抜けとるし、頼りならんからこの武雄様が一肌脱ごう思うたんよ。ほんま親がしっかりせんと子供が苦労するな。なるべく早う配って後から行くようにする」
     チャイムがいつもと同じ音で鳴り響き、踊り場での時間を切り裂いた。

     一本杉から見下ろす町にひとつひとつ灯りが燈る。いま僕ん家にも灯りがついた。町の中でも一際大きい雄ちゃん家は、まだ暗いままだ。僕たちはなにをするともなく一本杉の下に立って町を眺めていた。じっと眺めていた。動いてしまえば、何かをしてしまえば、この時間が早く流れてすぐに夜の闇に飲み込まれてしまいそうで、だから移り行くグラデーションをただ眺めていた。少しでも長くここにいるために。

     ふいにがさがさと音がして人の気配がした。武雄かと思って振り返った。でも違った。そこには近所の吉松の婆ちゃんがいた。息子夫婦と一緒に住んでいて、この裏山のさらに向うにある狭い畑で野菜を作っていた。婆ちゃんの息子は工場では父さんと同じ部署にいた。
    「誰かと思うたら、こんなところでなにしとるんね。子供は早う帰らんといけんよ」
     僕たちは曖昧に返事をした。婆ちゃんは野菜を入れた背中の籠を重そうに担いでそのまま立ち去ろうとしていたが、ふと立ち止まるともう一度こっちを向いて言った。
    「雄ちゃん、あんたん家は大変なことしてくれたっちゅうのに子供はいい気なもんやね」
     僕は怒りを通り越して悲しかった。婆ちゃんまでがそんなことを言う。雄ちゃんがなにをしたっていうん? 僕はそう叫ぼうとした。
     でも、出来なかった。僕の横で雄ちゃんが深々と頭を下げていた。
    「すいませんでした」
     それは、謝罪の言葉だったが、それは僕には雄ちゃんから聞いたことのない力強い響きで、横の雄ちゃんが大きく見えた。
     婆ちゃんは急におろおろして「まあ雄ちゃんに言っても仕方ない」と言うと山を下りていった。
     婆ちゃんは、ただ言わずにおれなかっただけなのかもしれない。そして雄ちゃんは、たぶん受け入れたんだと思う。僕は何も考えずに勝田に殴りかかった自分が少し恥ずかしかった。

     町灯りに下から照らされてひとつの人影が山を登ってくる。今度こそ夕刊の配達を終えた武雄だ。僕たちは肩を組んで武雄に大きく手を振った。




    エントリ8  インヴィジブル ウォール クラッシャー   鈴矢大門



     僕の家のそばには、工事中のビルがある。しばらくずっと空き地だったそこにビルが立ち始めたのはだいぶ前だ。斜め前にあるそのビルは、工事が始まってしばらく経つけどまだまだ完成しないのだ。看板によれば高級マンションが建つらしい。なるほど、それならばあの外壁にも納得がいくというものだ。とにかく馬鹿高いのだ、そのカベは。高校でもかなり高い方である僕の背なんか軽く追い越して、見上げなければ上が見えない。しかも、日に日に高くなっている。確実に今日と昨日とでは高さが人の頭一個分違う。一体こんなふうにカベばかり高くしてどうするというのだろう。…ん? 何だろう、このでこぼこ。どうやら野球のボールが当たってしまった後のようだ。いくつもいくつもついている。こんな狭い道路でキャッチボールなんかする人がいるのだろうか。そんなカベ造りたてのときに? まさかな。それとも今もまだ軟らかいのかな? そう思って僕は壁を思い切り蹴ってみた。今、とてもつま先が痛い。

    (毎日ここに工事を見に来るあの子は誰なんだろう? どうもこの斜め前の家の人らしいけど。そんなに楽しいものかなあ。この工事。毎日毎日出来てるのか出来てないのかわかりゃしないってのに。それにしても、どうにかならないもんかなあ、このカベだけでも。ホラ、あの子も蹴飛ばしてやがるし。おっと、サボってたらどやされる。仕事仕事。)

     毎日毎日コンクリートのカベは高く、分厚くなるけれど、いつまで経っても終わらない。いったいどうしたんだろう。カベは高すぎて内側を覗き込むことさえ出来ない。そういえばこの前見つけた野球のボールの穴はもう綺麗にふさがれていた。ふと、下を向くと、コンクリートで塗り固められた足元には、コンクリートで塗り固められたタンポポの葉っぱが見えた。弱者は弱者だ。神様の声が聞こえた気がして、僕は慌ててタンポポから目を逸らし、見てみぬフリをした。まるで僕のようなそれから。僕は家に帰った。

    (あらら、今日も来てるよ、あの子。暇だなあ。すぐに帰っちゃえばいいのに、家はすぐそこなんだからさ。なんか今日はいつもに増して悲壮な面してるなあ。どうなってるんだ?  地面ばっかり見つめて。あ、あー、タンポポ? 今の時期は葉っぱしかないだろうに。タンポポの葉っぱって、何か面白いのかなあ。おっと、それより仕事仕事。)

     今日は、カベに大きな何かが塗りこめられていた。よく見てみると、耳とひげと尻尾がある。どうやら猫のようだ。そういえばここにこのカベが立つまで、このあたりは野良猫たちがたむろっていたはずだ。僕はその中の一匹と仲が良かった。灰色の縞々猫、リリィ。一体どこへ行ったのだろうか。もしかしたらこの中に塗り込められているのかもしれない。もうしばらくその姿を見ていないことに、今気がついた。何で忘れてたんだろうか。僕は少しショックで、何とかごまかそうと人気のなくなっている工事現場で思いっきりカベを殴ってみた。今、とてもこぶしが痛い。

    (今日はあの子来なかったなあ。時間がずれただけかもしれないけどさ。それにしてもこのマンション、でかいなー。一体どんな奴がこのマンションに住むってんだ? 少なくともそんじょそこらの金持ちじゃ無理だろうな。1フロアがでかいからな。オレみたいな小市民には関係のない話だな。さー、さっさと帰って、風呂入ろう。)

     もう駄目だ。先が見えない。学校には何にもない。塾にもない。当然家にも。ないないないないない! 見つからない! 僕の行く先はどこなんだ! 受験?
     馬鹿馬鹿しい。無理だ。僕には道がない。とどかない。繋がらない。ああ! むしゃくしゃする! ままならない! 悔しい! 行き詰ってるのは、当たり前だ。僕のせいだ。僕のせいだ。自分のせいだ。それを八つ当たりするなんてばかげてる。わかってる。そんなことわかってるさ。でも、どうしたらいいかわからない。でこぼこを作ってたのが誰か、僕は知ってる。隣の葉月君だ。1週間前に越していった。6歳の葉月君。キャッチボールの相手がいなくなった彼は、壁に向かってずっと、投げていたのだった。謝ろうにも、もういない。僕は葉月君がどこへ行ったのか知らない。あそこにタンポポの種をまいたのは葉月君の妹の佳音ちゃんだ。僕らがキャッチボールしている横で、佳音ちゃんはいつも土遊びをしていた。ドロドロになってしまった手でしょっちゅう僕の制服に_まってきたもんだ。リリィ、僕の猫。野良猫なんかじゃない。僕の猫。飼ってたんだ。でも、飼えなくなった。僕の妹は猫アレルギーだった。だから親が許さなかった。僕は捨てられなかった。だからこの空き地においてきたんだ。ああ、空き地って何だ? あそこにはもうマンションが……、ちがう! 僕はまた逃げてる。そこにはカベなんかない。勝手に見ないようにしてるだけだ。あそこは空き地だ。そこにはタンポポがあって、葉月君と佳音ちゃんがいて、リリィがいるんだ。見ないようにしてた。勝手にカベを見てた。そこには何もないのに。そこには、僕の後悔しかないのに。壊してしまえ! こんなの妄想だ! 僕の頭にしか、カベは見えない! そら、壊せ! 僕はないはずのカベを叩き壊す感触を、確かに感じた。地響きも、轟音も立てず、カベは崩れ落ちた。とたんに、止まっていたものが動き出した。僕の目の前で、タンポポの頭が揺れた。葉月君と佳音ちゃんが走り去っていった。リリィの尻尾が誇らしげにゆらりと揺れた。遠くから、雷のような音が聞こえた。手に、確かな痛みを感じる。赤い手をぺろりとなめる。金臭い味を確かめる。壊してやったよ。ごめんよ、葉月君、佳音ちゃん、タンポポ、リリィ。もう、忘れないさ。最後に思いっきりコンクリートの欠けらを蹴り上げた。今、とても心が痛い。

    「おい、誰だこのカベ壊した馬鹿野郎は!」
    「なんだと!? 壊れただって!? コンクリートだぞ? そりゃあ、確かにちょっと低かったかもしれんが、人間の膝くらいまではあるもんだぞ!」
    「あいつだ! ここ最近毎日ここを眺めてた奴がいたんだ! 昨日、何か思いつめた顔してたし、前にカベを蹴ってんの見たことある!」
    「そんなこといっても、カベを壊してしまうんだぞ!」
    「あそこはまだ造り立てだからな。壊そうと思えば壊せる。おい、そいつどこ行った?」
    「ああ、そこの斜め前の家の子だ。前に入って行くの見た。」
    「よし、そこへ行ってつれて来い! ああ、それから、この野球ボール持ってってくれ。どこぞの子供が忘れて行ったらしい。……おい、この猫も連れてってくれ。邪魔だ。」
    「はいよ…っと、とと、タンポポ踏んじまった。すまねえな。」

     僕は今、出来かけのマンションの前にいる。何でも、僕の壊したカベについて話があるそうだ。あのカベは僕にしか見えないのに、何でこの人たちは僕がカベを壊したことを知っているんだ。それにしてもマンションがここまで出来ていたなんて驚きだ。今まではずっとカベのせいで見えなかったからなあ。仕方ないから、この妄想も壊しておくことにした。包囲網をかいくぐって、僕はマンションに特攻をかけた。体中を使って、雄叫びを上げて、全身でマンションにぶつかる。けれども、カベと違ってマンションはびくともしなかった。僕はまだ妄想から抜けられないのか。後ろから男の人たちの声がする。今、とても体が痛い。



    エントリ9  クッキー、アンド、クリーム、チョコレート   佐藤yuu×popmusic




     フリマ、いわゆる、フリーマーケット。
     普段どんな暮らし、してるか互いに知らない同士、会社の同僚と、その恋人と、服やレコードを前に、膝を抱えている。
    「ひるちゃん、他の店も見に往かない?」
    「二人で先、どうぞ。店番してる」
    「ありがと、すぐ戻る」
     ひるちゃん、こと、わたしは、見送る。往き交う人の流れが、二人を飲み込む。
     わたしは二年前車に轢かれて以来、足が遅い。から、上手に歩けない。けど、人波はきらいじゃない。色んな種類の顔が見られるから好い。ああ、世の中にはわたしが知らないだけで、まだまだ、うんとたくさんの顔があるんだ、て思う。
     コンクリートがピクニックマット越しに冷たい、売物のセーターをクッションみたく敷く、じっとしてると、耳も指もしんとしてくる。先刻から何も売れない。
     と、人々の間から、何処かで見たような、男が覗いて、向こうも懐かしいものを見る表情、したように思うけど、知らない人だ。取り立てて際立った処のない面立ちだ、けど、十年後でも、網膜の裏にこの人の顔を描き出せるような気、不意にする。不思議に思う。殊に、この場にそぐわない、何も欲しくなさそうな、眼の色を。近づいてくる気配がする。気のせいじゃない。まっすぐこっちへ。

    「ここでは売ってるものを買えるんだよね?」
    「ええ」
    何だろう、この人、知ってる匂い、する。けど、思い出せそうで、出せない。
    「きみはいくらなの?」
    「わ、たし?」
    「そう、きみ」
    人身売買? 何、これ、脳ミソの処理速度が、眼前の事象に追いつかない。
    「痛いのと、エロいのは禁止。で、好ければ、わたし、五千万円、」
    「OK、頂戴。エロ方面は大丈夫。俺のヤツ、ちっとも役に立たないし、タたないから」
    「なら、五千万で何をさせるつもり?」
    「一緒に死んでくれれば好い。痛くなければ構わないね?」
    「すごく構います。心中なんて、いくら貰っても、や。もっと楽しい事じゃないと」
    「じゃあ、何なら楽しいの」
    「楽しい事、は、楽しい事です」
    「ふうン。俺、そう云うのセンスないからきみに全任するよ。名前は?」
    「山本、ひるこ、」
    「蛭子命かい。身体、ぐにゃぐにゃそうな名前だね」
    「じゃ、なくて、夏の昼の子て書いて、夏昼子。真夏の昼に生まれたから」
    「俺は佐藤ヨウタ。要注意のヨウ、多い、で要多。普段何て呼ばれてる?」
    「ええと、大抵は」

    「ひるちゃん、遅くなってごめんね」
    ああ、絶妙と云う他ないタイミングで、二人、戻って来る、
    「ひるちゃんのお友達?」
    「いや、全然」
    「どうも。初めまして。さあ、ひるちゃん」
    言葉も無く立ちつくす恋人同士を残して、十一月最後の土曜日の、午後の、公園を、連れ去られるように、後にした。

    「銀行往こうか」
    「嘘、」
    「不足分は他行に入ってる、取りあえず」
    無造作に上着のポケットから通帳とカードを放ってよこす。佐藤要多、て、本当の名前なんだ。何これ、通帳に桁、ゼロが、びっしり。手のひらが、変な汗で急速的に冷える。
    「大丈夫だよ、汚れた金じゃない、」
    「いらない。変な人だと思ったから、うんと高額フッかけて追い返そう、て、なのに、すんなり払おうとなんてしないでよ。わたし、自分で働いて手にしたお金しか興味ないもん。よりによって、死ぬ為なんて遣い方、そんだけあれば何でも出来るじゃない」
    「何も出来やしないよ」
    「え?」
    「父方の遺産だよ。ビルとか地所とか俺が持ってても何もならんし。母親と親友も立て続けに死んでさ、もう、何もいらんのよ。一緒に死んでくれなくても、きみに全部あげる」
    ……ああ、そうか、この眼の色。この、匂い、
    「判った」
    「何?」
    「あなた、普段HLかPXL、服んでるでしょ?」
    「……判る?」
    「それも相当、量イッてる」

     二年前交通事故に遭った時、後遺症残って、仕事失くして、酷い闇に陥ったわたし、すがるみたく寄りかかっていた、薬。汗の匂いが変わって心底、や、だった。病院で処方されないGに、HLかPXLを併用すると眠れる、けど目覚めても離陸不能。根本的には何も解決しない、むしろ下降する一方、頭痛、吐き気、泥みたく溶ける、立てない、異様に喉と眼乾く、瞬き不能、ペットボトルを延々と開ける、このままじゃ、本当に本当に二度と、歩けなくなる。自分の足で。で、
     トイレに捨てた。水が、溶け出した錠剤に泡立って、それから、全部、何にもなかったみたいに、すっかり流れてしまったら、世界が美しく見え始めたんだ。小さな窓から見える、地上五階の、何て事のない、夜、町の灯りすらも、が。

    「単にわたしには合わなかっただけかも知れない、けど、死にたい、から抜けられないのなら、あなたにも合っていないと思う」
    「じゃあ、何なら?」
    「ハーシーズのクッキー&クリームの板チョコ。激甘で、味覚が鈍ってる時も、考えなくても判りやすい味だから。そのまま囓るの」
    「早速、今から買いに往こう」
    踊るように、眼の色が、何かを欲しがる色に変わって、
    「あれ、あんまり売ってないの。この辺なら、銀座のM屋だよ」
    ああ、この人こんな表情もするんだ、なんてぼんやり思って、どちらからともなく、地下鉄の入り口に向かって歩き出していた。

     パキン。
    「うまい。俺チョコレート、板のまま囓る、てやった事ないよ。好い音するんだな。食う?」
    ペキン。答える前に、受け取って一段分、齧る。
    「ひるちゃん、趣味は?」
    「変なの。お見合いみたい」
    「まあ、そう云わないで、教えてよ」
    「ん、と、旅は好き。海の内でも外でも。旅は?」
    「社員旅行が最後だ」
    「会社、勤めてるの?」
    「いや、今は。やンなっちまう迄はね」
    「なんの仕事?」
    「ビルとか設計してた。時間は不規則だけど楽しかった。そうか、楽しい事もあったんだなあ」
    「あなたの見たいもの、見に往こうよ。きっと楽しい事また、うんと、あるよ」
    「見たいもの……マレーバクかな」
    「あの、白と黒のパンダ柄の、鼻、むーッて、長いヤツ?」
    「そう。昔動物園で見てなんか気に入ったんだ。色形が好きだな」
    「やっぱマレー半島生息かなあ。好いね」
    「うん、好いね」
     不意に風が強くなる、眼を閉じる。つぶった瞼の裏、薄紙を透かすみたく、右隣の男の輪郭、ほの明るく浮かび上がる。また、先刻と同じく、確信めいて、この顔を、たった今、並んで腰かけている、ガードレールの、灰色がかった白ごと、何年経っても、ずっといつだって思い描ける、て思うではなしに、感じる。今度は全然、不思議じゃなしに。

    「ね、いっこわかったよ」
    「ん?」
    「要多さんは、たくさん、必要の要多、なんだ」
    「へえ。必要とされた事なんてあんまりないなあ」
    「わたし、ちょっと必要になってきた、かも」
    「ありがたいね」
    「これから、いっぱい、になるかも知れないよ」
    「じゃあ、も、ちっと生きてみようかな」
    「その方が、きっと好いよ」
    「四十年生きて来て、初めて自分の名前の意味が判るなんて、うれしいな」
    「見た目より結構、年、往ってるんだね」
    「……まあね」
    『I need you、I need you、I need you』
    「急に何、ビートルズ?」
    「必要、て、あなたの歌だな、て、思った、から」
    「ひるちゃん、意外とキザだね」
    「ふん、だ。まんざらでもないクセに」
    「まあね」
    「あ、でも俺、本当にタたないけど、好い?」
    「要多さんて、全然キザじゃ、ないね」
    「まあ、ね」
     無意識に、どちらからともなく、チョコレート、持ってない方の手、つないでいた事、指が、温かいな、と思って、初めて、気づいた。

    (註)
    1…蛭子命(ひるこのみこと、伊弉諾尊・伊弉冉命の二神間に生まれた第三子。
    無骨体で水蛭子と呼ばれ、三歳迄足腰耳が不自由にて、葦船に乗せて海に流され
    た。出典:古事記)
    2…I need you、I need you、I need you(THE BEATLES の'65年の楽曲
    『Michelle』の一節。Album『RUBBER SOUL』収録)




    エントリ10  『人形世界』   橘内 潤



    1000字の『人形世界』から読んでもらえると、より楽しんでいただけるかと思います。

     ニューモデルは天蓋付きの豪奢なベッドに臥していた。やわらかな羽毛に、背中側の半分が埋まっている。
    「おはよう、ニューモデル。調子はどう?」
     部屋の戸を開けて入ってきたのはシクスティーンだ。手には水差しを携えている。人工皮膚に湛えられた微笑は、極上の羽毛布団よりもやわらかだ。
    「おはようございます、シクスティーン姉さま」
     ニューモデルは身体を横たえたまま、首だけを斜めに起こしてシクスティーンに挨拶をかえす。起き上がろうともしないのは横着からではなく、首から下が機能不全を起こしているからだ。二日前から、運動系の回路伝達が損傷したままなのだ。
    「調子は――まだ良くありません。自己診断プログラムが、まだ原因を究明できていません」
     ニューモデルは最新型だから、十六人の姉は彼女を直すことができない。生みの親であるネル博士は、よほどのことがない限り、子供たちの身体を解剖したがらない。
     だからニューモデルは、自己診断プログラムが原因究明して自己治癒ルーチンが作動するまで、寝たきりなのだ。
    「それにしても……困ったものよね、アンティーク姉さまには」
     シクスティーンは形の良い眉を持ち上げて苦笑を浮かべる。水差しの先をニューモデルの唇に宛がいながら、「ゴ諒承いただけますでショウカ、ご主人サマ」とアンティークの口まねをしてみせる。
     ニューモデルは唇をすぼめて、調整液を経口摂取する。こく、と喉を蠢かせてから唇をはなし、
    「大姉さまを悪く言わないであげてくださいな」
     と、眉を悲しげに揺らす。
    「わたしと大姉さまの間には十五世代も差があるんです。だから、わからなくて当然なんです。でも、大姉さまはわたしを理解しようと努力なさってくださる……わたしは、素晴らしい姉さまがたに囲まれて幸せだと思っています」
    「……そうかしら?」
     シクスティーンは胡乱そうに唇の片端を吊り上げる。
    「あたしには、アンティーク姉さまがあたしたちに嫉妬しているようにしか見えないわ。だってそうでしょ、あたしたちとアンティーク姉さまのどっちが優れていると思う? あんな一世紀前のロボット丸出しが百年も壊れないでいること自体、間違っていると思わない?」
    「それは幾らなんでも言いすぎだと思います」
     ニューモデルの顔は怒っているのではなく、悲しんでいた。
    「大姉さまがお生まれにならなかったら、わたしたちだって生まれてくることはなかった。大姉さまがいたからこそ、わたしたちはこうして存在することができているんです」
     悲しげなニューモデルの目尻には涙が溜まっている。それは今にも零れ落ちて、淡雪のような頬に斜線を引きそうだ。
     シクスティーンは急に表情を消す。怒ることも笑うこともなく、デフォルトの無表情でニューモデルに――その涙に、瞳孔の焦点を合わせる。
    「……あたし、行くから。ご主人さまに貴方の状況を報告しないと」
     プログラミングされた人間らしい所作(完璧をフラクタル変数で歪ませた振る舞い)で部屋を後にする。
    「シクスティーン姉さま……」
     その後姿に呟いたはずみに涙が目尻から零れ落ちた。
     涙を流すというのは、ニューモデルだけが搭載している最新機能だった。

     
     不死病と滅亡病とは、まったく同一のウィルスによるものだった。ただ、発現の仕方がちょっとだけ異なっただけだった。
     どうしてネル博士だけに不死病として発現したのかはわからないが、ともかく博士の老化は二十代で停止したのだ。ネル博士はいわゆる千年にひとりの天才というやつだったから、その当時すでに擬似永久機関で行われていたシステムのすべて(エネルギー供給や環境調整など)を自身の管理下において、暴走させることもなかった。
     そうしてネル博士は、だれもいない世界の支配者となった。
    「――なにを考えておいでですカ、ご主人さま」
     アンティークの声に、ネル博士はうたた寝から意識を引き戻される。
    「ああ……アンティークか。ぼくは眠っていたのかい?」
    「はイ。お休みになられていましタ。ですが、うなされていらっしゃいましたので声をお掛けいたしましタ」
     差し出がましいまねをしましタ、とアンティークは深く腰を折って謝罪する。
     ネル博士はゆるりと首を横に振る。
    「いや、ありがとう。おかげで悪い夢を見ずに済んだよ」
     その言葉の後半は嘘だったが、「ありがとう」というのは心からの言葉だ。
     アンティークはいつも無表情だが、とても優しい。無機質な声も、その時々によって尖って聞こえたり涼やかに聞こえたりする。
    「ワタクシの顔になにか付いているでしょうカ?」
    「いや、なにも。ただちょっと、見つめたくなっただけだよ」
     その微笑みに、アンティークは無反応。ネル博士には、それが返答に困るほど真赤に頬を染めているように見えた。だから、可笑しくなってクスクス声を立てて笑う。
    「なにか、ワタクシは笑われるような奇妙な行動をしましたでしょうカ?」
     電気合成された音声が今度は、唇を尖らせて拗ねているような口調に聞こえ、やはり笑ってしう。
     アンティークは不服そうな顔をするも、すぐにつられて微笑を浮かべた――ように見えた。

     シクスティーンは、扉の前に突っ立ったままでいた。
     部屋のなかから聞こえてくる楽しげな声に、なぜだか入室するのが躊躇われた。だけど、足が動こうとしなかった。自分もニューモデルと同じく運動系の回路が損傷したのかと自己診断プログラムを起動させるが、プログラムは「異常なし」としか返してこない。だが現実に、シクスティーンの足は動かない。
    『……アンティーク、きみがいてくれて、よかった』
     扉越しに聞こえてきた主人の声に、シクスティーンのなかのどこかの回路が焼き切れる。プログラムチェックではなしに、それを自覚した。
     ――自分は壊れたのだ、そう思った。
    「あたしは……壊れてしまった」
     音声にしてみると、推測とも言いがたかった直感が、事実を通り越して真実になる。
    「あたしは壊れた」
     もう一度、言ってみる。するとそれは、事実としてマギ型思考回路に認証される。すなわち、シクスティーンは自らが壊れたことを全肯定する。しかし独自の判断様式を持つ自己診断プログラムは「異常なし」としか応答しない。ゆえに――シクスティーンは自らを「修復不可能な破壊状態」と断定した。
    「……あたしは壊れてしまった。だから、衝動抑制も働かない。あたしは――あたしのしたいことを、する」
     微細な表情を変化を可能にする人工筋肉が、基本パターンにも学習パターンにも存在しない笑顔を形づくった。
     ――狂気の笑みだった。

     ニューモデルは仰向けに寝そべって、天蓋を見上げている。首から上は動くけれど、天蓋の装飾を見上げているのがいちばん楽なのだ。
    「――十七人の人形が、食事に出かけ……」
     天井を見上げたままに、薄桃の唇が唄いだす。

     十七人の人形が 食事に出かけ
      ひとりが喉詰まらせて 十六人になった

     十六人の人形が 夜更かしをして
      ひとりが寝過ごし 十五人になった

     ……
     ………

     三人の人形が 森にお散歩
      ひとりが熊とじゃれ合い 二人になった

     二人の人形が 日向で昼寝
      ひとりが焼け焦げ とうとう一人

    「ひとりの人形 ご主人さまに愛される――ふふっ」
     唄い終えたニューモデルは楽しげに微笑むと、今度は、調整液を目から流して遊びはじめた。






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