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第36回3000字バトル

エントリ 作品 作者 文字数
松田めぐみ 3000
ヒカリヤ 中川きよみ 3000
『ミッドナイト・リーディング』 橘内 潤 2691
ブルー るるるぶ☆どっぐちゃん 3000
レンズの向こう ごんぱち 3000
「幸せ」と三回、唱えたなら 立花聡 3000
SANTA CLOTH 太郎丸 3000
見上げるべき場所 伊勢 湊 3000
うつしみ 佐藤yuu×popmusic 3000


バトル開始後の訂正・修正は受け付けませんので覚悟してください。

バトル結果ここからご覧ください。



エントリ1   松田めぐみ



 今夜は中秋の名月だから空を見てみなよ。

 帰宅し、数え切れないほどため息をついていたところに彼から電話が入る。
「あぁ、そうなの」
「見てみなよ」
「わかった。後で見るから」
 億劫だ。疲れてた。正体不明の物体が湿気を含んでどんどんふくらみ、どんどん重量を増し、じわじわと私にのしかかってくる。
「俺、今さ、高台にいるんだ。すごいきれいに見えるよ」
「そっかぁ。うん。」
「どうした? ……まぁ、気が向いたら見てみなよ。涙出るくらいきれいだよ」
 月なんか見なくても涙出そうだよ。なにも、私のかわいがっている後輩と、会社でキスすることないじゃない。
 知ってたけど。二人のことは随分前から知ってたけど、知らない振りしているのももう限界。悲しくも辛くもない。ただ、疲れた。

 おなかを空かせたうさぎが膝に乗ってきた。ぎゅっと抱きしめたら引っかかれた。手の甲についた傷をぺろっとなめて、ごめんごめんと言いながらペレットとサラダ菜をあげた。うさぎは一生懸命むしゃむしゃ食べた。時々、こちらを見ながら一心に口を動かす。
 そういえば月にはうさぎが住んでいたんだっけって思い出した。
 何故、月にうさぎが住んでいると昔の人は考えたか。何かの番組で、見るからに堅物な学者が真面目に答えていた。いくつかの説があって、それは忘れちゃたけれど、ただ、そんなことをこの人が一生懸命に考えたのかなって思ったら、親近感が沸いた。きっと、堅物な彼は真剣に考えたのだろう。ご飯を食べながら、お風呂に入りながら、トイレに入っている時も。私は、くだらないことを真剣に考える人が好きだ。

 携帯がなった。彼からだ。
ちょっとうざいな、なんて思いながらも、留守電に変わる直前で出た。
「おーい、月見たか? 月」
「うん。見た」
 嘘つき。
 こんな時は、ちょっと肩をすくめて両手を広げる、あのアメリカンなポーズで嘘をつく。そもそも私は嘘つきだ。でも、このアメリカンポーズで嘘をつくとちょっと罪悪感が少ない気がする。軽く口笛なんか吹いたらステキだ。
「見たよ」
「どうだった?」
「うさぎは見えないね」
「ばーか」
「なんでそんなに月にこだわるの?」
「オマエと一緒に見たかったんだけど……なんて。本当はさっきお客さんに聞いて知ったんだ。それで、ひとりで月を見てたら、なんとなく。」
「ふふふっ、なんだそりゃ。こっちが恥ずかしくなるくらい、今センチメンタルな気分になってるんでしょう? はっずかしい」

 じゃあね、と言って電話を切ってから、おなかがいっぱいになってくつろいでいるうさぎをお供に車を走らせた。30分程のところにある高台の公園。
 車を路肩に止めて誰もいないグランドに立って見上げる。強い風が秋の装いをしていた。公園中が秋になっていた。昼間の、何処までも音が通りそうな高い空も、空気汚染など感じさせないこの星空も、やはり秋なのである。
 視界をさえぎるものがないこの場所で見る月は、宇宙の中にひとりでいた。周りにはたくさんの星があるというのに、月はひとりぼっちのように見える。まんまるな月。企みを含んだような三日月よりも、無防備な満月の方が心もとなく感じるものだ。
 宇宙は、この地球より果てしなく広いだろうに、ひとりぼっちでかわいそうに。
 この地球も宇宙でひとりぼっちの星。ひとりで全生物の命を抱えて宇宙をさまようさみしい星。宇宙の法則で定められた見えない線路に乗って、太陽に近づいて焼け死ぬことも、月に近づいて慰めあうことも出来ない。自分の抱えた命によって、自分の命を脅かされていることを知りながら、暗い宇宙を回り続ける。
 彼はもう家に着いたのだろうか。
 それぞれ別の場所でも見ているものは同じ月。心細そうな月を危うい二人が一緒に見たら、なおさらはかなくなってしまいそうだ。
 こんなとき彼は、誰に最初に電話をかけるのだろうか。彼の周りで、三人の女がそれぞれの存在を知りつつ、それぞれの距離を保っている。彼は自分と、三歳、十五歳、十八歳の年の差の三人の女それぞれに、いったい何を求めているのだろう。私は彼に何を求めているのだろう。

 翌日、私は上司に辞めたい旨を伝えた。特に止められることもなく、来月末に辞めることになった。仕事帰りに後輩を誘ってご飯を食べに行き、そのことを伝えると、嬉しそうな表情をかみ殺した。
「先輩、営業二課の課長と噂になっていたの知ってました? 本当はどうなんですか?」
 知っているくせに。そして、私が自分と彼のことを知っていることも知っているくせに。
「そんな噂があったんだ。知らなかった。どうしてだろう、何もないのにね」
「私、彼と結婚したいんです。もう二十八だし。彼も奥さんとは上手くいってないって言っていたし、何より、私のこと思ってくれているんです。私からプロポーズしちゃおうかな」
 彼女は彼との夢見る未来を語りまくった。彼女は本気で思っているのだろうか? 彼が言うほど夫婦の仲は冷めてはいないのに。あなたが思っているように、彼はあなたとの未来を考えてはいないのに。

 「会社、辞めるんだって?」
 一週間ほど経って、ようやく彼の耳に入った。彼の自慢のスカイラインの助手席から見る夜景はきれいだった。彼は怒った横顔で車を乱暴に走らせる。
「言ってなかったっけ?」
「聞いてないよ。来月末だって? これからどうするんだよ」
「あなたは、離婚して、彼女と結婚する気はあるの?」
「なんだ? 何が?」
「知ってるよ。もう随分前からね。彼女、あなたとの未来を夢見てるのよ」
 沈黙の後、彼は私の質問には答えずに言った。
「別に、オマエが会社辞めたって会えるしな」
「ううん。もう良いよ。私、これを機会に全てリセットしたいんだ。仙台も離れるつもり」
「何で急に」
「あなたが月を見ろなんていうから。今まで先送りしてきた問題を考え出しちゃったのよ」
「わけわかんないよ」
感情を抑えようともせずに彼が声を荒げた。
「何か飲み物買ってこようか? そこのコンビニに入ろうよ」
「ホテルでゆっくり話そう」
「何も話すことなんてないし、今日はエッチする気分じゃないのよ」
 缶コーヒーを2本買って車に戻る。彼の顔はまだ怒っていた。
「彼女とのこと、怒ってるのか?」
「別に。怒るんだったら知ったときに怒るよ」
「なんで怒んないの?」
「怒れる立場じゃないよ。怒れるのは奥さんだけでしょう? ただ、彼女はあなたと結婚したいって言ってたよ」
「結婚かぁ……。俺、結婚してるよ」
「知ってるよ」
 やっと彼が笑った。
「ここからひとりで帰る。もう会えないし、会わない」
「嫌いになったの?」
「あなたは私のこと好きだったの?」
 最後にホテルに行こうよと言う彼に呆れ顔を見せて車を降りる。
「わかった。送っていくよ」
 彼の声を背中で聞いて歩き出す。
 空を見上げると、つんとした横顔を見せた月が、ふんっと鼻で笑ったような気がした。くだらないって。
 私はアメリカンなポーズを小さく取って、追ってきた彼の車を無視して歩く。
 缶コーヒーの温かさにちょっと胸が苦しくなる。
 もう、秋だから。もう秋だから空も高いし、さみしくもなるし、月はひとりで強がっているし。
 大丈夫、私はいつでもひとりで次の一歩を踏み出してきたもの。人生のリセットなんて出来ないけれど、気を取り直して次の一歩を踏み出すことはできる。

 中秋の名月。今年は満月だった。泣き顔の満月だった。




エントリ2  ヒカリヤ   中川きよみ



 駅前のクリスマスイルミネーションは午後5時の鐘と同時に一斉に明かりが灯る。
 バスの薄汚れた窓ガラスを通して、ロータリーから南に開けた大通りの木々に、順に花が開くように点灯するのが見えた。
 なによ、ばかばかしい! 美しい光の散乱に由佳は凍るようなさみしさを感じた。

 行き詰まっていた。シーツの洗濯をしていたのに途中から何も手に付かなくなって、気が付くとその町に来ていた。
 奥さんとは別れるから、なんて半年前にはそんな言葉まで出ていたのに、最近は何も言わなくなって、耐えきれずに水を向けると曖昧に逃げた。
「泊まらないの?」
 すがるような最後の問いにすら言葉を濁して文字通り逃げ出していった。
 オシマイ。
 そこまで明確なのに一晩かかってなお由佳はその未来を信じられなかったのだ。
 彼の住む郊外の住宅地に、そんなところへわざわざ乗り込むのは馬鹿なオンナのやることだと思っていたのに、結局追いつめられたら電車とバスを乗り継いで来てしまった。
 冬晴れの明るい日曜日、未練を背負ってこの世の終わりのような悲壮な表情をした由佳が坂道を上って行く。

 派遣先の上司だなんてごくありふれた不倫。
 東京でしたたかに生き生きと暮らす女性のスタンスとして、由佳は彼との交際を余裕を持って楽しんでいた筈だった。ちょっといいかなと思っていた程度だったのにスナックで口説かれて気易く付き合い始めたことも、いかにも遊びという感じがして由佳は自分を大人の女性らしく感じた。
 彼が、もしも不倫がバレて土壇場に立たされら奥さんに土下座して元の生活に戻るくらいの小心者で、由佳に惚れ抜いてなどいないことくらい初めから分かっていた。だから彼が一時期嫌と言うほど繰り返した「別れるから」という言葉だって、初めの内はちゃんと聞き流すことが出来ていた。生活の一部として居ないよりは居た方がいいというくらいの恋人に、本気になる筈がなかったのに……時の長さがどれほどの馴れと愛着とを生活の中に置いて行くものか、見くびっていた。

 巨大なマンションだった。一体どれがC棟で、どれが512号室か、見当もつかなかった。探す意欲は一瞬で削がれて、中央の小さな児童公園のベンチにへたりこんだ。
 見渡す限り同じ窓が見え、その全てに彼と同じような家庭が由佳が持たない暖かさを持って収まっていると感じられた。
 児童公園の地下が駐車場らしく横の坂道を家族連れが何組も通り過ぎた。
 大きな声で喋りながら通り過ぎたその家族も、ごく普通のありふれた一組だった。
 上の男の子が、クリスマスプレゼントのことで妹とふざけてケンカしていた。
「サンタさんはお手紙ないからって忘れないよ! 字が書けなくたってわたしのところにも来るもん!」
「美菜ちゃん、帰ってきたらママと一緒にサンタさんへお手紙書こうか。手伝ってあげるわ。」
 からかわれて膨れる妹を母親がやさしくフォローする。でも丁寧に書かないと読めなくて違うもの持ってくるかもしれないぞ、と、父親は笑ってから話題をこれから出掛ける先であろうショッピングセンターに変える。
 生意気ばかり言ううるさいガキじゃなかったの?
 そこにはもはやほころびなんかひとつも感じられなかった。あったとしても、それはとうに繕われている。
 日曜日の午後にふさわしい一家族だった。昨夜若い女を抱いたつまらない男の爪の形だって、マイカーのハンドルを持たせれば子供達にとって唯一の父の手になるのだ。
 彼は由佳に気付いていなかった。気付かせることもできず、悔しさと敗北感がないまぜになって目眩がした。

「あ、まいどー」
 バスは駅前が終点だった。降りたところで突然、後ろの女に声を掛けられた。由佳が振り向くと女はにっこりと微笑む。白く強い光がはじけるような鮮やかな笑顔に圧倒された。
「ヒカリヤですぅ。」
 親しげな口調が胡散臭い。でも由佳は女の存在感にどうにも惹きつけられてきびすを返すことができない。
「元気になるお手伝いしますよー。」
 女はまたにっこりと微笑む。人がはけて寒々としたバス停の外れに光が充ちる。
「ヒカリヤってご存知ないですか? まあ、私もいつもこんな風に立ち直りたいお客さんを狙ってるワケじゃなくて、すごく感動してる時もいいんですよ。」
「あの……」
「ヒカリヤが初めてだったら何を説明してみても実際に見てもらわなくちゃ分かりませんよねぇ。あ、現金は要りませんから安心して下さい。お代は光の一部をちょっとこう瓶詰めしましてね、私が頂くと、それでいいんです。まあ、心配しなくても一度見てみて下さい。」
女はやけに透明感のある瞳で由佳の目を覗き込んだ。

 降車専用のバス停と気付かないのか、女の横に銀髪の若い男が並んでいた。チェーンやらピアスやら、やたらジャラジャラつけていたが、割合素直そうな目をしていた。
 日が沈んで北風が強くなった。
 一向に収益が上がらない募金箱を持ったオバサンが暇を持てましたのか、由佳たちに近付いて感じの良い言い方で「乗車のバス停は向かい側だよ」と教える。女は会釈を返し、銀髪の若者はつられて少し頭を傾けて立ち去る。
 競馬帰りの酔っ払ったおっさんが募金のオバサンにぶつかって丁寧に謝ってからやたら機嫌良く募金までする。
 風俗店のサンドイッチマンはちっともやる気のない顔で寒さに耐え、行き過ぎる人々を見送る。
 クリスマスにはおよそ無縁な人々も自分たちの生活をきちんと刻みながら、駅前のイルミネーションの光の下で交錯する。
「クリスマスってキレイですよねー。でもこれもキレイなんですよぉ。ほら、」
 女はガラスの小瓶を由佳の目の前にかざす。空っぽの瓶を透かして見ると、行き交う人々の胸の辺りにそれぞれ色や種類の違う光が見えた。それはあかたもクリスマスイルミネーションのよう。
 暖かなオレンジ色の光を胸に灯したサンドイッチマンが子供連れの一家の賑やかな光の花束を見守る。まるで彼の一家のようなとりどりの光をたたえた家族。でもオレンジの光だって同じように美しかった。
「何? これ…心臓?」
 女は小瓶を由佳に渡す。受け取る左手の下で、小瓶を向こうに由佳自身の心臓が見えた。ほうっと薄くやわらかな水色の光があった。
「えっ? 本当に?」
 ああ、私だってとてもキレイな光を持っていた…
 由佳の心が震える。思い切って小瓶を胸につけるようにして見ると、水色の光ははっとするほど強さを増した。
「本当にきれい……」
 光はさらに大きく強く輝いた。
 女は静かに頷くと由佳の持つ瓶にそっとコルクの栓をした。瓶の中に、由佳の水色の光が明るく密封される。
「感動は光なんです。芸術家や音楽家なんかは感動を自分のフィルターを通して固定してから表現するので保存が効くんですけど、私達ヒカリヤが扱う光はそのままをお見せするから鮮度が命なんです。保存が効かない代わりにすごく鮮やかだったでしょう?」
 女は由佳の光が密封された瓶を軽く振る。
「光を見てもらったお代として頂きますね。私達ヒカリヤは光が見えるからこの職業を生業としてるんですけど、自分で光を生み出すことができないんですよ。だからお代として頂く訳で……私の父ちゃんはこれ集めて田舎に家一軒建てましたからねぇ。」

 月曜日の夕方、給湯室で待ち伏せして何か言いたそうに躊躇する彼に、由佳は自分から別れを告げた。
 紺碧の東空に水色の光がさっと閃く。




エントリ3  『ミッドナイト・リーディング』   橘内 潤



「図書館へ行ってきます。まだ、だれも読んだことのない本を探しに」
 ――その少女は、はっきりとそう言った。

 図書館は広大だ。その果ては霞がかって見えないし、入り組んだ書架はミノス島の迷宮よりも複雑だと言われている(伝聞形なのは、だれも生還者がいないからだ)。
「ようこそ、図書館へ。どんな本をお探しかしら、お嬢さん?」
 司書さんの言葉に、少女はやはりはっきりと、
「まだ、だれも読んだことのない本を探してるの」
「まあ……それは大変ね。だれも読んだことのない本は、まだ地図のない区画の本棚にあるのだけど、まだだれも生きて帰ってきたひとがいないのよ」
 心配そうな司書さんに少女はにっこり笑う。
「じゃあ、わたしが生還者第一号になるのね」
「……行くというのなら、わたしにそれを止める権限はないわ。でもひとつだけ忠告――キツツキの言葉は信じちゃだめよ。キツツキは嘘つきのゴロツキなんですから」
「わかったわ。キツツキの言葉は信じない」
「ああ、そうそう……アライグマの言葉は信じても大丈夫よ。昔はキツツキとグルだったけど、いまはもう手を洗っているはずだから」
「はぁい」
 少女は元気よく返事して、図書館の奥へと歩きだす(走らないのは、「館内はお静かに」だから)。最初のほうは矢印の案内があって迷わず、ずんずん歩いていく。するとやがて、『この先、危険』『まだ、だれも読んだことのない本は、この先』というふたつの立て札。
 立て札のさきには、森が広がっていた――いや、よく見ると森じゃない。草ぼうぼうの地面からは生えているのは木じゃなくて、本棚だ。でも本は入っていない。本の代わりに兎や鳥の巣がびっしりと並んでいる。……いや、もっとよく見ると、兎や鳥の巣は文字の書かれた紙を寄せ集めてできていた。
「……兎さん、だれも読んだことのない本を破いて巣にしちゃったのね」
 少女はぶっと唇を尖らせる。すると、一羽の兎がぴんと耳を立てて起き上がる。
「悪いのかね? だれも読んでいない本を破いて巣をつくることが、悪いのかね?」
 どうやら、昼寝を邪魔されて機嫌が悪いみたい。
「ん……良くはないとおもうわ」
 少女が言うと、
「はんっ! だれも読んだことがないってことは、だれにとっても読む価値のない本じゃないか。だったら、わたしの巣として有効活用してやるのが正しいことだ。そうだろ、なあそうだろ」
「いいえ、それは違うわ。だれも読んだことがないってことは、だれかが読むかもしれないってことよ。だって、あたしは読みたかったもの」
 少女の反論に、兎は長い耳をばたばた振って苛立ちを表現。
「はんっ! だったら読むがいいさ。もっとも、わたしが細かく噛み砕いてやってから、読めないだろうがね」
「……ほかを探すわ」
 少女は溜息をこぼすと、「兎騒がせな!」と耳をばたつかせる兎をおいて歩きだす。
 どんどん奥へ進んでいくと、こんこんこん、こんこんこん、と乾いたリズム。
「なにかしら?」
 音のするほうを探してみると、一羽のキツツキが本棚に嘴を打ちつけていた。
「おや、可愛らしいお嬢ちゃん。ひとりでお散歩かい?」
 少女に気づいたキツツキは、突付くのをやめて声をかけてくる。
「いいえ、探し物よ。わたし、まだだれも読んだことのない本を探しているの」
「ああ、それだったら見たことがあるよ。そこの道をまっすぐ歩いたさきに、そんな本があったはずだよ」
「あら本当? ありがとうキツツキさん」
 少女は深々とお辞儀して、キツツキの教えてくれた道を歩きだす。黄緑色の煉瓦道を歩いていくと、だんだんと霧が立ち込めてきて前がよく見えなくなる。それでも明るい黄緑をたよりに、少女はどんどん歩く。すると、なにか平べったいものが霧の向こうに浮かんで見えた。
 立て札だった。
 『この先、崖。転落注意』
 という立て札をアライグマが手にして立っていた。でも、黄緑色の道はずっとまっすぐつづいている。
「――あ、そうだった」
 少女はようやく、司書さんの言っていたことを思いだす。
「キツツキは嘘つきのゴロツキだったのよね。でもアライグマさんは手を洗ったのだから信じてもいいんだったのよね。あれ……でも、だったらどの道を歩けばいいのかしら?」
 少女が小首を傾げると、アライグマは洗いたての真っ白な手で方向を示す。そのさきには緑色の羽だとか充電式ロケットだとかが準備されていた。これで崖を飛び越えろ、ということらしい。
「ありがとう、アライグマさ――ぁ」
 お礼を言って頭を下げた拍子に、少女はアライグマの足が真っ黒に汚れているのに気づく。
「……手は洗ってけど、足を洗ってはいないのね」
 あぶないあぶない。もうすこしで騙されるところだったわ――少女はまた、黄緑色の道をまっすぐに歩きだす。アライグマの横を通り過ぎるとき、ちっ、という舌打ちが聞こえてきた。
 黄緑色の道を歩いていくと、やがて霧が晴れる。道は崖と崖のあいだに架かる橋になっていた。崖下を見下ろすと、折れた緑色の羽やら壊れた充電式ロケットやらが落ちていた。
 対岸に着くと、道はそこで途切れていた。本棚の森はずっと続いているのだが、どの本棚にも本はなくて動物の巣箱になってしまっている。
「困ったわ。まだ、だれも読んだことのない本はどこにあるのかしら……」
 はぁ、と溜息がこぼれる。だけどここまで来たのだから、と少女はもうすこし探してみることにする。本当はもう眠くて眠くてたまらなかったのだけど、欠伸を噛み殺して森を歩いてまわる。出掛けにマーマレード入りの紅茶じゃなくて苦いコーヒーを飲んでくればよかったわ、と後悔してみるけれど、苦いのは苦手。それに紅茶は美味しかったし。温度も丁度良くて、ママの紅茶は世界一だわ。
「ママ……そろそろ心配してるかしら? 夕方には帰るって言っておいたけれど、いま何時? あら、もう夜明け?」
 図書館だと時間がよくわからない。でも、本棚で眠っていた子猫が母猫にミルクをねだっているから、もう朝みたい。わたしのママも心配しているかもね。
「でも大丈夫。夜明けになっても帰らなかったら、いちばん高い声でわたしの名前を呼んで――って言ってあるから」
 だから、わたしは目を閉じて耳を澄ます。
「………」
 ……なにも聞こえない。
「………」
 ……なにも聞こえな――ぁ。

 しおりー、しおりー。

 聞こえてきた声をたよりに歩いていくと、ぼうぼうの草に隠された小さな本棚がひとつ。そのなかには、一冊の本――まだ、だれも読んだことのない本。
「これでようやく眠れるわ」
 しおりは、だれも読んだことのない本の間に挟まって、ぐっすり眠りましたとさ。



※付記: 本作品の内容および一部のフレーズは、声優・歌手の坂本真綾さんのアルバムCD「ニコパチ」収録の「夜明けのオクターブ(一倉宏さん作詞)」に基づいています。





エントリ4  ブルー   るるるぶ☆どっぐちゃん



 眠りたい。また徹夜をして、三日も本を読み続けてしまった。
 空を見上げると凄まじい数の鳥が飛んでいた。昔図鑑で見ただけで、そして図鑑で見たことも忘れていた鳥が、目の前をくるくると回りながら飛んでいる。鳥の飛行は実に滑らかで、それがこの凄まじい数なのだから、実に壮大な眺めであった。もしかしたら全世界の全種類の鳥が集まっているのかもしれない。そのようなこともあるのだろう。ここは花園であるし、なんといってももうすぐ春なのだから。花は既にあちらこちら、花園だけではなく、色々なところで咲き始めていた。図書館のフロアの隅、分厚い歴史書が沢山収められた巨大な本棚の隣には、小さな白い花が二つ、ちょこんと咲いていた。青いリノリウムの床に、それは美しく映えていた。
 ともかく私は眠りたい。
 私は花園の真ん中に降り立ち、羊を数え続ける。
「教えられた通りの計算方法ならば、この花園は実に三万ヘクタールの広さになるなあ」
 と考えながら。
 お昼はもう済ませていた。海の見える通りにある、小さな軽食堂に立ち寄った。そこで出されたサンドイッチは、丸かった。サンドイッチなのに、丸い、なんて。私は窓際の席で、それを食べた。窓からは海が広く見渡せた。静かな海である。波が殆ど無い。海は年々その波を、穏やかなものにしていくように思える。

 金髪碧眼の若い神父が聖書を読みながら、花園への階段をゆっくりと降りて来た。
 子供達はわいわいと騒ぎながら、あっという間に階段を昇り切ってしまう。男の子が四人。女の子が三人。その子達よりも若干背が高く、性別がちょっと見では解らない者が二人。しんがりを走る黒髪の女の子の手には、何処で手に入れてきたのかワインボトルが握られていた。待ってよう、と叫びながら、女の子はとたとたと走って行く。
 がごん、がごん、がごん。
 派手な音を立てながら、階段から酒樽が転がり落ちて来た。
 実に大きな酒樽である。
 がん、ごろごろごろ、がごん。
 酒樽は大きく跳ねて地面を転がり、私の足に音を立ててぶつかった。そして止まる。
「こうしてわざわざ私の元に落ちて来たからには、きっとこの酒樽の中には私自身が入っているのだなあ」
 そう思うと実に不気味だった。
「でもまあ確かにそのようなことも、あるよなあ。生きていればそのようなことも、あるよなあ。生きているのだから、仕方が無いよなあ」
 私は酒樽を手をかけた。
「自分で何とかするしか、無いよなあ」
 酒樽は、ぴかぴかに磨き上げられていた。上から下まで一様に。一点のぬかりも無く。一体誰が酒樽なんかをぴかぴかに磨いたのだろうか。酒樽なんかをぴかぴかに磨いて何か意味があるのだろうか。だがそう言えば、宝石類が全てぴかぴかに磨き上げられているのは、一体何の意味があるのだろう。最初に宝石をあんなにぴかぴかに磨いたのは誰だったのだろうか。あんなにぴかぴかにして、どうするつもりだったのか。
 ともかく私は酒樽を持ち上げ、肩に担いだ。そして酒樽を元の位置に戻そうと、階段を昇り始める。
「きっとこの酒樽は滅茶苦茶に重いのだろうなあ。嫌だなあ」
 と思いながら持ち上げたのだが、酒樽は案外に軽い。大きさは、私が四、五人、ぎゅうぎゅうに詰めればもしかしたら十人ほど入るかもしれないほどだったのだが、そんな見た目から想像するほど重くは無かった。それどころか、滅茶苦茶に軽い、とさえ言えそうだった。
 私は酒樽を地面に置いた。そして思い切り蹴り飛ばしてみる。
 がつん。
 蹴り飛ばしたら酒樽は、階段を一気に数十段ほど駆け上がっていった。がががが、と楽しそうな音を立てて。くるくるときれいに回転しながら。
「旦那様ぁ、こっちですよう」
 酒樽を追いかけて階段を昇る途中、私は女と出くわした。
「遅かったですわねえ旦那様」
 女はいつものように髪をきちんと結い上げ、うっすらと化粧を施し、赤い見事な着物を着ている。初めて会った時から考えれば既にちょっとした年月が経過していたのだが、女は変わることなく美しかった。強い香水の匂いは男の精の匂いを消す為であろうか。女はそういう商売に就いていた。
「あたくし随分待たされましたわ」
「そうだ、今日だったね」
 私はこの女と食事に行く約束をしていたのだった。
「ごめんな。すっかり忘れてしまっていた。本を読んでいたんだよ」
「もう。あなた様は、いつもそうで御座いますねえ」
 そう言って女は笑う。
 女は、妊娠していた。お腹が、ぽこん、とまろやかでつややかな形に盛り上がっていた。さすってみると、それは暖かく滑らかな手触りをしていて、実に気分が良いものだった。
「さあ、参りましょうねえ」
 私達は連れだって階段を昇る。
 階段の途中に作られたダンスフロアでは、人々がひしめき合っていた。
「これだけの人数がいるのに、こんなに狭いダンスフロアでは、踊りなどどう工夫したしたところで踊れぬよ」
 人々はそう諦めきっているようだった。皆一様に、座り込んで各々好きなことをしている。。
 額に美しい刺青をした男と女は互いの顔を見て抱き合い、笑ったり、キスをしたりをしている。カップルになれなかった者達は、男も女も床に座り込み、ナポリタンスパゲティを心行くまで啜っていた。
 大音量でかけられている音楽はどこまでも楽しげでファンキー。なおかつグルービー。そしてスタンダード。誰でも知っているような曲ばかりである。誰でも踊れるような曲ばかりである。頭上にはライトとミラーボールが大量に設置されていた。奥の方に立っている人物が指示をすると、それは頭上でぐるぐると回るのだった。目まぐるしい輝き。花園のようである。ライトの数を数えようとしたが、計算が上手く出来なかった。人々はファンキーな音楽の元、楽しそうにスパゲティを啜り続けている。
 私は足下に転がっている酒樽を、もう一度蹴っ飛ばした。がががががががが。陽気で楽しげな音を立てて、酒樽は階段を駆け昇る。
「ねえ、旦那様。あたくしにもそれをやらして下さいな」
 女が私の手を取り、そうお願いをする。
「ねえ、良いで御座いましょう? あなたの蹴っ飛ばしたあれを、あたくしが蹴っ飛ばしても、良いで御座いましょう? あたくし、蹴っ飛ばしたいで御座いますよう」
「ああ、良いよ。思い切り蹴っ飛ばすが良いよ」
 私は懐から煙草を取り出し、火をつける。
「好きなだけ蹴っ飛ばして貰って構わない」
「わあ、嬉しいですわ。有り難う御座います。初めてですわ、あれを蹴っ飛ばすの。あたくし、家がああだったものだから、学校なんてロクに出ていないものですから。ああ、本当に嬉しいわあ」
 女は駆け足で階段を駆け昇っていく。からん、ころん、と下駄が軽やかに鳴る。
「旦那様、行きますよう」
 十数段先で女は酒樽に追いつき、私を振り返った。
「見てて下さいねえ、あたくしを、見てて下さいねえ」
 女は大きく足を振り上げる。着物の裾から、女の美しい尻がちらりと見えた。
 女は、下着なんてものは履いていなかった。
「良く見ているよ」
 私は答える。
「私は良く見ている」
「えい」
 がつん。女は足を振り下ろす。酒樽はバラバラに壊れながら、がががが、と楽しげに楽しげに跳ね飛びながら、ファンキーに、グルービーに、ミラーボールのようにきらきらと輝きながら、階段を何処までも何処までも昇って行く。眼下には青く広がる海。静かな静かな、遠い海。




エントリ5  レンズの向こう   ごんぱち



 放射能防護服姿の占領軍兵士が地平線の向こうに消えた後、砂のくぼみから、津島徹は身体を起こした。
「やれやれ」
 津島はデジタルカメラを構え、撮影を再開する。
 沙漠迷彩の戦車、トラックから、カンヅメの缶に至るまで。あらゆるものが灼け焦げ、戦闘の激しさを物語っている。
「劣化ウラン弾、ここまでとは」
 携帯ガイガーカウンタを取り出した。
 針は危険レベルを指していた。あらゆる場所が汚染されている。
 戦車に近付く。
 劣化ウラン弾の直撃を受けた戦車は、最も放射能汚染が激しい。
 ――筈だった。
 しかしカウンタの数値は、全く変化なかった。
「そんな」
 戦車には、被弾と思われる傷は全くない。
 ただ、ある一方向の装甲がまんべんなく熔け落ちていた。
「どういう事だ」
 シャッターを切る、津島の彼の手が止まる。
「まさ、か」
 周囲の砂はすり鉢状に大きくえぐれていた。
「本物の核爆弾?」
 今、津島は、クレーターの中心――爆心にいた。

 窓を閉め切った宿の一室で、津島はノート型パソコンを操作する。
 熔けた戦車、焼け焦げた建物、泡だったガラス、火傷を負った兵士、白血病のラクダ、奇形の子供、針の振り切ったガイガーカウンタ。
 画面に写真が並ぶ。
「劣化ウランに紛れて、核兵器を使うなんて」
 写真の向こうの子供の目は虚ろで、感情を読み取れ――いや、先天異常で、眼球がなかった。
 数千度の熱に身体が炙られる。
 放射線に遺伝子が壊される。
 遮る物もなく。
 逃げる場所もなく。
 自分を殺すという、明確な意図をもって、攻撃される。
 同じ、話も通じる筈の人間に。
「そんな事」
 ただ、その瞬間、敵であったというだけで。
 数十年、数世代に渡り、あらゆる生物を苦しめ続けると分かっている兵器を用いる。
「許されない」
 津島がメールを新聞社に送信したその時。
 ドアが激しく蹴り開けられ、兵士たちがなだれ込んで来た。
 抵抗どころか、状況を理解する暇も、なかった。

 トイレとベッドの他には何もない重営倉の中で、津島はドアについた窓をぼんやりと眺めていた。
 ドアの下から、食事一式の載った盆が突っ込まれる。
 津島は盆を取り、大量に盛られた豆とパンとポテトサラダを食べる。それから、空になった盆を部屋の外に出し、またベッドに座る。
「……これから、どうなるんだろう」
 食事はこれで七回目だった。
(核兵器使用の事実を知ったんだ。ただじゃ済まない)
 村の一つで見せられた頭蓋骨が、脳裏に浮かぶ。
 目の間に弾丸を受け、両目が繋がっていた。
(スパイ容疑で処刑されたんだったか……)
 ぞくりと背筋が冷える。
 逃げる術はない。
「糞っ、殺すなら殺せ! どうせこっちには選択権なんてない」
 無理矢理頬を上げる。
「そうだ、殺せば、みんなが気付く」
(写真はもう送った。もみ消しなんて出来ない)
「記者が一人死ぬんだ、どんなに圧力があったって、どこかから発表される。日本のマスコミを舐めるなよ」
 作った笑い顔が、いつしか本物の笑い顔になっていた。
「そうだ、俺のスクープは俺の命がスパイスになって、歴史に刻まれる。この重大な国際犯罪を知らせた英雄になる――ふふふ、はは、はははは!」
 津島はひとしきり笑った後、ベッドに横になった。
 数分して、ドアがノックされた。
(処刑か)
 重い音がして鍵が外れ、ドアが開く。
 ドアの向こうには、米兵と中年の日本人らしき男が立っていた。
「津島徹さんですね。外務省の者です」
 男が日本語で尋ねる。
「外務省――?」
「立入禁止区域の無断侵入の罪で、あなたは国外追放処分となりました」
「追放?」
「命令に従わない場合、拘束して強制送還されます」
 男は飛行機のチケットを津島に手渡した。
 チケットには、今日最後の便名が書かれていた。

 帰国した津島を迎えたのは、編集長だった。
「いやあ、良いスクープだったよ!」
 車の隣りの座席に座った編集長が、津島の肩をばしばし叩く。
「もう発表出来たんですか? あの写真」
「ああ。勿論だ。国内外で評判が高くてね。販売部数も通常の十倍だ」
「そんなに刷ってましたっけ?」
「増刷したんだよ。今でもバックナンバーの注文がある」
「そいつは凄い」
(ちょっと拍子抜けだな、はは)
「劣化ウラン弾汚染の実態がみんなに伝わる、良い写真だったって事さ」
「――え?」
 津島は編集長を見る。
「今、何と?」
「だから、劣化ウラン弾汚染の、良いレポートだったって評判だ」
「ち、ちょっと待って下さい!」
 思わず立ち上がりそうになって、津島はシートベルトに押し戻される。
「あの写真は、核兵器使用の証拠なんですよ!? だって、爆心のクレーター、映ってたでしょう? 現地の人のインタビューでも、光を見たって話も!」
「……核兵器? ああ」
 編集長は津島から視線を逸らし、前を向く。
「あれは比喩だろう? 劣化ウラン弾の悪影響は、核兵器並だという」
 雑誌を津島に手渡す。
 表紙には津島が撮った、放射能障害で眼球のなくなった子供の写真が載っていた。
 津島はページをめくる。
「――この記事」
「こちらで直した。別に珍しい事じゃないだろう?」
「核使用に一言も触れてないじゃないか!」
「核兵器使用の証拠なんてあったか?」
「戦車が熔けてた!」
「ナパームでも、鉄ぐらい熔かせるさ。集中爆撃をすれば、クレーターだってできる。あそこは激戦地だったからなぁ」
「放射能汚染は!」
「だからそれは劣化ウラン弾の影響だろう?」
 編集長は前を向いたまま笑う。
「……まさか、編集長、あんた」
「津島君」
 編集長はあくまで、視線を前に向けたままだった。
「戦争の悲惨さを報道して評価されたんだ。原爆だろうが、劣化ウラン弾だろうが、大した違いはないだろう?」

「オメデトウ!」
「おめでとうございます!」
 出版社は、報道陣でいっぱいだった。
「オメデトゴザイマース!」
 日本の報道に混じって、外国人記者の姿もあった。
(俺は核兵器使用の証拠を撮った筈だ)
 津島と編集長は、報道陣にもみくちゃにされる。
(確かに最初は劣化ウラン弾の影響を調べてた。でも)
「聞いてくれ!」
 津島は怒鳴る。
「核が使われたんだ! 原爆だ!」
「全くです!」
「核兵器並ですよね!」
「被爆した子供たちに何か一言!」
「写真を撮る以外に出来る事はなかったんですか!」
 津島の言葉は瞬く間にかき消される。
「本当に核を使ってたんだ!」
「なるほど、劣化ウラン弾も立派な核兵器である、と」
「タングステン弾頭は十倍以上のコストがかかるとの試算もありますがその辺りは!」
「広島市長のコメントについてどう思われますか!」
「いやぁ、本当に凄い!」
「同じ報道に携わる者として、誇りに思いますよ!」
 絶え間なく続く賞賛の言葉に、津島の言葉はかき消されて行った。

「ええと食事は豆とサラダでしたが、味は良かったです――」
 テレビカメラを気にしつつ、津島は答える。
「まあ、あたしはそういうのあんまり知らないんですけど、あの国の食事っておいしくないって言われるでしょ? まして軍隊の捕虜に出すものだから――」
 聞き手のベテラン女優は、津島の三倍ほど喋る。
「――でもそうまでして、撮りたかったんですね?」
「はい」
 津島は力強く頷く。
「その原動力は?」
「そうですね」
 少し考えてから、津島はカメラの向こうの視聴者を見つめた。
「真実を伝えたかった、ただそれだけです」
 その目は、虚ろだがいきいきとしていた。




エントリ6  「幸せ」と三回、唱えたなら   立花聡



 不意に晴子からの電話が鳴った。時刻は午前二時を回り、雄介が深い眠りに落ちようとしている時だった。
「もしもし」寒さだろうか、声は震えているような気がした。

 コンビニ前の公園、冷たいはずのブランコは、ほのかに暖かい。つい今まで晴子がここに座り、自分を待っていたのではないか。
 決して遅かったつもりはない。寧ろ雄介は、手元に有った上着と財布だけを手にして、ここまで走ってきたのだ。しかし、「待ってる」と告げられた公園には、冷たい風が吹き込み、枯れ葉がカラカラと泳いでいるだけだ。
 晴子の声は沈んでいる様だった。笑顔の印象が圧倒的な、その明朗な少女の影には似合わない、ゆったりとした物さびしい声。そんな違和感が雄介を確かに覚醒させ、公園までの数分間を全力で走らせた。薄暗く、静寂が包んだ道程は、先ほどまでの夢の続きを感じさせ、自分の足音のリズムは、様々な想像を掻き立てさせる。
 雄介は辺りを捜しまわったが、人影はない。ただ、離れたベンチの影から白い猫がこちらを見ていた。
 白い猫は街灯の光を浴びて、青白かった。

 次の日、晴子は学校に姿を見せなかった。
 彼女の親友は「風邪でもひいたんじゃない」とケラケラ笑っていた。そのあっけらかんとした笑顔は、雄介に妙な安心を与え、納得させる。三時間目の数学で晴子が当てられたが、教師が休みだということを伝えられると、静かに出席簿にバツを付けたようだった。
 放課後、雄介は仰々しい飾りを纏ったツリーを見かけた。
一部は電飾で煌めき、またある一部は広場の周辺の店から漏れる明かりに淡く揺らめいていた。頂点に飾られている星形は光っていなかった。
 ふと、赤いコートを纏った晴子をその広場に見つけた。ショーウィンドウに飾られているマネキンを眺めている。雄介の頬が微かに弛んだ。
 小走りに近づくと、彼女の少し顎の出た輪郭が徐々に大きくなる。ただ、それだけのことに雄介の心は弾んだ。しかし、鮮明になるにつれて、どこか憂鬱そうな雰囲気や、焦点が定まっていないような様子に気が付いた。
 雄介の足の力が抜けてゆく。ついに立ち止まると、それ以上彼女に近づくことが出来なかった。雄介は、晴子に悟られぬように、彼女の後ろに回ると、彼女の携帯電話を鳴らした。今年の夏流行った曲が辺りに振りまかれる。
 晴子は電話をとりだした。しかし、彼女は相手が誰かを確認すると、すぐまた真っ赤なコートのポケットに滑り込ませた。
 雄介は、クリスマスを讃歌する曲の中で鳴り響く、季節外れの夏の曲を、長い間ぼんやりと聞いていた。

 いつも電話は突然鳴りだす。雄介の股間にあった手元は、ピタリと止まり、想像した女は呼び出し音にかき消された。電子音のせいだろうか、それとも何かを感じた第六感か、その音は直接雄介の脳を揺さぶった。
「今から出て来れる?」
 晴子の声はやけに艶やかだった。

「ごめんね、昨日は。あと今日の電話出れなくて」
「いや、いいけど。気にしてないよ」雄介の思いと裏腹な言葉が先に出た。
「あのね。私考えたの。ずっと長いこと考えたの。考えすぎていやになるくらい」どうしてか雄介には察しがついていた。覚悟も出来ていた。
「私ね。あの。なんだか…」
 晴子の鼻を啜る音が挟まれる。
「へへ、寒いね。風邪ひいちゃったかな」
「それで、どうしたの?」自分の確信が外れることへの希望なのか、自分で自分にとどめを刺すことへの恐れなのか。雄介の言葉は冷たく響いた。
「だから。好きな人が…」
 何秒か空気が揺れなくなった。それを風がきれいに洗い流した。
「別れて欲しいの」
「そう。そっか」拳を握りしめた。そして、無性に抱きしめたくなった。その衝動はすぐに汗ばみ始めた掌に引っ掛かった。
「ごめんね。急にこんなこと言い出して」
「いや、いいけど」
「別に嫌いになったわけじゃないから。ただ、他に好きな人が出来ただけだから」
「分かってるよ」
 相手が誰なのか、いつからなのか、一体何故今なのか。自分の知っている人なのか、それとも全く知らない男なのか。学校の人か。バイト先の先輩か、後輩か。
 自分を本当に好きだったのか。
 疑問は枯れ葉のようにかさ張って、はけ口から出ることはなかった。雄介にはもどかしいとも感じる余裕もなかった。
「そんなことより、お前なんで学校来なかったんだよ。今日、古文の小テストがあったんだぞ。それから…」雄介は声を張る。
「ごめん。行きたくなかった」
「そう」雄介の声はまた沈んでいった。
「ごめん」
「いや、別に」味気ない返事しかできなかった。
「のど乾いたね。何か飲む?私買って来るけど」
「何でもいいよ」
 晴子は明るすぎるコンビニに向かって走っていった。

 雄介はベンチに座ると、意味もなく携帯を開いては閉じ、また開いては大きく時刻が表示された画面を眺めた。まるで時間が止まったかのように分針は動かない。
 昨日見かけた猫が雄介を眺めていた。

「じゃあ、また明日ね」
 温かかったお茶は、もう冷たくなっている。
「そうだ、良いこと教えたげる」
 何度か聞いたことのあるお笑い芸人の名を挙げ、
「乙女座のあなたは、鏡に向かって『幸せ』と三回、唱えましょう。少しだけ幸せになれるんだって。あの最後の占いの所でいってたよ」
 晴子は笑顔で言った。風邪は治ったらしかった。

 翌日は土曜日だった。
 雄介は、昼前に起きて食事を取り、再放送のテレビを見た。時折メールが届くと、返事をした。
「夜は適当にすましてね」テーブルに千円札を置いて、両親は二人でどこかへ出かけていった。千円札はポケットに入れて、夕飯は台所に転がっていたカップ麺ですました。
 つまらないテレビを見ながら、食べ終えると、電話をかけた。昨晩振られたことを話すと、相手は興味深気に聞いてきた。その時どんな感じだったか、その好きになった相手のこと。どれもが雄介自身の疑問だ。「そんなこと言われても俺が聞きたいよ」そう繰り返した。間違いないのは、話したのは午後十時頃だったという事だけ。気晴らしだったはずの電話は、数十分間の憂鬱な時間に取って代わられた。
 午後八時、なんとなく性欲が湧いてきて、卑猥な妄想をする。中学時代の英語の教師、同級生、テレビ画面に住んでいるアイドル。気分にあった相手を捜し、様々な妄想を試してみた。不思議なことに、最後に出てきたのは晴子だった。晴子はいじわるそうな顔をしていた。
 することがなくなると風呂に入った。なるべく時間をかけゆっくりと湯舟に浸かろうと心掛ける。気が付くと一言、「飯田晴子」と名前を呟いていた。そんな自分に気が付くと、慌てて別の女の名前を出した。顔を洗っていると、石鹸が目に入った。どれほど年をとったなら、この痛みに慣れることができるのだろう。雄介は赤い目をしながら思った。
 昨日の夜が断片になって、頭に浮かんだ。雄介は自分自身に向けて気丈に振る舞った。一つ一つを出来る限り正確に思い浮かべた。「なんてことない」回復した自分を作り出そうとした。
 脱衣所の鏡を見ていると、晴子の最後の言葉が思い出される。「幸せ」と三回。
「言える訳がない」雄介は鼻で笑った。
 白く曇った鏡を見ていると、
「晴子」言葉が出た。続けて二回、同じ名前が口をついた。そのまま数瞬、鏡を見つめ、考えた。
 急に頭を拭いているバスタオルの動きが速くなり、生乾きの頭をした男は「そうか」と言って、部屋を出た。




エントリ7  SANTA CLOTH   太郎丸



 始めまして、小金井三太と申します。今年41です。えぇ前厄です。この年まで独身だったのは、まぁ女性に縁が無かったと言ってしまえば簡単なんですが、多分面倒くさがりだからだと思います。それに私は人付き合いが下手です。
 そんな私でも好きなものはあって、縫い物だけは好きです。人と関係ない自分だけの世界に浸れる。それが好きな原因かも知れません。
 今までに付合った方も何人かいましたが、やっぱり人と付合うというのが苦手なせいか、お付き合いも中途半端な気持ちになっていて、やっぱりそれが相手に伝わってしまうんでしょうね。良い雰囲気になるって事がありませんでした。

「これ…、値段、本当ですか?」
 去年の年末に、私は趣味で作ろうと思っていたバッグの生地を買いに行った池袋のキンカ堂で、店員さんにそう小さな声で聞いていました。
「えぇ。お買い得ですよ」
「じゃ、下さい」
 セール品でもないのに、サンタの衣装が千円でした。もちろん材料費です。手間さえかければ千円でサンタの衣装が手に入るんです。上下の服ばかりじゃなくて、帽子から白い大きな袋どころか、裏地や糸まで付いているんですから、こんなお買い得品はありません。
 ベロアのような厚手の大量の生地が千円ですよ。私は喜びました。バッグの事なんかもちろん忘れてしまいましたよ。まぁ時期は過ぎてしまいましたが、趣味で作るには安さも大事な要素です。

 家に帰って開くと型紙が付いていました。でもその型紙ってサイズがないんです。普通線が何本かあって、その中のひとつを選んで型紙として利用するんですけど、大きなワンサイズという事なんでしょうか? とてもフリーサイズという感じではありませんでした。確かにサンタの衣装なんだから、太っている感じが出ないと仕方がないんでしょう。
 私は今までそんな事をした事はありませんでしたが、まぁ衣装の下にバスタオルでも巻いたら雰囲気が出るとは思いました。私はそんな単純な考えから、型紙を新聞紙に写すとチャコを引き、はさみを入れミシンをかけ、糸の指定もそのままに、丁寧に丈夫な衣装を作り上げたんです。
 出来あがった衣装を着て見ましたが、それは本当に大きかった。帽子さえぶかぶかです。迂闊でした。帽子まで型紙通りに作ってしまっては、タオルでも巻いて被るしかありません。まぁ千円で楽しめたんだから良しとしよう。作る事に面白さがありますからね。その時は単純にそう思ったんです。でもそんな事はすっかり忘れてしまいました。

 私はサラリーマンですから、もちろん会社に通っています。この間の健康診断では健康そのものでした。もちろん会社の健康診断ですから、そんなに詳しい検査はしないのは判っていますが、それでも自覚症状もないし、健康については全然気にしていませんでした。
 でも今朝、鏡を見たらそこには知らない人がいました。いつもの見なれた顔なんですがヒゲが5センチ位の長さです。
 私は吃驚してしまいましたが、いつもより時間をかけてヒゲをあたり、会社に行きました。熱があるわけでもありませんから、これくらいの事で会社は休めません。
 会社に着くと滅多に口を利かない隣りの同僚が声をかけて来ました。
「なんだよ。寝坊したのか? ヒゲくらい剃って来いよ」
「ええ!? ヒゲならちゃんと…」言いかけて手を顎にあてた私は、唖然としました。今朝剃ったはずのヒゲが又伸びていました。
 私は机の隅に入れておいた剃刀を掴むとトイレへ駆け込みました。鏡を見てまた吃驚です。私はなんとかヒゲを剃って部屋に戻って仕事を始めました。それでも昼休みには、またヒゲを剃りにトイレへ直行です。会社を出る時間になると私はもう諦めていました。もうヒゲはゆったりと、立派に生え揃っていました。
 同僚も唖然として、病院に行った方が良いかも知れない。なんていっていましたが、私は気分が悪いという事はなかったし、ヒゲだけだから面倒くさいと思い、空返事をして帰りました。

 翌朝の鏡ではそんなに驚かなかったんですが、でもやっぱり病院に行った方が良いのかとは思いました。私は少し、いえ随分太っていました。家に体重計はありませんからわかりませんが、多分10キロ位、いやもっと多くなっている気がします。
 ヒゲは昨日の長さのままで、あれから伸びませんでしたからいいんですが、太ったのには困りました。だって着て行く服がありません。まさかジャージで会社に行くわけには行きません。
 私は仕方なく、調子が悪いので会社を休むと連絡を入れました。太ったから動きが鈍くなるとか、息があがるなどといった事もなく、困った事といったら、おしっこがしにくくなった事くらいでしょう。
 食欲は今までと変りませんでしたし、酒の量だってたばこだってそんなに多い方じゃないから、訳がわかりませんでした。
 しかたが無いので、又寝ることにしましたが、なかなか眠れるはずがありません。明日もこのままだったらどうしよう、とそればかり考えていました。
 結局夕方になって起き出し、何か着られる服はないかとタンスを探していると、去年の暮れに作ったサンタの服が出てきました。
「まったく、これじゃ本当に三太のサンタだ、苦労スる」
 私は自分の下らない洒落に笑う事も出来ずに、その衣装に袖を通しました。
 そして、それはぴったりでした。私はまた太っていました。
 これで髪の毛やヒゲが真っ白なら、本当に…。私は鏡を見てサンタクロースになっている自分に気がつきました。
 そういえば今日はクリスマスイヴです。
 私は唖然としていましたが、何故か声が出てきました。
「ホーッ、ホーッ、ホーッ」
 それはあのサンタの声でした。

 すると不思議な事に、急にあたりが静かになりました。もの音が一切聞こえません。道路を走る自動車の音も隣りの子供達の声も、今まで点けていたテレビの音や時計のカチコチする音も、全然聞こえません。時計の針は動いていませんでした。
 それでも何か聞こえて来はしないかと、じっと耳を澄ませていると、遠くから「シャンシャンシャン…」と鈴の音が聞こえて来ました。
 それに注意を向けていると、その音は段々大きくなって、窓の外で止まりました。
 私の部屋はワンルームマンションで8階です。でもそのベランダから音が聞こえてきたんです。

 私がカーテンを開けると、そこにはあのトナカイが引くソリが待っていました。
『メリークリスマス。今年は君がサンタだよ。さぁ早く乗って』
 何故かトナカイが喋ったように思えました。
 そして私は、自分がサンタクロースなんだと自覚しており、どうやってプレゼントを配るのかさえ理解していました。
 私は当然のようにソリに乗りこむと、時間が止まったままの地上を見ながら、順番に家々を廻り始めました。
 サンタは昔から煙突から入るなんて事はしませんでした。ただ家の前を通るとそこにプレゼントが出現します。
 プレゼントとはいってもそれは夢でしたから、形もありませんでした。でもサンタがいないとソリは走りません。
 サンタは夢の象徴だったんです。

 ソリに服を置いて部屋に戻った私は、いつもの私に戻ってしまいました。ソリが行ってしまうと、少し寂しくなりましたが、私の両手には、夢が溢れて見えました。

 そういえばあれから、大きな声で喋るようになったと言われます。
 今では長続きしそうな彼女が出来ました。




エントリ8  見上げるべき場所   伊勢 湊



 うちの大学に謎の地下七階があるという噂を知ったのは卒業して八年半が過ぎた寒い夜のことだった。

 美咲と喧嘩してアパートの部屋を追い出された。一緒に住み始めて十年。そういうことも慣れてきさえする。いいことなのかどうかは分からない。でも以前だったら怒るような事でもなかった。ちょっとキャバクラで飲んだだけだ。それも接待で。
歩きなれた線路沿いの坂道に多くの乗客を乗せた電車が影を投げかける。歩きながら思う。やはり、何かが変わったのかもしれない。それは確かに以前より多くの制約を受けることではあったが、オレにはそれがどこか心地よくもあり、美咲の可愛さを再認識させられもした。
 子供が出来たオレたちは、先月この慣れ親しんだ町で籍を入れた。

 勝司のやっているケーキ屋に入る。学生時代を知っている者から見れば勝司が雑誌に載るようなお洒落なケーキを作るというのはそれだけで笑えてしまう。しかし信じられないことだが美味い。オレは実際はきっと奥さんである妙ちゃんが作っているのだと睨んでいる。そういえば昔みんなで海に行ったとき妙ちゃんの作ってきた弁当が美味しくてやたら誉めてたら美咲が自分が作ってきた弁当を弁当箱ごと海に放り投げたことがあった。あのあとオレは海に潜って弁当箱を回収したのだ。
「なにニタニタしてんだよ」
 勝司の声に思わずびくっとする。
「なんだよ。今日はお客さんだぞ」
「なんだ? 美咲ちゃんと喧嘩でもしたか?」
「おまえ、鋭いね」
 隠すのもなぜか億劫でそう言うと奥から妙ちゃんが出てきた。
「ひさしぶり」
「そうでもないよ」
 オレは笑いながら返す。
「じゃあ、妙に任せようかな」
 勝司がそう言ってカウンターを出た。代わりに妙ちゃんがケーキを選び始めるが、どれもさっぱりしたゼリーのようなものばかりで派手さに欠けていた。そんな気持ちに気付いたように妙ちゃんが言う。
「美咲も分かってると思うよ。でもね情緒不安定になっちゃうのよ。体調的にもだけど、子供を持つ不安っていうのもあると思う」
「もう時間だし店閉めるから、オレたちその辺で暇つぶそうぜ。妙が美咲ちゃんとこには妊婦でも食べやすいさっぱりしたゼリーをデリバリーするからさ」
 いきなり迷子になったようなオレの肩を勝司が叩く。そんなオレたちに妙ちゃんの「一時間くらいで帰ってくるのよ」という声が飛んでくる。店の片付けもあるはずなのにいきなりシャッターを閉める勝司と早くもケーキを見繕った妙ちゃんに何か申し訳ない気もしたが、何もいうことが出来なくて結局二人に任せることにした。二人は経験者なのだ。初めての娘の名前は香澄ちゃん。事故に遭ったのは二年前。生きていればそろそろ小学校に入学するはずだ。その後、二人に子供が出来ないのは、偶然なのか、そうしているのか、そしてそうなってしまっているのかは定かではない。もちろん、聞くことは出来なかった。

 妙ちゃんが手を振りながら線路沿いの坂を下っていく。オレたちは行き場を決めかねて駅前の道をゆっくり歩いた。職業柄煙草の煙を嫌う勝司の前ではなるべく気を付けるようにしているのだが、口寂しくて思わず煙草を咥えてしまう。子供が出来ても煙草を止められないオレへの「父親になる自覚あるの?」という美咲の言葉が頭の中でこだまする。言わんとすることが分からないではない。ただそこに理解と感情の隔たりが横たわっていて、オレはそれを自分のものとして受け入れられずにいる。頭の中では製図が引けるくらいにはっきりとしているのに、それを言葉とか態度とか、とにかく表に出そうとすればたちまち霧散してしまう。
「……行くか」
「えっ?」
 聞き返す。
「大学だよ。すぐそこなのに随分行ってないだろ」
「夜だぜ?」
「昼間行ってもつまんないだろ。夜の大学に侵入なんて、なんか昔みたいで楽しくないか?」
 その感覚が分からず「そうか?」と返すと勝司は「だろーな」と一人納得したようなことを言いながらも強引にオレを大学へと導いた。

 勝司の後をついて大学への道を歩く。歩いてみるとやけに懐かしく感じるが、卒業したのはいつ頃だっただろう。卒業した年を聞かれれば答えられるが、いつ頃だったかという問いには上手く答えられる自信がない。
「ところでおまえ、校舎の地下の話知ってるか?」
 勝司が唐突に聞いてきた。
「地下って学食とか購買とかあったやつだよな」
「その下」
「ああ、なんか倉庫になってんだよな。盗みに入られたとかなんとか。三年の時だっけ?」
「もっと下だよ。オレたちの大学にはな、地下七階までの隠された階層があるらしいぜ」
「はぁ? マジかよ」
 正門は閉まっていて、オレたちは植え込みに上ってフェンスを越える。一度構内に入ってしまえば部外者だと分かるはずもない。部室やサークルの部屋に泊まり込んでいる連中がいるのは今も昔も変わりはしないだろう。
「なんでも戦前の軍が作ったらしいぜ。まあ、あるわきゃないとも思うがそういうの検証した本も出てる」
「へぇー。嫌いじゃないぜ、そういうの。サークル棟の下にもあるのか?」
「さあな。行ってみるか?」
「よし、行こう」

 古いサークル棟に入りエレベーターで地下四階まで下りる。ヘルメットとゴーグルを付けた学生運動家たちが屯すると噂されてきたフロアだ。人の気配はない。ひんやりと振動を感じさせない凍りついた空気がそれを物語っていた。
「おっ、あった」
 勝司があっさりと床の扉を見つけた。月や星やネオンからは遠く離れた地下では全てが非現実的に見えた。頭の中に生まれた言葉が唇まで届きにくく、オレは目で勝司に合図してから扉を持ち上げた。床に暗闇が現れて、その向うへ続く梯子が辛うじて見えた。勝司じゃない勝司がオレを見ている。気のせいか笑っている。そしてその目は「さあ、行けよ」と言っている。オレは抗えない。梯子を伝い深い闇へと降りていく。

 何も見えない闇の中には夢があった。冷たい空間の中で夢に触れた。この空間は誰が何のために作ったのだろうか? こうありたいという空間自身の夢、こう使いたいという人々の夢、その混沌の中で見た。自分の夢を。美咲がいながら派手に遊んだ時期があった。勝司ほど仕事に身を捧げきれない自分がいた。妙ちゃんのように美咲と子供のことを理解することを拒絶していた。そしていま、オレはこんなところにいる。深海魚のように闇と戯れている。この闇がオレが望んだものなのか?
 上から明かりが差し込んでいる。影が見えた。人型の影。何か言っている。遠く、遠くから。
「……か? ……しろ」
 声。その波が闇に溶けかけながらもオレの皮膚に当たる。
「おい、一体どうしたんだ? 大丈夫か?」
 勝司の声。オレは反射的に梯子を掴んで体を闇の中から持ち上げた。

「なんだよ、何があったんだよ?」
 大学を出て線路沿いの道まで走った。勝司が荒く息をしながらついてくる。
「なんにもなかったぜ。ただの倉庫」
「じゃあ、走るなよ。死体でも見つけたのかと思うだろ」
「馬鹿言うなよ」
 このままでいることが怖くてオレは携帯ですぐに家に電話した。
「美咲? オレ。帰っていい?」
「馬鹿。なに言ってんのよ。早く帰ってきなさいよ」
 その声の向うに消えない灯台がある。決して消してはいけない。オレは勝司に振り向いて「まだ妙ちゃんもいるってさ」と告げてから再び走り出した。こんなふうに走るのは本当に久しぶりだった。




エントリ9  うつしみ   佐藤yuu×popmusic



 欲しいものなんて一つも売ってなかった。そも、何故フリマなんて来たんだろう。何かしら理由があったと思うのだけど、疲れてしまって思い出せない。公園側の自販機には、いつも吸ってる金のマルボロの、柔らかいヤツも売っていない。箱仕様ならそこかしこに置いてあるのに。味も若干違うし、かさばってポケットに収まりが悪いから、や、だけど、他の銘柄を吸うよりはマシだから、仕方なく箱のを買う。
 車止めの柵に腰かけて、煙草に火、点けて、ミルクコーヒーの缶、かしゅん、と開ける。少し前に買ったから、もうだいぶ温んでいる。冷めてるせいもあるだろうけど、砂糖の味、いつもより濃く感じて、疲れてるんだな、て、よりいっそう気づく。

『ひるちゃん』
『ひるちゃん』
迷子かな。誰か、呼んでる声。
『ひるちゃん』
近づいてくる。
「ひるこ」
て、……わたし? ひるこなんて、そんな吸血生物っぽい名前じゃない。
「ごめん、ずいぶん待ったろう?好かった、まだいてくれて」
この人誰? 見た事あるようにも思う、でも自信ない。けど、不意に長い事待ってた気がして、
「うううん、そんなに」
て、思わず口をつく。……あれ?じゃあ、
「怒って、る?」
……わたし、誰だっけ?
「全然」
また、勝手に、口をつく。わたしの中で、別の誰かがしゃべってるみたい、襟元が、ぞくり、とする。
「ケータイつながんないから、絶対怒ってると思った」
それまで男の眉間を覆っていた不安の色が、熱い紅茶に落としたとたんにほどける角砂糖みたく溶け出して、ふんわり、ゆるむ。この笑い方、結構好きかも。ああ、今は、そんな事、どうでも好い。ええと、わたし、
「何処かに入ってお茶、飲んでれば好かったのに」
「これ、飲んでた」
「ああ、なるほど」
……ひるこ、なのか、なあ……うううん、どうなんだろう、きちんと思い出せないのは、疲れているせい、そう、たぶん、きっと。残りわずかになったミルクコーヒーを、気持ち、まぎらわすように飲み干す、けど、ちっとも味がしない。

「かなりまいったよ」
二四六沿いで三回エンストして、四回目に完全に止まって、JAFを呼んだと云う。
「俺、自分が渋滞の元になるの初めてだよ。会員になってて助かった」
疲れを隠すように笑って、JAFのカードをもてあそぶ、のを横目で見ながら、気取られないように、あわてて名前を確認する。『サトウヨウタ』やっぱり、聞き覚えない。けど、ほんの些細でも眼前の人物の手がかりがつかめて、わずか、心許なさが減るように思う。
「すっかり冷えちゃったね」
男の指がうなじの辺に滑りこんで、耳の後ろが、甘く、きゅ、となる。この人の手こそ、しん、と冷たい。まぶたに軽く触れる、くちびるが温かくて、気持ち好い。肩を包まれるみたく抱かれて、男の着ている上着の生地も、すっかり冷えているのがわかる。長い時間、外気に触れていた事を物語っている、のに、肌で気づいて、今度は鼻のつけねの辺が、じん、となる。
「まだ車検出したばっかりなのにな」
上背のある身体を、排気ガスで煤けたガードレールにもたせかけて、凍える指、ポケットに突っ込んで、青と白のツートンの車が来るのを所在なさげに待っている、姿、が頭の端っこによぎって、急に何となく、かなしくなる。
「当分は代車だよ。トゥインゴて、わかる?」
「うううん」
「今乗ってるのと同じルノーだよ。鼻先がバクみたいに丸四角くて、ライトが笑ってるふうな形でさ、妙に愛嬌がある」
気持ちの焦りと相反して、この男の体温に、当たり前みたくなじんでる、自分が、落ち着かない、眼の前がふわふわする。
「これから取りにゆかなきゃいけないんだよ。明日なら家まで持って来てくれるみたいなんだけど、俺、朝イチ会議だし、ひるこも早出だろ」
「ああ、うん」
どんなに話しかけられても、頭に全然入って来ない。
「付き合ってもらってもいいかな。足、まだ大丈夫?」
て、聞かれて、急に暗示にかかったみたく、左足、ずしんと重くなって、上手く立っていられなくなってしまう。……何、これ?
「出してごらん」
穏やかな口調に促されて、車止めの柵に、も、一度腰かけて、隣に坐った男の膝に左足を、スカートの裾、たくし上げて、ブーツ、脱いで、投げ出すような形になる、恥ずかしい。
 ……何、この傷……膝の裏から、足首辺りまで伸びる、縫い跡。
「上手に縫ってくれて感謝だよな。腕が好かったんだろうな」
冷えてこわばった筋肉が、手慣れた感じでマッサージしてくれる、男の指から伝わる熱に、
「酷い事故だったんだろうな。当分歩けなかった、て云ってたもんな。俺が見つける前に、ひるこが、この世からいなくなってなくって、本当に好かった、て、この傷を見る度に、思うよ。それから、俺も、な」
柔らかくなって、
「もう、大丈夫だと、思う、ありがと」
立ってみる。少し引きずるけど、先刻みたく重くない。大丈夫、歩ける。でも、また、立てなくなったら……? うちに帰りたい、帰りたい、帰りたい、
 て、でも、……何処へ? わたしのうちは、何処、何処、何処、悪い夢が醒めたとたんに、またその続きだった時みたく、脈が、突如、どくん、と速まる、
「さ、佐藤さん」
笑う。
「なんで笑うの?」
「ひるこも、佐藤だろ」
「え?」
自分の左の薬指のと、この人の指のと、指輪、見比べる。ああ、すごく似てるデザイン。わたし、もしかしたら、この人の、
「じゃ、ようたさん、あの、わたし、」
かも、知れない、うううん、違う、わかんない、心臓、指先に降りたみたく、血の中で、どくどく重く、速く、打つ、喉の奥でも、激しく打つ、から、息が上手く出来ない、詰まって、眼球が圧迫されて、喉が、鳴らしたくないのに、ひゅう、と鳴る、無理矢理、せり上がって来る酸っぱい唾液、飲み込む、帰りたい、でも、何処へ、何処へ?
「酷い顔色だな。先に電車で帰ってる?」
ゆかないで、一人で、ゆかないで。思わず、上着の裾、つかんでしまって、あわてて、離す。
「帰ろうか。後で俺、取りにゆくよ」
「……でも」
「帰ろう」
また、まぶたの上に、くちづける。そこから、温かさが身体中に広がるのが、わかる。この人は、きっといつも、こんな風に、ひるこの事をなだめたり、愛しんだりしているのだろう、と思うと、ひるこが、うんとうらやましくなる。

『両手をまわして かえろ ゆれながら』

「なあに、その歌」
「知らないよな。俺が生まれた年にはやったんだよ。ひるこは、まだ影も形もない頃だもんな」
「きれいな、歌」
「俺だって勿論、当時の事なんて何も覚えてやしないけどね」
でも、さみしい歌。
「父親が、よく歌ってた」
この人の声に、よく合ってる。

『両手をまわして かえろ ゆれながら 涙の中を たったひとりで』

 さみしい歌。たった一人で、なんて。
 この人、わたしがひるこじゃない、てわかったら、どう思うだろう。きっと酷く落ち込んで、ただ、かなしがるだろう。この人の事、全然知らないのに、確信めいて、感じる。
「一緒に、帰ろう……どうした、泣いてるの?」
神様、神様、もし、いらっしゃるのなら、どうか教えて。わたしの帰るうちは、何処ですか。この人の、本当のひるこは、何処ですか。
「ごめん、この歌嫌いか?」
「うううん」
「足、痛い?」
「大丈夫、ただ」
「ただ?」
神様、神様、
「なんでも、ない、帰ろう、うちへ」

 きちんと全部、思い出すまで、
 わたし、このまま、
 この人のひるこ、で、いて、
 好いですか。

(註)
1…JAF(社団法人日本自動車連盟、JAPAN AUTOMOBILE FEDERATIONの略称)
2…青と白のツートンの車(JAFサービスカーを指す)
3…ルノー(フランスの自動車メーカー。1898年創立)
4…『両手をまわして かえろ ゆれながら 涙の中を たったひとりで』
(三橋美智也の'62年のヒット曲『星屑の町』の一節)

(作者註)第35回3000字バトル投稿作「クッキー、アンド、クリーム、チョコレート」と何らかの接点がある作品です。お時間とご興味がおありの際は、是非お立ち寄り下さい。





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