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第37回3000字バトル

エントリ 作品 作者 文字数
明日に向かって打て 伊勢 湊 3000
空箱の日 ごんぱち 3000
夜想 相川拓也 3000
ハイウェイ、ハイウェイ るるるぶ☆どっぐちゃん 3000
湖面の花火 さとう啓介 3000
フェリーチェ(fellice)とかリュッカ(lycka)、ボヌール(Bonheur)あるいはシャースチェ(счастье) 橘内 潤 2621
月山町3丁目のひとびと 中川きよみ 3000


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エントリ1  明日に向かって打て   伊勢 湊



 私に力をちょうだい。誰でもいいから、お願い。
 橘美咲はバッターボックスの外で必死になって拳を握っていた。私は人形でもなければ、何もできないお嬢様でもない。そりゃあ東京にいたころは近所付き合いとか町内会の仕事とか、そういうの関わりたくないって思っていた。でもいま、美咲はこの町で、この場所で変わりたいと痛切に思う。
「美咲ちゃーん。ほんまにだいじょーぶかぁ? やっぱわしが代わりに打っちゃろうか?」
 美咲にそう声をかけたのは中学校で野球部のキャプテンをしている酒屋の藤田さんちの長男の武彦だ。まるで大人の美咲を子供扱いしている。それが美咲には耐えがたいが残念ながら町内では中学生から上のみんなから「美咲ちゃん」という呼び名で親しまれていた。
「美咲ちゃーん。無理せんでええんよ。うちの子に任せちょったら」
 藤田さんちの奥さんもそう言う。美咲の体の温度が上がった。
「橘建夫は私の夫です。夫のケツは私がもちます!」
 叫んでいた。一度叫ぶとなぜか余裕すら出てきて呆然とする町内会のみんなを見て笑みさえこぼれた。そういえばケツなんて言葉いままで一度だって使ったことなかったっけ。
「さあ、きなさい!」
 美咲はそう声を出してバットの先をピッチャーに向けた。

河川敷の野球場。隣町の町内会との冬空の野球大会。九回ツーアウト、ランナー二塁。四対三、一打同点の場面。前の回の守備で大きなレフトへの打球をダイビングキャッチして、そのまま川にダイビングしてしまった美咲の夫の建夫の打順だった。体が丈夫なことを自慢にしている建夫とはいえ、さすがに冬の川へのダイブはきつい。「後は任せた、絶対追いつけよ」と言い残すとくしゃみをしながらさっさと車で着替えに帰った。
 代打は野球部キャプテンの武彦に決まりかけていた。子供といえども頼りになるバッターだ。年内最後の恒例の野球大会。商品は樽酒が用意されていた。勝てば豪勢な忘年会ができるというわけだ。みんな熱くもなる。
 しかし美咲は別の意味で熱くなっていた。本当にそれでいいの? 美咲は中学のときはソフトボール部のキャプテンだった。ヒットを放てそうな気がしていた。いや本当は、子供っぽい考えなのかもしれないが、美咲は夫の代打なのに自分に全く声が掛からないことに腹が立ったのだ。

 建夫とは東京で出会った。美咲が通っていた大学の建築デザインの通信課程の夏期スクーリングのために建夫は上京していた。美咲はたまたま教授の手伝いでその講義の場に居合わせた。それまで美咲は自分が東京を離れ知らない田舎町に行くことになるなど思ってもみなかった。しかし出会いは理屈ではない。大学卒業と同時に美咲は西日本の片隅の小さな町で大工をする建夫と結婚し東京を離れた。
 新しいことだらけだったが美咲は建夫もこの町も好きだった。だから一刻も早く慣れようとし、しばらく経つと自分でも馴染んできたと思っていた。そんなある日、近くで火事が起きた。田舎では消防署員だけでは手が足りないから地元の消防団が出動する。つまり町内の男たちである。人数は少ないはずなのに町中から仕事を放り出して駆け付けあっさりと火を消してしまった。その見事な手際のよさに美咲はただ見とれていた。しかし手際がいいのは男たちだけではなかった。見ると町内会の集会所から女たちが大きな寸胴なべを持って出てきていた。美咲は慌てて駆けつけた。けんちん汁だった。季節は秋の終わり。体が冷えるであろう男たちのために急いで温まるものを作っていたのだろう。
「あの、なにか手伝います」
 そう言う美咲にみんなは悪意の欠片もない笑顔で答えた。
「あら、美咲ちゃんはええんよ。こんなんは私らみたいなおばさんは慣れちょるんじゃけえ。でもじゃあ、箸を配ってもらえるね?」
 美咲は手持ちぶたさを紛らわすように箸を一本一本配って歩いた。

草刈のときは美咲が小さな鎌で少しずつ草を刈る間に大きな草刈機が何倍も早く刈っていった。町内会の寄り合いではいろんな家庭から食べ物が持ち寄られた。でもやはり経験の差か美咲の料理が割り込む隙はあまりなかった。夏祭りのときも、バレーボール大会のときも、いつもいつも言われる台詞は「ええんよ美咲ちゃんは。ここは私らに任しちょき」というもので、何よりも辛いのはその言葉のどこにも悪意の欠片がないことだった。
それまでその町には東京から嫁が来たことなどなかった。美咲本人は気が付くはずもないがファッションや立ち振る舞い、そして醸し出す雰囲気が文化的な見えない空気の断層で閉ざされた田舎の中では異質なものだった。美咲の持つそれはまさにテレビモニターの中の人が持つものと同じ種類のものだったが、テレビモニターの意味さえ美咲の持つそれとは違っていたのだ。
美咲は町の中で必然的に偶像だった。でも美咲はそれが嫌だった。実在しているのだから。それを上手く言葉にはできなかったが、代わりにいまバッターボックスに立っていた。

ファールボールがバックネットに突き刺さった。振り遅れている。ベンチのみんなは心配そうな顔をしていた。美咲も慌てていた。ボールは見えていた。でも手元で加速するところはソフトボールとは違っていた。そして何よりもベンチの雰囲気が美咲を追い詰めていた。なんなんだろう。美咲は不安の正体を探り、すぐに思い当たった。声がなかった。みんなが祈るように美咲を見ていた。さっきまでバッターに対して「絶対打て」だの「ホームラン打て」だの、武彦にすら町の者たちは「商品の樽酒もらえんかったらおまえの小遣いで忘年会の酒買えよ」なんて好き勝手を言っていたのに。でもそれで逆になぜか盛り上がってもいたのに。無理に代打になど立たなければ良かった。凍りついたような美咲の目の前を絶好球が通り過ぎていった。
ツーストライクノーボール。簡単に追い詰められた。美咲はきっと私には誰も忘年会の樽酒はおまえが買えなんて言わないんだろうな、なんてことをぼんやり考えていた。そのときだった。車のドアを閉める音がして、聞きなれた声がした。
「美咲、おまえがわしの代打か。しっかり打っちゃらんかい!」
 建夫だった。その声は乾いた空気の中を駆け巡った。
「もうツーストライクなんよ」
 そう言う大工仲間のキャッチャーの梶井に建夫は笑って答えた。
「なんや。心配すな。ああ見えても美咲はむかし野球部のキャプテンやったんやで」
 ソフトボールだってば。いつも適当なこと言うんだから。そう思いながらも美咲の気持ちはいつのまにか回復していた。ベンチでも「おおー、そうなんか!」という驚きと期待の声が伝播していた。
 待たない。美咲は再びバッターボックスに立った。そして高めの球をセンター前に打ち返した。

 結局試合は引き分けに終わった。同点のランナーは返したものの二塁を奪おうとした美咲が刺されてアウトになった。季節はずれの草野球では延長戦まではお日様も待ってくれなくて樽酒は半分ずつということになった。
 ただ美咲だけがセカンドベースに座り込んでいた。馬鹿みたい。恥ずかしい。そう思うのになぜか涙が止まらなかった。みんなが集まって慰めれば慰めるほど涙は溢れ出たが、それでも「ええやんか美咲きちゃん。ヒット打ったんやし泣かんでも」と言った中学生の武彦にこう言い返していた。
「なんね。美咲さんって呼び」
 どっと沸いた笑いが涙を掻き消していた。





エントリ2  空箱の日   ごんぱち



 あたしに、学校帰りにアンティークショップに立寄る趣味があったわけじゃない。その日たまたま、ショーウィンドウにあった箱が、妙に目をひいただけなのだ。
「お気に召しましたかな?」
 アンティークショップの、眼鏡をかけたお爺さんは笑う。
「いいものなの?」
 お母さんの宝石箱兼オルゴールと大体同じ大きさ。色気のない言い方をすると、定型最大封筒サイズを側面とした直方体。
「良いものか、悪いものかと言えば、それは多分悪いものですな。こちらの方が、良いものです」
 お爺さんは、細い壷の口を指先でピン、と弾く。
「悪い箱なんだ」
 箱の表面は黒っぽい赤で、幾何学模様と呼ぶには何だか歪んだ彫刻がしてある。チョウツガイ式のフタが付いていて、材質は木、かなぁ?
「宝石箱になる?」
 宝石なんて一個しか持ってないけどさ。部活のセンパイから貰った水晶の原石。静岡土産のヒトカケ三五〇円。
「やめた方が良いでしょうなぁ。それは、空箱ですから」
「なに、ソラバコって?」
「開けてごらんなさい」
「悪い箱って言ってなかったっけ?」
 んな事言いながら、好奇心にゃあ勝てないあたしは、箱を開けて中を覗き込む。
「あ……」
 中は青かった。
 所々白かった。
 んで、小さく黒いのもあった。
「空だ」
「言ったでしょう? 空箱って」
 得意げ爺さんだ。
 箱の中には空があった。広い広い広い空。どこの空かは分からない。何たって、空しかないから。
「液晶画面か何かになってるの?」
 あたしは箱の中に手を突っ込んでみる。
 手のひら広げて指を伸ばしてそれから腕までぐぃっと伸ばして。
 ん?
 んんん!?
「ええっ!?」
 気が付けば、肩まで入ってた。
「な、な、な、なにこれ?」
「空箱ですよ」
 オウ! 爺さんの何と気の利かない答え。
 あたしが聞かんとしているのは、現宇宙の物理学的法則を無視したこの箱の所属する科学的位置と、その製法と、入手先と、軍事転用の可否云々なのに。
 あたしは箱から腕をひっこぬいた。
 こりゃ確かに、宝石箱にはならない。
 箱の中では、青い空に白い雲がぐわーーーっと動いてる。たまに名前の分からない鳥が、間をかすめて行く。
 とっても大事な日の空みたいにも見えるし、どーでもいい日の空にも見える。見上げ損ねた空が、ぎゅっと折り畳まれて入ってるみたい。
「ねえ」
 私は、空から目を離し、お爺さんの方を向く。
「いくら?」

 あたしは、通学路を逆走して、学校へ向かう。
 サイフの残りは百円ぽっち。両手には空箱。
 アホだ。
 こういうアホなものは、誰かに見せびらかしてこそ浮かばれる。
 とりわけ、水晶の原石みたいな、役に立つわけでも綺麗でもないようなもんを、同じ部活の機嫌を良くさせても利点のないかわいげのない後輩女に買って来るような、そういう自らアホな事をする人材が必要だ。アホな事を見て、批判や嘲笑をせずに、アホを喰らわばアホまで、素直にふわふわ締まりなく連鎖効果のある笑顔を浮かべる、そういう人材が必要だ。是非とも必要だ。
 息が切れる。
 天下の往来を、必死の形相で走るあたしは、さぞかし醜いこったろう。
 でも、日が暮れてしまうと、箱の魔法が解けてしまうのだ。きっとそうだ。多分そうだ。そうに決めた。さもなきゃ、あたしはどーして走っているのだ。
 走りながら、箱を少し開く。
 まだ空はある。
 もっとも、もしも魔法が解けていても、「へぇ、それは面白い話だねぇ」とか言って、ふわふわ笑うのだ。そんで、あたしは釣られてふわふわ笑ったりするのだ。
 ……あのふわふわは危険だ。人のやる気を削ぐ。
 箱の中身を見る。よし、まだ大丈夫!
 さあ、ここから心臓破りの坂! この長ったらしい坂の上に学校だ!
「あれ、宇崎。忘れ物?」
「おわっ!」
 ……「おわっ!」だよ。
 言うに事欠いて「おわっ!」。
 「あっ、能代センパイ。ちょうど良かった、面白いものを見つけたんですよ」ぐらいの事言えや、自分。「おわっ!」は、女子高生のヴォキャブラリーじゃない。
 そして今、あたしの手から離れ、空箱はコマ送りで落ちて行く。
 あたしは――とーぜん、目の前のふわふわにも――これをキャッチする反射神経はない。
 カシャン。
 空箱は砕け散った。
 始めっからそうなる事が予定されていたみたいに、砕け散ってバラバラになった。
 そーして。

 空が溢れだした。
 周りが空になった。
 右も左も上も下も空だ。
 地面がない。
 空気はある。
「うわぁ、凄いねぇ」
 ふわふわは、いる。
 笑ってる。
 上も下もない、箱から溢れた空の中で、ふわふわは笑ってる。
「うわわっ、落ちる落ちる!」
 あたしはじたばたと手足を動かす。
「落ち着いて、宇崎。スカートがはだけてるよ」
「そ、わ、そんな場合じゃ! 落ちる、激突する、砕け散る!」
「宇崎」
 ふわふわは、ひょいとあたしの腕を掴んだ。
「落ちる事はないみたいだよ」
 ふわふわと笑う。
「え……ああ、そう、っすね」
 あたしも、釣られてふわふわ笑っていた。
 空の中には、あたしとふわふわ二人きり。
 コバルトブルーの、夕暮れ間近な空の中を、飛んでいるんだか浮いているんだか。
「センパイ、このままだとヤバイんじゃないっすか?」
「でも、どうしようもないしねぇ」
 ふわふわは、ふわふわ笑いながら空中であぐらをかく。
「まあ確かに」
 ふわふわはあたしの腕をまだ掴んでいる。
「生身で空を飛べるなんて、滅多にない機会だよねぇ」
「そーっすね」
「こうやると動くみたいだよ」
 ふわふわはあぐらのままで、上半身を右へぐっと傾ける。
 動いてるのか風が感じられる……でも、地面がないから基準がなくって、ピンとこない。ふわふわを基準にしようにも、まだ腕を掴まれているので一緒に動くだけ。
「――夢でさ、飛ぶ事ってあるじゃない?」
「はい」
「オレの場合ね、こういう風にじゃなくてね、たかーーーーーい建物が、棒高跳びの棒みたいにぐぅっと曲がって落ちるついでに飛ぶ、みたいな事が多くてねー」
「嫌な飛び方っすねぇ」
「うん。だからこういう飛び方は、憧れてたなぁ」
 右へ左へとふわふわ飛ぶ。宙返りとかも出来そうだ。やらないけど。スカートだし。
「五秒後に突然地面が現れて、死体になるかも知れませんよ」
「あはは、かもね」
 それから、あたしとふわふわは、ぷかーりぷかりと浮き続け。随分長く、浮き続け。
「――あっ、空が薄くなって来たよ」
「本当っすね」
 少しづつ、どっかへ落ちてるのが分か――痛っ。
 ふわふわの手に力がこもった。
 ふと見ると、ふわふわが笑っていなかった。
 そ……か。
 ふわふわだって……心配だったんだ。
 そっか。
 でも、地面に激突はイヤだなぁ。
 と。
「あれ?」
「ここ?」
 唐突に、あたしたちは、元いた歩道に立っていた。
「空に浮いてたよね?」
 ああ、幻覚じゃないんだ。
「驚いたなぁ。アレ、宇崎が何かやったの?」
「買ったのはあたしっすね」
 子供みたいにはしゃぐふわふわに釣られて、あたしもふわふわ笑う。
 太陽が沈んだ空を、夕焼けの残り陽が染めていた。

 ちゃぽん。
 湯船につかったまま、窓を見上げる。
 頭の上に広がってるであろう、夜空は見えない。
 ……磨りガラスで見えたら問題だけど。
「本当に飛んだのかな、あれ」
 湯から、腕を出す。
 くっきりと痣がついていた。
「ったく」
 痣にそっと触れる。
「加減ってもんを知らないんだから」
 まだ痛いや。
 確かに悪い箱だ。
 えへへ。




エントリ3  夜想   相川拓也



 雲のない、透きとおった夜だ。クレールは小さな川とたわむれる。ちらちら流れる、少し濁った川のフリーセンは、クレールと言葉をかわす。
「久しぶりだね」
「そうね。ねぇ、フリーセン、ちょっと訊きたいことがあるわ」
「なに?」
「私って、何なのかしら? 最近そればかり気になって。教えてくれない?」
「君は君だよ。月の光じゃないかい?」
「いやなのよ、薄っぺらな月の光りなんて。もっとしっかりしているほうがいいわ」
 フリーセンはちらちらとしばらく考えてから静かに言う。
「でも仕方ないよ。君は月の光なんだから。きれいでいいじゃないか」
 いや、とクレールはつぶやいて、さらさらと歩いていく。
「私はもっと別なものになりたいのよ。もう行かないと。さよなら」
 うん、とフリーセンも言う。星たちの夜会に終わりが近付く。空は透きとおったまま、淡い色に装い改める。フリーセンはしののめの空の色を映して、なおもちらちら流れている。クレールは遠くに行った。

 その川から遠く離れたところ、一件の家の軒先に花の咲く前の椿がある。クレールはその椿の葉に話しかける。
「椿さん、こんばんは。お名前は?」
「イプセです。はじめまして」
「はじめまして、私はクレール。今夜も寒いですね」
「本当に。朝露が毎朝冷たいんですよ」
「そうですか。……朝ってどんなものでしょう。見たことがないわ」
「あなたは朝になると消えてしまいますものね」
 クレールはすっと黙ってしまう。冷たい風がわずかに走って、椿の葉たちを揺らす。月光はまたしらしらと語りかける。
「下らないことですけど、私って、何なのでしょう?」
「あなたはお月様の光でしょう?」
「私はそれがいやなのです。朝も見られないような月の光なんて……」
「でも、あなたは素敵よ。きらきらしていて」
「ありがとう。でも、私はもっと立派なものがいいわ。それじゃ、また、会いましょう」
 イプセはゆっくり頭を下げる。山ぎわに紫色の光が見えはじめる。クレールは静かに姿を消す。

 冬の夜はいっそう冷えて、雪がちらちら舞っている。家々の屋根がうっすら白く化粧する。街は心なしか、普段よりせわしなく動く。街灯のぽつぽつした灯が、黒いコートを照らしている。
 厚い雪雲の上では、銀色の月が光り、雲海を白く染めている。
「クルムさん、今日は元気ね」
「だいぶ重くなってね。この寒さじゃ、雪じゃないかな」
「久しぶりの雪。早く見たいけど、見られるかしら」
「さあ。朝までに降りきっちゃうかな。わからない」
「まあいいわ。ところで、クルムさん。私、月の光でいるのがいやなの。変かしら?」
「難しいことを言うんだね」
 クルムは少し困った様子で流されていく。下に降りていく雪は、まだやむ気配さえない。写真のような静けさがしばらく続く。
「僕は雲でいるのが好きだよ。雪になったり、風で形が変わったりするけど、それでも僕は雲でいるのがいい」
「なぜ?」
「なぜって、そんなの分からないよ」
「あなたはいいわ、それで。私はだめなの。ちゃんと理由が知りたいのよ」
 そう言ってクレールは口を閉じる。相変わらず、ゆるゆる流れる雲海を照らして、彼女は沈黙している。難しいな、とクルムは思う。彼の中でも自分の存在への疑問が沸き上がったが、それは強風にあおられた雲のようにすぐ消えた。

 月の光は紺色の町を照らす。寝静まった街路に自動車が、街灯の光に当たって暖をとっている。街はたくさんの人間を孕んで、あたためている。
 その街の北、小さな丘の上、男が一人、眼下の街を眺めながら座っている。男は月光の声を聞く。
「こんばんは。何をなさって?」
「何もしていないよ」
「変な方ね、何もしていないなんて」
「いいものだよ。君だって、何もしていない。いつも世界をぐるぐる回るだけだ」
「そうね。どうせ私はそんなものかもしれない」
「それでいいんだ。私は君に何度も助けられているんだから」
「どんな風に?」
 男は言葉をぽろぽろこぼすようにつぶやく。

 雲のない夜空に
 月ひとつ 音もたてずに
 ひっそりと山に光をそそいでいた

 月あかりにうっすら光る山は
 眼前の海と
 そのおもてに映る月の姿を
 静かに見下ろしていた……

「詩?」と、クレールは言葉を飲み込んでから言う。「あなたは詩人なのね。名前は?」
「ディヒター」
「素敵ね。私も嬉しい」
「まだまだだ」
 と言って彼はまた詩を口ずさむ。

 ……道はほどけた髪のように
 並んで、穏やかに行き先へのびる
 月は草地への旅半ば
 香は花々に涙と流れゆく
 その庭にある噴水の上には
 冷たいたわむれの軌跡がなお
 夜の気に立ちあがる

「これもあなたの詩?」
「いいや、昔の詩人の詩だよ」
 ディヒターは白い息を吐いている。時折ナイフのような、冷たい風が吹いた。ディヒターは独りガラスに言葉を刻み付けているのだ、とクレールは思う。彼の体からしみ出す孤独を、彼女は精一杯に照らす。
「ありがとう」
 ディヒターは白い息で言った。

 小さな路地に、街灯がぽつりぽつりともっている。寒そうな人影がひとり足早に通りすぎる。硬い足音は空気にふれてすぐ消えていく。昼間に降った雨は、水溜まりを残して去って行った。空では綿をちぎったような雲が、月のまわりを漂っている。
 路地の端にひっそりと、瞳を開いた猫が一匹座っている。クレールはその猫に身をそそぐ。
「猫さん、こんばんは。お名前は?」
 キッタ、と短く言って、猫は黙る。風景と同化してしまいそうなほど、静かだ。
「いい名前ね。飼い猫なの?」
 だったね、と冷たく答える。
 クレールも黙ってしまう。何もできないことを彼女は感じる。ただ、キッタから目を離さずに、しらしらと降りそそいでいる。
「捨てられたんだ」とおもむろにキッタが口を開く。
「昔は、拾われる前は、独りでいることに何も感じなかった。拾った家族は可愛がってくれたよ。心の中で氷が音をたてて溶けていくみたいに。俺は満ちたりていた。今までに感じたことのない気分だった。俺はしょっちゅう散歩で遠くまで行ったけど、あの家にいつまでもいたいと思った。ある日、理由は分からないけど、俺はこんな遠い所で車を降ろされた。家族は行ってしまった。で、また独り」
 何度もつかえながら言うキッタは、寂しさを赤裸々に、無言でさらけ出している。彼の中に入っていけない悲しさをクレールは感じた。だからこそ彼女はキッタの傍を離れなかった。彼は少し上を向いて、大きな瞳に光を映じる。

「フリーセン、私、何だか幸せ」
 クレールは川に光をキラキラさせながら言う。
「薄っぺらな月の光は嫌じゃなかったのかい?」
「でも今は嫌じゃないわ。よくわからないけど、嬉しくなったのよ」
 クレールは今まで会ってきた様々なものについて話す。フリーセンはそれを静かに聞く。
「君にはいろんな出会いがあるんだね。いいじゃないか」
「あなたは、川でいて幸せなの?」
「うん。僕を必要としてくれる魚や花がいるからね」
 川は平らかに流れ続ける。月の光はその上に、白い影をにじませる。

 鳥が一羽、夜空を飛んでいく。
「こんばんは、鳥さん。一人なんて、珍しいわね」
「群れからはぐれてしまって。今、群れに合流しようとしている所なんだ」
 冷たい透明な空気の上を、羽は静かに滑っていく。クレールはその進む道を、やわらかく照らし出す。羽の一枚一枚が、光を反射して表情を変えていく。
「ありがとう」
 歌うように鳥が言った。

引用:「また月の夜が来たら」ライナー・マリア・リルケ作 相川訳




エントリ4  ハイウェイ、ハイウェイ   るるるぶ☆どっぐちゃん



 アスファルトの上には銀の皿が置かれている。
 ごう、という音を残して、車が一台通り過ぎて行った。この三時間で、それが彼らの側を通過した唯一の車だった。車には何か文字が書かれていた。
「読めた?」
「いや」
 ハイウェイは何処までも真っ直ぐに延びている。車はあっという間に地平線まで駆け抜けて行った。
 皿にはスープが注がれていた。昇りかけた太陽の光を浴び、その表面は金色に光っている。男はジャケットの胸ポケットから緑色のプラスチックスプーンを取り出す。彼は一歩踏み出し、スープ皿の前にしゃがみ込む。
「ねえ」
 女は頭にショールを巻き、手には花束を持っていた。花束は七色から成っている。七色が七本ずつ。大きな花束だった。そうしないと抱えきれないのか、女は花束を、胸に抱くようにして支えている。
 女は、美しくはなかった。そしてもう若く無かった。
「なんだい」
 男はスプーンを動かしてスープをかき混ぜる。
「もうすぐ冬だね」
「ねえ。あたし、確かに花が欲しいとは言ったけれど、でも、それで花束、というのは、何か違う気がしますよ」
「そうかな」
 男はスプーンを皿から持ち上げた。
「このスープは良いスープだ。金色に光っている」
「ねえ」
「さあ、スープだよ」
 皿を跨ぎ越し、男は女に歩み寄る。女はハイウェイに引かれた白線の上に立っていた。男も、女と同じ白線の上に立つ。
「熱いから気をつけて」
 女の唇が薄く開き、緑色のスプーンをくわえる。女の口中に、スープが注がれる。
 スープを飲ませると、男はスプーンを女の唇から離した。振り返り、また皿の前にしゃがみ込んでスープを一匙掬う。
 男は女にスープを注ぎ続けた。スープは、最後まで金色のままだった。
 スープを注ぎ終えると男は女から離れ、皿の上にスプーンを置いた。
「ねえ」
「こうしてみると、良く解るね。こうして離れて見ると、良く解る」
 男は立ち上がり、女を真っ直ぐに見て言った。
「花束か。七色も揃えたけど。ところで何故我々の祖先は海から陸へと上がったのだろう。海に生きるもの達は遠い昔から殆ど変わっていないそうだよ。魚。イカ。タコ。クラゲなんて、二億年生きたものもいるそうだ」
 女は何も答えない。花束に顔を半ば隠したまま男を真っ直ぐに見ている。
「とにかく、陸上へ上がるときは、辛かったろうね」
 そう言って男は振り返った。
「また壊れてる」
 皿とスプーンが割れていた。それぞれ七つずつの破片に別れていた。
「また壊れてしまった」
「ねえ。あたし、確かに花が欲しいとは言ったけれど、でも、それで花束、っていうのは、何か違う気がします」
「そうだね」
「じゃああたしがどうするか、解りますね」
「ああ、どうぞ」
「解りました」
 女はそう言うと、抱えていた花束を空へ投げた。
 花束はバラバラになり、宙を舞う。
「そうだね。こうしてみると良く解る」
 風が吹いた。心地の良い風だった。こんな風は滅多に吹かない。風は東から西へ。西から東へ。北から南へ。南から北へ。花束は風に乗って飛んで行く。花は、二人の真東、真西、真北、真南へとそれぞれ落ちた。
 男は歩き出し、花を集めようとした。東西南北を周り、花を一本ずつ集める。
 男は花を拾い終えるとリボンを取り出し、それで花をぐるぐると縛り始めた。
 もう風は吹かなかった。花はもうバラバラになることはなかった。男のリボンに一つにまとめられて、そして白線の上に置かれた。
「良いものを持っていますね。男の人なのに、赤いリボン」
「そうか。じゃあ君にも」
 男はそう言うと女の両手首を掴んだ。そしてリボンをぐるぐると巻き付ける。
「素敵ねえ、赤いリボン。ねえ、もっと頂戴。リボンを、もっと頂戴。リボンを目にも頂戴」
「解った」
 男はリボンを巻き付ける。女は全く動かない。バレエのバーレッスンのようなポーズで動きを止めている。
「終わったよ」
「有り難う御座います」
 女の目をリボンが覆った。
「ねえ、見えていると思う? あたし、これで目が見えていると思う? リボンがあるから見えないと思う? ねえ、どう?」
 女は笑いながら、バーレッスンのようなポーズで言う。
「ねえ」
「飛行船だ」
 男はそれには答えずに、空を指差して言った。
 飛行船は高い空を、おそろしくゆっくりと飛んでいる。船体には小さな丸窓が幾つか並んでいた。その窓辺で、何かが動いているのが辛うじて見えた。あれは人間の手だろうか。人間の手が地上の彼らに向かって振られているのだろうか。
「ねえ、どう? どうですか?」
 女はポーズを崩さずに言う。
 男は飛行船へ手を振る。

 ハイウェイの先には看板が並んでいた。
 七色の看板が七つずつ。
 全て造花工場の看板だった。
「工場見学に良くいらっしゃいました」
 少女所長が二人を歓迎した。少女は美しい金髪をしていた。
「つまらないものではありますが、どうぞ我が工場を、存分に御覧になっていって下さい」
 所長付きの二人の少年が彼らを案内した。緑のベレー帽に緑の半ズボン。白いシャツ。指には包帯が巻かれていた。
 二人は少年らの仕事を見学した。
 少年達は見事に造花を作っていた。
 少年達は高台に立ち、そこから下へ向かってものを投げ下ろす。地面に落ち、割れる。下は砂地なのに、おそろしく見事に七つに割れた。
 投げるものは色々あった。時計。服。白い箱。本。小さなガラス玉。
 破片がある程度集まると、それは下にいる係が集めて箱に入れた。彼らは素手で破片を扱った。うっすらと手に血が滲んでいた。破片は別室に運ばれ、そこで破片を使い、少年達が造花を組み上げていくのだ。
「やってみますか」
 少年らに促され、女は台に立った。そしてリボンを、下の砂地へ向かって投げ下ろす。
 リボンは見事に七つに割れた。
「お見事です」
 少年達は拍手を送った。リボンの欠片はすぐに回収され、赤の箱に入れられる。
「もっとお願いしますよ」
 女は、空を見上げた。そして空を見上げたまま、頭に巻いたショールを解いた。
 長い長い髪が、女の頭からふわりと垂れ下がる。
 見事な黒髪だった。
 女は空を見上げたまま、ショールを地面へと落とす。
 再び少年達の歓声が上がる。
 女はずっと空を見上げている。

「では、我が工場に来られたことを記念して、お二人に花束をお渡しいたいと思います」
 少女所長がそう言うと、少年達は二人に花束が渡した。
 七色が七本ずつ。
「所長」
 扉が突然開き、そこから少女が現れた。
「大変ですよ」
「どうしたの」
「飛行船が、落ちたそうです」
 全員が屋上へと上った。
 真っ直ぐと何処までも伸びていくハイウェイ。その先には花園があり、そこに飛行船が落ちていた。花園はここから随分遠いが、それでも飛行船が落ち、もうもうと黒煙を上げ燃え尽きていこうとしているのが解る。

 二人は歩き続けた。ハイウェイを何台もの車が通り過ぎて行く。どの車もアルファベットのような文字が書かれていた。
「読めた?」
「読めた」
 二人はそれを全て読み、そしてそれから忘れた。
 二人は、やっと花園に辿り着いた。
 花園にはいまだ真っ黒に燃えた飛行船の残骸が置かれている。
 全ての花は燃え尽きていた。
「この景色は、何だか懐かしいな」
「ええ、そうですね。何だか、見覚えがあります」
 女は長い黒髪をかきあげる。
「とても懐かしいです」
 もうすぐ冬だった。二人は造花の花束を胸に抱えるようにして持ち、花園を眺める。





エントリ5  湖面の花火   さとう啓介



 鏡のような湖面に、ゆらゆらと丸く輝く大きな月が映っている。
 葦の生い茂る水辺は、緩やかに漂い流れる波のうねりに合わせて、ゆっくりと上下をしながらその湖面の月を持ち上げようとしているようだった。
 夜空には細かく鏤められたビーズのような星と、大きな青く輝く月が僕の全身を照らしている。
(見せてやりたい)
 僕の弟は産れた時から目が見えない。光りと言うものを知らない。だから僕と話しをする時も、見えるって事がどんな事なのか良く分かっていない。そんな弟にこの月やこの星の輝き、湖に流れる光りの煌めき、そんな色んな光りをを見せてやりたい。

 僕は小さなカヤックに寝転ぶ。ぷぅんと魚の匂いが僕を包み込んだ。
(今夜、あいつを仕留める)
 昨夜あいつに初めて出会った。葦の生い茂る中から見たあいつは、湖面の月の周りをゆっくりと回って僕をあざ笑うように一度だけ飛び跳ねて見せた。大きな青白く輝く魚影の鱗に月色の水玉が弾けて、小さな花火のように見えた。
 小さい頃、母さんはあの魚の事をこう言っていた。『ガ・ディル』島の言葉で「湖面の花火」と言う意味だ。南からの冷たい風が湖面を静かに流れる季節、湖面が鏡のようになって、そこに「湖面の花火」が現れる。その花火は「火神の涙」と言い、それを見た人々には火神の呪いが架けられると言う話しだった。だからその「湖面の花火」が現れる季節には舟を出してはいけないと教えられた。
 その季節、漁に出る者は誰一人としていないし、父さんも舟には乗らない。
 父さん達は湖には出ず、寒い冬に向けての準備として湖岸の葦を刈取る。水辺の葦は冬になると凍りつき舟を出す事が出来ない。この浮島で暮す人々は皆、魚を売って生活をしている。舟が出せないと言う事は浮島に暮らす人々にとって死活問題なのだ。漁は昔から僕たち浮島の人間の仕事なのである。
 陸の人々は華麗な暮らしをし、綺麗なドレスを着飾っている。父さん達はそんな陸の人を島言葉で「ガルフ・バウト」と言う。「着飾ったブタ」と言う意味だ。でも僕は陸の暮らしに憧れている。父さん達の行商によく付いて行くのはそんな理由からだ。綺麗で、豪華で、わくわくする物が陸には沢山ある。
 この大きなワッカー湖には季節によって色んな魚がやって来る。春には北のルドゥビー川からミーンがやって来て、夏には南のヲーレン海からヌイフがやって来る。秋にはイーサが美味しい。そしてガ・ディルの季節が来て、すぐに大量のムイクが産卵でこの湖に戻って来るのである。ムイクの卵は色んな病気に良く効くので、陸の薬商はもちろんホテルや銀行でも高値で買ってくれる。でも弟の目の病には全く効かない。

 あの日、僕は父さんの行商に付いていき、陸の占師パルに相談をした。
「君の弟の病にはガ・ディルの力が必要だ。危険な魚だが光りを操る神魚。光りから光りを奪い、闇へ光りを与える力がある」
 僕はこの日を待った。あの「湖面の花火」を捕まえる。僕に何があろうと、そんな事はどうでもいい。僕の望みは、弟とこの美しく豊かなワッカーの空を一緒に見たい、その一点でしかないのだ。それが叶うならば、どんな呪いが僕に降りかかってもかまわない。そんな苦悩には挫けない。
(今夜、あいつを仕留める)

 夜空の月がゆっくりとした流れをとらえる。群青色に煌く湖面の月はあいつの姿をいつでも映し出せるように僕の前で光りを増している。
「ガ・ディルの姿を見たものには火神の呪いが……」
 僕は昨日、既にその姿を見てしまった。もう後戻りなど出来ない。あいつを捕まえるだけだ。
 そう思った時だった。湖面がやわらかく盛り上がり湖面の月が幾つにも揺れた。
「あいつ、来るか!」
 僕は息を呑んでじっと湖面を睨み付ける。左手のオールを少し右に回し、右手に鉾を掴み身構えた。沈黙の時が僕の頬を切りつけるような感覚。
「まだ、まだあいつは出てこない。焦るな!」
 自分の独言が小さく自分の耳に言い聞かせる。鼓動が高鳴るのを感じながら、僕は湖面の月の青く盛り上がる縁のその一点に全神経を集中した。
「来る!」
 構えた鉾先が鈍い光を保ったまま月明かりの中で小刻みに揺れる。鼓動が口から飛び出しそうな感覚。

 ザバッ!

 湖面の月が大きく破られたと思った瞬間、大きく水面を持ち上げて、踊り狂うように飛び出した。その姿は昨夜葦の間から見た姿よりもずっと大きく、激しかった。青白い鱗がはっきりと月明かりに照らされて、その跳ね上がる水飛沫の光を反射しながらオレンジ色の炎のように燃え上がり、キラキラと水玉の火の涙を振りまく、正に「湖面の花火」だ。僕は構えた右腕を思いっきり振りかざす。
「ヤーーッ!」
 鉾はガ・ディルの大きく飛び跳ねた横っ腹めがけて飛んで行く。花火はいつまでも消える事の無いように、どんどん光を増しながら湖面の明かりを吸い取っていく。
「やったか?!」
 そう感じた次の瞬間、鉾に付けたロープが物凄い勢いで湖の中に引き込まれていく。ガ・ディルの飛び込んだ湖面の上にはまだ幾つもの火の涙が舞っていた。僕は慌てて走るロープを握り締めた。ガ・ディルの必死の抵抗が全身に伝わってくる。
「ううーッ!」
 僕は唸り声を上げながら熱くなるロープを引き締めた。熱く焼付きそうだ。
「あっ!!」
 ガ・ディルの重みが消えた。
 力なく弛んだロープが水中に呑込まれる。僕は信じられない事態に愕然とする。
「嘘だ、うそだろ?」

 湖面は元の静かで穏やかな薄暗い鏡のように戻っている。その湖面には精力を失った僕の顔が浮かんでいた。

 足取りは重く、力尽きた僕の影が月明かりに照らされて、葦の林に薄く滲むように映り込む。家までの道程が遠く感じる。震える膝はあのガ・ディルとの、ほんの短かったが熱い格闘の興奮からのものだった。しかし、月明かりに浮かぶ僕の家が見えた時、その膝の震えは何とも言えない全身の痺れへと変っていた。
 扉をゆっくり開けると部屋の中に月明かりが四角い影を作った。それに気付いたのだろうか、母さんが起きて来た。
「どこに行ってたんだい?」
 母さんの言葉は心配そうに僕を暖かく包んでくれた。
「湖に、舟を、出した……」
 僕は唇の震えを抑えるように息を継ながら話す。
「この季節に夜の湖へ出てはいけないと言ったじゃないか。どうして舟に……」
 母さんは僕の持っていた鉾先を見て、まさか、と言う表情をした。
「ガ・ディルを、弟を、……」
 僕は上手く話せず、俯いたまま言葉に詰まる。
 母さんは何も言わずにそっと僕を抱寄せ、優しい声で言った。
「こんなに震えて。あの子のために湖へ行ったのね、お前は優しくて勇気があるよ。母さんとても誇らしい。お前もあの子もあたしの可愛い息子だもの、母さんがずっと二人を守ってあげる。大丈夫だよ」
 僕の身体に纏わり付いていた痺れが癒されていく。母さんの柔らかさが心の奥底まで染み渡り、息が詰まるほどの緊張がゆっくりと解けていくのと同時に、両目に熱い大粒の涙が溢れだした。
 月明かりに切り取られた四角い光の中で、母さんと僕の影が重なり、ゆっくりと揺れている。そして鉾先に残っていた「湖面の花火」ガ・ディルの鱗が、月明かりを集めて七色の光りを部屋の暗闇へ柔らかな光りを放っている。
 その光りは弟の眠る部屋にも、そして弟自身にも同じように、柔らかくキラキラと七色に輝いて、そっと降り潅いでいるのだろうか。



エントリ7  フェリーチェ(fellice)とかリュッカ(lycka)、ボヌール(Bonheur)あるいはシャースチェ(счастье)   橘内 潤



「濃い目の紅茶にミルクをいれて。ああ、もちろん温めてからよ。そうしたら、たっぷりのクリームを浮かべるの――ね、美味しそうでしょ?」
 瑞希の言葉に、ぼくは頷く。
「うん、美味しそうだ。今度飲んでみたいな」
「いいわ。そのうち家にいらっしゃいよ。そうしたら、お腹がだぶだぶになるくらい飲ませてあげるわ」
 冗談よ、と瑞希は笑う。ぼくは微笑む。
「ねえ瑞希――」
 微笑みながら、ぼくは言う。
「瑞希――明日、きみの家にいくよ。そしたら、きみの両親に挨拶するよ。結婚すること、ちゃんと報告するよ」
 ぼくの言葉に、瑞希はやはり笑ってこたえる。
「ええ、そうして。きっと父さんも母さんも喜ぶわ」
「報告が終わったら、ミルクとクリームたっぷりの紅茶を飲ませてもらうよ」
「あら違うわ。わたしの紅茶はミルク少なめでクリームたっぷり、よ」
 瑞希はやっぱり笑った。

「父さん、母さん――ねえ聞いて。わたし、お婿さんを連れてきたのよ」
 ふたつ並んだ遺影に、瑞希は歌でも唄って聞かせるように報告する。
「ええ……お父さん、お母さん。娘さんを頂かせてもらいます。きっと幸せにします――これでいいのかな?」
 遺影のふたりは微笑んだままで、いつになく緊張してたぼくは、肩透かしを食らって愛想笑い。
「さ、これで報告はお終い。紅茶を淹れるから、そこで座って待ってて」
 瑞希はいそいそ立ち上がり、台所へと消える。
 ぼくは茶の間にとり残されて、仏壇に並んで座るお義父さんお義母さん(近日予定)と黙りこくる。
「……ええと、娘さんは素晴らしい女性ですよね」
 会話がまったくないというのも気まずいもので、ぼくは適当に話題を振ってみることにする。が、ふたりは答えない。にこにこ笑った顔が妙に恐い――なんだか睨まれているみたいで居心地が悪い。けれど、ここで逃げだすわけにもいくまい。
 ぼくは居住まいを正して、正座の背筋をぴんと伸ばす。
「お義父さんとお義母さんからしてみれば、ぼくは娘さんを誑かした男にしか見えないことでしょう。ですが、ぼくも本気なのです。娘さんをかならず幸せにしてみせます」
 ですから、どうか見守っていてください――と、深く深く頭を下げる。
「………」
 まだ、頭を下げたまま。
「………」
 まだまだ、下げたまま。
 「きみ、いいから頭を上げなさい。そして娘をよろしく頼むよ」というお許しの言葉を待つも、よく考えてみれば(みなくても)写真がしゃべるはずがない。それで顔色を窺うべく、ぼくはちろっと上目遣いにふたりを見上げる。
「――ああ、なんだ。とっくに許していただけていたのですね」
 黒い枠に収まったふたりは、仲良くにこにこ笑っていた。どうやら許してもらえたようだ。
「ありがとうございます。――ええ、もうかならず幸せにしますとも。いや、しないでか」
 大きく頷き、任せてくださいと胸をどんと叩く。強く叩きすぎて、けほけほ咳き込む。
「あら、なにを話していたのかしら? 後でわたしにも聞かせてね」
 お盆にマグカップをふたつ並べて戻ってきた瑞希が、ぼくに言う。
「いや、これはお義父さんと男同士の話だから」
 ちゃぶ台に置かれたマグカップを手にして、首を横に振るぼく。正直、こういうことを面と向かって口にするのは恥ずかしい――あ、でも、お義母さんが話してしまうかもしれないから、いっそぼくの口から言ってしまったほうが恥ずかしくないだろうか?
「なにを考え込んでいるの? そんなことより、紅茶の感想を聞きたいわ」
 瑞希が急かすので、ぼくはカップに口をつける。一口すする。
「ん――美味い」
「本当? あたし、お世辞はきらいよ」
 いや、お世辞じゃなくて本当に美味しい。
 控えめなミルクのまろやかな口当たりに、たっぷりクリームのこくが口いっぱいに広がって、対照的な紅茶の後味がすっきり締める。これ一杯で心も身体も血糖値も満足する、そんな一杯。
「美味しいよ。本当だよ。お世辞はきらいじゃないけれど、これはお世辞じゃないよ」
 惜しみない賛辞を贈ると、瑞希は満足そうに頷く。
「これは父さんと母さんのどっちも好きだった紅茶の飲み方なの。父さんは牛乳が苦手だけどクリームが好きで、母さんは紅茶なら安物だろうと構わずに飲むほど紅茶が好きだったから、このミルクティーがふたりのお気に入りなの」
 もちろん、わたしも好きよ――と自分のカップを傾ける瑞希。
「ぼくも好きだよ、この紅茶」
 と迎合するべく、ぼくも頷く。
「嘘もきらいよ、わたし」
 あっさり見抜かれたのが嬉しくて、ぼくは微笑む。
「あなたが好きなのは、ブランデーを三滴垂らしたバニラティー。もちろん、わたしも好きよ」
 微笑むぼくに、ずっと魅力的な微笑み方を教えてくれる瑞希。唇についたクリームを舐めとる仕草もセクシーだ。
「今度はこの紅茶にブランデーとバニラエッセンスを垂らしてみることにしましょうか?」
「ミルクにクリームにバニラにブランデーに……そんなにいっぱい入れたら、もう紅茶じゃないみたいだね。なにか別の名前を考えないと駄目かもよ」
 ぼくが真剣に悩めば、瑞希も真面目な顔をする。
「そうね、たしかにそうだわ。じゃあ――子供の名前を決めたら、つぎは紅茶(暫定)の名前を決めることにしましょう」
「うん、そうしよう」
 ぼくは頷き、同意する。
 けれど、子供の名前を決めるのにまだ七ヶ月もあるのだから、もっと早くに紅茶(暫定)の名前を決めてもいいかな、とも思う。そうだ、フェリーチェ(fellice)とかリュッカ(lycka)、ボヌール(Bonheur)あるいはシャースチェ(счастье)なんていうのもいいかもしれない。ともかく、お義父さんとお義母さんにも納得してもらえるいい名前を考えなくては――。
「紅茶(暫定)の名前はまだ考えちゃ駄目。あなたは凝り性だから、一度考えだすときっと八ヶ月は他のことを考えられなくなっちゃうわ。だから、子供の名前をさきに考えましょう――大丈夫、わたしも一緒に考えるから、生まれてくる頃にはちゃんといい名前が決まっているわ」
 すっかり見透かされていることが嬉しくて嬉しくて、ぼくは満面の笑顔で首をぶんぶん縦に振る。
 子供の話をするぼくと瑞希に、仏壇のふたりが目を丸くしている。ぼくはふたりへと横目を向けて、心のなかで謝る。
(お義父さんお義母さん、ごめんなさい。どうやら紅茶(暫定)の名前は決められそうにありません)
 平たいお腹を愛しげに撫でる瑞希。
 ぼくは吐き気がするほどにっこり微笑む。





エントリ8  月山町3丁目のひとびと   中川きよみ



 朝晩が冷えるようになって、ここ月山町にも柿の季節がやってきた。
 まあ年中なにかしらある訳で、枝がどうのと台風の頃にも不安はつのるが、柿熟すこの季節が私が最も不安を覚える時節である。

 我が家の庭には隣の源家に若干せりだした柿木が植わっている。元凶はこの木だった。
 桃栗3年柿8年――
 この要らぬ柿木を植えたお義父さんはもういない。柿が好きなのはお義父さんだけなのだから切ってしまえばいいのに、お義母さんはそんなこと毛頭考えない。むしろ暇な隠居生活に精彩を放つ生き甲斐とも言えた。
 一緒に暮らし始めて4年になるが、お義母さんの身体は誰かを悪く思う負のエネルギーを空気と同じく必要としているのだと思うようになった。悪食だが、本人は至って生き生きとしている。
 世の倣いならば嫁姑の確執で標的は私の筈だが、生憎私は敵にするにはパンチに欠けるらしい。その点源さんは申し分ない人選と言えよう。源夫人もまた報復に生き甲斐を見いだすような悪食タイプだからだ。次から次へと陰湿な嫌がらせを思い付くだなんて、よほどの集中力をもってしているに違いない。そしてその黒いエネルギーこそが枯れてゆくしかないお年頃の彼女に滋養を与えている。具合の悪そうな源夫人を見たことがないし想像もつかない。いつだって抜群に元気なのだ。
 篠原家と源家の果てしなき戦いにはコブラ対マングースの趣があった。どちらかが死ぬまで続くような気がする。そしてそのどちらかの死が他方の殺人によってもたらされるような予感がして私は気が気ではないのだ。些細なもめごとから殺人事件に発展したというよくある事件。そんな記事を見かけると、いつも次はお前だと予告されているような気がしてしまう。

「お義母さん、もうすぐ柿木も実が熟しますし、源さんのお宅の方だけでも剪定しましょうか?」
「そうね、もうすぐね。」
 うっしっし、とお義母さんは笑う。剪定のところは完全に聞こえないフリをしている。
「昨日、自治会の連絡でお伺いしたのに源さんの奥さんに途中でインターフォンを切られてしまって、また後から聞いてないと言われると思うと……」
「あら、あのバアさん、私になんてもう何年もまともに顔も向けないわよ。」
 同年代の源夫人をつかまえてバアさん呼ばわりもないだろうに、お義母さんは鼻息が荒い。
 ああ、そういう問題ではないのだ。坊主憎けりゃ、で、私まで敵視されるのがつらいのだ。私は生まれてこの方、敵を作らないという平和的スタンスでずっと生きてきたのだから。
「そうそう、今日はゴミの日だったわよね。」
「ええ、またやられないようにぎりぎりに持って行くつもりですけれど。」
 頭痛がする。
 先週のゴミの日、うちのゴミだけがカラスネットから出されていて、猫とカラスに散々食い散らかされたのだ。生ゴミの残骸に混じってうち宛のDMがあった。うちのゴミだ。
 誰の仕業か分かっているが目撃者がいないので迷宮入りだ。知らせを受けて駆けつけた私と、知らせてくれた上にカラスと格闘しつつ果敢に手伝ってくれた小塚さんの奥さん、小塚家はゴミ集積所の隣りなのだ、が被害者だった。
 今朝は収集車が来る間際に持って行くつもりだった。
「だったら私が持っていってあげるわ。」
なぜか不吉な予感がした。

 悪い予感ほどよく当たる。
 気兼ねしたような声でまた小塚さんが連絡をくれたのは、収集車が行ってしまった後だった。
「ごめんなさいね。気を付けていたつもりなんですけれど。」
 小塚さんはまるで自分にも責任があるかのように謝ってくれる。こんなにマトモでいい人だって、ちゃんと月山町にはいるのだ。
「済みません。小塚さんにまでまたご迷惑お掛けして。」
 いつもこういうことをされる度に年甲斐もなく涙が出そうになる。
 でも涙どころかさらなる闘志をみなぎらせる人が我が家には居る。だからこそもめる。
「派手にやられたわね。」
 お義母さんがわざわざ様子を見に来た。
 小塚さんと私が散乱する生ゴミを掻き集める横で仁王立ちになって薄笑いを浮かべている。
「祥子さん、大丈夫よ。今回は犯人が分かるようにしてあるんだから。」
「えっ?」
「私がこっそり袋の結び目に油性インクのチューブを仕込んで置いたのよ! 触った人には付いている筈よ。特注の色ですもの、さあ、証拠を確かめに行きましょう!」

 小塚さんは居留守を使って頑として出てこなかった。居間の方でテレビの音が聞こえていたがすぐに聞こえなくなった。
 お義母さんが5時間も張り込んで、やっと出てきた時に詰め寄ったら右手に包帯を巻いていた。無理にでも包帯を引き剥がそうとするお義母さんとまた一悶着あって、お義母さんを止めるべく必死の私に、源夫人は憎々しげな視線を投げつけた。
 だから、私は関係ないのに……

「元はと言えばうちの柿木なんです。」
 度重なる迷惑にクッキーを持って小塚家へ行った。小塚さんはとても恐縮して、ではお茶でも、ということになり、小塚さんのいれてくれたよい香の紅茶を飲みながらこれまでのいきさつを話した。小塚さんは私よりも若い新婚さんの風なのに、家の中はとても落ち着いていて感じが良かった。
「柿が熟れる頃が一番もめるんです。熟した実が源さんのお庭へ落ちてしまって。」
「今年もそろそろ時期ですよね。」
「もう色付いていて、だからこんな嫌がらせもされるんでしょうね。源さんの方へ張り出した枝の実は私が脚立に上っても届かなくて。」
「ご主人は?」
「義母には頭が上がらないんですよ。何度頼んでも義母に放っておけばいいと一言言われたらもう何もできなくて。」
 小塚さんはとても親身になって心配そうな顔をしてくれていた。私は話を聞いてもらっただけで少なからず気が楽になった。
 だから帰り際に玄関でふと見たものについては深く考えないことにした。
 吹き抜けの玄関ホールの上が磨りガラスで自然光が入るようになっていた。小塚さんが私の靴を揃えてくれた一瞬の間にふと見上げたら銀色に光ったものがかすめた気がした。
 ドアを出て会釈しながら屋上を見ると銀色の円盤の縁が確かに見えた。それは、アプローチの階段を降りて門を出ると角度の具合で見えなくなった。
 UFOに見えて仕方なかった。小塚さんは宇宙人か、それともご主人がNASAの関係者なのかもしれない。どちらにしてもお義母さんと源夫人の方が何倍も宇宙人なので大したことではなかった。

 今年は例年に比べれば小ぶりなバトルで師走を迎えることができた。ゴミはあれ以来いたずらされていない。
 不思議なことが一つあった。小塚さんのお宅をお邪魔した翌朝、柿木から実が全て消えて無くなっていた。お義母さんは源夫人の仕業だと、その新手の手口に息巻いていたが、あまりに見事になくなっていたので、美味しそうな柿を狙った専門の業者泥棒ということにして落着させた。
 私は小塚さんがUFO使ってSFのように柿を全部収穫してくれたと確信している。なぜなら、小塚さんは後日、到来物だからと言いながら済まなそうな表情で煮詰めた柿ジャムを持ってきてくれたのだ。私達としては持っていってくれただけで十分にありがたかったのに、勝手に持っていったという罪悪感故にジャムにして返却してくれたような気がしてならなかった。
 深々とお辞儀をしてしまった。
 食べてみたらやはり不味かった。

 柿木に薄い陽光が透け、月山町の年の暮れはのどかだ。







◆スタッフ/マニエリストQ・3104・厚篠孝介・三月・ごんぱち・日向さち・蛮人S