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第44回3000字バトル

エントリ 作品 作者 文字数
不誠実な人達 イシヅカレン 3000
エイリアン・アブダクション のぼりん 2881
小百合 山根雅和 1925
カメと喜劇 村松 木耳 2201
腿太郎 ごんぱち 3000
ゴンズイさん 中川きよみ 3000
最大の不幸とは? THUKI 2900
薫風のころ 伊勢 湊 3000
瞬き るるるぶ☆どっぐちゃん 3000
10 『睡眠病 ―祭典の最中― 』 橘内 潤 2522
11 かさより溢れる愛を 篠崎かんな 3000


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エントリ1  不誠実な人達   イシヅカレン

 茫と赤い塊が目の前に現れた。
 その塊はどんどんと膨らみ、眼前を赤色で埋めていった。
 黒光りする二本の棒がそれを挟み込んでいる。
 おや、と思うとそれは黒塗りの中国箸のようだ。
 またおや、と思うとごつごつと不恰好に太い指がそれを捕まえている。
 しげとそれを眺めていると、指は吾(おれ)の意に従って動いていることがわかった。
 即ち、この手は吾のものなのである。
 初めてそのことに気がついた吾であったが、別のことにはまだ気がついていなかった。

 ごりんという音を立てて、吾の右顎の奥歯が崩れた。顎の右側、奥から二番目の歯が砕けたのである。あまり吃驚して吾はしばらく、あんぐりと口を開いて呆然としていた。やがてズキンズキンと下顎が痛み出して事の重大さに気がついた。
 どうしたかといえば、吾は自分の手に気をとられて梅干しを口に放り込んだことをすっかり忘れていたのである。
 吾の口はその自立した働きを全うし、運ばれた梅干しに正しく咀嚼運動を試みたのである。しかし、梅干しの中には種がある。この硬い種が思わぬ抵抗をし、不覚にも吾の歯の硬度はそれに耐えられなかったのだ。
 吾は、先程のごつごつとした指を口の中に突っ込んで砕けた奥歯の欠片を取り出した。唾液にまみれた欠片は、薄い血衣を纏っている。吾は窓を開けて屋根へ放り投げた。
 しばらくどくどくと血が出ていたが、それも止まると吾は食事の続きであったことを思い出した。
 食卓へ戻り、箸を持つ。卓の上には飯の入った茶碗と、味噌汁、焼き魚の乗った皿、空の小皿と大根の漬物の乗った小皿が置いてある。
 吾は椀を取り、一口すすってから焼き魚に箸を延ばした。顎の右側は未だ熱をもってカッカとしているから、どうしても左側を駆使して食べねばならない。米を口に運んで咀嚼するがどうしても右側へ転がってしまう。
 そうこうしていると、先ほど折れた歯の隣の歯がころりと倒れた。
 下顎の右から数えて三番目の歯である。
 平生からこの歯は、隣の奥歯を頼って、もたれ掛かる様に立っていたためであろう。当てにしていた相手がいなくなってしまったので、肩透かしを食らった形で倒れこんだ訳だ。アレレと思っているうちに、抜け落ちた歯が今度は米と一緒に左へ転がり込んだ。しかし左側の健康な奥歯は一向に頓着せず、がりりと音を立てて噛み砕いてしまった。
 口の中がじゃりじゃりと砂っぽいので、もう一度味噌汁をすすって今度は漬物をつまむ。もう安心して食べられるだろうと思って、ぽっかり口を開けて白々膨れた大根を一切れ運ぶとこんな声が聞こえた。
「やい、右の!てめえだけで仕事を終えちまったからって、とんずらこくなんざ、ずるいじゃねえか。」
「おめえらがいくら自分の仕事が終わったと思っていても、まだまだ皿の上には食らうべきもんがたくさんあるじゃねえか。一生の食事を見届けるのが俺達の役目ってもんじゃないのか。」
 こんな声が突然聞こえてきたので、吾は先程よりももっと吃驚して、再び口をあんぐりと開けたまま言葉に耳を貸していた。
「だいたい右のは自分勝手が過ぎやしないか、やるだけやってハイサヨナラだと?そんなこたぁお上が許してもおれたちが許さねえ。」激しい啖呵が顎の左側から聞こえてくると、今後は右の上顎の歯が一斉にわめきだした。
「なにを左の、この野郎言わせておけば!俺達の宿主はなぁ、右利きなんだよ。箸を持つのも右、足を踏み出すのも右、鼻水が流れ出てくる鼻の穴だって右側だ!」
「分かるか?お前等よりも俺達は、ずっとたくさん仕事しているんだよ。」
 するとまた左側がカチカチと甲高い音を立て始めた。
「なななんだと?右の方が俺達よりもたくさん働いているだ?馬鹿にしやがって。俺達が右より軽んじられてるってか?許せねえ。そんなの公平じゃねぇ。」
「ようし、それならこっちにも考えがあるからな!」
 こう言い捨てると、「左の」がぶるぶると震えだし、上下の歯合わせて八本が歯茎の奥へ頭をすっぽりと隠してしまった。
 聞いたことがあるだろうか?人間の歯が口をきいて、自分の仕事に意見し、挙句の果てにストライキを始めるなんて。吾はこの奇妙奇天烈な事態に、いよいよ茫然自失として為す術も無く箸を取り落としてしまった。

 整理しよう。今、吾の舌によって自分の口の中を検分するに、残っている歯は、上下の前歯四本ずつ、上顎の右側四本、下顎二本。合わせて十四本になる。十四本の歯でこれから生きてくことを考えると、吾はこの一食の間に一個の生物として大変恐ろしい損害を与えられたことに思い当たったと同時に、なんとかしてこの事態を対処しなければならないと考えた。そしてまず、今ある歯の機嫌だけでもとらねばと思い、流し場へ向かいゴシゴシと歯を磨き始めた。
 歯を磨き始めた途端、今まで左右どちらの派閥にも組せず、黙していた前歯がキリキリとしゃべり出した。
「ほら、もっときれいにして頂かなくっちゃ、今機嫌の悪い右のだけではなくて、僕らも抜け落ちてしまうかもしれませんよ?今に虫歯になって大穴が空いてしまうかもしれません。ですから貴方の為にも、ひとつ勉強して頂かなくっちゃなりません。」
 まるで脅しだ!
 吾は冷汗の出る思いで丹念に歯ブラシを動かした。しかし、今さっき十本もの歯を一度に失ったばかりである。それに、一番初めに折れた歯―下顎の右の歯茎は依然として熱をもってズキズキと痛む。「ほらほらしっかり。」という「前の」の声に促されて、必死に磨いているにも関わらず「ブラシが歯茎に当たって痛い。」と言って、下顎の犬歯がポロリと抜けた。
歯磨きが終わった後も「前の」は、執拗に甘い猫撫で声を続ける。
「私どもでしたら、左のの機嫌をとることだってできますよ。」とか「私たちは一心に、あなた様が林檎やトウキビにかじりつくのをお手伝いしているんですから。」とかひっきりなしに恩着せがましく話しかけてくる。
 「右の」も「左の」も主義主張は違えど、その役目を全うしようという気概はあった。しかし、この「前の」は違う。「前の」は歯の役目を超えて吾へ迫るのである。もはや「前の」は歯ではなかった。憎むべき敵であった。
「卑怯な奴らめ、これならいっそのこと歯などいらんわい。」
 吾はこう言い放つと、急いで歯科医の元へ向かった。足早に道を歩きながら、ふとストを起こした「左の」の行動を思い出した。あの歯に衣着せぬ思い切りの良さ、あれは主人譲りの性質だったようだ。少し愉快な心持ちになり、そのまま歯医者へ駆け込んだ。
 本当によろしいんですね、という再三の医者の確認に何度も応じ、吾は治療用の椅子に腰掛けると「一息にやってくれ。」とだけいって口を開いた。
麻酔が効いてはいたが、妙な器具でぐりぐりと歯茎をえぐられたときは、飛び上がる程に痛かった。
 やがてすべての歯が無くなると、なんだか顎の収まりがつかなくなった。溜飲が下がったのはほんの一時に過ぎず、後から後から襲ってくる後悔に対して我を立てるので精一杯であった。歯抜けでは当然食事が立ち行かなくなるので、今では総入れ歯である。自分で決めたことなので泣き言は言わないが、飯の味がしなくなったことが惜しまれる。

 梅の種には文殊の神が宿るという。今思えばあの奇妙な事件は、文殊の神の知恵試しだったのかもしれない。吾はその事件の後、早々に政界から退くこととなった。


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エントリ2  エイリアン・アブダクション   のぼりん

 目がさめると、満天の星空である。
 それ以外には何も見えない。
 よほど強い薬品を嗅がされたに違いない。権田原泰三の頭はまだくらくらしていた。仰向けに転がっているのだが、両手足を強く縛られて自由が利かない。背中の固さから察して、コンクリートの上に寝かされているようである。都内で一番高いビルの屋上にでもいるのかもしれなかった。
 それにしても、これほど美しい夜空を見上げるのは何年ぶりのことだろうか。
「宇宙は果てしないね」
 権田原がその声に驚いて横を向くと、星明りの中、ひとりの男が膝を抱えるようにして座っている。
「お、お前は誰だ?」
 権田原は思わず大声を上げた。
 彼を見下ろしている顔には、まったく表情がなかった。目や口の裂け目はあるが、たったそれだけののっぺらぼうである。もちろん、それが仮面だと気づくのに長い時はかからなかった。
「僕の顔を見たいかい? いっておくけど、君たちの使っている『顔』という言葉ではとうてい理解できない形をしているはずだよ。どうしても見たい?」
 などと、念を押されると怖くて見る気もなくなる。
「別にどうしても見たいというわけじゃないが……。しかし、なぜ私を拉致して、こんな場所に連れてきたんだ? これから私をどうするつもりだ」
「どうするかは君しだいさ」と、仮面の男は意味ありげに答えた。
「ところで君は、小学生のあるとき、空白の二時間を経験したことを覚えていないかい?」
 逆に質問されても困る。
 ただ、権田原はすでに中年の峠に差し掛かった年齢である。小学生のころの話などほとんど忘れてしまっていて、二時間どころか当時の記憶は空白だらけだった。
 返答に困って黙っていると、男はさらにヘンなことをいう。
「君は、数千人の中からたったひとりだけ選ばれたアブダクティだ。君が小学生のころ経験したあの一瞬から、君の半生は僕たちのモニターだったんだよ」
「何だって……?」
「エイリアン・アブダクション、とこの星の識者は呼んでいる。異星人に招待された人々のことだ」
「私がそのアブラカタブラだと……」
「アブダクションだ」男はため息をついた。
「君は自らが選ばれた者であるという自覚が必要だね。たとえば、地球の運命を君一人が左右することだってあるのだから……」
「てことは、お前、宇宙人か!」
 男はこくりと頷いた。
 なんということ。にわかには信じがたい出来事だ。
 権田原の当惑を意にも介さず、さらに男は宇宙を指差した。
「見たまえ、あれがM28星雲だ。あの下の暗闇に目を凝らしてごらん」
 と、その暗黒の向こうにかすかな光が浮かんだかと思うと、それがだんだん大きくなっていく。光は明らかにこっちへ近づいてきているのだ。それが数個に分裂して、さらに外形が確認できるようになると、権田原は自分の目を疑って唸り声を上げた。
 UFOである。円盤型をしていた。
「信じてもらえたかな?」
 UFOは卵大ぐらいの大きさになって夜空に群れをなして停止した。十数機はいる。
「なんてことだ。こりゃ大変だ」
「ははは、まあ、落ち着きたまえ。もっと面白いものを見せてあげる。いいかい、宇宙には君たちがとうてい想像もできない力が存在しているってこと。今度はあの星を見てごらん」
 男は、南の空にひときわ輝くひとつの星を示した。両手でオーラでも送るように空間を揉んだ。すると、その星がふっと目の前から消えた。照明のひとつでも消すほどのあっけなさである。
「どうだい。星の消滅など、僕たちの科学力を持ってすれば、こんなに簡単なものなんだよ」
 星を消してしまったのか!
「でも……」
 と、権田原の心の中に急に疑問が浮かんだ。
「星からの光は何千光年、何万光年もかけて、この地球に向かってくるはず。一瞬のうちに消えるなんてことは考えられない」
 すると、男は照れ隠しのような仕草で頭を掻いた。
「空間や時間を超越しているのが僕たちの科学だ。だから、地球人には理解できないのさ」 
 権田原はただ呆然としている。その科学力の凄さを、今まさに自らの両目で目撃してしまったのだからどうしようもない。
「君たち宇宙人はいったい何をしに地球にやってきたんだ?」
 そう尋ねるのがやっとだった。
「地球人と友達になるために……」
 と、答えながら、男の声はやけに重々しかった。
「しかし、君たちを全面的に信用することはできない。なぜなら、地球人はお金で相手を簡単に裏切るからだ。時にはお互いに殺し合いまでしようとする。僕たち宇宙人にはお金という概念がない。持てる者が持てない者に分け与える、それが僕たちの社会では常に自然の摂理なんだよ」
「私たちだってそれが理想だ」
「だが、今だに貨幣経済などという野蛮な法則で社会を動かしているじゃないか。そういう人種は、宇宙的常識からするとまったく異端だ。心を打ち解けにくいし、とても危険だよ」
「危険とは?」
 権田原にはいやな予感がある。
「この先、どこまでも地球人が、宇宙の異端であり続けるのなら、君たちの破壊もありうるだろう」
「破壊って、あの星のように?」
「あの星のように」
 男は表情も変えないでいってのけた(もっとも、もともと表情のない仮面の顔なのだが)。しかし、大変なことになった。
「そ、そんな。本気でいっているのか」
「本気だよ。だから、君をモニターとして選んだんだ。すでに君の持っている思想や志向こそが、地球人を代表する典型だとみなされている。君の存在が地球の未来を左右するというのはそういう意味なんだよ」
「バカな、私はただの拝金主義者ではないぞ!」
 権田原は慌てて叫んだ。「お金が人生にとって最高の価値観であるはずはないじゃないか。たとえば……そうだ、人間愛こそ大切だ。それこそが私にとって一番大事なもの。それが私たちの共通意識だ」
「地球人は、見かけよりももっと高尚な人種だといいたいんだね」
「その通り。愛こそすべてだ」
「では、君は自分の財産になんの執着もないといいきれるのかい? 君の邸宅にある地下金庫に、後生大事に貯えているのはなんだ」
「あんなものは、ただの道楽に過ぎない。いつだって手放せるし、未練もない」
「ははは、では、金庫のダイヤル番号を平気でいいふらすことだってできるかい?」
「当然だ。私にとってお金など、二の次、三の次の問題だ。人類はもっと崇高な理想のために存在している。君たち宇宙人に対しても、なんら恥じるところなどないぞ」
 権田原は、泰然としていい放った。
 このとき、権田原の心の中には、人類の未来を自分が守りぬくのだという大いなる使命感が湧いていた。今まで忘れていた公共心が、彼を強く突き動かしていたのである。

 翌日、行方不明になっていた金融会社社長、権田原泰三は身体中をロープでぐるぐる巻きにされたみじめな姿で発見された。その足元には、「怪盗紅のタコ参上」という紙が一枚残されていた。
 そのとき、権田原がその半生をかけて人を騙し、裏切り続けて溜め込んだ財産は、すでに自宅地下の大金庫から略奪され尽くしていたという。
 彼が発見された場所は、児童科学館のプラネタリウムの中であった。





エントリ3  小百合   山根雅和

 夜の街の車が行き交う音を聞いていると不思議に憂鬱な気分になる。人々が一日の生活に疲れをきたし家路につくという、疲労の吐息がたちこめるせい だろう。バスを待ちながらそんなことを考えていた。僕のいつも乗るバスが来るまでまだ一時間はある。次々にバスが到着しては行き去り、それを見送る。楽しそうにお喋りしながらバスを待つ人、携帯で今から帰ると誰かに連絡をしている人。そんな光景が僕には映画の一シーンのように思えた。
 まるで実感が湧かない。実感が湧かないのは周りの光景だけじゃない。妻の死。あれから10年。僕は生き過ぎたのかもしれない。死期が完全に過ぎているのに僕はまだこの世界に存在している。生き過ぎたというより、現実の世界に取り残されてしまったのかもしれない。そんな思いが車の走行音とリンクしてぐるぐると頭の中を駆け巡った。ここまでくれば生きているのも死んでいるのも同じようなものだ。こんな思いをして生きて行くならいっそ・・・。車のライトが星のように流れていくのを じっと見つめていると、意識が段々と遠のき、何も見えなくなってくる。
 暗闇がやってきた。深いフカイ暗闇がやってきた。夜の暗さではない。もっともっと沈むと浮かび上がってこられない深海の最も深い地底。一筋の光も届かない僻地。やがて僕は枯れて死んでしまう。もちろん光が届かない場所でも生きていける者もいるだろう。けれど僕はそうじゃない。光がなければ何も見えない。動くこともできやしない。
 バスが来た。人々が乗り込んで行く中、僕は人の流れに圧倒され、結局最後に乗り込んだ。バスの中はギュウギュウに人が押し込まれ、息をするのも一苦労だった。細長い坂を激しい爆音を立てながらゆっくりと上り、大量の排気ガスを吐いた。
 徐々に降りるバス停が見え、バスはスピードを落とし、滑らかに旋回し、脇道へとくっつけた。ドアが元気よく開く。お金を払い、バスを降りると、長い間待っていたかのように、新鮮で鋭い疾風が僕を吹きつけた。
 湿っぽい草木が生い茂った街道をゆっくりと歩き小さな路地へと入り込んだ。「妙心墓地」と綴られた剥げかけの看板を見つけ、僕は入り口に足を踏み入れた。 そこは小さな墓地であるが、夜に訪れるとさらにその小ささは加速される。僕はゆっくりと辺りを見渡すと妻の墓石へと歩を進めた。墓石の前に来ると、もってきたプリンをそっと置いた。妻が生前好きだったものだ。プリンを見て自然と僕は微笑んだ。彼女もきっと喜んでいるだろう。
 彼女が死んで10年経った。水をあげながら、彼女との日々を思い起こした。記憶の一端一端が消え、また新しい記憶が呼び起こる。今日この日まで僕はなんとか耐えてこられた。10年前の今日妻が死んだ日僕は誓った。    そして10年の月日が流れ今日がやってきた。僕は墓地を後にし、再びバスに乗り込んだ。行き先は帰り道ではない。僕は駅へと向かっていた。妻の思い出も全部を忘れるために。駅の改札口をくぐり抜け、階段を越え、プラットホームが光とともに現れた。夜遅い時間にも関わらず、そこには20人近くの人が電車を待っていた。しかしそんな事は僕にはどうでもいいのだ。僕はそっと電車を待つ立ち位置へと足を忍ばせ、ゆっくりと線路を覗き込み眺めた。そう、そうだった。この場所だった。妻はこの場所で死んだ。いや、殺された場所だ。
 妻を殺した奴の顔を思いだせない。さっき会ったばかりなのに。さっきぶっ殺してやったばかりなのに。   
 妻は10年前、僕と一緒にこの場所で電車を待ち立っていた。そこに酔っぱらいの男が妻に抱きつき、妻は振りほどこうとし、線路へ男と共に落ちた。運悪く電車が現れ瞬く間に二人の姿を浚った。僕は呆気に取られ身動きが取れなかった。
 不運はさらに続いた。あの男は生きていた。そして妻は死んだ。男は刑務所へ。実刑9年。僕は憎悪が噴き溢れるのを抑え、彼が刑務所で改心してくれるのを願った。しかし一方で憎しみの衝動は増大していった。
そして9年が経ち、男は務所から出てきた。僕は彼が変わった事を信じ、様子を見にいった。けれどもあいつは変わるどころか、相変わらず酒に溺れ、仕事もせず、遊びまわっていた。僕が男の前に姿を現しても、謝るどころか僕に気付きもしない。僕は10年耐え抜いた。しかし現実とは過酷なものだ。小百合。おまえが死んで10年経ったんだ。あれから・・・・もう、10年。
 電車が遠くに見える。そっと目を閉じてみる。おまえを感じる。愛しき想い出は次第に彩りを増してゆく。すべては幻想のように。そして、もう、疲れた。
 僕はそう呟くと、ゆっくりと線路へ飛び込んだ。
「小百合。」
 あっけないもんだな。





エントリ4  カメと喜劇   村松 木耳

 何の話からそんな話題になったのか、今はもう思い出せない。
「だからアキレスとカメだよ。」
私の狭いアパートで彼がそう言った。割と暖かい冬の日で、確か晩ご飯に鳥のから揚げを食べた後だった気がする。2、3回同じ説明を受けた後で、私はさっぱりわからないという顔をして見せた。
「だって、追いつかないわけないじゃない。」
両手の人差し指を胸の前に立てて、それらを右へスライドさせた。右手はカメ、左手はアキレス。アキレスとは、ホメロスの叙情詩『イリアス』に登場する足の速い英雄のことである。右手はのろくて、左手は速い。左手はあっという間に右手を追い抜き、私は腕を交差させた変なポーズのまま眉を寄せた。
 カメはアキレスより前方にいて、同時にスタートを切る。アキレスはすぐにカメのスタート地点に追いつくが、その頃カメはその少し前にいる。アキレスが「その少し前」の地点に追いつくと、カメはさらにその少しだけ前方にいるはずだ。よって、いつまでたってもアキレスはカメに追いつけない。彼の言いたいことは、つまりはそういうことらしかった。
「理論上だと、追いつく瞬間までは、追いつくことは不可能なんだ。」 
 へぇわかんないや、と適当な返事をして、私は立てたままの人差し指をテレビの音楽に合わせて振り、鼻歌を歌った。そんな私を見て彼はあきれたように浅く息を吐き、だめだこりゃ、そんな顔をした。
 彼は理系で、ときおりややこしい話をしてくる。そしてその話の大半は、文系の私が理解を示さないうちに別の話題へと移っていった。アキレスとカメの話をしたこの時もそうだった。彼は私を笑いながら馬鹿にして、馬鹿にされた私は笑いながら怒る。パターン化されたコントのような日常で、それはとても居心地のよいものだ。

 あの日が冬だったとすると、もう半年近く前のことになるのか。
『ツェノンのパラドックス』。
アキレスとカメの話にそういう名前がついていることを知った。今日は7月にしては涼しい。友人とトロイ戦争を題材にした映画を見に来てアキレスとカメの話を思い出し、帰りに立ち寄った喫茶店でその話をすると、その名前を教えてくれた。この理論について友人は、そもそもパラドックスなのだからこの理論が正しいわけがない、手品みたいなものだよ、と言って笑った。
 このパラドックスは正しくない。当たり前だ。アキレスは早々にカメなど追い抜くだろう。しかし、本当にそうだろうか。アキレスの代わりに私がカメと競争したら、私はカメに追いつけるのだろうか。そのカメが、彼だったら?映画の感想を述べだした友人の話を流しながら、そんなことを考え始めていた。

 一度だけ、喧嘩らしきものをしたことがある。いつものように彼が小難しい話をしていて、私はいつものようにそれをふーん、と聞いていた。変わったことは何もなかった。
「君は俺の話をわかろうとする気がないんだろうね。」
彼はそう言った。馬鹿にしてくれている目ではなかった。
「そんなことないよ。聞いてるよ。」
と、私は笑った。負の感情がこちらに向けられていることに気づかないふりをした。そうすれば、何事もなかったかのごとく通過できると知っていたからだ。
 いくらかの不自然な沈黙の後、彼が春休みの予定について話し始めた。それだけのことだが、あれは喧嘩だったと私は認識している。そしてそれは、彼の負の言葉の意味を私が理解できなかった、というシナリオどおりに終結した。私が得意とする、幸せで滑稽な喜劇だ。

 ツェノイのパラドックスを理解できなかったわけではない。
アキレスがどんなに速く走っても0秒でカメに追いつくわけはないから、その間にカメは少しだけ前に進む。理論で考えるとアキレスはカメに追いつけないように考えられるが、実際はそんなことはない。そんなことぐらいわかっている。彼が話をしてくれた時、本当は1回目の説明で理解できていた。そしてそれは、アキレスとカメの話に限ったことではない。彼の話を理解できないのではなく、理解しようとしないのでもなく、理解できないふりをするのだ。幸せなコントを演じることが、私にとっても彼にとっても一番幸せなことだからだ。
 彼は自分の知識をひけらかすのが好き。そしてそれを褒めてもらうのが大好き。知っていた。だから私はコメディアンになった。
 私は本当は足の速いアキレスで、それを見抜けない彼はのん気なカメ。追いつけないわけがない。そう思っていたのに。

 「どうかした?」と、友人に声を掛けられて我に返った。ごめんなさいちょっと、と適当に答える。
「まったく君は昔から、俺の話を聞く気がないんだろうね。」
 笑いながら馬鹿にされて、私もつられて笑う。結局、アキレスだったはずの私はカメに追いつくことができなかった。春休みの予定を満了することなく、私は彼から友人に戻ろう、と言われた。理由は聞かなかった。今はこんなふうに時々会っては映画を見たり、お茶をしたりしている。
 一体どうすれば追いつけたのだろうか。私がいまだにこのパラドックスから抜け出せないでいることに、のろまで愛しいカメは気づくはずもない。
 
 コーヒーの湯気で彼の眼鏡が曇る。
「カメのくせに。」
声には出さずにつぶやいた。何か言った、と言われて首を振る。
追いつけないはずがない。また捕まえてみせる。
「ところでトロイ戦争ってほんとにあった話なの?」
 カメの目に、優しい優越感が映った。





エントリ5  腿太郎   ごんぱち

 桃から生まれた桃太郎が、鬼を退治して宝物をせしめた事を知った、隣の欲深いおじいさんとおばあさんは、悔しくてたまりません。
「ええいっ! 上流に済んでいたクセに、お前は何をやってたんだ!」
 おじいさんは、おばあさんをなじります。
「あたしが洗濯を終わらせた後に流れて来たんですよ。好きで見逃した訳じゃありません!」
 おばあさんも負けていません。
「言い訳するのか!」
「大体、悪いのは俣八でしょう? 鬼退治もしなければ、宝も持って来ない!」
「え?」
 話を何となく聞いていた二人の息子の俣八は、目を丸くします。
 ちなみに俣八は、おばあさんの腿の間から生まれた普通の、今年で三十五になる働き者だけど独り身の男です。
「お前も、鬼退治に行って来い!」
「そうです、宝を持って来るまで、帰って来るんじゃありません!」
 興奮する両親に、ほとんど追い出されるようにして、俣八は徒手空拳で旅立つ羽目になりました。

「あー、腹減ったなぁ」
 日本一のキビダンゴはおろか、食べ物一つ持ってない俣八は、お腹を空かせながら歩きます。
「でも、おとうとおかあに、喜んで欲しいし……」
 あんな両親の間に生まれたのに、俣八はとても優しい男でした。
「やっぱり、鬼が島へ行くしかないか。桃太郎の取り残しぐらいあるかも知れねえ」
 行く道に、もう犬も猿も雉もおらず、俣八は一人で旅を続けるしかありませんでした。
 食事は、道端の野草や木ノ実、魚などをとって済ませ、木の陰や橋の下で眠りました。
 でも俣八は、気軽に歌を唸りながら、あくまで明るく道を進んで行きました。

 何日が過ぎた頃でしょう。
 俣八は、海にたどり着きました。
 浜には、犬の足跡と猿の毛と、雉の糞の付いた船が打ち捨てられていました。
「ああ、これは有り難い」
 俣八はニコニコしながら、船に乗り、ゆっくり海へと漕ぎ出しました。
 丸一日過ぎた頃、海が急に時化始めました。
 波はどんどん大きくなり、俣八の船はひっくり返りそうになります。
「うひゃあっ、なまんだぶ、なまんだぶ、なまんだぶ……」
 念仏を唱えながらも、俣八は慣れない櫓を動かします。
 大波小波に寄せ波引き波。
 縦横無尽に波に揺らされ、俣八の船は何度も何度もひっくり返りそうになりました。
「ここで死んだら、何にもならね!」
 幾度となく波にさらわれそうになりながらも、俣八は船を進めます。
 やがて、腕も足も疲れはてた頃。
 波の向こうに黒い影が見えました。
「あれだ!」
 俣八は元気を取り戻し、また漕ぎ始めます。
 腕に力はもう、ほとんど入らなくなっていましたが、それでも俣八は力一杯櫓をこぎました。
 桃太郎のような力はありませんでしたが、辛抱強く、一生懸命こぐうちに、影はどんどん大きくなって、それが島だと分かるようになって行きます。
 でもその時、最後の大波が俣八の船を跳ね上げました。
「うひゃああああっ!」
 船から投げ出され、俣八は思わず目をつぶります。
 海に落ち、後は光も射さぬ海の底――かと思いきや。
「あ、あれ?」
 俣八は立ち上がります。
 いつの間にか、浅瀬まで来ていました。

 嵐の中、俣八は島の奥へ進みます。
「間違いねえ……鬼が島だ」
 俣八は呟きます。
 間違えようがありませんでした。
 何故なら、そこかしこに鬼の屍と、血がこびりついていたからです。
「人でなしの鬼とは言え、ひでえ事をするだ……なまんだぶ、なまんだぶ」
 俣八は、鬼一匹一匹に、念仏を唱えながら進んで行きました。
「すまねえけど、宝のヒトカケでもいいだ、残っててくれねえだか……そうしねえと、おとうとおかあが悲しむだ」
 でも、宝は全くありません。
 それどころか、金目のものという金目のもの、それこそ虎皮のフンドシから、金棒に至るまで、何もありませんでした。
「やっぱり、もう何もないんかのぉ」
 俣八が呟いた時。
 ……ん。
 ……ぇぇ……ん。
 微かな、微かな声が聞こえました。
「誰か生きておる!?」
 俣八は走りました。
 ……ん……えええ……ん。
 えええええん、えええええええん!
 それは子供の、小さな小さな子供の泣き声でした。
「どこじゃ、一体どこじゃ!」
 声を頼りに、俣八は鬼の台所に飛び込みます。
 ここでも、ざっくりと腹を切り裂かれた女の鬼の死骸がありましたが、それにはもう目もくれません。
「どこじゃ、おおい! 童よ、どこじゃ!」
 棚の中にも、押し入れの中にも、水瓶の中にもいません。
「くっ、このままじゃ、死んでしまうぞ」
 焦りながら俣八が鍋を開けようとすると。
 慌てた足先が、かまどに思いきりぶつかりました。
「痛えっ! 痛っいたたたた!」
 俣八は痛さに飛び跳ねます。
 ところが。
「え、あ、あああ!」
 痛みに歪んだ俣八の顔は、すぐに笑顔に変わりました。
 足をぶつけたかまどの火口を埋めていた粘土が、ボロリと落ち、中から玉のような赤子が出てきたのです。
「おお、おお!」
 ええええええん! ええええええん! えええええええええん!
 赤子は大きな大きな声で泣きました。
「ほらほら、ほーらほらほら、強い子だ、泣くな泣くな」
 俣八は、赤子を抱き上げてあやします。
「さらわれて来ただか? おとうとおかあは、どうした?」
 言いながら頭を撫でると、指先が固いものに当たりました。
「……これは」
 髪を分けると、中に小さなツノがありました。
「そうか、やはり……お前のおとうとおかあは、もういねえだな」
 俣八は赤子――いえ、鬼の子をぎゅっと抱き締めました。
 赤子は、他に頼るものがないと知ってか知らずか、俣八にぎゅっとしがみつきます。
「おうおう、痛、痛た、こら赤子! もう少し手加減するだ」
 何日も何も口にしていない筈なのに、鬼の子の顔色はよく、凄い力でした。
「……宝、なかったのぉ」
 赤子を抱いたまま、俣八は呟きます。
「おとうとおかあ、がっかりするじゃろな」
 鬼の子は俣八の言葉が分かるのか分からないのか、ニコニコしています。
「まあ、ええか」

 めりめりめりめり……。
 大きな音を立てて、切り株が抜けます。
「おとう! 抜けただ!」
 子供が引き抜いた切り株をひょいひょいと投げて捨てます。
「おお、よく抜いた、偉いぞ」
 俣八はにっこりと笑います。
 一面の田畑に、米や野菜がぎっしりと出来ています。
「これで、ここいら一番の畑持ちじゃな、おとう?」
「これもお前のお陰じゃ」
「えへへ」
 子供の頭は、髪が少し揺れただけで、長いツノが見えました。
「あんたぁ、兵助!」
「あ、おかあ!」
「おお、小岩」
 朝餉を桶に入れて、女がやって来ました。頭から大きなツノが生えている以外は、目を見張るほどの美人でした。
「メシじゃメシじゃ!」
「これこれ、おじいさまとおばあさまにお供えしてからじゃ」

 食事を終えると、子供は眠り込んでしまいました。
「……しかしたった半年で、こうまで大きくなるだな」
 子供の寝顔を、幸せそうに俣八は眺める。
「鬼は育ちが早いんでしょな」
 隣りに鬼の女が座り、肩にもたれました。
「そうじゃな小岩。お前も、おしめをしていたと思ったら、あっと言う間に女に育ったものな」
「いやじゃ、恥ずかしい」
 女は顔を赤らめてうつむきます。
 俣八はその顔と、山の下に見える豪邸を見比べ、小さく微笑みました。

 俣八と鬼の一家がその後、どうなったのかは伝わっていません。
 ただ、日本一の桃太郎が二度目の鬼退治をしたことは、なかったそうです。




エントリ6  ゴンズイさん   中川きよみ

 タクシーはどんどん山の奥へ入って行く。カーブが多くて私は少し酔っていた。
「垂水、ですか。」
 運転手は人の良さそうなオジサンだった。
「ずいぶん奥ですが、何か?」
「はぁ、今度からそこに住むことになったんです。」
「静かなところですがね。垂水というだけあって、山ん中のくせに盆地みたいになっていて水が出るせいでしょうな、湿気はすごいらしいから、1年目はご苦労されるかもしれませんなぁ。」
「そんなにひどいんですか?」
「いやね、慣れない他所の者は身体がついてゆかんらしいんですわ。それで何だったか新興宗教みたいなものも流行したって噂もありましたからねぇ。まあ、身体さえ慣れたらええ所ですよ。」

 本格的に吐きそうになった頃、急に視界が開けて、そこが目指す垂水の集落だった。崇に教えられた通り、朱色の屋根をした小さな平屋の前で停めてもらった。それが私達の新居の筈だった。
 田中さんはタクシーの音を聞いて、もう家の前に出て笑顔で迎えてくれた。それは穏やかでとても感じの良い笑顔だったのでほっとした。
「遠いところ、大変だったでしょう。こんな家ですが、アパートも貸家も全くない田舎でご主人も我慢してここに決められたことでしょうから、勘弁して下さい。」
「とんでもない。こちらこそ、ご無理言いまして済みません。」
 信号すらもないこの地で、新婚の私達は室長の縁故を頼ってようやく田中さんから古い民家を借りて住むことになった。田中さんが謙虚に言うだけのことはあって、それは本当に廃屋寸前の有様だった。それでも、田中さんが精一杯きれいに掃除やら修繕やらを施してくれた跡が見受けられて救われた思いだった。

 崇の配属先は垂水の研究所分室だ。この土地の出身である室長の他は定員が1名の、社内では有名な『島流し部署』だった。配属されるのは入社したての新入社員と決まっていた。
「美佳ちゃん、ごめんな。3年もすれば東京の研究所に戻れる約束だから。」
 崇は配属が決定したその日の内に私にプロポーズして、就職浪人の私に迷う隙を与えずに入籍までしてしまった。
 何となく旅行にでも来ているような心持ちで荷物をほどいていると、夕方になって崇が帰宅した。
「本当に、よく来てくれた。ありがとう。」
 古民族博物館なんかにありそうなレトロな電球の下で、崇はぎゅうっと私を抱きしめて何度もキスをした。それは、遭難者が救助に感動しているような感じだった。

 私は自動車免許を持っていないのでものすごく不便で、殆ど家に籠もってぼんやりと暮らしていた。
 ある日、珍しく玄関がノックされた。この辺りの人はみな農作業で昼間は忙しそうなのに、一体誰だろうかと見れば、腰の曲がった老婆が一人、にこにこと立っていた。
「お宅さん、若いねぇ。ゴンズイさんのお札、要りませんかいな?」
「えっ? あの、一体何ですか……」
 老婆の手元にある大振りの短冊のようなお札を見て、ふとタクシーの運転手さんの言葉を思い出した。新興宗教のようなものが流行ったとか、言っていた。
「あの、済みません、宗教は結構ですので……」
 やんわりとした口調で断ると、耳が遠いのか老婆は肯定と勘違いした。
「はぁはぁ、だったら3万円ですわ。」
 この紙切れに、3万円? ムッとしながら、今度は少し大きな声で断った。
「うちは、要りませんので。」
「はぁ、そうですか。じゃあ強うなれますよ。頑張って下さいね。」
 不思議なことに老婆はあっさりと引き下がり、なぜか優しく応援されてしまった。この土地は年輩者ばかりだからか、宗教の押売りまで、皆がとても穏和だった。

 山間の村に、初夏が訪れた。
 梅雨時からぞっとするほどの湿度の高さだったのに、梅雨が明けても湿度は下がらずに気温が急激に上昇したものだから、まるで植物園の熱帯多雨林ゾーンのビニールハウスのようになってしまった。元来体力のない私はすぐに参って半分寝たきりのような怠惰な生活になってしまった。
 何をするにも身体がダルく、口をつくのは愚痴だった。我ながら人格が変わったかのように、嫌みばかり言って活力が全くなかった。自己嫌悪も覚えるが、どうすることもできない。料理もできず週末に町で買い出ししてきたカップラーメンばかり食べていたら、ますます調子が悪くなった。
 崇もバテて、家の中の雰囲気は坂道を転がるような勢いですっかり荒んだ。多分、悪いのはこの暑さと湿度だ。エアコンの意味がないこの家も悪い。けれど、寂しいからと無理に結婚した崇だって悪くはないだろうか。こんな田舎に、私は巻き添えをくらったようなものだと、とうとう私は崇を恨むようにすらなってしまった。何度も大喧嘩をして泣き叫び、結婚わずか4ヶ月余りで本気で離婚しようと決意した。

 崇の憔悴した様子を心配した室長が、田中さんに連絡したらしい。役場に離婚届をもらいに行かねばと思っていた矢先に田中さんの奥さんが現れた。
 奥さんは栄養があって消化が良さそうなお総菜をいくつもタッパーに入れて持ってきてくれていた。小さな後ろ姿には静けさと忍耐力が漂っていた。
「私も他所から嫁いできましたが、最初の1年は大変でしたよ。美佳さんは本当によく頑張ってらっしゃいますよ。」
 冷蔵庫にタッパーを入れながら、奥さんは突然素っ頓狂な声を上げた。
「美佳さん、ゴンズイさんのお札はどうされたの?」
「はぁ?」
「はぁって、……もしかして貰ってないの? ああ、春に越してこられたばかりだからバアさんが気付かなかったんだね。これは大変だ!」
「ああ、いつだったか来た宗教ですか? 3万円もするお札ですよね?」
「そう、それ! 買われてないの?」
「ええ。高いのに、あんなもの。」
「ああ、大変だ! だからだよ。しんどかったねぇ。ここは湿度も高いから心身鍛えるために、昔、村役場がゴンズイさんを呼んだんだよ。ゴンズイさんは自制心を鍛錬するために、わざと身体がしんどい時に気持ちもよりしんどくなるようにされるの。ただ、まだ鍛錬しない人のために、梅雨入り前にゴンズイさんを除けるお札を買えるようになってるんだよ。すぐにゴンズイさんへ行かなくちゃ。」

 集落から少しはずれた、山の端にゴンズイさんはあった。
 パラボラアンテナのような怪しい銀の皿を乗せた、胡散臭い家だった。奥から出てきたのは、あの腰が曲がった老婆だった。
 田中さんの奥さんは老婆に向かって、私がいかに同情すべき境遇にあるかを丁寧に説明してくれた。
「はぁ、はぁ、そうですか。ご夫婦とも他所から来られてるお家がないもんで、それはそれは。」
「危うく離婚されるところだったんです。なんとか今からお札を頂けませんか。」
 私は3万円のことばかり考えていたが、もはや買わないと帰してもらえない、ナントカ商法みたいに『購入は当然』の空気が充満している。クーリングオフが効くとも思えない。
「家の中の水の出る場所、まあたいがいは台所ですが、そこに貼っておきなされ。高いと思われるでしょうが、この辺りの者にとってそれだけのお金を捻出するにもそれなりの我慢が必要で、その我慢が少しは修行になると、そういう意味の額なんですわ。もう最近ではどこの家でも買うようになってしまいましたなぁ。」

 8月の畦道は尋常ではない熱気と湿度だった。お札を握りしめて、一人理不尽さを感じながらトボトボ帰った。初めて、この土地に住んでいることを実感していた。





エントリ7  最大の不幸とは?   THUKI

 町外れにあるバーの隅で、二人の男が向かい合って酒を飲んでいた。
 わざと光を抑えたブルーライトを一面に張り巡らせ、BGMにチャーリーパーカーのビーバップを静かに流している。さほど大きくないカウンターに客はなく、その後ろに用意されていた三つの丸机には、男たちのほかに、若い男女のカップルが今日のサッカーの試合の結果について暑く語り合っていた。
 二人の男のうち、片方の男は長身で細身の身体をしており、髪を隠すかのように灰色のハットをかぶっている。青ふちの細目のメガネをかけており、インテリな雰囲気をかもし出していた。
 もう片方の人間は、向かいの人間ほどではないが、長身の体格の良い男であり、ボサボサなままの黒い髪形を恥ずかしげもなく披露している。彫りの深い顔立ちと、ソレに似合わない大きなたれた目が特徴の優しそうな青年だった。
「ねぇ海人?」
 突然、メガネをかけたほうの男がビールを傾けながら声を上げた。
「なんや?」
 ソレに対して、海人と呼ばれた男はどこの国とも取れない特徴的なイントネーションで答える。
「この世で『最大な不幸なこと』とはなんだと思う?」
「どうしたんやアルク?突然そんなこと言うなんて・・・俺に哲学を語れというのか?」
 アルクと呼ばれた男の質問に対し、海人はめんどくさそうな表情を顔一杯に広げた。
「たまには悪くないだろう?」
「なんや、それ・・・。」
 海人は、手元にあるウィスキーに一口つけると。
「せやな・・・『自らを不幸だと思うこと』といえば満足か?」
 遠くを眺めてめんどくさそうに答えた。
「なるほど、アルツィバーシェフね。中々良い趣味をお持ちで・・・。」
「・・・誰やソレ?」
「大昔の偉人だよ。知っていて答えたわけじゃないのか?」
 アルクは、呆れた表情を顔一杯に浮かべて、手元のビールに口をつける。
「興味ないな・・・。」
「歴史や偉人を拒絶するものはただの愚者だよ。」
「ソレも過去の偉い人の言葉か?」
「いや、一般常識。」
「別に、それならそれでかまわん。」
 海人はポケットからマイルドセブンを取り出すと、口にくわえ火をつけた。
「謙虚なことで・・・。」
 アルクもポケットからセブンスターを取り出し海人に続いた。
 お互いに手元の酒を空にした後、ウェイターを呼んで同じものを注文し、先に口を開いたのはアルクの方
「でも、アルツィバーシェフを知らずに答えたってことは、海人はどういうつもりで答えたのさ?」
「別に深い意味はない。ただ、人の幸・不幸なんて気の持ちようやと思っただけや。例えば、今俺はウィスキーが嫌いだと思う。さらに、アルクを嫌いだと思えばあっという間にこの瞬間は最高に不幸な瞬間に変わる。」
「なるほど、分かりやすい・・・。でも、それに対してはシェークスピアの言葉で返そう『「今が最悪の状態」と言える間は、まだ最悪の状態ではない』とね。」
「最初から拒絶する気なら聞くな。」
 先ほどまでめんどくさそうだった海人の表情が一転して膨れっ面に変わった。
「別に、そういう気はないよ。海人の考えていることは、興味深いことだったし面白い意見だと思う。ただ、僕の考えていることとは大変違っていた。・・・それだけだよ。」
 ただの言い訳に過ぎないが、海人はこれ以上アルクを追求することはなかった。
 ただ、しかめっ面のまま、ウィスキーに口をつけると。
「なら、アルクはどう考えているんや?」
 コップを口から放さずに質問した。
「そうだな・・・僕ならこう答えるね『最大の不幸とは「死」である』と。」
「どういうことや?」
「先ほどシェークスピアの格言を言っただろう?『「今が最悪の状態」と言える間は、まだ最悪の状態ではない』と。だが、死はそんなことすら許さない。生きていること全てが許されないことは、とても不幸なことだよ。」
「客観的な意見やな。死者はそこまで不幸やない。それに・・・」
 海人はウィスキーを一口あおると。
「そんなことを言い出したら、この世の全ての人間は『最大の不幸』を望んで生きていることになる。」
「この世に自らの死を望まない人間などいない・・・と言いたいの?」
「違うんか?」
「いや、否定はしないよ。事実、僕は今この瞬間も自らの死を望んでいる。」
 アルクもビールを一口あおると
「だけど、僕が言いたいことはそれだけじゃない。」
「・・・どういうことや?」
 海人はタバコをふかしながらウィスキーを口に運ぶ
「死は『生』からの拒絶の他に、全てのつながりからの切断という意味があるんだよ。」
「そんな言葉では理解ができん。」
「つまり、人は生きている以上この世界とつながっている。いかに拒絶しようとしてもその柵からは逃れられないんだよ。」
「嫌な言い方やな?」
「だが、それはとても幸せなことさ。他人に影響を与えない人間はいない。言い方を変えるなら世界を変えられない人間はいないのさ。」
「俺は、世界を変える気はないで。」
「決めるのは後の歴史さ。」
「ご大層なことやな。」
「でも、その柵から追い出されることはとても不幸なことであり、恐ろしいことさ。だから昔の人々はその恐怖を少しでも和らげるために、霊魂を作り、神を作り、死後の世界を作り上げた。死後も世界とつながりがもてられるようにね。」
「神の存在を否定する気か?」
「宗教に興味がないだけだよ・・・。」
「だが、全ての考え方の基礎は宗教や。」
「興味がないだけで否定する気はないよ。神の存在も頭ごなしに否定をしては、何も語れなくなる。」
「・・・詭弁やな。」
「そんな言葉を使ったら、議論の意味自体がなくなってしまう。」
「俺は別に、それでもかまわん。」
 海人は、荒っぽくウィスキーを飲み干すと、再び同じものをウェイターに注文した。
「哲学を否定しては、人生に怠惰をもたらすだけだよ。海人君。」
「なら、話を元に戻したる・・・・。さっきも言うたが、死者はそれほど不幸やないし、人は自ら『最大の不幸』を望むほど愚かな生き物やない。」
「ならば、なぜ人は幸福への追求をやめようとしないのさ?」
 アルクが新しいタバコを取り出し火をつけた。
「全ての人間がそういうわけやないやろ?」
「そいつらは、ただの愚者だよ。」
「極論やな・・・。ソレを言い出したら、俺も含め世の大半が愚者になってしまう。」
「そうでもないさ。心の底から幸福を否定する人間なんていないよ・・・。人は常に相反する心を持つものさ。『最大の不幸』を望むことは、同時に『最大の幸福』を望むことでもあるのさ。恋愛にありがちな、「好きだけど嫌い」に良く似ている。」
「・・・ただ、強欲なだけやろう?」
「そうかもしれないね。」
 アルクはそれだけ言うと、微笑を海人に返してビールを飲み干した。
「なぁ、アルク。」
「何?」
「俺はお前の言う『最大な不幸』なことより、不幸なことを見つけたで。」
「ソレは、興味深いね。どんなことさ?」
「二人のむさい男が、酒を飲みながら『最大の不幸』について語り合うことや。」
 海人が、ウィスキーを片手に笑った。
「違いない。」
 アルクもそれに続いて、微笑した。
「なら、次は借金の話でもする?」
「やめてくれ。ソレこそ『最大の不幸』や。」

おわり。
作者注:
チャーリーパーカー:ジャズ界では、神様と呼ばれているほどの伝説のサックス奏者。ちなみにビーバップは、曲名ではなくジャンル。

アルツィバーシェフ:ロシアの小説家。本文に出てくる言葉は、『サーニン』という作品の中の一説「それ自体の不幸なんてない。自ら不幸と思うから不幸になるのだ」を拡大解釈したもの。

※カミレンジャーの続編を書くつもりが、間に合いませんでした。せっかくなので、皆さんも「最大の不幸」とは何であるのか、考えてみてください。





エントリ8  薫風のころ   伊勢 湊

 あの頃、僕たちは梅雨が明ける頃にはもう肌は真っ黒で夏休みはまるで幸せを約束された永遠に続く季節に思っていた。終業式が近づくと先生の言葉など耳に入らない。二学期がくるということも宿題があるということもそれは別世界の話なのだ。
「あしたどうする?」
 終業式の日の教室はさながら作戦会議室だった。
「蛇原淵に泳ぎにいかん?」
「アホ言うな。八月五日までは野球やろ。大坊と掛淵の奴らには絶対に負けられん」
 毎年八月の頭には地域対抗の野球大会があった。僕たちの町はひどい田舎だったけど参加率はほぼ十割で野球大会は盛り上がりを見せていた。それは地域の名誉を掛け戦うものだったが、おまけとして大きな町に行かないと手に入らない豪華な花火セットが優勝チームには贈呈された。その花火の夜は一種の花火大会みたいなもので町中の子供や大人が集まる。優勝メンバーには名誉の他に、その花火大会のときに花火に着火する役割も与えられるのだ。
「うん、そうやろ。今年こそは優勝せんとな」
 ピッチャーの勝次が腕を組んで真面目な声で言った。そうなのだ。僕たちが六年になったこの年こそが優勝の最大のチャンスなのだ。僕たちの地域は下蔵小田といい子供の数は一番少なかった。しかし僕たちの学年には野球少年が揃っていて人数が多く大勢力である大坊や掛淵と並んで優勝候補に挙げられていた。去年だって六年生がいなかったのに決勝まで進んだのだ。
「オレらの主力は去年と同じやし負けるわけにはいかんやろ。やっぱ敵は強打者の多い掛淵やな」
 ショートの竜彦が言う。守備のエースで一番バッターだ。竜彦が出て、セカンドの光彦が送り、僕が返すという速攻で点を取るのを得意とした。僕は打点王だったが、それは万が一しくじっても大丈夫だとリラックスして打てたからだろう。四番には町一番のスラッガー敏明が控えていた。
「あれ? そういや敏は?」
 勝次が言って、みんな知らないというふうに首を振った。そういえばいない。そこへ光彦が飛び込んできた。
「大変や! 敏のじいちゃんが倒れて、あいつじいちゃんの家に行ったらしいで」
「なんやと」
 みんなで声をあげた。
「それどこなん?」
「ヌマヅって言うちょった」
 みんな黙った。四年生のときに東京から引っ越してきた僕は一応物知りということになっていた。みんなの視線がゆっくりとこっちにやってくる。竜彦がなぜか僕を見て聞いた。
「遠いん?」
「知らん」
 全然知らなかった。
「ちゅうことは東京より遠いんやろうか?」
「たぶん」
 みんなの視線が今度は光彦に移った。
「で、いつ戻るん?」
「知らん。たぶんじいちゃんが元気になるか死ぬまでやないやろうか?」
 死んで化けて出られても困る。僕はなんとか早く元気になってくれと祈った。そこで勝次が気が付いたように言った。
「おい、あいつ戻ってこんかったら、人数足りんのと違うか?」
 みんなで指を折って数えてみたけど、そんなことするまでもなく確実に足りなかった。

 チームはみんな四年生以上でなければかった。残された手段として僕たちは東京から越してきたばかりの立花涼平に声をかけることにした。そして暗黙の了解で僕にその役が回ってきた。僕たちは教室の後ろのほうの立花涼平の机を取り囲んだ。僕はみんなに小突かれ一歩前に出た。僕も転校生だったのだ。この役は仕方がない。
「なあ、立花涼平」
「なに、城山くん?」
 久しぶりに女子以外に苗字で呼ばれてなぜか一瞬ひるんでしまった。
「いや、鉄平でええ」
「じゃあ、僕も涼平でいいよ」
「分かった。でな、涼平、おまえ野球上手いか?」
「やったことないんだ」
 みんなが一瞬動かなくなった。野球をやったことがないというのは予想外の答えだった。竜彦が「おまえと同じ東京から来たんじゃろうが。できんことはないやろ」と勝手な結論を耳元で囁いた。涼平はそんな僕たちを不思議そうに見ていたがやがてにっこり笑って言った。
「でも教えてくれるんならやってみたいな。仲間に入れてよ」
 一瞬不安がよぎった。僕たちにとっては野球はただの遊びではなかったのだが涼平の笑顔はあまりにも無邪気すぎて見えた。

「ええか、涼平。ゴロは足を揃えちょったらあかんのじゃ。足を開いてどっしり低く構えて捕るんじゃ」
「分かった」
 涼平は笑ってそう答えた。涼平は割と穏やかな性格でいつもニコニコしていたけれど炎天下での練習にも弱音を吐かなかった。運動神経も良かった。足なんかかなり速い。ただ野球をやったことがないというのはなんと本当だったらしく特にゴロが練習してもなかなか捕れなかった。
「涼平は外野やな。内野はトンネルばっかになりおるし、足速いから外野がええやろ」
 練習の合間に木陰に集まり麦茶の水筒を取り出して休憩がてら作戦を練る。
「でも涼平ほんまに野球したことなかったんか?」
「うん、東京にいたときはあまり広い場所がなかったから」
 光彦がこっちを振り向いた。
「鉄もか?」
「いや、結構場所はあったぞ」
「鉄平くんは東京のどこだったの?」
「向島。でも家がたくさんあったから人ん家にボールが入って大変やったな」
「僕は豪徳寺にいたんだ。反対側だね」
 なにが反対側かよく分からなかった。
「おまえ寺に住んじょったん?」
 竜彦が驚いて言った。
「ははは、違うよ。場所の名前なんだ」
 当たり前だろ。坊主でもないのに寺に住むはずないだろ。などとみんなで笑いながら竜彦をからかったが、なにげに僕も実は寺なのかと思っていた。たぶん他のみんなも。
 笑い声は透き通った青い空に突き抜けて、僕たちはその下で白いボールを追いかけた。夏の太陽のせいで見える景色は全て明るすぎて絵日記の中の水彩画みたいだった。つんざくような蝉の声だけが季節を主張していた。

 結果から言うと僕たちはその夏の野球大会で見事に優勝した。僕はそれを最後にグローブをはめていない。試合の鍵を握ったのは夏を野球にかけた涼平ではなく、試合直前に戻ってきた敏だった。
 いつもに増して暑い午後だった。さすがにずっと太陽の下にはいられなくてみんなが木陰で寝そべっていたけど涼平に頼まれて僕はキャッチボールの相手をしていた。僕がゴロを投げて涼平がそれを投げ返すという練習だった。最初に声をかけたということもあり僕はずっと涼平の練習相手だった。みんなでの練習のあと暗くなる前の短い時間にも僕たちは二人でキャッチボールを続けていた。いつもニコニコしていて疲れてないはずないのに疲れた顔をしないから僕もそれを表には出せなかった。
 僕たち以外が暑さに押しつぶされて木陰で寝ていたところへ家に麦茶を取りに行っていた勝次がすごい勢いで走ってきた。
「おい、敏が戻った。戻ってきたぞ!」
 一瞬の出来事だった。寝ていたみんなが立ち上がった。踵を返して来た方向に走り出した勝次の後をみんなが追った。グラウンドに二人だけが残された。何も言えずに僕たちはキャッチボールを続けた。どうしてだろう。何がそうさせるのか分からない。ただ悔しかった。やがて太陽が傾き空が紫色になっても僕たちは何も言わずキャッチボールを続けた。その間中、蝉だけが鳴きつづけていたけど煩いとは思わなかった。
 夕闇に包まれて見えなくなる寸前に涼平の顔を見た。ニコニコしてなくて強く奥歯を噛み締めたその痛みまでが伝わってきそうな顔だった。

 そんなふうに僕は夏に終わりがあることを知った。





エントリ9  瞬き   るるるぶ☆どっぐちゃん

 証明をしようとしたって、それはなかなかに難しいことだ。断頭台のあの実に工夫を凝らされた刃だって、人に痛みを感じさせないまま殺すことは出来無い、そう言っていたのは誰だったか? 彼はそのことを、ギロチンにかかった後、転がり落ちる自分の生首で、瞬きで証明しようとして見せた。瞬きは果たして行われたけれど、その証明の証明は、未だに成されていない。
 しかし証明の証明とは。彼はその言葉を聞くと、確かにそうだな、とひどく真面目に返事をした。そしてコーヒーを一口飲み、辞書を図書館へ返しに行った。
 瞬き。
 ともかく時は過ぎる。路地裏路に放置された断頭台を、あたしは見上げた。
 あたしはバケットを一口囓り、空の眩しさに瞬きをする。
 時計台の下では今日も少女達が大勢並んでいる。きちんと整列をした彼女達は、可憐な服を着ていた。
 彼女達は絵を描くことが出来た。彼女達が今日壁に描いているのは大きな樹だった。少女達は忙しそうに動き回り、時には梯子を上り下りして絵を描いた。樹は素晴らしく大きく、夢のような色彩の花々を沢山咲かせていた。
 あたしは歩く。静かだった。土産物屋の軒下に並べられているセピア色をした地球儀が、音も無く回っている。あたしは地球儀を一つ買おうか迷い、立ち止まった。今の部屋には地球儀は無い。昔の部屋には十個あった。それにしても何故地球儀は音も無く回り続けるのだろうか。結局買うのを止めることにする。あたしは歩き続ける。
 図書館に着く。あたしは座る。周りを見渡す。本棚が目に入る。ヨーロッパ主要各国の辞書はそれぞれが鮮やかな原色の表紙を持っていた。それらの全てが本棚に並んでいると、まるで虹のように見えるのだった。今日は何色かが欠けていた。彼がまだ辞書を返していないことをあたしは知った。辞書はまた一色が欠けた。若い男が青色、ドイツ語の辞書を持っていった。あたしは本を読まない。ただ座って周りを見ている。もう本は読まない。いつから本を読まなくなったのか。それは思い出せない。あたしはただ椅子に座っている。
 カウンターを中心にして反対側にも、あたしと同じように本も読まず書き物もせずにただ座っている少女がいる。少女は車椅子に座り、従者である盲目の女と、ただじっとしている。彼女達のことはずっと前から知っていた。あたしが図書館で本を読まなくなってしまった頃、あたしは彼女達に気がついた。少女はきっと、本という本を読み尽くしてしまっていたのだった。あたし達はただ黙って座っている。対になって。まるで何かの芝居のように。
 ベルが鳴り響く。芝居は終わり、あたし達は図書館を出る。
 少女は長い坂を下っていく。あたしはいつものようにマーケットへ買い物へ行く。
 マーケットに並んだ魚を五匹、買い物カゴの中へと入れた。
「許しておくれよ。もうしねえからさあ、もう絶対にしねえからさあ」
 マーケットの隅で、一人の青年が椅子に縛り付けられていた。
「もうしねえよう。許しておくれ」
 青年は叫び、許しを請いている。
「騙されやしないよ」
 マーケットの美しい女主人はそう言い捨てると、青年の頬を何かロープを束ねたようなもので殴った。
「あんたみたいなもんは、必ず同じことを繰り返すんだ。一回やった奴は、必ず繰り返すのさ。必ず繰り返すに、決まっているんだ」
 女主人は続けざまに青年の頬を殴った。ぱん、ぱん、と乾いた音が響き渡る。
「もうしねえよう。おらあ騙されてたんだ、本当だよ、信じておくれよ」
 青年は泣き叫んだ。打たれた頬には血が滲んでいた。それは流れ出ず、青年の皮膚の内側でじわじわと赤く広がっていった。
 青年は、どうやら偽造金貨を使ったらしい。野次馬をしていたお爺さんがあたしに教えてくれた。
 床を見ると、青年の偽造金貨が散らばっていた。
 あたしはそれを一つ拾い上げる。
 偽造金貨は非常に良く出来ていた。とても美しい光沢を持っていた。彫り込まれた数字や、記号、それに紋章などは、元のものよりも美しいくらいであった。
 綺麗なコインだった。
「もうしねえ。こんなはずじゃあ無かったんだ」
「うるさいね」
 女主人は青年の足を踏みつけた。
 女主人が履いていたのは黒いピンヒールだった。これも青年の偽造金貨に負けないくらいに、美しく見事なものだった。
「そんなこと言われたって、信用出来無いんだよ。じゃあ何かい? あんた、そのことを証明出来るってのかい?」
「証明って言われても。それは無理だが」
「じゃあ信用出来無いねえ」
 がつん。女主人は青年の足を踏み潰した。
「があああああ」
 青年の足から血飛沫があがった。
「いてえ、くそう、いてえよお」
 青年は激しく叫ぶ。
「ちくしょう、ちくしょう、俺の足が、ちくしょう」
「ふん、良い気味だね。あんたが悪いんだよ」
「ちくしょう、ちくしょう、じゃあ証明っていうが、あんた、俺のコインが偽物だって証明出来るのかよ」
「あはははははは、あんな綺麗なコイン、本物であるわけ無いだろう? あれは偽物だよ」
 女主人はおかしそうに笑い、青年の毛一方の足を踏み潰す。
 再び血飛沫。
「ちくしょう」
 青年はもう叫ばなかった。鮮血に染まった顔をぶるぶると振るわせ、女主人を睨み付けている。
「ちくしょう。あれは本物なのに。あれは本物なのに」
 あたしはコインをポケットに入れ、レジへと向かった。

 時計台の下には、少年達が集まっていた。きちんと整列した彼らは、清潔そうな衣装を着ていた。少年達は号令の元、壁に絵を描き始めた。少年達は非常に緻密な模様を描くことが出来た。それは曼陀羅よりもずっと緻密な模様だった。
 あたしは噴水に腰掛け、ポケットからコインを出す。
 何度見ても、やはり美しいコインだった。
 証明。彼はこれを偽物だと証明出来るのか、と言っていた。彼はこれが本物であると言っていた。
 証明。しかし証明なんてものはなかなか難しいものだ。
 「アキレスは先に出発をした亀にいつ追いつけるでしょうか」
 ゼノンが言ったこのテーゼを証明したのは誰だったか。確かこれは数学者が証明したのだった。収束級数の方程式、だっけ。そんなものを使って。ゼノンの生きていた時から、千年以上も経った中世に。
 証明はそこで終わった。
 そして、ともかく時は過ぎた。
 あたしはコインをポケットに仕舞い込む。そして立ち上がり、歩き始める。
 土産物屋に並んだ地球儀の脇を通り、あたしは路地裏路に入った。地球儀は、今も回っていた。何故あんなにも地球儀は回るのだろうか。
 路地裏路には、いつからか断頭台が放置されている。
 あたしは立ち止まり、そして、断頭台を見上げた。
 断頭台はすでにその刃を無くしていたが、残った柱はまだまだ頑強そうで、そう簡単には崩れそうに無い。
 あたしは買い物袋からバケットを取り出し、適当に千切り始める。バケット半分を千切り終えると、魚の切り身三切れと一緒に皿に盛る。アルミニウムの皿は、太陽の光を受けて鈍く輝いていた。牛乳は、あたしは飲めないので一パック全て注いでやる。
 ともかく時は過ぎていた。
 ミルクを注ぎ終わるか終わらぬかのうちに、三匹の黒猫が皿の前に降りてきた。
 路地裏の断頭台には、今はネコが住んでいる。
 ともかく時は流れたのだった。空を見上げると、断頭台の上には新たなネコが二匹乗っているのが見えた。
 あたしはバケットを一口囓り、瞬きをする。





エントリ10  『睡眠病 ―祭典の最中― 』   橘内 潤

 天使の群れは、またたくまにその版図を広げた。人類の有する近代兵器はことごとく無効化され、焦土と化した大地では天使が喜びの歌を唱和するのだった。対抗手段を持たない人類はただ天使の移動にあわせて、土地を捨てて逃走するしかできなかった。
 不幸中の幸いとよべるのは、天使の侵攻が一時停滞したことだった。それにどのような意味があるのかは不明だったが、天使たちは昼夜なく歌ったり叫んだりするだけで、それ以上の侵攻と群れの拡大をしようとしなかった。この停滞は世界各地で同時的に起こったことであり、天使たちが何らかの統一的な意志に基づいて行動しているのではないかという推測を呼んだ。「神さま!」と叫んだのは、敬虔な宗教家たちだった。
 指導者たちはこれ幸いと、こぞって天使への対抗手段を思案した。それにはまず――そもそも天使とはなにか、という問いの答えを見いださなくてはならなかった。学者や研究者たちを集めて、ああでもないこうでもないと議論を重ねさせた――文字通り、不毛な議論を。
 天使というのが明らかに既存の物理法則外の存在である以上、自然科学者たちは無力だった。超自然科学や神学を活動分野とするものたちは、ここぞとばかりに声を大きくした。なお、「天使は神の御遣いであるのだから、抗うこと自体が間違っている」と発言した法王庁は、まずまっさきに議論の席から外されることとなった。事態がもはや、高邁な宗教観念を語り合うレベルではないことの証明だった。宗教家のごく一握りは、みずから天使の支配地域におもむいて殺されるという道を選択した。もっとも、天使に殺された彼らは“笑う屍”となって蘇り、人間を噛み殺す側にまわることとなったのだが。
 ――この“笑う屍”現象に着目した生物学者がいた。彼女は、天使という概念がある種のウィルスであるのではないか、と提言した。彼女の発表をまとめると、「天使が生命体である以上、自己保存と自己増殖という命題を背負っているはず。天使が人間を襲うのは、繁殖の手段だからだ。すなわち、“笑う屍”とは“天使”である」という要旨だった。この主張に対してとくに反対するものはいなかった。この主張が正しかったからといって、天使への対抗手段が見つかるとは思われなかったからだ。
 学者会議のこうした流れとはまた別に、在野からも天使に対してさまざまな意見や論議が発信された。そのなかのひとつが、後に対天使兵器へと発展した官能小説だった。
 プログラマーにして小説家という奇異な肩書きをもった若者が、酒の席で語ったという話は、じつに奇妙で魅力的だったという――この酒宴に同席していた若者の友人が後に語ったところによると、その小説は、作者である彼の実体験をもとに書かれた可能性があった。小説の内容はこうだ――お金にも才能にも恵まれた主人公が、ある雨の晩、路地裏のダンボール箱に捨てられた少女を見つける。少女を拾って帰った主人公は、仕事も地位もなにもかも捨てて、淫蕩な生活を送りはじめる。主人公は日々痩せ細っていくが、少女はまったく変わらない。なにも食べず、いつ寝ているのかもわからない生活なのに、少女はまるで変わらないどころか、健やかに発育していく――まるで、主人公の生気を吸い取って生きているように。小説のラストは、骨と皮だけになった主人公を残して、少女がまた路地裏のダンボールに帰っていく描写で締めくくられる。
 小説家の友人である彼が冗談まじりに「これ、おまえに体験談じゃないのか?」と口にしたのは、小説家が事実、ここ数ヶ月姿を見せなかった間に、見違えるほど痩せていたからだった。小説家は含みを込めた笑みを口許にたたえて「さあ、どうだかね」と言った。それから、「体験談だとしたら、ぼくも最後はミイラになってしまうのかな」とも。
 結論から言えば、この小説家は二十六日後に自宅で死亡しているのが発見される。連絡が取れないことを不審に思った編集者が警察に連絡したのだった。直接の死因は栄養失調、そうなった原因は急性アルツハイマーによる思考力の著しい欠如、と報告された。それと同時に、同居人がいたらしい痕跡が見つかり、警察は参考人として捜索をはじめた――この捜索はすぐに打ち切られることとなる。事件現場近くで小説家と同様の原因だ死んだものが見つかって、その場にいた少女が参考人として連行――名目上は“保護”だったが――されたからだった。警察はその少女がなんらかの毒を盛って二名の人間を殺したのだと見ていた。だが、どこを探しても毒物は見つけられなかった。
 天使との戦争に比べれば、一国一地方の奇妙な連続不審死事件など、取るに足らない出来事だっただろう。小説家が執筆した官能小説も、事件との関連性でちょっとした話題になったが、出版社重役たちの接待費が増えた程度のことだった。侵攻が止んでいるとはいえ戦時下のご時世、娯楽分野への風当りは坂道を転がる雪玉のごとく強まっている。日本の放送局が話題にするのは、「有事法が天使に対して成立するのか否か」とか、「日本国防省は核兵器を使用するべきか否か」などといった討論番組ばかりだ――余談ではあるが。
 ともかく、本来ならば話題に波に埋もれていくはずだった連続不審死事件に気がついたものがいた。テレビ番組のコメンテーターとして呼ばれた監察医の男性は、その小説の内容と二件の死因に、ぴんとくるものがあった。これは夢喰い現象だ――そう直感したのは、彼の母が第四次睡眠病の発病者だったからだ。天使の発生以降、睡眠病という単語を耳にする機会が激減したのは、天使が睡眠病患者の肉体と引き換えに生れ落ちたという事実が周知のことだったからだ。世界各地のコロニーで起きた大発生以来、睡眠病も睡眠病患者も消滅した――彼もそう思っていたのだが、一度思い浮かんだ直感を確かめずにはいられずに、警察内外のコネクションを活用して、保護された少女に面会することに成功する。
 この少女こそが、天使という存在の定義と天使を殺す手段とを人類にもたらす――後にマリアと呼称された生命体だった。

 天使たちは祭典をつづけ、生ぬるく痺れた時代は今しばらくつづくことになる――。





エントリ11  かさより溢れる愛を   篠崎かんな

「結婚しよう」
 僕の声は、練習よりもずっと早かった。
 良いムードの高級レストラン。上等のワインの酔いは、静かに心を弾ませて、最後の一押しをくれた。これで満天の星空が祝福していたら、もっといいのであるが、ガラスの向こうは雨模様。シトシトと哀愁を引き出す雨音が断続的に続いている。まぁ、それも予想内。彼女とのデートの時は何故か雨なのだ。だが、雨雲の下でも、雷の光の中でも、彼女の美しさは変わらない。いや、寧ろ美しさを引き立てている、と言っても過言ではない。それほど彼女は魅力的であった。彼女の顔が心から嬉しそうににっこりと笑う。
「嬉しい」
 僕の中にあった、ちっぽけで濃厚な不安が、瞬く間に逃げていく。
「じゃあ……」
 結婚してくれるんだね、と言いかけた僕の言葉を、思い出したかのように、笑顔の無くなる彼女の顔が制した。
「でも、だめだわ」
 沈んだ声が僕の心を道連れに沈没させる。
 なんで……
 思わず身を乗り出し、手元のワイングラスをこぼしそうになったのを見て、彼女は静かに語り始める。
「たしかに嬉しいわ。でも、私と結婚するためには……お父さんに会わなければならないの」
「会うよ、僕がきちんと話してみるから……」
「本当?」
 彼女の顔に希望が射して、ピンクのリュージュが弧を描いた。
 そんなこと気にしていたのか……いや、それほど気にするほどの事なのかもしれない。
「君のお父さん、どんな人なの? そんなに怖い?」
「そんな事無いわ。結構話せる人よ。良かった、会ってくれるのね?」
「もちろんだよ。いつ、おじゃますればいいかな」
 彼女は携帯を取りだし、しばらく考えていたが、やがて日にちをいくつか指定した。明後日、または、3週間後。あまりにも、かけ離れた日にちだったが、きっと忙しいのであろう。ちょうど空いて居る日だったので。明後日に行くことになる。
「がんばってね」
 人ごとのように笑いながら、言う彼女に微かに不安を感じながら、周りの流れる雨音に、これから巡ってくるだろう、嵐の予感をゆだねていた……。

 その日は雨。いや、その日も雨。
 分厚い雨雲が闇を作り、ジメジメした中で遠くに聞こえる雷の音は、もうすぐここまでやって来るのだろう。
 目の前にそびえ立つのは大きな家、と言うか豪邸。
「ようこそ、いらっしゃいました」
 典型的な執事姿の男性に、真っ黒の扉まで案内される。
「どうぞ、御主人様がお待ちです」
 促されて足を踏み入れ、薄暗さに驚いた時には、後ろの扉は閉まっていた。完全な闇、と言うわけではないが、緊張で張りつめた僕には、行動をためらわせるほど暗い。
「奥へ、どうぞ」
 目が慣れ始める前に、声が聞こえたので慎重に足を進める。空気は嫌にひんやりしていて、しかも何故かカビ臭い。だが、床は柔らかく、足を下ろす感覚も無いほどだ。
 微かに明るい窓のシルエットをバックに椅子に座った男。光が窓からのものだけなので、良く顔が見えない。
「話は真美華から聞いている。えっと……秀二くん、だったね」
「はいっ、坂口秀二です」
 自分でもおかしくなるほど声が裏返っていた。
「まぁ、そんな緊張する事はない」
「あの、この度は、真美華さんのご結婚の事でお伺いしたのですが……」
 動揺しながらも、考えきたセリフをぶちまける。
「絶対に幸せにします。彼女は僕のすべてです。彼女に苦労はかけません、だから……」
「まぁ、落ち着きなさい。私は反対ではないのだから」
「えっ、じゃあ……」
「が、君に知って貰いたい事があるのだ。真美華と結婚するのであるなら、我が一族の規則に従ってもらわなければならない」
「一族?」
「あぁ、私らは、昔からお守り様として生きてきた。神を敬い、守ってきたのだ」
 宗教だろうか。彼女がそんなそぶりを見せた事は無いが。あるいは、血筋や伝統のたぐいなのかもしれない。いずれにせよ、僕は特に宗教は持っていないので、そんなに大きな問題では無い。彼女の為なら、どんな神様でも信じてみせる。
「一体、どんな神様を敬っているのですか?」
「神様なら、ここにもにいる」
 男が右に顔を向ける。部屋の右側、薄暗くて何も見えないが、祭壇でもあるのだろうか。
「少し、近づいてみてくれ」
 言われるままに、数歩歩いてみたが、暗いせいでよく見えない。何でこんなに暗いのだろう、電気を付ければいいのに……
 そう思ったとき、部屋に明るい光が差し込み、一瞬だけ部屋中を照らしあげた。
 一瞬、だが十分だった。僕は見た、床から壁から天井からその辺、全てを覆う、無数に生えた大中様々な、きのこを……
「うっ、うわぁー」
 あまりの異様な光景にのけぞり、その場に座り込む。が体を支える手にもキノコの感触が伝わる。床一面に生えた、キノコだ……。
 遅れて建物を響かせながら雷鳴が聞こえてきた。
「なっ、なんですか、これ……」
「これが私たちの神様だよ。私たちは、神様をお守りするために生きている」
「お守りって」
「神は今の世界で生きる場所を失っている、だから私たちが生きる場所を提供し、守っていかねばならない。それが神の意志で、神のお言葉だ……」
 もう一度、窓から光が照らす。部屋を照らし、椅子を照らし、目の前の男を照らした。
男の顔の右半分に白い、小さなキノコがいくつか伸びていた。
「ひっ……その、顔は」
「生きる力が弱いうちは、私らの体が一番安全なのだ。菌のうちから環境の良い所にいると、強いものに育つ。太陽の光は苦手だが、私らが日の下に出ないよう心掛ければ問題は無い」
「つまり、人間に寄生している……」
僕の震えた声は雷の音にかき消された。
「無論、私たちの一族になるのであれば、君の体にも神様を宿らせてあげるさ。真美華が愛した人だ、きっと良い体をしているのであろう」
 だからこんなに暗い、だから彼女も雨の日しか外に出ない。彼女が雨を呼ぶのでは無い、彼女が雨の日しか外に出ないから、つまり彼女も……
 頭は混乱し始め、不安が駆けめぐり、僕は扉の有った方へと走り出していた。
 丁度辺りが明るくなり、扉位置は分かった。夢中でつかみ、力に任せて押す。
 明るい外の空間に立っている女性、真美華だ。
「あっ……」
 一瞬の迷いが行動を遅らせ、彼女は僕の体を抱きしめた。
「大丈夫、愛してるわ」
 耳元でささやかれた甘い声は頭から足までを貫き通す。
 同時に鋭い音が響き、背中に激痛が走る。
 雷鳴……違う、銃声。
 体から力が抜ける、意識が薄れて行く……。
「安心しなさい、麻酔銃だ」
 閉じる目のすき間に、彼女の首筋、髪に隠れるように、ちっぽけなキノコが生えているのを見つけた……。

 ウェディングベルの音が華やかに鳴る。
 純白のドレスにを包んだ彼女が僕に笑いかけてくる。いつ見ても魅力的で美しい笑顔だ。
 彼女が僕の腕を掴み、前を向く。
 教会の扉が開けられれば、外には彼女の家族や親戚が並んでいるだろう。僕らはその真ん中を吹き乱れる花と祝福を浴びながら進むのだ。
 僕は今、幸せだった。彼女と結婚出来た事が、彼女の一族になれた事が。
 そりゃあ、初めて知った時は、びっくりして取り乱しもしたが、あの後起きた時すでに移植は終わっていて、僕の考えは正しいものになっていた。
 神様は敬う、守る、それが僕らの使命。体からわき出てくる意志は、僕の体を清めて行く。

 扉が開く、沢山の人が僕らを羨ましげに眺める。

 僕らは、雨の中を、ゆっくりと進み出した。