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第46回3000字バトル

エントリ 作品 作者 文字数
ビデオデイズ るるるぶ☆どっぐちゃん 3000
『睡眠病 ―マリア― 』 橘内 潤 2749
立花聡 3000
桜と鏡台 中川きよみ 3000
穏やかな終焉 ごんぱち 3000
鬼ごっこ のぼりん 2996


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エントリ1  ビデオデイズ   るるるぶ☆どっぐちゃん

 イヌとネコ、どちらが好きだろうか。どちらがより愛されるべきだろうか。あたしには良く解らない。
「イヌだね、全くもってイヌだよ。ネコなど訳が解らないね。どう考えてもイヌさ」
「いいえネコよ。絶対にネコだわ。良く考えてみて。簡単でしょう? 絶対にネコだわ」
「いや、イヌだね。君こそ良く考えてみるべきだよ。ほら、良く考えて御覧。愛について、良く考えて御覧。ネコなんて忘れて御覧」
「忘れるなんて出来無いわ。そんなふうに言う時点で、あなたはネコのことが良く解っていないと証明出来たようなものね。ネコには忘れるとかそういう概念が、絶対適用出来無い存在だものね。絶対に、ネコだわ」
「おい、気を付けた方が良いぜ。聞き逃したことにしてあげるが、君は全く訳の解らないことを、今言ったぜ。可愛いのは、絶対にイヌの方さ」
「いいえ、ネコだわ」
「イヌだね」
「ネコ」
「イヌ」
 かつては愛し合ったのだろう二人の男女が、オープンカフェでそのような会話を交わしている。どちらが愛されるべきか。あたしには解らない。イヌとネコ、両方を抱いたまま、交差点を渡るしか方法が無い。このような議論をしているのを聞くのが最近増えた気がする。イヌもネコも、きょとんとした顔のままあたしを見上げている。どちらも、とても可愛い。駆け寄って来るままに、あたしは抱き上げる。二匹共に餌が欲しいのだった。その気持ちは良く解る。あたしだって餌が欲しい。お腹が空いている。餌を貰えないことが解ったのか、二匹共、路地裏路に辿り着く頃にはあたしの手から離れて地面へと降り、ちゃかちゃかと走り出すのだった。
 薄汚い五階建て雑居ビルには、いつも通りに若者達がたむろしていた。
「こんにちは、お久しぶりです」
「兄貴いる?」
「居ますよ。何時も通りスタジオです」
「今日予定入っていたっけ」
「ええ、これからです。もう間もなくですね」
「そう。お疲れ様。頑張ってね」
 狭い螺旋階段を昇る。今にも崩れてしまいそう。だが崩れはしないものだ。狭く、錆び付いていて、いかにも檻の中という感じである。くるくると昇っていく。崩れはしないものである。
「久しぶり」
 扉を開けるとスタジオの中には兄が一人、ぽつんと床に座っていた。
「ああ、久しぶりだね」
「ねえ、金が無いよ。はっきり言って、ミルクを買う金も無いよ」
「ミルク? お前、飲めないんじゃあ無かったっけ」
「あたしは飲めないよ」
「赤ちゃんでも出来た?」
「違うよ」
「じゃあなんだよミルクって」
「馬鹿だなあ。ミルクって、なんていうか、ほら、たとえ話だよ」
「そっか」
「うん」
「金なんて無いよ。もうすぐ撮影だし。金なんて全く無いよ」
「そっか。やっぱりね」
「ごめんな」
「ううん、良いよ」
 随分丸くなったな、と思う。ここ数年で、激務の中、彼は随分と優しくなった。こんな人だったのだろうか、と思う。こんな人だったのなら、もっと話しておけば良かった。
「最近はどう?」
「なにが?」
「いろいろ」
 だがそんなことを言っても仕方が無いのだった。昔は二人共そんな気になれなかった。あたしは絵を描いていたし、それどころでは無かったのだ。きっと新しい絵が描けなくなったから、そんなことを思うだけなのだ。
「いろいろか」
「うん」
 昔、良く見た夢があった。あたしの絵は、それをただ描き写すだけだった。幾ら描いても足りなかった。幾らでも描けた。そしてそれで幾らか食べていけるようになったある日、全く夢を観なくなったのだった。
 あたしは絵描きを辞めた。夢を観なくなったので、睡眠時間が安定し、人と同じような時間、眠れるようになった。
「まあ変わらないね。いろいろあるけれど、何も変わらないよ」
「そう」
 

「まあ、久しぶりね」
 スタジオの奥の扉が開き、声がした。
「お久しぶりです」
 彼女は兄貴の恋人だった。背の高い人で、背の低いあたし達兄妹より頭一個分丸々大きい。顔中にピアスを付けているので、動くとちゃらちゃらと鳴る。首筋から刺青がうっすらと覗いている。
「金、ある? 貸して欲しいらしいけど」
「あるかな。探してこようか」
「いや、良いですもう」
「遠慮しないで良いのに。あたし達の仲なんだから」
「いや、本当に、大丈夫ですから」
「遠慮しなくて良いんだぞ」
「金無いんでしょ? 良いよ、大丈夫。ちょっとひとっ走りそこら辺で稼いでくるから」
「そうか」
「あたしも一緒に行くよ」
「駄目ですよ。これから撮影なんでしょう? あたし一人で行けますから」
「そう。じゃあお願いね。久しぶりに会えて嬉しいわ」
「ええ、あたしもです」
「ねえ、あんまり遠慮しないで、いつでも遊びに来てね」
「解りました」
「あの人、大変な時期だから。あなたに会いたがっているしね」
 笑顔で彼女は言う。彼女は昔、あたしと兄が付き合っているんじゃないかと疑っていて、あたしをひどく嫌っていた。あたしは、とても憎まれていた。こんなふうな会話をするようになったのは、ごく最近のことだった。
「また遊びに来ます」
 そう言って部屋を出る。檻のような螺旋階段を、くるくると降りる。路地裏のさらに裏へ。それから表へ。お金を稼げそうな場所を探して歩く。
「ねえ」
 背後から声を掛けられてひどく驚いた。振り向くと、男が立っていた。
「監督が、ついて行け、って。お前の出番は後だからって」
「そう」
「一緒に稼いで来い、って」
「解った」
 彼はあたしより多分三つ四つ下で、兄のビデオに出ている看板男優だった。細身で大人しくて、それでいてカメラの前ではひどく乱れる。兄の求めに応じてどのような辱めも受ける。どのような痛みにも耐える。この地味な服の下には、たくさんの傷が、まだ癒えずに残っているはずだった。
 彼は似ていた。昔あたしが見ていた夢に、彼ととても似た人が出ていた。
「ねえ」
「なに」
 彼はいきなり右手をあたしの前に差し出した。
「なに、これ」
「詩集」
 と彼は言った。
「読む? 誰も来なくて、暇でしょう」
「いや。良いよ」
「そう」
 彼は右手を降ろし、本に顔をくっつけるようにして読み始めた。何回も読み直し、ようやくページをめくる。
「ねえ、最近どう? 調子は?」
「良いですよ」
「監督はどうしてる? あれだけ売れているのに、あれだけ金が無いってどうなの?」
「あの人はこだわるから。どうしてもお金がかかるんです」
「どうせエロビデオなのにね」
「ええ」
「あの人、もうすぐきっと売れなくなるよ。ていうか作品を撮らなくなる」
「そうでしょうね」
「あなたは良いの? あたしは苛々するね。殺して欲しい、っていえば殺してあげるのに」
「あなたじゃきっと無理なんじゃ無いですか?」
「どうしてよ」
 彼が答える前に客が来た。幾らだ? とあたし達に言う。
「あたし? それとも彼?」
「男の方だ」
「そう。じゃあ頑張ってね」
「口? それとも……?」
「口だ」
 路地裏の暗がりに紛れ、彼はひざまづき、男の股間に顔を埋める。ゆっくりと丁寧に彼は舐める。彼は愛しているのだろうな、と思う。何を? いろいろなものを。あたしは? そして兄は? 兄の恋人は? 何かを愛しているだろうか。解らない。イヌとネコ、どちらを愛しているだろうか。解らない。ただ死にたいだけだろうか。死ぬのが怖いだけだろうか。イヌが寄ってきて脚を舐めている。あたしはしゃがみ込み、イヌの頭を撫でる。すぐに猛烈に眠くなる。
 久々に夢を見た。彼に似た様々な動物達が、あたしを連れていく。あたしはあたしを見送る。ただ一人残される。さよなら。あたしは呟く。
 絵を描こうと思う。絵をもう一度描いてみようとあたしは思う。





エントリ2  『睡眠病 ―マリア― 』   橘内 潤

 この当時、日本は近畿、東海地方を挟んで東西に分断されていた。本州を分断するその一帯には、かつて睡眠病患者とその信奉者たちが立て篭もったシェルターがあった――そして、あの運命の日以降、そこは天使の支配する領域となっていた。
 東京の郊外に建てられた研究所から逃げだした近衛と少女は、その一帯を目指して逃走していた。「逃げるとすれば、港から船で国外へ向かうか、北へ向かうしかない」と考えるだろう研究所からの追手の裏をかこうとした末に近衛が選んだ選択肢は、「人が寄り付かない、天使のいるすぐ近くに身を潜める」ことだった。
 港や空港、電車や宿泊施設――考えられるすべてが追手の監視下にあっても不思議ではない。近衛が手を引いている少女は希少な――あるいは唯一の――睡眠病患者なのだ。実験素材としての興味深さ以上に、一般社会に野放しにしておくには危険な存在である。事態がもはや、研究所の追手から逃げ切るだけでは済まされないのだということを、自分が少女誘拐犯として指名手配されている事実によってようやく思い知った近衛であった。
「いったいなぜ、こんなことに――」
 偽名で購入したプリペイド携帯で最新ニュースを確認した近衛は、呆然と呟かずにはいられなかった。自分の写真が誘拐犯人として掲載されているのを見つければ、だれしもがそうするだろう。
 近衛とは対照的に、彼に手を引かれるまま抵抗することなくここまでついてきた少女の瞳からは、どんな感情も見つけることができなかった――この頃の近衛にとって、少女の凪いだ湖面のような瞳だけが拠り所だったのかもしれない。ふたりはそれまで以上に人目を避けて、逃避行をつづけた。
 静岡の西部まで来ると、だいぶ空き家を見かけるようになった。天使たちの領域に近い土地を捨てて、東北や北海道、あるいは海外へ移住するひとが多く、街並みは目に見えて閑散としていた――あるいは北へ逃げた方が人込みに紛れ込めたのかもしれない、と近衛はおもったという。
 静まりかえった住宅街のその向こうに、要塞の威容が見える。頑健なバリケードが遠く見えなくなるまで張り巡らされている。その先が人外の領域であり、ここが日本の最前線なのだと理解できた。寂れた街並みには普段着の人影よりもカーキ色の軍服のほうが多く、東京では実感できなかった「戦争」の空気が肌をぴりぴりと刺す。
 やはり北に逃げるべきだった――近衛はいまさらながら、みずからの不明に臍を噛んだ。この地ならばたしかに人は少ないが、かえって目立ちすぎた。バリケードに沿って進めば、もしかしたら近衛たちのように訳ありの人間が息を潜めて暮らしているような土地があったかもしれなが、近衛がそれを確かめる機会はなかった。移動を実行に移すまえに、警官がふたりの身柄を拘束したからだった。
 捕らえられた近衛と少女は、要塞のような外見の自衛隊詰所――国内であることと憲法、法律との兼ね合いから、公的には「詰所」と呼ばれていた――の別々の部屋に軟禁された。近衛の頬には痣があった。警官から逃げようとした際に抵抗したためだった。少女は相変わらず、穏やかな瞳で粗末なベッドに腰掛けていた――夜になってもベッドに横たわることはなく、目を開けて座っているだけ。
 ――その夜の襲撃が偶然だったのか必然だったのか、わからない。数匹の天使が要塞への侵入を試みたのだった。どれほどの重火器を用いても天使を殺せないのだから、天使が襲ってきた場合には抵抗する手段などない――要塞の意味は、天使たちが飽きるまで隠れるための殻にすぎなかった。
 銃声と絶叫の連続で、気を失っていた近衛は目を覚ました。防壁を破壊して内部に侵入した天使はたった一匹だけだった。しかし、無駄と知りつつも自動小銃で応戦した自衛官が縊り殺されて、笑う屍となって蘇る。屍の頭蓋を打ち砕かれた自衛官もまた蘇る――その連鎖はたちまちに膨張し、人間の作り出した巨大な殻の内側は血煙に呑みこまれた。各所で閉じるシャッターに退路を立たれたものが悲鳴と銃声を響かせ、かつて同僚だったものを殺そうとする――しかし風穴ひとつ穿つことができずに返り討ちにされ、そろってシャッターを破壊するべく弾丸を撒き散らし、拳をぶつける。その轟音が要塞内のいたるところから響き渡り、近衛の三半規管を乱打した。何事が起きているのかを理解するのは、蒼白な顔の自衛官が鍵を開けたときだった。「早く逃げろ」とだけ言い残して走り去った自衛官を追うように、近衛は通路にでる。首をめぐらすと隣室の扉も開け放たれていて、室内にはいつもと変わらぬ表情の少女がベッドの上で膝を抱えていた。
 近衛は少女の手をとって、外へ逃げるべく走りだす。転がっている軍服を着た死体を何度も飛び越えた。幾つも死体を見ているうちに、動かない死体はみんな、銃で撃ち殺されたものだということに気がつく――そんな発見がいまは役に立たないと知っているから、落ちていた拳銃を拾っただけで、あとは死体に目もくれず走った。
 しかし外へ出れそうだというあたりまで走ってきたとき、不幸にも天使と鉢合せしてしまう。天使の両手は人血で赤黒く染められていた。近衛にできたのは、それが無意味だと知っていても、銃を構えて喚き散らすことだけだった。十年来の親友に再会したような歓喜の顔で襲いかかってくる天使に、近衛の撃った銃弾が爆ぜる。当然のように効果はないが、近衛は祈りながら引き金を引きつづけた。
 天使がまさに近衛の首を薙ごうと腕を振りかぶったとき、銃弾がその額を撃ち抜いた――これが、史上初めて天使が死んだ瞬間だった。

 その後、要塞から生還した近衛と少女は捕らえられて研究所に連れ戻される。憔悴しきっていた近衛にはもう抵抗する気力もなかった。
 後日、極秘裏に回収された天使の死体と近衛の証言から、少女の特質――天使の殺害を可能とする要因が明らかにされていくことになる。以降、少女は「マリア」と呼称され、対天使生体兵器の母体として細胞が壊死するまで活用された。天使が死んだという事実は公表されず、近衛は生体兵器が完成するまでの歳月を研究所の一室に監禁されて過ごした。その間にも天使と人間の戦闘――というよりも一方的な捕食と繁殖を兼ねた殺戮はつづき、各国の徴兵年齢は低下の一途をたどった。生産に携わるべき世代は激減し、老人と子供だけが残される――人類の滅亡という言葉が日常的に使われるようになってもなお、老人たちは富と権力と、なによりも生に執着した。前線に送りだされる年齢の平均はついに二十歳を下まわり、軍紀と軍律が倫理と教育に取って代るようになった。
 近衛が監禁から解放されたときはもう、世界は彼の知っている世界ではなくなっていた。





エントリ3   立花聡

 夕立ちであった。夏が立ち込めている。
「そんなことは自分でできる。ほら、私のことはいい。向こうにいってなさい」
「そんなことを言って、自分じゃあ結局さぼってしまうじゃないですか。そんなことをさせていたら、一向に良くならないでしょう」
 妻は夫の体をアルコールで拭いている。
「本当にもういい。昨日もやったんだ、今日はそれくらいでいいんだ。私よりも子供を見てやれ」
「だから駄目です。清潔に保たなければいけないと、お医者様もおっしゃっていたじゃないですか。あなた、本当に死にたいんですか。わたしはいやですよ。こんな所で死なれたらわたしたちはどうすればいいんです。分かったらじっとしていらしてください」
 夫は諭されると体を妻にあずけた。ぼんやり首を回して外を見る。
「夕立ちだな」
「えぇ。でも、すぐ上がりますよ。ほら、向こうは晴れているみたいじゃないですか」
「そうか。ここからじゃ見えん」
「こちらなら見えますよ。見ますか」
「いい」
「まだ終わらないのか。もう随分と経っているぞ」
「まだですよ」
 夫のふくよかだった頬はもうすっかりと痩け上がっていた。妻はそっとその頬をなぞると、そこが少し震えた。
「なあ」
「はい」
「私が死んだら、子供には私を見せるなよ。見たいといっても見せるんじゃないぞ。全部お前にくれてやる。金も家も私のものは何でも。だから、見せるんじゃないぞ。立派に育ててやってくれ。時々、気づいた時でいい。私の話もして欲しい。偏屈だったとか、頑固だったとか、そんなのでいい。ときおり、話してーー」
 夫はそこで咳き込んだ。妻は洗面器を胸元にあてがった。
「そんなことはいい。離れろ。私から離れろ。いいから」
 夫が妻の手を払うと、洗面器がはずみで落ちた。その端から血が垂れ、広がった。
 
 病室の戸が開かれ妻が入ると、すっと清浄な空気が流れ込んで来る。夫はその風を感じると、戸に背を向けた。
「もう来なくていいといっただろう、出て行け、さっさと私の前から消えてくれ」
「またそんなことを言って」
「ほら、早く出て行け、邪魔だ。私をひとりにしておけ」
「あなた、わたしが嫌いですか」
「あぁ嫌いだ」
「だんだんと分からなくなってきましたわ。はじめは、あなたがわたしたちのことを考えて、わざと言っているのだと思っていました。でも、こう毎日、同じようにわたしをさけていらっしゃると、本当にわたしのことが嫌いになってしまったような気になってしまって。ねぇ、本当にわたしのことを嫌になったのですか。もしそうなら……」
 妻は病室の隅に座り込んだ。手元には粥の入った碗が湯気をたてている。夫は力なく頭を掻いた。
「だから嫌いだといっているだろう」
「そうですか。ーーお粥、ここに置いておきますね」
 戸は静かに閉まった。新しかった秋風はもう淀みはじめ、夫はまた咳をした。

「おい。私は生きるぞ。何があっても生きる。やはりまだ死ぬ訳にはいかんのだ」
 そう言うと、夫は立ち上がってみせた。寝間着の胸元がだらしなく開いてあばらが見えた。
「そうですよ。死んでもらったら困るんですから。今日はずいぶん調子が良い様でよかったわ」
「そうだ。なんだか気分が良い。できることなら散歩でもして歩き回りたいくらいだ。外はどうなっている」
「お寺の紅葉はもう散りはじめていますよ。一昨日は雪が降ったと言うし」
「そうか、もう冬か。あいつは、あいつはどうしている」
「母さんのところで、元気でやっているそうですよ。時々、夜になるとわたしたちをねだって泣くそうですけど、あの子は賢い子ですから、辛抱できているんでしょうね」
「きっと、重くなっているだろう。今の私では抱けないかもしれないな」
 夫は笑った。妻は元気だったころの快活な夫を見ているようでうれしくなった。だが同時に、その脆そうな腕を見ると胸が痛んだ。
「春になると、おんぶやらだっこやらで大変でしょうよ」
 夫は何一つ変わらない松の枝振りを眺めていた。そうして気づいたように、うん、と呟いた。
 
 正月から二日間雪は降りつづいた。硝子戸からは冷たい気配が近寄ってくる。昏々と降りつづく雪、夫は身じろぎせずにその音を聴こうとしているようだった。
「止まないな。白いのがちらちら落ちて行くのはもう飽きたよ」
「ねぇ、あなた」
「なんだ」
「わたしと結婚して良かったでしょう。こうして枕を並べてくれる人がいて、良かったでしょう」
「良くない。いっそ私を捨ててしまう女の方が良かった」
「でも寂しくないでしょう」
「寂しいさ。私が死ねば、お前はきっと悲しがるだろう。それは寂しい。お前が死んでもやはり私は寂しい。なにより子供を考えると、情けなくてならん。そうしてそれを考える今はもっと寂しい」
「もう子供のことを考えるのはよしませんか。きっとあの子は立派になりますよ。だってあなたの子供ですもの。きっと立派な男性に育って、恋をして結婚をして、子供をつくって、家族を愛していくでしょう。だから、ねぇ、そろそろ、もう少しわたしのことも考えてくださらない」
「お前のこともちゃんと考えているとも」
「嘘ですわ。いつもわたしより子供でしょう。わたしが必要なのは子供のためなのでしょう。それならわたしはどうなるんです。こんなになるまであなたを愛したのに、わたしはどうなるんです」
「生きてくれればいい。とにかく生きてくれるだけでいい」
「いやですわ。嫌。せめてあなたと一緒に死にたいのです。あなた、わたしが毒を渡したら飲んでくれますか。わたしからの毒を飲んでくれますか。もし元気だったとしても、一緒に死んでくれますか」
 風が吹いて、硝子戸ががたがたないた。松はその風に煽られ踊っている。積もった雪が鈍い音をたてて落ちた。
「いっそあの子なんていない方が良かった。そしたらあなたは、わたしと一緒に死んでくれるのでしょう。わたしを一番愛してくれるでしょう」
 妻の涙は目尻からゆっくり落ちて、耳もとに溜まった。夫と出会ったときの光景が浮かんできた。笑っている。
「不幸だな」
「えぇ、うんと不幸ね。でもいいの、それでもいまなら、あなたはわたしのものですから。それなら不幸もみんな飲み込んで、その先で死んでしまっても、わたしは幸せですもの。変な話かしら」
「変ではないよ、変じゃない。ーーあいつには幸せでいてもらいたいね。こんな死の影ばかりがちらつく世でなくなっていればいい」
「そうね、そうなったら、わたしはあの子に勝てるかしら」
「どうだろうね」
「どうでしょうね」
 傾いた日ざしが差し込んできた。病室はかすかに色めいた。妻はそっと夫の方に手をのばし、暖かな布団に手を忍ばせると、夫の腕にやさしくふれた。
「ねぇ、あなた。わたし少し眠るわ。すごく、眠くなってきたの。起きたら、またお話しましょうね。約束よ。きっとこんな話をずっとしましょうね」
 夫は妻の手をゆっくりほどくと手元に導いた。そして温めるように幾度も握り返した。その手は少し湿っていて冷たかった。
 
 かつてこんな時代があった。
 夫婦が本当に不幸であったか、幸福であったか、私には分からない。けれどこの夫婦の間にはある種、眩しいほどのかがやきがあるような気がしてならない。
 生きて、生きて、それでも結局死ぬのならば、一体なにを求めて生きればいい。その目映いきらめき、そこには何があるのだろう。きらめきの果て、澄んだ一点を、私は見つめていた。





エントリ4  桜と鏡台   中川きよみ

 雨が降っている。小さなアパートはすっぽりと雨に包まれて、暗くひっそりと静まり返っている。庭の桜の木は、枝から落ちる雨滴で根元に小さな水たまりを作っている。
 私は、自分がいつからこのアパートに暮らしているのか、分からない。
 私には父がいて、2人で暮らしている。そして、この暮らしはずっと昔から未来永劫に、この雨のように続くような気がしている。

 鏡台に、自分の姿を映してみる。
 アンティークな鏡台は、その他全ての安っぽい家財道具の中で余りにも浮き立っていた。アパートには不似合いの大きくてどっしりとしたこの鏡台の前に座ることは、数少ない私のお気に入りだった。一日に何度か自分の姿を映し、すると微かに「母」のことを思い出した。
「鏡台は女の城だから、良いものでなくてはね」
 きっと「母」はこう言った。「母」に関する一切の記憶、そればかりか自分が誰かという記憶までも無くしているくせに、その「母」の口調だけは鮮やかに思い描くことができた。ともすれば、そのセリフを口にした瞬間の「母」の心の色さえ、分かるような気がした。

 父との共同生活は、実のところ変にぎくしゃくしていた。
 第一、彼が「父」だと名乗っているだけで、本当に私の「父」かどうかも分からなかった。
 多忙な会社員らしく、大抵は私が床につく頃に帰宅して、朝は私が寝惚けている間に出掛けていった。何だか私を避けているようにも思えた。
 やさしくて、妙な具合にびくびくした人だった。神経質な性格なのかもしれなかった。私が失ってしまった記憶について、何も話さなかった。ただひたすらに、じっと時が過ぎるのを待っているようだった。父は私のすべてに決して触れることがないのに、私を捨てることはしない。なぜだかは、分からない。
「ご飯、できたよ。」
 会社のない日ですら、父から掛けられる言葉はこの程度だ。
 いつだったろうか、父が出掛けに財布を忘れてしまい、電話をもらって駅へ行く途中まで届けたことがあった。その時、偶然薄い財布の中から免許証がポロリと落ちて、父がまだ33歳だということを初めて知った。
 慌てて走ってくる父の姿は、そう思って見れば30代に見えなくはないが、ずいぶん老けて見えるな、とその時は思ったものだ。けれど、帰ってから鏡に映る私の姿を見ると、どう見ても12歳以下ではないので、よく考えるとその父の年齢は少々若すぎるように思えた。
 仮に20歳そこそこで父親になったのだとしても、父の存在は色々と怪しかった。
 「父」ではなかったとして、では一体誰なのだろう?
 その答えは容易に出せそうになかったので、結局考えることを放棄した。

 「母」の鏡台は、薄暗い時間に見るとそれは白雪姫の継母が持つ魔法の鏡のようだった。
 私が意地悪な継母で、白雪姫は「母」だった。私は鏡に向かって、そのいくら丁寧に拭いてもいつまでも乳白色に霞む鏡面に「母」のあれこれを映し出すのだ。「母」の姿や、彼女の感情や、経験なんかを。
 それは幻影のようでも、心像のようでもあった。いずれにしても、それは確かに何年か前に「母」が感じたものを再現していた。
 「母」が恋しいのかと訊かれると返事に窮すしかない。実際、「母」の記憶を辿る作業は、一歩一歩確実に嫌なものに近付いているように思えてならなかった。重い気分だった。
 外はまた細かな雨が降っている。このままでいいじゃないか、とも思う。
 でも、止めなかった。
 そして、ある日、鏡の中にほんの僅か少年の姿が現れた時、何とも表現しがたい気分に襲われた。かけがえのないキリキリと絞られるような愛情と、失う予感、とてつもなく嫌な感じ、そんなものだ。
 少年は「母」の息子で、何らかの事情で亡くなったのだと、そんな風に解釈した。目を閉じても切ないような痛みは生々しくうずいている。鏡の中の残像にすら、これだけのものを感じるというのに、実際「母」はどれほどのショックを受けたことであろうか。
 「母」の痛みを感じればこそ、今度こそもう止めようと思った。単にこれ以上の痛みが嫌だったのだ。真実を知りたいとか、そんなことはどうだってよかった。
 なのに、麻薬のような力があるのか、どうしても鏡台に向かうことは止められなかった。傷つくことを恐れてどきどきしながら、鏡面に見入ってしまう。何度か、少年が映った。明らかに少年の現れる頻度が上がっていた。
 この日も少年との邂逅を果たして、苦しく嬉しい気持ちだった。その時少年は笑顔で、右の頬にとても素敵なえくぼがあることに気付いた。見ないように、と思いつつ、無意識に少年の姿を探し求める私は、垣間見えた少年のその頬に浮かんだえくぼにたちまち魅了されてしまった。

 「雨が続くな。」
 サッシを閉めながら父がつぶやく。
「そうね。」
 私はふと自然に相槌を打って、それはとても珍しいことだったと、父が驚く顔を見て気付いた。
「寒くは、ないか?」
 父の顔にはいたわりのやさしい光があった。存外エネルギーのあるその光は、私にも伝染する。
「寒くないわ。」
「そうか。」
 父が珍しく笑顔を見せた。その右頬にえくぼができたのを見た瞬間、鍵穴に封印されていた鍵が入り、扉が開いた。
 怒濤のように記憶の洪水が脳裏にあふれ出す。まさに濁流だ。

 ああ、「母」は私であった!
 「父」は年若い夫であった!

 若い頃に家庭教師をした縁で知り合った夫は、やがて私の仕事を手伝うようになって結婚もした。なのに、私を裏切ったのだ。私の元の若い秘書と浮気したのだ。肉体だけの関係なら、何とか赦しもしただろう。違うのだ。夫は心を傾けた。マンションから、身1つでこのアパートに逃げ出した。
「先生はお忙しい上にお年ですし、この人は子供を欲しがってるんです。どうか、私達のことを許して下さい。」
 そんなことを言われるなんて思ってもみなかった。大きな岩が頭の上から降ってきたような感じだ。
「この人は、先生のことをお母さんのように感じてると言いました。奥さんではないのです。」
 あの女がぬけぬけと言う間、夫は横で聞いていた。そして、何も言わなかった。
「酷いことを言ってるのはよく承知しています。でも、どうか離婚なさって、私にこの人を下さい。私達、愛し合っているのです!」
 私の手には、何か固いものの感触があった。振り上げると、重かった。

 後のことは、覚えていない。何も。何も……黒く濡れた手と、いつまでも堀り続けた桜の木の根元は、ただの悪夢だったのだろう。

 記憶をなくした。そして重ねてきた年月さえも、なくしてしまったのだ。
 子供を産むことのなかった私は、胎内で私自身を産み落としたのだろうか。私は、夫と知り合う以前の、少女の頃まで若返ってしまった。
 夫は何故ここに私達のあのマンションから鏡台だけを運び込んだのだろう? いっそ、何も持ち込まなければ私の記憶も戻らなかったろうに。
 外では雨が降り続けている。
 私はこの雨の中で、ずっと「父」との暮らしを続けてゆけたかもしれないのに。

 鏡は、一人の中年の女を映している。呆けたような双眸に、光はない。
 鏡台の下から、鏡の右端から、それぞれほんの少しだけ黒い染みがはみ出している。隠しきれなかった血糊。
「ご飯、できたよ。」
 いつもよりも心なしか明るい夫の声が、台所から響く。

 外は雨が降り続けている。
 桜の木の根元には、水たまりができている。





エントリ5  穏やかな終焉   ごんぱち

 珍しい事でもないが、その日、風呂場の床ついた田原明子の足は、滑った。
 両手で抱えている義母のタキが、湯に頭から落ちる。
 それを視覚が認識するのとほとんど同時に、明子の頭は風呂桶の縁に激しくぶつかり、意識が遠のいた。

「……痛、たた」
 明子は目を開く。
 嗅ぎ覚えのある臭いと、見慣れない天井。
 視界に入る棚には、ステンレス色に光る様々な道具や、白い布や、脱脂綿や、点滴のパックがあった。
(病院――?)
 明子は目だけで周囲を見渡す。
 いわゆる病室ではなかった。
 明子の周りには誰もおらず、ただ狭いベッドに横たえられていた。
(ああ、救急だから、か)
 彼女が理解しかけた時。
「おふくろ、おふくろ!!」
 一つ離れたベッドから、涙混じりの声がした。
 夫の道俊が、泣き叫んでいた。近くに医師と看護師がいる。
 医師は、うつむき気味に腕時計を見て、時間を書き留めていた。
(……ああ、お義母さんは)
 ふいに、猛烈な眠気が襲って来た。
 この二十年間の疲労が、眠気となって、一気に押し寄せたようだった。
 明子が目を閉じる一瞬。
 道俊の目が、視界を過ぎった。
 母を失った悲しみと――怒りに満ちた目が。

 目覚まし時計の前に、明子は身体を起こす。
 道俊を起こさないよう、静かに着替え、台所へ向かう。
 それから、味噌汁を作りながら、納豆を混ぜ、漬け物を切る。
 二食分はとても少なく、二〇分もしないうちに用意が出来た。
 後は昨日の残りの冷やご飯を電子レンジにかけ、茶碗に盛る。
 と。
 不意に、気配を感じて明子は振り向いた。
「お、おはようございます」
「おはよう」
 道俊はそれだけ言って、洗面所で顔を洗う。
「ご飯、出来てますから」
「ああ」
 道俊の後ろ姿を見ながら、明子は小さく溜息をついた。

 朝御飯の片付けを終え、明子はタキとタキの夫の富士男の位牌が置かれた仏壇を開く。
 線香も休みの日にしか立てず、うっすら埃がつもっている。
(騙されない。でも、騙されない)
 明子はぎゅっと自分の二の腕を握り締める。
(道俊さんは、私を憎んでる)
 明子の脳裏に、あの日の――タキが風呂場で溺れ死んだあの日の――道俊の目が浮かぶ。くっきりと目だけがこびりついて、離れない。
『ごめんなさい、私が……』
『事故だったんだ、仕方がないだろう。今までご苦労様』
『でも、結果として私が』
『そんな事はない。もしもこの事故がなかったとしても、オフクロはもう長くなかったさ。痴呆も進み切って喋る事も出来なくて、身体も硬縮して……やっと楽になった、って、思ってるさ。道代たちだって、お礼を言ってたじゃないか。明子は頑張った』
 明子を許す言葉を口にすればするだけ、陰に隠れた道俊の恨みの深さが突き刺さった。
(いつか、私が、殺される)
 底知れぬ恐怖心を感じつつ、明子はそっと振り向く。
 道俊は旨そうに、呑気そうに、箸を動かしていた。

 深夜、息苦しさを感じて、明子は目を覚ました。
 目の前に道俊の顔があった。
 あの時と同じ、憎しみに満ちた目をしていた。
(あれは事故だったじゃない!)
 叫ぼうとしたが、声が出なかった。
 道俊の指が明子の喉を潰していた。
(や、やめ……)
 叫ぶ事も、首を動かす事も出来ない。
 ものすごい腕力だった。
 まるで、万力で締め付けられるようだった。
 ぼきり。
 首に激痛が走る。
 思考が混濁する。
 だが、それでも道俊は指を弛めない。
 老いの兆候を見せる、弛んだ明子の喉の皮が破れ、血がにじみ出す。道俊の指は、爪は、尚も食い込み、頚動脈をえぐり出す。道俊は脈動も微弱になった頚動脈を前歯で咬みちぎる。血が噴き出し、道俊の顔と明子の顔が赤黒く染まっていく――。
「!!」
 明子は目を覚ました。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
 思わず首に手を当てる。
「ひっ!!」
 濡れた感触に、思わず声を上げる。
「――んー、なんだー?」
 道俊が半分目を開いた。
「い、いえ、なんでも、ありません」
 明子の手に付いていたのは、汗だった。

 洗濯物を取り入れた明子は、洋服をクローゼットにしまう。
 定年退職で、子会社に移った道俊のワイシャツは、ずいぶんくたびれている。
「もう一着買おうかしら……でも、来年はあそこも退職だろうし」
 ワイシャツをクローゼットにかけながら、明子の視線はネクタイに向いていた。
(こんなネクタイ……あったかしら)
 ネクタイハンガーの中に、見覚えのない新しめなネクタイが、一本かかっていた。
 明子はそのネクタイを手に取る。
 綿の太いネクタイ。
 人間でも吊り上がりそうなほど、丈夫そうなネクタイ。
(人が)
 ぶるっと震えた。
(やっぱり、本当に)
 曖昧な予感がついに確信へと凝縮されていく。
(このままじゃ、危ない)

 明子はキャンプ用品売場の前でじっとナイフを見つめる。
 ネクタイで首を絞められながら、ナイフを抜き、真後ろへ突き立てる。
(大きくなくて良い。大きくない方が良い。いつでも、肌身離さず持っていられるのが良い)
 とある一本のナイフの、ステンレスの刃に、明子の顔が映った。
 恐怖に怯え眠気も抜けないその顔は、タキの面倒を見ていた時と同じように、やつれていた。

「お休みなさい」
 その日の夜、明子は布団に入った。
 枕の下に、小さなナイフを隠し。
「――今日な」
 道俊が口を開いた。
「はい?」
「今日、西川に会ったんだよ」
「……西川さんって、お友達の?」
「ああ」
 遠い目をして道俊は微笑む。
「高校の時からの付き合いだけど、オフクロとも顔見知りでな。死んだって言ったら、ずいぶんガッカリしてた」
「そう……」
「明子、お前がそんな顔しなくて良いって。オフクロはもう寿命だったんだ。葬式の時、死に顔見たろ? オフクロ、笑ってたじゃないか」
 穏やかに、とても穏やかに道俊は言った。
「ありがとうな、明子。お前がいてくれたお陰で、オフクロはこんなに長生き出来たんだ」
 明子は横になったまま、黙って頷いた。枕越しのナイフの感触を、やけに意識しながら。

 翌朝、明子は目覚ましに起こされた。
(なんか、久し振りに眠れたわ)
 明子は身体を起こす。
「あ……れ?」
 何故か隣で眠っていた筈の、道俊がいなかった。
(どこに?)
 明子は階段を降りる。
 階下には味噌汁と、炊き上がった飯の香りが、漂っていた。
 ダイニングに入ると、テーブルに、不揃いな豆腐の入った味噌汁と、焦げかけの目玉焼きが置かれていた。
『ありがとうな、明子』
 道俊の言葉が頭を過ぎる。
(あの言葉は、本当? ひょっとすると、私は、勘違いを――)
 次の瞬間。
 何かが首に巻き付いた。
 ほとんど反射的に、明子は袖に入れていたナイフを抜き、真後ろに繰り出した。
 刃が抵抗のあるものにめり込む。
 間髪入れず、明子は振り向きざまに切り上げた。
 後ろには、腹から顔面までを、真一文字に切り裂かれた道俊が、ネクタイを片手で持ったまま、タキが死んだ日と同じ憎しみに満ちた目で、明子を見つめていた。
 声を上げようとした道俊の喉に、明子はナイフを突き立てる。
 新しいナイフは、研ぎたての包丁で魚をおろす時のように、抵抗なく道俊の皮膚と肉にもぐり込んだ。
 道俊は呼吸も出来ず、悶絶する間もなく、動きを止める。血溜まりが急速に広がって行った。

「――今度こそ、ぐっすり眠れるわ」
 心から安堵した表情で、明子は寝室に戻り布団にもぐり込んだ。
 この幸せが、夢と消えてしまわないよう祈りながら。




エントリ6  鬼ごっこ   のぼりん

 いつものバス停に降りて腕時計をみると、まだ4時半だった。
 今回の出張は、商談の結果が悪すぎたせいか、いつになく疲れた。会社に寄って報告書を書く気力もわかない私は、得意先からそのまま自宅へ直帰することにした。
 見慣れた並木道に沿って、夕暮れ前の優しい木漏れ日の中を歩いていると、剥き出しになった神経も少しずつ癒されていくような気がする。今から家に帰れば、夕食まで子供とキャッチボールをする時間ができる。こんな日は、まず子供の顔が見たい。
 企業戦士の日々は、あまりにも激務だ。私にとって心の安らぐ唯一の場所といえば、団地の中の小さな一角で私を待っている家庭だけでしかない。そう思うと、家路に向かう歩調も早くなり、ふと回りも見えなくなっていたのだろう。気がついたときには、私は慌しい人声とサイレンの喧騒の中にいた。
 立ち止まって方向を確認した。一台の救急車がけたたましい勢いで走り去っていく。私は、人々がたむろしているところまで駆け足で近づいた。
 見慣れた顔の一人がいる。朝の通勤時に、よく挨拶を交わすことのある年配の奥さんだった。
「なにがあったんですか」
「ご近所の芳雄くん、さっきそこでダンプに跳ねられたんですよ。あの様子じゃ、もうだめでしょうね。まだ小学生なのにねえ」
「交通事故ですか」
「ここの四つ角、多いのよ。お子さんにも気をつけるようにいっておいたほうがいいわ」
 私は愕然とした。
 芳雄くんのことはよく知っている。息子のタケシと仲のいい友達で、学校から帰るといつもふたりで遊びに出ているようだった。休みなど、夕方の今ごろになると決まったように私たちの家へ来て、ドアのむこうから、「あそぼ…」という声をかけてくる。その声は私の耳の中に今も鮮明に残っていた。
 心を休めるはずの帰宅が、さらに陰鬱なものになった。
 タケシにこのことをなんといえばいいのだろう。

 黙ったまま玄関で靴を脱いでいる私に、台所の方向から聞こえてきた妻の「おかえりなさい」という声は、いつも通りの日常である。思わずため息が出た。
 今日のことは黙っておこう。私はふとそう考えた。ずるい方法かもしれないが、知らなかった事にすればいい。放っておいても、明日になれば近所の噂は妻の耳に入ることだろう。
 今はただ、タケシとキャッチボールがしたい。私の気持ちはそれだけだった。煩わしい事は何もかも忘れて、一刻も早く息子の顔が見たかった。
 堅苦しいスーツを脱ぎ捨てて、居ても立ってもいられない気持ちで、子供部屋を覗いた。
 タケシはいない。
「あれ、タケシはどこだ?」
 台所の入り口から顔だけを突っ込んで、妻に尋ねた。
「今、外へ遊びに出たわよ。晩御飯まで遊んで来るんですって」
「ひとりでか?」
「芳雄くんが、あそぼって、誘いに来たのよ」
 それはいつだ、と尋ねた私の声は、叫び声だったのかもしれない。
 妻が眼を丸くして、ついさっきよ、と振り返った。
 芳雄くんは交通事故で死んでいるのだ。いや、生きていたとしても、今は救急病院に運ばれているはずだ。
 よほど取り乱したのか、私は手にしていたグローブとボールを食卓の上に叩き付けていた。妻はわけもわからず、ただ怯えて言葉もない。彼女にこれ以上のことを説明する暇などありはしなかった。
 気づくと、私は無我夢中で、外へ飛び出していた。タケシを救わなければならない。その思いが私を突き動かした。何から救うのか、どうやって救うのか、私にはそれらの問いに答えるすべはまるでなかった。
 ドアから一歩外へ出たとき、私は否応なく、非現実の世界に足を踏み出してしまったのだ。もはやそこから後戻りはできなかった。

 どこをどう走ったのかわからない。
 団地の端にちぎって捨てられたような小さな公園がある。気がつくと、私はまるで呼び寄せられるように、その前に立っていた。
 子供たちのはしゃぐ声が聞こえる。小鳥がもつれ合うようなかん高い声だった。
 あたりはすでに薄暗かったが、淡い光を集めたような空間の中で、ふたりの子供が追いかけっこをして遊んでいるのが見えた。一人はタケシであり、もう一人は確かに芳雄くんだった。
 だが、夕日を受けて芳雄くんの足元から伸びているはずの影がなかった。
「あ、おとうさん」
 その時、私を見つけたタケシが、こちらに向かって走ってきた。
 芳雄くんがそのタケシを追っている。
 タケシの背後から、髪を掴もうとでもするように伸ばした芳雄くんの手は、悪魔のようにするどい爪をもっていた。タケシにはそれが見えないが、私には見える。その刹那、初めて背筋も凍るような恐怖心が湧き上がってきた。
 死んでいるんだぞ、君はもう。
 私を睨んだ芳雄くんの顔が、たちまち潰れたように歪んだ。口の両端が耳元まで裂け、真っ赤な隙間から覗いた歯は、五寸釘を何本も並べたように鋭かった。
 化け物だ。
 どこまでも遊んでいるつもりなのだろう、タケシは無邪気に私の背中に回って抱きつこうとした。私は後ろ手でそれを追い払うようにした。
「すぐに家へ帰るんだ、タケシ。母さんが待ってるぞ。走れ、タケシ」
 その間も異形の者は、獲物を狙う禽獣のように背中を丸めて身構えていた。
「おじさん、あそぼ…」
「ああ」
 と、私は答えていた。どうやら、この異形の関心はすでに私に移ったようだった。それが確かならいい。
 次の瞬間、タケシを残して私は弾けるように駆け出した。
 異形は、待ってよ、と叫んだ。
 思ったとおり、私を追いかけてきたのである。

 なんてひどい一日の終わりだろう。
 この化け物はなぜ、私の日常の中に突然現れたのか。しかも、なぜこうも執拗に私を狙って追いかけてくるだろうか。
 すでに日は完全に没していて、辺りの人影は少なかった。すれ違う人々は、私の災難を誰一人として気づくものはいない。助けてくれ、という呼びかけはどこまでもむなしかった。人々は怪訝な顔を向けて、身をかわすだけなのである。
 おそらく、こいつは、私以外の他の誰にも見えない、他の誰にも触れられないのであろう。
 私は、団地の中の並木通りを駆け抜け、バス停を越え、さらに国道に面した往来に向かって、逃げ続けた。
 そのうち、だんだん私たちの距離が縮まり、化け物の鋭い爪が、今にも私を捕らえるかと思うほど迫ってきた。もちろん、振り返って見えるわけではない。背筋を伝う冷たい汗がそのことを教えてくれるのである。間断ないうめき声のようなものがすぐ耳元にあることを。
 ついに恐怖と疲労が私を盲目にした。
 いつの間にか、私は芳雄くん自身が災難にあった四つ角に無意識のまま飛び出していたのである。
 あっと思う間もなかった。タイヤのきしむ音と叫び声が錯綜し、私を取り囲む周りの世界がそれだけになった。体が重力を失い、見慣れた景色が暗転した。
 気がつくと私は冷たいアスファルトに頬を擦り付けるように倒れていた。トラックに正面から突っ込んだ衝撃で、顔が半分になるまで潰れている。それを見下ろすような視点で、すでに私は自分が死んでいくことを理解していた。
 ふいに背中をぽんと叩かれた。
「タッチしたよ、おじさん」
 振り返ると、穏やかな顔をした芳雄くんが、吸い込まれるように遠く天に向かって消えていこうとしていた。
 急に私の心が、どす暗いもので覆われた。

 それは抗いがたいルールだった。
 今度は、私が「鬼」の番なのである。







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