静かな樹のある部屋で
中川きよみ
ボストンバッグ一つだけをぶら下げて、ヒロはあたかも夜逃げを昼間に決行しているような雰囲気だった。
「今日から住みたいんです。できるだけ格安物件を。」
分厚い瓶底眼鏡をかけたおじいさんの不動産屋は、少し驚いたようにヒロを見上げてからニッコリ笑った。
「昨夜、ちょうど良い物件が入ったところです。」
細くて長い石段を上がると、途中には水平に交差する小路がいくつかあった。いったいどこまで続く石段なのか、その先はまだ続いていたけれど、不動産屋のおじいさんはいくつめかの小路に入った。ヒロはボストンバッグをひきずるようにして黙って後をついて行く。
「ここですよ。」
それは築30年くらいの小さくてオンボロの2階建てアパートだった。ものすごく地味で完全に周囲の風景と同化してしまっているので、ヒロはここに住むことになっても一旦外出したら最後、再びこのアパートを見分けて帰り着くことなどできないような気がした。
長い石段ですっかりくたびれて、おじいさんの後からよろめきながら2階の角部屋に上がる。
「あ、」
狭くて薄暗い外階段を上がる途中で、ヒロは小さなミドリガメを拾った。俯いていたので階段をのぼることも降りることもできずに困っているカメに気付いて、掌に乗せてやったのだ。
おじいさんが古い扉を開けると、そこは手狭なキッチンがついた八畳一間の部屋だった。どうということもない間取りだが、どういう具合か部屋のど真ん中にとても邪魔な柱があった。
それは見事な天然木の一本柱で、濃い茶色の表面は年月を経てすべすべしていたし、30cmはあろうかという太さだった。
ヒロは一目で魅了されてしまった。ヒロの掌でカメも脆弱な首をいっぱいまで伸ばして、どうやらその柱の虜になっているようだった。この部屋に住もうと、一瞬で決意を固めた。
「大黒柱という訳でもなし、構造的には要らないモンらしいんですが、どういう次第でかあるんですわ。」
おじいさんは困ったように言って、元々廉価な家賃をさらに5千円引くと提案してきた。それで、決まった。
ヒロはカメに「ハシラ」という名前を付け、柱には「カメ」という名前を付けた。ややこしいが、そのままよりは多少ヒネリがあるようで心が和む。
ハシラはカメをとても気に入ったようで、水槽代わりの洗面器から器用に脱走してはカメの周りでフンをしまくった。
ヒロはポケットに瓶ビールの王冠をいくつも忍ばせては、ハシラを連れて買い物に出た。そして迷いそうな辻に王冠をそっと置きながら長い石段を下って商店街へ行った。帰りは王冠を頼りに家路につく、少しだけ頭の良いヘンゼルとグレーテルだった。
無事に家に帰り着くと、買ってきたばかりのヤカンで湯を沸かし、特売の不味いインスタントコーヒーをいれる。ガランとした部屋でカメにもたれかかりながらコーヒーをすすり、自分がここにいる現実についてじっくり考えようと努力した。
そんな時は、決まってハシラがじっと見上げている。ヒロは、きっと自分がとても深刻で呆けた、不思議な表情をしているのだろうと思う。確かに、深刻に考えようと努力しているにも関わらず、どこか感情の大きな機能が麻痺しているような感覚がする。涙や後悔が溢れないように、どこかに強烈な麻酔をかけているような感じだ。
ヒロは溜息をついて、考えることを放棄する。ハシラは首をひっこめる。
何週間か降ったり晴れたりのぐずついた天気だったのに、突然すっきりと晴れ上がったかと思ったら季節が変わっていた。ヒロは天気同様に突如、曇った硝子窓を掃除することを思い立った。窓硝子の掃除を自発的に行うだなんて、人生始まって以来初のことだと思うが、なぜだかこの時は掃除したくなったのだ。
と言ってみても、ただ2枚のサッシ窓である。ものの20分で全てが終了した。お手軽な割にものすごく清々しかった。
その夜は、ちょうど満月だった。夜更けには金色の月が窓の中央にのぼってきた。月光は埃を払った硝子を透かして、カメにやわらかく当たる。カーテンが揺れる度に、水の面のような金色の光の粒子も揺れ、カメの影が床に深く落ちていた。
月の光を浴びたカメから、微かに水音が聞こえた。
空耳ではない。太い柱の奥のほうで、ぴとん、ぴとん、と確かに滴の音がする。そっと耳をつけてみると、さぁさぁと流れる音もする。
生きているのだ。
ヒロは驚きつつ、両手を伸ばしてカメを抱きしめると心持ち暖かな気さえした。切り倒された木材ではなく、この樹の一番下はいまも大地に根を張り、水を吸って生きている。
とても穏やかな気持ちになって、その夜はカメにもたれて眠った。久しぶりにぐっすり眠った。
翌朝起きると、カメに、白い花が咲いた。それはそれは美しい花だった。
驚いたように首を伸ばして花を見守るハシラの甲羅にも、なんとよく似た白い花の模様が浮かんでいた。
昨夜までは確かにつるつるだった筈のカメの一体どこにつぼみがあったものか、可憐な白い花がコケのようにカメから直接咲いている。あまりにも美しい花だったので、じっと見入っている内に夕方が訪れて、白い花はひとつまたひとつ枯れ散ってしまった。
最後の一輪が散り終わるのを見届けて、それからハシラの甲羅の模様もまた濃い緑色の中に完全に沈んでしまったのを確認してから、ヒロはハシラを連れて散歩に出た。
長い石段の下界には、特に変化はなかった。コンビニで牛乳を買って帰る。アパートの入り口まで戻ってから、ヒロはふと郵便受けが各種チラシでいっぱいになっていることに気付いた。仕方がないのでコンビニのビニール袋から牛乳を出してゴミ袋代わりに詰め込んでいった。そしてたくさんのチラシに紛れて、それが見慣れた文字の書いてある絵葉書であることを発見して慌てて拾い上げた。
エアメールの葉書は、なんと健介が英国から出したものだった。
いったいいつ届いたのだろう? 第一、どうやってここの住所を知ったのだろう?
カメに咲いた白い花を思わせるような、とりどりの花が咲いた庭の写真の絵葉書だった。宛先の隣に、意外に几帳面な健介の字が並んでいた。
『お元気ですか? 少し落ち着きましたか? 身体に気を付けて暮らして下さい。』
「考える人」にそっくりの困った表情で散々考えて、結局これだけしか書けなかった、健介の姿と彼の思考の流れが鮮明に浮かんだ。
ふいに麻痺が切れたかのようだった。ヒロは不覚にもその場で泣いてしまった。めそめそではなく、わぁわぁと声をあげて、しゃくりあげて泣いてしまった。
婚姻届を区役所に提出して、健介の転勤先の英国へ一緒に行く筈だった。直前になって、どうしてもいやになったのだ。ひとつの明確な理由に起因しているのではなくて、あまりにも短い時間に積み重なった変化を消化しきれずに出た拒絶反応だったのかもしれない。ごく簡単な書き置き1枚だけを残して誰にも何も告げずに、出てきたのだ。
どれくらい泣き続けたのだろう。ヒロは息が出来ないくらい泣いて、ようやく泣き止むとハシラが居なくなっていた。部屋に戻ると、驚いたことにカメまで跡形もなく消えてしまっていた。
ヒロは、カメがあった床に、健介からの絵葉書と、明日投函しようと思う新しい絵葉書を並べる。穏やかで絶妙なバランスだったものが次のステップを迎えたことを感じながら、ヒロは絵葉書に綴る言葉を考える。