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3000字小説バトル

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3000字小説バトル
第47回バトル 作品

参加作品一覧

(2004年 11月)
文字数
1
橘内 潤
2624
2
伊勢 湊
3000
3
立花聡
3000
4
綾田 周
3000
5
(本作品は掲載を終了しました)
ウーティスさん
6
るるるぶ☆どっぐちゃん
3000
7
霜月 剣
3000
8
中川きよみ
3000
9
ごんぱち
3000
10
ミヤヒロ
1033
11
のぼりん
3000
12
村松 木耳
2264
13
スナ2号
3000
14
吉備国王
2887

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『くまのレストラン』
橘内 潤

 建物よりも自然が多いその土地の、山のふもとの川べりに、一軒の小さなレストランが立っています。
 そのレストランは美味しいことでも評判だけど、くまがシェフだということで有名でした。くまがひとりで切り盛りしている小さなレストランなので、三つしかないテーブルはいつも満席です。
 おや、本日の主菜が運ばれてきたようです。前菜の「レッドチェダーのグリエ、桃のソース添え」は、串焼きにされたチェダーチーズに白桃と白ワイン、フォンをベースにしたソースが添えれた一皿でした。乳製品特有のこってり感を桃のソースが上手に包み込んで、全部食べ終わった頃には、食べ始める前よりもお腹が空いてしかたなくなってしまいます。
 くまの料理長みずから運んできてくれた主菜は、温かな湯気をたてて見るからに美味しそうな鴨料理、「鴨のロースト、青蜜柑と柚子のソース添え」です。皮はさっくり身はしっとりと焼かれた鴨肉を噛みしめるたびに野趣あふれた味わいが広がり、ともすれば油っぽくなってしまう後味を青蜜柑と柚子のほのかな甘みと酸味が洗い流し……、また付け合せのフライドポテトのほっこりした食感と味わいが舌を新鮮にしてくれて、休む間もなく肉を切っては口に入れてしまいます。とにかくもう、満足するほかにない素晴らしい一皿でした。
 このレストランの美味さの秘訣は、ひとつに食材の素晴らしさです。今日のメインディッシュである鴨は、料理長のくまが自分で獲ってきて熟成させていたものです(狩猟免許は持っているとのことです。本人談)。果物や野菜は近所の農家から、牛乳やチーズは牧場から、いちばん良いものを卸してもらっているのです。
 そうした素晴らしい食材を料理するくまの腕前が美味さの秘訣であることは、もちろんです。二種の柑橘を火にかける際、その風味が失われず、かつ、鴨を焼いたときにでた肉汁とフォンとに調和する頃合を見切ることは、口で言うほど簡単ではありません。
 そしてなによりの秘訣は、くまの料理長の料理にかける愛情でしょう。そもそもどうして、くまである料理長がレストランを始めたのかを尋ねると、くまはこう答えました。
「ぼくは昔っから肉とか果物が大好きだったけど、いまのように煮たり焼いたりして食べることはなかったんですよ。でもいつだったかな――ぼくがいつも魚を獲っている川べりに無断で入ってきたやつがいてね、驚かせてやろうとおもってガオーって飛びだしていったんですよ。そしたら、そのひとは全然驚かないで、“まあいいから、食ってみろ”って料理した魚の皿を差しだしてきたんですよ。ぼくはナマの方が美味いに決まってるっておもってたんですけど、なんとなく食べてみたらもう美味しくって美味しくって。“これはどうやって作るんだ?”ってぼくが聞いたら、そのひとは嬉しそうに作り方を教えてくれました。それからも、そのひとがまた旅にでていっちゃうまで、たくさんの料理を教わりました。最初は自分で作った料理を自分で食べて満足していたんですけど、だんだん物足りなくなってきて――ぼくの作った料理をたくさんのひとに食べてほしい、美味しいって顔をしてほしい……っておもうようになって、レストランを開くことにしたんです」
 一皿一皿に込められた「美味しいって顔をしてほしい」という想いが、なによりの調味料となって素晴らしい料理を作りあげているのだとおもいます。なお、旅の料理人がくまに初めて教えたというの料理「岩魚のヴァプール、蜂蜜風味」は、残念ながら時季が過ぎていて、今回は食べることができませんでした。どんな料理かというと、エラと内臓を取り除いた岩魚を遠火で白焼きしてから燻製にかけて、最後に蜂蜜、白ワイン、ヨモギなどの香草各種を刻んで作ったストックを煮立たせ、その蒸気で蒸し焼き(ヴァプール)にするという、なんとも手間の掛かった料理だそうです。茹でた内臓を裏漉ししてからストックで溶いて醤油を一滴加えたソースを添えれば完成――燻してからストックで蒸すことで複雑な味わいを染み込ませた身を、内臓をベースにしたコクのあるソースにまぶして食べると、「初めて出会う味の調和に陶酔せずにはいられないはずです」とくまは話してくれました。筆者もまた来年、岩魚の美味しい時季に食べにこようとおもいます。
 ――おっと、そうこうしているうちにデザートがやってきました。今日の締めくくりは「あけび酒のゼリー」です。大吟醸に漬けたあけびで作ったゼリーは、あけびのとろりとした繊細でほのかな口当たりを、大吟醸のおなじく繊細にして豊かな風味が引き立ててくれます。鼻腔の奥にまで広がる自然の甘さは、コースの締めくくりとして最上の余韻をのこしていってくれます。
 食後のハーブティーを楽しんでいる頃にはもう、あなたもくまのレストランの常連客になっていることでしょう。献立はその日に用意できるもので決まるので、今日と明日でまったく違う料理が食べれるということも当たり前です。筆者も今秋初めにこのレストランを知ったばかりですが、これまで食べてきた料理をいくつかご紹介しましょう。
 「きのこのソテー、すだちソース添え」はバターでさっとソテーした本しめじや舞茸の旨味を、すだちソースの酸味が引き立てた前菜です。「カボチャの冷製テリーヌ」はカボチャの甘みとなめらかな口当たりが食欲をそそります。兎汁を洋風にアレンジしたという「兎の味噌仕立てポトフ」、弱火でじっくり火を通した猪ロース肉にムース仕立てのマロンを添えて頂く「牡丹ロースト、マロンムース添え」。「鹿のソテーと銀杏のリゾット、胡桃ソース添え」は焼いた鹿フィレ肉で銀杏のリゾットを包み、胡桃のソースをかけた一皿です。そして、さつま芋でつくったモンブランに小豆とカラメルのソースを添えた「さつま芋と小豆のモンブラン」――何度食べにきても飽きません。
 そうそう、最後にひとつだけ――くまが冬眠するメカニズムは、秋のうちにたくさん食べて冬眠している間に消費するエネルギーを蓄えることで冬眠中枢が刺激されると言われていますが、食べることよりも食べてもらうことが好きなくまの料理長には冬眠の習性がないそうです。ですが冬場は山も川も眠っていて食材の確保が難しいため、レストランは休業するとのこと――いまの時季を逃すと、来年の春までお預けです。この記事を読んで「くまのレストランに行きたくなった」という方は、どうぞお早めに。
『くまのレストラン』 橘内 潤

孤独の幻
伊勢 湊

 夕方の大地震で村から外へ出る道は塞がれてしまった。陽が完全に落ちて気温はどんどん下がってくる。それでも断続的に続く余震の危険を避けて村人達は小学校の分校の校庭で肩を寄り添わせている。そんなときなのに私の心配は別のところにあった。誰もが携帯電話を握り締めながらときどきダメと分かっていてもどこかへかけてみようとする。携帯電話は「しばらくお待ちください」の答えを返すだけ。たぶんどこかの局がやられているのだろう。私も携帯電話を握り締めてはいるけど、どこにかけたらいいか分からない。かけるところがなくてなんとなく「117」をかけてみるけれどやっぱり「しばらくお待ちください」と返ってくるだけだ。でも電話が復旧したとして、私はどこに電話をかけるというのだろう?

 若い頃からザックを背負い一眼レフを片手に世界を飛び回ってきた。それほどお金になったわけではなかったけど、それでも地球の中の知られざる場所へ足を踏み入れ、それをフィルムに収める仕事に私は満足していた。私の家は背負ったテントで、私の化粧は風に舞いまとわりつく砂漠の砂だった。閉鎖的な村に生まれた私のことを村人達は冒険家とか、かつての女傑になぞらえてジャンヌ・ダルクだなんて呼ぶ人もいた。その頃はたまに村に帰ってくるのが愉しかった。いまカメラを置き、テントをたてることもなくなり村にいる私を村人達は「じゃじゃ馬」とか「行き遅れ」と呼ぶ。三十になったばかりだけどこの村には私以外に二十五以上の未婚女性はいない。

 この先、私はどうやって生きていけばいいのだろうか? この村にいるのは辛い。でもこの村を出てもいまの私にはどこへ行けばいいのか分からない。一緒に世界を飛び回ったあの人は家庭的な奥さんと東京の新居に住んでいる。気持ちを伝えたことはなかったけど、いずれは一緒になると勝手に信じていた。ある日「恋に落ちてるんだ」とあの人に言われたとき、私は信頼しあう仕事仲間として「好きになったら逃がしちゃダメよ」と背中を叩いて励ました。そのあとで私は一人深酒をして、そして結局我慢できなくなり村に帰ってきた。

「おなか空いたよー」
 村の子供の一人がそう言った。それが始まりだった。子供達の中に泣き出すものが現れた。親達がスナック菓子やパンを与えたが、そういうものは残念ながらこの寒空の下では心の空腹を満たしはしない。大人達もおろおろしている。仕方ないだろう。そんなときに目の端で布の袋に入った筒状のものを手に腰の曲がった田所さんのおじいさんが立ち上がるのが見えた。娘の柴田さんとこの奥さんが「どうするつもりよ」と腕を掴んでいる。それはそうだ。これだけ余震が続くのに腰の曲がったじいさんが山に入るのは自殺行為だろう。私はゆっくりそこに近づいていった。
「私が行くわ」
 びっくりした親子が私を見ていた。
「なに言ってるの!」
 柴田の奥さんが叱るように言う。
「猟銃免許なら持ってるわ。経験もある。たぶんおじいちゃんの知らない動物だって撃ったわ。私なら猪一頭、二十分で仕留められる」
「馬鹿言うんじゃないの。余震で崖崩れでも起こしたらどうするの?」
 そうなのかもしれない。無理をして山に入るのは地盤が緩んで崖崩れの危険があるいまは得策ではないのかもしれない。それでも、いま私が怖いのはそんなことじゃない。たぶん、なによりも自分の不安を払拭するために、私は何かがしたかった。
「柴田さん、大きな鍋と味噌と野菜を準備してもらえるかしら? 大木さんとこには確かたくさん里芋がとれたって言ってたから分けてもらえるかも。あと私の家にキャンプ用の大きなバーナーが三つあるから妹の旦那の勝俊さんに言って取りに行ってもらいましょう。あと寒いから焚き火とかも出来るといいわ」
 どう答えたらいいか分からない柴田さんから視線をそらし田所のおじいさんを見つめる。強い視線で。おじいさんが目を閉じて小さく息を吸った。
「このじゃじゃ馬が」
「ありがとう」
 おじいさんの手から猟銃を受け取った。

 なにを考えているのだろう。冷静にそう思う自分がいて顔に笑みを浮かべる自分を見ている。いつ余震がきて崖崩れや地割れがくるか分からない山の中を猟銃片手に疾走する。それを愉しんでいる。野を走り世界を駆け巡るのを止めたとき、私の前にあった世界は冷たかった。旅先で知り合った人たちと肩を組んで撮った数え切れない写真の中にいま私が電話をかけられる人はいない。長く一緒に旅をしたあの人でさえも。気が付けば日常と呼ばれる世界で私は一人ぼっちだった。もしかしたらこれからもずっとそうなのかもしれない。それが私は怖い。
麓の校庭では子供達が泣いている。老人達が震えている。私は彼らのためを装いながら野を駆けることで自分を慰めている。いっそ全てが失われてしまえば私はここで生きていける。しっかりと地面を踏み同時にカモシカのように山を跳ね回る。足から伝わる感覚が地盤のしっかりした場所を私に教えてくれる。例え社会がなくなっても、私はここで生きていける。そう、ここは私の手の内だ。余震を感じ私は立ち止まる。危険を回避するためではない。これを待っていた。そうでなくてはいくらなんでも二十分で獲物を捕らえるなどと言えはしない。体ごと音のしたほうに銃を向け茂みの奥の影に弾丸を放った。

 縄で猪の両足を結わえ弾を抜いた銃に結びつけ肩に担ぐ。一歩一歩山を下るうちに私はさっきまでの興奮が引いていくのを感じていた。縄が肩に食い込む痛みを感じながら麓の人たちはそんな私の姿をどう見るのだろうと考え思わず歩みが遅くなる。立ち止まる。携帯電話を取り出して番号を押してみたくなるけど、やっぱりかける場所が見付からない。

「もうみんな情けないわね。寒いしお腹空いてきたんだからさっさと晩御飯作りましょう」
 猪を担ぐ私を見て言葉を失っている村人達にまたそんなことを言ってしまう。これじゃあじゃじゃ馬と呼ばれても仕方がない。私はみんなに背を向けて猪を捌き始めた。背後ではみんなで焚き火や鍋の準備がすすめられている。私だけが一人で猪を捌いていたら一人だけ田所のおじいさんが肉裂きを手に側に立っていた。
「ひとりじゃ時間かかってしかたねえ」
「ありがとう」
 私は顔を向けずにそう言った。なぜだか視界が涙で歪んでいて顔を上げられなかった。

 大きな鍋が火にかけられている。奥様達がわいわい言いながら切った大根や里芋や人参を鍋に放り込んでいく。その周りでさっきまで泣いていたはずの子供達が興味深げに鍋を覗き込んでいる。男達は校庭の真ん中で焚き火を始めていて、どこから持ってきたのかアルミホイルに包んだ大量の薩摩芋を炎に放り込んでいた。さっきまでの不安が支配する空間とは違い、場に暖かさが行き渡っていた。もしかしたら今日の猪汁は災害地での少し心温まる出来事として語られるかもしれない。でもそんな中でやっぱり私は一人、この先ずっと一人ぼっちなのかな、なんて考えながらぶつ切りにした猪の肉を鍋の中に放り込んでいく。
 しばらくしてぼんやり鍋を見つめる私の側で田所のおじいさんがいきなり鍋に手を突っ込んだ。おじいさんは田舎の子供がよくするように素早く肉の塊を口に運んだ。そしてじろりと私のほうを見て言った。
「おめえ、なかなかやるじゃねえか」
 焚き火の炎がそんな私達を、それでも暖かく照らしていた。
孤独の幻 伊勢 湊

立花聡

 私は以前から家族という存在に関して懐疑的であった。確かに両親の子供として生まれはしたがそれだけなのではなかろうか。血のつながりがなくとも、私たちは家族としてなりえたのか。この疑問は困難だった。紺碧の空にぽっかりと浮かんだ空のように、両親の養育が全くの無償ででればあるほど、白い疑問ははっきりと姿がうかがえる。両親は血というつながりをもとに生まれた私に投資し、遠い将来私が成人するとともに二人にその見返りを与えること、おそらくその他の健全な家族でなら当然のようにおこなわれるだろう行為が、実は有償的で無機質の見返りなのではないか、歪んだ私はいつしかそう考えるようになっていた。両親の目指した社会的地位、(実際父は私に弁護士になるように薦めた。当時すでに懐疑的であった私は、これまでの彼らの尽力を考えると拒否することなどできるはずもなく、法学にその進路を決めた)、それは明らかに彼らにとってのステイタスになり得ると思われたし、またその後の彼らの人生を保証するに充分に足る収入が得られたであろう。しかし二年目の夏私は、法学に飽きた。それは法学そのものに対する諦めよりも、将来の自分に対する嫌悪であった。すると、両親は私を強く止めた、その引き止めは私自身の将来に対する想いよりも、彼ら自身の安心に対した引き止めに感じたことは説明するまでもないであろう。こうして私は一度抱いた思いを徐々に膨らませていった。陳腐な比例式のように反発を感じるようになった。しかしどこかで、彼らを信じたい欲求があったことも否めない。つまり、私は彼らを疑いながら、彼らを信じたいという矛盾をはらんでいたこととなる。しかしその相反する感情は、私に家族の定義について深く考えさせる要因になったことは紛れもない事実であるし、無償の無垢の愛の存在をこの手で確かめたいと感じるに至らせたのだった。気が付くとそんな家族の理念を探っている自分を見つけ出す度、私は自身に対していい知れぬ寂寞感を感じているのであった。
 もしも私と両親の間に遺伝的なつながりが存在せずとも、生活をともにすることで家族となり得るか否か。生活で生まれる絆(私はそれを朧げな存在の極めて薄いものだと認識している。なぜなら絆という価値観には前提的に血というつながりあった上での観念だからだ。しかしここではおそらく絆という言葉が最も正しいものであると考えたい)が本当に左右しているのだろうか。それとも家族の幻想に私は翻弄されているだけなのか。ならば家族の幻想とは一体なんなのか。私が内包する切なる感情か、夢か理想か。やはり私はただそれらに憧れているのか。すると両親にそれらを見い出せない私は一体なんだ。どこかに決定的な欠損が存在するのではないか。それを作り出したのは、環境である両親なのではないか。するとやはり……。
 同じ道を回り続けた。右に寄ってみたり左に寄ってみたりすることは、それはじっれたさ以外のなにものでもなかった。

 その日、私は友人に会いに列車に乗った。一時四十五分発の各駅であったのを覚えている。
 秋風が遠慮なく通り抜ける様が車窓からうかがえた。葉を散らしだした木々は鋭い枝先をのぞかせ、遠い先に芽吹くだろう趣きのなさはこれから訪れる冬の到来を感じさせた。中天に浮かんだ日は均等に全てをうつし、その陽光は随分と白さを増したように思える。白さは寂し気であったし、行き交う人々の様子も導かれたかのように暗度を加え、それらが混ざりあう街並は、どこか鄙びたような印象に変わっている。そしてその様子は私の車内も同様であった。二月も前でなら、健康に焼けた素肌を晒した若い男女や、かたくなに白さを求める女、片手にハンカチを手にしたままさも自分の努力を顕示しようとする会社員が探そうとせずとも目に入ってきたのだが、今では誰もが体を厚い布で覆って、以前のような抜け目など微塵も感じさせぬほど、自らを守り他者を拒んでいるように見えた。
 それは私も同様であった。厚着をし、体を縮こませて目だけをぎょろぎょろとあたりを見渡し、なにかを探している。結局なにもそこにはないのだが、私がそれでも何かを探しているのは、元来の貧乏性のせいなのではいかと思っている。現状を打開することのできる劇的な状況がそのうち、私の目前に訪れるのではないかと思うのは、単なる私の妄想癖のせいかもしれなかったし、またそんな曖昧な根拠でしかないにも関わらず、私はそれを確信めいた必ず実現するような予知のように認識していた。それはどこか悲しい癖であると理解しているため、私はいつも芯まで妄想に身を浸すことができなかった。もしも任せるままに、その世界に陶酔することが可能であったなら、きっと私はこれほどの閉塞感を感じることもなく、静かな世界が一息に明るい春の面持ちに変わっているのかもしれないと考えることがあった。しかし、それもまた悲しい考えであった。
 私と対面する座席には若い家族が咲いていた。
 春のような若さと健全さが滲みだしていた。生まれたばかりの赤子を二人で見合っては、顔を合わせて微笑する。初々しく咲き誇る桜のような華やかさをともなった、家族だけに向けられた微笑。私は彼らの秘密を垣間みたような気になった。彼らのみに通じている言葉なき会話、それを盗み聞いた心地である。その秘密に私は目を伏せた。私は知らず知らずのうちに彼らの微笑に憧憬を抱いていた。しかしその憧れの代償は私の中に私と彼らの対比に起る苛立ちであることは明らかであった。私は彼らを嫉妬する資格すら持ち合わせてはいない。家族を信じずに身を保ち、意志を決定してきた男が、まばゆいかがやきを放つ家族の幸福(実際に存在するのかどうかは別として)に宗旨を変えることのおそろしさ。私の疑問は全くの杞憂であったと、私の心向き変わることはあってはならないと心はかたくなであった。
 私の視線は臥せられたままであった。足下に転がる珈琲缶を見た。飲み口の雫のような穴はそのまま奈落に続いているかのように黒く淀み、そしてまわりに広がっていた飲み残しの黒ずみは名残りのようにあやしく淀んでいた。からからと転がる度に穴は角度を変えるのだが、やはりそこは漆黒で冷たかった。そしてふいに停車したはずみで流れて行った缶は誰かの足下に帰着したのである。私はその先を見た。
 小さな赤い手である。母の胸に抱かれだらりと下がった赤子の手を見た。その握るでもなく、掴むでもない手。しかし確かにその手はかすかな湾曲を見せ、わずかな節の隆起がうかがえる。やはり握っているのか。べビーカーを操る父と子供を抱いた母。その赤子はかすかに何かを握ろうとしている。何をだ。単なる生理的な現象ではなく、意識すらはっきりと持ってはいないだろう子供の意志か。小さく、汚れなく、透明であった。純粋な透き通った泉水の底、美しく広がった緑の群を見通したような、新鮮な心地を私は感じた。
 これが生であると私は理解した。全く不思議なことであるが、ただこれだけのことで。この無垢な塊には己の全てをかけることのできるうつくしさがある。それだけだった。私の両親もそうであるかはわからない。しかし、かけるにあたうものを人は有している。
 私は数秒で真実を学んだ。夢の終わりと同じく、儚く突然であった。
 赤子の手、ただそれだけのことで。

綾田 周

 青白く光る月が、暗く渦巻く海を照らしていた。遠く近く。波の音が耳を支配する。昼とはまったく違う顔を見せる夜の海は、心を持っている生き物のように、蠢いていた。
「神秘的やのう」
「なんがや?」
「この感覚じゃ」
 晶子は呆れ顔で太一を見やった。彼は鋭角な岩の先に立っていた。すぐ足下には物凄い勢いでとぐろを巻く海が飛沫を上げている。
「人は満ち潮んとき生まれ、引き潮んとき死ぬんじゃと。神秘的な話やないか」
 言いながら不安定な足場でつま先を立てて伸びをする。
「子どもっぽいことしてからに」
「晶子もやってみぃ。これこそ本当の肝試しぞ。俺ん父ちゃんが教えてくれた遊びや」
 胸がちくりと痛んで、晶子は俯いた。
 太一の父、勇太郎はもういない。三年前の時化の日、帰らぬ人となった。 
 船でも腕利きとして知られ、男の強さを表す見事な体格はまさに海の男という感じであったし、大きな網を片手で手繰り寄せる彼の腕力は漁師仲間を唸らせるほどのものであった。どこをどう取っても、死とは結びつかない、生命力に溢れた人だった。
「奴なら海外の孤島に投げ出されても、きっと泳いでここへ戻ってくるよ」
 彼の仲間たちは笑っていた。
 しかしそんな彼が、慣れていたはずの海に命を奪われたのである。
「海で死ねたら本望」
 晶子ははっと顔を上げた。太一の横顔が笑っていた。
「漁師はなぁ、海と真剣勝負すんのが仕事や。父ちゃんは連勝やった。たまたまあの日、負けた。そんだけ」
 亡き父を語るその口調は実にさっぱりとしたものだった。
(あんときとは大違いやなぁ、太一)
 晶子の心に当時が蘇る。

 あの日―横たえられたまま、もう動かない父親を睨み付け、太一は歯を食いしばっていた。 晶子は太一のすぐ脇にいて、彼の左腕を抱きしめていた。
 晶子は怖かったのだ。身近な人の死を感じたのはこれが初めてだった。
 いつも「アキちゃんはええ子やね」と言って陽に焼けた大きな手で頭を撫でてくれていた小父さんが、今は冷たくなっている。
 晶子が好きだった赤身の強い大きな掌はゆるりと閉じられ、肌は驚くほど白かった。こんなのは小父さんではない。何かの間違いだ。
「晶子ちゃん、無理すんなぁ。一度家に帰って休んだがいい」
 晶子の顔色があまりにも悪かったからだろう。勇太郎の漁師仲間や町内会の人たちが晶子を気遣っていた。しかし晶子は首を振った。頑としてその場を動かなかった。一度抱きしめた太一の腕を絶対に放したくなかった。
 突然、晶子が胸に抱いていた太一の腕が震えた。弾かれたように顔を上げた晶子が見たのは太一の真っ赤に染まった顔だった。
「おのれ……」
 晶子は、太一は泣くのだと思った。唇が小刻みに震えていたからだ。しかし、彼は泣かなかった。それどころか、ひどく怒っているように見えた。
「どうするんか! 俺はどうしたらいいんか!? これで―」
 悲鳴のような声だった。何年も一緒に過ごしてきた太一が、初めて見せた姿だった。
「これで……俺は一人ぼっちや……」
 太一がぽつりと零した。
 その瞬間、晶子の目に涙が湧き上がってきた。心は冷水を浴びたように固まっているのに、顔だけは熱い。その感覚はひどく現実味が無いもので、これは夢ではないかとさえ思った。涙のせいで視界が潤んだからかもしれない。しかし先程から必死でしがみついている少年の腕が時々思い出したかのようにピクリと動くので、晶子は目の前にある悲劇を飲み下すしかなかった。

 よく考えれば久々だった。二人でこうして海を眺めるのは。
 あの日まではよく水に浸かってはしゃいでいた。服が濡れても気にしなかった。無邪気な子どもだったのかもしれない。
「なぁ」
 あの頃より少しだけ低くなった声が晶子を呼んだ。
「俺はなぁ、この町が好きや。この魚臭い小さな港町が」
「そうか」
 晶子は頷いた。
 今はよく見えないけれど、これが陽の下であったら、逞しい褐色の肌と不敵に笑う彼の顔がはっきり見えたことだろう。
 しかし、もう見納めなのである。
 晶子は胸を突かれるような心の痛みに顔を歪めた。そして夜が作り出す闇に感謝した。その顔をうまく隠してくれるからだ。
(この想いが彼に伝わることなく、どうか、朽ちていきますように……)
 静かな願いに応えるのは波の音だった。生まれてからずっと耳に馴染んできた心地よい音だ。それはいつも晶子に勇気を与えてくれた。
「太一、私なぁ……言わないかんことがあるんよ」
 頬に冷たいものを感じたが、それを拭うことはしなかった。平然を装いたかったのだ。
「私なぁ……結婚するんやって」
 太一の声が静かに響いた。
「前に言っとった見合い相手か?」
 そこで言葉は途切れた。海の音だけが二人を包んでいた。晶子は溢れてくる涙をどうにかして止めようと努力していたが、どうしても思い通りにならなかった。だからなるべく嗚咽を漏らさないように唇を噛んだ。そして唯ひたすら祈っていた。太一が近づいてきませんように。この涙に気づかれませんように。
 沈黙を破ったのは太一だった。
「おめでとさん」
 穏やかな声だった。晶子はしばらくその意味を反芻していたが、やがて、文字通りの意味だと受け取り、頷いた。
「ありがとう」
 そこで話は終わった。少なくとも晶子はそう思った。じゃあ、と太一に背を向けた瞬間だった。
「ひとつわからんことがあるんやが」
 声が聞こえて、後ろから彼が近づいてくる気配がした。急いで顔を拭おうとした晶子だったが遅かった。
「これは?」
 晶子の顔を覗き込んだ太一の指が頬に触れた。温かい感触に気が緩んで、晶子は鼻がつんと痛くなるのを感じた。止まりかけていた涙が再び流れ落ちる。それが太一の指を濡らすのが何よりも恥ずかしかった。本当は手を振り払って逃げ出したかった。しかし太一の目が、晶子をしっかり捕まえて離さなかった。
「どうして泣くん?」
「嫌や……見んどいて」
「嫌なら、逃げればいい」
 そこには普段は見せない鋭い目をした太一がいた。大人の顔だった。大人の男の顔だった。
「あの日も晶子は泣きよった。父ちゃんが死んだ日。こんな風に……」
 太一の指が涙の線を辿り、晶子の目元をそっと拭った。
「晶子は負けず嫌いやからなぁ、泣いとるときは動かんのじゃ」
 困ったように眉を下げた顔は、小さな子どもをあやしているようだった。
「どうして嫁に行くんか? この町は嫌いか?」
 晶子は首を振った。そんなはずがない。この町ほど愛せる場所はないと心から思っているのだから。それに太一がいる。小さい頃から見続けてきた大切な人がいる。
「じゃあ、わざわざ行かんでいい。来ればいい」
 太一の腕が晶子の背中を抱いた。きょとんと目を見張ったまま、晶子は彼の懐に倒れこんだ。
「晶子、俺んとこ来い」
 それで十分だった。
 あの日、必死に抱きしめていたこの腕。あの時は今より細くて、小さく震えていて、守らなくてはいけない存在だった。しかし晶子は、今、その腕にしっかり抱かれている。
 そこに太一の苦労を見た気がした。物心付く前には既に母をなくしていた少年が十六で父を失い、孤独と戦いながら、必死で生きてきたのだ。どんなに大変だっただろう。生半可の努力ではない。漁師として男として、彼は自分を鍛え上げたのだ。
 彼は何よりも力強く晶子を包んでくれるだろう。
 晶子は顔を埋め、目を閉じた。
 
 心地よい潮風がそっと二人を撫でていった。
腕 綾田 周

(本作品は掲載を終了しました)

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るるるぶ☆どっぐちゃん

 車窓から見下ろす景色の中に、ぽつんと取り残されたような感じの花畑を見つける。寂しげで良い感じである。絵を描こうと思った。スケッチブックは買ってあった。たくさん買ってあった。五冊も買った。それでもまだ足りない気がする。ご贈答用ですか、と店員の女の子は聞いた。そうです、とわたしは答えた。贈る相手はいない。だけれど嘘をついたつもりも無い。黄色と赤の美しいリボンに、スケッチブックは包まれた。
 電車を降りる。大きな噴水のある駅前広場には誰もいない。皆、どこに隠れているのだろうか、と思う。昔、人を殺したおんなとわたしは一緒に住んでいたことがある。おんなとわたしは隠れて生きた。それなりに長い年月を、わたし達は隠れて生きた。細々と入る金で暮らした。やたらに時間があった。二人で料理をした。壁の色を塗り替えた。楽器を弾いた。服を縫い、本をたくさん読んだ。金は無かったが、つらい思い出はあまりない。思い出すのは冬の日溜まりの中、二人で毛布にくるまり、窓辺でうつらうつら、そのようなことばかり。結局、おんなとは別れたが、彼女が捕まった、という話は聞かない。彼女はいまもまだどこかに隠れているのだろうか。
 道は一本しか無かった。わたしは歩き始める。噴水はきれい。とてもきれい。そして猛烈な勢いである。ばちゃばちゃと水音をたて、眩しいほどに太陽の光を反射して。丘に作られた住宅地は、コンクリートでだから灰色で、やたらに入り組んでいる。階段を登り、階段を下る。見かけた花園はどこにも見つからない。階段を登る。小さなスペースに、八つも自動販売機が並んでいる。しかもその中にはコカコーラボトリングのものが一つもない。コカコーラが飲みたかったのだが。八つもあるのに無いとはどういうことか。迷ったあげくにふつうにお茶を買い、階段に座り込む。
 花園は見つからない。知らぬ間に階段をずいぶん登っていた。遠くには海が見えた。ごてごてと入り組んだ住宅の壁の合間から、電車が走っていくのが見えた。空と海は薄い青色で、一つに混ざり合って見えて、その中を電車が進んで行くから、空へ向かって電車が飛び立っていくように思える。花園は見つからない。花園はどこにも見つからないのだ。わたしの脇を、老人がすり抜けていく。両手にコカコーラをたくさん抱えて、彼は階段を猛烈な勢いで駆け下りていく。人でも殺しかけない勢いである。実際殺しに行くんじゃあないかと思える。老人はわたしを横目で馬鹿にしたように見ていた。人を馬鹿にすると自分も人から馬鹿に思われる。わたしはおんなと別れて以来、どうも人のことが馬鹿にしか思えなくなっていた。だから馬鹿にされても何とも思えない。おいおい、こんなところにまで来てそんなくだらないお茶かよ、老人はそのような眼差しでわたしを見た。わたしは、ああ、確かにそうだぜ、と思い、だけどなあ、お茶だけじゃあないぞわたしが持っているのは、とも思い、スケッチブックを取り出そうとする。絵を描こうと思う。もう良いじゃないか。絵を描いてしまおう。わたしは全てを描きたいと思う。本当に。うまく描けるかどうかはあまり関係無かった。自分は自分が望むほど絵がうまくないのは解っていた。どうしても望むようには描けないのだ。とにかく描こうと思う。花園は見つからないのだから、描こうと思う。高台から望むこの景色を描こうと思う。くだらないね。くだらない景色だ。灰色で、花など一つもなく。わたしは全てを描こうと思う。お茶を飲み干し、ペンを取り出す。
 なにも見つからない。
 わたしは立ち上がり、階段を駆け下りる。
 五段飛ばし、猛烈な勢いで走る。がんがらがらがら。コカコーラの缶が大量に階段を落ちていく。わたしは老人を追い抜いていた。
「無くしたね」
 背後で老人がささやく。
「無くしたね」
「うるさい」
「あはははは、無くしたね」
「うるさい」
「あははははは、気の毒にね、あはははは。電車の中にだろう? 気の毒にねえ。本当に気の毒だ。スケッチブックが無ければ、絵は描けないからねえ」
「うるさい」
「あの電車の中だろう、無くしたのは。急いだ方が良いね。ほらほら、電車が行ってしまうよ。うふふふふふ、ほら、ほら」
 わたしは速度を速める。老人の笑い声は聞こえなくなる。
 階段を降りると、道は二手に分かれていた。急げばまだ間に合う気がする。子供が三人泣いていた。ほらほら君らも急いだら良い。今なら急げば間に合うのだよ。ほらほら急ぐんだ。
「急ぎなさい」
 大声で叫ぶ。
「急ぐんだ」
「うえーん」
 子供達はよりいっそう泣く。
「急ぐんだ」
 より大きな声で私は言う。
「うえーん」
 子供達は泣いてばかりいる。
 わたしは走る。子供につきあっている暇は無かった。道はとぎれとぎれであった。たくさんの行き止まりがあった。壁をたくさん乗り越えなければならないのだった。花園にはもうすぐ冬なのにたくさんの花が咲いていた。それらを踏み散らしながら、わたしは走る。
 坂を上りきったところで、わたしは足を止めた。
 海に着いてしまった。
 わたしは海に着いてしまった。
 はあはあ、ふう、はあ。はあ。
 静かな海だった。自分の荒い呼吸ばかりが耳につき、波音は全く聞こえない。
 海岸線を歩く。砂浜はどこまで続いていた。ぽつん、イーゼルが置いてあり、黒服の婦人が絵を描いていた。
「はあ、はあ、ふう、はあ、すいません。駅は、どちらの方でしょうか」
「まあ」
 婦人に話しかけると、彼女は少し驚いた表情でわたしを見て、その手を差し出した。
「花びら」
 わたしの頬についた花びらを、彼女は手に取った。
「ああ、さっき、なんか花をね、なんていうか、踏み散らしたもので」
「踏み散らしたの」
「ええ」
「まあ」
「ええと。あの。駅はどちらかご存じですか? ちょっと急いでいるもので」
「ずいぶん珍しい花びらね、これは。こんな色は見たこと無い」
「そうですね。でも大切なのは色彩じゃあないですよ。色彩なんていくらでもごまかせるのだから」
「珍しい赤。血の色ってこんな感じかしら」
「全然違いますよ」
 わたしは婦人の絵をのぞき込む。なかなかうまく描けていた。
「でもね、ここはこうした方が良いんじゃあ無いかな」
「どうするの?」
「こうですよ、こう」
「やってみて」
 わたしは絵の前に座り、筆を取る。
「うまいわねえ。ずっと良くなったわ」
「そんなこと無いですよ」
「ねえあなた、人を殺したことがある?」
「無いですよ。人殺しなんて、そんな、くだらない」
「ふうん、そう」
 わたしは描き続ける。海岸線の絵を、ただ描き続ける。海岸線を黒服のおんなが歩いていく絵を、描き続ける。黒はたくさんあったので、おんなの身体をたくさん表現出来た。おんなの身体にたくさんの黒を、わたしは塗る。塗り込む。塗り込む。
 気がつくと婦人はいなくなっていた。どこかへ行ってしまった。わたしは絵とともに海岸に残された。波の音を聴きながら絵を眺める。絵は、いつもの絵だった。海岸線も、おんなも、全て塗り込めてしまった。こんな絵しか、わたしには描けない。それでも絵をやめるつもりなど全く無かった。全てを描こうとわたしは思う。
 時間がずいぶん過ぎていた。もうすぐ始発電車の時間である。駅を探さないと。わたしは海岸線を離れる。駅はすぐに見つかった。たくさんの人が駅にいた。皆これから絵を描きに行くのだろうな、と思う。
12345 るるるぶ☆どっぐちゃん

鍵と扇風機と背の高い女
霜月 剣

 赤錆の浮いた外階段を登るミュールの音が、入り組んだ路地裏に甲高く響く。手すりの下を覗くと、手の届きそうな隣家の軒下に、不揃いな発泡スチロールに植えられた植物が、でたらめに茎を伸ばし、その脇で旧い二槽式の洗濯機がくぐもったモーター音を立てていた。
 バイクメーカーのエンブレムを表札代わりに、無造作に釘で打ち付けてある木製の薄っぺらな扉の前で、警戒するように左右を確認した背の高い女がドアノブを引く。男が声を裏返して電話をかけてきた通り、確かに鍵は掛かっていなかった。
 女がハンドバッグから合鍵を取り出して差し込み、慣れた手付きで癖のあるシリンダーを回転させる。カクン、と頼り無い音がした。
「はい、これでいいんでしょ」
 誰に聞かせるでもなく、女はひとりごちた。何が仕事よ。ゴルフじゃないの。盗まれて困るものなんてないはずなのに。
 土曜日だというのに早朝から電話で起こされた女は、不機嫌そうに一度締めた鍵を開けて、自分の口紅も下着も置いてある男のアパートへあがりこんだ。
 吸殻がビールの空き缶の中ですえた臭いを放ち、部屋に充満している。脱ぎ捨てられた下着やパジャマが奥の八畳間に散乱していた。ハンドバッグをベッドに放り投げて、カーテンとガラス窓を大きく開き、出しっ放しの扇風機に電源を入れて、心地よい秋風を部屋に取り込んだ。
「洗濯ぐらい、していってやるか」
 浴室脇の洗濯機に、目に見える範囲の衣類を放り込み、スイッチを入れる。お茶でも飲もうと湯を沸かし、シンクの引出しを見ると、いつものティーバッグがなくなっていた。軽くかかとを上げて戸袋に手を伸ばし、奥のほうに手を滑らせると、指先に固く冷たい感触があった。手に取って見ると、中途半端な大きさの、何かの鍵だった。机の引出しの鍵だろうか。ガス台の火を止め、軽い気持ちで机の引出しの鍵穴に差し込んだ。玄関の扉よりも確かな手ごたえがある。ゆっくりと手首をひねると重厚な音を立てて、鍵が開いた。
「なに、これ?」
 本物の手錠や、犬や、猫に使うものとは明らかに様子が違う首輪が、いくつも、飾るように、透明なケースに仕舞われていた。鋲が埋め込まれた蛇柄のものや、派手な持ち手と鎖が付いた首輪が、女の背筋に冷ややかなものを駆け抜けさせる。まさか、浮気? いや、そんな趣味がありそうな男の素振りは見たことがない。洗濯機は単調な機械音を繰り返している。うなじに嫌な汗が滲む。エナメル製の首輪に、女と同じイニシャルが刻印されているのが見えた。震えそうな手で、それをケースから取り出してみる。
 首輪と持ち手を繋ぐ鎖の音が、深い知識を持たない女にも、複雑な心理状態を予感させる。窓の外をうかがって、女は扉を締め切り、カーテンを隙間なく閉じた。
 太いベルトの留め具を外し、自分の首に軽く巻きつけてみる。ひやりとした感触が、首筋でぬめる。二の腕に鳥肌が立ち、こめかみを右から電流で貫かれた感覚を覚えた。冷たく硬い床を犬のように這う女の、首輪の先には、親しくもない職場の上司が持ち手を握り、手足の長い女を見下ろして薄ら笑いを浮かべていた。
 ブラウスの襟元から持ち手を差し入れてブラに固定し、手探りで首輪の留め具を締めると、性交のあとで男に抱きしめられる安堵に似た、甘美な感覚の萌芽が女の背中から始まった。
 男は夜まで帰って来ない。胸元にまがまがしくそそり立つ持ち手をカップの奥へ押し込み、直接乳首へ届かせた途端、延髄に衝撃が走り、女はその場にへたり込んだ。
 引出しの奥に手錠と鍵を見つけた女が、片側を左手に、もう片方を右の足首にはめ、不自然な姿勢で畳に横たわる。首を振る扇風機に首輪の持ち手を結い付けると、左右へ風向きが変わるたびに、優しくたわんだ鎖を手繰られているようで思わず、身体ごと、意識ごと、誘導されてしまいそうになる。女は胸をはだけ、未知の遊戯の想像を、目を閉じて遊んだ。
 指を動かさなくても、背中を丸めた窮屈な体位で、上司に貫かれるのを男に観察されていると思い描くだけで、不自由な四肢が疼き、意思と無関係に身体が冷たく凍えるような愉楽を感じてしまう。
 洗濯機が止まった。洗濯漕のわずかな水音が、かえって静寂を引き立てる。女は、自我を持たない無機物になってしまいそうな自分に酔いしれて、畳にほほを押しつけた。大腿をこすり付けあう。階下で叫び声が聞こえる。上司が女をことばでなじる。あと、もう少し。女がきつくまぶたを閉じる。叫び声が、大きくなり、うつろな女の聴覚を覚醒させた。外階段を駈け上がる無神経な足音が、女がひとりで吐息を漏らす部屋の前で止まり、ベニヤ板を連打するような安っぽい音に、男の名を叫ぶ深刻な声が混ざる。女は息を殺し、扇風機を止め、怒号が去るのを身体を固くして待ち続けた。
「おおい! 寝てるのか! 水漏れしてるんだよ!」
 脱衣所の方で、水が溢れる音がする。廊下の向こうに、水たまりが見えた。
「いるんだろ! 起きろよ! 水もれだよ!」
 畳に転がったまま手錠の鍵を探った。その手が鎖に引っ掛かり、派手に扇風機が倒れる。外からの呼び声に悪意がこもり、扉が強く蹴飛ばされた。ドアノブが乱暴に回されて、壊れそうにきしみ、女を容赦なく威嚇する。痺れてちからの入らない指で鍵をつまみ、左手の鍵穴に差し込んだ。鍵は冷たく、何の抵抗もなく、クルクルと空回りするばかりだった。
(うそ! 開かない!)
 右足の鍵穴も、非情な反応を返す。女の全身が、内股が、ぐっしょりと汗に濡れていた。手錠が、外れない。
「お、お、大家、いや警察呼ぶぞ!」
 扉ごと外れてしまいそうな悲鳴をドアノブがあげている。警察、ということばに女が激しく動揺する。家主の留守に忍び込み、拘束具で身体を固定した半裸の女が水漏れも気にせず扇風機とたわむれていた。そんな現場をおさえられるなんて、考えられない。強盗に襲われたことにすればいい? いや、かえって事態は悪くなるだけだ。とにかく、水を止めに行かなければ。何度目かの試みでようやく起き上がり、前屈運動のような姿勢で、扇風機を脇に抱えた。
「返事ぐらいしろよ、いるのは判ってんだから」
 外からの声がひとり増えた。どうしたんですか、大家さん呼んで来ましょうか? すいません、お願いします。そのやりとりのあいだもノックは続いていた。女が扇風機を抱えて一歩踏み出すと、後ろから何かに引っ張られた。叫びそうになるのを無理矢理押し殺す。振り返るとコンセントが刺さったままだった。
 外階段を駆け上がる複数の足音が聞こえる。もう間に合わない。そばのふすまを開けると、女一人が潜めそうな空間があった。扇風機をそのままに、鎖が伸びたまま、隙間へ身体を潜り込ませた。玄関が開く。三人の男たちが不躾に部屋に上がりこんでくる。
「大家さん、洗濯機ですよ、原因は」
 ふすまの隙間から、女が部屋の様子を窺っていた。大家らしい初老の男が、倒れた扇風機をいぶかしげに見ている。扇風機を引き起こそうとしたのか、ぐいっと鎖が緊張した。首輪を引き寄せられた瞬間、女の呼吸が止まり、閉じた太腿に汗とは違う湿り気が溢れた。
 水平に張った鎖が、ふすまをほんの数センチ滑らせる。女の足元に細い光が差し込んだ。初老の男は、なにもなかったように静かにふすまを閉じて、こちらにも雑巾ひとつ放ってくださいと、男たちに声を掛けた。
鍵と扇風機と背の高い女 霜月 剣

静かな樹のある部屋で
中川きよみ

 ボストンバッグ一つだけをぶら下げて、ヒロはあたかも夜逃げを昼間に決行しているような雰囲気だった。
「今日から住みたいんです。できるだけ格安物件を。」
 分厚い瓶底眼鏡をかけたおじいさんの不動産屋は、少し驚いたようにヒロを見上げてからニッコリ笑った。
「昨夜、ちょうど良い物件が入ったところです。」

 細くて長い石段を上がると、途中には水平に交差する小路がいくつかあった。いったいどこまで続く石段なのか、その先はまだ続いていたけれど、不動産屋のおじいさんはいくつめかの小路に入った。ヒロはボストンバッグをひきずるようにして黙って後をついて行く。
「ここですよ。」
 それは築30年くらいの小さくてオンボロの2階建てアパートだった。ものすごく地味で完全に周囲の風景と同化してしまっているので、ヒロはここに住むことになっても一旦外出したら最後、再びこのアパートを見分けて帰り着くことなどできないような気がした。
 長い石段ですっかりくたびれて、おじいさんの後からよろめきながら2階の角部屋に上がる。
「あ、」
 狭くて薄暗い外階段を上がる途中で、ヒロは小さなミドリガメを拾った。俯いていたので階段をのぼることも降りることもできずに困っているカメに気付いて、掌に乗せてやったのだ。
 おじいさんが古い扉を開けると、そこは手狭なキッチンがついた八畳一間の部屋だった。どうということもない間取りだが、どういう具合か部屋のど真ん中にとても邪魔な柱があった。
 それは見事な天然木の一本柱で、濃い茶色の表面は年月を経てすべすべしていたし、30cmはあろうかという太さだった。
 ヒロは一目で魅了されてしまった。ヒロの掌でカメも脆弱な首をいっぱいまで伸ばして、どうやらその柱の虜になっているようだった。この部屋に住もうと、一瞬で決意を固めた。
「大黒柱という訳でもなし、構造的には要らないモンらしいんですが、どういう次第でかあるんですわ。」
 おじいさんは困ったように言って、元々廉価な家賃をさらに5千円引くと提案してきた。それで、決まった。

 ヒロはカメに「ハシラ」という名前を付け、柱には「カメ」という名前を付けた。ややこしいが、そのままよりは多少ヒネリがあるようで心が和む。
 ハシラはカメをとても気に入ったようで、水槽代わりの洗面器から器用に脱走してはカメの周りでフンをしまくった。
 ヒロはポケットに瓶ビールの王冠をいくつも忍ばせては、ハシラを連れて買い物に出た。そして迷いそうな辻に王冠をそっと置きながら長い石段を下って商店街へ行った。帰りは王冠を頼りに家路につく、少しだけ頭の良いヘンゼルとグレーテルだった。
 無事に家に帰り着くと、買ってきたばかりのヤカンで湯を沸かし、特売の不味いインスタントコーヒーをいれる。ガランとした部屋でカメにもたれかかりながらコーヒーをすすり、自分がここにいる現実についてじっくり考えようと努力した。
 そんな時は、決まってハシラがじっと見上げている。ヒロは、きっと自分がとても深刻で呆けた、不思議な表情をしているのだろうと思う。確かに、深刻に考えようと努力しているにも関わらず、どこか感情の大きな機能が麻痺しているような感覚がする。涙や後悔が溢れないように、どこかに強烈な麻酔をかけているような感じだ。
 ヒロは溜息をついて、考えることを放棄する。ハシラは首をひっこめる。

 何週間か降ったり晴れたりのぐずついた天気だったのに、突然すっきりと晴れ上がったかと思ったら季節が変わっていた。ヒロは天気同様に突如、曇った硝子窓を掃除することを思い立った。窓硝子の掃除を自発的に行うだなんて、人生始まって以来初のことだと思うが、なぜだかこの時は掃除したくなったのだ。
 と言ってみても、ただ2枚のサッシ窓である。ものの20分で全てが終了した。お手軽な割にものすごく清々しかった。
 その夜は、ちょうど満月だった。夜更けには金色の月が窓の中央にのぼってきた。月光は埃を払った硝子を透かして、カメにやわらかく当たる。カーテンが揺れる度に、水の面のような金色の光の粒子も揺れ、カメの影が床に深く落ちていた。
 月の光を浴びたカメから、微かに水音が聞こえた。
 空耳ではない。太い柱の奥のほうで、ぴとん、ぴとん、と確かに滴の音がする。そっと耳をつけてみると、さぁさぁと流れる音もする。
 生きているのだ。
 ヒロは驚きつつ、両手を伸ばしてカメを抱きしめると心持ち暖かな気さえした。切り倒された木材ではなく、この樹の一番下はいまも大地に根を張り、水を吸って生きている。
 とても穏やかな気持ちになって、その夜はカメにもたれて眠った。久しぶりにぐっすり眠った。

 翌朝起きると、カメに、白い花が咲いた。それはそれは美しい花だった。
 驚いたように首を伸ばして花を見守るハシラの甲羅にも、なんとよく似た白い花の模様が浮かんでいた。
 昨夜までは確かにつるつるだった筈のカメの一体どこにつぼみがあったものか、可憐な白い花がコケのようにカメから直接咲いている。あまりにも美しい花だったので、じっと見入っている内に夕方が訪れて、白い花はひとつまたひとつ枯れ散ってしまった。
 最後の一輪が散り終わるのを見届けて、それからハシラの甲羅の模様もまた濃い緑色の中に完全に沈んでしまったのを確認してから、ヒロはハシラを連れて散歩に出た。
 長い石段の下界には、特に変化はなかった。コンビニで牛乳を買って帰る。アパートの入り口まで戻ってから、ヒロはふと郵便受けが各種チラシでいっぱいになっていることに気付いた。仕方がないのでコンビニのビニール袋から牛乳を出してゴミ袋代わりに詰め込んでいった。そしてたくさんのチラシに紛れて、それが見慣れた文字の書いてある絵葉書であることを発見して慌てて拾い上げた。
 エアメールの葉書は、なんと健介が英国から出したものだった。
 いったいいつ届いたのだろう? 第一、どうやってここの住所を知ったのだろう?
 カメに咲いた白い花を思わせるような、とりどりの花が咲いた庭の写真の絵葉書だった。宛先の隣に、意外に几帳面な健介の字が並んでいた。
『お元気ですか? 少し落ち着きましたか? 身体に気を付けて暮らして下さい。』
 「考える人」にそっくりの困った表情で散々考えて、結局これだけしか書けなかった、健介の姿と彼の思考の流れが鮮明に浮かんだ。
 ふいに麻痺が切れたかのようだった。ヒロは不覚にもその場で泣いてしまった。めそめそではなく、わぁわぁと声をあげて、しゃくりあげて泣いてしまった。
 婚姻届を区役所に提出して、健介の転勤先の英国へ一緒に行く筈だった。直前になって、どうしてもいやになったのだ。ひとつの明確な理由に起因しているのではなくて、あまりにも短い時間に積み重なった変化を消化しきれずに出た拒絶反応だったのかもしれない。ごく簡単な書き置き1枚だけを残して誰にも何も告げずに、出てきたのだ。

 どれくらい泣き続けたのだろう。ヒロは息が出来ないくらい泣いて、ようやく泣き止むとハシラが居なくなっていた。部屋に戻ると、驚いたことにカメまで跡形もなく消えてしまっていた。

 ヒロは、カメがあった床に、健介からの絵葉書と、明日投函しようと思う新しい絵葉書を並べる。穏やかで絶妙なバランスだったものが次のステップを迎えたことを感じながら、ヒロは絵葉書に綴る言葉を考える。
静かな樹のある部屋で 中川きよみ

松茸狩り
ごんぱち

「爺さ、ん、本当に、行くのかい」
 地面に横たわったまま、邑治は目だけを雄視に向ける。
「大物の方が、狩りがいがあるだろう」
 雄視の声は、静かだった。
「いくらあんたが、凄腕の、松茸狩人、でも、もう歳だ……げほっ」
 一つ咳き込んで、邑治は首を起こす。
「あの碑樫のアニキだって、やられた、のに」
「……碑樫は未熟だった、それだけだ」
 準備を終えた雄視が、巨大な篭を担いで立ち上がった。
「晩飯は松茸ご飯だ。楽しみにしていろ」

 赤松の生えた斜面を、雄視は歩く。
 昼間だというのに日当たりは悪く、夜の鳥の声がする。
 雄視の足音は静かで、鳥達さえその気配に気付かない。
 ふと。
 雄視は足を止めた。
 地面に、円筒形のものが転がっていた。
 黄銅鉱の筒――薬莢だった。巨大な六〇口径「象撃ち」と称される弾丸のものだった。
「……銃で松茸が狩れるか」
 吐き捨てるように呟いて、雄視は篭を置く。
 そして、中から山刀を出した。
 刃渡り二メートル近い、肉太のチタン合金の『四二式斬松茸』は、牛馬の頭蓋すらも断つ。
 雄視は、それを軽々と肩に担いだ。初老の彼の腕に、さほど筋肉はない。だが、山刀は自身が意思を持っているように、静かに雄視の肩に収まった。

 三〇分ほど歩いたところで、雄視はまた足を止めた。
 山刀を担いだまま、膝を突いて落ちているものを拾い上げる。
 ちぎられた布片だった。
 雄視は布片に鼻を近付ける。
「……近い」
 二〇度を越える急斜面で、雄視は山刀を肩に担いだ肩上段の構えのままたたずむ。
 鳥の声が静まった。
 静寂が訪れる。
 聞こえるのは、雄視の呼吸音だけ。
 雄視は周囲に視線を這わせる。
 すぅ……はぁ……すぅ……はぁ……。
 呼吸音に合わせて、雄視の背後で地面が盛り上がる。
 雄視は振り向かず、周囲を警戒している。
 地面の盛り上がりは、呼吸に隠れている。ゆっくり、じっくりと、盛り上がってくる。
 雄視はゆっくりと歩く。
 それを追い、盛り上がりは大きくなり、近付いて来る。
 そして、ついに。
 人間の背丈程もある、巨大な松茸が姿を現すなり、雄視の背後から襲い掛かった。

 触手のように動く無数の錐のような菌糸が、雄視に迫る。
 瞬間。
 雄視は振り向きざまに担いでいた山刀を振り下ろす。
「その香りで、不意を打てると思ったか!」
 雷撃にも匹敵する程の高速の斬撃に、近付いていた菌糸が粉砕された。勢いの乗った山刀は、松茸の胴体にめり込み、そのまま断とうとする。
 しかし。
 ガキッ!
 派手な音を立てて山刀が止まる。
「!」
 雄視は山刀を引き抜き、担ぎ直しながら、跳び下がる。
 松茸の菌糸が雄視の額をえぐって通り抜けて行った。
 続いて、雄視のこめかみに菌糸が迫る。
 雄視はそれをのけぞってかわす。
 だが、背後真下からも、菌糸が迫っていた。
「っ!」
 雄視はのけぞりながら山刀を背後の地面に付き、そのまま後ろに一回転する。
 着地した急斜面で滑りながら、雄視は態勢を整え間合いを取る。
「なるほど、立派な松茸だ」
 松茸は新たな菌糸を出し、警戒体制に入る。
 太く大きい松茸は、雄視の四倍はある。
 間合いを詰め睨み合う雄視と松茸。
 松茸は雄視に斬られた傷口から黒い塊を吐き出した。
 雄視の山刀で真っ二つにされた、大型拳銃だった。
「狩人か、旅行者か――」
 僅かに雄視の眉が動く。
 拳銃に続いて、一振りの刀が吐き出された。雄視の山刀と同型で、遥かに新しい刀。
「……碑樫」
 雄視は一歩前に踏み出した。
 山刀を再び肩上段に構える。というより、この重たい刀を、これより他に構える方法はない。
 松茸は間合いを取って、雄視の様子を伺っている。菌糸がゆったり空間を探る姿は、舞を舞っているようでもあった。
 生産性と商品価値を上げるため、少々遺伝子組換がされた松茸は生存本能が極めて強い。
 雄視が間合いを詰めれば引き、引けば詰める。
 長引けば、高齢の雄視の不利は確実だった。
 いや既に。
 雄視の顔は赤みを次第に減らしていた。額から、脂汗が滲み出ていた。
 呼吸が荒く爪の色が赤黒く染まりつつある。
 松茸は軽く傘を揺らす。霞のような胞子の雲が立つ。
 食用である松茸の胞子は、もちろん毒ではない。だが――いや、毒ではないが故に、気管に抵抗なく侵入、付着し、酸素の吸収を妨げていく。気付いた時には、肺胞がうっすらと覆い尽され、数日貧血状態が続く。
 故に、松茸狩りに使われる山刀は極限まで大きく、十七ある対松茸戦術流派は些末は違えど全て二の太刀要らずの一撃必殺を金科玉条とする。一撃を外した時点で、既にして雄視は負けていた。逃げるべき戦いであった。
 しかし。
「碑樫……」
 酸欠でかすれる目を見開き、雄視は松茸を見つめる。霧のように立ちこめる胞子は、実際の視界も奪っている。これほど濃い胞子に包まれた中で松茸と対峙し、生き残った松茸狩人の話は聞かない。
 松茸は菌糸を伸ばし、空気の振動、温度、湿度、その他様々なものから、雄視の様子を掴んでいる。まるで、モルモットを見る研究者のように、静かに冷徹に。
 そして松茸が。
 雄視を。
 喰える、と、判断した。
 瞬間。
 全方向から、菌糸が襲い掛かる。
「だあああああっ!」
 同時に、雄視は思い切り踏み込んで、山刀を振り下ろす。
 斬撃に巻き込まれた菌糸は粉砕される。
 が、全方位から襲い来る菌糸を全て切る事は出来ない。そして心臓をえぐられる前に二撃目を振り下ろすには、山刀はあまりに重すぎる。
 いや、それどころか、既に雄視の握力は限界を越えたのか、山刀が手からすっぽ抜けた。

 雄視の身体中に菌糸がめり込む。

 すっぽ抜けた山刀は――。

 菌糸が皮膚から肉へ。

 回転しながら――。

 肉から内臓……。

 先に松茸が吐き出した刀にぶつかった。
 ガチッ!!!
 激しい火花が飛ぶ。
 刹那。
 火花が巨大な火球に膨れ上がった。
 否、火の球は膨れ上がりつつある。それもほんの一瞬の間に。
 轟音と共に、松茸は火に包まれた。

「雄視爺さんは、本当に行ったのか、邑治?」
 邑治に、町の若者たちが尋ねる。
「ああ。そんなに行きたいなら、俺を倒してから、って言ったら、倒された」
「だらしねえなぁ、ったく」
「今年の松茸は凶暴過ぎるぜ」
「一体何故なんだろうな?」
「去年人の味を覚えたからに決まってる」
「碑樫アニキだって喰われたんだろう、多分? 枯れるまで待つしかねえべ?」
「しかし、それを聞く松茸狩人もおるまい」
 その時、山の方から轟音が轟いた。

 周囲では、まだ小さな火がくすぶっている。
 胞子の粉塵爆発は、周囲を灼き尽くした。
 松茸も、横倒しになって、もう動かない。
「ザマ見やがれ」
 雄視も、地面に横たわったまま動けない。顔は火傷で真っ赤になっていた。
「仇討ちとは、ガラでも、な――げほっ、がはっ!」
 咳をすると、松茸の胞子が煙草の煙か何かのように肺から吹き出した。
「――いたぞ!」
「おおおおおおおいいい! じいさあああああん!」
「無事かあああ!」
 目を閉じようとした雄視に、邑治たちが駆け寄って来た。
「傷は浅いぞしっかり!」
 邑治に抱き起こされる。
「はぁ、はぁ……げほっ」
「爺さんが、やったのか?」
 松茸は、粉塵爆発で焼かれた後が、まだぶすぶす言っていた。
「碑樫に、助けられた」
 雄視は小さく笑う。
「すまんな、松茸ご飯の筈が、焼き松茸になってしまった」
 周囲を、焼き松茸の香りが包んでいた。
松茸狩り ごんぱち

耳をすませば・・・。
ミヤヒロ

耳をすましてみる。雨音が聞こえてくる。ポタポタと。これぐらいの雨の音は、心を和ませてくれる。その雨音とともに、聞こえてくる鈴虫の鳴き声は、もう夏が終わりなのだと教えてくれる。すると、突然テレビがつき、雨音も、鈴虫の鳴き声もかき消された。アキ子だ。
「おいっ!何勝手につけてんだよ。」
「だって、もうすぐドラマが始まるんだもん。」
いつものやり取りだ。僕は、何故かテレビを見るのが嫌いだった。一度、真剣にどうして好きになれないのか考えてみたが、自分でもよくわからなかった。ただ、観ていて一度も面白いと感じたことがないのは事実だった。こうして、アキ子がテレビを観ている時に、仕方なく見るぐらいしか、テレビを観ることはなかった。
「ねぇ。ねぇ。この役者カッコよくない。」
「そっか? 」
「うっそー。わかんないの? どこに目つけてるのよ! 」
「何処にでもいてるだろ? そのくらいなら。」
「じゃー、ここに連れてきてよ! ねぇー、早く! 」
「・・・・。」
相手にするのが疲れた。それにしても、テレビから流れてくる音は、どうしてこうも耳障りなのだろうか。

「雨、激しくなったね。」
アキ子が、窓の外を見ながら言った。窓の外を覗き込むと、さっきまでとはまるで違う世界が、目の前に広がっていた。アキ子は、テレビのチャンネルを代えている。バライティー番組、音楽番組、ニュース番組、様々な音が聞こえくる。しかし、外の雨音が大きくなってきたせいか、全く気にならなかった。天気予報やっているチャンネルで、アキ子は、手を止めた。
「台風23号だって。」
「台風が来てるのか・・。どうりで、さっきより風が強くなってるわけだ。」
「950ヘクトパスカルだって、大きいね。」
「大きいな。」
外の雨は、激しさを増し、さきほどより空の色は黒い。じっと、見つめていると、吸い込まれるのではないかと、ゾッとした。
「雨戸閉めちゃうね。」
「ああ。」
目の前には、鉄の壁が広がる。その鉄の壁に、激しく打ち付ける雨が、何故だかとても不安にさせた。

「なんだか、隔離されてるみたいだな。」
テレビに夢中のアキ子に、声をかけた。
「何言ってるのよ! 外に出ようと思えば、いつでも出れるのよ。」
アキ子は、呆れて見ている。そんな、アキ子の目を気にすることなく、僕は続けた。
「昔、戦争があった時代はこうして防空壕の中で、耳をすませて外の様子を伺ってたんだろうな。」
アキ子は、僕を無視してテレビ観ている。
「大変だったんだろうな、めちゃくちゃ恐かったんだろうな。外でさぁ、すごい音がしてるんだぜ。それが、遠くのほうで聞こえている間は、大丈夫だ、大丈夫だって自分に言い聞かせたり、近くに聞こえたら、あーあ、もうダメだとか思ったり。」
アキ子は天気予報をじっと見ている。その刹那、轟音が聞こえてきた。次の瞬間、一瞬にして部屋の電気が消えた。「キャッ」と小さく声を上げて、アキ子は僕に抱きついてきた。

暫く、沈黙が続いた。こんな、状況に耐えられないのか、アキ子が口を開いた。
「ねぇー、何か話してよ。黙ってたら恐いじゃない。」
「・・・。」
「ねぇー、聞いてるの? 」
僕は、考えていた。戦争があった時代のことを。戦争というものを、僕は知らない。学校で教えられた事、テレビで流れている昔の映像ぐらいでしか、わからない。アメリカがイラクに攻め入っている映像を観ても、どこか本当に起こっているのだろうかという、気持ちがあり、実感が湧かなかった。実際に、体験したならどんな風に感じるのだろうか。恐かっただろうとか、苦しかっただろうとか、そんな程度の想像しか出来ない自分が、とても滑稽に思え、そして、空しく思えた。

ふと、アキ子がガタガタと震えているのに、気がついた。
「何だ、お前カミナリ苦手だったんだ。」
「うるさいなぁ。いいじゃない苦手でも。」
僕の笑い声が、部屋の中に響く。少し気持ちが和らいだ。僕は、こんなアキ子がとてもかわいらしく思え、そしてとても愛しく思え、ギュッと強く抱きしめた。
「どうしたの? 」
「・・・なんでもない。」
戦争時の人々は、多くの愛しい人の命が失われていくのを、どんな思いで見ていたのだろう。救いたいと願っても、救うことが出来ないと悟った時、どんな顔で嘆くのだろうか。

気がつくと、アキ子の寝息が聞こえてきた。安心したのか、眠ってしまったようだ。アキ子の寝息を聞いているうちに、僕も眠気が襲ってき、ウトウトと眠ってしまった。

雨戸のすき間から、日差しが流れ込む。その、日差しで僕は目を覚ました。アキ子は、まだ眠っている。眠っているアキ子を、起こさないように、そっと立ち上がり雨戸を開けた。部屋の暗闇は消え、朝の日差しで満たされた。窓から顔を出す。木々の葉の雫が日差しを反射し、僕の目に飛び込んでくる。大きく深呼吸する。少し肌寒い風が通りぬける。もう、秋なのだと感じた。耳をすましてみる。朝を待ち望んでいた、鳥達の鳴き声、そして、幸せそうに眠るアキ子の寝息が聞こえてきた。
耳をすませば・・・。 ミヤヒロ

男の考え女の思い
のぼりん

 則子は味噌汁に入れるねぎを刻みながら、男は単純だ、と考えている。例えば今、この味噌汁の中に雑きんの絞り汁を入れることも、あるいは毒を入れることも彼女の意のままである。
 わがまま勝手で、傲慢で……そういう夫の振る舞いがこの家の中で許されているのが誰のおかげなのか、自分が誰に人生をコントロールされているのか、少しも気がついていない。
 そう思うと、夫がなぜ朝はトーストとコーヒーだけで済ませてくれないのか、という不満も少しは薄れる。毎朝トーストに味噌汁なんて奇妙すぎる。味噌汁を作る手間よりも、則子は、夫、菅野のそういう嗜好が嫌なのである。
「刑事って仕事はどうしても外食が多いからな」
 菅野の口癖はいつもこうだ。その外食をとることすらままならない妻の立場を考えたことはない。なぜ、女を家に縛り付けようとするのか、それが男の甲斐性だと思い込んでいる勝手さにうんざりする。
 トーストを頬張りながら新聞を広げている夫の目の前に、則子は味噌汁の椀を音をたてて置いた。菅野は新聞から少しも目を離さずに、椀を持ち上げて口に運ぶ。ひとつに集中すると、わき目を振ることも出来ないのだ。
 則子の朝はブラックコーヒーだけである。テーブルの向かいでカップを手にしながら、新聞紙の向こうにある菅野の顔をそっと窺ってみる。どうしても聞いておきたいことがある。
「今晩も帰りが遅いのかしら?」
「ああ、今日は張り込み番だからね」
 気の無い返事である。まるで、新聞と話をしているようだ、と則子は思った。
 男がウソをつくときは、たいがい仕事にかこつけてする。表情が読めないのでは、その言葉がウソである可能性だって否定できない。
「張り込みって、どこで?」
 菅野は答えない。
 その態度に悪意があるわけではない。ただ真剣に人の言うことを聞いていないのだ。
 男の脳梁は、女のそれに比べてずっと細く、未発達だそうである。女は逆だ。だから、常に右脳と左脳をフル回転で使用できる。ひとつの事に捕らわれず、同時にいくつもの物事を考え処理する。
 男はどこまでも動物に近い。集中していると、まったく周りが見えなくなる。つまり単純なのである。
 しばらくして、やっと菅野は新聞を目の前から下げた。
「○○街の駅前だ。君も知っているだろうが、連続婦女暴行殺人事件の犯人を張り込んでいる」
「新聞で読んだわ」
 どうやらウソではないらしい。
「浮気でもしているのかと疑ってるんじゃないんだろうな」
 馬鹿な冗談。笑う気にもならない。
 菅野はまんざらでもないような顔つきで則子をじっと見ていたが、すぐに真顔になった。ずるずると音をたてて味噌汁をすすってしまうと、新聞を横にたたんで身を乗り出した。
「最近始めたという護身術の道場通い、今日はやめておけ」
「どういうこと?」
「あの道場は現場から近すぎる。今度の事件の犯人はとんでもないサイコ野郎だ。奴の犠牲者はすでに八人。そのどれもが暴行の後で、両手両足の指、耳、鼻などを丁寧に切り取り、さらに局部まで抉り取るという無残さだ」
「やめてよ、朝からそんな話は…」
 則子は両手で耳を塞いだ。
「聞けよ」
 菅野は容赦無い。事実をちゃんと教えてやる事が彼女の身を守ることだと思っているのだろう。
「犯行現場は今でこそ集中しているが、いつどこへ飛び火するのかわからん」
「一週間に一度の楽しみよ」
 ただをこねる子供のようである。
「だめだ、今日は家にいろ」
「あなたはなぜ私を家に縛り付けようとするの。私だって、日中は時間を見つけてパートに出てみたいとも考えている。少しは余ったお金で、指輪やイヤリングを買ってみたいと思うわ。あなたは、私に一度もそんなものを買ってくれないのよ」
「おいおい、それは今は関係ない話だろう。それに分不相応な家を建ててしまったんだ。それが君の望みだったはずだし、少し位の節約で文句をいうなよ」
「だから、昼間にパートに出るぐらいはいいじゃない、と言っているのよ」

 仕方ないかもしれないな、と菅野は考えている。二人には子供もいなし、妻を家に縛り付ける理由はまったくないのだ。
 菅野は則子がずっと前から言い続けていた日中のパートの件は、すでに許してやる気分になっていた。男とはかくあるべし、という古風な家柄に育った彼は、妻を外で働かせることなど考えもしなかったのである。だが今はそういう時代ではない。
 しかし今日の外出ばかりはどうしても許せなかった。もちろん、妻の身の危険も大きな理由だが、実は、今日のおとり捜査で菅野は女装しなければならないのだ。道場に通う則子に、女装のまま出会ってしまう可能性だってある。結婚以来、厳格な夫を演じつづけていた菅野がそんな姿を妻に見せられるはずはないではないか。
「とにかく今日は外に出るな。体を鍛えたいのなら、最近君が通販で買ったベンチプレスやサンドバッグが家にあるじゃないか。だいたい、そんな器具ばかり買って、日ごろ贅沢していないとは言わせないぞ」
 一気に捲し立てた後で、言い過ぎた、とすぐに思った。彼女がこのごろ妙に体を鍛えているのは、外の世界に出て行きたい苛立ちが原因だとわかっていたからである。
「殺人鬼なんか少しも恐くないわ。なんのために護身術をならっているのよ」
「馬鹿! 君が9人目の犠牲者になるかもしれないんだぞ」
 則子の常識知らずの言葉に、菅野は大声を出さざるを得なかった。いくら護身術を身につけているとはいえ、しょせん女性の力。凶器を手にして向かってくるサイコ野郎にかなうはずがない。
 例えば、護身術では「金的蹴り」を、必ずもっとも有効な業のように教える。ところが、互いに興奮し、気が動転している現場で、的確に狙い蹴りができるはずはないのである。逆に相手を激昂させ、助かる命も助からなくなることだってある。だが、それを説明したとしても、則子がすんなり理解できるとは思えない。
「とにかく俺のいうことを聞け」
 次の言葉が容易に見つからない菅野は、思わず、拳を力いっぱい振り下ろしていた。則子はテーブルに突っ伏して声を上げて泣き出した。
 最後はいつもこうだ。
 菅野は、背中で震える妻をにがにがしくにらんだ。結局、女という奴は理性じゃない。感情が、どうしようもないほどすべてを支配しているのだ。

 家を出ていく菅野の気配を、テーブルにうつぶせたまま確認すると、則子は何事も無かったような顔をして立ち上がった。
 あの場では泣くより仕方なかった、だからそうしただけのことである。女は悲しみや悔しさに関係なく「泣く」ことを自在に操れる能力があるのを男は知らない。
 顔を洗って服を着替え、ガレージに吊るしたサンドバックの前に立った。二三度、蹴りを入れてみる。いい音だ。調子のいい時でなければこんな音はでない。
 則子は夫のつまらない説教に従うつもりなどないし、何があっても外出するつもりでいる。もちろん、菅野のいる街とは反対の方向だ。
 それにしても男の思考回路の単純さにはあきれる。猟奇殺人の犯人といえば、サイコ野郎だという思い込みがある限り、いつまでたってもこの犯罪を止めることはできないだろう。
 則子には、菅野に黙っている秘密がある。鏡台の小物入れの中に隠した、彼女には不似合いな八個の指輪のこと。今さっきねぎを刻んだ包丁を手の中で巧みに操りながら、すでに彼女は今日の得物のことを考えているのである。
男の考え女の思い のぼりん

虫歯、左奥歯
村松 木耳

 歯医者なんて子供の頃以来だ。脈打つような痛みが私の左奥歯を襲ったのは、終業時刻間際のことだった。
 「なぜ、こんなになるまで放っておいたの。」
 いてもたってもいられずに会社近くの歯医者に飛び込み、医師からお叱りを受けた。そんなことを言われても、今日までぴくりとも痛まなかったのだからしょうがない。少しの治療の後、痛み止めの薬をもらって帰路についた。 
 「ただいま。」
 一人暮らしのはずの私を出迎えた彼とは、そろそろ3年の付き合いになる。彼は付き合い始めた当初から私のマンションによく来ていたのだが、2年目の記念日に合鍵を渡して以来、同じ布団で眠らなかった夜はない。私はコートを脱ぎ捨てて、ベッドに腰掛けた彼に寄り添うようにごろりと寝そべった。
 「まいった。虫歯だよ。歯医者に通う暇なんて作れるかなぁ。」
 先程よりはかなりましになったものの、いまだ不安定な鈍痛を放つ左奥歯を舌でなぞる。セメントで仮蓋された部分はざりざりとしていて、薬品くさい空気が鼻を抜けた。
 この分じゃ夕飯は歯ごたえのあるものは無理だな。そろそろ寒くなってきたし、湯豆腐、そうだそれがいい。土鍋、昆布だし、湯気、ポン酢。想像すると急に空腹を感じてしまい、お腹の虫が大きく鳴った。寝そべった状態から見上げる彼の肩が小さく笑う。なによ、と背中を小突くと、彼はどさりと私の隣に寝転んだ。
 左頬の鈍痛が少し強まってきたようだったので、おもむろにバッグをあさり、先程もらった痛み止めを飲み込んだ。隣には、彼の横顔。
 幸せだな。
 少し痛みが増した頬をさすりながら、そう思った。

 それからどのくらい歯医者に通っただろうか。思いのほかたくさんの虫歯が発見されてしまい、しかもそのうちの数本は神経の治療が必要と言われ、さらに仕事の合間を縫って予約を取るために、なかなか完治に至ることができなかった。
 「次回の来院でおしまいですよ。」
 そう医師から告げられたころには、ニュースで桜の開花予想が報じられる季節になっていた。ようやく歯医者通いからも開放される。安堵の気持ちで支払いをすませ、歯医者を後にし、自宅へ急いだ。
 早くご飯の支度をしないと。彼がお腹をすかせて待ってる。
 合鍵を渡した2年目の記念日。あれから彼は1日も欠くことなくずっと私のマンションにいる。会社に行く私を見送り、出迎え、ご飯を食べ、そして隣で眠る。
 「ただいま。」
 彼はベッドに座ったまま私を出迎えてくれた。届いていた郵便物をテーブルに落とし、ジャケットを脱ぎ捨てて彼の隣に寝そべる。見上げると、いつもと変わらない肩と腕がそこにある。
 「次で歯医者、終わりだってさ。長かったぁ。」
 彼の腕を取って私の頬に当てる。冷たくも暖かくもないその手は、もはやそこにあることが当たり前なものとなっていた。
 「今日のご飯はオムライスだから。すぐできるよ。」
 言いながらテーブルに手を伸ばして、ごろごろしながら郵便物に目を通す。電気料金の領収書、新築マンションの広告、ピザ屋のチラシ、そして、一通のエアメール。それはこの東京から遥か遠く離れた暑い国から送られてきた絵葉書だった。
 それが目に入った瞬間、体の機能が全部停止した。
 飛び起きて絵葉書を投げ捨て、彼にしがみついた。勢い余って彼もろともベッドに倒れこむ。そのまま彼を力の限り抱きしめ、何か言葉を待った。彼は何も言わなかった。
 「何か言ってよ。」
 彼は何も言わない。温度のないその体にしがみつき、お腹を思い切り殴ってやると、ぼむ、と鈍くてやるせない衝撃が握ったこぶしに響いた。
 奥歯をかみ締める。鈍く、痛む。

 2年目の記念日に大切な話がある、と言われれば、適齢期の私はひとつのことしか思い浮かばなかった。浮かれて、おめかしして、左手薬指の爪を特に念入りに磨いたりして予約されたレストランに行ったのに、なぜか彼は聞きなじみのない国の話を始めた。それはとても楽しくない話だったので、聞いているふりをして適当に頷いていた。
 数週間後、彼はいなくなった。

 元気ですか。こちらの生活も2年目を迎え、すっかり慣れてきました。一度も帰れなくてごめん。もう少ししたら必ず呼び寄せるから。だから、返事をください。

 いつも私の側にいてくれる彼は、絵葉書の中の彼がやって来ると消えてしまう。ふと、絵葉書から目を離してベッドを振り返ると、そこにはただの大きなぬいぐるみが転がっていた。彼に似ているとからかってはふざけていた、パンの頭のアニメヒーロー。その首には、渡すつもりだったこの部屋の合鍵がぶらさがっている。
 ひどく、奥歯が痛み出した。最初の歯医者でもらった痛み止めの薬が入っていた袋には、今は別の薬が入っていて、それを飲むととてもよく眠れる。キッチンで水を汲み、薬を1錠流し込む。
 クローゼットの奥から箱を取り出し、ふたを開けると、色とりどりの同じような絵葉書がたくさん入っている。そして、私はそのどれひとつにも返事を書いた記憶がない。今日届いた絵葉書にも、その返事が送られることはないだろう。中身が1枚増えた箱を、また奥深くにしまった。 
 それは、私が死なないためには存在してはならない絵葉書。けれど、私が生きていくためには絶対必要な絵葉書。
 
 ぬいぐるみの隣に寝転び、目を閉じる。自分がもう壊れていることはわかっていた。
 奥歯が痛くてどうしようもない。
 「なぜ、こんなになるまで放っておいたの。」
 つぶやいて、眠りに落ちた。寂しくはない。朝がくれば、私の隣にはいつもの彼が横たわっているはずだから。
虫歯、左奥歯 村松 木耳

ポンペイの棺
スナ2号

 かつてその街は、栄華と繁栄を極め、笑い声に満ち溢れていた。
 細やかな装飾を施した、大理石でできた建物。果物と酒が美味く、美女の多いその街を知らぬ者はなく、その街に立ち寄った者は、これより美しい街はないと言い、その街に暮らす者も、ここより素晴らしい街はないと信じていた。
 誰もがその日々が永遠のものであることを疑いはしなかった。
 が、全てのものは終わりを迎える。
 輝かしい栄光の歴史にも、終止符が打たれようとしていた。

 最後の時は、突然訪れた。
 それは、ある日の正午だった。
 大地は揺るぎ、火口が地獄のように口を開け、絶望を象徴するようなきのこ雲が空に高々とそびえた。
「ベスビオの神が、我々に裁きを下したのだ」
 ある者はそう叫んだ。
 突然降り注いだ災厄に、人々ができたのは逃げ惑うことだけだった。
 悲鳴が街を覆い、抗う術もなく、人々は一瞬のうちに、街を捨て、家を捨て、その地の繁栄の歴史を捨てる決意をしなくてはならなかった。
 しかし、中にはその選択すら叶わないものもいた。
「御主人、行かないでください! 置いて行かないでください! 私も共に連れて行ってください!」
 熱に焼かれながら、置き去りにされた犬が叫んだ。
 家人は、せめて彼に自由を与えてから行くべきだったが、恐怖と焦りが、彼の存在を記憶から抜け落ちさせた。
 犬は、主人の後を追おうともがいたが、頑丈な鎖をどうすることもできず、その場でぐるぐると回るしかなかった。
「御主人! 私を! 私も共に!」
 最愛の者に置いていかれたという衝撃が、熱波よりも激しく彼の胸を焼いた。
 これ以上ないほど忠実に、主人を愛してきた。家を守り、家人を守り、近隣の者にも評判の立つくらい、彼は彼の仕事をこなしてきたつもりだった。
 それなのに、主人は彼をこの場に置き去りにし、我が身のことのみを思ったまま行ってしまった。吼える自分に目もくれず、走り去っていく家人たちの背中を、彼は呆然と見送ったのだ。
 犬は、張り裂けんばかりに飼い主を呼んだ。
 飛び出すほど目を見開き、牙を剥き出しにして、人の姿が徐々に消えていく通りに吼え続けた。
 やがて吼え疲れた彼は、幾分心が冷え、やや冷静に、何とか絶望的な状況を改善すべく、辺りを見回した。
 彼の目が、庭の低い木の上に、動く物の存在を捕らえた。
 猫だった。
 黒い毛皮はつやがなく、すぐに野良猫だと分かった。
「猫め。置いて行かれた俺を嘲笑いに来たか」
 犬は思ったが、わざわざ楽しませてやる義理もないと、あえて気付かない風を装った。
 地震と、耳を劈く轟音は、ある程度収まったものの、激しく降り注ぐ砂礫と灰は、やむことはなかった。少し気を緩めるとあっという間に埋もれそうになる。
 猫はまだそこにいた。木の上で、時々積もる灰を振り落としながら、犬をじっと見つめている。
 その視線に耐え切れず、犬は猫に吼えた。
「貴様、何のつもりだ。動けない俺を眺めて、もう充分楽しんだ筈だ。消えろ。目障りだ」
 しかし、猫は動かなかった。
 金色の瞳で犬を見据えている。犬は、猫の様子に怒りを覚え、再び暴れ始めた。
「馬鹿にしやがって。降りて来い。その汚らしい毛皮を、引き裂いてくれる」
 殺意をこめて、ウオンと吼えると、流石に怖気づいたのか、猫は石塀の向こうへ姿を消した。
「ざまあみろ」
 しかし、一度沸き立ってしまった怒りは、収まることはなかった。
 犬は気が違ったように暴れ、熱くなった鎖を引きちぎろうとしたが叶わず、再び吼え猛った。
 今度は飼い主を呼ぶのでもなく、ただ、心に巣食う絶望と、やり場のない黒い怒りのままに、燃える空に向かって遠吼えた。
「何故だ! 俺が一体何をした。日々主人に尽くし生きてきただけの俺が、何故このような仕打ちを受けねばならぬ! 何故だ! 何故だ!!」
 いつの間にか、先の猫が、同じ場所に納まり、吼え狂う犬を見ていた。彼は、怒りの矛先を猫に向けた。
 今の惨めな立場も、苦しみも、全て猫のせいのような気がした。
「知っているぞ。俺はお前を知って入る。前にも何度もここへやって来た。俺は気にもとめなかったがな。繋がれた俺を、いつもニタニタ笑いながら、嘲っていた!」
 犬は渾身の力で吼えた。
「卑怯で、汚らわしい野良猫め! 俺はもう死ぬが、お前のその腐った喉笛を噛み砕いてやれぬことだけが、ただ無念だ!」
 猫は、微動だにせず、灰と礫に埋もれ行く犬を、静かに見ていた。
 さらに時が過ぎた。
 暴れ続けた犬は、大量の灰を吸い込み、虫の息で横たわっていた。
 最早吼えることすら叶わなかったが、灰の中、目だけがいまだ見開かれ、この世に対する憎悪と絶望を渦巻かせ、ぎらぎらと光を湛えていた。
 木の上から、猫がするりと地に降りた。
 猫は、積もった灰を踏みしめながら、一歩ずつ犬に近づいて行った。
「街は、終わる」
 猫が、口を開いた。
「一つの歴史が終わるということは、多くの命が失われるということ。それがたまたま今日この日であっただけ。悲しむことはない」
 呟くと、俯いた顔を、今度は犬へ向けた。
「私が貴方に初めて逢ったのは、二年前の冬です。貴方は全く憶えていないようだけれど」
 動かない犬に向かって、語りかける。
「私は、生まれたばかりの子猫だった。道端に捨てられ、ミルクも家もなく、死にかけた私は、あの夜、この庭に迷い込んだ」
「貴方は、なんの躊躇いもなく私を噛み殺すこともできた。しかし、そうしなかった」
 黄金の瞳が、愛おしそうに細められた。
「貴方は疲れきった私の体を舐め、その豊かな毛皮を、私のために一晩貸してくれた」
「次の日、貴方の飼い主は、私を溝に放り捨てたが、私は今日まで貴方を忘れたことはなかった。例え、その夜の気紛れだろうとも、暖かな寝床と、慈しみを与えてくれた貴方を」
 猫は、灰の積もった犬の顔に、頬を摺り寄せた。
 黒い毛皮が、白く染まった。
「貴方は、私を欠片も憶えていなかった。でも、そんなことは構わない。親を知らない私にとって、貴方はそれ以上のものだった。私の死に場所は、貴方の側以外にはありえない」
「もう一度、あの夜の幸せな夢をみられるのならば」
 心残りは、一つもありません。
 黄泉の国へ、お供しましょう。
 犬の耳に囁き、猫は、もう動けない犬の体に、そっと身を寄せた。
 不思議なことが起きた。それまで、犬の目にあった呪いの光が、すうと消え、質の違うものが現れた。
 とても安らかな光だった。
 それが、もう殆ど意識のないであろう犬の瞳に浮かんだのを最後、その目は永遠に閉じられた。
 灰が、とめどなく降り積もり、冷たさを持たない雪のように、音もなく二匹の体を覆い隠していった。

 こうして、わずかニ昼夜のうちに、かつて最も美しいと謳われた町は、砂礫の底に沈んだ。
 初めのうちこそ人々は嘆き悲しんだが、すぐにその街を忘れていった。
 その地が培ってきた歴史も、幾万の人々が築き上げてきた栄光も、噴火によって失われた大勢の人々も、その命の叫びも、やがて風化し儚く消えた。
 ただ、微かにそこに街があったという記憶だけが残り、何もない筈のその平地は、キヴィタ(街)と呼ばれた。
 そして、幾百重にも重積した灰の下で、街は長い長い眠りの中、再び呼び起こされるのをひたすら待った。
 親子のように寄り添った、二匹の化石が掘り出されるのも、それから千五百年後のことになる。
ポンペイの棺 スナ2号

王様と賢者
吉備国王

  王様と賢者     吉備国王
 強力な軍隊に支えられた王国がありました。この国のお妃が亡くなられて一年の年月が経ちました。王様は寂しがられて、家来に新しいお妃を探すように申しつけました。
 この王国は豊かな領地と強い兵隊を抱えた強国でした。そのため、周辺の国々は、この王様の動向に神経を尖らせていました。
 王様が家来に下した、お妃を探せよとの命令も、その日の内に周りの国々に伝わりました。
 その隣国の中に、若くて美しい姫君のいる小国がありました。その家臣は、隣の強国の軍隊が姫君を奪いに来るのではないかと警戒を強めました。
 しかし、姫君は、隣国の王様といえども武力で人の心を奪うほど愚かではない。王様は必ずや、賢い知恵者を使者として遣わすだろう。その使者を温かく迎え入れて上手に説得すれば、こちらの要望を受け入れるだろうと家臣を諭しました。
 一方、強国の王様も軍隊の武力行使の提言を退けられて、平和的に交渉するように提言した右大臣の助言を受け入れて、二人の賢者を城に呼び寄せました。
 王様は、二人の賢者を前にして申しました。隣国の姫君をお妃として貰い受けたいのだが生憎と仲も悪く、評判も悪い。そこで、姫君を上手に貰い受けるよい秘策はないだろうかと尋ねました。
 隣国の姫君をお妃として迎えることができれば、その報償として一生裕福に暮らせる金貨と領地を与えると申されました。
 その話を聞いていた賢者の一人が、王様の前に出て跪き、如何にも自信ありげに申しました。
 王様、私にお任せ下さい。姫君を必ずや連れてまいります。そこにいる男にもう相談されることはありません。そう言って、もう一人の賢者を指差しました。
 王様は、この自信ありげに話した賢者の顔をまじまじと眺めて申しました。
 まだ、そなた達の考えを聞いていないではないか、まず話を聞いてから決めるとする。
 すると、その賢者が笑って答えました。
 王様、この男が、この問題を解決することは、空にある月を手に入れるより難しいことです。私は、あらゆる知識と手段を行使してご要望を叶えさせて見せますと、自信ありげに申しました。
 王様も、この賢者の余りの熱意に押されてその考えを聞いてみることにしました。
 それでは、お前の考えを申しなさいと、王様が話を切り出すと、その賢者は恭しく一礼してからゆっくり口を開きました。
 王様、何事も事を成す時は常に秘密裏に成さねば成功しません。たとえ依頼された王様といえどもお教えすれば成就するどころか、失敗を招くことにもなります。ここは、私の考えをお聞きになるより、私を信頼してお任せ下さることが成功の秘訣だと訴えました。
 王様は、顎に手を当てて頷かれ、この賢者の言うことに一理あると思われました。
 それでは、そなたに任せるとしよう。これで隣国の姫君を間違いなくお妃として迎えられるのだなと、王様は、その賢者の顔をまじまじと見つめて念を押されました。
 すると、その賢者は、頭をゆっくり上げて姫君を連れて来ることを王様に約束しました。
 それから一カ月が経ち、二カ月が経ってもあの賢者は、姫君を連れてきませんでした。
 王様は激怒されて家臣を呼びつけ、あの賢者を城に連れてくるように命じました。家臣は、王様の指示に従って国中を探し廻りましたが、国の何処にもいませんでした。
 そこで、隣国に密偵を使わして調べました。すると、あの賢者は、隣国で優雅な生活をして暮らしていることがわかりました。
 王様に詳しく申し上げたところ、金貨をいくら払っても、あの賢者を連れてくるようにと厳しく申されました。そして、命の保証をするので帰国するようにと告げました。
 賢者も、姫君との約束を果たすために、その条件を受け入れて城に出向いてきました。
 賢者は、王様の前で跪いて恭しく顔を上げて申しました。
 王様、私は、お約束したことは何一つとして破っておりません。私は、姫君を連れて来ることを誓いましたが、何時までにお連れするとは一言も申していません。何時、お連れするかは、私、次第です。
 姫君は武力に屈服するより、戦って死を選ぶ方が好いと申されましたが、私は生き抜くことが国民のためであると説得しました。そして、美しい姫君のお役に立てるのであれば、何時死んでもよいと申しますと、姫の補佐役として、この国に留まるように言われました。幸い、王様に姫君を連れ帰る期日を約束しませんでしたので、何れの日にかに連れ帰ればよいだろうと思っていましたと、申し開きをしました。
 王様は、その賢者の話を黙って聞かれました。
 お前は、本当に何でも出来そうじゃ。さてどんな手段を困じて射止めるのかと、身を乗り出して尋ねました。
 すると、賢者は申しました。
 姫君から頂いた金貨はあります。しかし、城を持っておりません。お教えする代わりに城を一つ下さいませんかと申しました。
 王様は、財宝と領地は沢山あることだし、姫君を射止める知恵を聞きだすためには、城の一つ位は遣わしてもよいだろうと思われ申されました。
 賢者は、その王様の言葉に頷いてから一枚の紙を取り出し、此処に書かれていることをお守り下されば、姫君は間違いなくお輿入れ下さいます。後は、王様の決断しだいですと、姫君から依頼された書き物を手渡しました。
 その書き物には、隣国の姫君が書いた条件がぎっしり書き込まれていました。
 王様に厳しい条件が求められていたのです。
 一、姫君に領地の半分を与える。
 二、国の政治に姫君の意志を反映させる。
 三、姫君を警護する兵隊を認める。
 四、姫君の国との国境線を廃止する。
 王様は、姫君からの書き付けを読み終えても眼を放さず、じっと立ちすくんでいました。
 そして、厳しい眼差しに戻られて、これは隣国に我が国が吸収されるに等しいではないかと不満を申されました。
 賢者は、その王様の不満を聞いて淡々と述べました。
 王様、私は隣国の姫君をお妃として迎える手段をお教えしました。これを受けさえすれば隣国の姫君は嫁がれます。しかし、この条件を呑まなければ姫を娶ることは出来ません。
 私は、王様に約束したことをすべて教えしました。後は、王様が決断するだけです。
 王様は困り果てて、もう一人の賢者にやむ無く尋ねました。
 王様、ご安心下さい。我が国で一番の知恵者の賢い男が申すことですから間違いありません。王様さえ決断なされば解決します。
 私には、これ以上の名案は浮かび上がりませんと、先の賢者に会釈しました。先の賢者はお妃の話を聞かされた時から、王様の悩みを巧みに利用して富を得ようと考えていました。そして、隣国の姫君を取り込む秘策を企てていたのです。
 姫君も強い軍隊を持つ隣国の王様に脅えていましたので、その賢者の提案こそ解決策だと信じて飛びついてきました。
 一方、王様は財宝や領地を半分姫君に譲ったとしても、己の物ではないかと思われ、姫君の条件を受け入れることを決断しました。
 そして、王様は美しく聡明な隣国のお妃をお迎えになり、周りの国とも和解して末永く平和な日々を保ちました。