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3000字小説バトル

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3000字小説バトル
第48回バトル 作品

参加作品一覧

(2004年 12月)
文字数
1
鬱宮時間
2664
2
(本作品は掲載を終了しました)
ウーティスさん
3
のぼりん
2681
4
たかぼ
3000
5
吉備国王
2401
6
中川きよみ
3000
7
ごんぱち
3000
8
るるるぶ☆どっぐちゃん
3000
9
松田めぐみ
3000
10
伊勢 湊
3000
11
橘内 潤
2970
12
スナ2号
3000

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三つの未来と一人の僕
鬱宮時間

 昔、外の世界が怖くて怖くて、他人を避けて生活し、自分を傷つけたりしていた頃の話。毎週通っていた病院で、カウンセラーにこんな質問をされた。
「君は、近い将来の君自身を想像出来るかな?」
 僕は、自殺してこの世にはいないと思うので想像出来ません、と答えたかったが、それではお話にならないし、カウンセラーも困るだろうと思い、こう答えた。
「三つ想像出来ます。一つ目は、今のように、あるいは今以上に病は重くなり、部屋を出ずに外の世界をシャットアウトして生活をしている自分です。二つ目は、大好きな音楽を精一杯やっていて、練習に明け暮れる日々を送っている自分です。三つ目は、何も特徴がなく、ただ平凡に、無難に大学生になっていて、それなりに楽しい生活を送っている自分です。これは、一つ目から順に確率が高いと思っています」
 僕は要するに、ネガティブな自分、ポジティブな自分、その中間の自分を描いた。正直な話、なるのならば二つ目になりたかった。当時のようなひきこもり生活は嫌だし、ここまで世界が歪んでしまった僕が、三番目に答えたような普通の人物になんてなれる訳がないと思っていた。それに、音楽が好きだったし、僕がやっていたロックなんてジャンルだと、普通じゃない体験や性格から良い作品が生まれる。僕は、作った曲に全てをぶつけて何かを表現しようとしていた。当時の僕をバネに、全てを反転させたいと思っていた。今思えば、そんな才能はなかったし、世の中そんなに甘いものではなかったが。
 カウンセラーは、そうですか、と言って、無表情と笑顔の中間くらいの顔をした。白い壁の小部屋に夕日が申し訳なさそうに入ってきていた。それが僕とカウンセラーを包んでいた。17歳の春頃の話だったと思う。
 ちょうどその頃だった。薄暗い部屋の中、いつものように一番仲が良い友達が遊びに来ていた。彼は僕の事をすごく心配してくれていた。少しでも僕が他人との関係を維持するように、暇があっては学校帰りに来ていた。今思えば、よくもあんなに汚くて暗い部屋に頻繁に来てくれていたと思う。まあ、僕自身は彼が来ている時は平然を装っていたし、彼も多分僕の笑顔が半分引きつっていたのには気付いていたとは思うが、それでも僕をなんとかしてあげようと努力してくれていたのだろう。ふと思い出したかのように彼が、
「ちょっとした心理テストをやらないか」
 と言った。僕はおもしろそうだったのでやる事にした。どうせテレビの深夜番組でやっていたか、本にでも書いてあったのだろうな、と思った。
「道を歩いていたら、あなたは後ろから声をかけられた。どうやらハンカチを落としていたらしく、後ろを歩いていた人が、気が付いて拾ってくれたようだ。さてその、ハンカチを拾って、声をかけてくれた人はどんな人かイメージ出来る?」
 友達は自慢気に質問してきた。僕はまず、ハンカチなんて持ち歩いてないし、だいたいそんな設定有り得ないな、と苦笑したが、いかにもネタばらしをしたくて仕方ない友達を見ていると、一生懸命考えたくなる。
「そうだなぁ。真面目そうな、でもガリ勉じゃなくて、優しくてまあまあ明るい性格の人かな。メガネをかけている大学生。性別は男ね。さわやかな大学生かな」
 面倒臭いと思いつつも、よくもまあ鮮明に答えた自分にご褒美を与えたいな、なんて思いながら答えた。それで、それは何を意味しているんだ、とせかしつつ聞いた。
「それは自分の将来なりたい人物像だよ。異性だったら理想の人。お前がなりたいのは、さわやか大学生か。なるほどね」
 軽くからかいながら、友達はまた自慢気にネタばらしをした。僕は、意外な理想を持っているんだな、と思ったが、心理テストなんてどっかの占い師気取りの詐欺師みたいな人間が作っている訳だし、こんなものこれから先の将来には何の参考にもならない、とも思った。
 僕は現在、21歳。あれからあっと言う間に時間は過ぎた。
 物語的にはおもしろくない結果だが、僕は今、普通の大学生だ。
 別に、未だに外の世界が怖いと感じる事は頻繁にあるし、音楽は、嫌いになってやめた訳ではない。才能がなかったし、今の自分には聞くだけで十分になったからだ。諦めたと言えば適切なのだろう。とにかく、決してあの頃描いていた、それなりに楽しい生活を送っている訳ではないし、例のハンカチを拾ってくれた大学生のようでもないと自分では思っている。しかしよく考えてみると、恐らく僕を見る周囲の人には、それなりに楽しんでいて、ハンカチを拾ってくれそうな大学生に見えるのだろう。いや、実は僕は前を歩いている人がハンカチを落としたら拾ってあげるだろうし、それなりに楽しんでいるのは事実なのかも知れない。そんな気がする。
 僕は当時、自分自身の事は大嫌いだったけれど、実は正反対に変わってしまうのは自分自身がいなくなるような気がして怖かった。あの頃感じた苦しみや悲しみを忘れたくなかった。僕は普通じゃなかった。だから、普通になるのに恐怖心を抱いていた。しかし、心のどこかで普通になりたかった。久しぶりに街を歩けば、制服を着た同年代の男が友達と楽しそうに話をしながら歩いていたり、あるいは恋人と手をつないでいたり。部活動の帰りだろうと思われる同じジャージを着た団体。電車の中で必死に参考書を見ているメガネの少年。必死でお洒落をしている少女。制服姿でタバコを吸う不良。疲れた顔で自転車をこぐ高校生――
 あの頃の苦しみや悲しみは、もう僕自身に染み込んでいて、忘れようと思っても忘れられない。だからこそ、今の僕がここにいるのかも知れない。あのハンカチを拾ってくれた大学生は、本当は心に傷に傷跡があって、だからこそ優しさが出たのだ、とまで仮定すれば、あの心理テストは結果的には当たっていた訳だが、そこまで深い意味はないと思いたい。意地でしかないが。
 ちなみに僕は今現在も、三つの将来を想像出来る。内容は、具体的な設定こそ違うものの、17歳の春とほとんど一緒だ。ポジティブ、ネガティブ、その中間。人間、4年くらいじゃ変わらないのかと思うが、『自殺していなければ』と言う前提がなくなったのは大きな変化なのだろう。
 みなさんも、未来の想像と、理想の人間像についてやってみるといい。どうせ当たらないけどね。でも、果てしなく当たりに近い答えを出すだろう。それでいい。未来がわかっちゃったら、その瞬間に生きる価値や意欲が消え失せて、おもしろくないからね。そう言う意味では、僕は、それなりに楽しんでいる。
三つの未来と一人の僕 鬱宮時間

(本作品は掲載を終了しました)

携帯電話
のぼりん

 真弓は数週間ほど前から、ストーカーに狙われていた。
 そいつは、四六時中、彼女の後を影のように付きまとって観察している。その日の彼女の服装から口紅の色まで知っていて、黄色いブラウスがきれいだとか、髪形が似合っているとか、虫唾の走るような事を平気で口にする。
 しかも、常に電話を使って接近して来るので、その正体は今だにまったくわからない。電話がかかってくるのはまさに、いつでもどこでもである。部屋にいるときはテーブルの上の電話からだし、外出したら携帯からだ。今持っている携帯は最近替えたばかりで、誰にも番号を教えていないはずだ。
 信じられないのはそればかりではない。通りがかりの公衆電話が突然鳴りだすときもある。もちろん気持ち悪くて、公衆電話の受話器をとることなど真弓にはできない。だが、それが彼女を呼んでいる音だという事はわかっている。
 真弓の部屋のソファーの後に淡い色調のカーテンがあり、隙間の窓の外から夜の帳が覗いている。以前から、彼女は、その向こうに見える灯りが気になっていた。この部屋を覗くとしたら正面のあのアパートしかない、あいつはそこで、望遠鏡に片目を擦り付けながら彼女を観察しているに違いない。真弓はそう考えた。
 そこで真弓は、ある日、かかってきた電話をできるだけ長引かせながら、向かいの部屋に駆け込んだことがある。ストーカーの裏をかくつもりだったが、残念ながら思いははずれた。そこはただの空き部屋で、ストーカーの姿はどこにもなかったのだ。
 あいつがいないことを確認したとき、たちまち絶望感が真弓の全身を突き抜けた。彼女はその時から生きる気力さえ萎えてしまったような気がした。

 一人きりの部屋の中で、いつものように携帯電話の着信音が鳴った。
 あいつからに違いない。
「――やあ、元気かい。髪を束ねた君、ジーパン姿の君も、ボーイッシュでかわいいよ」
 やはり、見ていた……。
 もちろん、これまで何度も部屋中を隈なく探している。しかし、盗聴器も隠しカメラもついに出てこなかった。
 いったいどこから見ているのだろう。それを考えると、背筋に薄ら寒いものを感じざるをえない。
 が、真弓は、できるだけ感情を押し殺した声で答えた。
「元気なはずないでしょ。あなたにつけ回される毎日にうんざりしているわ」
「――僕のことがそんなに嫌なのか?」
 耳を舐めるようなそのいやらしい声。殺してしまいたいほどの嫌悪感。
「自分が普通じゃないという事がわからないの。あなたの目的がいったい何なのか、少しもわからないわ。わたしと話がしたければ目の前に出てくればいい。その勇気がないってことかしら?」
「――君に会いたいわけじゃないよ」
 と、あいつは不思議な事を言う。
「――だって、僕は君の事なら何でも知っている。今朝、君がゴミを収集場に出すのを忘れたことも、今耳にしているピアスが三日に一度つける君のお気に入りだってこともね。ただ、僕は君とこうしておしゃべりしていたいだけ、それ以上の望みはないさ」
「おしゃべりしていたいだけ……? わたしはあなたに会って見たいわ。どんなサイコ野郎なのか、とても興味があるもの」
「――ははは、どうやら、今日の君は僕との会話をとても楽しんでいるようだ。うれしくなっちゃうね。それとも何か他に企みでもあるのかな? そうだとしたら、ぞくぞくするほどスリリングだよ」
 真弓はため息をついた。
「企みなんかないわ。ただ、生きていくのが嫌になっただけよ。あなたのような男と一分でも一秒でも時間を分けあう人生なんか、これ以上我慢できそうにないわ」
 声が一瞬途切れた。驚きを飲み込んでいるような気配が感じられる。
「――どういう意味だ?」
「意味はひとつしかないわよ。こんな生活に嫌気がさした、ってこと」
「――お前、まさか本気で自殺しようなんて考えてるんじゃないだろうな」
「ふん……」
 真弓は黙っている。自分でも、それが本気かどうか確信がない。こんなサイコ野郎に人生を掻き回されているかと思うと、狂おしいほど悔しくもある。
「最後だから答えて。あなたってどこにいるの? いったい誰なの?」
「――誰、って聞かれてもねえ……」
 携帯の向こうの声はしばらく考え込んでいる様子だった。
「――そうだな、選ばれた天才ってところ……かな」
「天才?」
「――なんだ。可笑しいか?」
「何だかバカバカしくってね、涙が出そうなほど可笑しいわ。とにかく、今日はこれでおしまいにしてね。今日中に部屋の家賃や電話代の支払いを済ませなければならないし、他にもやっておかなければいけないことが一杯あるのよ」
「――おい、待てよ。嘘だろ」
 と、その時である。
 突然、真弓が頬を真っ赤にして立ち上がった。ふとした閃きが頭に浮かんで、興奮を押さえきれない。
「……電話代! そうか、そうだった」
 真弓は襲いかかるような勢いで壁の状差を掴むと、蓄えこんだ手紙やはがきをテーブルの上にばら撒いた。すぐに片方の手で、慌しく振り分けた。 
 別の片手で携帯を耳に当てたまま、「請求書、請求書……」と、うわごとのように繰り返している。
「――いったい何をしているんだ」
 携帯の向こうの声は明らかに動揺していた。
「――何をしているのか答えるんだ」
「答えろですって……」
 すでに真弓の声にかつての力が戻っている。
「なぜか携帯の通話代が変に高いと思っていたのよ。だって、私から誰か他の人にかけることなんかほとんどないんだもの。でも請求書の通話記録によると、この部屋の電話に何回もかけたことになっている。自分の携帯で自分の電話に……」
「――」
「あんたの正体が今やっとわかったわ」
 真弓は勝ち誇ったように言った。

「あんたは、携帯電話が最高の機能を持った今だからこそ生まれてきた、たった一台の異常機種。何十万、何百万とあるCPUの中の突然変異だったのね」
「――何を言っているんだ…」
「何が天才よ! ただの器械のくせに、えらそうな口をきくんじゃない!」
 真弓はぴしゃりと言い放った。
 携帯電話を投げつけようとして高々と上げた手を、だが、すぐ止めた。
「簡単に殺すのはもったいないわね」
 そのままベッドの上へ落とすと、携帯電話は、二度三度跳ねて転がった。色とりどりの着信音がうるさく真弓を呼び続けたが、しばらくすると、すべてを諦めたように静かになった。
 それから、二日たってバッテリーがなくなり、ディスプレイの液晶文字がすべて消えてしまうと、真弓はやっと携帯を粉々に砕き、下水に捨てた。
 彼女はもとの日常に戻った。今は新しい携帯を持つべきかどうか悩んでいる。
携帯電話 のぼりん

ブラック
たかぼ

 その物体がどうして私の部屋にあったのかはいまだに分からない。気付いた時にはパソコンや、読みかけの雑誌や、CDケースや、ボールペンや、煙草の吸い殻がいっぱいたまった灰皿などで散らかった机の上にあった。日頃から整理整頓を心掛けていればもっと早く見つけられたかもしれない。なんて今さら言っても遅いんだけどね。だいたい人生なんてそんなもんだ。とんでもなく重要なことが気付かないうちにそっと始まっているんだ。そしていつだって気付いた時にはもう手遅れなんだ。

 それは直径1センチメートルほどの大きさの球形で、重さはパチンコ玉くらい。でもパチンコ玉と違うのはまずその色であった。これが一言では言えないような色なのだ。いわゆる黒なのだがとても深みがある。吸い込まれそうに深い黒。机の上にそれを見つけたときは、まるで船の上から深い海をのぞき込んでいるような気分になった。じっと見つめていたら、吸い込まれそうで思わず目をそむけてしまったほどだ。
 これはいったい何だろう。宝石だろうか。たしか黒真珠なるものをテレビショッピングで見たことがあるが、そういうものだろうか。しかし金目のものに縁のない私は宝石にはとんと疎い。それこそ新しいパチンコ玉だろうか。もしそうなら私もやってみたいものだ。大当たりを出したらこれが山のように出てくるなんて……いや止めた。そんな想像をしただけで何故だか恐ろしくなってきた。想像しただけでそんな気分になることじたいが不思議だ。もしや呪いでもかかっているのだろうか。先刻からの嫌な気分は呪いのせいなのだろうか。もしそうだとしたらやっかいなものを見つけてしまったわけだ。
 しかしいったい全体どうして私の部屋にあるのだろう? どうして私が呪われなければならない? 私が何をしたっていうんだ。私は真面目とは言えないまでも、どこにでもいる普通の大学生だと思っている。他人様に恨みを買うようなことは誓って無いと言える。そうとも、これはきっと誰か他の人の物に違いない。私の部屋に来たやつが落としたか、わざと置いておいたのだ。最近私の部屋に来たやつは一人しかいない。それは大学の同級生のKだ。あいつならやりかねない。いいやつなんだがしばしば冗談が過ぎて手におえなくなる。女癖も悪いので呪われる理由にも事欠かないだろう。私はさっそくKを電話で呼び出した。私と同じように授業をさぼってアパートでごろごろしていたKがやってくるのにそれほど長い時間はかからなかった。

「おまえから招待してくれるなんて珍しいじゃないか。遊びに来てやるたびに迷惑そうな顔をするくせに」
 Kは来るなり悪態をついた。
「おれがいつ迷惑そうな顔をしたって言うんだ。まあいい。上がれよ」
「で、何の用事なんだ。女の悩みか? なわけないか。あーあ、おまえみたいに女の悩みが無い生活がうらやましいよ」
 ぶん殴ってやろうかと思ったがそこはこらえて私はこう切り出した。
「おまえ最近落とし物しなかったか?」
「は? 落とし物? 何を言い出すかと思いきや……ふーん」
 そう言いながらKは私の部屋を見回しはじめた。そしてにやにやしながらこう言った。
「落とした落とした。うん。確かおまえの部屋に来た後だ。探していたんだ。そうか見つけてくれたのか。ありがとうよ。さあ、返してもらおうか。おれの大事な福沢諭吉ちゃんを」
「何だとこいつ。おれから万札せしめようって魂胆か!」
 私は怒る気力も失せた。おい何だよう、というKの言葉をしり目に、私は顎で机の上を指して言った。
「あれに見覚えないか?」
「はあ?」
 Kは机の上を覗き込んだ。
「もしかしてこの黒い玉のことか? おれはこんなもの落としてないぜ。これが何だってんだ。……あれっ? おっ、凄いなこれ」
 私はKの素っ頓狂な声に逆に驚いて立ち上がった。
「おい何が凄いんだ」
「だっておまえ、これ、もの凄く重いじゃん」

 私がそれを見つけた時は確かにパチンコ玉くらいの重さしかなかった。それからKを呼び出して今まででせいぜい30分だ。その間に重さが変化したというのか。しかも大きさは変わっていない。そんなことがありえるのだろうか。今や直径1センチほどの黒いパチンコ玉は片手では持ち上げられないほどの重さになっていた。私はついさっきこれを見つけたばかりであること、そのときはパチンコ玉くらいの重さしかなかったこと、てっきりKの忘れ物だと思い呼び出したこと、それから今までにそんなに時間がたっていないことを話した。Kは私の話を信じようとはしなかった。当たり前だ。私だって信じられない。しかしこれは事実なのだ。
「おい、いいかげんにしろよ。そんなことおれが信じるとでも思っているのか。この黒玉が何か得体の知れないとんでもないアイテムだって言うのか? そんな冗談面白くも何ともないぜ」
 そう言っていたKも、私の顔が青ざめ手が細かく震え出すにつれ険しい表情に変わっていった。
「何なんだよ、その迫真の演技は。マジかよ、おい、冗談じゃないぜ……」
 きっとKも恐かったのに違いない。
 その時だった。ビシッ、という嫌な音がしたのは。私とKの視線は机の上の黒玉に釘付けとなった。
「や、やべーぜ、おい……」
 Kはかすれるような声でそう言った。私たちは信じられないような光景を見ていた。黒玉が、机に、少しずつ、めり込んで行くのだ。

 おそらく今、黒玉はもの凄い重さになっているに違いない。そしてそれは指数関数曲線のような勢いで重量を増し続けているのだ。私は非常識なものを目の当たりにしたときに誰もが経験するであろう放心状態でしばし立ちつくした。しかしこの得体の知れないものと同じ部屋にいるという嫌悪感から我に返り、とっさに窓を開け、Kに向かって叫んだ。
「おい、手伝え! こいつを窓から捨てるんだ!」
 私とKは力を合わせ、たった1センチの玉をなんとか持ち上げたがそれも一瞬のこと。とても支えきれる重さではない。玉は私たちの手から離れた。
「あっ!」
 思わず飛び退いた私たちの間の床を、鈍い音をたてながら玉は弾丸のように貫通していった。破壊された床から下を覗き込むと、この部屋はアパートの1階なのでむき出しの地面が見えた。その地面には玉がめり込んでいったような小さな穴が開いていた。私とKは無言で顔を見合わせた後、どちらからともなく、わー、と叫びながら部屋を飛び出した。とにかくこの場所から逃げた方がよさそうだ。なるべく遠くに。
 私の予想が正しいとすると、もう黒玉の重さは想像を絶するものであろう。そしてもしこのまま重くなっていったとすると……正確な時間は分からないが、やがて地球より重くなるに違いない。そうなったらどうなるか。黒玉が地球に落ちるのではなく、地球が黒玉に落ちることになるのだ。いや、地球だけでなく、月も、太陽も、太陽系も、銀河系も、この宇宙全てが黒玉に落ちることになるだろう……。あれは黒い玉ではなく、黒い穴だったのだ。

 地面がぐらっとした。地面全体が内側に引っ張られるように変形を始めたようだ。もし未来というものがあったなら、私の名前は永遠に語り継がれただろうに。いやKの名前もついでに語り継がれただろうに。ああ残念なことだ、おまえもそう思うだろ、と併走していたKに聞いたのだが当のKは
「マジかよ、おい」
 そう言い残して地面に吸い込まれて行くところだった。
ブラック たかぼ

犬の太郎
吉備国王

山深い小さな村に昔から伝わる一体のお地蔵様がありましたが、そこは大変険しい谷間の道に阻まれて里人の姿を見ることは殆どありませんでした。それでも、お地蔵様の周りは綺麗で新鮮なお供え物まで置かれていました。
それは不思議でしたが、それを知っていたカラスの親子は、お地蔵様の背後に立つ杉の木に巣付いて暮らしはじめました。
まだ、薄暗い朝。この人里離れた山深い村に住む年老いた夫婦が、山の畑に向かう途中に立ち寄っては、お地蔵様の世話をしているのを、杉の木の上から見ていたカラスの親子は、お爺さんとお婆さんの持ってきたお供え物のごちそうをちゃっかり食べていました。
 ある日、七十の歳を迎えたばかりのお爺さんが、お婆さんに心配そうに話しかけていました。
「なあ、婆さんや、これからも田んぼと畑をせねばならねえが、わしらも歳をとって足腰が弱ってしもうたぁー、これからどうやっていくべえーかのう・・・」
 と、お爺さんは、耳の遠くなった、お婆さんの耳もとで訊ねました。
お婆さんも、お爺さんと同じことを感じていましたが、これといった名案も浮かび上がりませんでした。
「爺さんや、私にゃー、どうしてええか、判らんがなぁ・・・」
 と、苦笑しながら、お爺さんに言いました。
お爺さんは、お婆さんの困惑した様子をみながら笑いました。
「それもそうじゃ、一人じゃ判らんこともあるけんのーう。昔から言うじゃろうが、二人寄れば、文殊の知恵となぁ!」
 と、お爺さんが言いますと、お婆さんが間髪を入れずに口を挟みました。
「爺さんや、それぁー、三人寄れば、文殊の知恵だべぇ!」
 と、言い返すと、お爺さんは薄くなった白髪の頭をかいて苦笑いしました。
「そうだったなぁー、婆さん。しかし、ここにゃ、わしら二人しかいねえもんなぁー。もう一人おりゃー、三人になるんじゃがぁーのう。そんなら、ええ知恵も出てくるんじゃが!」
 そう言って、お爺さんが残念そうに悔しがるので、お婆さんは真剣な顔で訊ねました。
「爺さんゃ、いねえことはねえがのうー。ただ、一人じぁのうて、一匹じぁ。そこにいる、犬の太郎だべぇ!」
 と、お婆さんの言葉に、お爺さんは驚いてしまいました。どんなに賢い犬の太郎でも、仕事の相談をするわけにはいきませんでした。
 それでも、お爺さんは、お婆さんを叱りませんでした。何故なら、犬の太郎がどんなに賢いかをよく知っていたからです。
 お婆さんが山深い畑を耕しに出かけたところ、昼になってお弁当を忘れてきたことに気づきました。お婆さんは、家に取りに帰らねばいけねーかと迷っていると、犬の太郎が忘れたお弁当を咥えて持ってきました。
お婆さんは、それを見て大変に喜び、その弁当を犬の太郎と分けて食べました。
 また、お爺さんも一生忘れられない大変な出来事がありました。
それは、春に植えた苗が育つ大切な七月頃でしたが、大雨に襲われて田んぼが心配になり、お爺さんは、犬の太郎を連れて川下にある田んぼの見回りにでかけました。
 すると、田んぼのあぜは崩れて、川の水が大量に流れ込んで育ち始めていた苗は倒れていました。
お爺さんはびっくりして、田んぼのあぜを慌てて直し始めたところ、足を滑らせて川の流れに飲み込まれそうになりましたが、その時、傍にいた犬の太郎がお爺さんの襟首をくわえて助けました。だから、犬の太郎は、お爺さんの命の恩人でもありました。
お爺さんやお婆さんが、犬の太郎を息子のように可愛がるのも、そうした出来事を乗り越えて結びついてきたからでした。
「そうだ、太郎がおっただなぁー、わが家は三人だべー。三人おれば、文殊の知恵だべー。心配いらねえだぁー!」
 お爺さんの元気な声にお婆さんも頷きながら、傍に寄り添う犬の太郎の頭を大事そうに撫でていました。
「お地蔵様の前に捨てられていた子犬が、こうして、わしらを助けてくれるのも不思議な縁じゃのー・・・」
 と、お爺さんは、あの時のことを思い出していました。
犬の太郎と出会ってから、すでに五年の年月が経っていました。 
その年は豊作に恵まれ、お爺さんとお婆さんは収穫した作物をもってお地蔵様に豊作のお礼にでかけました。
 すると、お地蔵様の前に、一匹の子犬がぽっんと寂しく座っていました。
子犬は、お爺さんとお婆さんの姿を見るとしっぽを振って寄ってきました。そして、お爺さんとお婆さんの足もとから離れようとはしませんでした。
「お婆さんや、子犬はお腹を空かしているようじゃ、お地蔵様に差し上げるお団子でも食べさしてはどうじゃーろう!」
「そうじゃーのう? お地蔵様も許してくださるじゃーろう・・・」
 お婆さんは、お地蔵様に持ってきたお団子をおもむろに取り出して、その子犬に与えました。お腹を空かしていた子犬は、その団子をペロリと食べて「ワン」と吠えました。
「可愛いじゃないか、美味しかったのじゃーろう・・」
 お爺さんとお婆さんは、その子犬を可哀想に思って、家に連れ帰えることにしました。
「子供のいない、わしらに、子供の代わりにと、お地蔵様が遣わしてくれたんじゃろう。ありがたいことじゃ・・・」
 そう言って、お爺さんとお婆さんは、お地蔵様の方向に向かって手を合わせました。その様子を、杉の木の上に巣付いていたカラスの親子だけがじっと見ていました。
お爺さんは拾ってきた子犬を大事に育てようとしましたが、どう呼べばよいのか判りませんでした。
そこで、お爺さんは子犬に名前を付けることにしました。
「育てるには、何か呼び名を付けてやらにゃーいけんのう・・・」
「そうじゃなぁー、爺さん・・・」
「わしらの最初の子だし、太郎と呼ぶのが一番ええじゃろう・・・」
「太郎ですか・・・いい名前じゃなぁー、お爺さん!」
 と、お婆さんも、お爺さんの付けた名前に賛同しました。
それから五年間、お爺さんとお婆さんの心温かい愛情に育まれて「犬の太郎」は立派に成長していたのです。
犬の太郎 吉備国王

何と言うこともない日
中川きよみ

 「どうも様子がおかしいと思っていたが、ようやく分かったぞ。俺は、ニンゲンじゃない。ニンゲンの亜種だ! 変異体だっ!」
 朝刊を黙々と読んでいた筈の父が、突如そう言った。
 父が亜種だったら、娘の私も亜種なのか? と問いただそうと思ったが、あまりにもばかばかしいので放っておいた。
 頭がすっきりしないので、朝食代わりにコーヒーを飲もうとしたら切れていた。10秒くらい、試供品でもいいから何かないかと考えてみたけれど、思い付かなかった。

 昼すぎ、裏のマンションで頭のヒューズがとんだパキスタン人が暴れたらしく、警察沙汰になっていた。パトカーが2台もやってきて、下校途中だった小学生が群れていた。
「コロサレマァス! ワタシハ、ケイサツショニ、コロサレマァス! ミナサァン、ミテイテクダサァイ」
 あまりにも騒々しいので私も見に行ったら、野次馬の最前列で父がとても悲しそうな顔つきで目ばかりを落っこちそうなくらいに大きく見開いていたので、止むを得ずひっぱって帰った。
「あいつ、大きな植木鉢を丸ごと外へ投げたんだ。ガチャンとひどい音がして、ゴムの木まで道路に散らばったよ。」
 件の外国人の男は2階に住んでいるらしく、そのベランダから表の通りへ放り投げたらしい。下にいた父を含む野次馬連中に当たらなくて本当に良かったと胸をなで下ろしたが、父は投身自殺させられた哀れなゴムの木に感情移入しているようだった。
「俺はな、亜種だからもういいんだ。亜種だから。」
 父が言うと「亜種」は子供が「明日」と言ってるように聞こえるなぁと、何気なく聞き流す。
 父はあまりにも真面目すぎて平均的な軸から少しズレているので、この種の言動は過去にもあった。自分のズレをどうにかして埋めて世の中と折り合いをつけるために、今日は「亜種だ」などと言い出したのだろう。可哀想とかどうとかいう問題でもないし、もしかしたら脳味噌は亜種なのかもしれない。

 夕方になって、また姉から電話がかかってきた。
 ときどき、こうしてかかってくるのだが、今日はきっと父のことが心配になってかけてきたのだろう。でも別に父に取り次ぐわけでもなく、たわいもない話をして少し笑ったりした。
「昨日ね、いつだったかあの水で騒いだフランス家庭料理のお店の通りに行ったの。そうしたら、いくら探してもあのお店見つからなくて、なんとレンタルビデオ屋になっちゃってたの。」
 姉はひどく残念そうに言った。
「あら、本当?」
 ずいぶん前に姉と訪れた折、塩味の強い料理の後で猛烈に水が欲しくなった。店長が一人で切り盛りしている小さなお店だったのに店長の姿が見当たらず、閉口した挙げ句に「いまここに泥水あったら喜んで飲むわ」とまで喋っていたら柱の陰で店長がひっそり座っていたのだ。ものすごくバツが悪かった。
「どっちみち、もう二度と行けないじゃない。」
「それはそうなんだけれど。」
 それでもやっぱり姉は未練があるような口振りだったので、思わず笑う。
 突然の事故で母と姉が急逝してから、もう2年が経つ。どういう訳か、電話は姉からしかかかってこない。母は生前、筆無精な性格だったが、それは死んでも治らずそのまま電話無精になっているのだろうか。母らしい。
 ユーレイからの電話、と平らな言葉で表現すればちょっと怖い気もするけれど、私にとって、やはりそれは姉からの電話でしかないのだった。
「パキスタン人が暴れちゃって警察来たの、見てた?」
「ああ、見てた。見てた。彼、ちょっと心を病んでるのよ。クスリの反応は出なかったし、誰も怪我した訳じゃないから警察もどうすることもできなくて、もう帰ってきてるよ。」
「えっ? あっ、本当?」
「誰だって、心を病むことはあるわよ。お父さんも、朝刊見て具合悪くなってたじゃない?」
「あ、そうだったの? 原因は朝刊?」
 いつものように、夢から覚醒する時に似た感じで急速に現実感が遠のいて、気が付くと私はどこにもつながっていない受話器を持ったまま寝惚けたように一人で喋っていた。
 いつだって私は半端に一人取り残されている。もう、ちっともせつなさを感じられないくらい慣れてしまったことは、もしかしたらせつない。どっちにしても、ただやれやれと首を振るだけで事切れている受話器を戻す。

 父は居間のソファで涎を垂らしながら眠っていた。
 コーヒーが切れていたことを思い出して、それから奇跡的に近所のコーヒー専門店が今日までセールをしていることを思い出して、時計を見てから自転車に乗って買いに出掛けた。

 夕暮れの商店街はそれなりに活気があっていい感じだった。
 コーヒー専門店の隣はたこ焼き屋で、夕飯は面倒だったのでたこ焼きで済ませることにした。
 私の前には2人が並んでいた。日没後の美しいグラデーションを描く空を眺めながらたこ焼きの順番を待っていると、チャリンと軽い金属の音に耳が反応した。
 焼き上がったたこ焼きを持ったオバハンが、どうやらお釣りの一部を受け取り損ねたらしかった。手にいっぱいの荷物と残りのお釣りにすっかり気を取られて、オバハンは落としたことに気付いていない。私の順番になって見つけたらそれとなく拾ってもらっちゃおうかなぁと、一瞬でケチな計算を完了したとき、私のすぐ前に並んでいた男の人が屈んだ。私は少なからず落胆する。
「アノォ……」
 意外にも彼は気弱な声でオバハンを呼び止め、手渡そうとしていた。夕暮れにも明らかに色味が違う肌の色。騒ぎの時にきちんと見ていないので、目の前の彼が昼間暴れた「コロサレマァス」のパキスタン人かどうか断定はできなかったけれど、とてもよく似ている気がした。
 オバハンは声をかけられて瞬時ムカッとした顔をしたくせに、彼の好意を知った途端に「あらぁ、すみません~」とけたたましく何度もお辞儀していた。
 もちろん人違いである可能性は大きいけれど、それでもやはり目の前の異国の男性が少なくとも「殺され」そうには見えないことに安堵した。
「8コ、クダサァイ」
 職人気質のオッチャンは、彼の小さな声が聞こえなかったかのように無表情のまま黙々とたこ焼きを焼き続けていたが、ほどなくして鮮やかな手つきで8個を舟に盛りつけた。
「はい、まいど。」
 ほのぼのとまでは言えないが、悪くない光景だった。

 昼寝をしたからか、父は少し調子が良くなっていたようだった。
 2人でたこ焼きを食べて緑茶を飲むと、穏やかな充足感が食卓に漂った。テレビのニュースを見ながら、ふと姉の言葉を思い出す。
 テレビの前に放ってあった朝刊を手に取り、丁寧に読み直すと社会面で小さな記事を見つけて「ああ」と思う。
 テレビのニュースにしろ、毎日の新聞にしろ、扱っているのはおよそ楽しくない心が痛くなるような事件ばかりなので断定はできかねるけれども、きっとこの記事を読んで父はいたたまれなくなったのだろう。そしてニンゲンであることを放棄したくなったのだ。

 「父さん、新聞というのは特別な事件だから載せるんだって、誰かが書いていたよ。新聞にも載らずに、隣のバアさんがこんなことをするようになったら、存分に亜種にでも変異体にでもなればいい。安心していいよ。」
「……そうかねぇ。」
 父は微かに笑うと、風呂に入るために納戸へ下着を取りに立ち上がった。目の前を通り過ぎる股引に、寝臭いやわらかさを嗅ぎ取ってなぜかせつなくなった。
何と言うこともない日 中川きよみ

ロボ供養
ごんぱち

「次は、藤沢、藤沢、JR線は、お乗り替えです」
 車内放送に、うつらうつらしていた佐伯弘也はびくりと目を覚ます。
 それから、座った足の間に挟むように持った、家事ロボット「きちんきっとさん」を見つめる。
 バッテリーと有害部品を抜かれたきっとさんは、襟首に付いた取っ手が伸ばされ、踵部分のキャスターで転がる輸送形態になっている。
『ゴミに出すの?』
 里美の言葉を思い出し、弘也は苦笑する。
『ちゃんと供養しないと化けて出るよ』
「――ロボットの幽霊なんて、見てみたいもんだ」
 弘也は呟いて、きっとさんの白いボディを指先で弾く。
 磁石の痕の残る薄い鉄板は、ちょうど洗濯機を叩いたような音がした。
「藤沢、藤沢です……」
 ドアが開き、弘也は慌て気味に列車から駆け下りた。

 鶴岡八幡宮に着いたのは、三時過ぎだった。
 拝殿の祈祷所へ続く石段を登る。
(重い……)
 左手には樹医の手当も痛々しい大銀杏があり、右手には早咲きの桜があった。
 弘也はきっとさんをぐいと持ち上げ、登っていく。
 と。
「よい、しょっ! よっ、と!」
 石段を、中学生ぐらいの少女が登っていた。
「っ、しょっ!」
 彼女が顔を真っ赤にして持ち上げていたのは、弘也と同じ、初期型のきちんきっとさんだった。

 拝殿に、少女と弘也と、その他にも何人かのロボットを連れた者が立ったまま並ぶ。
 神主が祓詞を上げ、ロボットと持ち主を祓っていく。
 ふと気付けば、他の人々が横目でちらちらと少女を見ている。
 彼らの持ち込んだロボットは、コミュニケーション目的のいわゆる「目付き」で、きっとさんのように家事専用ロボットを持ち込む者は珍しい。
 少女の方はというと、先ほどから哀しげな面持ちでうつむいている。大事な人との別れを惜しむかのように。
(……ロボットコンプレックス、か)
 ふと、弘也はその視線が彼にも向いている事に気づいた。
(おい、待て違うぞ!)
 弘也は好奇の視線を感じつつも、祓詞を神妙な顔で聞くしかなかった。
 神主が前に来て、榊できっとさんと弘也の肩を撫でる。
 顔を上げた弘也と、神主の目が合った。何だか苦笑いをしているようにも見えた。
 ほどなく、儀式は終わり、巫女がロボットの譲渡証明を一人一人に手渡した。
「――お疲れ様でした。送りの儀は、十七時から由比ヶ浜海岸で行われます」
(むぅ、恨むぞ里美)
 弘也は伸びをしながら、拝殿を出た。

 日の落ちかけた海岸の由比ヶ浜海岸の砂浜は、一画が仕切られ『ロボット供養送祭会場』と書かれた立て札があった。
(……あ)
 そして会場の最前列に当たる場所に、先ほどきっとさんを持ち込んだ少女が、たった独りで座っていた。
(ちょっと病的だよなぁ。ったく、最近の若いのは)
 弘也は肩をすくめ、少し離れた場所に座る。
 『立入禁止』と『KEEP OUT』の札がかかったロープの内側には、既にロボットが置かれていた。
 日は傾きかけ、海岸が夕日に染まっていた。
 弘也は時計を見る。
 午後四時半を回っていた。
 少しづつ、見物客やロボットの元持ち主たちが増えて来る。
 そんな彼らに圧されるように、詰めるとはなしに、いつの間にか弘也は少女の隣りにいた。
 軽トラックがやって来て、ロープの内側に、ロボットをまた置いていく。
 その側で、消防署員が神主と段取りを話している。
 海へ風が吹く。
 気温が下がってくる。
 少女は黙ってロボットの山を見つめている。
 消防署員の手で、ロボットに燃料用エタノールがかけられていく。
 巫女が机を用意し、三宝に榊を置く。
 五時を五分ほど過ぎた頃、ロープの内側から巫女とトラックと作業員が出て、消防署員数名と、神主だけが残った。
 ざわついていた観客たちの口数が、自然と減って来る。
 ふと。
 海岸に静けさが訪れた。
 波の音と、海岸通りを走る車の音が微かにするだけ。
 神主は神妙な面持ちで、榊の前に立ち、祓詞を上げ始めた。
 弘也は横目で少女を見る。
 彼女は両手を合わせ目を閉じていた。
 祓詞が長いせいか、時折目を開けて、ロボットの様子をうかがってもいた。
(そんなに大事なら、捨てなきゃいいのになぁ……まあ、ロボットは使えなくなったらおしまいだけど)
 そんな事をぼんやり思いながら、弘也はロボットの山を見つめた。
 弘也のきっとさんがどこにあるのかは、もう全く分からなかった。

 夕焼け空が、夜空に変わった頃、祓詞は終わった。
 星がぽつぽつと輝いていた。
 消防署員の一人が、ライターで松明のようなものに火を点ける。
(もう少し風情のある着火方法にすればいいのに)
 弘也はまた少女を横目で見る。
 燃える松明を神主が受け取り、ロボットの山に近付く。
 皆のざわつきが止まる。
 松明の火がロボットの一体に近付き――着火した。
 神主はロボットの周囲を回り、次々に点火していく。
(……あ、最初に火点けたとこ、消えた)
 点火の位置によっては立ち消えた部分もあったが、勢いづいた場所から燃え広がっていく。
 エタノールの青い火に、ロボットの樹脂の黄色い火が混じる。そして配線素材の緑の火や、紫の火。
 どんどん、どんどん火が大きくなっていく。
 火の勢いは強く、弘也の座っている場所まで、熱が伝わって来る。
 炎は、高く燃え上がる。
 嫌な臭いも出さず、ロボットは激しく燃えていった。
 炎に照らされる少女の頬に、涙が見えた。

『――ええっ、このお店で良いじゃない?』
 結婚前の里美と弘也は、電器屋の家庭用ロボット売場に、恭しく陳列されたきっとさんの前で言い合いをする。
『ダメだよ。ロボットはオープン価格で、店によって凄く値段が変わるんだから』
『だって、ママが結婚祝いでお金出してくれるんだから、そんなに』
『……だからでしょうが』
『ったくぅ、そんなとこで気ぃ使わなくっていいのに!』
 店員が止めに入る。
『ですが、お客様、当店は県内の大型店の中では一番安い値段を――』
『って事は小型店は見てないって事ですよね? ね?』
『そーいやぁそうねぇ』
『別の店行こ、別の店』
(里美のヤツ、何だかんだ言ってよく付いて来てくれたもんだな)

『はぁ、ふぅ……』
 きっとさんを持って、弘也が歩道橋を渡る。
『もう、だから配達はして貰おうって言ったのに』
『だって、配達料払ったら、値段あんまり変わらないから』
『しょうがないなぁ』
(あの後は、筋肉痛で)

『どうして……』
 ボロボロに洗濯物を持って、里美が絶句する。
『あっ、やっぱりあった。えーと、洗濯素材見分けるために、プラグインをダウンロードしなきゃいけなかったんだよ』
『そんなのがあるの?』
『料理で一度やったろう?』
(あの頃は、自分で設定するのが普通だったんだよなぁ)

『これ……は、きっとさんの料理?』
『えーと、どっちだったっけ? 分かる?』
『分からないから聞いてるんだが』
『あたしも分からない。大したもんよね』
『もう全部任せちゃっていいんじゃないか?』
『それは無理よ。掃除はイマイチだし』
『旧式は旧式なんだなぁ……』
(料理データ、新型機に上手くコンバート出来たかなぁ)

「そっか……」
 弘也は呟いた。
 少女の横顔を見る。
 ふと振り返れば、他の見物客たちも皆同じ顔をしていた。
(ロボットだからじゃ、ないんだ)
 燃え盛る炎が、ぼやけた。
 花火のようだった。いや、花火よりもずっと形も色も不規則だった。
 弘也は空を見上げた。
 星は、いつもより、きらきらと瞬いていた。
ロボ供養 ごんぱち

片目部隊
るるるぶ☆どっぐちゃん

 片目部隊の宿舎はどこにあるのかというとそれは街の外れにある六角形をしたあの大きな白いビルで、そこで片目部隊のみんなは一緒になって住んでいる。
「いっち、にー」
「さん、しー」
「いっち、にー」
「さん、しー」
 屋上では朝の教練が始まったところだった。色鮮やかなタイルに覆われたぴかぴかの屋上を、片目部隊の面々はかたかたかたかたと足音高くランニングしている。
「いっち、にー」
「さん、しー」
「ほら、もっと声あげてー。いっちー、にー」
「さん、しー」
「いっち、にー」
「さん、しー」
「ぜんたーい、とまれ! いち、に、さん!」
 ぴしり!
 片目だからな、片目だから仕方がねえよ、片目じゃしょうがないわよねえ、とかはやはり言われたくないので、みな整列には気をつける。細心の注意を払って、ぴしりと並ぶ。ぴしりと並んでいる、そのつもりであるが、しかしやはり片目なので仕方が無い。片目なので平衡感覚が狂ってしまうのは仕方が無い。本人達は、ぴしりとまっすぐだぜ、と思っているが、片目部隊の整列は、大きく斜めに傾いでいる。
 昇ってくる太陽の放つ朝日と、ちょうど相対する形になる。
(まぶしいな)
 と第五中隊所属の楓ちゃんは思う。
 人は二つの瞳を持って生まれてくる。だが二つの瞳を持って生まれてこないものもいる。なんらかの事情で、二つの瞳のうち、一つを失うものもいる。
 人のうちいくらかは片目になる。
 片目になったものは、老いた人も、若者も、男も、女も、片目部隊に入る。あまねく全ての片目は、片目部隊に入るのだ。
 楓ちゃんは十一歳で、半年前からここに来ていた。片目になった理由は、昔からの病気のせいだった。楓ちゃんは命は助かったが片目を失った。
「片目には慣れたかね」
 半年前、初めてここに現れた香恵でちゃんに、所長は切り出した。
「慣れたわ」
 と大きな荷物を抱えた楓ちゃんは答えた。
「慣れればどうってこと無いわ、こんなもの」
 左目を覆う大きな黒い眼帯を、楓ちゃんは手に取り、きゅう、と伸ばし、ぱっと、離す。
 ぱちんっ。
「ね。平気よ。完全に慣れたわ」
「そうだね」
「パパもママも大げさだわ。ものあたしも小さくないのに付き添ってくるなんて言い出して」
「心配なんだよご両親も」
「信用されていないのよ。だってあたし嘘ばかりつくから」
「そう」
「信じて無いのね、あたし、嘘つきなのよ」
「そう。ともかく、歓迎するよ。今日から君は我が部隊の一員だ。よろしくね」
「ええ、よろしく」
 二人は軽く、握手を交わす。
「諸君、おはよう」
 屋上に設置されたスピーカーから、隊長の声が響き渡る。
「おはよう、であります!」
「それでは本日の訓練を開始する」
「ほらほら、お前達、ぼさぼさするなよ、隊長の声が聞こえただろう! 訓練開始だ、さっさとしろ! 解ってるだろうな、一日の最初の訓練は二人組だぞ」
「急げ急げ急げ、ハット! ハット!」
 各小隊長達の命令で、皆はちりぢりになってパートナーを捜す。楓ちゃんは今日は同い年くらいの女の子をパートナーにするようだ。
「よろしくね!」
「よろしく!」
 女の子は右目に白いガーゼの眼帯をしていた。
 片目がなぜ一カ所に集められるか、というとそれは片目だからである。片目対両目では、片目に勝ち目が無い。なぜか。片目は片方からのパンチは避けられる。だがもう片方からのパンチが見えないので絶対に避けられない。
(「このやろう! ぶん殴ってやる! えい!」)
(ひょい)
(「むう、このやろう! じゃあこっちからならどうだ! えい!」)
(「む、何も見えない!」)
(がん!)
    *初歩教練教科書第一集第一章「片目部隊について」より抜粋
 こうなる。
 だが片目が二人いるならどうなるか。右が残った片目と、左が残った片目の二人ならば、どうなるか。
(「ちくしょうあたまにきた! ぶんなぐってやる! えい!」)
(「右からだよー!」)
(ひょい)
(「む、当たらない! じゃあこっちからぶん殴ってやる! えい!」)
(「左からだよー!」)
(ひょい)
(「む、当たらない! くそう! えい! えい!」)
(「右からだよー!」)
(「左からだよー!」)
(「左からだよー!」)
(「右からだよー!」)
(ひょい)
(ひょい)
(ひょい)
(ひょい)
    *同書より抜粋
 片目が二人いれば、両目にも勝てるのである。両目のパンチを、交わすことが出来るのである。両目二人対片目二人だと、もう片目に勝ち目は無くなってしまうが、買わせないパンチが出てきてしまうが、それは仕方が無い。とにかく片目は、ペアになることが大切である。
「楓ちゃーん、左だよー!」
 ばしんっ。ボールが楓ちゃんに命中する。
「いたーい!」
 ひゅん!
「あ! ねえ、右だよー!」
 ばしんっ。
「ひゃあ!」
 女の子にボールが命中する。
「なにやっとるか! これくらい交わせなくてどうするんだ!」
「だってー」
「こうだ。こう交わすんだ。いいか」
 ボールの前に立つ小隊長二人組。
「右だよー」ひょい。「左だよー」ひょい。ひょい。ひょい。
「すごーい」
「はははは、あたらん、あたらんよ」
 このようなハードな教練を、みっちりと夕方まで続け、そこでようやく片目部隊の一日が終わる。
 片目部隊の宿舎が、あんなに大きなビル全部で、勿体ない、と思うかもしれない。だがそんなことは無い。全くない。
「えー!またなのー!」
「今日からこの部屋に、また新しい仲間が増えます。ジミー、挨拶は?」
「ジミーです、よろしくお願いします!」
 ぺこり。
 楓ちゃん達は仕方なく拍手。
 現在片目は増え続けていて、楓ちゃんの部屋には六人部屋なのにもう30人もいる。
「おーさーなーいーでー!」
 寝るのも大変である。
「ふーんーでーるー!」
 疲れていたのかジミー君は楓ちゃんの上でさっさと寝てしまった。五人が眠るベッドから、楓ちゃんは這い出て、ため息をつく。
「ふう」
 部屋から出て、屋上へと向かう。
「あ」
 屋上には先客が居た。たばこを吸いながら夜空なんかを見上げている。
「こんばんは。眠れないの?」
 先客は楓ちゃんよりいくつか年上の男の子だった。
「いけないんだ、たばこなんて吸って」
「黙っててね、教官達には」
「良いよ、でもその代わり」
「なに?」
「吸わせてよ」
「これを?」
「うん」
 少年はたばこを見つめ、そしてしばらくたった後、あははは、と笑った。
「良いよ、吸ってごらん。約束だよ、黙っててね」
 楓ちゃんは勢い良く吸い込み、そして勢い良くむせた。
「どう、初めてのたばこは。おいしくなかったかな」
「味の善し悪しはともかく。たばこの味が解ったから嬉しいわ」
「そう。それは良かった」
「ねえ先輩。先輩はそんなものを吸うために屋上に来たの」
「ああ、違うよ。本を読もうと思ってね」
「嘘ばっかり。さっきは読んで無かったわ」
「嘘じゃあ無いよ。ほら」
 と男の子はポケットの中から小さな本を取り出す。
「へえ。詩集かあ。先輩こんなの読むんだ?」
「読むかい?」
「うん」
 二人は一緒に座り、月明かりの下で詩集を読んだ。
 お互い相手をなかなか良く思い、キス位しても良いかな、と思ったが、やめた。男の子も楓ちゃんも、ともに左目を失っていたから。つきあっても、これではパンチを避けられない。
 だから二人は黙って詩集を読んだ。同じ半分だけの視界で、ただ黙って詩集を読んだ。
 読み終えて二人は部屋へと帰る。ベッドに入り、六人抱き合って眠る。
片目部隊 るるるぶ☆どっぐちゃん

暴風警報
松田めぐみ

 チャイムが鳴って覗き穴からそっと見ると、しょぼくれた様子の見覚えのある顔が見えた。
 なんだか笑いがこみ上げてきて、にやにやしながら玄関のドアを開けた。
「どうしたの? 久し振りで可笑しい。」
「可笑しいか。」
「そうね。疲れた顔していて可笑しい。」
 彼は情けない顔のまま微笑んだ。
 元彼である人が突然来たことに嫌な気持ちがしないということは、それは特に憎みあったり、泣きながら追いすがったりして別れたからではないからだ。
 彼がどうかは定かではないが、私は、ただ、なんとなく距離をおきたかったのだ。

 半年の間何をやっていたのだろうか、私は、彼は。
 久し振りに乗った彼の車の助手席のシートの角度を変えながら思う。
 どこに行こうかとも、飯は食べたかとも聞かれずに、車は走り出した。
 そろそろ雪が降るかもしれないな。タイヤ交換をしなければ。

 彼は何も言わない。

 では、私から。

「最近どうよ。」
 なんとなく聞く。
「先月、本当は電話しようか迷ったんだ。君の誕生日だっただろう。でも、誰かと一緒かと思ってさ。」
 ひとりだったと言って欲しいのだろう。何も答えずにわずかばかり紅葉し始めている街路樹を見る。
「仕事辞めるんだ。今日辞表出してきた。」
「なんかあったの?」
 彼はそれには答えずに、田舎に帰って家業の農業をすると言う。
「奥さんがよく賛成してくれたね。」
「いや、ひとりで行くんだ。単身赴任と言うか、別居と言うか。」
 タバコに火を点けてから、子供の学校もあるしな、と言い訳のようにつぶやく。
「何時?」
「うーん、再来月になりそうだよ。いろいろ残務整理もあるし。実家に行くのは12月になってからだな。君はどうなの?」
「のんびり暮らしてる、かな? 相変わらずだよ。本当に何も変わってないなぁ。」
「玄関を開けたときの君の顔がキレイでビックリしたよ。」
 もう1度言ってよ、録音しておくから。そう言うと彼は笑いながら何度でも言うよと言って私を機嫌良くさせてくれる。
 私は1年前に彼と一緒だった職場を辞めて、今は派遣社員として働いている。今の仕事は残業が少なく、お金のゆとりと引き換えに手に入れたものは私に穏やかさをもたらした。収入はかなり減ったものの、どうしてもお金が入用な時は単発のバイトをしたりして凌ぐ。
 親には、ふらふらしていないできちんと職に就くなり、嫁にいくなりしろと言われるが、私はこの生活がなかなか気に入っている。
 私とちょうどひとまわり歳が違う彼は、40代半ばだというのにそうは見えなくなっていた。この半年でめっきり老けた。
「なんだか久し振りに会ったから緊張するよ。」
「なによ。」
「抱きたいよ。」
「嫌よ。」

 テレビに暴風警報のテロップが流れて、初めて風の音に気が付いた。
 カーテンを少し開けて外を見ると、木は風に耐えて辛そうにしており、電線は悲鳴を上げていた。
 お笑い番組を見て馬鹿笑いしていた気持ちが急に萎えた。
 今日、彼は実家に帰ると言っていたっけ。家族に邪魔にされるから、クリスマス前に帰りたいと言って。
 彼はというより、男は女よりも選ぶということが苦手らしい。AかBか、この道かあの道か、この女かあの女か。
 もう一度お笑い番組に集中しようとしても……できない。
 きっと彼から電話が来るだろう。きっと。
 やっぱり、実家に帰りたくないよって言うだろう。
 今から会いたいって言うだろう。
 どうしたら良いかわからないって言うだろう。
 
 ……そしてきっと泣くだろう。

 よく眠れないまま朝の5時になった。昨夜からの風はまだ唸っている。
 太陽が沈もうが昇ろうが、新しい日などというものがあるのだろうか。
 寝て起きただけでは何も変わっていない。私の今日は昨日から続いている。私の明日は今日から続いている。
 今日が土曜日でよかったとつくづく思う。きっと電車は使えないだろう。
 彼は、実家へ向かったのだろうか、それとも奥さんと娘の元へ帰ったのだろうか。
 数回寝返りを打ってから起き上がり、今月号のファッション詩を持ってもう一度潜り込む。
 
 携帯電話の着信音を口ずさみながらシャワーを浴びる。
『記憶の中できっと二人は生きていけるぅ……』
 さくっと化粧をして、何年か振りで実家へ帰った。
 同じ市内に住んでいてもそうそう帰らない。弟が結婚してすぐそばに住んでいた。子供はまだない。
 なんて言おう。殴られる覚悟はとっくにできている。泣かれる覚悟も。
 庭の百日紅がすっかり葉を落として、風にゆらゆらしている姿が痛々しい。
 大きく息を吸ってチャイムを鳴らし、それを吐きながらドアを開けた。
「あら、どうしたの?」
 母は孫がいないせいか、まだ働いているせいか、実年齢よりも若く見える。
「話があって来た。」
「おう、どうした?」
 父も変わらない。もう白髪の方が多くなった髪を、染めた方が良いよと言ってもガンとして染めない。
 殴られるのを覚悟して来た、そういうと両親の顔色が変わった。
「私、結婚しないで子供を生むことにした。今、3ヶ月だけど、生むことに決めた。」
 父は犬を連れて出て行った。
 母は、何をやっているのと言ってキッチンへ行った。
 私は用が済んだからさっさと帰ってきた。
 強風で車が振れる。ハンドルをしっかり握り締めて、スナックでバイトをしている友達のことを考えた。
 金を貯めなければいけない。何ヶ月まで働けるだろう。アパートももっと安いところに移って、売れそうなものは売ってしまおう。子供のものが増えていくのだから。車は……買ってもらったものだし、何かとあったほうが良いかもしれない。母親と父親役もやらなくてはならないのだから。不安が募るが、悲しくはならない。
 いろいろ考えながら、アパートの前に来ると見覚えのある車が止まっていて、彼が雨に練れた犬のような顔をしてこちらを見ていた。
(なかなか決着が付かないな……。)
 車を降りて彼が近寄ってきて、昨夜のことをひとしきり攻めた。
 何故携帯電話の電源が切られていたんだ? 何故玄関のドアを開けてくれなかったんだ? と。
「それで、何? 実家に帰るのは延期したの?」
「やっぱり、俺、農業なんて無理だよ。」
 予想通り。一度家を出たものの決心が付かずに戻り、奥さんに嫌な顔をされたと言う。俺には行くところが無いと下を向く。
「それはあなたの家庭の問題だもの、私に言われても困るわ。」
 部屋に入ろうとする私の腕を掴んで、彼は無理矢理自分の車に乗せた。
 私は別に抗わなかった。
「ねぇ、私にどうして欲しいの? 奥さんのご機嫌とって元の鞘に納まることは出来ないの? 私はそれが一番良いと思うよ。
 あのね、私もいつまでもひとりじゃないのよ。もうあなたの愚痴を聞くのもうんざりだし、これからすごく忙しくなるの。」
「なんで? 好きな奴でもいるのか?」
「ううん。赤ちゃん生むの。あなた避妊しなかったでしょう。だから忙しいから。」
 彼は私の顔を見たまま口を動かし、何か言いたいけれど何を言って良いかわからない様子で、それでも何とか言葉にした。
「君が避妊しろと言わなかったから……だから……。」

 部屋のカーテンの隙間からそっと覗くと、彼の車がまだそこにあった。
 何の保障もない私が、ひとりで子供を生み育てられるのだろうか。
 親に頼ってしまおうかと、一瞬弱気になる。
 でも、と思い直す。
 足枷がないんだもの何とかできるわ。
暴風警報 松田めぐみ

仙川夜景
伊勢 湊

「おやじさん、十分やったじゃん。あのね、たいてい他の人はもっともっと無念があってもさっさと成仏していくものな訳よ」
「頼むよ、恩に着るからさ」
 恩に着るとか言われても何かが貰えるというわけでもないし、というかむしろ下手したら警察に捕まっちゃうような気がする。
「こんな大晦日にいきなり店開けたってお客さん来ないよ。しかもこんな若造がラーメン作ってたって誰も寄り付かないって」
「大丈夫だって。ラーメンは味で勝負なんだから」
 大丈夫なわけがない。以前は僕もこの店によく通っていた。病み付きになるこってりしたラーメンでかなり有名な店だった。ラーメンブームに乗っかりファッション化したラーメン屋とは違い、店は狭いし、お世辞にも綺麗とはいえないし、おまけにラーメンを作るおやじさんは無愛想だった。でも美味かった。だから客を集めていた。そんなわけだから九月に入ってすぐに店には「都合によりしばらく休業します」という手書きの張り紙が張られていたけれど、店のファンはおやじさんが死んでしまったことをすぐに知った。仮に店を開けたとしてもおやじさんが作るわけじゃないラーメンを誰がわざわざ食べに来るというのだ? 僕だったら店の中を覗きはするだろうけど絶対に中には入らない。熱烈なおやじさんのラーメンファンの中には「おやじさんの店で勝手に何してるんだ!」と怒るのもいるかもしれない。
「頼むから、手早くやってくれ。開店時間に間に合わないだろ」
 困ったことになったと思いつつも僕はいま店でスープの仕込をしている。昨日からずっとスープ作りだ。
「おい、そろそろガラを上げろって。おい、はやく」
 それじゃなくても頼まれたら断れない性格なのだ。幽霊になったおやじさんにこうもぴったり憑り付かれたんじゃ断るに断れない。

 世の中にはどれほど霊が見える人間がいるのだろうか? 僕に見えるのだから実は結構いるような気がする。でも本当に見えるのであれば決してそれを口に出したりはしないだろう。街の雑踏を歩いていてわざわざ誰かをじっと見たりする? ちょっとくらい変わった人がいても逆に目を合わせないようにしない? だいたいそれがもしヤクザの組織の息子とかだったりしたらじろじろ見ただけで大変なことになってしまう。幽霊だって同じことだ。遣り残したことがあるから成仏しない。そのくせそれをやるための肉体もないものだから誰かそれを頼める人を探している。「おまえなにガンたれてんだ?」とか言いそうな一昔前のチンピラみたいだ。相手にしてくれる誰かを探している。すごく面倒臭い。だから本当に幽霊が見える人は見えるなんて言わないのだ。だってばれたら無遠慮にまとわりついてくるのだから。
 僕の失敗はおやじさんが死んだことを知らなかったことだ。店の前を通ったときにおやじさんがシャッターの閉まった店の前に立っていた。「あっ、やっと店開けるんですね?」思わず話し掛けていた。幽霊だなんて気が付かなかった。
「おやじさん、他の幽霊には絶対内緒だぜ」
「分かってるから早くにんにくを刻んでくれ。オレのラーメンにはこいつが不可欠なんだよ」
 というわけで僕は大晦日に他人の店に入り込んでラーメンを作る準備をしている。

 店を開けるまでは客なんて来るはずないと思っていたけど、いざ店を開けて本当に来ないとこれほど寂しいとは思わなかった。店を開けて三時間、三ヶ月ぶりほどになる開店に驚いて中を覗く人は何人かいたがみんな僕一人しかいないのを見て通り過ぎていった。なかには入り口から首だけ突っ込んで「おまえひとりか?」と聞いてきて、そうだと答えると「ふざけるな」と吐き捨てて去っていったのもいた。予想通りといえば予想通りには違いなかったがあまりに心寂しい大晦日になってしまった。べつに田舎に帰って正月を過ごそうとしていたわけでも、朝まで一緒に過ごす彼女がいるわけでもなかったが、これならクイーンズ伊勢丹でちょっと豪華な、でも売れ残って何割か安くなったおせちセットを買って帰り一人でテレビを見ていたほうがまだ寂しくない。
「おやじさん、ごめんね」
 予想通りだったのに関わらず思わずそう言っていた。
「なんで謝るんだよ。心配すんなって。そのうちお客さん入るって」
「おやじさんが店開いてるんだったらね」
「目を閉じればオレはここにいるさ」
「えっ?」
「目を閉じて味わえばオレがそこにいる。おまえのラーメンの出来はそれだけオレのに近いよ。死んでたって分かるんだ。よくやってくれたよ。ありがとう」
 細い道を挟んだ向こうを音を立てて電車が通り過ぎていく。家路へ向かう人々を乗せた電車の音が乾いた空気の中を駆ける。
「すいません」
「はっ、はい!」
 突然だった。店の前に一人の女性が立っていた。大晦日には似合わないスーツ姿だった。三十代後半だろうか。仕事の出来るキャリアウーマンという感じでこの店はあまりに似合わなかった。一瞬我を失っていた僕におやじさんがそっと声をかけた。
「頼むよ」
 そう一言。
 僕は麺を茹でて、スープを作り、チャーシューをのせ、野菜を盛った。湯気の立ち上る店の中、そういえばおやじさんがいつもそうしていたように古い歌謡曲を店の中ではかけていたのに、なぜか妙に静かだった。お客さんも静かにラーメンが出来るのを待っていた。ああ、そうなんだ。突然に分かった気がした。おやじさんがラーメンを作りつづけていたのは、きっとそういうことなんだ。
「にんにくいれますか?」
「にんにく、野菜でお願い」
 僕は刻みにんにくと、さらに野菜を多めにどんぶりにのせた。女の人は勢いよくラーメンを啜った。一口食べて感嘆の声を上げるでもない。ただ、でも夢中にラーメンを食べつづけた。そして一気に食べ終えて水を口に含んだ。
「あー、ごちそうさま」
 そして少し間を置いて一言だけ付け加えた。
「淳ちゃんの味がした」
 えっ? そう声に出すまもなく女の人は店を後にした。壁にかけられた食品衛生管理士の青いプレートを見た。それは、おやじさんの名前だった。
「おやじさん、知り合い?」
「ああ、うん。大学時代の友達だよ。ずっと好きだったんだ。こんな商売してたし、いろいろあって結局そう言ったことはなかったけどな」
「そうなんだ……」
「有名な服飾デザイナーだよ。結婚したけど離婚して、一人娘とは会ってないって言ってたけどな。毎年、大晦日には食べに来るんだ。会社帰りに」
 おやじさんはそういうなり黙ってしまった。生きてたって死んでたって、やっぱりみんな人間で、死んだ人に当てはまるのかどうか分からないけど、たぶんこういうのも人生の一部なんだと思う。
 年明けが間近に迫り、店の中の蒸気の中におやじさんの姿が薄くなりつつあった。お互いに言わなくても分かっていた。おやじさんはもうすぐここからいなくなる。他には客は来ていなかった。なにもかもがうまくいくわけでもない。
 店じまいの真夜中が近づいた頃、もう一組だけ客が来た。三人組でそのうちの一人はさっき「ふざけるな」と吐き捨てて去っていった男だった。三人組は「にんにく、野菜、脂多め」という以外には何も言わず一気にラーメンを食べ終えた。最後に一言だけ「弟子がいたなんて知らなかったぜ」と言い残して出て行った。
 別にラーメン屋になるつもりはなかったけど、素直に嬉しくて消えていくおやじさんに「ありがとう」と声をかけた。
仙川夜景 伊勢 湊

『病室のラプンツェル』
橘内 潤

 宗のいない日が多くなって、本を読んでいる時間が増えた。
 病院での暮らしというのは変わり映えのないものだけど、それでも、暇つぶしに勉強できるほど秀才肌じゃないわたし。なので結局、漫画や小説を読んでばかりで一日が終わる。これでもし読書が嫌いだったら、わたしは退屈すぎて発狂してたんじゃないだろうか。
 もちろん、読書といってもミシマユキオやドエストフスキーなんて難しそうなものは読む気がしない。もっぱら、週刊の漫画雑誌やティーンズ向けの小説、あとはエッセイとかばっかりだ。
 そうした本のなかで印象にのこっているものの一冊が、『本当のグリム童話』というタイトルの本だった。これはグリム童話の初版本に書かれていた内容を収めた本だった。「シンデレラ」や「いばら姫」「赤ずきん」など、だれもが知っている童話が最初はこんな話だったなんて……と読みふけったことを覚えている。
 ラプンツェルの話も、そのときに読んで知ったことだった。わたしにはシンデレラよりも白雪姫よりも、ラプンツェルの話がずっと強く印象にのこっていた。あの頃はそれがどうしてかは分からなかったけど、ようやく分かってきた気がする――というより、おもいだした。
 わたしの夢はお姫さまになることじゃなくって、お嫁さんになることだった、ってことを。

 宗は医大に通うようになって、受験生だった頃よりもずっと忙しくなっていた。レポートや実習に追われる毎日で、なかなか由佳の見舞いにいく時間をつくれないでいた。それでも、どうにか合間を縫って来てくれることが由佳にはとても嬉しかった――ベッドの隣の丸椅子に腰掛けたまま眠ってしまう宗に、申し訳なくて泣きそうになるほどに。
 宗が来てくれることほど嬉しいことはないのに、笑顔でいるのが日に日に辛くなっていった。

 夜の病室。
 椅子に座ったままで熟睡してしまっていた宗が目を覚ます。夕方に見舞いに来てからずっと、眠ってしまっていたのだった。
「あ、起きたんだ」
「ごめ―――!」
 ごめん寝ちゃって、と謝ろうとして宗は絶句する。
 窓から差し込む月明かりが、由佳の白い肌を滑っていた。パジャマのボタンはすべて外されていて、胸のなだからな稜線が露わにされていた。
 宗はがばっと首を九十度横にして目をそむける。
「な――な、な……なにを、」
 たったいま目に焼きついた映像のせいで声がうわずる。
「―――」
 由佳はパジャマの前を肌蹴たまま、なにも言わない。息遣いだけが、いやに大きく聞こえてくる。しんとした病室で、由佳の息遣いだけがうるさい――とおもったら、宗自身の呼吸音も大きく聞こえていた。それから鼓動も、ずっとまえ友達に誘われて行ったロックバンドのライブを最前列で観たときみたいになっていた。鼓膜が破れるんじゃないかとおもう。鼓膜だけじゃなくて、目もちかちかする。頭が熱くて、ぼぉっとしてくる。がんがんに熱くて、ちかちかくらくらして、目も耳も呼吸もおかしい。
「由佳……服、着ろよ……」
 やっとのことで意味のある言葉を口にした。でも由佳は動かない。ベッドの上で上半身を起こしたまま、じっと宗を見つめている。目を背けたままの宗だったが、由佳の視線を痛いほど感じていた。
「ねえ――」
 由佳がようやく、声を紡ぐ。
「抱いてほしいの……」
 その声はすこし震えていて、冗談にして笑い飛ばせそうな雰囲気じゃなかった。
 宗はまるで嫌がるように――実際は頭のなかが熱くって、なにを考えるべきか分からないんだけど、なにかを考えなくちゃという使命感めいたものを感じながら――視線を由佳へともどす。
「由佳、その……え、と……おれ――」
「……わたしじゃ、だめ? 魅力ない?」
「ば――っ、違う。その逆だって!」
 しゅんと項垂れる由佳に声を強めてから、はっと口を閉ざす。この状況を見回りの看護婦に見つかりでもしたら――と声をひそめる。
「――その逆で、おれ、頭に血が上って、どうしたらいいのか分かんないくらいで……」
 とつづけて、由佳のあられもない姿に改めて赤面する。宗の反応に、由佳も両手を所在無さそうにさ迷わせる。
「ばかっ、あんたがそんな顔したら、あたしだって――恥ずかしいじゃない」
 由佳が身じろぐと月明かりがその肌をくすぐる。それが妙に艶かしくって、宗は喉から飛びだしそうな心臓を飲み込む。
「恥ずかしいんだったら、ボタン、留めろよ」
「……うん」
 素直に頷いてパジャマの前を合わせる由佳。ようやく目のやり場に落ち着いて、宗は安堵の息をつく――が、まだくっきり焼きついたままの光景が消えなくて、由佳とまっすぐ目を合わせられない。
 ちらちら視線を揺らしながら、口早に言う。
「由佳……人をからかうのも程々にしとけよ」
 いまのことを冗談にしてしまおうとおもった。
「……うん」
「お……おう、分かればいいんだ。うん」
 また素直に頷かれて拍子抜けしてしまう。由佳は宗のほうを見ずに、正面の空間を見つめている。
「ごめんね、もうしないから。ごめん」
 きゅ、と小さな両手がパジャマの裾を握りしめていた。

 わたしはラプンツェルになりたかった。
 真白な荒野で王子様を待ちつづけていられるだけの強さがほしかった。ううん、強さとかそんな曖昧なものじゃなくって、目に見える証がほしかった。宗を信じていて良いんだ、という証がほしかった。
 抱いてほしかった。
 わたしは本気だった。冗談なんかで誘えるほど、オトナじゃない――だけど、「待ってろ」って言葉だけで待ちつづけていられるほどコドモじゃなくなってしまっていた。
 充実した顔で「忙しい忙しい」って言う宗を、いつの間にかまっすぐ見れなくなってた。宗と目を合わせたら、縋りついて「置いてかないで」とか言ってしまいそうでイヤだった。
 日毎、宗が遠ざかっていくのを感じていた。宗の目から、わたしの姿が消えていくのを感じていた。
 ねえ――わたし、髪のばしてるんだよ。もうそろそろ肩に届くんだよ。なんでなにも言ってくれないの? 「髪、のびた?」って聞かれたら「気づくのが遅い!」って怒ってやるんだから……って、ずっと待ってたんだよ。

「……由佳?」
 正面の壁を見つめて黙りこくる由佳に、たまらず声をかけてしまう。いままで見たことのない、思いつめた横顔。
「―――」
 そういえば、こうやって由佳の横顔を見るのなんていつ振りだろう――宗はふと、そんなことをおもった。
 記憶のなかの由佳は、怒ったり笑ったり、ときたま泣きそうな顔をしていたりする。だけど、どんな表情のときにもひとつだけ共通点があった。由佳はいつも、宗をまっすぐ見ていた。由佳の横顔をこんなに長く見ていたことなんてなかった。
 ――本当にそうだったろうか?
 こうして思いだそうとすると浮かんでくるのは、ずっと以前の記憶ばかりなことに気がつく。笑っている由佳も怒っている由佳も、いま見つめている横顔より、ずっと幼い。いつから由佳は、こんな大人っぽい顔をするようになったのだろう。
「由佳」
 言葉が気持ちを追い越す。自分がいまなにを言うべきか、なにを言いたいのか、分からない。
「由佳――髪、のばしてたんだな」
「……ばか、遅いよ。気づくの、遅すぎだよ」
 堪えていた涙が由佳の頬を伝った。
 顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくる由佳を、宗は強く抱きしめていた。
『病室のラプンツェル』 橘内 潤

花の歌
スナ2号

 物語にはきっかけが必要ですが、ここでそれをあげるとすれば、今年は、なんと冬が来るのが早かったことでしょう。
 あっという間に葉は落ちて茶色いカーペットに変わり、気がつけば、冬将軍率いる大軍勢の足音が、すぐ近くまで迫っているのでした。
 慌てたのは、森の住民たちです。草を食もうにも、あるのは枯れ草ばかり。木の実は、秋の間に食べつくし、欠片も落ちていません。兎やリスたちは、せめて寝床を暖かく整える以外にありませんでした。
 次に困ったのは、彼らをご馳走にしている動物たちです。兎たちが早々に巣穴に篭ってしまったため食物がなく、やはりすごすごと自分の巣穴に納まりました。こうして動物たちは、何ともひもじいまま、冬の眠りについたのでした。
 しかし、中には、諦めの悪い輩もいるものです。
 ある日、狐は、飛び起きました。温かな兎シチューの夢をみたのです。目覚めると、現実のひもじさが、胃のぎゅうという締め付けとともに、一層身に染みました。
「これはいけない」
 狐は呟きました。
「このような状況は、改善されるべきだ」
 マフラーをつかむと、狐は巣穴の外に出ました。
 将軍は、すっかり森を進軍の拠点と決め込んだようで、森の方でも雪の化粧を纏って、もてなしをしているのでした。身震いをすると、狐は散策を始めました。しかし、前も後ろも、真っ白な雪ばかりで、野鼠一匹見当たりません。流石の狐も気が滅入ってきました。
 その時、真っ白な地面に、ぽつりと紫の染みがつきました。近づいてみると、なんと、スミレの花でした。
 うっかり者のスミレは、目覚ましをセットし間違えて、真冬に顔を出してしまったのです。咲いてびっくり、あまりの寒さに、スミレは、しまったと思いましたが、じゃあ出直して、というわけにもいきません。周りを見回すと、狐が立っていたので、ホッとして声をかけました。
「こんにちは、狐さん。ご機嫌いかが」
「最悪ですよ。こう寒くちゃ、やってられない」
 狐は愛想よく応えました。
「そうかしら。真っ白で、綺麗ですよ」
 いかにもそれはスミレの強がりでしたが、狐の頭には、ある企てが浮かんでいたため、スミレに調子を合わせました。
「そうですね。あなたに会えただけでも、来た価値はあった。あなたの紫色は素晴らしい。声も、まるで鈴を転がすようだ。歌でも歌ったら、さぞかし綺麗だろうな」
 スミレは、色が変わるほど赤くなりました。
「一つ、私のために歌ってはくれませんか」
 スミレは、大いに照れて、それでは、と咳払いをして、歌い出しました。
 スミレに歌を歌わせて、スミレを食べるためにやってきた兎を、逆に失敬してしまおう、というのが、狐の思惑でした。が。
 その歌声のひどさときたら。もし小鳥でも聴いていたら、地に落ちるかという程のまずさでした。こんなに下手では、誰も寄ってきません。
「やめろ、このど音痴」
 狐が飛び上がって叫びました。
「いいか、お前はど音痴だ」
 スミレは目を見張りました。
「明日また来てやる。練習しときやがれ」
 狐が去った後も、スミレはしばらく呆然としていましたが、ぽろぽろと悔し涙を流すと、歌の練習を始めました。
 翌日、狐は昨日の場所へ行きました。すると、スミレの数が増えているではありませんか。白い地面に、紫の花壇ができたようです。暢気なもので、スミレたちは、地上の歌の練習を聴いて、春だと勘違いして咲いてしまったのです。
 皆で歌の練習をしていましたが、やはり聞くに堪えない音痴なのでした。
「諸君」
 狐が、指揮棒代わりの枯れ枝を上げて、花たちを静めました。
「よく聞け。花の歌は本来、美しいものだ。しかし、君たちの歌はどうだ。私は恥ずかしい。歌うなら、聴いたものが、自然と集まってきてしまうような、美しい歌を歌わなくてはならない」
 スミレたちは、熱心に狐の言葉を聞きました。
「手本を見せよう」
 と言って狐は歌いましたが、それが、言うだけあって上手いのです。心の竪琴に、じわりと響くような歌声なのでした。
「いいか、まず音階だ。これが出来てなきゃ、どんないい声も台無しだ。次に、歌を愛する心。それが、聴く者に、ずしりとくるのだ。どうだ、私についてくるか」
 効果絶大。スミレ達は我も我もと教えを請い、狐はほくそ笑みました。スミレ達がちゃんと歌えるようになれば、兎シチューは手に入ったも同然です。
 とはいえ、あんまりスミレの歌が無残だったので、毎日の稽古は、厳しいものでした。狐は指揮棒を振りかざし、叫び通しです。
「違う! デーの音だ! もう一度」
 気がつくと、辺りが真っ暗になっていることもあって、狐も花達も、すっかり声を嗄らしているのでした。
「明日までに、各自復習」
 狐はぐったりとして、スミレ花壇を後にしました。へとへとに疲れていたせいか、花壇の周りで誰かが、息を潜めて狐を見ていることにも気付きませんでした。
 巣穴に帰ってからも、眠る暇はありません。
「スミレ15番は、声は高いが、音域が狭いから、メゾにした方がいいかもしれん」
 独り言を言っては、細かくメモを取ります。
 こうして時間は飛ぶように過ぎていきました。
 飲み込みの遅いスミレ達でしたが、ある日突然、歌の女神が微笑んだかのように、めきめきと上達し始めました。
 ある日、狐はスミレ達の歌を、無言で聴いていました。歌い終えると、狐はゆっくりと言いました。
「今までレッスンを続けてきたが、今日ほど素晴らしい出来は初めてだ。目覚しい進歩だ」
 狐の目は、しんしんと輝きました。
「ここで、けじめをつけよう。少々都合がいいようだが、明日は25日、クリスマスだ。これまでの君達の、集大成を示せ。今まで学んだ曲を、全て通しで歌ってみてくれ」
 狐が帰りかけると、
「先生」
 一人のスミレに呼び止められました。
「私達、先生にご指導いただいて、本当に感謝しています」
 狐は、そうか、とだけ答え、振り返らずに巣穴に帰りました。それ以上言葉を交わすと、泣いてしまいそうだったからです。
 次の日。雪はやんで、ほんのかすかに陽が差しています。
 狐は、無言でスミレ達の前に立ち、指揮棒を上げました。
 もろびとこぞりて
ハレルヤ
 大地賛賞
 喉を嗄らして練習してきた曲が、森中に響き渡りました。澄みきった歌声を聴きながら、狐は、心の中で呟きました。諸君。教えるべきことは、もう何もない。
 合唱は終わり、狐は、胸がいっぱいで、それでも何とか言葉を紡ごうと、口を開きかけました。
その時です。
 ワーッという歓声が沸き起こり、狐は振り返りました。スミレ花壇と狐の周りには、いつのまにか大勢の森の住民たちが集まっていたのです。小鳥、兎、リスたちはもちろん、森の暴れ者の熊たちまでも、盛大な拍手を送っています。
 狐は微笑んで、観客におじぎをし、握手はできないので、スミレの一人から、頬にキスを貰い、そして、皆があけてくれた花道を通って、自分の巣穴に向かって歩きました。拍手は、狐が帰ってからも続きました。
 やがて静かになり、森には、また冬の静寂が戻りましたが、狐はスミレ達の歌と、観客の拍手を何度も思い出していました。
「僕だって、人の役に立つことができるんだ」
 狐は、満足そうに目を閉じました。
 空っぽの胃袋など、最早彼方のことでした。シチューよりも温かい何かが、狐の体中を包んでいました。
 
 次に目覚める時は、もう春でしょう。