何と言うこともない日
中川きよみ
「どうも様子がおかしいと思っていたが、ようやく分かったぞ。俺は、ニンゲンじゃない。ニンゲンの亜種だ! 変異体だっ!」
朝刊を黙々と読んでいた筈の父が、突如そう言った。
父が亜種だったら、娘の私も亜種なのか? と問いただそうと思ったが、あまりにもばかばかしいので放っておいた。
頭がすっきりしないので、朝食代わりにコーヒーを飲もうとしたら切れていた。10秒くらい、試供品でもいいから何かないかと考えてみたけれど、思い付かなかった。
昼すぎ、裏のマンションで頭のヒューズがとんだパキスタン人が暴れたらしく、警察沙汰になっていた。パトカーが2台もやってきて、下校途中だった小学生が群れていた。
「コロサレマァス! ワタシハ、ケイサツショニ、コロサレマァス! ミナサァン、ミテイテクダサァイ」
あまりにも騒々しいので私も見に行ったら、野次馬の最前列で父がとても悲しそうな顔つきで目ばかりを落っこちそうなくらいに大きく見開いていたので、止むを得ずひっぱって帰った。
「あいつ、大きな植木鉢を丸ごと外へ投げたんだ。ガチャンとひどい音がして、ゴムの木まで道路に散らばったよ。」
件の外国人の男は2階に住んでいるらしく、そのベランダから表の通りへ放り投げたらしい。下にいた父を含む野次馬連中に当たらなくて本当に良かったと胸をなで下ろしたが、父は投身自殺させられた哀れなゴムの木に感情移入しているようだった。
「俺はな、亜種だからもういいんだ。亜種だから。」
父が言うと「亜種」は子供が「明日」と言ってるように聞こえるなぁと、何気なく聞き流す。
父はあまりにも真面目すぎて平均的な軸から少しズレているので、この種の言動は過去にもあった。自分のズレをどうにかして埋めて世の中と折り合いをつけるために、今日は「亜種だ」などと言い出したのだろう。可哀想とかどうとかいう問題でもないし、もしかしたら脳味噌は亜種なのかもしれない。
夕方になって、また姉から電話がかかってきた。
ときどき、こうしてかかってくるのだが、今日はきっと父のことが心配になってかけてきたのだろう。でも別に父に取り次ぐわけでもなく、たわいもない話をして少し笑ったりした。
「昨日ね、いつだったかあの水で騒いだフランス家庭料理のお店の通りに行ったの。そうしたら、いくら探してもあのお店見つからなくて、なんとレンタルビデオ屋になっちゃってたの。」
姉はひどく残念そうに言った。
「あら、本当?」
ずいぶん前に姉と訪れた折、塩味の強い料理の後で猛烈に水が欲しくなった。店長が一人で切り盛りしている小さなお店だったのに店長の姿が見当たらず、閉口した挙げ句に「いまここに泥水あったら喜んで飲むわ」とまで喋っていたら柱の陰で店長がひっそり座っていたのだ。ものすごくバツが悪かった。
「どっちみち、もう二度と行けないじゃない。」
「それはそうなんだけれど。」
それでもやっぱり姉は未練があるような口振りだったので、思わず笑う。
突然の事故で母と姉が急逝してから、もう2年が経つ。どういう訳か、電話は姉からしかかかってこない。母は生前、筆無精な性格だったが、それは死んでも治らずそのまま電話無精になっているのだろうか。母らしい。
ユーレイからの電話、と平らな言葉で表現すればちょっと怖い気もするけれど、私にとって、やはりそれは姉からの電話でしかないのだった。
「パキスタン人が暴れちゃって警察来たの、見てた?」
「ああ、見てた。見てた。彼、ちょっと心を病んでるのよ。クスリの反応は出なかったし、誰も怪我した訳じゃないから警察もどうすることもできなくて、もう帰ってきてるよ。」
「えっ? あっ、本当?」
「誰だって、心を病むことはあるわよ。お父さんも、朝刊見て具合悪くなってたじゃない?」
「あ、そうだったの? 原因は朝刊?」
いつものように、夢から覚醒する時に似た感じで急速に現実感が遠のいて、気が付くと私はどこにもつながっていない受話器を持ったまま寝惚けたように一人で喋っていた。
いつだって私は半端に一人取り残されている。もう、ちっともせつなさを感じられないくらい慣れてしまったことは、もしかしたらせつない。どっちにしても、ただやれやれと首を振るだけで事切れている受話器を戻す。
父は居間のソファで涎を垂らしながら眠っていた。
コーヒーが切れていたことを思い出して、それから奇跡的に近所のコーヒー専門店が今日までセールをしていることを思い出して、時計を見てから自転車に乗って買いに出掛けた。
夕暮れの商店街はそれなりに活気があっていい感じだった。
コーヒー専門店の隣はたこ焼き屋で、夕飯は面倒だったのでたこ焼きで済ませることにした。
私の前には2人が並んでいた。日没後の美しいグラデーションを描く空を眺めながらたこ焼きの順番を待っていると、チャリンと軽い金属の音に耳が反応した。
焼き上がったたこ焼きを持ったオバハンが、どうやらお釣りの一部を受け取り損ねたらしかった。手にいっぱいの荷物と残りのお釣りにすっかり気を取られて、オバハンは落としたことに気付いていない。私の順番になって見つけたらそれとなく拾ってもらっちゃおうかなぁと、一瞬でケチな計算を完了したとき、私のすぐ前に並んでいた男の人が屈んだ。私は少なからず落胆する。
「アノォ……」
意外にも彼は気弱な声でオバハンを呼び止め、手渡そうとしていた。夕暮れにも明らかに色味が違う肌の色。騒ぎの時にきちんと見ていないので、目の前の彼が昼間暴れた「コロサレマァス」のパキスタン人かどうか断定はできなかったけれど、とてもよく似ている気がした。
オバハンは声をかけられて瞬時ムカッとした顔をしたくせに、彼の好意を知った途端に「あらぁ、すみません~」とけたたましく何度もお辞儀していた。
もちろん人違いである可能性は大きいけれど、それでもやはり目の前の異国の男性が少なくとも「殺され」そうには見えないことに安堵した。
「8コ、クダサァイ」
職人気質のオッチャンは、彼の小さな声が聞こえなかったかのように無表情のまま黙々とたこ焼きを焼き続けていたが、ほどなくして鮮やかな手つきで8個を舟に盛りつけた。
「はい、まいど。」
ほのぼのとまでは言えないが、悪くない光景だった。
昼寝をしたからか、父は少し調子が良くなっていたようだった。
2人でたこ焼きを食べて緑茶を飲むと、穏やかな充足感が食卓に漂った。テレビのニュースを見ながら、ふと姉の言葉を思い出す。
テレビの前に放ってあった朝刊を手に取り、丁寧に読み直すと社会面で小さな記事を見つけて「ああ」と思う。
テレビのニュースにしろ、毎日の新聞にしろ、扱っているのはおよそ楽しくない心が痛くなるような事件ばかりなので断定はできかねるけれども、きっとこの記事を読んで父はいたたまれなくなったのだろう。そしてニンゲンであることを放棄したくなったのだ。
「父さん、新聞というのは特別な事件だから載せるんだって、誰かが書いていたよ。新聞にも載らずに、隣のバアさんがこんなことをするようになったら、存分に亜種にでも変異体にでもなればいい。安心していいよ。」
「……そうかねぇ。」
父は微かに笑うと、風呂に入るために納戸へ下着を取りに立ち上がった。目の前を通り過ぎる股引に、寝臭いやわらかさを嗅ぎ取ってなぜかせつなくなった。