千夜一夜物語
るるるぶ☆どっぐちゃん
クリスマスもとうに過ぎた29日の夜半過ぎ。路地裏には高級外車が止められていて、時折がたがたと揺れている。
がたん、がたがたがた。
「ちくしょう、なんだよこれっ」
運転席の男はギアをがちゃがちゃと操作しながら叫び、そしてまたがたん。ハンドルをばんばんと叩き、ちくしょう、ふざけんな、と怒鳴る。馬鹿にしやがってこのやろう。黒髪が顔にべたりと張り付いている。助手席のしんしあは、ごめんなさい、と言いたいのだが言ったら言ったらで黙ってろ、とか怒られるので黙っている。前を見て、後ろを見て、そしてバックミラーを見て髪をなおす真似をして、また前を見る。がたん。がたっ。ちくしょうどうなってんだよこれっ、全然言うことをきかねえぞ。がたん。ばんばんばん。ハンドルを叩く。
「だいだいな、だいだいだよ。おかしいんだよ。なんでこんなでかい車なんだよ。おかしいだろ、なあおい」
しんしあは黙っている。しんしあとは源氏名で、戸籍上の本名は信二と言う。信二で十五年、しんしあとして十五年、彼は生きてきた。
「おい、聞いてるのかよ」
「え、ああ、ごめんなさい」
「ごめんなさいじゃねえんだよ。なんでこんなでかい車なんだって聞いてんだろ。なんでこんなでかい車を持ってくるんだよ。でかいし目立つし。不便だよ。良いこと何にもねえよ」
「えっと、ええとね、だってさ、こういう大きくて立派な車の方がきっとあなたは慣れているだろうな、と思ったし」
がたん。また車が揺れる。ちくしょう。なんでこうなるんだ。
「それにあなたはこういう車じゃないといやかなあ、と思って。ほら、あなた笑うじゃない? 街中で小さい車を見るとさ。情けねえ。あんな車なんかに乗りやがってさ。恥ずかしいと思わないのかね、って」
がたん。衝撃の拍子で男は手をつく。スイッチが入り、ワイパーが動き始め、ウインカーがちかちかと点滅をはじめた。
「だがそれとこれは違うだろ! 別問題だよ」
「そうなの?」
「そうだよ、違うよ。全然違うよ。逃げるんだろ今から。よりによってこんな車をどうして盗んでくるんだよ。逃げるのに不便だろ、でかいし目立つし、なんかちかちかうるせえしよ」
「うん、うるさいね」
「返して来い」
「え?」
「これ、返して来い。元にあったところに」
「え? 今から?」
「そうだよ今からだよ。あたりまえだろう、時間が無いんだからさ」
「でも」
「でもじゃないよ。早くしろよ。時間がな、無いんだよ。解っているのか?」
「解っているよ」
「じゃあ早くしろよ」
「うん、でもさあ」
「うるせえ」
男は大声で叫び、しんしあを殴る。
「うるせえんだ、早くしろよこの馬鹿野郎! うすのろ! バイタ!」
「解った」
しんしあは頬を抑えて涙ぐみながらそう答えた。
男はドアを開け、運転席からさっさと降りてしまう。
「ほら、早くしろ」
「うん」
しんしあは運転席に座り、エンジンをかけ、シートベルトを締めた。
「それじゃあね」
「ああ、待ってるから早くしろよ」
しんしあは車をバックさせて路地裏から出て行く。さすがに高級車であり、スムーズに路地裏から出て行った。
男は一人路上に残される。今日は大変な日だった、と男は思う。男は初めて人を殺した。
昼過ぎに起きて、しんしあと共にパーティに出かけた。間の抜けたパーティだった。誰の主催で何を祝っているのか。ぼうっと飲んでいると男に誰かが話し掛けてきた。
「はじめまして。いやあ感激だな、あんたとこんなふうにパーティで会えるなんて。俺もようやくここまできたか」
「昔からあんたのファンだったよ。ずいぶんと影響を受けた。今は違うがね。あんたは時代に取り残されているよ。古いし、頑なだ」
「あんたの作品、ここ数年のは見てない。俺には見る価値も無かったからね。あんたはもう、駄目さ。自分でも解ってるかもしれないが、もう駄目だよ。何も変化が無い」
「これからは俺さ。俺が時代なんだ。時代を語るんじゃあない。時代が俺になるし、すなわち、俺が時代なんだ」
「あんた達はそこが違ったんだ。あんた達はただ単に時代を見ていただけだった。あんたちは、それだけさ。時代を語っただけさ。無力だった。ただ単に、瞬間芸さ」
「だいたい今時、男とつきあっているなんて時代遅れもいいところだよ」
「男はね、こんなふうにいい女と付き合って、仲良くやるもんなんだよ、な、おまえもそう思うだろう?」
男は殴りかかる。悲鳴。嬌声。罵声。やっちゃえ。誰か止めろ。がちゃん、がしゃん、食器の割れる音。
そして男は相手のシャツの腹に、割れたビール瓶が突き刺さっているのを見る。ぐったりと倒れ、ぴくりとも動かない。じわじわと床に血が広がっていく。
静かであった。誰一人騒がない。非常に静かであった。その静寂の中、男はしんしあを連れて会場から出て行った。
(寒いな)
路地裏には雨が降り出した。雨だか雪だか良くわからない雨であった。非常に冷たい。寒い。男は一人だった。しんしあは帰ってこなかった。いつまでもしんしあは帰ってこない。男は静寂の中、一人残された。
たまらずに歩き出す。街灯を頼りにふらふらと歩きつづける。しんしあはどこへ行ったのか。男は歩きつづける。
「こんばんは」
女がしゃべりかけてきた。
「こんばんは」
気が付けば自宅マンションの前であった。玄関への階段に女は座っていた。体が雨に濡れていたが、女は寒そうなそぶりも見せずに男に笑いかける。
「待ってましたよ。今日は本当にすみませんでした」
女はパーティ会場で男が刺した相手の連れであった。本当に失礼なことを言い申し訳ありませんでした。さぞかしご迷惑だったでしょう。幸い、連れの傷は大したことが無く、ショックで気絶しただけで、命に別状は無いし、それにあれも反省しています。今度正式に謝罪したいと言っています。少し口が過ぎたけれども、昔からのファンで、ようやく会うことの出来た感激のせいであって、本心ではまったく無く、ともかく許して欲しい。そのように言っています。
「ですから許してやってください。本日は本当に申し訳ありませんでした」
女はそう言い終えるとぺこりと頭を下げた。
「ああ、気にしてないよ」
「本当にですか?」
「ああ」
「良かった」
「ねえ、シャワーでも浴びていったらどうだい? ずいぶん濡れているよ」
「良いんですか?」
女はきらきらと光る瞳で男を見上げる。
「うん、良いよ」
そして二人はシャワーを浴びて、裸のまま共にベッドに入った。
女は十九で、素晴らしく瑞々しい体で、とてもいい匂いがした。しんしあのごつごつとやせ細ったからだと違い、柔らかく、すべすべとしていた。どこを触っても女は喜んだ。性器はすぐにぐじゅぐじゅに濡れた。どんどんと溢れていった。
「ねえ、お願い、もうあたし……」
「ああ、解っている……」
「ねえ、本当に、お願い、じらさないで」
「ああ」
そして男は、どうしても立たなかった。どこをどうしても、結局立たなかった。
「気になさらないでね」
「ああ」
「あたし、帰りますわね」
女はそう言うと服を着て部屋を出て行く。ベッドに座ったまま、男は見送った。
男は一人残された。手元には酒も煙草も無かった。だらりと横になる。
どんどん。ドアがノックされて男は飛び起きた。
女がまた帰ってきたのかと思ったが違った。しんしあだった。
「あの女の人、かわいかったわね」
裸のままの男に、しんしあは笑いかける。そして女の匂いのこもったベッドに座る。
「ああ」
「あたしも昔はああだったけれど。あのね、あの車だけれどね、おばあさんのだったの。なんか亡くなったご主人がお金持ちで、車が好きだったみたいでね。それでなんか話しているうちにとても仲良くなってね。くれたわ車。慣れたらね、便利よあの車。大丈夫、運転の方法は教わってきたから。あたしが教えてあげるから大丈夫よ」
「免許無いんだ」
「うん、それならあたしが運転する。助手席はいや?」
「それに逃げる必要もなくなった」
「そうよね。きっとそうだな、って思ってたから。じゃあ良いじゃない。お買い物とかに使いましょう」
「金も無いよ。借金だらけだ」
「大丈夫、あたしが稼ぐから。大丈夫よ」
そう言ってしんしあは男を抱きしめる。化粧を落とし、ウィッグをとったしんしあは女には見えずかといって男にも見えず、とても不思議な感じである。
「こんな日が来るとは思わなかった」
男は呟く。
「運命の恋だと思っていた。これが最後の恋だと。ずっと一緒で、側にいるだけで幸せで、お互いを高めあって、お前の事を思うだけで強くなれる。そんな恋だと思っていた」
「あなたは強いわ。ねえ、とても好きよ」
「殴ったり浮気したりおまえの言うことにいちいちいらいらいしたり、そんなことは絶対に起こらないと思っていた」
「ねえ、愛しているわ」
しんしあは男を抱きしめる。しんしあは強かった。沢山のものを愛し、沢山のものに憎まれ、それでもなお沢山のものを愛し。
男は違った。何も愛したことが無かった。ただ小さな、とても小さなものだけを守って生きてきた。そしていまだにそれを守って生きている。
男はぶるりと震えた。何も見ずにしんしあの体を抱く。しんしあは男を抱きしめ、ようやく空けて来た夜の彼方を、昇りくる朝日を、静かに見つめる。
もうすぐ夜が終わる。