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3000字小説バトル

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3000字小説バトル
第49回バトル 作品

参加作品一覧

(2005年 1月)
文字数
1
伊勢 湊
3000
2
るるるぶ☆どっぐちゃん
3000
3
ゆふな さき
2998
4
のぼりん
2022
5
ごんぱち
3000
6
長田一葉
3000
7
イシヅカレン
2923
8
(本作品は掲載を終了しました)
ウーティスさん

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新しい一日は日の出と共に始まる
伊勢 湊

「ちょっと待ってください。どうしてそんなに急に!」
「別に急じゃない。三ヶ月前から決まっていたことだ」
 事務局の椅子に座った所長がくるりと後ろを向きながらそう言った。分からない訳じゃない。所長としても辛くない訳はない。そしてたぶん僕が中国でのフィールドワークに出かけている間にこの決定をし、引っ越しをすませてしまおうとしたのも、たぶん自分一人悪者になろうとした優しさのためだと、そんなこと僕にだって分からない訳でもない。でも、それでも強く拳を握らずにいられない。噛み締めた奥歯が音を立てるのが聞こえた。
「どうして、こんな」
「ハオのやつは明日の朝ここを出る。向こうの国に着いてもあいつなら上手く生きていくさ。おまえも明日は学会での発表があるんだろう? それに三ヶ月も家を空けていたんだ。早く帰って顔を見せてやれ。ハオには、もう会わない方がいい」
「そんな……」
「あいつは分かってくれるよ」
 僕は拳を強く握りしめたまま部屋を出た。どこへ向かうべきなのか、頭の中でははっきりしていた。妻と娘へのお土産は買ってある。この動物園で働き、いつしかパンダの研究家とし名を馳せるようになり国際プロジェクトでもあった長期のフィールドワークにも参加させてもらえるようになった。妻も娘も家を空けるわがままを受け入れてくれた。明日からの学会では僕は大きな反響を得ることが出来るだろう。たぶん、いまは少しでも早く家に帰り、二人と一緒に過ごし、そして明日からの学会に備えるべきなのだろう。学会での発表が上手くいけば家族にももっと楽をさせることが出来るようになる。
 答えは分かっている。あいつもそうしろと言うだろう。この動物園が有名になったきっかけ、生まれたときから僕と所長でずっと世話をしてきたパンダのハオ、あいつだってそう言ってくれはするだろう。

「帰ってきちゃったんだね」
 パンダ舍の前に立ち、でも目を合わせられない僕にハオはそう言った。
「そんな顔しないでよ。そりゃあ海の向こうには行くけどさ、死に別れる訳じゃないんだから」
「ごめん」
 僕は声を絞り出してやっとそう言った。
「いいんだって。所長さんから何度も何度も謝られたよ。もう飽きちゃうくらいに」
「どうしてそんなに大人ぶったこと言うんだよ。生まれたときはこんなに小さかったのに」
 あの日のことはいまでも鮮明に目に浮かぶ。ハオは初めての日本生まれのパンダだった。
「僕たちは絶滅危機種だもん。僕が外国に行って種が守られるなら行かなきゃ」
「でも、それとこれとは」
「いいんだよ。それに写真見たんだけど僕の許嫁はすごく美人なんだ」
 何も言えなかった。言葉にすれば全てが嘘くさく聞こえてしまいそうで。
「早く帰って奥さんと娘さんに顔を見せてあげなよ。それに明日は大事な学会でしょ。ほら、はやく」
 僕は頷いてその場を後にした。嘘で塗り固めた優しさに従って。

  家に帰ってもうあとどれくらい抱きかかえられるか分からないほど大きくなった娘を抱きかかえ、妻に大きなお土産袋を渡した。数々の手料理と鍋が用意され、家族三人で久しぶりに食卓を囲んだ。僕は中国での話をいろいろ話して聞かせ。妻は親戚や近所の近況を、娘は小学校の出来事を話してくれた。でも僕は心のどこかでそれに集中できずにいた。ふと会話が途切れた。僕はぼんやりテーブルのうえを眺めていたのだと思う。はっとして顔を上げると妻と娘が僕を見ていた。でもそれは予想していたような困惑した表情ではなかった。
「バカね。ふたりして貧乏で、先が何にも見えない頃から一緒にいるのよ。お酒が出てないことに気が付かなかったの?」
 妻が微笑みかけていた。娘がとことこ走って僕の上着をとってきた。
「たぶん、そういう気持ち、理屈じゃないから。ねっ」
 と妻は娘に笑いかける。
「うん。カナもハオちゃん大好きだから」
 いつだって僕は一人じゃ何も出来ない。でも僕は決して一人じゃない。気持ちさえ後押ししてくれる誰かがいる。
「カナ、夜更かしは今日だけだぞ」
 僕は無理に表情を作ってそう言ってみたけど二人は笑っていた。みんな大人で、そしてみんな子供だ。

 車を走らせて動物園へ向かう。動物園に着くとまだ明かるかった所長室から所長が車の鍵を手に出てきた。
「その車じゃ、ちょっと手狭だな」
 ここにも自分だけでは走り出せない大人が一人。まったくバカばっかりだ。僕たちは最後にもう一人素直になりきれずにいるハオのところへ向かった。
「みんなこんな時間にどうしたの? 所長もテルユキさんも。奥さんにカナちゃんまで。あした朝早いんじゃないの?」
 ハオが驚いて僕たちを見ていた。
「ああ、早いさ」
 僕は今度こそはハオを正面から見て言った。
「でも明日は明日の太陽が昇ってから始まるんだ。まだ、まだ今日は終わらないぞ。さあ、どこへ行きたいんだ」
 所長はとっくに道を調べている。ハオが行きたがっていた場所はみんな知っている。それはまだ見ぬ海だった。
「なに言ってるの……。そんな急に」
「ハオちゃん。ねっ、言ってみて。声にして、どこへ行ってみたい?」
 妻がそう言った。ハオは自然に口から答えが出ていた。
「海を見てみたい」
 カナが歓声を上げて、みんなで動物園の大きなバスに乗り込んだ。

 明日確実にくる別れが悲しくない訳じゃない。所長だって僕だってハオだって、そしてみんなだってそれを寂しくない訳ではない。だからって下を向いてただそのときを待っているだけでは納得なんて出来ないことが、そんなことが僕にだって分からない訳でもない。だから僕たちは歌う。海へ向かう夜の道の上を走りながら、みんなの知っている歌を海が見えるまでずっと、ずっと。
 冬の空は澄んでいて、星は明るくて、そこには淡い光に照らされた海が広がっていた。
「うわぁ、大きい。これが海なんだ」
 ハオが砂浜に立ち尽くす。眼前の海は静かで、そして全てを飲み込むほど大きかった。
 風が少し冷たくて、カナがハオにしがみつく。
「ハオちゃんあったかーい」
 妻も抱きつく。僕と所長はその風景に「仕方ないなぁ」という感じで顔を見合わせたものの、やっぱり僕たちも考えていることは同じだった。所長は背中からハオに乗りかかる。
「まったく大きくなりやがって。おまえ、いい父親になれよ」
 背中をとられた僕はハオの前に回って正面から思いっきりぶつかった。ハオはびくともしなかった。
「これなら大丈夫だ。ちきしょう、おまえ昔は手に乗るくらい小さかったんだからな」
 ハオが突然僕を抱え上げて肩の上に乗せた。
「テルユキさん、あの大きな海の向こうが見える? 僕のいくのってあっちなのかな?」
 僕は大袈裟に手をかざしてみせた。
「うん。このテルユキさんは人間の中でもとびっきり目がいいんだ。ああ見えるぞ。ちょっと遠いけど」
 波の音がした。そう、嘘じゃない。僕にはきっと見えている。
「じゃあ寂しくないね」
「バカだな。寂しいわけないだろ。あんなのすぐそこだよ」
 もうすぐ日は昇るだろう。たぶん変えられない一日がそこにあって、所長は動物園の門を開き、妻は朝食と弁当を作り、カナはランドセルを背負って、僕は胸を張って学会へ赴くだろう。そしてハオも、きっと胸を張って飛行機に乗るだろう。でもそれは明日の話。僕たちは今日を、いまを、一瞬たりとも逃さないよう、暖かいハオに精一杯しがみついて遠い海を一緒に眺め続けた。
新しい一日は日の出と共に始まる 伊勢 湊

千夜一夜物語
るるるぶ☆どっぐちゃん

 クリスマスもとうに過ぎた29日の夜半過ぎ。路地裏には高級外車が止められていて、時折がたがたと揺れている。
 がたん、がたがたがた。
「ちくしょう、なんだよこれっ」
 運転席の男はギアをがちゃがちゃと操作しながら叫び、そしてまたがたん。ハンドルをばんばんと叩き、ちくしょう、ふざけんな、と怒鳴る。馬鹿にしやがってこのやろう。黒髪が顔にべたりと張り付いている。助手席のしんしあは、ごめんなさい、と言いたいのだが言ったら言ったらで黙ってろ、とか怒られるので黙っている。前を見て、後ろを見て、そしてバックミラーを見て髪をなおす真似をして、また前を見る。がたん。がたっ。ちくしょうどうなってんだよこれっ、全然言うことをきかねえぞ。がたん。ばんばんばん。ハンドルを叩く。
「だいだいな、だいだいだよ。おかしいんだよ。なんでこんなでかい車なんだよ。おかしいだろ、なあおい」
 しんしあは黙っている。しんしあとは源氏名で、戸籍上の本名は信二と言う。信二で十五年、しんしあとして十五年、彼は生きてきた。
「おい、聞いてるのかよ」
「え、ああ、ごめんなさい」
「ごめんなさいじゃねえんだよ。なんでこんなでかい車なんだって聞いてんだろ。なんでこんなでかい車を持ってくるんだよ。でかいし目立つし。不便だよ。良いこと何にもねえよ」
「えっと、ええとね、だってさ、こういう大きくて立派な車の方がきっとあなたは慣れているだろうな、と思ったし」
 がたん。また車が揺れる。ちくしょう。なんでこうなるんだ。
「それにあなたはこういう車じゃないといやかなあ、と思って。ほら、あなた笑うじゃない? 街中で小さい車を見るとさ。情けねえ。あんな車なんかに乗りやがってさ。恥ずかしいと思わないのかね、って」
 がたん。衝撃の拍子で男は手をつく。スイッチが入り、ワイパーが動き始め、ウインカーがちかちかと点滅をはじめた。
「だがそれとこれは違うだろ! 別問題だよ」
「そうなの?」
「そうだよ、違うよ。全然違うよ。逃げるんだろ今から。よりによってこんな車をどうして盗んでくるんだよ。逃げるのに不便だろ、でかいし目立つし、なんかちかちかうるせえしよ」
「うん、うるさいね」
「返して来い」
「え?」
「これ、返して来い。元にあったところに」
「え? 今から?」
「そうだよ今からだよ。あたりまえだろう、時間が無いんだからさ」
「でも」
「でもじゃないよ。早くしろよ。時間がな、無いんだよ。解っているのか?」
「解っているよ」
「じゃあ早くしろよ」
「うん、でもさあ」
「うるせえ」
 男は大声で叫び、しんしあを殴る。
「うるせえんだ、早くしろよこの馬鹿野郎! うすのろ! バイタ!」
「解った」
 しんしあは頬を抑えて涙ぐみながらそう答えた。
 男はドアを開け、運転席からさっさと降りてしまう。
「ほら、早くしろ」
「うん」
 しんしあは運転席に座り、エンジンをかけ、シートベルトを締めた。
「それじゃあね」
「ああ、待ってるから早くしろよ」
 しんしあは車をバックさせて路地裏から出て行く。さすがに高級車であり、スムーズに路地裏から出て行った。
 男は一人路上に残される。今日は大変な日だった、と男は思う。男は初めて人を殺した。
昼過ぎに起きて、しんしあと共にパーティに出かけた。間の抜けたパーティだった。誰の主催で何を祝っているのか。ぼうっと飲んでいると男に誰かが話し掛けてきた。
「はじめまして。いやあ感激だな、あんたとこんなふうにパーティで会えるなんて。俺もようやくここまできたか」
「昔からあんたのファンだったよ。ずいぶんと影響を受けた。今は違うがね。あんたは時代に取り残されているよ。古いし、頑なだ」
「あんたの作品、ここ数年のは見てない。俺には見る価値も無かったからね。あんたはもう、駄目さ。自分でも解ってるかもしれないが、もう駄目だよ。何も変化が無い」
「これからは俺さ。俺が時代なんだ。時代を語るんじゃあない。時代が俺になるし、すなわち、俺が時代なんだ」
「あんた達はそこが違ったんだ。あんた達はただ単に時代を見ていただけだった。あんたちは、それだけさ。時代を語っただけさ。無力だった。ただ単に、瞬間芸さ」
「だいたい今時、男とつきあっているなんて時代遅れもいいところだよ」
「男はね、こんなふうにいい女と付き合って、仲良くやるもんなんだよ、な、おまえもそう思うだろう?」
 男は殴りかかる。悲鳴。嬌声。罵声。やっちゃえ。誰か止めろ。がちゃん、がしゃん、食器の割れる音。
 そして男は相手のシャツの腹に、割れたビール瓶が突き刺さっているのを見る。ぐったりと倒れ、ぴくりとも動かない。じわじわと床に血が広がっていく。
 静かであった。誰一人騒がない。非常に静かであった。その静寂の中、男はしんしあを連れて会場から出て行った。
(寒いな)
 路地裏には雨が降り出した。雨だか雪だか良くわからない雨であった。非常に冷たい。寒い。男は一人だった。しんしあは帰ってこなかった。いつまでもしんしあは帰ってこない。男は静寂の中、一人残された。
 たまらずに歩き出す。街灯を頼りにふらふらと歩きつづける。しんしあはどこへ行ったのか。男は歩きつづける。
「こんばんは」
 女がしゃべりかけてきた。
「こんばんは」
 気が付けば自宅マンションの前であった。玄関への階段に女は座っていた。体が雨に濡れていたが、女は寒そうなそぶりも見せずに男に笑いかける。
「待ってましたよ。今日は本当にすみませんでした」
 女はパーティ会場で男が刺した相手の連れであった。本当に失礼なことを言い申し訳ありませんでした。さぞかしご迷惑だったでしょう。幸い、連れの傷は大したことが無く、ショックで気絶しただけで、命に別状は無いし、それにあれも反省しています。今度正式に謝罪したいと言っています。少し口が過ぎたけれども、昔からのファンで、ようやく会うことの出来た感激のせいであって、本心ではまったく無く、ともかく許して欲しい。そのように言っています。
「ですから許してやってください。本日は本当に申し訳ありませんでした」
 女はそう言い終えるとぺこりと頭を下げた。
「ああ、気にしてないよ」
「本当にですか?」
「ああ」
「良かった」
「ねえ、シャワーでも浴びていったらどうだい? ずいぶん濡れているよ」
「良いんですか?」
 女はきらきらと光る瞳で男を見上げる。
「うん、良いよ」

そして二人はシャワーを浴びて、裸のまま共にベッドに入った。
女は十九で、素晴らしく瑞々しい体で、とてもいい匂いがした。しんしあのごつごつとやせ細ったからだと違い、柔らかく、すべすべとしていた。どこを触っても女は喜んだ。性器はすぐにぐじゅぐじゅに濡れた。どんどんと溢れていった。
「ねえ、お願い、もうあたし……」
「ああ、解っている……」
「ねえ、本当に、お願い、じらさないで」
「ああ」
 そして男は、どうしても立たなかった。どこをどうしても、結局立たなかった。
「気になさらないでね」
「ああ」
「あたし、帰りますわね」
 女はそう言うと服を着て部屋を出て行く。ベッドに座ったまま、男は見送った。
 男は一人残された。手元には酒も煙草も無かった。だらりと横になる。
 どんどん。ドアがノックされて男は飛び起きた。
 女がまた帰ってきたのかと思ったが違った。しんしあだった。
「あの女の人、かわいかったわね」
 裸のままの男に、しんしあは笑いかける。そして女の匂いのこもったベッドに座る。
「ああ」
「あたしも昔はああだったけれど。あのね、あの車だけれどね、おばあさんのだったの。なんか亡くなったご主人がお金持ちで、車が好きだったみたいでね。それでなんか話しているうちにとても仲良くなってね。くれたわ車。慣れたらね、便利よあの車。大丈夫、運転の方法は教わってきたから。あたしが教えてあげるから大丈夫よ」
「免許無いんだ」
「うん、それならあたしが運転する。助手席はいや?」
「それに逃げる必要もなくなった」
「そうよね。きっとそうだな、って思ってたから。じゃあ良いじゃない。お買い物とかに使いましょう」
「金も無いよ。借金だらけだ」
「大丈夫、あたしが稼ぐから。大丈夫よ」
 そう言ってしんしあは男を抱きしめる。化粧を落とし、ウィッグをとったしんしあは女には見えずかといって男にも見えず、とても不思議な感じである。
「こんな日が来るとは思わなかった」
 男は呟く。
「運命の恋だと思っていた。これが最後の恋だと。ずっと一緒で、側にいるだけで幸せで、お互いを高めあって、お前の事を思うだけで強くなれる。そんな恋だと思っていた」
「あなたは強いわ。ねえ、とても好きよ」
「殴ったり浮気したりおまえの言うことにいちいちいらいらいしたり、そんなことは絶対に起こらないと思っていた」
「ねえ、愛しているわ」
 しんしあは男を抱きしめる。しんしあは強かった。沢山のものを愛し、沢山のものに憎まれ、それでもなお沢山のものを愛し。
 男は違った。何も愛したことが無かった。ただ小さな、とても小さなものだけを守って生きてきた。そしていまだにそれを守って生きている。
男はぶるりと震えた。何も見ずにしんしあの体を抱く。しんしあは男を抱きしめ、ようやく空けて来た夜の彼方を、昇りくる朝日を、静かに見つめる。
 もうすぐ夜が終わる。
千夜一夜物語 るるるぶ☆どっぐちゃん

ケムリ~私の五年前の告げ口に関する記述
ゆふな さき

 青い光に照らされた天井。
(この睡眠時間じゃ明日がもたない。)
時計をにらむ、退屈で仕方ない。枕元の煙草が目に入った。赤い炎を灯し、含むと白に変わるもやを眺め、
(二十歳をすぎたけど、私は煙草が似合わない。)
と思う。ふと私が裏切った女の子を思い出してしまった。
(ユミは煙草が似合ったな。)
濃いニコチンが肺を冷やす。

 クラスメイトのユミは私と正反対だった。私はノーメイクでジーンズを好む奥手だった。ユミはシャギーの茶色いロングヘア、胸元の開いたシャーベット色のカットソーの今時の娘だった。そんな私とユミと出席番号が隣で、だから入学式の日自己紹介をし合った。

 五月、ユミは教室に来なくなり、来ればベランダの手すりに寄りかかりマルボロを吸うのだった。そして時々私に話かけた。女子寮、東北の実家、遊びに来る中学の仲間。私には新鮮な話ばかりだった。

「朝早く出たのにな。」
その日もユミは独り言ようにしゃべり出す。柄のないジッポーが反射する。
「実家に帰っていたの?」
「ううん。池袋から。」
「友達の家?」
「ううん。彼氏ん家だよ。」
「岩手じゃないの?」
「まだ話してなかったんだっけ?」
「うん。」
「ふうん。」
そのあと彼女は少し間を持った。風がユミの髪を揺らすと淡い香水の匂いがあたりに漂った。甘すぎない印象的な香り。
「聞いちゃまずかった?」
「全然?」
彼女はしゃべりだす。
「二七歳で。」
「二七? 年上だね。」
私は『援助交際』と言う言葉を思い浮かべている。
「うん? でも、全然子供なんだ。」
「子供?」
「うん。定職ついてないし。」
「フリーターなの?」
スーツを来た人をおじさんだと思っていた私は彼女がサラリーマンと付き合っているのは嫌で、フリーターと言う単語は心地よかった。
「そうね。」
「ふうん。大人じゃないの?」
「うん、甘えてくるし。」
ユミの日本的な小顔には甘えたくなる雰囲気があった。けれど、子供を留めた細い体をしている。
「想像できないや。二十七の人ってぜんぜん私たちと違わない?」
「そうでもないよ?」
その男性を子供扱いするときユミは嬉しそうな顔になる。バッグから写真を取り出すと私に見せる。整った優しそうな顔の男性で、思っていたより若くみえた。
「繊細で傷つきやすいんだよ。」

 梅雨の時期、高いのにハスキーな声でユミは友達を呼びながら走っている。
「誰か探しているの?」
「寮のコ。」
手にピストルに似たモノを持っていた。
「それってなに?」
「ピアッサー。ピアスあけたいってずっと言ってたんだよ、その子。わざわざ実家から持ってきたのにな。」
「逃げちゃったの?」
そう聞くとユミは笑ってうなずいた。
「あけるの好きなのに。」
機械はガチャガチャ鳴る。ユミはピアスについて話し出す。ピルケースをいくつか繋げたプラスチックケースをみせ、これがファーストピアス、金属アレルギーのための樹脂ピアス、穴を広げるためのGの小さい(太さの太い)ピアスと説明をする。
「空けるのって痛くない?」
「空け方にもよるね。」
安全ピンであけると痛くて血が止まらなくて、と話す。
「こわい。」
「普通にやれば痛くないよ、拡げるほうが痛い。でもそれって私、好きなんだよね。」
痛さが好きと言うユミ。私はちょうどその時期、初めてのピアスを病院で空けた。

 二学期が始まる。
「すごくひさしぶりじゃない?」
「うん。一週間彼ン家いたからね。」
ユミの足に痣があることに気付き、彼女は私の視線に気付いた。
「これ? これね、彼氏と。」
ユミはそう言いながらパーカーのポケットに手を突っ込む。
「なんだかわかる?」
ジップのついた小さいビニール袋をユミは取り出した。
「これ吸って酔って、ちゃぶ台にぶつけたんだ。」
透明の結晶。ユミの彼はそれを売るバイトをしていると言う。
「初めて吸ったとき、息が出来なくなって失神したな。」
「失神するの?」
「初めてはそうなるみたい。二日後はすんなりいったよ。」
理科のミョウバンみたい、こんなもので失神するなんて、現実ってなんて不思議なんだろう。ユミは事細かに吸ったときの気分や、彼に介抱された話をした。
「彼、やさしいんだよね。」
そう言うユミの口調はのろけてなくて、疑問符を打ったようだった。

 秋になる。ある日目の周りに痣をつけたユミは、彼女らなく自分からしゃべり出す。まず自殺の仕方について。
「お風呂につけるんだ。」
彼女の腕には赤い筋がついていた。
「したの?」
「うん。でも彼が発見して…。」
赤く染まるバスタブ、驚き泣く男。彼女の話は空想のまま保存されている。
「なんで自殺しようって。」
「何故だろう。なんか、ね。中学の時レイプされたことあるって話したっけ?」
「少し聞いた。」
さらっとしゃべられたことを思い出した。
「女の子もいたし、油断してたんだな。」
「恐かった?」
「それは、そうだよ。でもまあ私が悪いのかな…。」
大げさにする女の子がいるけれどユミのしゃべり方は淡々としていて、事実だと思う。
「暗い話してごめんね。」
「ううん。」
私がかまわないと言うと、彼女は実家の母親のことを話す。
「ひとりだからいつか手伝いにいかなきゃ。こんなところで暮らしているの悪いな。学費ってバカにならないじゃない?」
ここぞとばかり、おばさんに悪いから自殺しちゃいけない、と言った。
「うん。」
彼女は適当にうなずく。
「聞いていい? 最近、なにがあったの?」
彼女は最近彼氏とまた吸ったことを話し出す。矛盾が多い話の内容はよくわからなかったけれどふとユミが暴力を振るわれていると思った。
「ね、それって。」
目の周りの痣を指さしながら私は聞く。
「うん。ああ、彼氏に。それでね、買い物はいつも…。」
「彼氏にやられたの?」
ユミは否定するように首を横に振った。でも私は、その男に殴られたのだと思った。

 その日の夜、彼女が男が一緒にいることを想像した。その男を殺したいような気分になった。次の日の私は担任に、
「ユミが覚せい剤をしている。」
と告げた。

 一週間後、ユミはひさしぶりに学校にきた。
「ユミ?」
「…どうした?」
私の口が勝手に動く。
「私、話した。ヤクのこと。担任に。」
びっくりしたようにユミは目を見開いた。
「何で言ったの?」
その声は意外にも怒っていなかった。
「わからない。」
そう言うとユミは、
「きっと、やさしいからだよ。」
とそっけなく言った。私は透明人間になったような感じがした。

 ユミは担任は退学になかったと言う。けれど、
「今年で学校辞めるよ。」
と言う。
「退学にならなかったんじゃないの?」
「担任と話し合って、このまんまじゃダメになってくだけだし、だから決めたんだ。学費や寮でお金かかるのもったいないし。実家のコンビニやってるんだけどその手伝いをするよ。」
「ごめんね、本当に。」
私があやまると彼女は顔を少し歪めて、
「別にあやまることないよ?」
と言った。告げ口をしてあやまっている自分にぞっとする。
そしてユミは、近頃一緒に遊んだと言う友達の話などをして帰っていった。私はユミにとって無知そのものなのだろうと思った。そうでなければ怒るはずだ。

 白い日が差す。フィルターまで火がまわり、煙が痛いから潰した。香水の瓶が目に入る。何年も日に当てられ甘い香りはとび、スパイスだったムスクが煮詰まって毒々しかった。とてもつけられないや。
(彼女に追いつけやしないんだな。)
そう思いながら布団に入る。心地よい眠気が体にめぐって来た。
ケムリ~私の五年前の告げ口に関する記述 ゆふな さき

眼科医院の災難
のぼりん

 まだ日の沈む時間ではないが、空がどんよりと暗い。街の人通りがいつの間にか少なくなったと思うと、しばらくして、ぽつぽつと大粒の雨が降り出した。
 実はその日、朝から大雨警報が出ていた。すぐに雨脚が激しくなって、あっという間に豪雨になった。しかも、雨粒を横殴りの風がさらっていくような暴風雨である。
 ある個人病院の玄関前でのこと。ひとりの男がガラス張りのドアを力いっぱい叩いていた。病院と呼ぶにはあまりにも古めかしい、朽ち果てたような建物だった。庇の下に掛かっている年代物の看板には「眼科医院」と書いてある。
「開けろ、開けてくれ」
 男は大声を出した。派手なシャツとサングラスから想像するに、どうやらチンピラやくざの風体である。傘を持っていないために、頭から水に飛び込んだように、前身濡れそぼっていた。
 しばらくすると、ガラスの向こうの白いカーテンがさあっと開いた。そこに、化粧気のまったくない、くたびれた顔をした中年女が立っている。
 今日は午後から、休診ですが…と、女がドアの向こうから、小さな声で言った。
「いいから、開けろ」
 やくざ風の男は、かまわず怒声を上げた。女は、困ったように顔をしかめたが、すぐに鍵を開けた。
 ドアが外に向かって少しだけ開き、男はその隙間に身をねじ込むようにして中に入った。
 屋内は外よりもさらに薄暗い。
 女はすぐにドアを閉めたが、一瞬の雨と風で玄関はびしょぬれになった。男はまるで今海から陸に出てきた鮫のように、全身から雨水を滴らせている。
「先生はどこだ。先生は。」
 女が差し出すタオルを、不機嫌な顔で引ったくった。
「診察はお休みなんです。先生はいません。」
「あんた、奥さんか?」
 女は頷いた。医者の奥方にしては、貧相な顔つきだ。医者の癖に、金持ちらしくない。もっとも、眼科などという病院経営では、医療機具、設備がどれだけ充実しているかが、医院の信用を左右する。どう贔屓目に見ても、この前時代的な医院が、商売として繁盛しているようには思えなかった。
「奥さん、患者が来ているんだ。居留守を使っても駄目だよ。助けてくれよ。目が痛いんだよ」
 女が困惑した顔で後ろを振り返った。
 奥から、ひげ面の初老の男が、白衣を肩に引っかけながらのそりと出てきた。一見してむさ苦しく不潔そうに見えるが、どうやら、彼がこの女の夫、つまり、この病院の医者のようである。
「どうしたんだ」
「あなた、患者さんが……」
 女は泣きそうな顔をしている。やはり、迷惑そうな気持が、医者の表情からもありありとわかった。
「時間外治療はしていないんだけどね」
「なんだと」
 チンピラは、ドスのきいた声でがなった。
「それでも、医者か。目が痛いといっているだろう。痛いといっている患者を追い出すつもりか」
 医者は男の勢いにたじろいだ。
「わ、わかった。わかったから、そんな大声を出さないでくれ。とにかく診察室の方へ入って……」
「そうか、わかりゃいいんだ。こっちだな」
「保険証はありますか」
「そんなもんあるもんか。保険証がなけりゃ、診察できないというのか。」
「いや、そういう訳ではないが……」 
「とにかく今朝から目の奥が痛くてたまらんのだ。何か大きなゴミでも入ったのかもしれん。がまんできんから、すぐにどうにかしてくれ。うまい具合に直ったらちゃんと金は払う。だが、直らなかったら、どうなるかわかるだろうな」
 男はサングラスを外しながら、診察室の方へ入っていた。
 サングラスの下の目は釣り上がって鋭い。その目で、じろりと医者を睨み、凄んでみせた。
 これ以上文句を言おうものなら、何をされるかわかったものではなかった。どんなことでも、暴力で言いなりにしてしまう、相手は、そういう種類の男なのである。
 外はますます激しい嵐だった。
 医院の中は、外部と遮断された密室である。そこに野獣と一緒に閉じ込められたような状況になっていた。

 突然の来訪者は、診察台の上にごろんと仰向けに転がって、医者が入って来るのを待っている。
 診察室の裏では、医者とその妻が青い顔をしていた。
「困ったことになったな」
「今のうちに逃げられないかしら」
「いや、今あの男に騒がれたら、やばいことになる。このまま、医者に成りすまして、時間をかせごう。お前は、早く仕事の続きをするんだ。貯金通帳と印鑑、それからその他の金目の物を洗いざらい袋に入れてしまえ」
「あなた、それまで、あいつの目の治療をするつもりなの。すぐばれてしまうわよ。だって、素人なんだから」
「大丈夫」
 成り行きながら、医者に扮することになってしまった「空き巣狙い」は、自信たっぷりに笑った。
「とりあえず、目の裏に薬を塗っておいてやろう」
 彼は机の上においてあった千枚通しを掴むと、そのまま診察室に向かって行った。 
 実は、この仕事を始める前、彼は長い間、タコ焼屋を経営していたのである。
 目玉をひっくり返すことなど、この男にとっては朝飯前のことだった。
眼科医院の災難 のぼりん

黒い橋
ごんぱち

 侍蟻たちが立ち去った後、巣には女王蟻と僅かな働き蟻しか残っていなかった。
 女王蟻は、我が子らの屍を抱く。
「侍蟻に襲われる事なく、平和に暮らす事が出来たら……」
 蟻たちは、うつむく。
「そうです」
 女王蟻は怒りと悲しみに歪んだ顔を、真っ直ぐに上げた。
「我が国を強くしましょう。いかなる敵にも負けぬ程、大きく堅固に」
「でも……どうやって」
 働き蟻の一匹が尋ねる。
「今までの二倍卵を産みます。あなた方は二倍広い巣を作りなさい」

 卵室に、ぎっしりと卵が並ぶ。
 次々と孵った子らを、働き蟻は世話していく。
 子らは々と育ち、働き蟻、兵蟻、雄蟻となり、次第次第に数を増やしていく。
 程なく、蟻の数は、かつての数に戻り、更に増えていった。

 侍蟻たちが、やって来た。
「へへ、また奴隷と食い物を手に入れてやろう」
 巨大な体の侍蟻たちは、門番の蟻をかみ殺し、蟻の巣の中に入り込んでいく。
 ――と。
「かかれ!」
 侍蟻に、兵蟻が飛びかかる。
「小賢しい!」
 侍蟻は、その小さな兵蟻を喰い殺す。
「怯むな!」
 次の一匹が来る。
 喰い殺す。
 また次の一匹。その次、更に次。
「な、ななあっ!?」
 瞬く間に侍蟻は兵蟻に全身覆われ、頭と言わず腹と言わず喰い破られ事切れた。
「いけるぞ!」
「追え!」
 怯んだ侍蟻たちに、兵蟻は襲い掛かる。かつての恨みを覚えている者と、その頃は生まれていなかったが教わった者とが、恨みに燃えた目で侍蟻を追いかける。
「うわあっ!」
「一旦退け!」
 逃げようとする侍蟻の背中に兵蟻が食いつく。
「離せ、この!」
 侍蟻は兵蟻を引きずりながら逃げる。
 だが、脇腹に一匹、右の中足に一匹、そして尻に一匹。
 バリバリと音を立てて噛み砕かれる殻から、体液が吹き出す。
「い、痛っ、痛ぇ!」
 足が喰いちぎられ、殻から筋肉がずるりと露出する。
「ぎゃあああああっ!」
 足を三本喰いちぎられた侍蟻は、残った足をじたばたと動かして逃げようとするが、ぐるぐると回るだけで直進も出来ない。
 そこへ別の兵蟻も食いついてくる。
「痛っ、痛て、たす、た、助けてくれ、たすけ……」
 這いずる侍蟻の脇腹の殻と肉を、兵蟻が喰いちぎる。
 傷口から体液と腸がずるりと露出した。
「たすけて、た、た、たすけ」
 恐怖と痛みで侍蟻は痙攣混じりの動きになっていく。
「はははは、侍蟻が命乞いをしているぞ」
「わはははは!」
「ひでえ動きだ、あはは!」
「あははははは」
「いつもの威勢はどうした!」
 兵蟻たちは、心から楽しげに笑いながら、侍蟻の腸を少しづつ喰いちぎる。
「あ、おう、ああああ……!」
 侍蟻の絶叫は果てるともなく続いた。

「やりました、女王!」
 兵蟻の伝令が女王の部屋に飛び込んで来る。
「侍蟻たちは、全員逃げて行きました。大勝利です! これで、侍蟻に怯える必要はなくなり――」
 兵蟻の顎から、侍蟻の体液が滴っていた。
「――追いなさい」
 女王蟻は、伝令の言葉を遮って言った。
「は? もう侍蟻は逃げて行くところです。もう戦いは決しましたが」
「追いなさい! 侍蟻の住処を見つけ、全滅させるまで進軍を続けなさい」
「……もう奴らは逃げています。どうしてそれをわざわざ追う必要があるのでしょう?」
「生かしておけば、またいつ攻撃してくるか分かりません。もしも奴らが数を揃えて来たら、今度は勝てないかも知れません。我々や、我々の子供たちが安心して暮らすためには、卑劣な敵は完全に全滅させなければなりません」
 女王は決然と言い放った。

「はぁ、はぁ……どうして、奴ら、あんなに強くなっていたんだ」
 巣に戻った侍蟻は傷を負った身体を横たえる。
「頭数を増やしていたらしい」
「いつもよりも早く増えていなかったか?」
「あの巣を襲うのは止めにしないか?」
「それもそうだな。何もあそこばかりが狩場ではない」
「そうだそうだ、わざわざ危ない事をしなくても良い」
 その時。
「おぃ……」
 侍蟻が、戻って来る。
「ん? 見張りをサボって何しに来た」
「そうだ、持ち場に戻れ」
「来たんだ!」
 侍蟻は叫ぶなりうつ伏せに倒れる。
 背中が、ざっくりとえぐられていた。
「何だと!」
「馬鹿な、こんなところまで!」
「うわあああっ、来た!」
 次の瞬間、兵蟻がどっと押し寄せて来た。
 侍蟻たちは、次々と喰い殺され、卵も壊され、奴隷さえも粉々にちぎられる。
 一時間も経たないうちに、兵蟻以外の生きた者はいなくなっていた。
「最深部まで幼虫一匹いません!」
 斥候が戻って来る。
「よし、引くぞ!」
 兵蟻たちは屍を残し、悠々と引き上げて行った。

「侍蟻を全滅させる事に成功しました」
 兵蟻の伝令が女王蟻に報告する。
「被害は」
「兵蟻の半分ほどが死に、その半分はケガをしました」
「分かりました。兵蟻をもう少し多く産む事にしましょう」
 女王蟻は、肥大した腹を撫でる。
「それから、一つ気になる報告があったのですが」
「何ですか」
「侍蟻の巣の近くに、別の侍蟻の巣らしきものを見かけた、と」
「よろしい、攻撃しましょう」
「しかし、その侍蟻たちは、こちらの巣には攻撃を仕掛けた事がありませんが。臭いからもそれは確実です」
「彼らが我らを攻めない保証はないでしょう。平和で安心な日々を過ごすためには、侍蟻という侍蟻は全滅させなければならないのです」

「――近隣の侍蟻の巣は、全て駆逐しました」
 兵蟻の伝令は、新しくなっていた。
「よろしい。他に変わった事は?」
 女王蟻の腹は、ずぅっと肥大化していた。話ながらも卵を生み続ける。
「後は我らと同じ種類の蟻ばかりです」
 嬉しそうに兵蟻は答える。
「同じ――」
 女王蟻は、しばらく考え込んでいたが、何かに思い至って小さく頷いた。
「その蟻たちも全滅させなさい」
「え? 何故です? 彼らは全く無害です」
「無害ではありません」
 静に女王蟻は腹を撫でる。
「その蟻を侍蟻が襲えばどうです。侍蟻を育て生かすのは奴隷です。彼らが奴隷の供給源になっていたとすれば、侍蟻を生かしているのと同じ事。それを全滅させなければ、我と子らに平和も安心もないではありませんか」

「女王様、これで他の蟻はいなくなりました」
 兵蟻の伝令が、嬉しそうに報告する。
「ご苦労でした。これからも、敵がいないか見張りを怠らぬようになさい」
 満足げに微笑んでから、女王は肥大化し切った腹を優しくさする。
「はははは、もう心配には及びませんよ女王。卵一粒だって残してはいません。他の蟻に逢いたければ海を渡って向こうの陸地にでも行くしかありません」
「……向こうの、陸地?」

「次っ!」
 兵蟻たちは、海に飛び込んでいく。
 だが飛び込んだ兵蟻は瞬く間に波にさらわれ、姿が見えなくなる。
「次っ!」
「はいっ!」
 次の蟻が海に飛び込む。
 二秒ほど水面を泳いだが、すぐに沈んでいく。
「次!」
 次の蟻も。
 また次の蟻も。
 一匹づつであったり、まとまっていたり、助走を付けたり、そろりそろりと足先から入ったり。
 様々な兵蟻が様々に海へ飛び込んでいく。
「対岸へどうあっても渡るのだ! さもなければ、我々に平和も安心もない! 我々の平和のために命を惜しんではいけない!」
 兵蟻たちと、駆り出された働き蟻たちは、次々と海へ飛び込んで行く。
 恐怖と不安と、悲壮な使命感と希望を顔に浮かべて。

 その日、海には黒い筋が出来た。
 蟻が連なった、細い細い筋が。
 橋のように見えたが。
 三〇秒もしないうちに、波にかき消された。
黒い橋 ごんぱち

伊藤循環器内科診療所の人々~長沢タキの場合~
長田一葉

「血圧も血糖もコントロールが良いですし、今日の午後二時間位なら外出しても構いませんよ。外出する時は、看護婦に伝えてからにしてくださいね」
 伊藤医師の話を聞き、長沢タキは思わず合掌しながら頷いてしまった。
 三十分の散歩を週に三日許可されていたが、タキにとって「二時間」は特別だった。家まではタクシーに乗っても二十分かかる。だから、三十分の外出では家に帰ることができなかった。二時間あれば家に帰ることができる。かといって、家に帰ったところで誰もいないのだが。
 夫の寛雄はタキが入院する二ヶ月前に亡くなっていた。そもそも、寛雄が他界した後の忙しさが一段落した頃に、かかりつけの伊藤医師から「休養も兼ねて入院しませんか」と勧められたので、タキは伊藤循環器内科診療所に入院することになったのだ。

 入院して二ヶ月。
 伊藤医師は休養も兼ねてと言っていたが、高血圧と糖尿病はタキが思っていたよりも悪いようで、二週間の予定が一ヶ月、一ヶ月が一ヵ月半という具合に延び延びになり、結局今もまだ入院している。ただ、タキは嫌々入院しているわけではなく、むしろこの病院はタキにとって居心地が良いくらいだった。伊藤医師は親切だし、若い看護婦達も気さくで働きぶりも良くて、タキは彼女らが好きだった。そして何より、同室の三人が明るくて賑やかで、家に一人でいて自分独りだけのために家事をするよりは、ここで笑って暮らしていた方が良いと思っている。
 ただ一つ、仏壇だけが気になっていた。
(おとうさんが寂しがってるんじゃないかしら)
 最近は病室の消灯後に、仏壇と寛雄のことが気になって寝付けない日が増えた。寛雄の死後、仏壇には度々話しかけていたが、引出しの中の写真には話しかける気が起こらなかった。

 タキはロビーにある公衆電話でタクシーを呼ぶと、部屋に戻りすぐに外出用の服に着替えた。同室の三人に軽い挨拶をして部屋から出て、すぐ左にある階段を降りた。看護婦に外出の旨を告げて靴を履いた。ポケットの中で、家の鍵につけた鈴がチリチリと鳴り、その久しぶりの音がタキは嬉しかった。
 タキがタクシーの運転手に家の住所を告げると、本当にこれから家に帰るのだという実感が湧いてきた。
 タクシーは三時半前に家に着いた。久々に家の玄関を開けると懐かしい匂いがした。タキはまっすぐ仏間に向かった。仏壇の前で立ったまま、
「おとうさん、ただいま」
と言うと、すぐに仏間の窓を開け、それから家中の窓を全て開けてまわった。春過ぎてやや湿った風が家の中をそよいで、仏間にこもった畳と線香の匂いが薄くなった。
 タキは仏壇の前に座り、線香を立てて火をつけると、鈴(リン)を二度打った。澄んだ音が聞こえなくなるまで、タキは黙って目を閉じて合掌した。鈴が鳴り止むと、タキは目を開けて寛雄の位牌を見た。
「おとうさん、寂しくいらっしゃいませんでしたか」
 どこからも返事はないが、タキはゆっくりと話し続けた。
「もう四ヶ月になるんですね。おとうさんがいなくなってから。その後は忙しかったですよ、なんだかんだの手続きをしなくちゃいけないとかで。病院へ診察に行くにも合間を縫って行かなければいけませんでしたし」
 新しい線香の匂いが煙と共に立ち上っては風に乗って消えていく。
「私の病気が分かってからはどれくらいになりますかしら。二年位かしらね。覚えていらっしゃいますか。トイレの汲み取り屋さんが見えて、『この家に糖尿の人がいませんか』って言われましたねぇ。びっくりするやらおかしいやらで。汲み取り屋さんってお仕事柄、臭いで分かるものなんですって。入院してる人の中に、汲み取り屋さんから指摘された方がもう一人いらっしゃったの」
 タキは当時を思い出し、笑みがこぼれた。
「おとうさん、お仕事辞めてから急に肥えてらしたでしょ。私はてっきりおとうさんが糖尿だとばっかり思って。おとうさんが強情に検査は受けないっておっしゃるから、それじゃあ私も受けますから一緒に、って言って、やっとおとうさんに検査を受けさせたと思ったら、本当は私が病気だったなんて。あれも、おかしいやら恥ずかしいやら。病気の怖さもあまり知りませんでしたものねぇ」
 ゆっくりと風が吹いて、線香の灰が落ちた。
「『お前百までわしゃ九十九まで、ともに白髪の生えるまで』って、覚えてらっしゃいますか。一義が東京に就職して、弘子が結婚して家を出て行って、家の中が急に寂しくなって。夜中に私がため息ついてたら、おとうさんが寝言の振りしておっしゃってくれたんですよねぇ。実は本当に寝言だったのかしら。あれから三十年、おとうさん、白髪が生える前に髪の毛がなくなっちゃいましたね」
 タキは仏壇の脇に置いてある遺影を見た。頭の禿げ上がった寛雄が気難しい顔をして写っている。タキはもともと人に対して軽口を言う方ではなかったが、寛雄に対してだけはよく冗談を言っていた。冗談というよりは、気難し屋の寛雄をからかうのがタキは好きだった。そんな時、寛雄は怒るでもなく、咳払いをしながら気難しい顔をより一層渋らせ、耳だけを、髪がなくなってからは頭も赤くするのだった。それが返答に困っている時の寛雄の癖だとタキが分かったのは、結婚してすぐの頃だった。あれから五十年以上がたった今、寛雄は生きておらず、タキは二ヶ月も入院したままで、一緒に過ごしてきた家はその間ずっと閑散としてきたのだ。
 タキは急に寂しくなった。
(おとうさんよりも、私の方がさびしかったのかも)
「おとうさん、私ね、本当は寂しい。おとうさんがいないと、こんなにも寂しくなるものなんですね。好きとか愛してるとか、今の若い子達みたいにはお互い言ったことはありませんでしたけど、私はおとうさんを好いてたんでしょうねぇ。今はちょっと恥ずかしいけど、ちゃんと言えますよ」
(きっと今、おとうさんは耳も頭も真っ赤でしょうねぇ)
 そう思いながら遺影を見ると、急に涙が出そうになって慌てて袖で目を拭った。空はまだ明るいが、もう少しすると病院へ帰る時間になる。知らず知らず病院へ“帰る”という考え方をしている自分を、タキはおかしく感じたが、笑みではなくため息が出た。これから家の窓を全て閉め、タクシーを呼んで病院へ戻る準備をすることを考えると、そろそろ行動を開始しなくてはならない時間だ。
「今日一日くらい、お薬飲まなくても平気ですとも。病院では毎日ちゃんと言われたとおりの生活をしてるんですもの。一晩くらい、お薬なしでもちゃんと大丈夫にやっていけますよね。明日の朝早くに帰ればそれで済むことですもの。家の片付けもしないと。朝帰りって言うのかしらねぇ。一日くらい、無断外泊したって良いですよね、おとうさん」
 入院前に片付けていったので、片付けるものなど何もない部屋を見渡しながらタキは呟いた。寛雄の苦りきった顔が思い浮かんで、タキは独りで静かに笑った。
 家に入り込んでくる風が徐々に肌寒くなってきた。タキは立ち上がって仏間の窓を閉めた。ふと咳払いが聞こえたような気がして、タキは仏壇の方を振り返った。短くなった線香の薄明かりが遺影に反射し、寛雄の耳と頭が赤く見えた。
「そうですね。お前百まで、ですものね、おとうさん」
 タキはそうつぶやくと、家中の窓を閉めてまわった。最後に使ってもいないガスの元栓を確認して、タクシー会社に電話をかけた。
伊藤循環器内科診療所の人々~長沢タキの場合~ 長田一葉

木魚の中はうつろ
イシヅカレン

 死んだ人を見たのは初めてだった。
 新潟の祖父と祖母の住む家は、明治維新の年に建てられたものらしい。階段を上がると薄暗く、雪国の屋根を百五十年間支え続けてきた頑丈そうな太い柱と武骨な梁が見える。いつでも埃の溜まった陰気なその場所を挟んで二つ部屋がある。二階で寝ていて夜中におしっこで目を覚ましてしまった時、どうしてもそこを通らなければならないのに、あまりに怖いのでそのまま柱におしっこをして蒲団に戻ったことがあった。朝になってみんなから怒られて、泣きながらおしっこを拭いたのを覚えている。
 祖父は今年何歳だっただろう、八十五歳くらいだっただろうか。年に二度くらいは顔を見せに行っているので、祖父のしわしわの笑顔が浮かぶ。祖父は一昨年脳梗塞で倒れて以来寝たきりの生活になっていた。初めのうちは、とろんとした蒼い目で僕を眺めたまま母の問いかけにもろくに返事をしなかったが、だんだんと回復して、最近では「おじいちゃん元気になったね。」なんて言っていた。
 高校から家に帰ると、母は慌しそうに荷物の準備に取り掛かっていた。
「卒業式用に買ったスーツ着なさいね。あと、一応どうなるかわからないから二日分の着替えくらい持っていった方がいいかしら。」
 いつもと変わらない忙しい母の姿だった。そういう僕もいつもと変らずのんびりと返事をして、荷造りをした。

 通夜にも葬儀にも僕から何等親にあたるか分からないほど遠くの、そしてとても覚えきれないほどたくさんの親類が集まっていて、母から一々説明されては適当に相槌を打つ作業を飽きるほど繰り返した。
「おじいちゃんの弟のカズヒトおじさん。」
「おじいちゃんの弟の奥さんのお姉さんのマサヨおばさん。」
「おばあちゃんのお姉さんの長男のハルオ君。お母さんの従兄弟ね。」
 ハルオ君っていっても相当なおじさんじゃないか、それにヤニ臭くてたまらない。僕が母の隣で悪態を噛み殺しながら頭を下げたり、年を尋ねられたり、それに答えたりしているうちに式場の席はぞろぞろと埋まってきた。やがて進行係の女の人の鼻にかかったマイクが聞こえて、音楽が流れ始めた。白い花に飾られて遺影の祖父は笑っている。半年前に撮ったもので僕も一緒に映っていたはずだが、引き伸ばされて祖父だけが切り抜かれていた。正面には祖父直系の家族が並んで何度も頭を下げている。おじいちゃんが死んじゃったのに、お母さんもお母さんの姉さんも弟さんも頭を下げてばかりいる。
 両手で抱えるほど大きな木魚が、ポックポックポックと音を立てていた。まるで死んでガランドウになった祖父の頭を叩いているようだと思った。そんな暖かい低音が響いて、お母さん達はずっとペコペコ頭を下げ続けた。
 左の席で従姉が涙にむせて鼻をかんでいる。部屋全体が僕に悲しい顔を作るように迫ってきた。いっそ泣けたらいいのに、どうしても涙が出なかった。どんなに責め立てられても、どんな顔も作ることができなかった。おじいちゃんが死んでしまったのに、そんなことでやきもきしている自分がひどく苛立たしかった。おじいちゃん以外のために悲しい気持ちになるなんて、自分が自分のことしか考えられない心の貧しい人間に思えた。ただ木魚の音だけが、僕の気持ちを式場に溶かすことができた。
 昨日初めて僕は死んだ人を見た。通夜の間、祖父の納まった棺桶は階段の脇に置かれていた。階段を登る途中、目の端に祖父の顔が見えた。鼻に脱脂綿が詰められて、口が少し開いていた。鼻が詰まって息が苦しそうだと思った。祖父の口臭が匂ってきたような気がして、朝起きた時の口の中がねちゃねちゃと粘るような感覚を思い出した。僕はいつでも、ふとその時のおじいちゃんの顔を思い出す。
 唇からのぞく前歯や鼻に詰まった脱脂綿、一緒に入れた家族写真、花に埋もれていった黄土色の肌といった記憶が、振舞われたお清めのビールによってぐちゃぐちゃに混ぜられ、腹の底に押し込まれた。葬式に本当に必要なのは、木魚の音だけだった。
 結局涙は流れなかった。

 半年立って、卒業した高校の連絡網が回ってきた。クラスメイトの内山が亡くなった知らせだった。
 内山と僕とは三年生の時だけ同じクラスだった。でも話したことはほとんどなかった。内山はクラスでも派手なタイプではないが、サッカー部のスタメンで身体も大きく、運動をやらせたらなんでもこなせる。しかし他人に対する言動にはあまり配慮のないところがあって、友達へひどいことを言っているのを何度もみた。僕は彼が嫌いだった。
 けれども「内山のことが嫌い」ということを思う度に、それに抵抗するような心の動きがある。親しげに話しかけてくる内山の顔が思い浮かんだりする。かといって「内山はイイ奴だった」などとは決していえない自分もいて、いろんな内山をやっとの思いで繋ぎ止めながら、僕はクラスの葬列に参加をした。
 式場の前には卒業したばかりの同級生達が既に集まっていた。ちょっとしたクラス会のようになっていて、明らかに葬式の雰囲気とは異なっていた。男子も女子も取り繕うかのように黒い服を着ているのが滑稽に見えた。
 焼香の順番が回ってきて、遺影の内山と目があった。学校でみていた少しずるそうな顔と違って、落ち着いた顔だった。なんの文句もつけられない、落ち着いた高校生の顔だった。
「オマエ、嫌な奴だったけど、死んじゃうと悲しいな。」
 そう思って、僕は内山を真っ直ぐ見つめた。内山の家族がお辞儀をして、僕も頭を下げた。
 帰り道、友達と三人でバス停まで歩いた。コウヘイと取り留めのない会話をしている間、ずっとキヨコは涙を拭いていた。僕はやはり泣くことができないだけでなく、「内山は嫌な奴」ということが胸のしこり(・・・)となって、ひどく自分の気持ちがこんがらがってしまっていた。同じような気持ちを抱えているだろうコウヘイとぽつぽつと会話をしながら歩いていると、ふとキヨコが帰りにもらった包みにお清めの塩が入っていない、と言った。
「じゃあ、おれのあげようか。」
 僕が言った。
「いいよ。」
「あげるよ。別におれ、家の味塩で平気だし。」
 キヨコにあげようと少し明るい声を出して言うと、キヨコが大きな声を上げた。
「そういうものじゃないでしょ!」
 とげのある、ヒステリックな声だった。
 ああそうだよね、とだけ返事をして、僕は黙って歩き始めた。
 キヨコには僕達が軽薄に見えただろうか。僕達の交わした言葉に、死んでしまったクラスメイトに対して不誠実な響きがこもってしまったのだろうか。僕の今着ているこのスーツも、彼女には場を取り繕うためだけのひどく嫌らしい黒色に見えていたのかもしれない。内山が死んだことが悲しいのか、内山の死を素直に悼むことのできない自分が悲しいのか、僕にはもうわからなかった。ただ、無性に悲しかった。いや、悲しいということについて、自分の感情なんて当てにならなかった。ただ頭を垂れて、黙って歩いた。涙の流れない乾いた悲しさが、うつろな胸の内に響いていた。僕の心の中もガランドウなのかもしれない、そう思った。でもおじいちゃんの頭のような、あんなに優しい音はきっと出ないだろう・・・・・・。
木魚の中はうつろ イシヅカレン

(本作品は掲載を終了しました)