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3000字小説バトル

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3000字小説バトル
第50回バトル 作品

参加作品一覧

(2005年 2月)
文字数
1
小笠原寿夫
2825
2
るるるぶ☆どっぐちゃん
2987
3
中川きよみ
3000
4
(本作品は掲載を終了しました)
ウーティスさん
5
橘内 潤
2877
6
ごんぱち
3000
7
篠崎かんな
3000
8
たかぼ
3000
9
榎生 東
3000
10
ゆふな さき
2996
11
のぼりん
2998

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すしのまきもの
小笠原寿夫

 こんにちは。私は、「精神分裂病(別名:統合失調症)」にかかる、25歳です。2005年こそは気合いの入った良い年になりますように。心からそう願い、書き始めた日記をここにまとめます。若干一ヶ月分でありますし、多少、抜けている箇所もございます。厄介な病故、文章に多少の乱れもございます。ですが、今後、このような病気が減るよう、また、社会の皆様方が、この病をご理解頂けるよう、何かの参考にしていただければ幸いです。それでは、病と闘う一ヶ月の記録をどうぞ。

1月1日(土曜日) 昨日から佐藤とカウントダウンに行き、初詣に行った。朝、7時に帰り、仮眠をとり再び磯野と初詣に行く。(佐藤とは西宮戎、磯野とは生田神社に行く。)
1月2日(日曜日) 賀来。今、酔っている。(親友と飲みに行った。)それはそれで楽しいひと時だった。帰りに吉名市民という将棋指し、くやしい歩われた。楽しい一面終わりは思った。飲んでも飲まれるな。今、酔っている。
1月3日(月曜日) 今日は丸一日寝ていた。昨日の疲れもあってか、ぐっすり眠れた。明日の新年会にも備えられたと思う。しかし、仕事をする為には、もう少し生活リズムを整えなくては。
1月4日(火曜日) 林くん、村田さんらと新年会に行く。周りはつまらなそうにしていたが、自分はそれなりに満足だった。しかし、店の雰囲気が雰囲気だけに少し肩が凝った。
年賀状を2通書く。
1月5日(水曜日) すいせいに行った後、派遣会社に連絡して断られた。その足で職安に行き、何とか明日10:00面接までこぎつけた。
せめて親が胸を張って歩ける生き方をするよう頑張ろう。
1月6日(木曜日) 朝8時に目が覚める。10時にセールスタッフに面接に行った。周りの社員の方々は、皆スーツ姿で、自分だけ場違いに思え、恥ずかしかった。次からはどんな面接にもスーツで臨もう。
1月7日(金曜日) 地味な一日だった。朝すいせいに行く途中のバスの中で昨日の面接の結果が電話で通知された。残念な結果だった。
明日から三連休だ。奈良の東大寺へでも遠出しようか。
1月8日(土曜日) 奈良の東大寺に行ってきた。一人で行ったことのない土地に行くのは緊張するが、帰ってきた時に達成感があり、新しい事にチャレンジしようという、冒険心も生まれる。
1月9日(日曜日) 一日中家でゴロゴロしていた。何かやらないとという焦燥感にかられる。
1月10日(月曜日) 成人の日ということもあり、三宮には晴着姿の若者が目立った。自分は村田さんと田渕さんの3人で喫茶店、カラオケに向かう。当初は映画館の予定であったが、まずまずの心残りである。
1月11日(火曜日) 政夫にDVDケースを買ってあげる。誕生日には3日早いが、政夫の喜ぶ顔が見られて幸いだ。明日はソフトウェア開発の会社の面接だ。スーツ姿でビシッと決めて、見晴えだけでも良くして臨む。
1月12日(水曜日) 面接に行ってきた。年配の男性かと予想していたら女性だった。中々、手厳しかった。
今日は家族がいるのでうっとうしい。
明日、履歴書を書こう。
1月13日(木曜日) 一日中、図書館にいた。履歴書を書いた後、三宮に行き、明日の面接(兼、説明会)会場を探し、再び大倉山の図書館へ。量子化学の読本を読み、イッセー尾形のベストコレクション(DVD)を見る。少し緊張した。
1月14日(金曜日) 遂にやった。NTTマーケティングアクトの面接に合格した。当面は配送のようだが、新しい仕事に就けてありがたい。「勝ってかぶとの尾を締めよ」ではないが、会社を満足させる仕事をしようと思う。ついでに政夫、誕生日おめでとう。
1月15日(土曜日) もうすぐ阪神淡路大震災から丸10年になる。南海地震が予想される中、また、スマトラ沖の津波が起きた中、自分に募金ぐらいしかすることが出来ないものかと頭を悩ます。
「ターミナル」という映画を一人で見る。
1月17日(月曜日) 7時20分に起きる。すいせいに行き、30秒の黙祷をささげる。
松岡神経内科クリニックで他人の目が気になると言うと、毎食後の薬に変えてもらった。
タクシーで帰宅する。運賃730円。
1月18日(火曜日) 安福公紀、尾崎信也、両氏と共に三宮に赴く。大層な激励を受けた。ショックで体が震える。耳や目から入ってくる情報より皮膚つまり神経がうまく働いている証明。
proof)名前と顔を一致させることに成功した寿
1月19日(水曜日) 嫌な情報が次々と入ってくる。はっきり言ってうんざりだ。寝ても覚めても頭の中が混乱する。何かが変わる最中なのかも知れない。
両親は多分、今ごろ三宮からの帰りだろう。
弟、政夫は元気だろうか?
1月21日(金曜日) 一人で歩いていると、妙に淋しくなってくる。会話は必要だ。
1月25日(火曜日) ハーモニーに行き、伊藤さんに「入院」のことを相談すると、「そうした方が良い」という返事が返ってきた。車(ハーモニーの)で伊藤さんに須磨区役所の美藤さんの所まで送ってもらう。かなり混乱した様子だと言われた。
1月27日(木曜日) 目が覚めて、松紳のビデオを見た。そうこうしている内に、母が帰ってきて、気まずい雰囲気になる。
免許証の再交付の為、住民票をもらいに区役所を訪れる。
1月28日(金曜日) 母が美藤相談員に話をしに行った。心配しなくても入院は長引きそうにない。
免許証の再交付がうまくいく。
病はちょっとしたことで治るらしい。
1月29日(土曜日) 2:00に目が覚める。テレビを見ながら横になる。病院に薬をもらいに行き、後は携帯で「アタマの体操」をする。
1月30日(日曜日) しあわせの村に徒歩で向かった。道順を間違えたのか、行きしなの風景は様変わりしていた。しあわせの村で団子を食べる。帰りは市バスに揺られて帰ってきた。
1月31日(月曜日) 朝、起きて、「アタマの体操」をするも、なかなかうまくいかない。父親に言われてすいせいに向かう。昼の会では、シール貼りをする。昼の会に参加してやや疲れる。

作者からのメッセージ:やもすると、すぐに治る病気なのかも知れません。また、一生付き合う病気なのかも知れません。でも、慌てて転んで大怪我したら、元の木阿弥。1月21日に悟ったように、「会話は必要」。体を動かし、ご飯をおいしく食べ、睡眠をきっちりとり、健やかに過ごす。よく笑い、笑顔を絶やさぬよう。
社会の皆様、分かって頂けましたでしょうか?おそらく、この病気にかかった患者さんも大勢おられるでしょう。そんな皆様にお願いがあります。脳の病気は一人で抱え込まずに、まず誰かに相談しましょう。きっと良くなる方法を誰かが伝授してくれるはずです。社会適応訓練や年金制度等、現時点で、最善の対策も国や市町村が手を伸ばしてやっているはずです。だから、嫌がらないで、怖がらないで、慌てないで、この病気を受け止めましょう。大切な人はきっとあなたの側にいるはずだから。
すしのまきもの 小笠原寿夫

空は 空へ
るるるぶ☆どっぐちゃん

 限りなく青い空にはためく無数の白い布。貧民街のベランダはいつもそうだ。何に使うのかよく分からない大量の白い布切れが檻のように狭いベランダに干されている。プランターには白い花々。干からびた本。赤い薄ものをまとった半裸の女が椅子に座ってぼんやりと空を見上げている。べったりと塗られた口紅。
 べったりとした静寂。
 ところでねえ、良いのこれ、なんだかすっごく軽いんだけれど良いの? これ。超電磁プラズマポジトロンイオンレーザービーム砲Ver1.05エクスプロージョン、こんなにでかくておれの身体の二倍くらいあるねんけど、こんなに軽くて良いの? 大丈夫? 間違って無い? なんか間違ってる気がするんだけど。ちゃんと出るのかなミサイル。ミサイルっていうかレーザーか。レーザーっていうかビーム? なんかよく分からないけれど。出るのかな、大丈夫かな。ちゃんと燃料入っているのかな。なんか凄く不安なんだよねえおれこういうの良く分からないし。こんなんで良いの? めっちゃ軽いねんけど、良いの? もっと思いものだと思うんだけど、良いの?
 なんて言っている青空は静かに変化していく。薄緑の線がきれいにまっすぐ空を割り、そこから青い光線が蜘蛛の巣のように張り巡らせ、そして音。音といってもうるさくは無い。パイプオルガンを40台くらいとファゴットを二十本くらい、あとはなんだろうね。チェンバロかな。うーん、チェンバロ。ちょっと違うかな。おれ、こだわっちゃうんだよねえむかし音楽やってたからさあ。こういうのちょっと詳しいから、おれこだわっちゃうんだよねえ。ちょっとうるさいんだよねえ。ああ空が割れていく。綺麗なものだね。そして綺麗な音だよ。光そのものの、音そのものの楽しみがあるねえ。美しさがあるねえ。こんなのが攻撃部隊のエンジン音なんだから、進歩したよねえ世の中は。すっげえうるさい音で地域住民にプラカードを何枚も作らせて猛反対されて(うちのおじいちゃんもプラカードを作って行進したっけなあ。すっげえ凝った、色鮮やかなプラカードを作ったもので、随分と浮いていた)それでうんうんなんとか飛んでいた昔のジェット機なんかとは全然違うよねえ。いやねえ芸術ってけっこうこういうところにあるんだと思うよおれなんかは。音楽だけが音楽じゃあないよね。音楽だけが音楽じゃあ無いよ。こういうのも歌だよ。こういうのも歌だよね。美しいってこういうことだと思うんだ。え、撃つの? 撃つんですか、解りました。え、どこに? どこにですか?
 目の前にぼたぼたぼた、といろいろな色の固まりが降り注いだ。さっきまで緊張の面持ちで空を睨んでいた戦友達の肉体に他ならない。ばらばらになってしまった。いろいろな色をした、ばらばらのものになってしまった。
 銃はね、昔のものが格好いいと思う。無骨で無機質な固まり。鉄の十字架。
「初めて持つの?」
「初めてだよ、銃を持つのは」
「使い方を知っている?」
「知らない」
 あの人とは銃を持ちながら身体を重ねたのだった。細い狭い鉄のベッドの上で、二人は殆ど動けないのだけれど、それでもきしきし、きしきし、って鳴るのだった。歌ってこういうことだろう、音楽ってこういうことだろう。解るかな。解るよね。息を吐くのもさ、芸術だよ。すう、って音がして、ふう、ってお前は吐く。それがお前の表現で、お前の限界の表現であるんだよ。ええ、撃ちますとも撃ちますとも。解ってますよ、あれを撃てば良いんでしょう? 解ってますよ。
 宇宙連合の人々の機体はつるつるとしている。次元ワープだとか多次元展開バリアだとかを使用するのにはそのような形状、表面処理がもっとも適しているのだという。我々、宇宙同盟の機体はとげとげしている。空間湾曲系の技術が使われているのだと言うけれど解らない。良く知らない。でもどちらもかわいいと思うよ。ぬいぐるみみたいだ。ピカソってさあ、ほら、一生をかけて子供の絵を描こうとした人じゃん? あんな感じだね。一生懸命、幼稚にした感じ。でもピカソって本当に凄いよね、だってまじでこどもの絵にしか見えないもん。いや、別にあんまり好きじゃあ無いんだけれどさあ。でもまじで子供の絵にしか見えないよね。それから比べると、ちょっと甘いね。まだまだ普通。まだまだ普通にかわいいもの。子供の絵ってさ、幼稚な絵ってさ、あんまりかわいくないものね。かわいくないし怖いよ。でどうやって撃つの? ああここを見ながら引き金を。ふむふむ。
 宇宙連合のみなさんを、ターゲットスコープ越しに眺める。宇宙連合の方々とはもう何十年も戦争をしている。おれの両親も彼らに殺された。おれは両親の顔を知らない。そして宇宙連合の誰も、おれは知らない。
 ってやっぱ出ないよ何も。壊れてるよこれ。絶対に壊れてる。え、出たの? 見えないけれど出た? 見えないの? そうなんだ。見えないんだ。ふうん。それで良いの? ふうん。湾曲空間からの干渉で多次元を通り越して直接アタック? ふうん。見えなくても良いんだ? ふうん。
 ターゲットスコープ越しに宇宙連合部隊の大爆発が見える。
 当たったんだ?
 当たったんだね。
 ふうん。
 そう。
 ともかく今回の作戦は、起死回生の大逆転がかかっているらしい。今回は極秘作戦だから、7割の確率で、敵を壊滅させることが出来るらしい。
 この作戦の立案者は超キレモノで、この作戦成功の暁には大出世して超偉くなるらしい。でも3割死にますから! 7割じゃ3割死にますから!
 7割凄いのかもしれないけれどさあ、3割死にますから!
 でも仕方ない。キレモノは小さい頃からたくさん勉強してたくさん人を憎んで憎まれて、それを乗り越えて人を愛して、たくさんのことをしてきたんですから。おれみたいにずうっとぼんやり空を見ながら妄想していたわけじゃあ無いから。だから仕方ない。
 中学の頃はピアノが楽しくて、とにかく一日十時間くらい弾いてて、うまくなりたくて一生懸命練習して、それで音大付属の高校へ特待生で入ったけれど、二年にあがる前にやめてしまった。順調にうまくなって、それである時このままいけばショパンコンクールなんて余裕だなあ、と解った瞬間に、とても冷めてしまった。うまくなろうと思わなくなってしまった。うまくなることがとても退屈に思えてしまった。頭の中ではおれはショパンよりうまくなれることは完全に解ったから、わざわざそれを周りに証明する必要なんて無いと思えた。とてもばかばかしく思えた。それからは他にいろいろなものを好きになったけれど、結局おれは、空をただ眺めることを選んだ。それが一番好きだった。間違っているのかなあおれは。自分がキレモノであることを証明しなくちゃいけないのかなあ。キレモノであることを証明するために、人をコマみたいに扱わなければいけないのかなあ。面倒くさいし馬鹿馬鹿しいんだけれどなあ。
 宇宙連合の部隊は総崩れになって宇宙へと撤退していく。キレモノ、ここは容赦が無い。追撃の命がすぐにくだる。我々は宇宙へと飛び立つ。
 宇宙連合の旗艦は物凄く巨大である。船首が月のちょっと手前にあり、船尾は遙か彼方、土星木星を突き抜けて冥王星まで行ってもまだ終わりが見えない。
 赤ん坊のようなフォルムの超巨大戦艦から静かに音楽、エンジン音が響き出す。
 決戦である。
空は 空へ るるるぶ☆どっぐちゃん

十字路
中川きよみ

 ずっと好調に飛び続けていたのに、何かのきっかけで……それはきっと些細な、例えば喉が渇いてミネラルウォーターを飲もうとしたのにボトルのキャップが少し固かったことだとかで……わずかに失速したのだろうか、瞬く間に調子を崩してしまった。そのまま立て直すことができず、とうとう降りざるを得なくなってしまった。ちょうど前方に見えていた三角州の、その中央にある町に降りることにした。
「参ったなぁ」
 誰にともなく私はつぶやいて、古びている割には活気があるその田舎の町の地面に足を着けたのだった。
 石畳をしばらく歩いていくつめかの四辻にさしかかった時、どうした訳か自分がどの方向へ進めばよいものか決められなくなって足が竦み、立ち止まってしまった。四辻はそこまでにもいくつかあって、その都度私は適当にまっすぐ進んだり曲がったりしていたというのに、一体どうしてこの時だけこうも迷ったのか分からない。ただ、それは先刻乗り捨てた飛行機と同じで、完全に止まってしまうと二度と動けなくなる種類のことだった。
「参ったなぁ」
 立ち竦んだまま、またしても私はつぶやく。なんだか物事がどんどん悪い方向に進んで行くようで暗澹とした気分になった。
 仕方がないので、何度も大きく深呼吸して笑おうと試みた。それが、ばあさんからのありがたい教えだからだ。困った時は深く息を吸い、そして吐き出し、腹の底から笑え、と、ばあさんは言った。「偉大なるゴキゲン飛行機ばあさん」と敬意を込めて渾名された人の教えだから大切にしようと思っているが、今はうまくできなかった。深呼吸の段階で既に肺の奥でシューシュー息が漏れる感じがして充分に吸い込めないのに、大笑いなど到底無理な注文だった。

 「呼吸困難ですか? 救急車を呼びますが。」
 隣にはなぜかキリンが立っていて、その彼(あるいは彼女)が私の顔を覗き込みながら親切に訊いてくれていた。長い睫毛をシバシバさせて、どうやらずいぶんと年を取ったキリンのようだった。
「ご心配ありがとうございます。でも大丈夫です。」
 私がそう言うと、キリンは納得したのだろうか、長い首をまた元の高さに戻して黙って前を見た。もうずっと以前から、私がここで立ち止まる前から、キリンはそうして黙って立っているようだった。
 とにかくそれは冴えないキリンだった。私はキリンのことを考え始めて、深呼吸のことはとりあえず棚上げにしてしまった。ジロジロ眺めるのも失礼な気がしたので、時折モグモグと口が動いたり長い睫毛がバッチンと瞬きするのを横目で確認しながら、私も同じように前を向いて立っていた。
 町はがさがさと騒々しく、行き交う人々の気配もせわしなかった。四辻の片隅で私とキリンが埃にまみれながら立ち尽くしていることに特別注意を払う余裕のある人物も現れなかったので、私達はそのまま長い時間そうしていた。

 好奇心を押さえきれず、とうとう私はキリンに話しかけた。
「私はミルと申します。あの、お名前は?」
「キリコです。」
 キリコは前を見ることを中断すると、意外にも親しげに返答をしてくれた。
「どこから来たのですか?」
「ケンタウルス星王立動物園から散歩に出てきたのです。」
「……平気な顔で冗談を言いますね。それともどこかから本当に脱走してきたのですか?」
「いいえ、散歩です。」
 キリコはあくまでも散歩だと言い張った。しかしキリコの外出が合法であろうと非合法であろうと私には関係のないことなので、それ以上深く追求することは止めた。
「ミルさんもお散歩ですか?」
「いいえ。私は飛行機乗りですが、失速してしまいました。」
「不時着ですか。」
「ええ。飛行機乗りは俯瞰して状況を把握することには長けているのですが、地面に降り立つと自分の場所がよく分からなくなるので、途方に暮れています。」
「どこかへ行く途中だったのですか?」
「それも分からなくなってしまいました。」
 私は正直に白状した。キリコは深い哀しみと愛おしさに満ちた瞳でじいっと私の目を覗き込む。長い睫毛をシバシバさせながら、決して視線を外さない。
「いつも……そうなのですか? つまり、いつも目を逸らさずに見つめるのでしょうか? それとも私の顔の造作がおかしいでしょうか?」
 3分我慢したが、我慢しきれなくなって言った。
「……ああ、お気を悪くされないで下さい。私は見つめることしかできないので、いつもこうして見つめてしまいます。」
 私には誰かと目を見つめ合って会話を交わすという生活習慣がなかったので、それがたとえキリンの瞳であっても退いてしまうのだ。
「心を通わせることは難しいですか?」
 私の気持ちを察したように、キリコはようやく視線を外す。
「ええ、まあ、どちらかと言えば……あの、どういったものを見つめるのですか?」
「私の目に見えるあらゆることを。」
 本当に? 私は心底驚いた。なぜなら、ここから見えている町の中にあるのは決して心温まるものばかりではないように思えたからだ。むしろ目を逸らしたり見たくないと思うことの方が圧倒的に多いように感じるのに。
「そうなのです。決して楽しいことばかりではありません。だから私はこうして散歩の途中で前に進めなくなってしまいました。」
 キリコはとてつもなく長い時間で凝り固まった首をほぐすために仰け反る。くたびれた毛並みが黒ずんでいて痛々しかった。
「どうして目を逸らして歩き出さないのですか? 散歩から戻ることができないままここで死んでしまうのかもしれないのですよ?」
 たまらないもどかしさを感じて、思わず口を滑らせた。
「ミルさんにとって生きてゆく上で呼吸と同じくらいに大切なことがあるように、私にとっては見つめることが大切なのです。そう、目を逸らせば或いは歩き出せるかもしれないし、動物園の暖かな私の寝床に再び帰ることができるかもしれない。けれど、見つめたいから散歩に出たのです……今立ち止まって迷っているミルさんが次の一歩を踏み出す時も、すべて見つめていたいと思っています。」
「……。」
 私のモノサシで勝手に哀れみをかけるべきではないのだろう。
 私達は再び前を向いて立ち尽くした。そして私は今度は自分自身のことを考え始める。

 色とりどりの花を満載したトラックが目の前を走り過ぎた。かすかだが確かに、それは良い予感がした。遙かに高い空を見上げる。一体いつになったら再び飛べるか見当もつかないが、まず歩き出さなくては。
「私は今のトラックの後を追おうと思います。」
「それはいいですね。行こうと思う方向が見つかることはすばらしいことです。」
 キリコの上唇の端の皮がめくれて、美しいとは言えない歯茎が見えた。
「今のは、もしかしてあなたの笑顔ですか?」
「そうですが、何か?」
「いえ、笑顔を見せていただいて光栄です。」
 深く息を吸い、そして吐き出すと、私も笑顔を浮かべることができた。
 その表面の容姿のどこにも反映していないキリコの不思議な強靱さは、まぶしく美しかった。きっと誰にも気付かれることなく、このまま化石のようになって死んでゆくであろうキリコのことを、私は生きている限りずっと記憶しようと心に決める。それはキリコが見つめ続けることと同じく、小さく無意味であたたかな、生命の出来事に思えた。
「心を通わせることは、難しくないでしょう?」
「ええ、そうでしたね。」
 そして私は歩き出した。
十字路 中川きよみ

(本作品は掲載を終了しました)

『ダンシングワールド』
橘内 潤

 西の新王が立ったという話は、東の国にも伝わっていた。
 猫目石の精コーシカ――付喪神が四方神の一柱になったことは史上初であり、また東の眷属である猫たちが歌を奉納したという噂も、彼女(コーシカは女性格)の神秘性を彩っていた。

 - 歌学者 -

 ハルトは旅立つ決意をした。
 波動と振動を調べ、その音律を記すことを生業とする歌学者にとって、王となるほど強大な猫目石の波動を記さずにはいられなかった。
 東都にこの人あり、と謳われた名誉も財産も捨てて、旅にでた。

 旅の途中、ハルトは天文楽師と一夜を共にする。べつに色っぽいことではない――彼女の連れた月見猫を見せてもらおうと、ハルトが頼みこんだからだった。
「グラース、歌ってあげて」
 楽師が言うと、月見猫は歌いだす。柔らかなメゾソプラノで、すこし後乗りなリズム感が心地よい。月見猫の歌声に共鳴して音叉が震える。音叉の先に付いた針が、クリスタル盤に溝を刻む――こうして保存した音をゼロとイチ、プラスとマイナスに分解した表を作るのが歌学者の仕事だ。
 三日月夜に、歌が静かに響いた。

 天文楽師と別れたハルトはさらに西へと向かう。道はやがて険しい岩山になり、風が強くなる。ハルトは飛ばされないよう、身を低くして岩山を登る。
「もうすこしで、西の王に会える――」
 風が強くなるのは、西風が王を守っている証拠。王の御座はもう近くだった。けれど、岩肌をえぐるように吹きつける風のせいで、もう一歩も進めそうにない。
 そのとき、ハルトのすぐ傍から柔らかな音が聞こえてきた。月見猫の歌を記録したクリスタル盤だった。

 月見猫の歌に、まるで道を譲るように穏やかになった西風。ハルトは驚きながらも岩山を登りきる。
 平たい山頂には闇と光がおどっていた。猫目石の精コーシカを讃える、輝石たちの舞踊だ。陰影の波動が夜空にオーロラを呼ぶ。
 クリスタルに写された月見猫が、一緒に歌いたそうにしていた。

 - レインメーカー -

 風が伴奏している土地に、雨を呼んでメロディを刻む。それがレインメーカー。
 乾いた土地に雨を呼ぶには、火を焚いてやればいい。雨雲が好むのは乾いた火だ。日照りの土地の潅木が薪にちょうどいい。世の中は上手くできている。
 乾いた火と煙につられて黒い雨雲がやってくる。彼らは大人しく言うことを聞いてくれるような性格ではないから、レインメーカーの方が雨雲のリズムに合わせて、風に合図を送ってやる。風と雨を心地よく歌わせてあげれば、雷のドラムがアップビートに鳴り響く。

 歌学者がクリスタル盤に針をあてて、雷雨のステージを記録している。なんでも、西の新王に「雷鳴のビートが聞きたい」と頼まれて、王の輝きを記録させてもらうことを褒美に引き受けたのだそうだ。
「歌学者は歌にしか興味ないものだとばかりおもっていたぞ」
 レインメーカーがそう言うと、
「歌も輝きも、波動――本質は同じだよ」
 歌学者はそう答えた。

 夜、心ゆくまでステージを歌い終えた雨雲は星空に溶けていく。叫びつかれてカラカラの喉を潤した草木も、いまはぐっすりと眠っている。
 ようやく顔をだせた星たちが、自分たちに代わって歌をうたってくれる猫を探して、ちかちかと瞬いていた。

 - 天文楽師 -

「歌いたいの?」
 ユーリがそう聞くと、グラースは一声、にゃあと鳴いた。
 墨を流した空には、真珠のおはじきが散らばったみたいな星々。ぱちくりとウィンクをおくる彼らを、猫たちはまん丸の瞳で見上げる。
 ユーリが合図すると、猫たちはさぁっとばらけて列をつくる。そして星を見上げる。まん丸い瞳に、星の輝きが入りこむ。光の波動は、猫のなかで音に換わる。
 ユーリがぱちんと指を鳴らす――猫たちは一斉に歌いだした。

 - 街人と旅人 -

「なにをしているの?」
 と聞かれて、レベッカは答える。
「雪を待っているの」
「でも、今日は雲ひとつない星空だよ。雪は降らないとおもうな」
 レベッカは首を横に振る。
「いいの、それでも。雪が降るか降らないかなんてどうでもいいの。わたしが雪を待っているかいないか、それが大事なの」
 きっと旅人さんにはわからないでしょうね――そう言われて、旅の絵描きはこくりと頷く。
「うん、わからない。……きっと、それが分かっていたらぼくは、旅人にはならなかったんだとおもう」
 見上げる夜空は、いまにも落ちてきそうな満天の星空。

 レインメーカーが、ふと思い出したように言った。
「そういや、ちょっと前に変な男と会ったんだ」
 歌学者はさきを促す。
「変な男?」
「ああ――スケッチブックを抱えた旅人だったんだが、『雪を降らせることはできるのか?』って聞いてきたんだ」
「きみは、雪を降らせることもできるのかい?」
 レインメーカーは首を横に振る。
「いや、雨と雪は別物だ。雨は乾いた空気で引き寄せられるけど、雪は乾いたうえに冷たい空気じゃないと寄ってこない。……雪を呼び寄せるってのは、おれたちレインメーカーの憧れなんだ」
「それで、その変な旅人はどうしたんだい?」
 歌学者の言葉に、レインメーカーは肩をすくめた。
「行っちまったよ、どこかに。南の国に雪を降らせてくれる奴を探しにいくんだとさ」

 旅の絵描きはレベッカに言った。
「ぼくが雪を連れてきてあげよう」
 レベッカは笑ってこたえる。
「そんなこと、どうでもいいわ。わたしはただ、雪を待っているだけだもの」
「ぼくは待つのはきらい――だから、雪を連れてこようとおもう。ただ、それだけさ」
 そう言って北へと旅立っていった男を、レベッカはちらりとだけ見送って、また雲ひとつない星空を見上げるのだった。

 旅の絵描きとミランダの出会いは、べつに運命的でもなんでもなかった。
 いつものように自転車の試し乗りをしていたミランダがすっ転んで、たまたま居合わせた絵描きが手を差しだした――ミランダにとってこれは日常のよくある一コマだった。
 絵描きとミランダは、宿場町の喫茶店で向かい合っている。絵描きはハーブココアを、ミランダはパプリカのドルマを注文した。
 ふたりは食べながら話した。おもに、ミランダが質問を投げかけて絵描きが答える。
「絵描きさんはずっと旅してるの?」
「うん。旅をしながら絵を描いて、絵を売って」
 ミランダは北都以外の街をしらない。せいぜいが、北都から一番近いこの宿場町までだ。
「旅って憧れるわ」
 そう言ったら、ハーブココアから漂うレモングラスの香りを楽しんでいた絵描きが、ふいにこんなことを言った。
「絵も歌も、色も音も、本質は同じ――波動の質と量を加減することだ」
 きょとんとするミランダに、絵描きは微笑む。
「父さんがよく言ってたんだ。ぼくもそう思う。だから……待っているのも探しにいくのも、留まることも旅することも、きっと本質は同じだよ」
 そう言われて、
「ありがとう」
 と、ミランダは微笑んだ。

※ドルマ:
 中身をくり抜いたピーマンやパプリカに、挽肉やピラフを詰めて煮込んだ料理。北西域発祥の料理だが、北でもよく食べられている。
 ちなみに、サワークリームをたっぷりかけたのがミランダの好み。
『ダンシングワールド』 橘内 潤

キャッチングセンター
ごんぱち

 バンッ!
 ボールがミットに飛び込み、派手な音を立てた。
「もう一セット!」
 岡嶋尚弥はボールを捨てて、ミットを構える。
「大丈夫ですか、岡嶋さん?」
 迷い顔で土田幸法が払い下げのピッチングマシンのスイッチに手を伸ばす。
「誰に口を利いてんだ」
「いや……まあ、やりますが」
 ガラゴロと音をたてて、土田はボールを装填した。
 射出口にボールが装填され――。
 ボスッ!
 スバッ!
 岡嶋のミットは、身体の真正面でシュートボールを捉える。
 続いてフォーク。
 大きく沈む球を、岡嶋は難なく受け止める。
 次は頭の上を越す程の球。
 しかしこれも、岡嶋は的確に下がってキャッチする。
 その後、十七パターンの中からランダムに、しかも方向の定まらない投球全五十球を、岡嶋は全てキャッチした。
「じゃ、そろそろ行きますか」
「おう」

 岡嶋と土田は、練習場から出る。
 すぐ近くの崖下から雲が見え、その隙間から街が覗く。
 二人は強い風の吹く駐車場を横切り本館へ向かう。
 本館は、古びた森林迷彩に塗られた二階建ての四角い建物で、門柱には『藍川県立第四キャッチングセンター』と書かれていた。
「今日は、どれぐらい来ますかね?」
 土田の顔は、僅かに緊張で強ばっている。
「さあな」
 岡嶋はゆっくりと肩を動かす。
「深谷さんみたいな事に、ならないと良いんですけど」
 玄関に入り、右に入った廊下にはずらりとロッカーが並んでいる。
「怖がると余計に危ないんだよ」
 岡嶋は、自分の名前の付いたロッカーを開ける。中には、黒光りする大ぶりなグローブと、プロテクターが入っていた。
「いっそ禁止でもしてくれりゃ」
「失業したいのかお前は」
 岡嶋は手慣れた調子でプロテクターを着ける。
「んー、まあ、もう一回就職活動するのは真っ平ですねぇ」
 土田の方はプロテクターを着け、ハンディパラボラアンテナと受像器を担いだ。

 二人は、階段を昇り屋上の扉を開ける。
「おう、畑中、島本!」
 屋上には、岡嶋と土田と同じ装備の二人組の中年男がいた。
「岡嶋さん!」
「遅いぞ、こら!」
 振り向かずに二人は応える。全身汗だくになっていた。
「お疲れ様でした、代わります!」
「よし十秒後に代わるぞ、お疲れ!」
 間を空けることなく、二人の中年男と、岡嶋、土屋は交代し、屋上に立つ。
 屋上はテニスコート一枚分程。床は三十センチ四方のコンクリートブロックが敷き詰められている。
 岡嶋は前に立ち、土田は後ろでアンテナを構える。
「――右四」
 土田の言葉と同時に、岡嶋はきっかりブロック四枚分右に動き、グローブを構えた。
 瞬間。
 どがあああっ!
 岡嶋のグローブが激しい衝撃音を発した。
「左一前七」
 また土田から指示が出る。
 岡嶋は衝撃から態勢を立て直そうともせず、指示の場所へ動き、またグローブを差し出す。
「まだ来ます」
 ぱしっ。
「右四後四!」
 土田の指示はよどみなく、岡嶋のフットワークは優れた軽量級ボクサーかダンサーのように軽快で、足音一つ立てず、態勢がどんなに崩れていてもよろめかない。
 二時間が過ぎた。
 岡嶋の全身から汗が流れているが、足取りは未だ軽い。
「岡嶋の旦那、土田君、そろそろ交代だ!」
 屋上の扉が開いて、今度は背の高い若い男と、小太りの若い男の二人組が現れる。
「おお、助かる。十秒後に交代を――」
 岡嶋が視線を動かさずに返事をしかけた時。
「お、岡嶋さん!」
 土田が怒鳴った。
「でかいの来ます!!」
「んだと?」
「マジか、これ!」
「こんなの初めて見る、岡嶋の旦那!」
 背の高い若者がグローブを構え、小太りの若者もアンテナを置いて予備のグローブを着けて進み出ようとする。
「引っ込んでろ、俺のタマだ!」
 岡嶋はグローブを構える。肘を半分曲げ、ヒザを落とし、視線を真っ直ぐ前に向けた。
「前三! 右四……いや、右三!」
「見えてるさ。これだけでかいとな!」
 何かに貫かれたように、雲に穴が空き、通過した直下の草木がざわめく。それは真っ直ぐに岡嶋達の方へ。
「来る」
 岡嶋が歯を食いしばった瞬間。
 どごおおおおおおがががががががああああっっっ!!
 砲声にも似た音と衝撃が、岡嶋のグローブを鳴らす。
 岡嶋は吹き飛びかけながら、どうにか靴裏のスパイクを床に引っかけ、もちこたえる。
「ぐっ!」
 だが、岡嶋の体は反り返って、バランスが崩れかけていた。
 グローブが裂け、プロテクターに無数の傷が付く。
「ヤバイですよ、岡嶋さん!」
 岡嶋に触れようとした土田の指先は、弾き跳ばされた。
「痛っ!」
 土田の爪が割れ、血が流れる。
「余計な、手を、出すな」
 岡嶋は反り返った身体を背筋一つで押し返す。
 余波で顔がひしゃげ、鼻と唇が広がる。
「こいつは、俺が」
 頬と唇の皮膚が破れ、血が流れる。
「無茶だ、捨てて下さい! キャッチできる代物じゃない!」
 土田は怒鳴る。
「ヤバ過ぎる、岡嶋の旦那!」
「逃げましょう!」
「俺はぁ!」
 食いしばった歯は、衝撃でヒビが入り、歯茎から血がにじみ出す。
「キャッチし損ねた事は!」
 だが岡嶋は靴底を床にがっしりと引っかけ、身体を持ちこたえさせる。
「一度も、ない!!」
 岡嶋は大きく一歩踏み出した。
 地鳴りのような足音と共に。
 辺りが、静まり返った。
 岡嶋は大きく肩で息をしながら、グローブを差し上げる。
「ナイス、キャッチ、てな」
 グローブからは、煙が立ち昇っていた。
「あれを、捕った」
「信じらんねぇ……」
「お前ら、交代だ。待っちゃ、くれないぞ!」
「あっ、はい」
「了解、旦那」
 若い男二人が、ポジションに付いたのを見届けて、岡嶋と土田は屋上から建物に入る。ドアを閉め、階段に一歩踏み出した時。
「っと」
 岡嶋の膝が崩れ、そのまま転げ落ちそうになった。
「岡嶋さん!!」
 土田が慌てて岡嶋を支える。
「だ、大丈夫ですか?」
「死ぬほど痛え」
「痩せ我慢してたんですか? ボロボロならそう言って下さいよ」
「馬鹿、若い奴らの前で、痛がったりぶっ倒れたり、みっともないとこ見せられるか」
「……あんなでかいの捕ってんですから、痛がったってみっともなくないですよ」
「みっともなくない、じゃあ面白くねえだろ」
 血まみれの顔で、岡嶋は微かに笑った。
「格好良くなけりゃ」

「うわあああああん!」
 遊んでいた男の子が、突然泣き出した。
「どうしたの?」
 母親が台所から顔を出すと、男の子が右手の人差し指を押さえている。
「はさんだー! いたい、いたいよぅ、ドアにはさんだー!」
 指の爪が赤くなっている。指の腹も少し皮が破れ、血がにじんでいた。
「あらあら。バイキンが入っちゃいけないわね。まずは手を洗いましょ」
 泣きじゃくる男の子を、母親は洗面所に連れていき、手を洗わせてから、消毒を吹き付ける。
「しみるよ、いたいよぅ!」
「ほらほら、すぐ終わるから動かないの」
「いたい、いたい」
 母親は絆創膏を貼り終えた。
「はい、おしまい。よくガマンできたわねー」
「いたいよー、いたいよー!」
 男の子はまだ泣き止まない。
「それじゃ」
 母親は傷をそっとさする。
「いたいのいたいの、飛んでけー! どう?」
「……すこし、いたくなくなった」
「でしょ」
「ねえ、おかあさん?」
 涙を拭きながら男の子は尋ねる。
「でもさ、とんでいったいたいのって、どうなるの? だれかにぶつかっちゃわない?」
「ふふ、大丈夫よ。飛んで来た事なんてないでしょ?」
 母親は微笑んで、男の子の頭を撫でた。
○作者附記:MAOさんのネタフリに乗ってみた。
『キャッチングセンター』連作の一。
次、誰か。書いたもん勝ちで。
キャッチングセンター ごんぱち

高所恐怖症
篠崎かんな

 高いところに登ると、安全な場所であっても、落ちるのではないかという不安がつきまとう病的な心理の事。近代の高層化を受け患者は拡大し、現在、症候群も含め人口の五%が患っているとされている――だから、僕が珍しいわけでも変なわけでも無いんだよっ、洋子ぉ~。
「何よぅ~」
 洋子は僕にかまわず歩き続ける。
「ね、ね、やめよう、場所替えよう」
「嫌よ、予約大変だったんだから、絶対あそこで食事するの」
「でも、高いし……」
「私がおごる」
「そうじゃなくて、地上から」
 洋子が立ち止まる、僕の方を振り向いて怒った顔で叫んだ。
「しょうがないじゃない! レストランが九十五階なんだからっ」
 周りの人間がこっちに注目した。
「洋子、声がでかい」
「私と一緒だったらどこでも楽しい、て言わなかった?」
「いや、言ったけどぉ~」
「なら、たとえ飛行機でも、宇宙船でも楽しく食事出来るでしょ? そうだ、今度アルス星に旅行に行こうよ」
「勘弁してよ……ただでさえ仕事で他星の人とは交流多いんだし」
「じゃあ地上で食事しよう、九十五階」
 勝ち誇った笑みを浮かべ、再び歩き出した。僕はしかたなく後ろについて行く。
「それとも、私と食事するのが嫌?」
「違う、違う」
 敵いそうに無かった。彼女は僕のあしらい方をよく解っている。
 九十五階か……。
 僕は洋子にばれないようにため息を付いた。
 珍しい高さではない。高層ビルがほとんどの現代では低い店のほうが少ない。
「でもなぁ~」
 高い所に居ると、冷や汗が出て、苦しくて、とにかく恐怖が付きまとうのだ。
「いいかげん腹決めなさい、男でしょ」
 男でも恐い物は恐いんだい。
 再びため息を付いて、洋子の後ろをとぼとぼ進む。とにかく腹だけは決める事にした。彼女に嫌われたくは無い。
 電子音がなり始めた、僕の携帯電話だった。
「あっ、ちょっとゴメン」
 洋子も立ち止まった。僕は背を向けて携帯電話を開く。
「もしもし、芝崎です」
 電話の向こうは騒がしく、上司の声は深刻だった。
「えっ? でもっ……はい、わかりました」
 洋子が僕の顔を覗き込む、僕は引きつった顔で次の言葉を続けた。
「すぐ向かいます……」

「どうした? その顔」
 真っ赤に晴れ上がった頬を見て上司が聞いた。
「バックで叩かれました。デートの途中だったんですよ」
「そりゃ、幸せな事で……じゃ用件に入る」
 タンタンと進む、これだから宮使えは嫌なんだ。
「クランド、て星知ってるか?」
「アンドロメダの一つですか?」
「違う違う、プレアデス星団の方だ、地球と外交したいと申し出があった」
「いいじゃないですか、それで僕らが書類持って行って同意貰ったら外交スタート。いつもと何が違うんですか……僕、戻っていいですか? 休みなんですから……」
「おいおい、とにかく聞け。先方のお国柄かなんか知らないが『体をいじってる奴と会いたくない』だと」
「いじってるって……整形とかですか?」
「そうそう、整形とか手術とか……あと問題なのは髪を染めてる奴は駄目なんだと」
「白髪染めでも駄目なんですか?」
「らしい」
 たしかに今の時代、若者は色を染めたがり、白髪が出始めたらそれを隠す。流行と言うより、時代の傾向のような物だ。
「だからお前が呼ばれたんだよ。の中じゃ、天然黒髪はお前以外いない、早いところ行ってこい、宇宙船の中から出れなくて、ご立腹だ」
「はいはい」
 僕は本日何度目かのため息を付いて立ち上がった。

 滅菌室を出て、大気適応検査が終わると、宇宙船の中に通された。
 クランド星の人間は肌色の肌に黒い髪を持った、ヒューマンタイプとしては珍しく地球人に似ていた。しいて相違点を言うならば、尖った耳と身長が1メートルほど高い事だろう。
「初めまして。他星外交局、芝崎はじめ、と言います」
 相手はどうやら地球の言葉はマスターしている様だった。
「念のためお伺いしますが、あなたは完全なネイティブなんですよね」
「は? えっと……まぁ、体はいじってません、髪も体も歯も」
「それは良かった、そんな思想の人にお会いしたかったのです」
 思想というか、医者も床屋もたいがい高い所にあるので、行きたくないだけだが。
 相手につられて笑った時、相手はスプレーを取り出して僕に噴射した。
 数秒で意識は消えた。

 落ちる、落ちる、落ちる……暗い底にどこまでも、どこまでも、どこまでも……。
「うわっ」
 莫大な恐怖で目を覚ました。なんて夢だ、最悪な目覚めだ。
 体が冷たい、で寝たからか。床?
「お目覚めですか?」
 誰かが見下ろしていた。異常な身長、そうかクランド人か。スプレーで気を失わされた事を思い出した。
「一体何のまねですか?」
「すみません、ご無礼を許してください。芝崎さんといいましたか」
「あ、はい。僕は規則を説明して同意をもらったらすぐ帰りますから……」
「残念ですが、それは無理です」
「なんで?」
「窓の外をごらんください」
 指された先の丸い窓まで背を伸ばす、高い所にあるのだ。
 愕然とした、宇宙があったのだ。黒い空間、瞬く星。そして遠ざかっていく青い星――。
 僕の頭はまだ夢を見ているのだろうか。その証拠に遠ざかっていく星を地球と認識しているじゃないか、そんなわけ無いのに、はっはっはっ……
「って、マジで地球?」
「はい、ですから帰る事は不可能です」
「たしかに……」
 頭はどうやら起きたらしい。その証拠に恐怖を感じ始めている。何に、て? もちろん自分が高い所にいる、て事に。
 僕は震える体でゆっくりと体を離した。
「すみません、どうしても地球人が一人必要なのです」
「そ、それはまた何で……」
「まぁ、あなたはもう地球には帰れないのでお話しましょう」
 へぇ……帰れないのね、もう。
「私達は地球を支配下に置きたいのです。交渉とか貿易とか面倒なのでね」
「ほぅ……」
 とりあえず相打ちをうつ。
「支配する手段として我々は『恐怖』を使うのです。その為、勝手ながらあなたがどんな時に恐怖を感じるか調べさせて貰いました。私達は、そのデータを元に薬を作ります。地球人がその香りを嗅げばその時と同じ感じがするわけで……」
「なるほど……」
 体をいじってない人間にこだわったのは、出来るだけ自然の人の生態を検査したかったからか。
「我々は今から薬を作りに星へ帰る所です。心配無く、あなたの身柄は丁重にあつかいます。地球に返すわけには行きませんが、クランド星での幸せを約束します……」

 と、そんなこんなでクランド星にいる。
 本当に、対応は丁重で親切だった。
 地球が恋しいと言えばそうだし、腹が立たないといえば嘘になるが、別にそう不幸ではない。クランド星の食べ物は美味しく、気候は穏やか。そして何より、建物が低いのだ。
気楽にすごしながら、時折地球がどうなったか考える。
 前に一度、完成した『恐怖の薬』を試された事がある。効果は絶大だった。地面にいるはずなのに、体は高い所にいると反応していた。足下がすくわれ、意識が飛びかけた。この星の科学技術はたいしたものだ。でも、それを使ったところで効果のある地球人は五%しかいない。ある意味僕は地球を救った事になるのだ。
 唯一気がかりなのは洋子の事だった。こればっかりは、仕方なかったから、夜に星を眺めて祈った。銀河を越えて愛が伝わりますように。
 もし会えるなら、僕は何処にでも会いに行くだろう。
 たとえ、考えられないほど高い場所でも……。
高所恐怖症 篠崎かんな

たかぼ

 私はまだ一度も夢を見た事がない。

 いや見ているのかもしれないが憶えていないのだ。熟睡した翌朝も、うたた寝した昼間も、眠りの前と後の間にはからっぽの隙間があるだけだ。私の人生は夢によって区切られることがない。まるでコマーシャルのない連続ドラマのようだ。

 夢を知らないということを初めて意識したのは小学生の時だった。そのころ友人たちが集まるとしばしば夢の話になった。例えば欲しいおもちゃが手に入った夢、恐ろしい怪物に追いかけられた夢、体が宙に浮かび水の中を泳ぐように空を飛んだ夢、そういう不思議な体験談を聞くたびに自分だけが取り残されたようで寂しくなった。
 初めの頃は何の話なのか理解すらできなかった。私にとって眠りとは完全な空になるようなものだったからだ。私にとって夢とは、まだ見ぬ神秘の世界。それこそ夢見ることを夢見ていた。やがて仲間はずれになることを恐れて、私はありもしない夢の話をでっち上げるようになっていた。それは虚しく、後味の悪い嘘だった。

 そんな事情を知った親はたいへん不安に思い、私を連れて病院巡りをする事になった。小学4年生の夏休みだった。何カ所もの病院を渡り歩いた末に、ついに或る精神科病院で一つの事実が明らかになった。
 私はその病院に入院をして、頭皮に脳波測定の電極を装着したまま一晩を過ごすことになった。翌日来院した母親とともに聞いた検査結果は驚くべきものであった。長い紙にプリントされた脳波のギザギザ模様をしかつめらしく眺めた後、担当医師はこう言った。
「息子さんは夢を見ていますよ」
 私は唖然とし、母親は安堵のため泣き出す始末であった。
「しかし」と医師は続けた。
「問題は、どうして見た夢を全く憶えていないのか、そしてどうすれば思い出すことができるかが全く分からないということなのです」
 医師はそう言うと、ギザギザ模様の長い紙を眺めては小首をかしげるばかりだった。
 結局、原因不明の疾患と診断されたが、その後はもう親は心配しなくなった。夢など思い出せなくても生活に支障を来すものではないし、もともと何の役にも立たないではないか。この子が特別な欠陥のある人間でないと分かっただけで充分だ、と。そして
「寝ている間に見ない夢を、起きている間に作ればいいでしょ。でっかい夢を叶えればいいのよ」と、なんだかもっともらしい説で私を納得させたのだった。

 親の安心とは裏腹に私の不安は強くなっていった。そもそも夢を見ていないのならあきらめもつく。しかし見ているが思い出せないというのはとても気になる。私は自らの謎に少しでも近づこうとして夢に関する書物を読み漁った。そこで得た知識で自分なりに実験のようなこともした。
 例えば夢を見ているときは眼球が激しく動くと言われる。眼球が動いた瞬間に目覚めれば、少しは憶えていることがあるかもしれない。そう考えた私は親に頼んで一晩中付き添ってもらい、眼球が動いた時に起こしてもらったりした。睡眠不足による頭痛以外に何の成果もなかったことは言うまでもないが。

 悪夢を見なくて済むではないかとプラス思考に変えたものの、一抹の不安を抱えたまま月日は流れた。幸い、夢の記憶がないという以外の記憶障害もなく、むしろ勉強は得意なほうで、希望の大学にもすんなりと入学することができた。ごく一般的な学生生活を楽しみ、そこで出会った女性と恋に落ちた。彼女に自分の秘密を打ち明けたのは、その人がかけがえのない存在に思えるようになってからだった。
「ずっとないしょにしていた事があるんだ」
「かしこまってどうしたの? 何かよくない話?」
「そうじゃないけど。実は俺、夢を見たことがないんだ」
「夢? 寝てるとき見る夢?」
「そう。君も見たことあるだろ?」
「ははっ、あたりまえよ」
「いいなー」
「ふーん。じゃあ、本当に見たことがないんだ。別にいいんじゃない? わたしだって見た夢のことなんかほとんど憶えていないよ。目が覚めてしばらくしたら完全に忘れちゃう。ほとんどの人がそうなんじゃないかな」
「まあそうなんだろうけどね」
「それにわたしは夢で君に会うより、こうして現実で会うことの方がずっと大事だよ。だからもう気にしないでね」
 彼女の心のこもった言葉に私は胸が熱くなった。そして私のコンプレックスを軽く受け流してくれた彼女のことがますます好きになった。
 こうして秘密の無くなった私たちは、大学を卒業し、お互いが就職した後に結婚した。やがて新婚気分も抜けるころ、嬉しいおめでたとなった。そして無事に出産、となる筈だった。しかしそれはある朝突然やってきた。

 出産の予定日を約一ヶ月後に控えた早朝、妻は突然の激痛に目を覚ました。少し早い陣痛だろうか。初めての経験で私も妻も自信がない。下の方からは少量だが出血もあるようだ。これはいわゆる「おしるし」という陣痛の始まりの出血だろうか。だがそうしている間にも妻の表情は次第に苦悶状態になっていった。とにかく病院に行かなくては。救急車を呼ぶ時間も待てず、妻を自家用車に乗せ早朝の道をとばした。あらかじめ電話を入れておいたおかげで、込み合った救急外来を素通りし、歩くこともままならぬ妻は車椅子で産婦人科病棟に運ばれた。
「ご主人様はこちらでお待ち下さい」
 当直の看護師はそう言うと、面談室と書かれた部屋に私を案内した。まだ眠そうな顔の医師が一人診察室に入って行くのが見えた。しばらくしてその医師が面談室に入ってきた。一目でただごとではないとわかる表情で医師は言った。
「大変な事になっています。おそらく、まだ剥がれてはいけない胎盤が剥がれはじめています。赤ちゃんは瀕死の状態です。赤ちゃんだけでなくこのままではお母さんの命も危なくなります。直ちに帝王切開をします。必要なら輸血もします。いいですね」
「はい。どうかよろしくお願いします」と言うか言わない内に医師は飛び出して行き、大声で指示を出しはじめた。入れ替わりに看護師が入ってきて、手術と輸血の同意書にサインをするように言われた。
「印鑑は後でいいですから、名前だけ書いておいてください」
 あわてた様子でそう述べる看護師に私は聞いた。
「親戚に電話しておいた方がいいような状況なんでしょうか」
「そうですね万一のことがありますから」
 そう言い残すと看護師も飛び出して行った。

 妻はついに息を吹き返す事はなかった。胎盤早期剥離に引き続いてDICという血が止まらない状態に陥ってしまったためだった。あまりにもあっけない死という現実を受け入れることは到底不可能であった。長男は何とか一命を取り留めたが、ただ生きているだけという状態だった。新生児集中治療室の小さいベッドの上で人工呼吸器を装着された我が子をじっと見つめていた。眠っているような我が子。この子にはきっと何も見えず、何も聞こえないのだろう。そう思いながらも不憫で、呼びかけたりしている。何の反応もない。だがほんの一瞬、その閉じられた瞼の内側で眼球が動いているのが分かる時がある。そう、まるで夢を見ているように。その時だった。私はとても奇妙な感覚に襲われたのだ。まるで深海から魚が浮かび上がってくるような、しだいに輝きを増す朝の陽に闇が溶かされていくような。そして私の意識は私の息子、いや私自身の体の中に、ゆっくりと帰って行った。

 私はまだ一度も現実を見た事がない。

チェリーちゃん
榎生 東

「おそかったね」
「吉祥寺まで行ってやっと買えたのよ」
「そりゃあ大変だったね」
 カサカサ乾いた音が聞こえる。
「まだ一週間だって」
 女房は満足そうに小さな紙の箱を開けた。
「おお、元気だね」
「可愛いでしょ、一万五千円もしたのよ」
「へー、高いもんだなあ」
「私の方が安かったね」
「文無しの駆け落ちだったからね、お互いタダみたいなもんだ」
「可愛いねチェリーちゃん」
 彼女は頻りに可愛いと言うが、裸でぶるぶる震える雛はグロテスクで可愛くも何ともない。
「不味そうだな、お前は」言った途端、太い腕で怒突かれた。息が止まった。
 若い頃、彼女を呼び出して新宿南口の居酒屋で雀の丸焼きをよく食べた。彼女は姿焼とは名ばかりのだらしなく焼かれた黒い雀から顔を背けた。
「雀を食べる人なんて大嫌い」
 私は頭から囓って一緒になった。
「やなこと言わないでよ」と、私の背中を大きな手でさすっているが、彼女の視線は震えの止まらないチェリーに向けられている。
「小鳥屋さんの箱には五六羽の雛がいて、重なり合っていたけれど、チェリーだけだと寒いと思わない」と、プラスチックの飼育箱を取り出して私を見た。私は大工センターへひとっ走りした。ハムスターの牧草を飼育箱にたっぷりと敷き込んでやった。
 彼女が掌に乗せて、スポイトを嘴に当てると体に似合わぬ大口を開ける。水に浸した粟玉を喉の奥へ押し出してやる。グッグッゴックンと呑み込む。
 食後は彼女に撫で撫でされて三十分ほど眠る。母が子に添い寝するように彼女も微睡んだ。
 一週間で真新しい水を弾き飛ばす黄色の羽が生え揃う。釜のような嘴が新鮮だ。細い足と爪の白さは虚弱にも見える。
 
 チェリーが来るまで、舞台の主人公は私であった。主役をチェリーに取って代わられ一気に無きに等しいまでに落とされた。
 朝六時、彼女はチェリーをおこしに行く。
 私は三十分ほどしてベットを出る。洗顔を済ませ庭に降りて軽い体操をする。心身を整えるのである。厄年に過労で倒れて以来の健康策だ。シャワーを浴び、もう少し太りたいと思いつつ身支度を調える。鞄の書類を確認してキッチンに入る。
「おはよう」
 彼女がしゃがみ込んでいる。
「ちょと見て」
「どうした」
「元気がないの、餌も食べてくれない」
「押し込んでやれ」
「そんなことだめよ」
「飯にしてくれ、遅れる」
「ごめんなさい」
「そうか」ムッとした。朝から文句は言いたくない。
 いつもの玄関の見送りにも彼女は出てこなかった。
 抑揚のない会社の仕事にもう一つ身が入らない。はけ口のないもやもやが胸に溜まった。
(久しぶりに帰りに下北で一杯やるとするかな、いやいや、これきしで酒など呑んだら口が腐る)と、思っていた。電車が下北沢に到着すると下車していた。
「いらっしゃい、覚えていたね焼酎の日」
「うん、まあ、ある?」
「あるよ、何かあった馬鹿に早いけど」
「別に……」
 黒糖の香る芋焼酎、お気に入りの諸葛も何故か今日は辛い。それでも酔いが体を楽にした。気になって一杯で帰る。杞憂だった。
 彼女の機嫌がいい。
「それ、人間の薬だろ」
「小鳥屋さんが、粟玉と一緒にやりなさいって」
「食べるのか」
「食べる」と、小児用の液体ビタミン剤をみせ「お夕飯、何んでもいい?」日がな一日をチェリーにとられて買い物をしてないと言った。
「いいよ」毎日のことでもあるまいしと思う。
 ビタミンの効用でチェリーが見違えるほど元気になる。
 額の赤が鮮やかになり、体も一回り大きくなった。
「ピーピー、ルルルル、ピーョピーョ」体調のよいのだろう、遠くを見て軽やかに囀っている。
 少し飛ぶようになった。一メートル飛んでは歩き、また一メートル飛ぶ。着地は下手でドンと音がする。
 私は紐で足を縛って飛びの訓練を始めた。
 庭の空高く投げて紐を持って走るが直ぐ落ちる。十メートルが精々だ。翌日も翌々日も続けた。
 三日目のことだった。紐を引っ張って大きく二周飛んだチェリーは私の頭に止まった。胸がバクバクして熱い体温が伝わってくる。
 近親感が湧き無性に可愛くなった。
「見なさいよ、この胸を、可哀想に。飛べなくてもいいのよ、カゴで飼うんだから」ぶらぶらミラーで休憩するチェリーのようすに彼女が怒った。
 私は止めなかった。飛べない方が可哀想だ。彼女の留守に訓練した。少しずつ飛びの時間を伸ばす。チェリーの心臓は日毎に強くなり、バクバクしなくなった。
 それだけではない、うっかり紐を離してが返ってくるではないか。紐は存外に重く大きくは飛べないが、調教師冥利、大満足だ。
 次の日、紐を短くしてやった。飛んだ、チェリーは隣の屋根を越えその隣も越えて飛ぶ。
「何処まで行くんだチェリー、戻ってこいチェリー」逃げられる不安が脳裏をかすめた。
「あっ!」紐が電線に絡みついた。救出に時間が掛かった。
 以来、チェリーは私が手を出すとバタバタ大きな羽を飛ばして逃げ回る。
「あなたは嫌われたのよ、暫くほっときなさい」
 私はチェリーを見ないようにした。向こうもピーでもなけりゃビェーでもない。
 彼女とチェリーの穏やかな睦まじい日々が続いた。
「待ってなさいよ、あげるから」チェリーは待ちきれない。彼女の手に乗って鯛焼きの包みに頭を突っ込む。あんこが好きらしい。
 彼女のお椀の縁に乗りみそ汁も飲んだ。甘みと塩気だ。
 チェリーは夫婦の気まずい折の救いになると思ったが間違いだ。
 会話は減り二人で笑うことも無い。彼女がチェリーと話し笑うのを見るだけになった。
「小鳥に嫉妬するなんて」
「嫉妬じゃないよ」巧い言葉が出ず黙って諦める。
 このまま遠のいて他人になる感じがした。さりとて策を弄することは出来ない。自尊心が許さない。やはり諦めた。時間を待つ他ない。
 私はチェリーとの仲の修復を試みた。
「チェリーちゃん」彼女の口を真似て呼んでみる。
 振り向いた。
「チェリーちゃんおいで」と、手を入れるや、小さな体で一直線に突進し、棲ざまじい力で噛みついた。
「痛い、痛いっ」思いっきり振り払った。
 土間に叩きつけられたチェリーはよろよろ頭から倒れた。脳しんとうを起こしている。
「ボタンインコは攻撃性が強いんですって」後日になって聞いた。
 彼女が指を入れると、チェリーは頭をすり寄せて甘える。首を曲げる。首を掻いてやる、反対にクルッと回す、彼女は乞われるままに掻いてやる。気持ちがいいらしい。
 私は本気に馴らす決心をした。カゴの掃除、餌と水の取り替え、寝箱の天日干し、水浴び、全て肩代わりした。
「ピーピー」チェリーが私を呼んだ。
「なんだ」
「ビェー、ビェー、出してよお父さん」
「出たいのか」
「グルルルル、ビェービェー早く出せクソおやじ」チェリーは気が短い。
 頭を激しく上下する行動は彼女の時と同じだ。
「よしわかった」
 中指にぎゅっと掴まる。撫でてやると腰を下ろしふんわり暖かい。
「仲良くしよう、なチェリー」
 可愛い感触に頬擦りするや唇に噛みつき、ぐいっと切り裂いた。
 あまりの痛さに夢中で叩き落とした。床上10センチ、ちぇりーはしぶとく舞い上がりシャンデリアに逃げ込んだ。
 血が流れ落ちる。深い痛みだ。
 シャリンシャリンとガラスを鳴らしピチャッと糞を落とす。
「この野郎!」
「うちにもいます、気の強い可愛いのが」
 女医は平然と言って二針縫った。
「この人だけ噛まれるんです」
 女房が女医と目を合わせ下を向いてくすっと笑う。
チェリーちゃん 榎生 東

ひとつへ至る徒然
ゆふな さき

 初めてねたのは、十七歳の夏だった。相手は金髪が似合う同学年のユウ。彼の羽織るジャケットは、赤なのに落ちついた色、濃淡が縞模様になっていた。くつはレザーのブーツ。
「登山くつ?」
無知な私がそう聞いたとき、ユウは怒らずにその名称を教えてくれた。もう忘れちゃったその名前。とにかくおしゃれな男の子だった。

 そこまで話していて友達は不思議そうな顔をする。暗い照明が彼女の顔を照らす。私は困って、彼女におつまみを食べさせようとする。カロリーの高そうなポテトフライ。
「誰とも付き合ってないって言ってなかったっけ?」
彼女、ミカはそのフライを避けながら言う。私は曖昧に笑った。
「そうね、アキラが初めて。『付き合ってる』って強く感じる人は」
「その男はひどい人だったの?」
(全然。)
心の底でそうつぶやく。

 私はユウと付き合ったことがない。ただの知り合いだった。
 梅雨明けをしたある日、学校最寄の駅前で同じ高校の男子、女子たちに会う。私はそこにいる後輩の女の子に私は用があった。
「ちょっと、みさき」
彼女は長い茶髪をなびかせながらこちらに来る。
「CD、返しに来たよ」
彼女の茶色く細い指にCDを渡した。
「それから……」
「わかってます先輩、少し待っててください」
彼女は私の知らない男の子のところへ走る。その男の子は四角く小さいツイードのバッグを持っていて、きっとミサキのカバンなのだろう。そこからごそごそと取り出す。
「先輩のです」
「どうもありがと」
ブルーのラベルのCDをカバンにしまう。
「じゃあね」
「先輩、帰っちゃうんですか?」
彼女は年上に気を使う子だった。
「うん。用も済んだし」
視線を泳がすと、少年、少女たちはみな虚ろな目をして、人気のない交差点に集まっていた。
「飲み会?」
私は聞いた。
「はい。バンドの打ち上げです」
「いつから飲んでるの?」
「後夜祭のあとからですよ」
学園祭は二日前だった。ふと、知り合いのユウが私に気づいた。彼はゆっくりと私に近づく。ユウが抜けると20名ほどいたメンバーが三分の一ほど減る。
「どうしてきたの?」
今日火曜日は立て替えの休みだったのだ。
「みさきに、CDを返してもらいに」
そしてその曲が私の企画したジャズ・コンサートで必要なのだと話してみたけれど、彼の目はとおくにあった。お酒の匂いがする。
「ずっと飲み会しているの?」
彼はうれしそうな顔をした。
「うん。後夜祭のあとからね」
「三日間もどうやって飽きないの?」
「結構あきないよ。めっちゃ楽しいよ、馬鹿なことばっかしてさ」
と言いながら彼は「馬鹿なことをした」男の子に手振りで呼びかけていた。
「飲み会とか、そういうのしたことないんだ。楽しそうだね」
私がそう言うとユウの目が変わる。私はそれに気づかないふりをして、
「もうお開き?」
と聞く。だって少年少女たちの声が(ここでお開き)と言っているのだ。
「うん。その予定だけど」
ユウは交差点に戻っていき、私を手招きで呼んだ。
「俺んちで飲みなおしするのもいいよね」
ユウはみんなにむかって自分の家にお酒がたくさんあることなどを話だした。グループに話かけている間もユウはずっと私の隣にいた。そして、
「来る?」
と聞く。覗き込んだ顔を真正面から見る。普段のユウより心持眉が下がっていて、好きな表情だな、と思った。
「うん」
私は答えた。

 だらだらとお酒を買い、畳敷きのアパートに着く。ユウはずっと隣にいて、私に缶のお酒をひとつ買った。甘いモノを選ぼうとしていたから、正直に、
「甘くないほうが好き」
と言う。ユウは意外そうな顔をした。
 そのミドリのラベルの缶の前で、トマト料理を食べる。
「俺、バーでバイトしてて、時々こう言うの作るの。」
煮込み料理やイカ揚げ。私はほどんど黙っていた。ユウはずっと私の隣にいて、親切だった。

「それでヤラれちゃったの?」
ミカはしびれを切らしたように聞く。
(ヤラれる? そう言うコトになるのかな?)
私は心の奥にあったちっちゃな宝石が砕かれる感じがした。
「どうだろうね?」
声がこわばる。
「私がいやだと言ったらユウはやめたんだけどね」
ミカは笑った顔をしている。
「夜に一緒のふとんにさそわれてさ。でもねたくないっていったらユウはやめて、隣でねたよ。」
ふとその間、腕枕をされたことを思い出す。
(女って、ほんとそういうの弱いよな)
と思い、うれしかったはずの思い出は黒く塗られていく。
「でも次の日の朝ね、なんか隣で眠っているその男の子をみてね、私、キスしてたんだ。」
本当は腕を舐めていた。何故自分がそんなことをするのかよくわからなかったけれど、頭の中は、
(彼の胸って鍛えられてて魅力的だな)
と感じることに費やされていた。
「その人のこと好きだったの?」
私は正直に言った。
「他の人を好きだった。」
ミカはにやにや笑って、
「そう言う気分の時もあるよね。」
と言う。彼女の笑い方は、ひきつけに似た不愉快なモノがある。ミカは聞いた。
「その後つきあったの?」
「ううん。」
彼女は可哀想な人を見る目で私を見た。私は、死にたいほど恥ずかしくなった。

思い出は畳にもどる。ユウの汗に驚いていると彼の顔はぼんやりした。しばらく、そんなユウに抱きしめられていたけれど、だんだんと熱さに耐えられなくなって私は身体を離した。水を飲みにいく。
冷たいコップを持って帰る。そのガラスを触った手は冷たいから、彼の頬に当ててみる。ユウはうつろに驚いている。その後、私はふとんに入ったり、また外に出たりを繰り返した。

目覚めたユウは私を好きだと言い、私も彼を好きだと言った。そして色々なことを言いあった。例えば、ユウは弟と一緒に暮らしていると言う。
「でもあいつ遊び回ってるから、一緒に住めるよ」
いつも行く駅の名前。共通の趣味の模索。
「クラシック、俺、好きなんだ」
私は音大の受験を控えていたから、仕方なしにクラシックも聴いていた、
「あれだけ弾くのに詳しくないんだ」
ユウはお世辞を言う。男の子ってお世辞を言うのが得意だ。そして私は言われるのが大好きだ。
「ジャズが好きだって言ったよね、ジャズ喫茶に知り合いいるよ。一緒に行こうよ?」
バイト先の近くにあるんだ。俺、学校に行かずにバイトばっかやってるんだ。毎月、めっちゃお金入るよ。でも貯めたり出来ないんだ。すぐに洋服や靴に変える。このコンポやターンテーブルも衝動買いだよ。DJ憧れてね、いやおもちゃだよ。そんなに上手くない。ちょっとだけ見る?

 彼のミキシングを見る。きっと下手なんだろう。でもいいなあ。
「ユウって全部センスいいよね。洋服、音楽、小物。そういう生き方だからなのかな?」
照れるな。でも俺、本当、よくそう言われるんだ。
「ウッド・ベース弾く姿も格好いいよ」
ありがとう。でも習ったばっかでさ。俺の親父、コントラバスやってるんだ。クラシックのだよ。小さなころにオーケストラ連れてかれたよ。練習の時のね。母さんもフルート奏者なんだ。だから自然に小さな頃からいろいろ聴いてる。でも俺、クラシックよりジャズがしたいね。スカって知ってる? 格好いいよ。ライヴどんなの行く? クラブとかって見たことないだろ? 今度連れてってあげる。いつが暇? 何曜? 

(ユウは、あの男と全然違う。)

 すっかり私はユウと付き合うのは楽しいだろうと思っていた。けれどつき合わなかった。私が拒否したのか、彼が拒否したのか。それは、未だにわからない。
ひとつへ至る徒然 ゆふな さき

のっぺらぼう
のぼりん

 それは忘れもしない、小学六年生の頃。秋のある日のことであった。授業の終わりのチャイムと同時に、僕はひとりで理科室に向かった。
 お気に入りのシャープペンシルがみつからないのだ。誕生日に母からもらったもので、何よりも大切にしていた。いろいろ探して、理科室に移動した時に、そこで落としたんじゃないかと、ふと思い浮かんだのである。
 理科室は、校舎の並びの中で一番はずれにあった。
 教室に飛び込むと、実験道具が並べられた棚の向こうの窓から、もうすでに朱に染まった西日が、細長く差し込んでいた。理科室独特の薬品のにおいが鼻をつく。もちろん、下校時間はとっくに過ぎていて、そこに誰か人がいるなんてことは少しも考えていなかった。
 が、すぐに棚の裏側から、ゆらゆらと揺れる影が、僕の足元まで伸びているのがわかった。その先にぼんやりとうずくまる何者かがいた。
「誰だ」
 声と同時にその影がふいに立ち上がった。僕は、あまりの驚きに息をのんだ。
 そこにいる男の顔は、つるりとした肌色があるだけで、目も鼻も口もないのっぺらぼうだったのだ。
「み、見たな!」
 悲鳴を上げたのかどうかも覚えていない。
 ただ、一目散に理科室を飛び出した。恐ろしくて後ろを振り返る事は出来ない。が、背中に追いすがるような気配がついてくるのがわかった。
 僕は闇雲に走った。と、次の瞬間、僕は前を横切るもうひとつの影に思いっきりぶつかって鞠のように跳ね飛ばされた。廊下を転がって、腰と肩をしこたま打ちつけたが、気が動転していたせいか痛みすら感じない。
 反対の方向に弾かれた奴がいる。それが多田野小五郎だった。
「何をあわてているんだ。吃驚するじゃないか」
「た、多田野か…。」
 多田野は顔を歪め、尻をさすりながら立ち上がった。つられて僕も立ったが、なかなか次の言葉がでない。ごめん、というのがやっとだった。
「顔色が真っ青だぞ。何か見たって顔してる」
 既に周りは薄暗い。はっと気がつくと、多田野の肩越しから、一人の大人の男の顔が覗いた。宍戸先生だった。
 後ろは理科室へ続く廊下だ。僕を追いかけてきた化け物はこの先生じゃないか? 彼の着ている丸首のシャツは、先ののっぺらぼうの着ていたものと同じ。見間違うはずもない。
 おそらく、僕の様子は尋常ではなかったのだろう。多田野が心配そうに僕を見た。宍戸先生が、その後ろから静かな声でいった。
「君たちこんなところで何をしてるんだ。暗くなる前に家に帰りなさい」
 多田野は、僕の肩をぽんと叩いて「さあ、帰ろう」と促してくれた。僕はただ黙って震えているしかなかった。
 それから数日間、僕はできるだけ宍戸先生と出会わないようにした。休み時間でも、廊下の外には絶対に出なかったし、授業が終わると、まっすぐに校門に向かい、そのまま走って家へ帰った。
 しかし登校中の路上で、ついに宍戸先生に出くわしてしまったのである。考えてみれば、同じ小学校で、教師と生徒がまったく顔を合わせないなんて無理だ。もちろん僕は動揺を隠すのが精一杯で、まともな挨拶などできない。
「おはよう」
 宍戸先生が僕の肩に手をおいて覗きこむようにいった。
「これ君のシャーペンだろ? 理科室に落ちていたぞ」
 ありがとうございます、と答えるのがやっとだった。僕がそのペンを手に取ると、宍戸先生は呟くような声を出した。
「この間のことなんだけど、誰にもいわないでくれないか。先生の一生のお願いだからね」
 それだけ言うと、宍戸先生は、そそくさと先に行ってしまった。
 それはしかし、なんという忌まわしい一瞬だったろう。その場に取り残された僕は、ただ呆然と立ち止まって、その言葉の意味を探り続けた。
 やはり、本物だった。
 あの先生は、のっぺらぼうだったのである。考えれば考えるほど現実離れした出来事だ。しかし、一方でそうとしか結論付けできない現実がある。

「のっぺらぼうのことだが……」
 ふいにその話題を切り出され、僕は現実に引き戻されたような気がした。多田野の贅肉のないストレートなしゃべり方に「のっぺらぼう」という単語が実に不似合いに聞こえる。
「事実、目撃したんだよ。目も鼻も口もない、そういう人間をね」
 僕は噛み付くように答えた。多田野は鼻先で笑うだけである。
「君は、他に宍戸先生の妙な噂を聞いたことがないかい」
 多田野小五郎は、自らの問いに答えるように話を続けた。
「僕が先生の担当クラスの子に話を聞いたところによると、男の先生のくせに、夏になってもプールの授業は引き受けようとしない。職員室ではこのことでかなりひんしゅくを買っているそうだ」
 水に浸かると、正体がばれてしまうのだろうか。いや、そんなバカな。
「そうしてみると、君の目撃談について、考えられることはひとつしかない。ただ、とてもデリケートな問題なので、それが事実だとしても誰にも言わないほうがいいだろうな」
 多田野の口ぶりは、宍戸先生が僕の耳もとで囁いた言葉とまったくそっくりだった。まさか、こいつも同じ穴のムジナか。そう考えると、逃げ出したいような気になってくる。
「ともあれ、宍戸先生に、まずこちらのほうから接触する事にしよう。恐らく僕の推理を証明できるはずだよ」

 さらに次の日の放課後、二人は、たまたま職員室に向かう宍戸先生の後姿に出合うことができた。
「チャンスだ。しかも、周りには誰もいない」
 多田野が、僕に耳打ちした。
「いいか、これからちょっとした演技をするから、君は僕のマネをすればいい。いいね、できるだけ大げさにやることだ」
 いいながら、宍戸先生の背中に、どんどん近づいていった。何が起こるのか推測する暇もない。僕は多田野の歩調についていくのがやっとだった。
 多田野の足が先生を追い抜いたとき、彼は急に振り返って、びっくりするような大声を出した。
「地震だ!」
 そして、右、左に大きくよろめいた。
 もちろん、僕もその声につられて、廊下の壁から壁へ取りすがるような演技をした。宍戸先生は声をなくしている。
 しかし、それはほんの一瞬の事だった。すぐに多田野は背筋を伸ばし、信じられないほどあっけらかんとした調子でいった。
「なーんだ、勘違いか」
 宍戸先生は、ただ呆然としている。
 多田野の目配せを合図に、僕たちは一目散でその場を逃げた。何がおこったか、僕にはさっぱりわからない。
 宍戸先生のいた場所から十分離れたところで、多田野はやっと立ち止まり、うれしそうに笑いながらいった。
「見たろ?」
「何を?」
 僕にはちんぷんかんぶんである。
「地震とか火事とかになると、人間というのは無意識のうちに、一番護らなければならないもの、大切なものに気がいくはずだ。あの先生、両手で頭を抱えていただろう」
「え……ひょっとして……」
「そう、カツラだな。ありゃ」
「カツラ!」
「理科室ではきっと何かを拾おうとして、おそらく君のシャープペンだろうけど、うつむいた時にカツラがそのまま前にずれたんだろう。君の気配に驚いて立ち上がった時には後むきで、後頭部が剥き出しになったというわけだ」
「じゃ、僕はそれをのっぺらぼうと見間違えたわけか!」
「先生は無地の丸首シャツ着てたから、裏表もわからない」
 僕は笑いを我慢できなくなった。

 さて、多田野小五郎は、その後有名な資産家の養子になり、名探偵として世間に知られるようになる。
 それはまた別の話。