ミルク入りたまごやき
ゆふな さき
たまごやき。私は時々ミルクを入れて焼く。香ばしいにおいの中、
「ミルクを入れたらおいしいよ」
と卵を焼いていたお姫様を思い出す。
母の妹にあたるおばさんの離婚で家の中が騒然とし、自分自身には片思いの男の子ができ虚ろに日々を過ごしていた小学生の中頃。どうやったら男の子に好かれるか。私はそれに悩みつづけ、自己主張をしない弱々しい人間へと変わっていった。魅力的に見せようとして失敗するより、ある日突然告白される夢をみていたほうが楽なのである。結局思いは実らず失恋に終わり、しかし根暗がすっかり板についた頃、五年生のクラス替えとなった。
子供たちが必死に作り上げた小さな社会はあっけなく変化する。高学年になった私の前に、その女の子が現れた。薄い茶色い髪の毛を持ち、大きな目をした人形のような女の子だった。鼻にかかる声で快活に、彼女は出席番号が隣の私に挨拶してきた。アイと言う名前だった。私はひと安心した。お姉さん肌の彼女の周りには人の輪ができはじめている。そして私はその中に、ちょこんと存在することができる。一人きりで行動することや自分自身で友達を作ることは、どちらも大変で嫌だった。
始業式の次の日の朝、彼女は私の筆箱を取り上げた。
(ふざけるのは苦手なんだよな)
と思いつつ私は、
「返してよ」
とアイを追いかけた。ところがいつまでもその筆箱は返ってこない。筆箱は宙を舞い、アイと彼女の友人たちの手の間を泳いでいる。悪い予感がした。筆箱をとったのが男子であったのならば、
(むきになれば勢いづく)
と感情を隠すのだが、悪い予感が大きくなり、むきになって筆箱を追いかけた。そして、自分の立場を明らかにしてしまったのだった。
それからアイは何かにつけて私の揚げ足をとるようになった。のんびりとしていた私は言われて仕方のない性格だったのかもしれない。彼女の取り巻きの女の子たちはそれをはやしたてた。
彼女の家に呼ばれたのは、確か梅雨も終わりに近づいた夏の日だった。友人たちはまだ遊んでいて、一人で帰ろうと思っていたときだった。アイは私に、
「一緒に帰ろう」
と言ってきた。染めていないのに茶色い彼女の髪は風に揺れ、私はぼうっとなった。整った顔にかわいい服。活発な声と頭の良さ。アイは女王のようで、私は決して彼女から抜け出ないだろうと感じた。頭ではアイを嫌っていたけれど、こういうとき、どうしようもなく彼女がすてきに見えた。
二人きりの下校。校舎は降り止んだ雨でぴかぴかと輝いていた。私は浮かれていたのか可笑しな行動をしてしまう。雨上がりの体育館から滝のように雨水が降りている。ドタドタと水音を鳴らすその滝へ、傘をさして入っていった。景色は揺れ動くガラス細工を通し、万華鏡のようだ。
アイはあっけにとらる。そして苦笑すらせずに、
「ヘン」
と私に言い放つ。
「ここからの景色、キレイだよ」
私は言った。しばらくして水から戻ると、アイは冷たく歩き出す。必死に追いかける私。その様子を見てアイは、自分より劣る者へのけなしたい気持ちと、そして愛着が浮かんだ。彼女は仕方ないなと言うように、歩く速度を緩めた。
通学路を並んで歩きながら、アイはひとりっ子のさみしさを彼女は語り出した。
「兄弟が欲しいのよ」
と言い、ふと媚びたような声を出す。急に変わった声に私は慌てる。慌てる私を見て、アイの口元は緩む。
(私は彼女をリラックスさせている)
私はそう思い、嬉しくなった。
「あんたが妹ならなあ」
とアイは言った。私はまた慌てた。風に乗って彼女のシャンプーの良い匂いがしてきたからだ。私は当時背が低く、彼女は本当にお姉さんに見えた。慌てる気持ちを誤魔化すように、私は陽気にはしゃぐ。彼女の顔を見ることが恥ずかしく、顔をそっぽに向けながら大声でいろいろしゃべった。
アイはその日、
「私の家で遊ばない?」
と私に聞いた。
「今日はお母さん帰るの遅くて留守番なんだ。さみしいの、一人で待つのって」
「予定ないし、いいよ」
ランドセルを家に置きに行くことすらせずにアイについていった。彼女は団地につくとエレベーターに入り、自分より高い位置にあるボタンを器用に押した。一軒家に住み、外出は家族とすることが多かった子供の頃の私には新鮮だった。当時、エレベーターの位置の高いボタンは大人に押してもらうものだったのだ。
両親と3人で住んでいると言う部屋につく。アイはランドセルの外側から蛍光色のポーチを取り出す。少女漫画の付録らしいポーチから鍵を取り出し、開ける。祖母が常に家にいる私の家では見慣れない光景だった。それを同い年の人間がやっていることがとても不思議だった。
「私にもやらせて?」
アイは困ったような顔をした。
「おじゃまします」
きれいに整えられた玄関にくつを脱ぎ、家にお邪魔する。大家族の住む私の家と比べると狭かった。その狭さが隠れ家のように思え、新しかった。
アイは、
「ここって高さ高いから景色いいよ」
とベランダに案内し、しばらく一緒に景色を見た。それに飽きるとファミコンをはじめた。けれど、私が下手すぎたせいで勝負にならない。しゃべる内容もすぐになくなった。アイは私を連れてきたことを後悔はじめる。
「あんたって本当どうしようもないね」
そう言いながら、
「ファミコン、しばらくやってなよ」
と言ってどこかに行ってしまった。私は言われた通りに、出来ないファミコンを続けていた。他に何をしたらいいか、何も浮かばない。
しばらくすると、食べ物の香ばしいにおいがした。
「私、卵料理得意なの」
アイはそう言いながらフライパンを持ってきた。とても重そうに持っていた。そして小学生にしては器用に、本当はちょっと不器用に卵焼きをお皿に移した。色の少し白い卵焼きだった。
「食べてみてよ」
(箸をもってこなきゃ)私はそう思い、おたおたする。そんな私の様子を見て、
(この子、本当に馬鹿だな)
と言う顔をアイはする。彼女に箸を持ってきてもらうと、一口食べた。少し甘い味付けだった。
「何が入ってるかわかる?」
彼女は聞いた。
「砂糖?」
「ぶー」
(困らせることを楽しんでいるな)
と私は思った。
「牛乳?」
「わかっちゃったの?」
アイは残念そうだ。
「そうだよ、ミルク入れたよ。他には?」
「わからない」
「考えて」
「胡椒?」
「違う」
「そう」
「わからない?」
「うん、わからない」
知りたいとは思わなかったけれど、
「教えてよ」
と何度も懇願した。おねがいしなければ拗ねてしまうと思ったのだ。
「なんでそんなに知りたいの?」
とアイは私に聞いた。
「別に、そんなに」
正直に言うと彼女は怒る。
「サイテー」
「ごめん、知りたいよ」
アイも飽きてきたのだと思う。
「仕方ないな、胡椒と塩と……」
たくさんの種類。そんなに入っていたのかと驚きながら、このアパートの甘い卵のにおいを好いた。
我侭で活発だったアイは、中学に入ったとたんおとなしい少女へと変貌をとげた。上品な洋服を着て、上手な化粧は派手じゃなかった。快活なしゃべり方はやめてしまい、まったりとしゃべっている。お嬢さんと言った雰囲気。
でも内面はきっとそのままだ、と思いたい。高校時代にたくさんの資格を取り、弁護士事務所の秘書をしている彼女。ハイクラスの生活を手に入れるために、努力を惜しまなかったはずだ。
(彼女っていつまでも自分を作ってるのかな?)
それとも、やさしい男性が彼女の隣にいるのかな。