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3000字小説バトル

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3000字小説バトル
第52回バトル 作品

参加作品一覧

(2005年 4月)
文字数
1
伊勢 湊
3000
2
橘内 潤
2942
3
ごんぱち
3000
4
(本作品は掲載を終了しました)
ウーティスさん
5
霜月 剣
3000
6
のぼりん
3000
7
ゆふな さき
3000
8
吉備国王
2909
9
榎生 東
2998

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春風とホームレス
伊勢 湊

 むかしテレビが見れていた頃にあるドキュメント番組で「ホームレスの方々は彼らなりの価値観やプライドを持っています。現代社会の歯車に組み込まれた私たちに果たしてそれを否定できるのでしょうか?」のようなことを言っていたが、自分がいざホームレスになって見るとそんなことは全然ない。そういう人もいるのかもしれないが僕は会ったことがない。会ったことがあるのはそういう価値観やプライドを持っている振りをしている人たちだけだ。結局頑張ってあれこれするのが面倒くさくて逃げ回っているうちにここに辿り付いただけなのだ。僕の知り合いの篤さんなんかはもとエリート会社員で、それこそドキュメント番組みたいなので取材を受けて「いま社会の歯車の中にいる人には決して見えないものが今の私たちの生活にはあるのです」ともっともらしいことを語ったらしいが、よくよく考えてみればまともに社会生活を送っている人たちにこんな惨めさや情けなさは見えるはずもなく、そんなの当たり前のことなのだ。だいたいよく話を聞いてみれば篤さんは保険とかそういうのに疎くて社会保険にすら未加入で、さらに貯金とかが面倒くさくて目くら滅法に飲み歩いてお金がなくなると金融会社で少しずつ借りてまた飲む、みたいな生活をしていたらしく、それはホームレスまで身を貶めても当たり前といえば当たり前で、むしろそんないい加減な社員を置いていた会社自体がかなりエリートという言葉から遠い気がする。

 もちろん僕も人のことは言えない。というかもっと悪い。田舎から東京に出てきて仕送りを受けて大学に行っていたが、外に出ること自体が面倒になり家に引き篭もった。最近はどうやら引き篭もりが流行っているらしいがなにをするにも金がなければ出来ないわけで引き篭もりだって同じことだ。「もう何年も引き篭もりで悩んでいます」とか相談してくる人はよほど金持ちなのだろう。羨ましい限りだ。僕も仕送りを喰い潰しながらなんとか頑張って引き篭もりを続けたが、お金が底を尽き、大学を除籍され、仕事の探し方も分からなかったので必然的にアパートを追い出され引き篭もることができなくなってしまった。いまの引き篭もり先は公園の片隅の篤さんの横にあるダンボールハウスなのだがよく壊されるので引き篭もりには向いていない。
「伸坊、御馳走の季節がきたぞ」
「御馳走っすかぁ?」
 僕はトイレの横の水道で歯を磨きながら篤さんに返事した。ホームレスになってから唯一よくなったことは歯を磨くようになったことだ。前は面倒くさくて磨いてなどいなかったが、退屈なので磨くようになった。
「見ろ、桜が咲いたぞ」
「ああ、花見っすかぁ」
 篤さんは僕のほうを見てにっこり笑って親指を突き立てた。僕は口を濯いでから言った。
「でもダメでしょ。去年だって警備員に見付かって追っかけられたし、帰ったら酔っ払いに家壊されてたじゃないですか。まあ僕は壊されたおかげでその夜は別のとこで寝たから大丈夫でしたけど、篤さんは酔っ払いに袋叩きにされたんでしょ? 社会のダニだって」
「嫌なこと思い出させるなよ。今年は上手くいくって」
 そんなに上手くいくのかなぁ。どうしても上手くいっている風景が思い浮かべられなかった。

 そんな僕の不安をよそに篤さんは花見客からせっせと食べ物を集めてきた。それは確かに御馳走だった。あたりめやピーナッツといった乾き物は封を切られただけでほとんど減っていなかったし、おでんやら唐揚げやら寿司やら、もう驚くほど手に入れてきた。最初は僕もあまり気乗りしてなかったがこうも上手くいくと話は別。僕も篤さんについて食料を集めて回った。
「いやや、篤さん、すごいっすね」
「なっ、だから言ったろ」
 篤さんの観察力のよさに目を見張ったのもつかの間、僕たちは調子に乗りすぎてあるグループのシートの上にまで載って食料を集めていたのだが、それがとうとう見付かってしまった。
 やばい、逃げなきゃ。そう思って篤さんの手を引いた。でもなぜか篤さんは動かない。僕たちを見付けたメガネの相手と向かい合ったまま立ち尽くしている。知り合いなのだろうか? 向うもかなり驚いた様子で立ち尽くしている。やがてその指から火の着いた煙草がシートに落ちた。春の風は割と強い。風は火を煽り、それは新聞紙に飛び火した。その頃になってやっとメガネは火に気付いたらしく「おっ、おわっ、だっ、誰か、火、火だ」と叫びだした。周りは騒然とする。同じ会社らしい若い女の子がとにかく火を消そうと瓶ビールを手に駆け寄ってきたがメガネは何を思ったのか「あっ、アルコールはダメだ。燃えるから」とそれを火にかけるのを制してしまった。たかだかアルコール度5%やそこらのビールが燃えるとも思えないのだけれど、その女の子も「そっ、そうでした」とビール瓶を引っ込めてしまった。酒屋とかが火事になったら大変そうである。
 しかし最近の公園はたいしたものでこういう事態に備えてか消火器が備え付けてある。メガネはそれを見付けて新聞紙にかけようとした。そこまではよかった。しかし消火器がおかしいのかメガネがおかしいのか消化剤は出てこない。メガネの表情が曇る。野次馬が集まってくる。かなり絶体絶命のようだ。僕はどうして落ち着いてピンを引かないんだろうと思うけど、見ず知らずの人にいきなり話し掛けたりはしない。
 するといきなり篤さんが大声で笑い出した。両手を腰に当て、絵に描いたような高笑いだ。
「あははははははは」
 とうとうおかしくなったかと思い他人の振りをしながら、もともとおかしな人ではあるが時と場所を選ばない辺りはさすがだ、などと思っていると、篤さんはシートの端を持って火のついた新聞紙を包むように半分に折るとその上に乗って新聞を何度も踏むつけた。シートをもとに戻すと火は消えていた。それから篤さんはそれが当たり前のようにシートの上から一升瓶二本と寿司折を持ってきた。誰も、何も言わなかった。

 僕たちは悠々と一升瓶を持ってダンボールハウスに戻ってきた。公園も端のほうになると桜もあんまりなく、暖かい春風に乗っていくらか花びらが流れてくるくらいだ。でも僕たちにはそれがいいのかもしれない。あんなに堂々とした桜の枝の下にはいてはいけないような気もする。でもさっきの篤さんの堂々とした姿なら、あるいはそれも似合うんじゃないだろうかともふと思った。
「いやあ、篤さんすごいですねぇ。火を消したのもすごいけど、あんなに堂々と酒を持ってくるなんて」
 すると篤さんは笑いながら言った。
「ああ、いいんだよ。退職祝いみたいなもんだ。あそこの連中、前オレのいた会社の連中さ」
「へぇー、そうだったんですか。ちなみになんの会社です?」
「うん? ああ、消火器の販売の最大手さ」
 僕たちは声を上げて笑った。消火器を売りはするが、作りもしなければ使いもしない会社だったらしい。そのくせ消火器のために朝早くから夜遅くまで働いていたというから確かに面白い。面白いし、少し哀しい。
 その夜は二人で桜の下でしこたま酒を飲んだ。春風の下で酒を煽ると、周りも、自分も、なんだかいろんなものが馬鹿らしく思えてきた。夜があける頃、篤さんが「さて、そろそろ次の仕事でも探すかな」と欠伸をしながら言った。それもいいかもしれませんね、と僕も声には出さなかったけど、そっと言葉を春風に載せてみた。
春風とホームレス 伊勢 湊

『薔薇男』
橘内 潤

 その青年はとても美しい顔立ちをしていた。
 だが、彼と初めて会った者はみんな例外なく、彼の美しい顔立ちよりも印象的な特徴に目を奪われるのだった。
「バラ――」
「はい、バラです」
 一言を搾りだすのが精一杯だった美弥子に、青年はごく自然な笑顔を浮かべてそう答えた――きっと初対面の者がみんな私と同様の反応をしてきたのだろうな、と美弥子は心のどこか隅の方でひとりごちた。
 青年の首もとには、ちょうど上着の襟首を覆うように大輪の紅いバラが咲き乱れていた。
「なんでも、ぼくが生まれてすぐに背中を怪我しちゃって、そのときに傷口から入り込んだバラの種が成長しちゃったんだそうです」
 青年は美弥子が尋ねるまえに、慣れた口調でそう語ってくれた。
「小学校に上がった年に初めて蕾が出てきて気づいた時にはもう、根が脊椎にしっかり絡みついちゃってて、手術できない状態になってたんですよ」
 青年の身体に適応したバラは、長い根っこを脊椎に絡みつかせて栄養を吸っているのだそうだ。棘の生えていない茎は短く、首から下に潜ってすぐの辺りに絡んでいるだけ。首の付根から顔をだしてすぐに花と葉を広げている。
 青年がさらに語ったところによると、このバラも棘を生やすことがあるという。バラの花や葉を切り落としたり、枯らすための薬を塗りつけたりすると、報復とばかりに茎から棘を生やして脊椎を圧迫してくるのだそうだ――小学生の頃は何度かバラを枯らそうと医者や両親が手立てを試みるたびに、棘をのばされて苦痛を味わったことを青年は教えてくれた。
 話を聞き終えて、美弥子は呟いた。
「なんだか、まるで――」
 そこまで言って、言葉を濁す。その先を口にすることは躊躇われたのだが、青年に促されてつい言ってしまう。
「まるで、冬虫夏草に寄生された虫みたいだな、って……すいません」
 美弥子にも、自分が相当に失礼なことを言っている自覚はあったので、やはり言わなければよかった――と深く頭を下げた。けれど青年は、とても爽やかに微笑んでこう言うのだった。
「以前にも同じこと、言われました。そのときは冬虫夏草が何のことか分からなくって、あとで辞典を調べたりしたんですけどね」
 青年は、少女漫画の世界から抜けだしてきたみたいに大きくて澄んだ瞳を細めて微笑んだ。

「幹也くん」
 名前を呼ばれて、首にバラの花を咲かせた少年が振り返る。
「――緒川さんか。なにか用?」
「ええ、用があるから呼んだの。当たり前でしょ」
 勝気な言葉づかいが様になっている、すらりとした長身の少女――緒川奈美が、開きっぱなしだった引き戸に背をもたれて立っていた。
 少年と少女は、旧校舎の教室にいた。もう使われることのない教室は、少年が好奇の視線から逃れることのできる数少ない場所のひとつである――その意味で、緒川奈美は招かれざる闖入者だった。
「幹也くん――わたしがどうしてあなたを探してたのか、わかってるでしょ?」
「わかってますよ。そして、緒川さんだって、ぼくが何て答えるのかわかってるんじゃないですか?」
 幹也は深く長い溜息をついて、奈美を見つめる。窓から差し込む午後の陽光が、幹也の輪郭を縁取る。比喩ではなくバラの花を背景にした美少年の、憂いを帯びた瞳――奈美は言葉を忘れて見惚れてしまう。
「……緒川さん?」
 幹也の声に、はっと我にかえった奈美は、口早に捲くし立てた。
「あなた、やっぱり素晴らしいわ。被写体として、あなたほど最高の素材は存在しない――ねえ、お願い。あなたを撮らせて」
「だから何度も言ってますけど、ぼくはこれ以上、目立ちたくないんです。もう何度も断ってますよね? お願いですから、これ以上つきまとわないでください」
 幹也はもうこれで最後とばかりに言うと、奈美の脇を通り抜けて教室を出ていこうとする。
「――嫌よ」
 奈美の腕が、幹也の歩みをさえぎった。
「わたしも何度も言ってるはずよね? あなたを撮りたい。撮らせてくれるまで、何度でも頼みつづける――って」
「……」
 ふたりの視線がぶつかる。
 さきに目を逸らしたのは奈美のほうだった。幹也の視線は、眩しすぎた。
「帰ります。そこ、どいてください」
 奈美は腕をおろして道をあける。バラの花が揺れる背中に、声だけが追いすがった。
「冬虫夏草はいつか、ただの草になる。そうなってから撮っても、遅いのよ」

「――結局、緒川さんの予想してたとおりだったんですよね」
 白昼夢を追い払うように、幹也は笑いを浮かべた。そんな彼をじっと見つめていた美弥子は、ゆっくりと頭を下げた。
「ごめんなさい」
 長い髪が、美弥子の表情を隠す。幹也は微笑みを浮かべたまま、首をゆるりと横に振った。
「謝られるようなことじゃないですよ。事実、ぼくはもう首から上しか動かせないんですし。それに――いまにして思えば緒川さん、ぼくのことを心配してくれてたんじゃないかな、って思ってます」
 緒川奈美とはあの日を境に話すこともなくなり、卒業後は一度も会うことがなかった。奈美につきまとわれていた日々は、まるで幻のように遠くておぼろげな思い出だった――そう言って微笑む幹也に、美弥子もまた微笑みを浮かべる。
「姉さんも、同じようなこと言ってました。“ちゃんとした写真を撮れなかったのはくやしいけど、夢か幻みたいに幸せな時間だった”って」
 心臓に欠陥をもって生まれてきた奈美は、高校卒業後しばらくして帰らぬ人となっていた。
 美弥子はおだやかな表情で姉の思い出が語る。スポーツ写真しか撮らなかった奈美――そんな彼女が初めてスポーツ以外の被写体を撮りたがったのが、幹也だった。
「きっと緒川さん、ぼくの身体がいつかこうなるってこと、直感してたのかな。だから、あんなにしつこく写真を撮りたがってたんだろうね」
「ううん――」
 美弥子は、くすくすと笑みを零して首を振る。
「それはちょっと違いますよ」
「――?」
 幹也は、美弥子の笑う意味がわからずに、整った眉を寄せて困惑する。
「本当は秘密だって言われたんだけど……姉さん、この写真をずっと定期入れに挟んでたんです」
 美弥子が差し出したのは一枚の写真だった。そこには幹也が写っていた――目線やアングル、ぼやけ具合でそれが隠し撮りされたものだとわかった。
「姉さんは、ちゃんと撮った写真を持ち歩きたかったんだと思います」
「……どういう意味?」
 まだ理解しない幹也に、美弥子は呆れた顔をする。
「好きなひとの写真を持ち歩きたい――そう思うの、普通じゃないですか?」
 意外と鈍いんですね。わたし、姉さんに同情しちゃいます――そう言って、奈美はおかしそうに目を細めた。
 幹也は、
「恋愛経験、ないんだよ。悪かったね」
 ――そう言って唇を尖らせる仕草は、美弥子に「ああ、こんなにきれいな人と並んで歩きたくないの、わかるわ」と頷かせるものだった。
 すこし開いたままの窓から流れこんだ風が、大輪のバラを泳がせる。
 美しい青年はもうじき死ぬ。けれど、青年を苗床にして育ったバラは、ずっとずっと咲きつづけるのだろう。

 ああ、神さまは美しいものを死なせないようにつくったのね――ふいに美弥子はそう納得した。そして同時に、幹也でなくなったバラを見にくることはないだろう、とも感じていた。



『薔薇男』 橘内 潤

十二支のはなし
ごんぱち

 昔、昔の事です。
「ふぅ、生き物も増えてきたな」
 神様は下界を見下ろしながら、つぶやきました。
 動物達は増えすぎて、神様の目も一匹一匹には届かなくなって来ました。
「放っておいては、せっかくの生き物たちが滅んでしまう。かといって、あまり気にしすぎては……」
 作りかけの新しい生き物を見ます。
「人の完成がいつになるやら分からない。さてさてどうしたものか」
 神様はしばらく考えていましたが――。
「そうだ」
 それから間もなく。
「私の手伝いをして一年を治める動物を決める事にする。動物たちは、代表の一匹を私の元に寄越しなさい」
 神様からの御触れが、動物たちに伝えられました。

 御触れは、牛に届きました。
「がんーーばれよー」
「一番乗りーーーしてくれよーー」
「しっかーーーりー」
 代表の牛は、お触れが来るや否や、取るものも取りあえず出発します。
「はいーーー」
 まだ真夜中ですが、のっそりのっそりと、歩いて行きました。

 御触れは、鼠にも届きます。
「こりゃ、面白い。みんなを出し抜いて吠え面を眺めたいもんだ。朝一番で出発してやろう」
 ネズミが明日に備えて寝ようとしていると――。
 トントン。
「鼠君、ちょっと良いかい」
 猫が尋ねて来ました。
「さっき、牛さんが神様の方へ歩いて行くのを見かけたんだが、あれは何なんだい?」
(猫のヤツ、御触れを聞いてなかったのか。しめしめ)
「一年の担当の動物を決めるんですよ、来週。牛さんは、道を確かめていたんでしょう」
「ああ、なるほど。ありがとう」
 猫はお辞儀をして、鼠の家から立ち去りました。
「――牛なんかに先を越されてたまるかい」
 鼠は裏口から外に出て走ります。程なく、牛に追い付くと、ひょいと背中に登り頭の上に座ります。
(さあて、後は牛に任せて、眠るとするか)

 お触れは虎も受け取りました。
「まだ真夜中ぞ、早すぎではないのか?」
 仲間の虎が不思議そうな顔をします。
「我らは日に千里を走る。焦り走る姿を見せては、他の動物達に侮られよう」
 代表の虎は歩き出します。
「我等が王者として君臨出来るのは、その力にあらず、常に勝利する故。常勝の礎に油断許さず」
「むむ、然り。武運を」
「任せよ」
 虎がしばらく進んだ時。
 にわかに空がかきくもり、風が吹き始めました。
「む」
 虎が眉をひそめます。
「ケダモノ風情、引っ込んでおくのだな」
 雲から直滑降に突っ込んで来るのは。
「竜!」
 虎は竜の突撃を紙一重でかわします。
「ちっ、外したか」
 竜は再び雲に駆け上がり、隙をうかがいます。
「竜よ、貴様らは元来、神の眷属。斯様な競争で得られぬもの無しと見ゆるが?」
「ふっ、老竜共と同じ事を言う」
 竜はまだ若く、山一つ程度の大きさしかありません。
「勝負にこだわらずして、どこに生きる面白味があろう。竜は昇ってこそだ。まして、虎よ、うぬが出るとなれば」
「ふふ、我、地を這う卑小な身なれど、若輩竜如きに遅れは取らじ」
 虎は、牙を剥きました。

 兎も御触れを受け取っていました。
 足には自信のある兎でしたが――。
「……うわ、まだやってるよぉ」
 兎は岩陰から、向こう側をそっと覗きます。
 竜と虎が、風を巻き起こし、地面を割る大戦争をしているのです。
「むー、どうしよう。隙を見て通れるかなぁ」
 ちょっと進み出ようとしますが――。
 どさっ。
「ひっ!」
 舞い上げられた石が落ちて来ました。
「ひーーーん、怖いよぉ」
 また岩陰に戻ります。
 他の動物が、たまに無理矢理突破しようとしては、巻き込まれています。
「うわー、亀に蛙に鹿に、みんなもう形もないや」
 兎はブルブルと震えます。
「困ったなぁ、勝負が付くまで、待つしかないかぁ……ううっ、怖いよぅ」
 兎は震えながら、岩陰に身を潜めました。

 御触れを受け取った蛇は、というと。
「頑張って下さい兄貴ーー、むにゃむにゃ」
 虎と戦う竜の尻尾に縛り付けられています。
 日が出ておらず、体温が上がっていないので、ロクな動きは何一つ出来ませんでした。

 馬と羊は御触れを受けてから――。
「うわー、何があったんだろう、この辺」
 虎と竜の戦場跡が、朝日に照らされています。
 土や草は、朝日よりもずっと深い赤に染められていました。
「朝まで待ってて良かったねぇ」
「そうだねぇ」
 無数の巻き込まれた動物の屍を、踏まないようにだけ気にしながら、二頭は歩きました。

 鶏は御触れを受けてから、実はすぐに出発してはいましたが。
「……はっ! 神様のところに向かうんだった!」
 ミミズをついばんでいた鶏は走り出します。
 一歩、二歩、三歩。
「おっ、ミミズの匂いがするぞ!」
 ミミズをついばみはじめます。
「……はっ! 神様のところに向かうんだった!」
 ミミズをついばんでいた鶏は走り出します。
 一歩、二歩、三歩。
「おっ、ミミズの匂いがするぞ!」
 ミミズをついばみはじめます……。

 猿と犬も御触れを受け取りましたが、すぐには出発しませんでした。
「おい、お前ら」
 犬の代表は、大勢の手下の犬たちを集めていました。
「猿の代表を食い殺す。ぬかるな」
 犬風情はやることが直接的です。
 犬たちは、先を走っている猿に、背後から食いつきます。
「うわああああっ!」
 悲鳴を上げたのは――。
 犬たちの方でした。
「ケケケ、力じゃ知恵には勝てねえんだよ」
 猿が犬の落ちた落とし穴を覗きこんだ瞬間。
「誰が勝てないって?」
 犬の牙が、猿の喉笛を貫いていました。
 犬の跳躍力は、猿の掘った穴よりも高かったのです。
「手前ぇさ」
 ぐらり。
 猿が傾いて穴に落ちます。
 いえ、それは猿ではなく、猿と似た形をした石で、猿のおしっこがすり込んであったのです。本物の猿は、その石の後ろ。
「うわあああああああああ」
 どさり。
 石もろとも犬は、また落とし穴に落ちてしまいました。
「く、糞、卑怯な、手を」
 犬が息も絶え絶えの仲間たちと立ち上がった時。
 ズドン!!
「ぐぇ!!」
「んー? 何だべ、景色が変わったべ??」
 上から落ちて来たのは、猪でした。
「きゅぅ」

 神様は雲の上から動物たちの着順を眺めます。
 牛が門に入る直前で、頭に乗っていた鼠がひょいと飛び降りて、一番乗りを果たしました。
 牛は二番手です。
 すぐ後から血まみれで虎がやって来ます。
 お次は兎です。
 その後に、鱗を何枚かはがされた姿で、竜が雲に乗ってやって来ます。
 尻尾に蛇が付いています。
 そして馬と羊が仲良く到着しました。首の分だけ馬が先。
 しばらく経って、猿が走って入って来ます。
 日も高くなった頃、鶏が門の前で――ミミズをほじって――歩いて――ミミズをほじって――ようやく入りました。
 ヨタヨタと、犬がやって来ます。
 最後に、猪が思い切り門柱にぶち当たりました。それから、斜めに方向転換して、今度は壁に。あちこちをボロボロに壊して、ようやく中に入りました。
 そして翌日。
「そ、そんな、来週だって……」
 閉じた門の前で、猫は呆然と立ち尽くします。
 それを雲の上から見ていた神様は、呟きました。
「猫も可哀想ではあるが、決まりは決まり。まあ少しは便宜を図ってやる事で、よしとしよう」
 それから、作りかけの人に向き直ります。
「さあて、仕上げにかかるか」

 こうして、神様は十二匹の動物を毎年の担当にして完成した世界に、人を置きました。
 そして猫は、神様の采配で、人の家で特に役に立たなくても可愛がられるようにりましたとさ。
十二支のはなし ごんぱち

(本作品は掲載を終了しました)

隊員岩井
霜月 剣

 目が覚めて、身体を起こし、ベッドから左足を床に下ろしたら、くるぶしのちょっと上あたりがひどく痛い。数日前からうずくような違和感のあったところが赤く腫れ上がって、見るからに異常、というか何かヤバい予感すらある。
 病院、とすぐさま思ったが、ここは北京のホテルだ。どこに病院があるかなんて考えたこともない。北京語もニイハオだけはネイティブ並みの発音だが、あとは通じたためしがない。三週間の出張とはいえ、まさか医者の世話になるなんて思ってもみなかったから、保険証も持って来てないし、いや、保険証が中国で何の役に立つというのだ。とにかく本社の総務部に連絡して救いを求めることしかどうやっても思いつかなかった。
 本社にメールを送り終わって、とりあえず、いや、しかたなく、こっちで買った中国製の煙草に火を点ける。不味い。喫煙のリスクを記す警告なんか要らないくらいモロに健康を害している確かな手応えを感じる。それでもつい吸ってしまう。本数は確実に減ったが。
 受信しちゃいけないはずのNHK衛星放送がなぜか映るので、大リーグの生中継をうつろに観ながら、雑草が不完全燃焼しているようなにおいの煙を吹かしていると、ホテルの従業員が本社から届いたファクスを持って来た。
(お疲れさまです。メールに返信しても戻ってきてしまうのでファクスにします。工場の資材課にいる李さんというパートのおばさんが若干日本語を話すらしいです。とにかくお大事に。総務部山田より)
 丸っこい字で書かれた「若干」「らしい」というのがどことなく不安だ。でもそんなことも言っていられないのでとにかく、そこに脱ぎ捨ててあった膝丈のズボンに穿きかえ、とびきりデカいめんたいこが貼りついたような足をかばってフロントへ行く。
 エレベーターを降りると回転扉の脇でヒマそうにつっ立っているベルボーイがいたので自慢のニイハオでひっつかまえて、英語混じりの日本語で行き先を告げ、古めかしいカローラに提灯を乗せた窮屈なタクシーで工場へ向かった。
 途中、若いドライバーのアナーキーな右折と左折で二台の自転車と三人ぐらいの歩行者がひき殺されそうになったが、これも次期五輪開催予定地北京の日常。数日前の驚きも恐怖もいまはない。むしろ、そんな自転車の数の多さで一日の運勢を占うぐらい感覚は麻痺している。
 工業団地の門をくぐってすぐ、資材倉庫の前でタクシーを降りる。軒先に、李さんとおぼしき事務服姿の女性がいた。ねずみ色のいかつい自転車にまたがって煙草を吸っている。ニイハオ? ニイハオ。フィルターだけになった吸殻を指ではじいて植え込みに放り捨てて僕の足を一瞥し、ズレた眼鏡の位置を直す。声色は優しいのにまるでケンカでも売るような口調で、李さんが足元を指さして言った。
「あなた芦、大丈夫か。そんなに晴れて」
 やや微妙なイントネーションだが、意思の疎通に問題はなさそうだ。おばさん、とファクスには書いてあったが、昭和四十年代の下町人情映画に出てきそうな、眼鏡を取ったら実は美人の事務員、みたいな感じだ。つやのある長くて真っ直ぐな髪に切れ長の目と、事務服に似合わない派手な口紅。どう見てもまだ三十代半ばだ。総務の山田さんがとやかく言えるような年齢じゃないのは確かだろう。
 日本語が上手だとほめると、多少の言い間違いなんか気にせずに大きな声で、わざと七年も錦糸町に住んでないわよぅわははは、と小さな身体をいっぱいに使って笑う。錦糸町なら僕も子供のころに東映マンガまつりをよく見に行った。世間というものは地球規模で狭い。地球というものは世間規模で狭い。
 さっそく李さんの自転車に二人乗りさせてもらう。ところどころ未舗装の砂利道が残っている、仙台空港ぐらいありそうな広大な敷地の遙か先へ。
 錦糸町時代は丸井の裏手のお店でずっとナンバーワンだった、なんて自慢話を三分ほど聞かされる。強固で融通の利かない錆びた車体が、砂利をはじく小刻みな振動をやたらに増幅させるから、ふさぎ込みたくなるくらい、めんたいこにズキズキ響く。話に耳を傾ける余裕は砂利ひと粒ほどもない。男やったらカマンせい! そうは言っても痛いものは痛い。そこからさらに二分ほどして診療棟に着いたときには、背中とわきの下にじっとり汗をかいていた。
 診療棟には、おどろいたことに近代的なレントゲン室まであって、撮影もわりと慎重に、グローバル・スタンダードな感じで進められたが、そのあと李さんと放り込まれた診察室は、御徒町あたりの古い雑居ビルの空室に机と椅子と診察台が何かの間違いで放置されているようないい加減さで、学校の保健室ほどのささやかな安心感さえ期待させない殺風景な部屋だった。
 小さな診察台に横になって足を枕に乗せていると、若干、めんたいこの血流を意識しないでいられる。腕でひたいの汗を拭う。申し訳程度の空調が気持ち悪い。
 入り口の扉がせっかちに開かれて、手塚治虫のマンガみたいな医者がレントゲン写真を振りかざして診察室に戻ってきた。バリンバリンと激しい音をたててレントゲン写真を指差して、何かまくし立てている。やっぱりケンカを売られているような気分になる。余計に気が滅入る。李さんも負けずに応戦を始めたが、そのままケンカになりそうな勢いに不安になり、李さんの名を呼んだ。
「おお、あなた芦、ボトル入ってるよ、先生、驚いてるよ」
「ボトル?」
 思い出した。ボトルじゃなくて、学生だった頃にバイクですっ転んで折れた骨をつないだボルトだ。そいつを取るために入院する予定が、就職して仙台に配属されて慌ただしく働いていているうちにそんなことすっかり記憶から消え失せていた。イヤな汗が首や背中ににじむ。医者が大げさな身振りを交えて大声で僕を怒鳴りつけ、人差し指を入り口へ向けていた。
「先生、美容院にすぐ行けと言ってるよ」
「そんなムチャな、急に日本に帰れませんて」
「あした、芦、腐ってもいいのか」
 というわけで緊急帰国して、生まれ育った街の総合病院に十日間入院していたことは別に語るとして、無事に手術も済んだ記念にもらった、ボルトとは名ばかりの鉄片をポケットに入れて北京に戻ったときには、もともと予定していた滞在期間はあと三日しか残っていなかった。
 資材倉庫の脇の小さなプレハブ事務所に顔を出すが、李さんの姿が見えない。手帳に、我日本人。我探、李婦人。我欲所在地李婦人労働。と書いて退屈そうな女の子に見せると、意味が通じたらしく、その下にあまり読む気の起こらない地図を書いてくれた。
 工場の前からタクシーに乗り、その地図を見せると日本語の看板がいくつか並ぶ、夕暮れの繁華街の外れに着いた。運転手が指差した先の、場末の焼き鳥屋みたいなのれんをくぐると、イラシャイマセーと聞き覚えのある声が出迎えた。
「あらあなた、芦、大丈夫か」
「それより李さん、ここで働いてるんですか?」
 まだ客のいないカウンターに腰掛けて焼酎を頼む。
「お店は趣味、工場はアルバイトよ」
 鉄片を李さんに見せ手術がうまくいったと伝えると、僕の前にボトルを置いてとなりに座った。
「安全にボトル出た記念に、私も飲むよ」
「李さん、これはボトルじゃなくて、ボルトですよ」
 ひょいと僕からボルトを取り上げて、ポケットに仕舞い李さんが笑う。
「ボトルとボルト、隊員岩井に交換しようか、忘れないように」
隊員岩井 霜月 剣

結婚式のスピーチ
のぼりん

 車で一時間もかからない距離に住んでいるのに、もう十年以上も会っていない友達がたくさんいる。それどころか県外の友達など、一生の間に再び会うことがあるのだろうか。彼らのうちの誰かに、無性に会いたくなることがあるが、住所録をめくって電話番号を確認するだけで、不思議と安心してしまう。恋愛と違って、友情というものは距離も時間も障害にはならないようだ。会おうと思えば会うことができる、そういう関係だけで継続できるものらしい。
 Kという友人のことを突然書きたくなったのは、最近彼との連絡方法をなくしていることに気づいたからである。もとより年賀など書くような奴ではなく、唯一頭の中にあったはずの電話番号も失念した。そうなると、会いたい気持ちが押さえきれなくなる。悶々とする日々が続き、せめて何か書かないではいられなくなる。
 Kとは社会人一年目の新人研修で酒に酔って殴り合いのケンカをして以来友好が深まり、彼が会社を辞めるまでの二年間、同じ下宿で暮らした。女にはからっきしもてず、恋愛相談ばかりしてやっていたが、実は剣道の達人で、おやじがやくざの親分という骨っぽい奴だった。そのおやじとの出会いがすごい。物心ついた頃、テレビのニュースで映った凶悪犯を母親が指差し、「これ、あんたのお父さんよ」と紹介されたのだという。
 ともあれ、思い出すのはあの日。人の結婚式に招待され、スピーチを依頼されていたKのことである。彼は前夜から一睡もせずにスピーチ原稿を書き、暗誦を繰り返していた。そういうところは結構まじめな奴だった。
「スピーチなんか行き当たりばったりでいい」とまあ、他人事でもあるし、アドバイスを求められても僕はそんなことぐらいしか答えてやれなかったのだが、Kは早朝から風呂に入り、原稿を片手にスピーチを口ずさむという熱の入れよう。そのまま、バスタオル姿で洗面所に入っていったのをチラッと見かけたかと思うと、ほどなくして「ぎゃーっ」という叫び声だ。
 驚いた僕が、慌てて部屋から飛び出し駆けつけると、そこに呆然と立ちつくすK。なんと、足元に髪の毛のかたまりが落ちている。見ると、Kの頭の片方だけ、チキンスキンのような肌色が剥き出しになっているではないか。丸出ダメ夫の十円ハゲに比べても十倍の面積はある。
 その頃僕たちは、散髪代を節約するため、コームシェーパーという歯の隙間にかみそりの入った櫛を使っていた。実は、Kは普通の櫛と間違えて、それで髪を梳いていたのだ。一回や二回なら救いようがあったが、スピーチの暗誦に熱中していたため、知らず知らずのうちに取り返しのつかない回数を重ねていたのである。
「おまえ、ぜんぜん気がつかなかったのか」
「うん」
 と、力なく答える呆けた顔。笑いたいがKの身になってみると簡単に笑えない。僕のそのためらいの表情は、きっと卑劣漢の含み笑いに似ていたに違いない。が、まあ、こういう場合は本人のことなど二の次である。あまり笑いを我慢すると腹が捩れ、わが身の危険すらありうるからだ。
「笑い事じゃないぞ。これじゃ結婚式に行けないよ」
 しかも、否応なく衆目の集まる結婚式のスピーチ。
 Kは表情を歪め、泣きそうな顔。いや、実際目に涙をためていたのだが、それがまた、どぶにはまって足が抜けない野良犬のように惨めである。こいつ、ホントに馬鹿じゃねえか、という一種優越感が、笑いにさらに拍車をかける。
 だが、友人の失敗は他人事ではない。ひとしきり笑った後で、いろいろ考えた。
「落ちた髪を拾ってセロテープでくっつけ、そのかたまりをさらにハゲの上にかぶせたらどうだろうか」
 しかし、ばらばらに散らばった髪をまとめてセロテープでくっつける事は不可能に思えた。
「だったら、いっそハゲたところを中心にカミソリで剃り、モヒカン刈にしてしまったらどうだ? 木を隠すには森。最初からモヒカン刈だったら問題ないだろ」
「しかし、モヒカン刈に黒の礼服とは、あまりにもひどいセンスじゃないか」
「馬鹿だね、ハゲを笑われるより、センスを笑われたほうが良いだろ」
 Kは「そうか」と納得しかけたが、「そもそも僕は天然ハゲじゃない」と声を荒げた。
「これは事故だ。それにしてもモヒカン刈はひどい。頼むから他に方法を考えてくれ」
「ふうむ。じゃ、マジックで塗ってみようか」
 試しに少しやってみたが、皮膚だから黒色にツヤもボリュームもなく、近づくとすぐにペイントだとわかってしまう。それがバレると、ハゲを晒すよりも数倍マヌケだ。
「こりゃひどいな、ハゲ君」
「だから、本当のハゲじゃないだろが(泣)」
 もはやこれまでか。冷静に考えてみると、今さらどうにかなるような失敗ではなかったのだ。
「よしこうなったら」
「おまえ本当は楽しんでいないか」と、Kの絶妙の合いの手が入ったところで、僕は最終作戦を提案した。
「『照れ隠し大作戦』だ。よく聞きたまえハゲ君」
「ハゲじゃないってば!」
 僕はKの苛立ちをわざと無視した。
「人は誰しも照れ隠しで頭を掻くことある。あれだ。頭を掻く振りをしてハゲを手で隠すんだ。それが一番自然で、無理がない」
「それじゃあ結婚式の間中、ひとり照れていろというのか。俺、皆の前でスピーチするんだぞ。メモとマイクを持ったら手一杯だ」
「暗証しているんだからメモは捨てろ。マイクとハゲで両手がふさがってしまう」
「し、しかし」
「もしそれが無理なら、『ちょっと頭痛大作戦』だ」
「な、なんじゃそりゃ」
「ちょっと偏頭痛が……とうめきながら、頭を手で押さえるんだ。これは同情を買いながらハゲをも隠すという高度な作戦だぞ」
「ううむ、だが、例えば、握手を求められたらどうする? 左手で右の側頭部を押さえるのはちょっと無理な格好かも」
「その時は、『耳に水大作戦』で行こう。片手をハゲの上に当てて顔を傾げ、ぴょんぴょんと片足とびをしながら、耳に水が入った振りをしながら逃げるんだ。これは運動量のとってもハゲしい作戦だ」
 もちろんKの表情に、この駄洒落を寛容する笑いは浮かばない。
「式場で耳に水が入る必然性がないじゃないか!」
 Kの剣幕に、さすがの僕もちょっとすべったかな、と思いながらフォローを足した。
「プールでよく見るだろ、ぴょんぴょん飛びで歩いている変な奴」
 もちろん、フォローになっていない。
 Kは萎れた花のように見るも無残に肩を落とした。
「俺は、そんなに変な奴か……」
「いや、変なのは君じゃないよ。君のハゲが変なんだ」

 それにしても、他人の不幸をこれほど楽しんだことはなかった。結局、Kはヤケクソのように気合を一発入れて、そのまま結婚式へ行ったのが、僕はそれを見送りながら一日中うきうきしていたような気がする。今にして思うと、その時の僕は悪魔だった。あの状況で、友人関係が破壊しなかったのは奇跡としか言いようがない。
 その日、Kのスピーチがどんな展開で終わったのかは、ついに聞いていない。僕の提案した作戦が果たして実行に移されたのかどうかも知らない。帰ってくるなりKは部屋に篭ってしまい、風邪だと偽って会社を二日休んだ。その間、夜ごとKの忍び泣きが聞こえたような気がしたのは空耳か。
 さらに後になって、その結婚式にKの初恋の人が出席していたと聞いた。実にかわいそうな話だが、僕はあの時のハゲを思い出すと、今でも笑いを我慢できず腸が捩れそうになってしまうのである。
結婚式のスピーチ のぼりん

ミルク入りたまごやき
ゆふな さき

 たまごやき。私は時々ミルクを入れて焼く。香ばしいにおいの中、
「ミルクを入れたらおいしいよ」
と卵を焼いていたお姫様を思い出す。

 母の妹にあたるおばさんの離婚で家の中が騒然とし、自分自身には片思いの男の子ができ虚ろに日々を過ごしていた小学生の中頃。どうやったら男の子に好かれるか。私はそれに悩みつづけ、自己主張をしない弱々しい人間へと変わっていった。魅力的に見せようとして失敗するより、ある日突然告白される夢をみていたほうが楽なのである。結局思いは実らず失恋に終わり、しかし根暗がすっかり板についた頃、五年生のクラス替えとなった。
 子供たちが必死に作り上げた小さな社会はあっけなく変化する。高学年になった私の前に、その女の子が現れた。薄い茶色い髪の毛を持ち、大きな目をした人形のような女の子だった。鼻にかかる声で快活に、彼女は出席番号が隣の私に挨拶してきた。アイと言う名前だった。私はひと安心した。お姉さん肌の彼女の周りには人の輪ができはじめている。そして私はその中に、ちょこんと存在することができる。一人きりで行動することや自分自身で友達を作ることは、どちらも大変で嫌だった。

 始業式の次の日の朝、彼女は私の筆箱を取り上げた。
(ふざけるのは苦手なんだよな)
と思いつつ私は、
「返してよ」
とアイを追いかけた。ところがいつまでもその筆箱は返ってこない。筆箱は宙を舞い、アイと彼女の友人たちの手の間を泳いでいる。悪い予感がした。筆箱をとったのが男子であったのならば、
(むきになれば勢いづく)
と感情を隠すのだが、悪い予感が大きくなり、むきになって筆箱を追いかけた。そして、自分の立場を明らかにしてしまったのだった。

 それからアイは何かにつけて私の揚げ足をとるようになった。のんびりとしていた私は言われて仕方のない性格だったのかもしれない。彼女の取り巻きの女の子たちはそれをはやしたてた。

 彼女の家に呼ばれたのは、確か梅雨も終わりに近づいた夏の日だった。友人たちはまだ遊んでいて、一人で帰ろうと思っていたときだった。アイは私に、
「一緒に帰ろう」
と言ってきた。染めていないのに茶色い彼女の髪は風に揺れ、私はぼうっとなった。整った顔にかわいい服。活発な声と頭の良さ。アイは女王のようで、私は決して彼女から抜け出ないだろうと感じた。頭ではアイを嫌っていたけれど、こういうとき、どうしようもなく彼女がすてきに見えた。
 二人きりの下校。校舎は降り止んだ雨でぴかぴかと輝いていた。私は浮かれていたのか可笑しな行動をしてしまう。雨上がりの体育館から滝のように雨水が降りている。ドタドタと水音を鳴らすその滝へ、傘をさして入っていった。景色は揺れ動くガラス細工を通し、万華鏡のようだ。
アイはあっけにとらる。そして苦笑すらせずに、
「ヘン」
と私に言い放つ。
「ここからの景色、キレイだよ」
私は言った。しばらくして水から戻ると、アイは冷たく歩き出す。必死に追いかける私。その様子を見てアイは、自分より劣る者へのけなしたい気持ちと、そして愛着が浮かんだ。彼女は仕方ないなと言うように、歩く速度を緩めた。

 通学路を並んで歩きながら、アイはひとりっ子のさみしさを彼女は語り出した。
「兄弟が欲しいのよ」
と言い、ふと媚びたような声を出す。急に変わった声に私は慌てる。慌てる私を見て、アイの口元は緩む。
(私は彼女をリラックスさせている)
私はそう思い、嬉しくなった。
「あんたが妹ならなあ」
とアイは言った。私はまた慌てた。風に乗って彼女のシャンプーの良い匂いがしてきたからだ。私は当時背が低く、彼女は本当にお姉さんに見えた。慌てる気持ちを誤魔化すように、私は陽気にはしゃぐ。彼女の顔を見ることが恥ずかしく、顔をそっぽに向けながら大声でいろいろしゃべった。

 アイはその日、
「私の家で遊ばない?」
と私に聞いた。
「今日はお母さん帰るの遅くて留守番なんだ。さみしいの、一人で待つのって」
「予定ないし、いいよ」
 ランドセルを家に置きに行くことすらせずにアイについていった。彼女は団地につくとエレベーターに入り、自分より高い位置にあるボタンを器用に押した。一軒家に住み、外出は家族とすることが多かった子供の頃の私には新鮮だった。当時、エレベーターの位置の高いボタンは大人に押してもらうものだったのだ。
 両親と3人で住んでいると言う部屋につく。アイはランドセルの外側から蛍光色のポーチを取り出す。少女漫画の付録らしいポーチから鍵を取り出し、開ける。祖母が常に家にいる私の家では見慣れない光景だった。それを同い年の人間がやっていることがとても不思議だった。
「私にもやらせて?」
アイは困ったような顔をした。

「おじゃまします」
きれいに整えられた玄関にくつを脱ぎ、家にお邪魔する。大家族の住む私の家と比べると狭かった。その狭さが隠れ家のように思え、新しかった。
 アイは、
「ここって高さ高いから景色いいよ」
とベランダに案内し、しばらく一緒に景色を見た。それに飽きるとファミコンをはじめた。けれど、私が下手すぎたせいで勝負にならない。しゃべる内容もすぐになくなった。アイは私を連れてきたことを後悔はじめる。
「あんたって本当どうしようもないね」
そう言いながら、
「ファミコン、しばらくやってなよ」
と言ってどこかに行ってしまった。私は言われた通りに、出来ないファミコンを続けていた。他に何をしたらいいか、何も浮かばない。
 しばらくすると、食べ物の香ばしいにおいがした。
「私、卵料理得意なの」
アイはそう言いながらフライパンを持ってきた。とても重そうに持っていた。そして小学生にしては器用に、本当はちょっと不器用に卵焼きをお皿に移した。色の少し白い卵焼きだった。
「食べてみてよ」
(箸をもってこなきゃ)私はそう思い、おたおたする。そんな私の様子を見て、
(この子、本当に馬鹿だな)
と言う顔をアイはする。彼女に箸を持ってきてもらうと、一口食べた。少し甘い味付けだった。
「何が入ってるかわかる?」
彼女は聞いた。
「砂糖?」
「ぶー」
(困らせることを楽しんでいるな)
と私は思った。
「牛乳?」
「わかっちゃったの?」
アイは残念そうだ。
「そうだよ、ミルク入れたよ。他には?」
「わからない」
「考えて」
「胡椒?」
「違う」
「そう」
「わからない?」
「うん、わからない」
知りたいとは思わなかったけれど、
「教えてよ」
と何度も懇願した。おねがいしなければ拗ねてしまうと思ったのだ。
「なんでそんなに知りたいの?」
とアイは私に聞いた。
「別に、そんなに」
正直に言うと彼女は怒る。
「サイテー」
「ごめん、知りたいよ」
アイも飽きてきたのだと思う。
「仕方ないな、胡椒と塩と……」
たくさんの種類。そんなに入っていたのかと驚きながら、このアパートの甘い卵のにおいを好いた。

 我侭で活発だったアイは、中学に入ったとたんおとなしい少女へと変貌をとげた。上品な洋服を着て、上手な化粧は派手じゃなかった。快活なしゃべり方はやめてしまい、まったりとしゃべっている。お嬢さんと言った雰囲気。
 でも内面はきっとそのままだ、と思いたい。高校時代にたくさんの資格を取り、弁護士事務所の秘書をしている彼女。ハイクラスの生活を手に入れるために、努力を惜しまなかったはずだ。
(彼女っていつまでも自分を作ってるのかな?)
 それとも、やさしい男性が彼女の隣にいるのかな。
ミルク入りたまごやき ゆふな さき

愛を求めて
吉備国王

 私は、下着を身に付けると、寝室の窓を開いた。二階の北側に位置する窓側には木立が生茂っていたが、山から吹き抜ける風が一気に寝室の中を吹き抜けた。
「あ、寒い!」
 好子は吹き抜ける風に驚きの声を発して、首を深く上布に潜り込ませた。近所の農家で鶏でも飼っているのか鳴き声が聞こえてきた。その時、上布に潜り込んでいた好子が、首を突然出して聞き耳を立て、直ぐに笑いはじめた。何が可笑しいのか判らなかったが、笑いながら、私の手を掴んだ。
「寒いわ、窓を閉めて下さる・・・」
「いいよ・・・」
 と、言って、好子の顔を見つめた。
「鶏が鳴いてるでしょう。わたし、それを思い出して笑ったんです・・・だって、女学校の寄宿舎では、寮母が新鮮な卵を食べさせようとして鶏を飼っていましたの・・・そうしたら、生徒の一人が、その卵を手にしながら寮母さんに尋ねたのです。先生、この卵は無精卵ですかと・・・すると、寮母が、何故、無精卵と判るのですかと聞き返えすと、だって、この寮には一人の男性もいませんからと答えたので、そこにいた誰もが大声を出して笑いだしましたの・・・」
 その話をする間も、好子は笑いを絶やさなかった。余ほど可笑しかったのだろうが、その年頃の女性にしては粋な質問だったが、彼女なりの性に関する興味をボケで尋ねたところを見ると、当時としては随分開けていたのだろう。
「面白い話だね?」
「そうですの・・・そうしたら、もう一人の生徒が横口を挟んで寮母に尋ねましたの・・・先生、夢精って何ですか?・・・寮母は顔を真っ赤にして、その場を立ち去りましたわ。その後は、皆んなはしばらくケラケラ笑っていましたの・・・」
「年配の寮母と言えども、若い処女娘を前にして、男の夢精を説明する勇気はないでしょうから致し方なかったでしょう」
「好奇心から出たことで、気の毒なことをしましたが、好い寮母でしたの!」
 と、話ながらベッドを抜けて着衣を身に付けはじめた。そして、鏡台の前で姿を遠目に見ながら乱れた髪をブラッシュしていたが、その瑞々しい姿に、私は憧れの眼差しを向けて見入っていた。
「綺麗な肌をして・・・」
 と、好子の項に手を触れると、素直に優しい微笑みを返した。そして、含みある微笑みを見せながら寝室を抜けて、奥の部屋の前に立って神妙な顔をして小声で尋ねた。
「納戸ですか?」
「そうだよ!」
「奥様の物は処分されましたの?」
「妻は、貴方との思い出の品は要らないと申しましてね・・・殆ど残して行きました!」
「女らしいですわ・・・嫌な思い出はさっぱり忘れ去りたいのでしょう?」
「それでも慰謝料だけは忘れずに要求してきました?」
 と、天を仰ぐかのように顔は上空を見つめていた。
 そして、女の思いを理解したかのように相打ちを打って相手したが、やはり、女らしく衣装棚に収められた品物の数々に惹かれて、自らの手で扉を開いた。
「この衣装タンスに、何が入っているのかしら?」
「それには、私の母の形見が入っていますから・・・」
「お母様の品物ですの?・・・明治時代のものですか?」
「いや、祖母の形見も残っていて、江戸時代の物もあります・・・」
「私、古い物が好きですの・・・」
 と、真剣に眼差しで表情を変えて物色しはじめた。そして、琥珀で作られた装身具を見つけて目を細め、瑪瑙や翡翠も選び出して握り締めた。貴重な宝飾品だけを選び出すところをみると可也な知識を持ち合わせているように思えた。昔の装身具は、金や銀を惜しげもなく使って細工を施して美しいが、特に、鼈甲の生地に宝飾を組み合わせた図柄の象嵌の細工物は、その道の愛好家の間では高額に取引される貴重品だった。
「こんなにたくさんの品があるなんて驚きですわ?」
と、好子は輝く眼を細めて声を震わせて呟いた。その表情には、先ほどと違って、女の欲が露に浮き上がって見えた。
 私は、永年の間、先祖の形見を保持してきたが、その品物に対して興味を抱くこともなく、ただ、先祖の品を管理するだけの使命感しか持たず、その物の価値に関心を寄せることはなかった。それは、先の妻が先祖の形見に一切興味を示さなかったのも一因だが、それより、その物への興味と知識を持ち合わせていなかったからだろう。
「それほど貴女に歓んで貰えるとは、先祖様もびっくりしているでしょう!」
「仕事では最新の係数ばかりを扱うものですから、私人に戻ると、人間臭い古い物に哀愁を抱いてしまうのですわ・・・」
「毎日の商いに追われる数字の世界に生きてきたからでしょうか?・・・」
 私は、好子の素直な訴えに同感したかのように相口を打っていた。誰もが自己の主張や行動に賛同したり、共感してくれると親近感が一層湧いて打ち解け易いもので、そんな経験を活かして、好子との不思議な縁を上手に育もうとしていた。
「彼方は欲しい物はありませんの?・・・お互いに争わなくて結構ですけど、余りに掛け離れると心寂しいものですわ・・・」
「そうだね。深く関わりあうと争いの元になるが、余りに無関心だと寂しいのも事実だね!」
 と、お互いを理解し合ったかのように話を交わした。
 昔から、犬も食わぬ夫婦喧嘩と申すように、毎日毎日、昼と言わず、夜と言わず、言い争いをしている夫婦も多いものだが、それでも意外と別れる度合いが低いのも不思議なことだ。
 一見、平穏で物静かな夫婦の方が意外と突然別れることが稀ではない故に、人間の抱える複雑さと不思議さがある。
「個人、個人の抱える無意識の潜在意識に左右される感情の組み合わせは、その時々の偶然の感情の動きで決まる複雑な要素が多いから・・・」
「私達も無意識の感情によって結ばれたのかと思うと、その反動の怖さを恐れますわ・・・」
「所詮は、誰も、運を天に任せて生きて行くしかありません!」
「それが結論ですか?・・・」
「良くも悪くも、どうしょうもない運命に翻弄されながらも、其処に自己の想いを少しでも実現させようと必死でもがき苦しむのも、人間の欲望の証でしょうか?・・・」
「人生って、筋書きの無い、偶然の連続の記録でしかないでしょう。生まれ出た自体、正に偶然でしかない、鶏の卵が先かどうかの論争のように、ある男女の出会いから生まれた性行為によって、その時偶然に射精された数万個の精子の中から抜け出た一個の精子と、一個の卵子が受精する確立は、宝くじの当選確立より難しいのも事実でしょう」
「そう想えば、無意識の基に生きているからこそ人生があるのでしょう。人が死ねば終わりです。人が生きると書いて人生があるように、偶々、見知らぬ男女の出会いからはじまった偶然の出来事を得て誕生しながら、楽しんだり苦しんだりするのも、偶然に成す仕組みに嵌め込まれた偶然によって、偶然に起こる現象の一つでしかないからですよ・・・」
 と、妻となる好子の顔を窺っていた。そして、三十近い歳の差を歴然と晒すほど美しい姿に惚れぼれして、先のない、己の人生に少しの執着心も抱こうとはせず、宇宙の偶然性が二人の関係を生み出したのだと自己弁護しながら、この先のことは運を天に任せるしかないと開き直り、新たな生き方の中にのめり込んで行くのだった。
愛を求めて 吉備国王

皮算用
榎生 東

 仕事する男の脛には大なり小なり傷があるものだ。競争社会の実力者に一つや二つの傷は無い方が寧ろ頼りない。太田垣は此の辺りの急所を心得て気持ちの悪い揺さぶりをかける。初対面であろうと相手が何者であろうと、一切お構いなし、面会を強要して一気に金蔓を引く。フィクサー太田垣の本性である。
 太田垣は年会費二十万円で東洋経友フォーラムを主催していた。
 会員企業数七十数社を擁する中小の企業経営者の勉強会で、金融、不動産、建設、大手芸能プロから京都の老舗呉服屋まで多業種の集まりである。
 投資銀行や大蔵や日銀のキャリアを招き、時局の講演会を開催する。このメイン活動の他、高級料亭や割烹、レストラン等で食を楽しむ能味会、伝統芸能を楽しむ礼楽会、更にはテーマを定め視察を兼ねて旅を楽しむ有基会などの分科会があった。殊に芝のクレッセントを会場とするフランス料理とワインを楽しむ会は人気があり、この会への参加が目的でフォーラムに入会した女性社長も多い。しかし、大方の企業の入会目的は、第一に経済界のダニの排除であり、政官界への裏つなぎである。毒をもって毒を制する類のものだが、太田垣のこの辺の巧みさは、唯一、評判を呼ぶものであった。
 太田垣の引き出しには、その筋から買い取った政官財の人々のスキャンダルが暖められていた。太田垣は裏でマッチポンプをやらせ、仕事を創っていた。
 
 真夏の太陽は、数寄屋の竹樋を、熱気で枯らしていたが、茶室には心地よい冷風が注がれている。
「社長の前歴は何ですか」大野は仕事ぬきに滝本に興味を抱いた。
「前歴なんて無い。名古屋大学から西芝電機だよ。西芝の原子力機器研究所の5年間の研究員生活が経歴といえば経歴だ。平成元年に日本インスツルメントエンジニャリングを設立して独立。以来、今日まで原子力プラントの計装専門企業としてやっている。幾つだ? 四十はとうに過ぎたんだろう」
「昭和三十五年生まれです」と、倉井が太田垣に告げる。
「若いなあ、羨ましいよ」太田垣は目を細めた。
「三十にして立つ、ですな」
 濃紺の車が目白通りを左に折れ、坂道を丁寧に下って行った。
「それにしても、原子力の事故が連続しましたなあ。美浜原発で十人の死傷者を出した蒸気パイプの破裂事故は、オリフィスプレートによるエロージョン・コロージョンによるものとされていますから、計測関係の人々は大変ご苦労なさっているのと違いますか」
「他人事に言うが、あんたらも一連託生じゃないのか。それともなにか、鹿島は原子力発電所の小屋を造るだけで責任はないとでも言うのか」
「これは手厳しい、事故の直接の責任は勿論ありません。しかし、原子力発電所の事故に対するご批判は、我々にも向けられているものと受け止めています。太田垣代表は一口に小屋と仰いますが、原子力発電所の建家は放射線遮蔽のためコンクリートに鉄球を入れますので、比重の関係からコンクリートの打ち込みは至難の技ですし、放射能漏れを防止するために、建屋は中心にいくほど負圧にしますので、気密など施工条件は大変に厳しいものです。どこでもおいそれと造れる代物ではありません。我が社は商業用原子力発電所の第一号炉からの施工業者として研鑽を重ねています」
「建設現場は賄いのおばさんまで高卒以上でないと駄目とか」倉井が取りなすように言った。
「そうです、現場の全員が原子力の特殊性を理解出来ないと困ります。認識の甘い作業員が小さなドライバーを落として、原子炉圧力容器内の再組み立てだけで一年を無駄にした事もございました」
「一年もですか」と、杉浦は信じられない。
「ドライバーを取り出すだけじゃないのです。小さな傷も劣化を速めるで、原子力圧力容器は想像以上の徹底した検査をしますからね。原子力は建屋が従ですから、その間我々は現場待機にされるわけです」
「ご苦労な仕事だな」太田垣はくどくどした大野の話は上の空であった。
(鹿島工務店の工事費は百億は下るまい、口利き五歩だ、低く見積もっても三億は取れる。設計管理は四億程度の仕事だろう、杉浦には二千万も出させよう)禿頭を丸く撫でながら、太田垣は皮算用をして(鹿島が出し渋りやがったら工事を他社に振ってやる。わしがゼネコンを紹介し五億円は取ってやる。滝本個人のポケットに小遣いの一億円も突っ込んでやるさ)と目論んでいた。
 太田垣は『男の台所』を上梓している。料亭や割烹、全国の名物料理に造詣が深く食の評論家でもあった。
 太田垣に誌上で難をつけられ評判を落とした割烹も少なくない。地方の温泉旅館までが太田垣には何かと融通を利かしている。評論家のご用旅館か、旅館のご用評論家か客を蔑ろにする関係である。
 料亭宇田川のご亭主は、誰もが認める料理人であるにも関わらず、太田垣との馴れ初めは、その類であった。
「箸置きのいいのを見つけた、届けさせようか」
「ありがとうございます、是非」と、太田垣以外の座敷では使わなくとも、勧められる小物を買い揃え、意に叶う料亭に推挙されていた。
 生き馬の目を抜く実業界の大もの大野泰三、大学の講師にありながら、一筋縄では埒の明かない杉浦敦、実業界の下層を牛耳ろうとするブラックジャーナリストあがりのフィクサー太田垣龍治。三人の男はそれぞれ一物を腹に秘め、今や遅しと滝本を待ち構えている。否、四人だ、太田垣の懐刀、倉井がいた。
 なだらかな坂を下ってきた車は、明治通りの一つ手前の路地を右に曲がり、杉皮葺きの簡素な屋敷門の前で止まった。運転手が後部のドアーを引くと、身形の引き締まった中年の男性が降り立った。
 水を打たれた足下に涼しい風がそよぐ。
 長身の男性は日本インスツルメントエンジニヤリングの滝本修治社長であった。
 滝本は穏やかな表情であたりを見回した。
「確認して参ります」
「いや、いいよ、一時半に迎えに来てくれ」
「かしこ参りました」初老の運転手は九十度に腰を折った。時に父親のような労りを見せる運転所を滝本は大切に思っている。
 行き止まりに見える路地はこの屋敷を囲む私道が一周しており、車は来た道に戻れた。
 滝本は濃紺の車が去っていくのを見送ってから屋敷門を入った。
「御免下さい」と、玄関に立つ。
 衣擦れの女将がすっと出て来た。
「いらっしゃいまし」と、両手をついて仰ぎ見る。
「滝本です」
「お待ちしておりました」
「もう、どなたか、お見えですか」
「はい、離れで、みなさんお待ちです」
「太田垣さんも見えられて」
「はい、今し方」
 滝本は女将に従い広縁を下りた。時間に厳しい太田垣の席である。滝本は、遅れず早過ぎず自然な心で臨む準備をしたが、一足遅れた。
「来たかな」と、下地窓から下品な格好で庭を伺う太田垣。茶室に沈黙が流れた。
 漆塗りの丸下駄を履いた滝本は下駄の音を鳴らして延段を渡った。
「お連れ様がお見えで御座います」貴人口の障子を開け、女将は滝本を促した。
「いやあご苦労さん、女将、社長を此処へ通してくれ」
 居ずまいを正す大野と杉浦。
「鹿島工務店関東支店長の代表取締役副社長大野泰三さんです。現代都市空間デザイン研究所の杉浦所長です」滝本の背後から倉井が紹介した。
 名刺を交換した。
「気楽にしなさい、気楽に。暑いから茶懐石を頼んだ。侘びの一汁三菜だ夏はこれに限る」案ずることはなかった。滝本が時間に遅れたのではないのだ。太田垣は時間を承知していた。