第53回3000字小説バトル

エントリ 作品 作者 文字数
1異形の密室のぼりん3000
2旬日ぼんより2309
3排他的利己性遺伝子めだか3000
4それ以上ではなく、それ以下でもなく中川きよみ3000
5浮気吉備国王2989
6ある英雄ごんぱち3000
7『等身大オルゴール』橘内 潤2990
8キャッチングセンター安藝賢治3000
9ブルーヘブン伊勢 湊3000
10深夜、雨のふたり空人3000


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    エントリ1 異形の密室 のぼりん


「先生、吉岡です……」
 呼び出されたホテルの一室は、ドアが半開きになっていた。覗き込んだ途端、どんっと、首筋に衝撃を受けて、吉岡は前のめった。
 そのまま、よたよたと部屋に入り込むと、異様な臭気が鼻をつく。部屋全体が煙っている。
「香だよ。この匂いに包まれていると落ちつくし、創作意欲も湧いてくる」
 声のする方を振り返ると、そこにドアを後ろ手にして三沢昭彦が突っ立っていた。今帰ってきたばかりのようだ。しかし突然後から背中を突いてくるとは、恐ろしく乱暴な挨拶ではないか。
「原稿が上がったんですか?」
「いや……まだだ」
 では、なんでこんな真夜中に呼び出したりするんですか……と思わず食ってかかりそうにそうになった言葉を、吉岡は飲み込んだ。
 しかし、三沢の暢気な顔つきは癪に障る。締め切りまで、待ったなしのはず。本当に編集者泣かせのミステリー作家だ。
「まあ、そこにすわって菓子でもつまみたまえ」
 三沢は、担当編集者の機嫌など塵ほども考えていない。吉岡はしぶしぶソファーに腰をおろした。
 相変わらず、鼻に付く香の匂いだ。早くこの場を立ち去りたい。
「それにしても早いなあ。携帯で君を呼び出して、この部屋に来るまであっという間じゃないか」
 吉岡は狼狽した。
「直ぐ来てくれ」というから、何も考えずに一目散でやってきたのだ。突然の事で慌てたが、担当としての責任感が彼を急がせた。だが、確かに変に思われても仕方ない。
「偶然となりのホテルに部屋を取って泊まっていたんです」
 もちろん嘘ではないが、吉岡は内心で慌てている。しかし三沢は、それ以上聞いてこようとしなかった。普通では通用しない言い訳でも、あっさりと受け入れてくれたのは、作家という職業が、常に虚構の世界に身を置いているせいかもしれない。
 尋ねられて困る場面では、先手を打って尋ねる側に回るべきである。吉岡は、即座にそう判断した。
「今は真夜中ですよ、先生。原稿の受け取りのほかに、いったい私に何の用件があると言うんです」
 三沢はうれしそうに表情を崩した。
「実はね、新しい推理小説のネタが浮かんだんだ。それを直ぐ君に聞いてもらいたくてね。もし、よかったらこのネタで、次の作品を書こうかと思っている」
 ほう、と吉岡は思った。なかなか熱心ではないか。変人で有名な作家だが、そういう素直な一面を見ると、担当としては俄然やる気も沸いてくる。
「で、どんなネタです?」
「密室トリックだ。今までほとんど出尽くしたといわれている分野だが、私は誰も考えた事がない新しいネタを見つけたのだ。つまり、密室を作る主体が殺人者の側にある、という前提で物語を考えていたこれまでの常識を覆す……」
「それなら」と、吉岡は口を挟んだ。「被害者が密室を作り出すパターンもありますよ。瀕死の被害者が、外部からの災難を避けるために部屋の鍵を掛け、そのまま力尽きて密室内で息を引き取ってしまうというもの」
「おお」
 三沢が悲鳴のような声を上げた。
「そ、それはすごい」
 吉岡は三沢の素直な驚きの表情を見て、急に気力が萎えてくるのを感じた。
「失礼ですが、いったいどんなトリックを考えていらっしゃるのですか。まさか、今のと同じような……?」
「いや、よく似ているが、私の考えたトリックの方がすごい。いいかい、部屋の中から鍵を掛けるのは、殺された被害者本人だ。これほどわかりやすいトリックはないだろ」
「被害者が密室を作ると……」
「そう、死体が密室を作る」
 そこまで聞いて、あまりのくだらなさに、吉岡が思わず大声を出した。
「まさか、死体がゾンビになって……なんていうのじゃないでしょうね」
「そのとおり!」
「バカバカしい! いいですか、出版社は先生にホラーじゃなく推理小説を書いてもらいたいんです。それぞれの分野には、それぞれのネタがあるんです。推理小説に幽霊は出しちゃいけないし、犯人が宇宙人でもいけない。それは暗黙の了解です」
「まあ、これを見たまえ」
 そういいながら吉岡が、バッグをまさぐって取り出したものは、細長いお札のようなものである。赤い地に、わけのわからない漢字が書いてあった。さらに封筒を取り出して、その中身をお札と一緒にテーブルの上へ並べて見せた。こちらはどうやら薬草のようである
「なんですか、これは?」
 三沢は吉岡の怪訝そうな顔を見て、にやりと笑った。
「僵尸(キョンシー)のおまじないセットだ。薬草を焚き、お札を貼り付けると、死体がキョンシーになるという」
「キョンシー! あの中国版ゾンビですか」
「キョンシーはね、中国古来から伝わる科学なんだよ。道士と呼ばれる者たちが、旅先で死んだ人々を故郷へ連れて帰る方法として利用してきた。死体そのものに、家までの長い道のりを歩かせていたんだな。この方法を使えば、死体は自ら密室を作りあげ、犯人がアリバイを作るまで充分に働いてくれる。」 
 もはやあきれて話にならない。吉岡は心の中で憤慨しながら、立ち上がった。
「もっとちゃんとしたネタが浮かんだら、私を呼んでください」
「吉岡君、もう帰るのか」
「当たり前でしょう。先生のいたずらに付き合わされる暇はないですから」
 三沢は、ドアに向かう吉岡に追いすがるように声を掛けた。
「もし君に、殺したいと思う相手がいるのなら、このセットをあげてもいい」
 吉岡は歩を止めた。何もかも知っていて、皮肉で言っているのか。
 吉岡は、今まで隣のホテルで、三沢の妻と一緒にいた。彼女とはすでにお互いを求め合う間になっていたが、彼は三沢を憎んではいないし、邪魔だとも思っていない。三沢からその妻を奪おうなどと考えたことも一度もなかった。
「まさか、そんな人はいませんよ」
 吉岡は三沢を振り返って笑って見せた。
 三沢は複雑な表情で、そう、それはよかった、と呟いた。彼が秘密を知っているのか知っていないのか、吉岡には依然として見当がつかない。
 吉岡にしてみれば、三沢との関係もその妻との関係も同じようなものだった。ただ相手の便宜を図っているだけのことだ。だから誰かを憎む事もなければ、誰かに憎まれる事もない。
「最近のホテルはぶっそうだから、施錠を忘れないように」
 吉岡を見送りながら、ドアの前で三沢が妙なことをいった。
「先生こそ、そうしてください。ただ、ホテルはオートロックですから、心配には及びません。そんなことよりも、とにかく執筆がんばってください。今晩は寝る暇はありませんよ」
「……なら、ドアチェーンは必ず掛けておきたまえ」
 吉岡は、三沢の奇妙なアドバイスを笑い飛ばした。
「原稿が上がったらいつでも呼んでくださってかまいません。ただし、さっきのような冗談はダメです」 
 その時である。三沢は目にもとまらぬ素早さで、ドアから出て行こうとする吉岡の背中に近づいた。
 根元まで突き刺さったナイフを、首筋からそっと抜き取り、その上へ例のお札を貼り付けた。薬草の匂いが届かないところでは、お札がないとキョンシーの秘法は効かないのである。
 吉岡は、おやすみなさい、とだけいうと、ホテルの薄暗い廊下の向うに姿を消した。どうも歩き方がよたよたとしてぎこちない。
 ドアから井沢の部屋に入ってきた途端に、すでに吉岡は三沢に殺されていた。
 そのことが今だにわかっていない吉岡は、密室を作るために帰っていったのである。







  エントリ2 旬日 ぼんより


 天井はとても高く感じられた。
 実際はそうでもないのだけど、眠気とけだるさとやる気の無さと、そして何より轟音が頭の中で渦巻くようなこの暑さが、私の焦点をどうでもよくしている。
「明日は雨かなぁ」
 私はここ最近、いつも決まってこの台詞をぼやいている。つぶやいているんじゃなくて、あくまでぼやいているのだ。
 なつかしい匂いと小さな格子窓が特徴(と私は思っている)で、海に近い、どちらかというと田舎な町並みに在る。それが私の家。
 現在同居人もなく、私は一人、意気揚々と自分を生きている真っ最中だ。以前は、とても人懐っこい表情を私にだけ見せてくれたパートナーと、お互い楽にゆったり過ごしていた。が、ある時パートナーは突然私の前から消えていなくなった。まるで、あとは適当にやんなよ、とでも聞こえてきそうな、そんな別れを最後におしつけて。
 古い天井は、数えたらキリが無いくらい多くのシミやキズがある。開けっ放しの窓からは、真昼の砂漠を経由したかのような変な温もりを帯びた空気が室内に流れ込んでいる。なにやら音も聞こえてくるが、中途半端に耳障りじゃないのが余計に耳障りだった。
 私は真っ白いTシャツに汗を滲ませながら、タオルを手に取り、ぬぐってもぬぐっても降り止まないスコールを、しょうがないなと思った。
 ――ホントに楽だった。
 他人の運転する車に積んでもらうくらい、ホントに楽だった。ご飯を食べるときは、面倒くさそうに体を起こすくせに、多分世界で一番おいしそうな食べ方をした。雨がよく降る日は、意味もなく活発になりだした。それは家の中で。私は、雨の日がくるたびに、活気が満ちていく我が家を、いつもふしぎに思っていた。一緒に散歩に出かけるときは、必ず私と横一文字になって歩いた。後ろにも先にも決していかなかった。そのかわりといっては何だが、立ち止まることはしばしばみられた。しかも何に興味を惹かれたのか、まったくもって私なんかにはわからない。
私なんか≠ニいうには理由がある。パートナーは立ち止まるとき、私がドキッとするような、真剣そうな表情をみせるのだ。公園の入り口に入ってすぐの大きな木を見てたときも、近所の学校にある藤棚を見てたときも、こんな暑い日の積乱雲を見上げたときも、私はそのいちいちに頬を赤らめ、ドキッとした。だからパートナーが散歩で立ち止まるとき、私も必ず立ち止まった。
 掌のジワッとした感触を、私は、自分でも容易に想像できるようなしかめっ面で、眺める。掌は若干鈍い光を放っており、私は急いで新しいタオルを手に取った。
 やっぱり自然に頼ろうとしても、人工風のほうが手っ取り早く涼むことができるのだなと、何もない我が家をほんの少しだけ呪った。
 でも、もうそろそろ日が暮れる。海に近い分、風は結構吹き込んでくるのだ。夕暮れ時の潮風は心地よく、私を嬉しくさせる術をとてもよく心得ている。かつてのパートナーのように。
 ――嫌だな、って思うこともあった。
 わけもわからず私の睡眠妨害をしてくるときがあった。わたしにとって睡眠とは、それはもう筆舌に尽くしがたいほど、ぼお〜〜〜っとできるひととき(まー寝てるからなんだけど)なのだけど、パートナーは、私をまるで遊園地のバイキングのごとくゆさぶり起こし(よく夢で頭が回ってるのをみて、気分悪くなって起きたら、きまってそばにパートナーがいるから多分そんな勢いだと思う)、しれっとした顔をして私の顔をじっと見つめる。そこには悪気も笑顔も人懐っこさも真剣味もなく、曖昧さだけがある。私は特別に困惑してしまう。パートナーのそんな表情に特別困惑してしまうのだ。
 私は曖昧なことやモノが好きだ。灰色やグラデーション、片目をつぶったときの遠近感に、中学生らしいとか高校生らしいとか、あと私が住んでいる町の田舎さ加減もそうだ。私が曖昧に感じるすべてのことやモノは、とても滑稽で面白くて、私の遊び心をメラメラとくすぐるのだ。メラメラとくすぐって、くすぐられた分だけ私は、私の中のエネルギーを消費することができる。多分、しんちん何とかってヤツが活発になるんだと思う。それはとても身体にいいらしい。
 なのにあれだけは――なぜだかわからない。
 嫌だな。今でも、多分これからも。
 朱色に染まりはじめた空は、とても遊び疲れた子供のように見えて、私を力いっぱい苦しめてくれた光は、遠い遠いどこかへ行こうとしている。さよならも言わずに。
 風はやさしくすずしく、そしてあたたかく潮の匂いをたっぷりと運んできた。私の嬉しくなる時間だ。嬉しくなった私はタオルを首にかけ、窓枠でほおづえをついて外の景色を見た。
 薄暮の光景は、一種独特の神秘性を纏って、遠くに見える鉄塔に不気味さを与え、海沿いに走る国道のT字路の角にあるファミレスには、癒しの光を差し込んでいるようだった。その間の光景を埋めるかのようにみえる山は、ふわっとした緑に覆われていて、今だけ魔法にかかったかのごとく、ほの赤く染まっている。ジョギングをしている老夫婦の後ろ姿も、気持ちほの赤く染まっていた。
 私は無性に何か言わずにはいられなくなって、腰をすえて山をじっとみつめた。山も私をじっとみつめてるような気がした。もちろん腰をすえて。
 あんたとの生活は楽だったよ。毎日ゆったり眠れたんだから。起こされて嫌なときもあったけど、みんなふくめてゆったり眠れた。今はひとりだけど、まーいいかな。たいしてかわんない。あんたはどう? 野生に戻ってゆったり眠れてる?
 心の中で山に向かってそう言うと、大きな買い物をした気分で私は満ち足りた。
 「さて、もうひとねむりしようっと」








  エントリ3 排他的利己性遺伝子 めだか


 夢中で見ていたドラマが終わり、振り返ると聞いてくる。
「おとうさん、利己的遺伝子ってなあに?」

 ちょっと甘えた、女の子らしい声をだす。こういう時に甘い顔すると、おねだりされるから要注意だ。こないだなんか、うっかり代官山の美容院にいかせる約束になって、予約が取れずに大変だった。
「おつむの弱い人が言い逃れに、ちょっと使ってる言葉で好きじゃないんだよねぇ。それ」
「僕は、おつむの弱くないよ」
そう言いながら、ゴッツンこ!
「うん。そうだね」
なんて石頭なんだ。手加減してよ。

 おでこを擦っていたら、いろいろと浮かんできた。
「言葉として利己性という方が合ってると思うよ。概念の拡張だね」
「ガイネン?」
「言葉の元になる、考え方の範囲や出来事のことだよ」
「遺伝子が言葉?」
「そうじゃなくて、説明できることを増やそうとして、人が持つ概念を新しくしたんだ。つまり、もとから遺伝子にあるしくみで、他より数が増えていくというのは、淘汰や適者生存という結果ではなくて、やっつけちゃえと攻撃してるんだとして、"遺伝子は利己性を持つ"と主張する人がいたんだ。戦略というか狡さというか、そういう積極的な人の癖から想像したんだね。なぜかはわからないけど、自己と他者を区別するらしいから、"排他的である"とも言った。ところが、それじゃあ本が売れないで困るぞと思った編集者が、もっとセンセーショナルにしようと思って、適当に"遺伝子は人間よりも自分勝手だ"と間違ったキャッチコピーを付けたら、これが評判でねえ」
「へえ〜」
「これを支持する人のなかには、遺伝子がその戦略哲学を学ぶには、どういった本を読むか、それはもちろん"資本論"であるべきだと主張する人がいてね」
「へ?」
「行動を説明する概念だったはずが、哲学を証明する証拠として、遺伝子こそが根本動機であると乱用したんだよ。たぶん、自称は進化論の研究者だけど、ダーウィンと無関係に弱肉強食とか使うから、相手にされずに焦ったんだね。これに進化論を信じない普通のアメリカンが反発して、それは"聖書"でなければと言いだし、神への冒涜だと混乱してね。それが日本で紹介されるとき、出番がなくなった社会派と呼ばれる人達が、マルクスやエンゲルスの思想に違いないと混ぜ反していたら、読んだドラマ世代にはピンとこなかったのか、マルクス・エンゲルスとニーチェとを誤解して、愛こそ本質なのよと錯乱してしまい、奥さんちょっと聞いた? 不倫も浮気も勝ち組遺伝子のせいらしいわよと……」
「ねえ、その話……。長くなる?」
「それを聞いていた元研究者が、だから彼は二股をかけたの? でも人類進化に限らないと正確ではないわと……」
「わけわかんない!」
「だからね。えっ、わからない?」
暴走していたみたいだ。

 なにを話してたんだっけ?
「やっつけちゃえが、どうして二股?」
「そうだねえ」
「遺伝子が、浮気するの?」
「いや、しない。増えるだけだよ。そもそも浮気は人の浮世のあれだから」
「ひとのうちわ?」
「待てよ、サルにもあるなあ。でもあれは序列の維持だから、マウンティングの補完か?……」
「サル? なにかを間違えたんじゃなかった?」
「ああ、そうだ。そうだ、うん」
「思い出した?」

 概念の拡張だった。
「大丈夫?」
「だいじょぶ、大丈夫。例えばさ……」
「たとえば?」
「春先の、まだ寒い頃。何色の花が多い?」
「ナズナ、はこべら。黄色や白い花かなあ」
「そうだよね。それで、そこに蝶々さんが飛んでくる」
手でヒラヒラと、動きを真似てみせる。
「ふん、ふん」
「そして黄色や白い花だけとまります」
からかう仕草で、ヒョイと小さな鼻を摘む。
「ふぅんが」
「蝶々さんは、黄色や白い花が好きなんだと思わない?」
「うん。ちょっと痛かったけど」
「そこが大切なんだ」
「なに?」
「"好き"というところ」

 好きだと、人なら何をするか。
「好きになったら、何をする?」
「まず、血液型と誕生日を調べるかな。それから、同じクラスの娘を捕まえて、彼女がいるか聴きだすの。でも、周りをうろうろしたり自宅を調べたりして、ストーカみたくはしない。変な子だと思われると、いやだから。それから、それとなく好きな料理なんかを調べておいて、授業でつくるときには、強引にそれをつくってみるの。そのときは、失敗したほうがいいと思う。いや〜ん、失敗しちゃったとか。くやしいからもう一度作りたい、だからから実験台になってとか。そこは、相手しだいよ、きっかけね。きっかけだけつくっておいて、プロの味を覚えなきゃとか理由をつけて、美味しいお店が渋谷にあるらしいのよ、でもひとりじゃ怖くていけないわ。どうしよぅ〜ん。」
 こういう話になると、生き生きするねえ。
「いいよ、ついて行こうかと言わせたら、こっちのものね。待ち合わせは、スタバにするの。南口から、目立つし近いし間違わないし、渋谷は初めてってことにするから、ヘブンやタオだとまずいでしょ。音楽聴けて退屈しないし、ビデオもあるから会話もつくれる、それより映画館があるからね。あら、ちょうど映画をやってる、これ観たいと思わない。そうでしょ、いっしょに観ましょうよ、女の子だけで観てるの照れるのよねとか。でも、はじまるまで時間があるから、どうしよう公園通りでも散歩する?」
「それで、行きついた代々木公園を、ひと気の少ない方へ方へと……」
「そんなこと、オヤジやおへんか。堪忍どすぇ」
「あはははは。堪忍ってそれ、いつのまに覚えたの?」
「ちょっとね」

 話は、利己的遺伝子でした。
「好きだと、周りを気にせず見つけられるし、近づいて行くでしょ?」
「まあ、それもあるかな」
「でも全部じゃない。スタバで脚を組む蝶なんて、いないからね」
「うん」
「この寄っていく行動は、"好き"のうちならありかなと」
「どちらかといったら、ありかなあ」
「だったら、蝶の動きも"好き"に含めていいんじゃないかと」
「そうかなあ、かもしれない」
「そこで、遺伝子のしくみはどうだと考えて……」
問いかけるように、答えを待った。
「利己的と言ってみた?」
「その通り、大当たり。カラン、カラン」
「えへへ」
素直だなあ。えへへってどうよ。
「人の概念が広がりをみせたから、動物の行動を説明できるようになったんだね」
「でも、遺伝子が全てを決めるみたいな。言ってなかった?」
「ひとりもいません。そこまで学者は、おっちょこちょいの軽率ではありません」
「本当?」
「ただ、それだと面白くないから、適当に面白くする。ファンタジーだね」
「ファンタジー、いいよ」
「良いけど、面白くするために発言が餌食にされた、そんな研究者はいたんだよ」

 ふと、窓際の風景が頭をよぎる。
「噂だけど、ある研究者はね」
「なに?」
「元気に研究所に来るのだけど、誰とも話をしなくなった」
「それで?」
「そのうち、やがて席が窓際に移り」
「窓際族?」
「いつの間にか、居なくなってた。亡くなったという話もある」
「そうだったの」
「仲間だと思ったら、人間嫌いにはなるだろうね」

 科学は知ることなんだ。なんだか考えさせられる。
「会社で悪いことがあった?」
ちょっと探る眼差しで、大人びた声にドギマギする。
「い、いいや。どうしてさ」
「だって、爆走してたし。好きとかいい出すしぃ」
「なんだよ。生意気だなあ」
「話してみたら? お母さんには黙っててあげるから、ね」
その笑みがさ、ちょとね、怖いんだけど……。







  エントリ4 それ以上ではなく、それ以下でもなく 中川きよみ


 「先週の出張で、札幌へ行ったじゃない? スタッフの飲み会の時に岬課長と2人になれたのよ〜。そしたらね、オレ酔っちゃったよぉ、なんて後ろから抱きしめられちゃったの!」
 千夏はワインに上気していっそう華やいだ貌に見えた。
 千夏に飲みに行こうと誘われた時、また岬課長のことかと瞬時に勘付きながら、悠紀子は断るわけでもなく会社の近くのイタリアンレストランに来たのだった。悠紀子は実のところ、妻子ある岬課長に熱を上げる千夏の気持ちを本気にしていなかったし、岬課長のことも口が上手く言い繕うことにばかり長けているくせに仕事が遅く雑なので快く思っていなかった。不倫も調子が良すぎる男も、大嫌いなのだ。でも価値観が違っていても千夏のことは嫌いではない。支社でただ一人の同期で入社以来ずっと仲が良かったし、そのレストランのワインもパスタも悠紀子のお気に入りだった。
「ねえ、脈アリじゃない? 悠紀子はどう思う?」
 千夏は印象的な大きな目をさらに大きくする。
「家庭のある人が真面目に付き合う筈ないと思うわ。千夏、早く結婚したいんでしょう? だったら止めた方がいいわよ。」
「夫婦仲が悪いのよ! どうせ離婚するわ」
「ふうん」
「素っ気ないのねぇ。そりゃ、悠紀子には長い付き合いの彼がいるからいいけど、あんな会社で毎日働いてて出会いなんてないじゃない? もう若い男なんて周りにいないの! 結婚してたって思いっきり射程距離内なんだから!」
 酔いにまかせて千夏はふてくされて開き直る。
「悠紀子が不倫を嫌いなのは知ってるよ。でもさ、悠紀子だって笹山さんのことでちょっと噂になってたよ。どうなの?」
「えっ? 何なに?」
 追加オーダーのメニューに見とれて聞き流していた悠紀子は、不意打ちをくらってぽかんとする。
「どうして笹山さん?」
「私だって聞きたいよ。あんな地味で冴えないオジサンのこと、どうして悠紀子が好きなのか」
 千夏の言葉にカチンときた。その自分の感情にややうろたえて、落ち着くために悠紀子はグラスワインをオーダーする。
「好きって、まあ確かに、私は笹山さんの仕事ぶりは評価に値すると思ってるわよ。でも、それで噂になるの? びっくりするようなこと、言わないでよ」
 でも本当に抗議したいのは、「地味で冴えない」という言葉だった。笹山は無口で外見にはまったく拘っていない。恐らく自己アピール力というものが最初から欠落している。一般受けが良くないことは悠紀子だって知っていたけれど、笹山の頭脳はキレが良いし喋らせると実は結構面白い。そしてなにより誠実な人柄なのだ。それを岬課長なんかに好意を寄せる千夏から切り捨てられるのはあまりに不当ではないか……もちろん、笹山の良さに気付かないタイプだからこそ、岬課長に熱を上げるのだろうが。
 悠紀子は言葉にする代わりによく冷えた白ワインを飲み下す。

 「それって、前も言ってた悠紀子が気に入ってるオジサンのことだろ?」
 芳彦は興味なさそうに言った。どことなく面白くなさそうだった。
「えっ?」
 悠紀子はドキリとする。
「どんなに高価なスーツを着てもびっくりするくらい安っぽく見せることができる、単身赴任のオジサンだろ?」
 悠紀子の部屋に来る度作っているプラモデル製作から顔も上げずに、どうでもよさそうに言った。
「……そう、才能に溢れたそのオジサンよ」
 今朝、笹山がにこやかにピンク色のキティちゃんのクリアケースに入れたままの書類を部長に手渡したのでびっくりした、という話をしたのだった。自宅で娘の持っていたクリアケースをちょうどいいから借りたと言っていた。
「いろんな人がいるよなぁ」
 悠紀子が差し出したコーヒーに何か相槌でも打たなくてはならないと思ったらしく、おざなりで間の抜けた感想を述べたが、芳彦の関心はもはや完全にプラモデルに向いていた。身近な誰かに笹山の魅力を共感してほしかったのだ。でも、当たり前だが芳彦はその相手としてはあまりにもそぐわない。
「わざわざ私の部屋へ来てプラモデルもないじゃない……」
 悠紀子の独り言のようなささやかな抗議を、芳彦は、うん、そうだね、と聞き流す。

 「笹山さん、会議は金曜日の午前中です。急で申し訳ないのですが資料を明日までに部長に提出してもらえますか?」
 いつもながら、笹山は悠紀子の心遣いに感謝して感心する。業績不振で研究所の人員整理があって、笹山は支社の開発部に転勤になって単身赴任をしている。悠紀子は笹山が金曜日の晩には会社から直接新幹線で自宅へ帰ることを知っているので、見事な秘書の手腕で笹山が出席しなくてはならない打ち合わせや会議を夕方から外してくれるのだ。
 人員整理の対象者になったことを含めて、社交的ではない性格のために損をするのは仕方がないことと諦めていたが、悠紀子のしなやかで的確なサポートを受けて開発部では今までになく自分の仕事が評価を受けていると感じた。
「ハマダが部長との意志疎通を手助けしてくれるお陰で、僕はものすごく助かってるよ。言われなかったら資料なんて提出することも思い付かないからね」
「それはそれは。もう資料ができたんですか。相変わらず早いですねぇ。でも、秘書ごときが手助けできることなんて、本質的には何の価値も変えませんよ」
「いやぁ、それはハマダの卑下だよ。事実、僕はこんなにスムーズに上司と意志の疎通を図れた試しがない。いつもそこで躓くんだ」
「お褒めいただいて光栄です。代わりと言っちゃなんですが、部長が今夜の外部打ち合わせに誰か分かる人を連れて行きたいそうですので、資料を渡すついでに行って頂けます?」
「……なんか、ハメられた気がするなぁ」
「気がするんじゃなくて、ハメたんです」
 悠紀子は笑顔を浮かべる。
「部長は外出中なので6時に会食のホテルで待ち合わせてます。私も行くので、一緒に行きましょう」

 帰宅ラッシュの地下鉄で繁華街へ出て、笹山と悠紀子が地下街をしばらく歩いていると、突然暗闇に襲われた。一瞬にして鼻をつままれてもわからないような闇になり、たちまち辺りはパニックに陥った。慌てる叫びの合間に蛍のように光るのは、携帯電話の画面だろうか。
「ずいぶん大きな停電だね」
 笹山ののんびりとした声を聞いて、悠紀子は心からほっとした。
「ハマダはこっちへ来ていた方がいいね」
 笹山の手が悠紀子の肩を通路中央の柱に導く。悠紀子がおとなしく柱に背をつけると、笹山が庇うような位置に立つ気配がした。度を失って動き回る人たちが暗闇の通路を滅茶苦茶に動き、数度笹山はぶつかられていた。
多分、そんなに経っていない。けれど暗闇の中では時間はとてつもなく長く感じられた。不安のあまり悠紀子が手を伸ばすと、笹山の腕に触れた。思いがけず、暖かな掌が悠紀子の右手を握る。
「このまま、ふたりで逃げちゃおうか」
 ぽつりと笹山がつぶやいた。
「そうですね」
 悠紀子はついつられて本音で返答した。いつものように冗談を切り返す余裕がなかった。
 その時、始まりと同様に突如停電が終わって強烈なフラッシュをたいたような衝撃で光が戻ってきた。悠紀子は一瞬バランスを崩して笹山の胸に倒れ込む。
「あ、ごめんなさい」
 反射的に口をついた言葉を潮に、顔を見合わせて笑った。
「駆け落ちは未遂だね。さあ、行こうか」
 笹山のいつもの飄然とした笑みを、悠紀子は好ましく思う。ただ、それだけ。








  エントリ5 浮気 吉備国王


女子パート社員を募ったところ、バブルが弾けて失業いていた主婦が大勢応募してきた。支店長と岡城課長が選考審査をすべく口頭質問を繰り返していたが、知性と容姿共に優れた人材は少なく、既に十人近い面談を終えても目にかなう人はいなかった。
「支店長・・・欲しい人物はいませんね?」
支店に赴任してきたばかりの岡城課長は半ば諦め気味にしていると、一人の婦人がドアを静かに開けて入ってきた。その婦人は均整のとれた体型をしており、丁寧にお辞儀をすると、面接官の支店長と岡城課長の二人の前に躍り出てきた。
その婦人を見て、岡城課長は心を動かされてしまった。一目惚れと言ってよいほど、岡城課長の求めていた理想の女性だった。
婦人の服装は一見派手であったが、その態度は控え目で上品ささえ見せた。婦人は礼儀正しい姿勢から面接官の表情を見据えてお辞儀を済ませ、側の椅子まで歩みよると頭を軽く下げて腰を下ろした。
二人の面接官の眼は一瞬驚きともとれるほどの眼光を輝かせていた。ハニーフェースの容姿に引きつけられて唖然としていたが、年老いた先輩格の支店長が先に、婦人の履歴書を見つめながら質問を始めた。
「貴方のご主人は働くことに賛成されておりますか?」
と、その婦人の表情を深く伺うように見つめた。
「はい、夫には了解を得ております・・・」
と、婦人は支店長の顔をしっかり見つめながら答えた。
それを聞いてから、支店長の横にいた、岡城課長が幾分か表情を紅潮させながら、今度は支店長に代わって質問を始めた。
「貴方の履歴書を拝見しますと、色々な資格を持っておられるようですが、一番好きなのは一体何ですか?」
その質問には直ぐに答えず、今度は質問者である課長の方に目線を向けて見つめていた。一呼吸ほど沈黙して、岡城課長と目線を合わせながら、相手の気持ちを惹き付けるかのような語り口で話し始めた。
「高校では簿記が好きで、二年生の時に一級を取得しました。でも、一番好きなのは、やっぱりスポーツですね!」
と、婦人は遠慮ない素直な気持を等々と岡城課長に喋りながら、質問者の気持ちを十分に理解したのか、先ほどより微笑みを浮かべて、スポーツで鍛えた美しい脚を業とらしく組み変えて、岡城の眼を惹き付けていた。
「テニスやゴルフは楽しいです!・・・」
岡城課長は笑顔で頷きながらも、その婦人の麗しき身体に目線を這わせていた。
「運動が好きなんですね。それで健康的な身体だとお見受けしました。仕事をする上でも一番大切なことですから、今後も続けてください。貴女を採用しますので面接が終わりましたら受付で待っていてください!」
岡城は、その沖と名乗った夫人の顔を嘗めるようにして見つめていた。
「ありがとうございます!」
「今日はご苦労様でした」
「交通費を支給しますので書類を受け取って下さい。貴女の出社は二十五日ですから、都合が悪ければ前もって了解を得てください。仕事については、此処におられる岡城課長から詳しくお聞きください!」
支店長は、隣に座っている岡城に目配せしながら、沖夫人への説明を終えた。
「沖さん、心配いりません。詳細については、この後、私がお話ししますから・・・焦らずゆっくりやって頂ければ結構ですよ・・・」
こうして、岡城は沖夫人に職責以上に興味を抱いて接近していた。憧れへの欲望は夫人への優しさとなり、その入れ込み様は誰の目に判るほど、男の野望を意識させるほど強烈だった。仕事だけでなく、私生活まで手伝うほど親しい関係を築きつつ、次第に男と女の親しい仲にまで心が通い始めるのに、そう長い月日は二人に必要ではなかった。
沖夫人が入社して三ヶ月も経った頃、仕事を終えて夫人が自動車に乗り込んでいると、岡城課長が息を切らして走って来た。
「沖さん、そこのスーパーまで送ってくれない。今晩の買い物を忘れてね・・・」
「どうぞ・・・」
と、沖夫人がドアを開けると、岡城は即座に助手席に乗り込んできた。
「ありがとう、助かったよ!」
と、安堵感を現して、沖夫人の表情を見つめた。
 夕食の買い物を忘れていた・・・と、言った言葉の裏に隠された男心の奥を、沖夫人は知ってか知らずか、拒絶することなく素直に受け入れていた。
「本当にありがとう・・・」
と、言って、岡城は、鞄を開けて色紙に包まれた小箱を取り出して見せた。
「これを貴女にプレゼントしようと思っていたのに機会がなくて・・・」
と、興奮気味に喋りながら、沖夫人の膝の上に、その美しい小箱をそっと置いた。
「私に?」
沖夫人はハンドルを握っていた片手を放し、小箱を掴んでダッシュボードの上に置いた。そして、国道バイパス側道から脇道へ車を進入させて、木立の生い茂る林の中で車を止めた。その木立は、テニスコート一面ほどの空地を取り囲むように広葉樹が生えて周りには人家は無く、国道を走り去る自動車の音だけが響いていた。
ヘッドライトを消してルームライトを点けて、お互いの顔が確認できるほどの明るさの中で、沖夫人は目の前に置かれた小箱に手を伸ばし、綺麗に結ばれた色リボンを解きはじめた。瞳は一杯に見開いて小箱を見て輝きを放ち、白い十本の指は好奇心に満ちた震えるかのような素早い動きで包装紙を外していた。
「君に気に入ってもらえるといいんだが・・・」
と、岡城は、沖夫人の耳もとで眩いた。そして、顔を覗き込み、その小箱を持った沖夫人の手にそっと触れていた。
「わあ、素敵なルビーのイヤリング。嬉しい・・・」
沖夫人は、目の高さのルームミラーを見つめながら、両手で自分の耳に付ける仕草をミラー映していた。
「ぴったり似合うね!」
「セクシィ・・・」
と言って、岡城は、沖夫人の頬にそっと口づけした。そして、腰に廻した片手を臀部から下に進めると、沖夫人は妖しく震える声を漏らしはじめた。
「ああ、いい・・・」
と、快い可愛い声を放った。久しぶりなのか、熟女の肉体はすでに潤いはじめており、助手席の岡城のズボンのファスナーに片手を伸ばしていた。
夜八時を過ぎて周囲は暗やみに包まれ、時折通過するする車のライトの明かりが微かに反射して車内を照らしたが、リクライニングシートで繰り広げられている行為を誰も知るよしはなかった。
「あああ・・・」
「貴方の家に行きましょう。好いでしょう・・・嬉しいんだもの!」
と、沖夫人は、岡城の耳元で呟いた。
 岡城も此れまで数々の経験をしてきたが、此れほど積極的に応じてくれる女はいなかった。
「いいよ!」
と、言って、沖夫人の臀部を撫で廻しながら返事をした。
「娘も友達とスキーに出かけるし、一人だから・・・」
と、一人の寂しさを現していたが、これから帰宅して愛を交えれば朝近くなる。
「泊まっていきますか?」
と、岡城は尋ねた。
「朝までに帰宅すれば・・・?」
沖夫人の返事を深くは考える余裕はなかった。それまでには時問は十分あることだし、仕事のことを忘れて楽しもうかと思った。
「じゃ、行きましょうか・・・」
岡城は、我が家に向けて走り出した。単身赴任をして半年。六畳と四畳半の二間の借家の生活は寂しかった。ライトの明かりが路上を巻き上がる落ち葉を照らし出して走っていた。一帯は田圃が広がる田園地帯で周囲は活垣の大きな樹木が茂っていた。
「静かなところですね・・・」
「ここが、我が家です!」
自動車のライトに照らし出された、その一軒の家を沖夫人は呆然と見つめていた。








  エントリ6 ある英雄 ごんぱち


 県営グラウンドの自動計測装置が、九秒〇四一を表示する。
 走り終えた岸本竜一は、軽く筋肉をほぐす。
「岸本」
 監督がやって来る。
「調子はどうだ」
「良いですけど……この前の健康診断で何かありましたか?」
「いや」
 監督は横目で自動計測装置を見る。
 下に手書きで「日本記録・八秒四二〇」「世界記録・七秒九九四」と書き添えられている。
「調子が良ければいいらしい」
 監督は自身でもよく分かっていないような顔で、封筒を差し出した。
「役人様から、これを預かって来た」
「手紙?」
 岸本は受け取った封筒を引っくり返す。
 封筒には宛名も差出人もない。口の封印だけが、やけに念入りだった。

 一級官吏用のマンションは、県営官舎とは比べものにならない広さだった。
「ここ、で、いいんだよな」
 岸本は封の切られた封筒から、中身を出す。
『下記の場所に出頭を命じる。尚、本件について一切の口外を禁ず。命令に反した場合、国家反逆準備罪を適用する。 日本国政府』
(国家反逆)
 岸本は小さく身震いする。
(僕は愛国者だ。非国民なんかになったら、たまらない)
「岸本さんですね」
 いつからそこにいたのか。
「!!」
 小太りの中年男が、目の前で微笑んでいた。
「出頭に感謝します。こちらへ」
「あなたは――」
「ああ、これは失礼」
 男はしかし、岸本の無礼を気に留める風もなく、会釈をする。
「とある大臣様直属で仕事をさせて頂いております。神田伊知郎と申します」

「私と二人で、少々狭いかも知れませんが我慢して下さい」
 神田はマンションの一室に岸本を案内する。
(うわ)
 室内は、岸本がテレビや新聞でしか見た事がないような豪華な調度品に溢れていた。
「そこへかけて下さい」
 傷の一つもない椅子を、神田は指さす。
「は、はい」
 つんのめるようにして、岸本は椅子に腰掛ける。
「まず、顔を替えて貰います」
「えっ?」
「簡単ですよ」
 神田は引き出しから簡易注射器を出す。
「形状記憶ボツリヌスです。ちょっとじっとしていて下さい」
 言われるままにじっとしている岸本の顎に、神田は簡易注射器を押し当てる。
「――さあ、チクッとしますよ」
 ちくりと、僅かな痛みがあった。
「明日から、あなたは高木立雄と名乗って下さい」
「えーと……」
「はい?」
 神田は訊き返す。人の良さそうな笑顔だった。
「僕は、何をするんですか?」
「英雄になって下さい」
 神田は引き出しから、色とりどりのアンプルを出す。
「新薬です。端的に言って」
 神田はにっこり笑った。
「オリンピックに、出られます」

 七秒九九八。
 空のない練習場で、タイムが電光掲示板に映る。
「……七秒台」
 クールダウンをしながら、岸本は呟く。
「お疲れ様。明日の大会、期待していますよ」
 神田がドリンクとタオルを渡す。
「これ……本当に、僕が出したのかな?」
 岸本は数字を見つめる。
「ええ、そうですよ」
 岸本の足は、薬物使用前よりも細く、しかし密度の高い強靭な筋肉が付いていた。また、顔だけでなく、目つきも変化している。
「筋肉を再構成し、運動能力を司るシナプスを爆発的に増加させる。しかも、これだけの効果がありながら、あなたの体組織を参考に作られた薬品なので、検出される事はない。理想的でしょう」
「……ええ」
 神田はあくまで穏やかに微笑む。
「確かに、これは不正です。けれど今、日本の百メートルスプリンターの活躍は、どうですか? いや、活躍なんてしていますか? 世界中で、七秒台を少しでも削ろうとしているのに、未だに八秒四だの五だの」
 釣られるように、岸本は頷く。
「所詮、外人には勝てない、そう考えた子供たちが、外国にかぶれ、売国奴への道を進む。そんな暗澹たる未来が許せますか」
 静かに、訥々と、しかし、圧倒的な熱量で神田は喋る。
「確かに薬物は身体を蝕みます。国民健康診断で薬品に高い適応性を見せたあなたでも」
 岸本は思わず自分の手を見る。
「でも、あなたの勝つ姿は、子供たちに夢を与えます。美しい夢は永遠に生き、伝えられて行くのです」
「神田さん……」
「確かにこれは命令です。けれど義務ではなく、同じ志を持つ同士として、協力して頂きたいのです」
 神田の目に嘘はなかった。少なくとも岸本には、そうとしか見えなかった。

 半年が過ぎた。
「国内大会全勝。大したものです」
 朝食の味噌汁を飲みながら、神田は携帯端末で新聞を読む。
「台北オリンピック出場に、誰一人として反論ありませんでしたね」
「えへへ」
 岸本は照れ笑いを浮かべる。
「自治区とは言え、久々の国内オリンピックです。ここで日本が勝たねば、何の意味もありませんからね」
「もちろん僕は勝ちます」
 言い切って、岸本は箸を置いた。
 それから、アンプルを十七本出し、一本づつ薬品を飲み干す。
「期待してますよ。今、国民に夢を与えられるのは、あなたなのですから」
「はい!」

 オリンピック・男子百メートル本戦。
(ついに、やってきた)
 大歓声がスタジアムを満たす。
「位置について!」
 唯一中継を許された国営放送のカメラは全て、岸本に向く。カメラを隠し持って入ろうとした観客が、警備の軍人に連行されていた。
『ニッポン! ニッポン! ニッポン!』
 ニッポンコールが起こる。
「用意!」
 岸本の増強された脳には、号砲までの時間は限りなく長い。観客席をぐるりと見回し、神田の姿を見つける事すら出来た。
(絶対、勝つ)
 号砲が鳴った。
 一歩、二歩、三……。
 岸本は突然、誰かに頭を殴られた。
 いや、殴られたような感触がして、脚がもつれて転倒した。勢いあまってゴロゴロと転がり、身体中を擦りむきながら、止まった。
(……え?)
 身体が、痺れていた。
 動かなかった。
 悲鳴にも似た歓声が上がる。
『ニッポン……』
 ニッポンコールが遠ざかっていく。
 他の走者も遠ざかっていく。
(絶対負けられないレースなのに)
 岸本は痺れる身体をゆっくりと起こそうとする。
『……ぉ』
 観客席の声が変わって来る。
『……お』
『……てお』
『……たてお! 立雄、立雄、立雄!!』
(たておって、なんだっけ……ああ、僕の名前って事になってたっけ)
 日本コールは息をひそめ、立雄コールが場内を満たす。
(ダメだよ)
 立ち上がり、倒れ込むように一歩、また一歩と歩く。
(僕を応援してどうするんだ)
 ぶつっ。
 赤い血溜まりが、皮膚の内側に出来る。
(僕は、日本のために走っているのに)
 目から血混じりの涙がこぼれる。
(僕を見ちゃ、ダメだ)
 膝から崩れ、地面にべしゃり倒れ込んだ。
(そんな事したら、子供たちの夢が、愛国心が)

「お疲れ様」
 神田が笑顔で花をベッド脇に飾る。
「国民新聞見ましたか?」
 ポケットから携帯端末を出し、岸本の前で開く。
 一面トップに『高木立雄 金メダル』の文字がどっかりと載っていた。写真の中では、岸本は笑顔で金メダルを噛んでいる。
「国民たちはあなたのお陰で、勇気づけられ、夢と誇りを持てましたよ」
 携帯端末を閉じる。
「引退の舞台としては、最適でしょう」
 神田はポケットから簡易注射器を取り出す。
「また別の人間になって頂きますが、もちろん一生食べるに困らないぐらいのサポートはさせて貰いますので。それが、偉大な国民に対する報いというものです」
 簡易注射器を岸本の顔にあてがう。
「――さあ、チクッと……ああ、こっち側はしないか」

 顔半分で心から幸せそうに微笑んで、岸本は目を閉じた。








  エントリ7 『等身大オルゴール』 橘内 潤


 青年がピアノを弾いている。
 どこか山奥の廃倉庫で、天井近くにずらりと並ぶガラスの外れた窓から日差しがさんさんと差し込んでいる。薄っすらと舞う埃をスクリーンにして、水で溶いた山吹色のような線が、だだっ広い空間を彩る。
 広いだけのがらんとした空間の中央に、そこにだけ時間が流れているような精彩を放つグランドピアノが――そして青年がいた。
 なにもない空間で、川の流れる音のようなピアノの旋律と、日差しに照らされて揺らめく埃だけが、時間が流れているのだということを教えてくれる。
 青年は、自分がいつからここにいるのか、もう忘れていた。ずっと昔、ここで待っていろと言いつけられていたような気がするから、ピアノを弾いて待っている。けれど、誰を――あるいは何を待っているのかは忘れてしまっていた。というよりも、「待っていろ」と言われた“気がする”という程度の、記憶というのもおこがましい思い込みで待っているだけだった。
 グランドピアノは、青年が記憶しているかぎり、最初から廃工場のこの場所に置かれていた――もしかしたら捨てられていたのかもしれない。ともかく記憶が曖昧で、青年がここに留まるようになる以前からピアノがあったのか、それとも青年よりも後にこの廃工場(当時は“廃”ではなかったかもしれない)に運ばれてきたのか、本当のところはわからない。
 グランドピアノの音程はまったくずれていない。これは、青年がはっきりと言うことのできる数少ない事実だ。なぜなら、七日に一度、ふたりの少女がグランドピアノを調律しにやってくるからだった。淡い金髪と、鏡のような黒髪のふたりだ。彼女たちがどこから来て、どうしてピアノを調律しているのか、青年は知らない。尋ねてみたことはあるが、彼女たちは答えてくれなかった――というよりも、青年は彼女たちが口をきいているところを見た記憶がなかった。
 少女たちについてもうひとつ不思議なことは、青年が記憶しているかぎり、ふたりは昔から“少女”のままで変わっていないことだった。金と黒の髪をした少女ふたりは、七日ごとの早朝――青年がちょうど一曲弾き終えた時刻にやってきて、無言でピアノを調律して、また無言で帰っていく。青年はそれを無言で眺めていて、無言で見送る――七日に一度の儀式だった。

 青年はふと疑問に思うときがある。いったい自分はいつからピアノを弾いているのだろうか――と。
 もっとも古い記憶のなかで既に、青年はグランドピアノの前に座って、川のせせらぎのように途切れのない旋律を奏でていた。きっと記憶している以前にピアノを習っていたことでもあるのだろうと考えるのだが、時折、どうしても不思議でたまらなくなってしまうのだ。
 自分がピアノを弾けるのはどうしてだろう?
 この廃工場にピアノがあるのはどうしてだろう?
 待っていることの暇つぶしにピアノを弾くのか、ピアノを弾くために誰かを待っているのか?
 ――そんな、とりとめのない疑念を覚えても、その疑問の答えが出ることはない。時間という名の万年雪がいつも、青年と真実のあいだに立ち塞がっていた。
 結局、青年にできることはピアノを弾くことだけ。
 ピアノを弾いていると、すべての疑問が取るに足らないことなのだという気持ちになれる。グランドピアノの余韻たっぷりに伸びる音色に、疑念でささくれ立った感情が溶け込んでいくのを感じる。ピアノと、ピアノを弾いている自分以外のすべてが、埃の舞う空気に溶け広がって消えていくのだった。
 グランドピアノの大きな身体から零れでる旋律はいつもの曲目、いつもの曲順だ。
 青年が知っている曲目は十一曲だけで、それを順番に弾いている。もしもここに楽譜があれば、もっとたくさんの曲を覚えて弾けるのに――と思う。けれど、いま覚えている曲を完璧に弾けるのかと問われたら、胸をはって頷くことができない。指の運びも強弱の付け方も、リズムの取り方も、完璧だという自信があった。けれど、ピアノにはそれ以上に必要なことがあるんじゃないか――青年はそう考えると同時に、自分にその「それ以上のなにか」が欠けているような気がしてならかった。だから、何度も何度もおなじ曲を弾きつづければ、理解の光明が差し込むときが来るのではないかと思うのだ。
 そんなとりとめのない思索に耽りながらピアノを弾いていると、いつもの錯覚に襲われる。自分がこの倉庫でグランドピアノと一緒に生まれて、グランドピアノを弾くために生きて、グランドピアノと一緒に死んでいくのだ。自分は、天国の使者が迎えに来るのを待っているのだ――そんな錯覚だ。
 青年は酒というものを知識として知っているが、飲んだり酔ったりした記憶がない。けれど、ピアノを弾きながら錯覚に浸っているとき、「ああ、いまピアノに酔っているんだな」と感じるのだった。

 ひとつだけ秘密をばらそう。
 さきほど、七日に一度、ふたりの少女がやってきてグランドピアノを調律することを述べたが、本当はそれだけではない。七日に一度のさらに七回に一度、少女ふたりは青年の身体に触れてくるのだ。青年の服を脱がせて、二対の小さな手でむき出しの肌をさらさら撫でる。体表だけでなく、身体の内側まで掻き混ぜようとするかのような手つきで弄る。
 金髪と黒髪の少女はどちらも無言で、まるでふたり合わせてひとりの人間であるかのように淀みない手つきで青年を触る。ピアノを調律する手つきで弄る。そして、いつも決まって、青年がみずからの体内に新しい火が漲るのを意識したところで少女ふたりは離れて、帰っていくのだ。だから青年は、昂ぶった情動をぶつけるかのように、またピアノを弾きはじめるのだった。

 青年はピアノを弾きながら、自分が待っているはずの相手のことを考える。
 待っていた相手がやって来たら、自分はその相手に連れられてこの廃倉庫から出ていくのだろうか? そのとき、グランドピアノは置いておくのだろうか? ――待っている間の暇つぶしにピアノを弾いていただけなのだから、それで構わないはずだ。暇つぶしは終わるのだから、ピアノを弾いていたことを忘れてしまうのもいいだろう。
 でも、ピアノを弾くために誰かを待っているのだとしたら? 本当は誰も待っていないし、誰も迎えに来るはずがない――それなのに、何かの手違いで誰かがやって来てしまったら、どうする? 自分はグランドピアノを置いて、ここを出ていくのだろうか?
 青年は悩む。
 自分にとってこのグランドピアノは、ピアノを弾くということは、どんな意味を持つ行為なのだろうか? 記憶をなくしてしまうほど長いあいだ待っていた相手とグランドピアノを天秤の両端にかけたとき、どちらに傾くのだろう――想像しようとしても、待っている相手がどんな人物なのかを思いうかべることができないから、想像のなかの天秤はどちらにも傾いてくれない。
 そもそも、誰も来ないのだとしたら、こんなことを考えていること自体が無意味なのだろう。青年にとってできることは、いままでそうしてきたようにピアノを弾きつづけることだけ。みずからの奏でるピアノの音色に耳を傾けているとき、青年は自分自身の意味も疑問も情動もすべてが音の溶け込んでなくなって、自分の属する世界が最良のものだと確信することができるのだった。
 青年は今日もピアノを弾いている。







  エントリ8 キャッチングセンター 安藝賢治


 下駄履きで征くバッティングセンターは、大好きさ。いままで時代遅れの暴走で発散させていた青春のエナジーを昇華するのに、バッティングセンターはうってつけだよ。ほら、あの金属バットの感触がね。がぢッって、打擲したときの瞬間が、眼底が結晶化するような、あの瞬間が。ただ球を打たせるだけの商売だ、などと考えたこともない。また暴れたくなるから。暴れたら最期、自力更正の道はたたれ、修羅道に落ちることとなる。いやだ。なにも考えるな。雷鳴を聞けば、すわ、宿敵帝釈天の軍鼓かと恐れおののき、絶えず敵襲の不安に怯える修羅道送り。いやだ。なにも考えるな。いまも、雷は怖いけどね。
 考えちゃいないんだけど、躰は正直。単調にバットを振るっていると、大臀筋はだんだんと強烈な刺激、甘い愉悦を求めて、痙攣・脈動をはじめる。そこでぼくは一工夫。体中にギブスをはめたり、ひそかに鉄球を持ち込んで大リーグボールを想定したりして、刺激の促進を図った(はじめたころは鼻の骨を折ったりとかあったけどね)。
 けれど、この頃物足りない。どきどきが必要なんだ、人生には。絶えず。退屈は老化を早めてしまう。退屈は、性ホルモンの分泌を低下させる。ぼくは、青春のエナジーを昇華したいだけだ。霜枯れたいわけじゃない。そこで、ぼくは、どきどきするための秘術を体得した。つまり、便所のドアを開ける手前で放尿の準備を整えるのである。チャックの開閉に手間取ると失禁の憂き目をみることとなる。人間うまくできているもので失敗はしないだが、なぜかどきどきしてしまう。なぜかどきどきしてしまう。と、二回呟きながら、不満顔で商店街を歩いていると、
 あったんだよ。
 代打センター。
 300円を入れて、九時にゲームをスタート。
 控え室で素振りをしていると、8回裏の十一時ごろに代打のチャンスが回ってきた。
 ピッチングマシーンに敬遠されて、ファーボール。
 300円返せ! って、一暴れしたら、駆けつけた従業員にバットで背中といわず顔面といわず殴打された。従業員の罵詈雑言を浴びつつ路上に蹴り出されたぼくは、しばらく死んでいた。通りがかりの僧侶に助けられ、なんとか息をふきかえしたものの、当然、腹の虫がおさまらない。力は有り余っているのに、社会の不合理に負けている。ぼくは二十年来、毎朝欠かさず饂飩にホウレン草をあしらった「ポパイうどん」を食べてきた。だが、いくら腕力を誇ったところで、世間の風は変えられないのだ。うう。こうなったら餅を焼いて乗せてみようか。「力・ポパイうどん」だ。ポパイだけでも力強いのに餅が入ることによって「力」が追加される。これに蒲鉾を二枚乗せると完全版の「力・ポパイうどんファイナルエディション」になる。三つ葉を散らした限定版は「力・ポパイうどんファイナルエディションリミテッド」。強そうだ。
 ちがう! そんなことはどうでもいいのだ!
 悲しいが、所詮、饂飩で世間は変えられぬ。どうしてくれよう。と俯き加減で歩いていると、
 あった、あったよ。
 キャッチングセンター。
 ここには、金属バットの快音は響かない。だが、此処だと思ったね、ぼくは。捕手。これこそ、ぼくが求めていた愛と誠実の象徴であった。このポジションの役割は、ただ投手の配球をリードするだけじゃないんだよ。キャッチャーこそチームの背骨。守備についている野手へ適時、布陣を指示したり、何より監督が目指す野球を理解しなくてはならない。捕手を中心とした、チーム全体の意思としての守備。これこそがペナントを制する秘訣なんだね。ほら、テレビに映ってる時間もいっとう長いし。世界に散らばる一億の捕手に祝福を。それにひきかえ、金属バット。これこそ、ぼくの生涯を狂わせたものであった。芯を外した打ち損ないの打球でも、力でヒットになってしまうというたわけた仕様が人を堕落させるのだ。かくいうぼくも犠牲者の一人だ。卑怯者、悪漢、穀潰しなどとともに、呪われよ、金属バット。
 まばゆい白球と芳しい合成革しかないキャッチングセンターこそ、我が安住の地、骨を埋める楽土であると、ぼくは確信した。ははは、めでたい! 吉祥! やっぱり佐々木のフォークはフォークが来るってわかってもパスボールしちゃうんだよね。最後は松坂のストレートできめるのが通だね、とその日は家路についた。ミット、マスク、プロテクター無料レンタル有なのが、うれしい。やっぱり、人間として生まれた以上、便所でどきどきなどをしてはいけない。なにが秘術だ。笑わせるな。放尿などという下世話なもので興奮するなど、はっきり言って学童〜中坊レベルである。そういえば昔、あったなー。酔って寝こんだ友達を強制的にオモラシさせる方法。酒を呑ませて酔っ払って寝ているやつの手を、温水を入れたバケツに突っ込む。このまま放置すると、必ず、失禁します。必ず、失禁します。と、二度呟きながら、帰宅。我が家で肉うどんをすすって寝た。
 それから毎日、満天下の働き奴たちと同じように、朝日とともにポパイうどんを食い、キャッチングセンターに下駄履きで征き、日没とともに帰る規則正しい生活をぼくも送ることとなった。そして日々、興奮と愉悦に浸っていた。いつのまにかキャッチングセンターは口コミで広まり、会社帰りのサラリーマンとかも混じるようになった。皆、静かに笑ってキャッチングに耽っていたのである。
 しかしながら、世間は修羅。
 火宅の車輪を回すのは、衆生の業欲。
 キャッチングセンターが人気を集め出したと見るやいなや、その審判をするジャッジングセンターが出来た。瞬く間に、3塁からダッシュするバックホームセンター。選手に指示を出すサイニングセンター。実況中継をするアナウンサーセンターなんかできてもう、わけわかんない。いつのまにか観客席まで出来てるしさ。物見高い群衆が六段にひしめきあって前の方なんか圧死寸前。いまもぼくがキャッチングにいそしんでいると、子どもの泣き声、酒飲みの哄笑、花売り娘の凝視。天井桟敷から白い紙吹雪が舞った。いいかげんにしろ、てめーら。だが、ぼくの瞋恚の炎に油を注ぐように響く、むやみに甲高い声。「うわ」「それお前、前の打席にホームラン打たれたのと同じ球」「うそー?!」「火消し役が火達磨になってどうすんだよ」「もう、やってられるか、ばーか!」とうるさいうるさい。なんのことはない、ただの気違いである。実況席でわなないている虚弱サラリーマンをどつきまわし、少しばかり痛めつけてやった。ら、駆けつけた屈強な従業員たちに五体を指叉で押さえつけられ、地べたに磔にされた。観客席からは群衆が雲霞のように押し寄せてきてぼくをめためたに打擲・嘲・
 髪と爪をあらかた抜かれ、半分、屍となってぼくは広場に転がっていた。悲しくて悔しくて血の涙が頬を伝った。く、くそう。三十二年もうどんを食ってきてこの有様とは情けない。これでは街道を歩むことすらままならぬ。ぼくはただ、青春の昇華をしたかっただけなのに。ああ、だめだ。もうすべて、だめだ。と、天を仰いだら、
 西極に沈んでいくほんとうに真っ赤な夕陽。
 拝みだす老婆、十字をきる牧師。彼らに混じって、ぼくは一心に祈った。
 この世のどこかにあるという、
 完全なキャッチングセンターのために、祈ったのである。

○作者附記:『キャッチングセンター』連作の二。
先達は、
第65回1000字小説バトル アナトー・シキソさん。
第50回3000字小説バトル ごんぱちさん。
次の方、どーぞー。







  エントリ9 ブルーヘブン 伊勢 湊


 おじさんがなぜ僕を選んだかは分からない。コンツェルンを率いるおじさんはそのそれぞれの会社の経営のほとんどを親族に任せていたから、僕よりもっとおじさんの言うことを聞く人はいくらでもいたはずだ。それでもおじさんは都内を見渡せるビルの57階にあるおじさんの社長室に僕を呼びつけ、僕は大学の講義の帰りにジーンズと化学式がプリントされたTシャツを着てそこにやってきた。
「探して欲しいのはおじいちゃんの兄弟の末っ子の息子、つまりおじさんの従兄弟ということでいいんですよね?」
 僕にはおじさんの頼まれごとを聞く義理はない。ただ大学に受かったときに一般的な金額からは少々逸脱した合格祝いをもらっていた。それはあくまで合格祝いだった訳だが、実際に大学の学費のほとんどはそこから出ているし、おじさんの頼み事を一つくらい聞いてもいいような気がしたのだ。たぶん、気持ちの問題として。
「そうだ。従兄弟になる。もうずいぶん会っていない」
「おじさんの会社とは関係ない仕事をして生きているということですか?」
「そうだな。おまえの父親と同じく、わざわざ違う道を選んだ」
 僕は肩をすくめる。答えようがない。父は一族の中で、今日まで知らなかったそのおじさんの従兄弟を除けば、唯一おじさんの会社とは関係なく生きて、そして死んだ。あくまで一人として、コンテェルンのトップであるおじさんの力を借りずに生きたが、それは自由選択の上の結果なのか、あるいは結局のところそれを選ばないということが前提にあり自由な選択制は損なわれていたのか、僕には分かりようがない。
「おまえはどうするんだ?」
 おじさんが僕の青い目を覗き込んで聞いた。意味を捉えかねて僕はまた肩をすくめた。おじさんが「国籍のことだ」と敢えて付け加えた。僕はとりあえず「あと一年はゆっくり考えますよ」と答えを先送りにしたが、実際に残っているのは十ヶ月と二週間しかなかった。

 おじさんの従兄弟である清春さんの居場所はすぐに見つかった。都内だし大学からもそう遠くはない。もちろんおじさんの情報網をしてこの程度のことが分からなかったとは考えにくい。とすれば僕が実際に清春さんに会いにいくというのがおじさんからの依頼に含まれたデフォルトのオプションなのだろう。
 僕はゲート前で五百円で入場券を買い、それから園内地図を見ながらおじさんの研究室を目指した。そういう意味では清春さんの居場所は極めて特殊と言えるかもしれない。植物園で研究員として働き、ある程度そこの管理も任される代わりに園内の宿舎に住んでいるとのことだった。たぶん話を通せば無料で入れたのかもしれないが、僕はそうはしなかった。その代わりにゆっくり時間をかけて園内を見て回ってから研究室にたどり着いた。
 清春さんは、ある意味ではやはり変わった人物のように思えた。ドアをノックすると招き入れられたので中に入ると、そこには様々な青い花の鉢植が部屋の至る所に置かれていた。ほっそりとし白い白衣をまとった清春さんとおぼしき人物は青に囲まれた部屋の中においてまるで自ら白色光を出しているかに見えた。
「そういえば、おじさんの息子の一人に外国人と結婚したのがいるという話をずいぶん前に聞いたと思うけど、彼は元気なのかな?」
 清春さんは上手く言葉を見つけられないでいる僕の代わりに話を進める。
「父は死んでしまいました」
「そうだったか。では君は誰に僕のことを聞いてここまで来たんだい?」
 僕はおじさんに三に頼まれてここまできた理由をかいつまんで説明した。しかしおじさんが僕に清春さんを捜させた確固たる理由は見当たらなかった。
「君のおじさんは、僕にどうすることを求めているのだろう?」
 僕は答えられずにいた。清春さんを捜す、という願いに対しては既に実現されていた。ならばその先は僕の知ったことではないのかもしれない。
「でも君は自分が何を求めているか分からない」
 会話は僕の意思が介入しないままに進んでいく。気が付けば部屋の空気は僕にはあまり馴染みのないそれになっていて、僕は立ち尽くしたまま動けなくなっている。清春さんがその青い空気の中を泳いで僕のそばに来て目を覗き込む。
「すごく特殊な目をしている。混血の目だから珍しいという意味ではないよ。君の目が珍しいということだ」
 僕はゆっくり促されて部屋の真ん中の椅子に座るが、それは半ばコントロールされている。
「まだ小さいときの話だ。僕は正体不明の病気で立ち上がれなくなったことがある。立ち上がると極度の目眩に襲われ立っていられなくなるのだ。父はおじさんの会社で使われていて忙しかった。母は、母自身が一種の病気だった。そのときおじさん、つまり君のおじいさんで、いま君のおじさんが継いでいる会社の経営者は僕に退屈しないようにとプレゼントをくれた」
 プレゼント? 音にならない声で聞き返す。
「そうプレゼントだ。一万ピースのジグソーパズル。絵柄は海。ただ青い、そのくせ波の合間にあらゆる青を含んだ海。それを一万ピースだ。君は1万ピースをやったことがあるかい?」
 ない、と応える。千ピースならばやったことはあるが二度とやろうとは思わない。
「1万ピースの青いピースは実際なかなかのものだ。僕はそれを組み上げる間に青というものがどういうものなのかを知った」
 清春さんはそう言って青白い花をつけたバラの鉢植えを手に取った。
「だからいまも僕は主に青い花を作ることで生きている。このバラはブルーヘブンというバラを僕が改良してより青に近づけたものだ。でもまだ本当の意味で青と呼ぶにはほど遠い。青いバラは一つの現実不能と思われる難関の象徴だ。そこにあるのは完全な青ではない青でしかない」
 そして。と清春さんが言い、僕が音にならない声で言う。
「君の目も本当の意味では青くなりきっていない。僕はそれを美しいと思う。しかしそれを今のまま保つことは出来ない。ブルーヘブンがかつては青いバラの代表だったものがいつまでもそうではいられないように」
 僕は、このまま留まることは出来ない。
「君はこのまま留まることは出来ない。君のおじさんは君に何かを求めるかもしれない。あるいは君が僕をその君のおじさん、つまるところ僕の従兄弟の前に突き出せば彼は満足するのかもしれない。彼が僕のおじさんの会社を踏襲しているのであれば分からない話ではない。彼らはそういう人種なのだ。だとして君はどうする?」
 僕はどうする? そうだ、僕は選ばなければならない。それはもう、いずれなどという話ではない。
 部屋にいつの間にか夕日が差し込んでいる。強い日の光を嫌がる研究室にしては珍しい。夕日は、そのものはオレンジ色だが部屋の中の青をいっそう際立たせる。
「結局のところ、君は何かを選ぶ段階で既に制限させられているという事実を認識しなければいけない。君がその青い目を持った時点で」
 僕は精一杯の力を使って肩をすくめてみせる。それがいま僕がその部屋から抜け出すために出来る唯一のことだった。

 植物園から出て駅までの道すがら携帯電話でおじさんに電話をかける。
「それっぽい人がいるというので行ってみたけど、見付かりませんでしたよ」
 僕は精一杯の力を使って声に肩をすくめる仕草をのせた。おじさんが「やれやれ」と返事をし、僕は電話を切った後で夕暮れの長い影を眺めながら本当に肩をすくめた。







  エントリ10 深夜、雨のふたり 空人


○作者附記:この作品には性的な表現が含まれています。性的な表現に嫌悪感を抱く方は、閲覧をご遠慮ください。

「今日はどうもありがとうございました」
 典子はマンションのドアの外でそう言うと軽く頭を下げた。
「いえいえ、そんな。お役に立てたかどうか……。こちらこそケーキまでご馳走になっちゃって。あ、雨降ってますね。クルマまでお送りしますよ」
 外の景色と玄関に立てかけてあった傘を交互に見ながら、靴を履く和史。そしてマンションのドアを後ろ手に閉めると、水色の傘をパッと開いた。

 典子は悩んでいた。付き合いだして2年ほどになる彼との関係がうまくいかなくなり、以前の会社で同僚だった和史にその話を打ち明けにきていたのだ。それは今回が初めてではない。いままで何か問題が起こると典子は和史の元をたびたび訪れていた。初めのうちこそ、その問題解決のために多くの時間を費やしたが、会う機会を重ねるたびにその相談事の時間は減り、世間話に花を咲かせるようになった。和史も以前、同じような恋愛の悩みを典子に相談していたことから、その恩を感じていたのは確かだった。しかし、いまは典子と話す時間が楽しく、知らず知らずのうちに歓談が深夜になることも珍しくなかった。
 今夜もそんな夜だった。つい先ほどから降り出した雨で、埃っぽい匂いがあたり一面を満たしていた。傘の中の2人は同じリズムで階段を下り、ときどき触れ合う肩に思わず無言になってしまう。雨足は強く、耳障りな音がビニールの傘を打ち続ける。ちょうど階段の下に来たとき、典子は歩みを止めた。
「どうしたの?」
 和史はそうたずねるが、典子は無言のまま。そして一歩、和史のほうに左足を踏み出すとささやくような声でゆっくりと話し出した。
「わたし、何かね。こう胸の中に穴が空いているような気がして。いつもいつも和史さんに相談して、そのときはすごく満たされたような気分になるんだけど、帰って独りになると、どうしようもなく虚しい気持ちになっちゃって」
 語尾はまるで自嘲するかのように揺れた。和史はいったいどんな言葉を返せばいいのか、考えあぐねている。
「和史さんにはいつも申し訳ないな、って思ってる。こんなわたしの話、いつも聞かされて楽しくないわよね」
「いや、それは違うよ。僕は篠原さんが好きだし、すこしでも力になれればって思ってる。僕はあのとき、相談に乗ってもらってすごく心強かった。だから……ん」
 突然、唇に感じたやわらかい感触に、和史は戸惑い、思わす後ずさった。いま、この瞬間に起こっている出来事がしばらく理解できなかった。腰に手を回し、典子の唇は和史のそれと一体になることを望むように強い。和史は雨の音がどんどんと遠ざかっていくように感じた。あたたかく甘い沼の中に沈んでいくような。
 胸の鼓動が高鳴り、そのあまりにも大きく打つ心臓を気づかれやしないか、と思ったとき、典子は図ったようにその唇を離した。
「あの人のことは、いまも好き。でも、それと同じくらい和史さんのことが気になりだしてる。これはいままでのお礼、です」
 すこしはにかみながら、つぶやく典子。そんな姿を見た和史は、どうしようもないほど抑えきれない力がこみ上げてくるのを感じた。そして和史の両腕は典子の細い腰へ伸び、いつの間にか力強く引き寄せていた。
 舌をからませ、荒い息づかいで、まるで唇のこすれる音があたりに聞こえてしまうような深いキス。雨の音とは違う湿り気を帯びた水音がひそかに響いた。和史はそんな行為が続くうちに、体の一部へ熱い血液が集まり出していることに気づき、慌てて腰を引く。
「和史さんって、感じやすいんですね」
 典子はすこし口角を上げて言うと、ジーンズの上から和史の場所をゆっくりとなで上げた。「あっ」と短い声をあげる。「し、篠原さん」。
「だって、ここ、苦しそう」
 典子はそんな和史の抵抗を気にするどころか、さらに強く手のひらを押し付けた。和史は苦しくも甘い感触を受け入れようとするが、足は後退を始める。体の力が抜け、傘が手から滑り落ちる。後退を始めた和史に歩み寄るようにして、典子の体が擦り寄ったとき、背中に冷たく硬い壁が当たった。
「じゃあ、これが2つめのお礼ね」
 典子の指はジッパーを捕らえ、ゆっくりと下げると、おもむろに自身を取り出す。あらわになった敏感な部分が、そのひやりとした外気と触れる指先のやわらかさに大きく反応する。和史は背中を壁につけたまま、さらに高鳴る鼓動といままで経験をしたことのない高揚感に支配されていた。それでも理性はこの状況を全速力で理解しようと回転を始めている。
「篠原さん、ダメだって。人が来たら……」
「だいじょうぶ。こんな遅くだもん」
 典子は和史の言葉をさえぎるように言った。前後に揺り動かされる指は、あくまでもゆっくりとやわらかく。
「すごく、硬い……。感じてくれてるのね。うれしい」
 典子はそう言い終わらないうちに和史の熱を帯びたものを口に含んだ。ねっとりとしたあたたかい感触は一気に広がり、和史のかよわい抵抗はむなしくも敗れ去った。まるでやわらかなフランネルに包み込まれているような心地よさは、体の芯がしびれてくるようだった。典子はその先端を深く飲み込むと、ゆっくりと大きく前後に動かした。熱い典子の口の中とそこから出された和史自身が、交互に現れ、消えていく。目の前にひざまずく典子の揺れる髪。立ち上る生温かい香り。そんな光景を和史は朦朧とした意識で、ただ見つめるほかなかった。

 いったいこんな時間がどれくらい続いただろう。和史の自然に伸びた手は典子の耳を弄び、もう片方の手はうなじをなぞっていた。その動きに反応するように、ときおり「あっ、ああ」と短い声をあげる典子。口元からはていねいに嘗めあげるぴちゃぴちゃという淫靡な湿った音が、周囲の雨音と重なって消えていく。外灯のおぼろげな明かりに照らされた2人は、誰もいないマンションの階段の下で背徳の時間をむさぼっていた。

「んぐ……、はぁ。こんなに硬いの、はじめて」
 典子は口の中から和史自身を取り出すと、今度はやわらかく握った右手で前後に激しく動かし始めた。
「あ、そ、そんなにしたらっ」
 和史は下から潤んだ目で見つめる典子に視線を重ね、そう訴えた。
「こう? こう? もっと激しく?」
 典子は上目づかいでそうたずねる。
「ああ、篠原さん、ダメだよ」
 じょじょに開かれた典子の脚と、手の動きに合わせて揺れる胸元を見ながら、和史は苦しそうにつぶやく。
「いっていいのよ。わたしの口の中でいって」
 荒い吐息に混ざるように典子はそう言うと、再び硬いものを口に含み、先ほどよりもさらに速い速度で前後にゆらしはじめた。じゅぶじゅぶと鳴る音と「ん、ん、んっ」と声にならない声を発する典子。その瞬間、和史の体がビクッと跳ね、脳天に突き上げる律動が走った。典子もその動きにあわせて「うっ」と短いうめき声をあげると、その後、小さく喉を鳴らしはじめた。体の奥からしぼりだすように数回の律動を終えると、和史の下半身はその役目を終えたかのように力をなくした。

 マンションの前の道を1台のクルマが通り抜けた。鋭利な水しぶきの音がだんだんと遠ざかるのを、和史は息を整えながらぼんやりと薄れていく意識のなかで聞いていた。雨はまだおさまる気配もなく、その冷たい雫を地面にばらまいている。典子は口元に手をやるとゆっくりと立ち上がり、もう一度、和史の腰に腕をまわした。ふわりと、包み込むように。