第54回3000字小説バトル

エントリ 作品 作者 文字数
1幸せの種伊勢 湊3000
2(作者の希望により掲載を終了いたしました)  
3時間泥棒中川きよみ3000
4日常業務ごんぱち3000
5ある偶然に吉備国王2980
6『ナイトメアシンドローム』橘内 潤2950
7大蛇捕獲のぼりん2537
8蘭、乱、runダイスケ2804
9剛柔流〜虎の巻〜小笠原寿夫3000


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    エントリ1 幸せの種 伊勢 湊


 日曜日の朝、少し早く起きて彼女と電車に乗った。一緒に住み始めてからしばらくたつ。日々は平穏で、全ては垰やかに流れていた。だから彼女がインターネットで都内の公園でフリーマーケットをやっているのを見つけて次の日曜日に行こうと言ったら、僕にはそれを断る理由はない。それがかつて少し奇妙な体験をした公園だったとしても、説明できないことのために流れに澱みを作れるはずもなかった。
 フリーマーケットに来るのは久しぶりだった。彼女には来たことがあることは言っていない。公園に来たことがある話だけじゃなくてその頃の話を僕はほとんどしていない。あれは暗くて冷たい季節だった。僕にあるものはほとんどなかった。金が消え、恋人がいなくなり、友達が死んだ。時間が過ぎて振り返ってみればいい思い出になっていたり、飲み屋で苦労自慢のネタに使えるような明るい話にはなりえなかった。あまり思い出したくない季節だ。そんな季節から抜け出せたのは奇妙な日曜日、この公園のフリーマーケットでの奇妙な偶然からだった。
 それは古くなったカレンダーばかりが並べられた小さな区画だった。山高帽をかぶった小柄な男が小さな折りたたみ椅子に座っていた。行き場がなく、金もない僕はそのフリーマーケットで何かを見るともなく見て歩いているときに僕はその男に呼び止められた。怒鳴っている訳ではないけれど、驚くほどの大声で。でも反射的に身を固めて声の方を振り向いたのは僕だけだった。周りの誰もはその声に気が付いてすらいないようだった。いやたぶん、実際に気が付いていないのだろう。男はちらりと僕を見てから話しかけた。不思議なことに声は目の前にいる男の口からではなく僕の耳元で聞こえた。僕はその声から耳を塞ぐことは出来なかった。
「土壌は悪くないんだけどな。残念だけど完全に根が枯れちゃってるよ。アンタ、新しい種を買わないかい? 幸せの種を」
 ポケットの中をまさぐると硬貨が三枚だけあった。その二枚が百円玉だった。

 彼女は人混みのマーケットを精力的に見て回っていた。陶器の茶器のセットの掘り出し物を探すという。僕はその後ろを人にぶつかりながら付いて行く。あの頃に比べてだいぶ太ったのか人混みが少し辛い。でもそれは平和な日曜日の風景だった。朝の嫌な予感を忘れていまいそうな素敵な時間だった。でも小さな角を曲がってそれは逃れられないことだと知った。予感していたことではあるけれど。
「久しぶりだね。待っていたよ。お代を払いにきてくれたんだね?」
 耳元で声が聞こえて、僕は山高帽のカレンダー屋の男の方に歩いて行った。たぶん今日このフリーマーケットに来ることを拒んだところで逃れられなかった気もする。だから素直に男の前に立った。
「さあ、どうやって払えばいい?」
 いつの間にか彼女が視界から消えていた。

「どうだいその後は?」
 山高帽の男が帽子のつばから目をのぞかせる。僕は肩をすくめる。
「幸せだよ。もうすぐ結婚もする」
 幸せが何かと聞かれれば答えられないかもしれないけど自分がそうであることは分かる。
「じゃあお代はいただかないとね」
「君のくれた見えない種のせいかどうかはいまいち確証はないけどね」
 でもその奇妙な空気から僕はその男がくれた種が自分の人生に何かしらの影響を与えたことは分かっている。僕はそれを失うことがやはり怖い。だからこの男の言葉を聞かないわけにはいかない。
「前に言ったと思うけど、お代はお金じゃない別のもので払ってもらう。物を買うのにはお金。幸せを買うにはその反対の力で払ってもらう」
「反対? 不幸がそれだっていうなら前にならだいぶあったけど、いまは持ち合わせがないよ」
 山高帽の男の口元が小さく笑う。
「不幸そのものなんていらない。不幸が出来上がるための力が欲しい」
「不幸が出来上がるための?」
「そんなに難しいことじゃないよ。そこに不安そうな顔をした小さな女の子がいるでしょ? あの子を公園の北の出口から出て地下鉄の駅まで連れて行ってほしいんだ。お父さんとお母さんが待ってるよって」
 男が視線をやった先には水色のワンピースを着た小さな女の子が不安を隠せない様子で、でも泣き出しそうにはない強い表情でウサギのぬいぐるみを抱きかかえて辺りを見回していた。
「あの子を駅まで連れて行ったらどうなる?」
「たいしたことにはならないよ。女の子は駅員に保護されてやがて両親に会うだろうよ。少し時間はかかるかもしれないけど。君はここに戻って何もなかったように彼女と再会して家路につくさ」
 つまりは、もしそうしなければ彼女とは会えないかもしれないということなのだろう。僕はその可能性について考えた。奇妙で不可思議な力は、奇妙で不可思議だからといってそこにあって手の届く物を奪っていけるのだろうか? あるいは僕はその奇妙な何かに飲み込まれたままで、僕の手はあの小さな女の子の人生になにをもたらすのだろうか? 空を見上げると太陽が眩しい。その反対で小さな女の子にとっての暗い場所、たとえば地下鉄の事務室もやはり存在する。僕がその手を引いていけば。
「さあ、君に選択肢はないよ。君は買い物をしたんだからね。この、僕から」
 買い物をした? そうかもしれない。でも実際に僕はなにを買ったのだろう? それはなにか代価を払うべきものなのだろうか。不安に苛まれて彼女の姿を探した。でも見当たらなかった。僕は、女の子の方に歩き出した。さあ、支払いのときだ。耳元で山高帽の男の声がした。

 女の子に声をかけた。この女の子をちょっと地下鉄まで連れていく。それだけだ。それで僕は何も失わずにすむ。大丈夫かい? 僕は女の子の手を引こうとした。女の子はその手を固く握りしめていた。僕はそれをゆっくりと開いてみる。そこには2枚の百円玉と一枚の十円玉があった。女の子はお金を持っていた。この先へは進めない。女の子を一人地下鉄においてくること。それは決定的な何かを失わせることになる。
 僕はその手を引く代わりに、ちょっとびっくりさせたかもしれないけど、女の子を肩車した。特別に背が高い訳ではないけれどこうすれば遠くまで見渡せるだろう。そして僕たちは公園の南に向かって歩き出した。おまえ許されると思っているのか? 耳元で山高帽の男の声がした。許されると思っているのか? 大きく完璧な輪を小さな歪んだ輪で乱そうとすることこそ許されてはいけないのだ。ないものをあるものみたいに扱うんじゃない。僕は山高帽の男の耳元にだけ声を送った。女の子には気付かれてもいない。大丈夫、僕は、僕たちは何も失いはしない。なにかを失うにしてもこういうふうに失ってはいけないのだ。
 少しして女の子が人混みの向こうに手を振った。心配そうな夫婦が駆け寄ってきた。なぜか彼女が一緒だった。
「どうしてこの子のご両親と一緒なの?」
「知らないわよ。小さな女の子見ませんでしたかって聞かれて……。それよりあなたどこ行ってたのよ」
 僕は女の子を降ろして肩をすくめた。牧歌的な日曜日の日差しの下で、本当は安心して声を出すことが出来ないでいた。

 そのあと彼女はフリーマーケットで萩焼の掘り出し物を見つけ、僕は懐かしい漫画本の全巻セットを三百円で買った。同じ角に、もう山高帽の男の姿はなかった。この時間がいつまでも続けばいいと、家路へ向かういつもより少し空いた電車に乗った。







  エントリ3 時間泥棒 中川きよみ


 ――ここに至るまでの私の、どの一瞬さえでも、失ってしまったら、私は今の私ではなくなってしまうだろう。

 「科学実験に女優を使いたいだなんて、しかもお堅い国立大学の研究所だってのに、どこもかしこも商業主義だねぇ」
 マネージャーの久木はくわえ煙草でハンドルを握りながら、薄く嗤う。美佐は後部座席でシートに身体を沈ませたまま、眠ったふりをして相槌を打たない。
 時間科学研究所助教授 松岡忠雄。美佐はその名前を閉じた眼の奥で反芻する。事務所を通して正式な被験者のオファーがあった時、美佐は他のテレビ局の仕事と同様に単純に同意を示した。これまでの白井美佐は、映画や舞台の仕事以外はスケジュールが空いていれば特にこだわりを示したことがなかったからだ。
 事務所はテレビ局のドキュメンタリー番組をタイアップさせることを条件に、松岡助教授からの依頼を受けた。次作の科学捜査官役のテレビドラマに向けて、娼婦役とホステス役とでやや定着してしまった白井美佐のイメージを一新させたかったようだ。「きっとアタマのいい先生のことだから、こっちがテレビ局を引き連れて行くことを見越している。女優を使って研究内容をメディアに出すなんて巧いことを考えたものだ」と社長は松岡を計算高いセンセイと評価していたが、美佐は特に根拠もなく「そうではない」と感じていた。

 「白井さん、今回はご協力頂けるとのことで、本当にありがとうございます」
 松岡は、美佐を本名の「木田」ではなく「白井」さんと呼び、慇懃に頭を下げた。美佐はスタッフの持つカメラを意識しながら番組用に「初めまして、よろしくお願い致します」と返す。
 今年40歳になる筈の松岡は、白衣を着込んでいてもむさ苦しく年齢不詳で、マンガに出てくる科学者を実写したような浮世離れした人物だったので、美佐は内心笑ってしまう。ステロタイプに弱いディレクターの窪田さんが喜ぶだろう。しかもこの松岡が研究しているのがタイムマシンだと言うのだから。
「タイムマシンと言っても、ドラエモンのようにそれに乗って未来や過去へ行ける訳ではありません。僕が開発しているのは、消えて他の時間へ旅することなどない、ただのイスです。
 タイムマシンを使うことができるのは現在生きている生物で、血液や脳波などを手掛かりに時間軸を過去へ遡り、一部を固定して摘出してくるのです。つまり、未来から過去を切り取ってくるということです。」
 松岡はゴソゴソと机の上を引っかき回す。
「例えば……そう、これは3週間ほど前のリクガメの過去です」
 美佐には、その密封されたガラス瓶の中に入っているものがうす茶色のドロップにしか見えなかった。
「被験生物が死んでしまうと過去も消えてなくなるので、寿命が長い生物を対象にしないとなかなか大変なんですよ。当初は、実験用マウスを使っていたんですが、連中はライフサイクルが短いから不都合が多くて」
 科学者は自分の研究について話しながら、カメラがあることなど忘れて一人でエキサイトする。
「時間変化には治癒作用が見られることを、動物実験で確かめています。未来に決定的な影響を持つ瞬間でなければ固定させて抜き取っても、自動的に前後の時間が欠落の傷を補う仕組みです。けれど、それはあくまでも表面的な観察であって、記憶の上ではどうなっているのか分かっていません。今回はそれを確認するための実験です。
 未来に大きな影響を持たない、ごく普通の半日分を抜き取ります。白井さんは40歳ですからこれまでの全人生は35万時間以上、抜き取りの12時間は全体の0.003%程度なので、安全性に問題はありません。
 もともと、記憶にすら残っていないような平凡な半日を抜き取りますが、それによって何か記憶に変化があったかどうか、口頭で伝えていただく実験です。よろしいでしょうか」

 タイムマシンは、コードだらけのあたかも大きなマッサージチェアだった。緊張した表情で美佐がイスに腰掛けると、両手両足をエアクッションのような装置が固定し、頭部には鼻先まで覆うドーム状のものが下りてきた。
「白井さん、大丈夫ですか? 私の声は聞こえていますか?」
 耳元のスピーカーから、松岡の声が聞こえている。
「ええ」
 美佐は眼を閉じる。
「聞こえています」

 囃し立てる子供達の声。ずぶ濡れの美佐が、散々むせて苦しいながらようやく息を整える。
「マツオカー、木田とケッコンしろよー!」
「飛び込んじゃってさー、カッコよかったぞー!」
「何言ってやがんだ! コノヤロー!」
 やはりずぶ濡れの小さな男の子が、真っ赤な顔で怒って同級生を追いかける。
「ケッコンしろよー!」
「バカッ! オレが木田みたいな大女とケッコンするワケがないだろー! 木田なんか、大キライなんだよっ!」
 ……聞こえています
 その言葉は、私のところへ聞こえた。聞こえたことに気付いた男の子の背中が、可哀想なくらい動揺していた。
 誰かが職員室に知らせに行ったのだろう、遠くから青ざめた先生が大慌てで走ってくる。
 突然、銀白の閃光が記憶を切り裂く。

 あの日、どういうはずみでか私は普段着のままプールに落ちて、マツオカ君に助けられた。マツオカ君のことがずっと好きだったのに、それ以降避けるようになってしまったような気がする。あの子の言葉に傷ついたからかもしれない。でも、早熟な私は確かにそれが照れ隠しの言葉だったと分かっていた。飛び込んで助けてくれた、他の子供達が囃すほどに明確な、言葉にならない男の子の想いも、私は確かに聞いたのに。

 「マツオカ君……消さないで」
 美佐のつぶやきを、マイクは拾わなかったのだろうか。それとも、息の音になる前に消えてなくなってしまったのだろうか。
「大丈夫ですか? 記憶を固定させました。一時的に鮮明になっているかと思いますが、これから抜き取り作業に入ります」
 それは光線に感じられるが、金属的な嫌なチカラが美佐からえぐり取り持ち去る。
 どれほど些細な過去でも、永久に取り去ることはあまりにも残酷な痛みだった。小石を投げた後の水面のように、美佐の内部にはまんべんなくひずみが広がって、やがて消えた。
 こうなることは、本能的に分かっていた。それでも引き受けたのだ。
 美佐は、この仕事の依頼を聞いてすぐに松岡のことを思い出した。けれど引き受けたのは初恋の人に会いたいという気持ちからではなかった。もちろん他の仕事ほど考えることなく受けたのではないが、取り立てて松岡に会いたいとも思っていなかった。
 ただ、何となく、引き受けるしかないと感じた。

 美佐のドロップはリクガメのものよりも大きな、淡いピンクだった。神経質な光を瞬かせていたが、急速に光量は落ちていた。
「私の人生から、切り取ってしまったんですね」
 光が消えれば、記憶の名残すらも消え失せるのだろう。なにか、少し大切なもの、という名残。
 美佐と松岡は光を受けながら向かい合っていた。
「貴女の記憶から消し去りたいとずっと願っていた小さな痛みでした……喪失感を?」
「ええ」
「……どうして、被験者になっていただけたのでしょうか?」

 ――私が今の私になるために歩んできた一本道。それは紆余曲折を経てもなお一本道だ。その道の延長線上にある実験の依頼を、どうして避けることができただろう。

 今日、この時間の、穏やかな夕暮れの光が2人の横顔を照らし、儚く消えて行く。








  エントリ4 日常業務 ごんぱち


「はい、ポプラケアセンター、中川です」
 いつも通り、明るく元気に、早口にはならぬように。
「ああ田原さん、いつもお世話になっておりま――す?」
 ゆっくりと、声のトーンを下げていく。
「ええ、そうですか……」
 これ以上下げると、聞こえないので、この辺で。
「はい、分かりました。ご連絡ありがとうございます――ご利用ありがとうございました」
 語尾をいい具合にフェードアウトするぐらい濁しながら、電話を切った。
「所長」
 デスクワーク中の橋元所長に声をかける。
「田原さんが?」
「ええ。亡くなったそうです」
「そっか」
 私はフェイスシートのファイルを取り、ページをめくる。それから、田原ハツの備考欄に赤字で「六月五日死去」と書き加える。
 それから受話器を取り、外線をかける。
『はい、南里ケア・サービスです』
「お世話になっております、ポプラケアセンターの高山です。ケアマネージャーの溝口さんは――」
『お世話様。あたしですよ』
「さっき電話ありまして、田原ハツさん、亡くなったそうです」
『ああ、聞きました聞きました。寝たきりになってから長かったですねー』
「ですね。ちょっとよく分からなかったんですけど、直接の原因はどうなるんですか?」
『あのダンナさん言ってることよく分からないからね。えーと、ドクターの診断書によると、肺炎みたいですよ』
「やっぱり多いですね」
『誤嚥とかが原因になることもありますからねー。あのダンナ、何度食事介助方法を教えても無茶苦茶口に突っ込んでたし』
「田原さん呑み込み悪かったですしね」
『でもまあ、ADL相当落ちてましたから、何でも原因になったとは思いますよー』
「確かに。それじゃ、そういう事で――」
『あ、そうだ、頂いた電話ですみませんけど、近藤さんの件ね――』

 ケアマネージャーとの電話を終えてから、私はフロッピーを古いバイオに突っ込み、業務日誌ファイルを起動させる。
 もったりとハードディスクを動かしながら、ワードが立ち上がる。
 いい加減新しいマシン買ってくれないかなぁ。うちの事業所はデイサービスの中では地域一番って噂だし、たかだか十万二十万の予算ぐらい出してくれてもバチは当たらないと思うんだけど。
 ええと、業務日誌に何書くんだっけ……ああ、そうか。
 利用者欄に。
『近藤トシエ、ケアマネより増回希望』
 もう一つ。
『田原ハツ、死去。ケアマネ報告済み』
 えーと、後は、そうか、現場――。
 付箋に『田原ハツ、六月五日死去。六月六日』と、書いて日報ファイルに貼っておいて、これで明日の日報には掲載されるぞ、と。
 そうそう、忘れるところだった。
 後ろの棚に並んだ契約書ファイルのうち「た」行のファイルを取って開く。
 広辞苑ぐらいのファイルにぎっしり詰まった契約書を外し、利用終了者ファイルに移す。
「所長」
「なんです?」
「終了者ファイルって、五年保管でしたっけ」
「そうですよ」
 利用終了者ファイルに、契約書が八組。これで、九組目。
「今年はちょっとペース早いですね」
「春先に、天気が安定しなかったからね」

 ファイルを棚に戻した後、高齢課のスタッフルームに置いてある、各人用のケースファイルを開く。
 記入用紙の間に、いくつも手紙が挟まっている。
 形の崩れた文字で書かれた文面。
『――妻の話し相手をきちんとしているのですか』
 してるっつーの。
『――紙オムツを勝手に取り替えて金を取るなんて、ひどい施設ですね』
 濡れた紙オムツを履かせっぱなしなんて、ひどい介護者ですね。
『――風呂が週二回ってどういう事ですか、まともな人間が週二回の入浴で足りますか』
 定員です。他の入浴サービスも勧めたでしょうが。
『――風邪をひいたのは、そちらの施設での事ですから、病院の領収書を入れます』
 朝から熱がありました。
『――胃薬ぐらい分けてくれても良いでしょう。そういう四角四面な殿様商売をやっているから――』
 薬の処方は、医師しか出来ません。
『――行きたくないと言っていても、連れて行って欲しい。縛ってもいいです』
 あんた、拘束嬉しい趣味?
『――布団がそのままでした。部屋が散らかっていたら、少しぐらい片付けるのが常識でしょう』
 送迎職員に寝室まで迎えに来させる事は、非常識でないと?
『――通帳がなくなりました。訴えます』
 どうぞ。あんたの敗訴は確定。
『――通帳が見つかりました。私の見落としという事にしておきます』
 百パーあんたの見落としだよ。
『――うちで朝食はとっていないので、朝食を用意して下さい』
 物理的に存在しません。
『――病院まで近いんですから、送迎してくれても良いでしょう』
 その途中で事故が起きたら、補償してくれますか?
『――送迎職員の眼付きが悪い。あんな人間を使っている施設の気が知れない』
 もっと眼付きの悪い人がいるから、鏡をごらんなさい。
『――歳暮も年賀状も出さないとは、社会人同士の付き合いとして非常識だ』
 社会人と法人の付き合いとしては常識です。
『――食事を出さないで良いから、食材費と提供加算とかいうのをなくせ』
 自分で弁当を用意して、食事介護もするならどうぞ。
『――障害者だと利用料がかからないと聞いた。妻は寝たきりで障害者同然なのだから、そっちの扱いにするべきだ』
 毎週のように連絡帳に入れられていた手紙。
 どんなに説明しても納得せず、堂々巡りだった。
 よほど奥さんが大事だったのだろう。
 神の愛は全てに平等に与えられるかも知れないが、人の愛は偏り、誰かを強く愛すれば愛するほど、それ以外を拒絶し、傷つける。
 なんてね。
 私はふっと笑う。
 私は。
 喜んでいる。
 田原ハツが死んだ事を喜んでいる。
 恨みがあった訳でもないのに。
 ただ、聞き分けのないキーパーソンがいるというだけで。
 とてもほっとして、喜んで、ちょいと笑顔になっている。
 人の死を、なんたる事。
 命は二度と戻らないのに。
 命は大事にしましょう、とは、学校と学校以外で唯一合致する金科玉条なのに。
 いつの間にか、私は人の死を何とも思わない人間になっていたのか。喋った事もあり、顔も知っている人間の死を、悲しむ事もなく、ただ厄介ごとが片付いたと、喜んでいるだけなのか。
 なんだこれは、人の心がなくなっているのか。
「ふふ、なんてね」
 下らない。
 まっこと下らない。
 一年に二〇人も出る死人に、いちいち感情移入なんてしてられないし。
 する気にもならない。
 所詮他人。
 友人であれば涙も浮かべよう。
 肉親であれば声を上げて泣きもしよう。
 けれど、他人。
 他人の大往生。
 新聞の社会面の、どこか遠い町の殺人事件を見るぐらい、ニュートラルだ。
 むしろ今、かの死者の顔を思い浮かべる、それだけでも随分大サービスだ。
 私はケースファイルの、状況記入欄に、ボールペンで「六月五日死去」と殴り書く。
 内線が鳴った。
「はい? 高齢スタッフルームですけど」
『ああ、野際さんの娘さんから、何か苦情あるみたいです、また』
「はいはい」
 野際家族ねぇ……。
 三日と空けず文句苦情文句苦情。
 ボタンがはまってなかった、ズボンがちょっと上がってなかった、連絡帳のクリップが外れてた。
 いやいや、これもお仕事お仕事。
 ひとまず一つ深呼吸。
 メモ用意して、ペン持って、外線ボタンをぎゅっと押す。
「はい、ポプラケアセンター、中川です」
 いつも通り、明るく元気に、早口にはならぬように。







  エントリ5 ある偶然に 吉備国王


 男女雇用均等法で求職者の男女差別が撤廃され、どんな仕事でも原則的には同じように応募できた。しかし、実際は面接や試験の段階で理由付けしては選別されていた。
 求人情報誌にも性別の項目は一切無かった。ただし、職業別に分類された会社名、募集人数、年齢制限の項目は依然として残っていた。
 私は、就職情報誌の赤い印の入った欄に目が止まって見つめた。そこには、貨物輸送運転手募集と大きな活字で書かれ、何故か、応募してみたい感情が沸き上がっていた。
 この歳で一般の労働者の行き着く先は、運転業務か清掃業務しかなく、貨物運転手なら贅沢とさえ言えた。
 私は、隣の婦人の手元を覗きながら、ある好奇心が沸き上がり、その婦人に言葉をかけた。
「お仕事は見つかりましたか。今は厳しいですね!」
 相手は此方の顔を見つめて微笑みかけた。それが、甘い体臭の香りと重なり、何とも言えない不思議な気持ちを呼び起こした。
「今は厳しいですね。お歳を召されていては大変でしょう・・・私の会社も潰れまして・・・それで此方に伺ってますの!」
 相談窓口の順番を待ちながら、名も知らぬ婦人と世間話をしていた。凡そ、三十分程が経って、私の名前が窓口で呼ばれた。
 今日の担当職員は婦人だった。言葉も態度も丁寧で、少しも役人らしくない優しい応対に気を好くして、今日は好い人に出会ったものだと喜びながら、仕事も何故か決まるだろうとさえ思えた。
「高山様ですね、お待たせしました。もう、お仕事の希望は決まりましたか?」
 私の提出した求職申告書を見つめたまま、その婦人職員は声を掛けた。そして、此方の顔を見据えたまま、鋭い視線で覗き見ていた。
 この婦人職員と接して、親切な助言と指導に好意を感じていたが、それが、昔、親しかった女のような錯覚さえ覚えていた。少し気を押さえるように、求人情報誌に掲載されていた自動車部品販売会社の名前を静かに述べた。
「日本自動車の貨物運転手を紹介して頂きたいのですが!」
 珍しく緊張気味に、一本調子に喋っていた。
「貨物運転手でも好いのですか。一トン半のトラックですが結構きつい仕事ですよ!」
 婦人職員は、此方の顔を伺う様に話し掛けた。考えてみれば、六十近い老人に出来るかと心配してか、私の身体を上から下に目線を這わせて眺めた。
「家が百姓でして、六十キロの米俵は持てるのですが!」
 と、自らを売り込んだが、婦人職員は、それでも身体を見詰め直して、書類に何やら記入した。
「大丈夫でしょう!。見たところ健康そうだし、紹介状を書いて上げますから、今日にでも面接に伺って下さい!」
 受話器に手を伸ばし、会社の都合を問い合わせながら、此方を見たり、書類に眼を落としたりしては、此方の視線をはずした。
「そうです。お歳は五十七歳です。でも、とても健康そうな方で大丈夫だと思います!」
 時々、相手の会社とのやり取りが聞こえた。其の様子をじっと見ていた。
「ちょっと済みませんが、用をたしたいので・・・」
「よろしいですよ!」
 優しい返事をして、直ぐに手元の書類に眼を落とした。どうにか面接は決まった様子に、私はほっとして、その席を離れた。
 そして、次の席で待っている婦人の前を意識して通った。その婦人は直ぐに気づき、此方を向いて見つめた。どうやら、婦人の心の中に、私が存在することを知りながら通り過ぎた。
 それから暫くして席に戻ると、その婦人は笑顔を覗かせて見つめた。私は、頭を軽く下げてお辞儀をしながら元の就職相談席に腰を下ろした。
「高山さん、お待たせしました。会社に連絡しておきました。明日の午前十時までに会社へ行って下さい!」
 と、親切に紹介された。
「受付でよろしいでしょうか?」
 何処に行けばよいのかを尋ねた。
「それは、総務課の中村様です。受付けを訪ねていけばご案内してくれます!」
 そう言って、一枚の紙を差し出した。
「是に総て記載されていますから!地図も載っていますし、それと、もう一枚の紹介状を渡しておきますから、担当の中村様にお渡し下さい!」
 と、密封をした封筒と、地図の載った用紙を差し出した。
「有難う御座いました!」
 と、席を立ってお礼を述べた。
 待合席は相変わらず大勢の求職者で溢れ、その雑踏の中に隣の席に座っていた婦人の姿を見つけて近づいていった。何故か、婦人もこちらに向かってきた。
 婦人に黙って立ち去るのも失礼かと、私は高ぶる感情を押し殺して声をかけた。
「先ほどはどうも・・・貴方のお陰で仕事先が見つかりまして、一言、お礼を述べたくて声を掛けました!」
 婦人は此方の顔を見ながら、それに応えた。その好意に親しみを感じて軽く一礼した。
「隣に居られたお方でしょう。好かったですね!」
 私は躊躇しながら経過を説明した。
「日本自動車部品です!明日面接に伺うことになりました」
「それは好かったですね。私も決まりましたの!」
「袖触れ合うのも多少の縁と申しますし、お茶でも如何ですか?」
 偶々知り合った婦人から誘われ、男冥利の嬉しさから、私は一つ返事をしていた。
「今日は別に予定もないので、ご一緒させて頂きます・・・」
 見知らぬ婦人から誘われるとは願ってもないこと。上手くいけば一線を超えて、あの美しい肉体を抱くことも出来るかもしれないと、心の中で卑しい欲望を膨らませていた。
「好かったですわ、断られるのではないかと思いながらお誘いしましたの・・・」
「如何いたしまして、私が、お誘いしようかと思っていましたから、お誘い頂いて光栄です!」
 私は素直な気持ちを伝えた。そして、婦人の顔を見つめ、美貌のマスクの内にきらめく熟女の心を悟った。
 この婦人の言葉の隅々に溢れる微妙な含みを含んだ文脈を見逃さず、私は、婦人の女心を微妙に誘導した。
 私は、婦人に好意を抱いていることを強く認識させようと、お礼の言葉を何度も繰り返した。そして、それが熟女に最も効果があることを認識していた。
「誘って下さり、本当に嬉しいです!」
 顔一杯に笑顔を作り、優しい中年紳士を自然に演じていた。婦人は照れ笑いを浮かべながら黙って聞いていた。
「貴女が見ていた求人情報誌に掲載されていましてね・・・申し込みしましたところ面接まではこぎつけました。何か、不思議な因縁を感じます!」
 と言う、私の話を婦人は黙って聞き流した。
 本当に不思議なことで、見知らぬ他人が偶然に失業し、生きるために職を求めて社会をさ迷い、挙句の果てに職安の待合室で隣の席に座り合わせるとは、ただの偶然の出来事として、取るに足らないことかもしれなかったが、二人は不思議な見えぬ糸にでも操られているような行動に走っていた。
 何が二人を引き合わせたのか、偶然な出来事を論理的に説明することは出来ないが、今、こうして話し合える間柄にまでなるとは、本人でさえ判らないことで、宇宙の力が働いた運命だろうかとさえ思った。
「偶然の出来事とは本当に不思議ですね。これもまた、一つの人生なのでしょう・・・」
 こうして、運命が二人を引き合わせたのだと強調する婦人の言葉に含まれる意味合いを覗き見たようにさえ思えた。
「幸せになりたいですわ・・・」
 と、寂しそうに呟く婦人の心の隙間に私が入り込み、熟女の心と肉体を癒やしたいだけの欲望に駆られて、必死に媚びを売るだけの男道化師に成り下がっていた。








  エントリ6 『ナイトメアシンドローム』 橘内 潤


 「悪夢を見る」という現象が世界規模の問題として表面化したのはちょうど、勃発したばかりの日朝戦争にアメリカが軍事介入すると公式発表した直前だった。
 マスコミはその現象を「ナイトメアシンドローム」と名付けた。
 ナイトメアシンドロームに罹った患者は、眠ってから数分と経たずに悪夢を見て飛び起きるようになる――たとえ、どれほど眠くて動けないほど衰弱していようとも、だ。
 そんな奇怪な現象が、年齢、性別、職業、生活習慣……一切を問わずに世界規模で蔓延したものだから、その混乱は大変なものだった。
 一九九三年にアメリカ睡眠障害国家諮問委員会がまとめた報告によれば、アメリカ国内における睡眠障害や睡眠不足を要因とする経済損失は年間五兆円を超えたとされている。その当時から二十余年を数えたいま、同委員会の中間報告によれば、ナイトメアシンドローム含む睡眠障害による経済損失は年間でゆうに十兆円を上まわるだろうと予想されている――なお、この予想にはアメリカが日朝戦争に参戦した場合を考慮に入れていない。戦争を想定にいれて試算した場合、損失が非現実的な額に達したからだった。
 これらの報告を受けるに至って、世界の主導者を僭称する者たちの清貧なまでに乏しい想像力でも、これだけは理解することができた。
 戦争などしている場合ではない、と。

 ナイトメアシンドロームの病理解明は、しかし困難を極めた。
 そもそも、「なぜ夢を見るのか?」ということは、いま現在においても解明されていない。
 PGO波と呼ばれる脳波が、視覚領や記憶領を刺激することで映像が想起される――というあたりまでは解明されていても、「じゃあ、そのPGO波はどうして起きるのか?」という点になると諸説紛々あるばかりで、そのどれもが実証の段階にまで達していなかった。
 脳機能解析学、脳神経学、脳情報分子学、大脳生理学、睡眠学、遺伝子の専門家……世界中から集められた権威たちは、脳波そのものを抑制してしまう手法を考えだした。PGO波発生のメカニズムが解明できないのなら、PGO波を強引に抑えこんでしまえ――というわけだ。その方法として考えだされたのは、PGO波発生の起点となる脳橋背側部に「抑制プラグ」と呼ばれる特殊な装置を埋め込むことだった。このプラグは、抑制系の脳内伝達物質が一定以上の比率で分泌されている状態――つまり、眠っていると推測できる状態において、PGO波と対称な波形を発生させて打ち消すというものだった。
 理論上、抑制プラグを埋め込んだ者には「夢を引き起こす脳波」が発生されないはずだった。しかし実際のところ、抑制プラグ埋設法は期待されたほどの成果をあげずじまいだった。その原因はまず第一に、プラグ埋設には極めて難しい手術が必要だったことが挙げられる。脳波を相殺するためにはプラグ固定の位置が肝心だったが、それができるほどの技術を持った脳外科医の人数は、ナイトメアシンドローム感染速度に比して圧倒的に少なかった。
 大金を積まなければ受けられない手術のうえに成功率が低いときたのでは、有効な対策であるはずがなかった。
 プラグ埋設法に代って注目を浴びたのが、無眠者と呼ばれる者たちの存在だった。
 全世界でたった四人しか確認されていない「無眠者」とは、交通事故に遭ったり大欠伸をして顎を外したりで頭部に強い衝撃を受け、突如として睡眠を必要としない身体になった者たちのことだ。
 なぜ眠らなくとも平気なのかは、これまでも研究対象として興味を集めていた。しかし、医師の倫理的観念が邪魔をして徹底的な研究がなされたことはなかった――それが、結果として無眠者四人中の三人が死亡するまでに容赦ない人体実験がなされたという事実は、当時の世界にとってナイトメアシンドロームが如何に恐怖だったかを物語っている。
 詳しくは後述するが、ナイトメアシンドロームという緩慢な危機は、人権というものの在り様をほんの少しだけ利己的に――より人間的に定義しなおす契機でもあった。

 人類世界は第二次世界大戦という危機を経て、国や文化を超えた「人権」という概念を得た。それは、国際連盟による世界人権宣言や国際人権規約として形になった。また、ナチス統制下で行われた人体実験の悪夢を戒めるヘルシンキ宣言を、世界医師会が採択している。
 次いでナイトメアシンドロームという世界的危機の経験は、「犠牲」という概念を明文化させたのだった。その際たるものが、国際人権規約とヘルシンキ宣言に「最大多数の利益になると考えることを行う」という要旨が追加されたことである。すなわち、大多数を救済するために少数が犠牲となることはやむを得ない――究極的危機に瀕して人体実験は容認される、という内容だった。
 人権法に関するこの歴史的な転換は、国際連盟によるミラノ宣言を受けての修正であるが、同宣言の採択には多くの反対や抗議があった。それら反対意見を強引に押し退けてまでミラノ宣言が採択された背景には、「ナイトメアシンドロームの最大被害国がアメリカだった」という事実が指摘されている。

 三人の無眠者をはじめとした犠牲の末、無眠者の脳内には、睡眠物質の持つ入眠作用を阻害する未知の物質が分泌されていることが判明した。この未知の物質は「無眠物質」と名付けられ、その生成メカニズム解明が急がれた――と歴史の教科書には書かれているが、これは「犠牲が厭われなかった」ことの婉曲的表現であることを忘れてはならない。
 仲間がつぎつぎに睡眠を奪われて衰弱死していくという恐怖のなか、生き残った医師たちはついに、無眠物質生成の秘密が時計遺伝子の異常にあったことを見つける。その後は異常箇所の特定、遺伝子組換え方法、電流刺激による無眠物質生成機能の活性化――等々が次々と確立されていき、人類は眠らないことでナイトメアシンドロームを克服することに成功したのである。

 睡眠の消失という生命的な大転換は、この三つを大きく変容させた。すなわち人権、経済、戦争だ。
 生活スタイルから睡眠が消えたことで、一日に十二から二十時間働きつづける労働モデルが一般化され、併せて二十四時間営業の店が爆発的に増加――総じて、経済サイクルの新陳代謝が加速されたと言える。
 また、眠らない兵士が戦争の仕方を変えないはずがなかった。経済が加速するのならば、戦争が加速するのもまた摂理だろう。
 人権については、アメリカにおいてミラノ宣言を根拠に、通称「人材リサイクル法」が制定される。これによって受刑者の人体実験転用が認められ、その研究成果として、眠らない・疲れない・逆らわない、という理想的な兵士が大量生産されることになる。
 世界世論は当然ながらアメリカを非難したが、やることといえば、アメリカに対抗するべく人材リサイクル法と同様の法律を制定して人体実験に励んだことくらいである。結局はアメリカに追従するというわけだ。
 余談ながら、人材リサイクル法制定によって世界規模で犯罪率が激減したことは、失笑を誘われずにはいられない事実である。

 人類はナイトメアシンドロームという世界的危機を乗り越えて新たなステージへと到達したが、その契機となったナイトメアシンドロームの病理については謎のままである。
○作者附記:参考
■日本睡眠学会HP【http://www.jssr.jp/】
■SLEEPer【http://contest.thinkquest.jp/tqj1999/20224/index.html】
■『脳の世界:京都大学霊長類研究所・行動発現分野』ページ内『動物は夢をみるか?』【http://www.pri.kyoto-u.ac.jp/brain/brain/102/discus_6.html】
■日本医師会HP【http://www.med.or.jp/】







  エントリ7 大蛇捕獲 のぼりん


 探検家の叔父が帰国した早速、僕は彼のジィプに同座して、夜の海岸線をドライブした。常に軽妙洒脱なふるまい。それでいながら豪胆不遜な生き方。叔父は未来まで僕の思慕する人であり、憧憬の的だった。そして僕はといえば、そんな叔父のお気に入りの甥っ子だったのである。
 久しぶりの故郷の海と満天の星の下で、叔父の機嫌は頗る晴れやかで、
「勇気と無謀との違いは、まったく紙一重だ。だが、その僅差をよく見極めていないと、あっという間に命を落としてしまう。冒険とはそういうものだ」
 と、傍らの僕に嬉しそうに話を続ける。
「僅差って、むずかしい言葉ですね」
「つまり、もし、目の見えない人が、象の尻尾だけを掴んで想像したら、象というのは蛇のような動物だと勘違いするに違いない。その勘違いは本当にわずかの違いに過ぎないって事だよ。わかるかな」
 わからない。
「でも、続けて、叔父さん」
「そうか、ではインドで捕まえた、二十メエトルもある巨大マンモスの話をしよう」 
 大好きな叔父の冒険譚。世界中の不思議話の絢爛さ。
 僕はいつもの事ながら一心不乱にそれを聞く。叔父もつい饒舌になるのだろう、だんだん話が駄法螺じみて、最後はまるで荒唐たる空想小説のようになってしまうのだが、それがまた楽しい。
 そうやって叔父は際限もなく次から次に物語をし、僕はうっとりとその世界に浸りながら、悠久のような時間が過ぎた頃だった。ジィプが岬の一番大きなカァブを曲がりきった路頭で、僕らは忽然として現実世界に引き戻されることになったのである。
 叔父が急ブレーキを踏んだために、ジィプの車体が前のめりになって、ふたりは危うくフロントガラスに頭をぶつけそうになった。
「どうしたの?」
 と、悪夢に突き落とされたような戦慄で、僕は咆哮した。叔父は押し黙ったまま、双眸を見開いて前方を凝視している。
 ジィプのライトの光の中には、ただアスフアルトの道路しか見えやしない。いや、そうではない、その道路を横たわる何物かがかすかに見て取れる。
「見てみろ、動いている」
 最初、僕は巨木が倒れているのかと思った。しかし、その巨木はずるずると一方向に動いているのである。さらに視線を凝らすと、まだらの模様が無気味に綺羅光っていた。
「蛇だな」
「蛇? でも、人間の胴回りほどもあるじゃないですか」
 叔父はジィプのライトを消して、エンジンを停止した。しばらくして目が慣れてくると、月明かりでぼんやりと前方が見えてきた。
 確かにそれは蛇のように蠕動していた。とても緩慢な動きで、山壁の雑木の中から崖下の海に向かって、道路を横断していたのだ。
「すぐに生け捕りにしよう。ちょうど麻酔銃をジィプに積んでいるんだ」
「生け捕りですって! あんなに巨大な蛇を?」
「大丈夫だよ。月の光を反射して、現物よりもずっと太く大きく見えるだけだ。殺してしまってはもったいないしね」
 と、叔父は落ち着いたものである。
「あの程度の太さなら、長さは十メートル程度のものだろう。俺は、アフリカでもっと大きな蛇を捕まえた事がある。日本にあんなに大きな蛇がいるはずはないから、きっと動物園から逃げたのだろう。もっとも、最近では外国の蛇をペットにする人も増えていて、ペットが逃げ出して巨大化した例もある。どちらにせよ、騒ぎになる前に捕まえておくほうがいい」
「でも……」
 と言っているうちに、叔父は麻酔銃を手にとって、そのままジィプから路上に飛び降りていた。彼の冒険用のジィプには、あらゆる危険に対応できる装備が整っているようだ。
 とにかく僕も慌ててその後ろに続いた。空気がひんやりと冷たい。 
「蛇には相手の体熱を敏感に感じ取って、すぐに飛び掛ってくるような凶暴な奴もいるが、こいつは違う。ボア種の蛇は巨大だが、鈍感だ。毒も持ってはいない」
「ほかに道具はいらないんですか。投げ縄とか網とか? いや、それよりも、マシンガンのように、もっと強力な武器が必要なのではないでしょうか」
「ははは、この銃を一発撃つだけでマンモスでも眠りこけてしまうよ。巨獣とは言え、眠ってしまえば可愛いもんさ」
 僕は、この叔父の勇気に舌を巻いていた。
「もっと、近づいて仕留めよう」
 だが、蛇に近づけば近づくほど、僕はその大きさに圧倒された。
 蛇腹のぬめった質感も気味が悪いが、ずるずるっと地面をこする音がさらに不気味だった。何よりも薄明かりの中、蛇の全貌が見えないことに、どうしようもない不安を感じてしまう。
 しかし、叔父は顔色一つ変えようとしない。経験がそうさせているのだろう。
「さっきも言ったはずだ。勇気と無謀はまるで別のものだと。恐れる事はないよ。俺は、巨象もライオンもこの銃で仕留めた事がある野獣捕獲のプロなのだ」
「でも……」
 が、僕はその時、奇妙な予感を感じて振り返った。
 夜を包む空気自体から、衣擦れするようにかすかな音が聞こえてきたような気がしたのだ。
 そして、はっきりと見てしまったのである。
 僕らの後ろ、ジィプのまだ先に、黒山の稜線ような巨大な影が、夜空を背景にして競りあがってくるのを……。
 それはあまりにも大きすぎる何かだった。
 背筋を冷たいものがするりと滑って落ちた。
「叔父さん、銃を撃つのは止めて!」
「何だ?」
「それ、蛇じゃないよ!」
 僕は小さな声で、やっとそれだけを叫んだ。
 叔父が僕を振り返った瞬間、その表情から先ほどまでの自信が、見る見る消えていくのがわかった。それは、目も当てられないほど残酷な変化だった。
 まるで悪魔に嬲られたような瞬間。
 僕たちはお互いの顔を見合わせ、一言もしゃべる事が出来なくなった。微動だにも出来ず、ただ石ころのようになっているしかなかった。
 それから長い時間をかけて、道路に横たわった物体が消えてなくなった時、巨大な影も岬の陰になった。
 海は油を流したように黒く光って、島嶼の影も見えず波の音も聞こえない。月は相変わらず晧晧と、岬の風景を照らしていた。
 最後は、尻尾の端きれが海面に没する音が、ぽちゃんと響き、凝然と佇む僕たちの耳に、一抹の余韻として残っているだけである。

 その後、大好きだった叔父は人が変わったようになってしまい、冒険家を辞めて、すぐに平凡な職についた。







  エントリ8 蘭、乱、run ダイスケ


 俺は蘭。高校3年生で、陸上部に所属している。種目は5000m。去年の高校生全国大会で準優勝した。そう、俺は日本で二番目に足が速い。5000m限定だけど。家族や友達はすごいすごいといってくれる。でも俺は、満足していない。俺の幼馴染がこの学校にはいる。名前は竜。小さいときから同じ学校。同じ部活。そして、こいつが去年の王者だ。俺は、足で竜に勝ったことがない。一度も。それが悔しかった。でも俺は、竜の背中を見ていると、不思議と実力以上の力が湧いてくる。記録も伸びる。不思議と安心する。俺の目標でいてくれる。

「竜、15分31秒11、蘭、15分37秒39。」
「くそ、もうちょっとなんだけどなぁ。」
「そのちょっと縮めるのに何年かかってるんだよ。」
「うるせ。」
「しかしお前ら早ええなぁ。全国トップと二番が同じ高校でしかも幼馴染とはな。日本はお終いか?あっはっはっは。」
 この人が陸上部顧問の板倉先生だ。
「さて、いよいよ地区大会も近いからな。最終仕上げだ。」
「はい。」
 陸上部は52名いるが、俺たちはだんとつで速かった。それだけ、周りの期待も大きかった。それでも俺はプレッシャーを感じたことなんてなかった。

地区大会当日。
「さて、みんな昨日はしっかり寝たかー。いよいよ地区大会だ。お前らの力を見せ付けてやれ。」
「はい!」
「よし、行って来い!」
「竜、今日は譲らない。(そのために人一倍練習してきたんだ。)」
「ああ、俺もだ。」
 俺は知っていた。みんな帰った後、秘密の練習をしようとグラウンドに行くと、そこにはいつも竜がいた。だから俺は、家の近くの公園で練習するはめになるんだ。秘密の特訓だからな。見られてはいけないんだ。竜の家もその公園に近いから、俺は竜に見つからないようにいつも注意していた。
「5000mの選手の皆さんは本部に集まってください。」
「いよいよだ。ケガだけはするなよ。じゃ、行って来い!」
「はい!」
「はい!!」
 それぞれがスタートラインにつく。俺の相手は竜だけ。竜だけを見ていた。
「位置について・・・よーい・・・・。」
 バン!
 竜も俺も、スタートから先頭に立った。
「(よし、いいスタートだ。4000mまでは竜についていく。4000mでスパートをかける。)」
 二人と他の選手との差は、どんどん離れていく。すでに全国への切符は手にしていた。いや、走る前からすでに持っていた。俺はただプライドのためだけに走っていた。ただ、勝ちたかったんだ。
「(もう少し、まだだ、まだ抑えろ。もう少し、もう少し。・・・いまだ!)」
 俺は残り1000mのところで、スパートをかけた。
「先生!竜さんが。」
 ただ、竜の前を走ってみたかっただけなんだ。
「蘭のやつ、あんな無茶な抜き方しやがって。」
 ただ・・・。
「おい一年、保健室の人に知らせて来い。」
 俺は必死で走った。我に返ると、俺だけがゴールしていた。ぞくぞくと後続者がゴールする。ただ、竜の姿はなかった。そのとき、先生が近づいてくるのが見えた。
「はぁ、はぁ。先生。竜は、竜は?」
「ばかもん!あんな無茶な抜き方があるか。竜は今保健室だ。お前が追い抜いたとき、お前の足が竜に当たって変な体勢で転んだ。足をくじいたみたいだ。」
 俺はあわてて保健室へ向かった。心の中で、たいした怪我じゃありませんようにと何度も祈った。思えば思うほど、逆の事態のこともまた頭から離れなかった。
 ガチャ。
「竜!」
「へへっ、よかったな。長年の夢が叶って。どうだった?トップの感想は。いたっ・・・。じゃ俺後輩の応援いってくるわ。おめでとさん。」
「竜・・・。ごめん、俺必死で・・。」
「・・・。先生、次誰出るんでしたっけ。応援に行かないと。」
「だめだ。先生が病院に連れて行くから。ほら、肩かせ。」
「大丈夫です。応援に行かないと。」
「竜!」
「竜・・・。」

 そうして、俺は今全国大会へ向け、いつもの秘密の練習をしている。ただいつもの公園ではなく、グラウンドで。竜は足を骨折していた。全国大会への切符も失っていた。学校へも来ていない。

「蘭、16分52秒66。蘭、どうした。」
「いえ、なんでもありません。今日は体調が良くないだけです。」
「体調管理はしっかりしろよ。」
「蘭先輩、最近いつも体調不良ですね。」
「うるさい・・。」
「(遠回りに言いやがって。みんなで責めやがって。くそ。16分?どうした。本気で走ってるのに。なんで・・・。くそっ。)」
 蘭のタイムは落ちていた。走りにまるで力が入っていなかった。欄は、目標を失っていた。

全国大会当日。
「さ、いよいよ全国大会だ。全力を振りぼってくいだけは残すなよ!」
「はい!」
「蘭先輩、優勝できるかな?」
「んー、竜先輩のことがあってから、蘭先輩変わったからなぁ。体調不良とか言ってたけど、あれうそだぜ。」
「(聞こえてるっつんだよ。)」
「蘭、今は競技のことだけに集中しろ。」
「はい先生・・・。」

「5000mの選手のみなさんは速やかに本部に集まってください。」
「蘭、行って来い。」
「・・・。」
 すべての選手が、スタートラインについた。
「位置について・・よーい・・・。」
 バン!
「(今はこのレースに集中だ。このために三年間がんばってきたんだ。俺には最後のチャンスなんだ。)」
「・・・ダメだな。蘭のやつ、ペースが速すぎる。あれじゃ最後までもたんぞ。」
「(俺は優勝する。はぁ、はぁ、優勝、優勝。あと4000。はぁ、はぁ。)」
「蘭!ペース落とせ!落とせ!」
「(優勝しなくちゃ。はぁはぁはぁ。俺が優勝しなくちゃ。竜に顔向けできない。)」
「蘭!落とせ!!・・・ダメだ。聞こえてない。」
「(はぁはぁ、あと1000m。あっ!)」
 先頭で走っていた欄だが、残り1000mのところで欄のあとについていた選手がスパートをかけてきた。
「(くそ、動け。動け。くそっ。くそ!)」
「抜かれた。まずいな。蘭は疲れきっている。最初のオーバーペースが効いてきたんだ。」
 そのとき、先生のとなりで黙っていた少年が話し始めた。
「先生。俺ね。知っているんですよ。部活の後も、蘭が公園で夜遅くまで練習していること。蘭のこと恨んでいますよ。だって最後の大会だったのに・・。でもね。応援もしているんですよ。がんばってほしいんです。優勝してほしいんです。俺以外に優勝させたら、ぶっとばしてやる。」
「そうか。」
「(だめだ、力が入らない。足が重い。追いつかない。)」
 そのとき、誰かの叫ぶ声が聞こえた。それは、どんなに周りがうるさくても、どんなに遠くても蘭にははっきり聞こえた。

「ラーーーーーーーーーーーーン!!!」

 竜は俺の目標だ。足が速くて、俺は勝ったことがない。でも、竜の背中を見ていると、力が湧いてくる。足が軽くなる気がする。なにより心地がいい。竜はどんなときでも、俺を引っ張ってくれる。いつまでも目標でいてくれる。俺が竜の足を奪ったのに、俺に力を与えてくれる。そう、優勝はお前のもんだ、竜。








  エントリ9 剛柔流〜虎の巻〜 小笠原寿夫


「空手道」。読んで字のごとく、手を空にして(武器を持たず)相手から一本を取る武道。
空手というと、今では、板や瓦を割ったり、K-1などに使われ、相手を倒すイメージが強いと思われるが、筆者が習っていた空手は、寸止めで、相手に傷は与えない。むしろ、相手からの攻撃をいかに受けるかというところに重点を置いた流派だったと見る。筆者が身を置いていたのは、「剛柔流正道館」という道場だった。筆者は敢えて、その道を突き詰めようとはしなかったが、師範の模範演技を見せてもらうと、投げ技などもあり、柔道もかなり意識した流派であったのではないかと推測する。「おっちゃんが空手習っとった話なんか面白くないわ」と思う子らはあっち行って、他の漫画でも読んでもらいたい。筆者は、6年以上、空手を習っていたという事実を、ここに記録しておきたいだけである。

基本動作
・正面突き
片方のこぶしを心臓の真正面に、もう一方のこぶしをわき腹に添える。突き出したこぶしを引くと同時に、わき腹に添えていたこぶしを、百八十度、捻りながら突き出す。このとき、突く方のこぶしよりも、引くほうのこぶしのスピードを優先させる。こぶしを引くスピードを上げる反動で、突くこぶしのキレがアップする。また、こぶしを引く際、胴着の袖と脇の部分を擦るようにする。それによって、こぶしは真っ直ぐに突き出される。
・正面受け
これは相手の正面突きに対する受けの動作である。ひじを曲げ、肩の高さ辺りに、こぶしを置く。もう片方のこぶしは、わき腹である。前に出したこぶしを丸い弧を描くように引くと、同時にわき腹のこぶしも弧を描くように、肩の正面に持っていく。このとき、受ける方のこぶし、すなわち、もともとわき腹にあったこぶしが前に出るようにクロスさせ、左右のこぶしを同時に止める。
・払い落とし
これは正面突きや蹴りなどに対する受けの動作である。最初の構えは、両こぶしを腰に添えた状態である。ここから片方のこぶしを円く、大きく振りかぶる。同時にもう一方のこぶしは腹を横に切るように動かす、振りかぶった腕と、横にスライドさせた腕を擦るようにして、振りかぶったこぶしは斜め下に、スライドさせたこぶしはわき腹に持っていき、止める。
・正面蹴り
基本の構えは前屈といって、足を前後に開き、重心を前にかける。後ろにある足を前に出し、ひざをできるだけ高く上げ、一気に足を前に蹴り出す。要領は、正面突きと同じで、足を引くときのスピードに注意する。
・上段受け
基本の構えは両こぶしを、腰に据えるもの。上段突きなど、上からの攻撃に対する受けの動作である。払い落としとは逆の動きで、片方の腕は寝かせた状態で、上に突き上げる。もう片方の腕は身体を縦に切る動作で、こぶしをわき腹まで持っていく。途中、両腕がクロスする際、袖が擦れるようにする。型「撃砕」の最初に使われているのが、この受けである。

約束組手
約束組手とは、あらかじめ動作の決まっている、2人一組で行なわれる、組手のことである。相手は、前屈の姿勢から、足を一歩前に出し、正面突きをしてくる。これは、約束組手全てにおいて、同じ動作である。それを受けて、相手に打撃を与える(相手の動きを止める)のが、約束組手の一連の動作である。全て寸止めなので、身体の安全性に問題はない。
約束組手には計5本の動作が含まれるが、筆者が教わったのは、3本目までなので、それを紹介する。
・一本目
前屈の姿勢から前に一歩足を出し、正面突きをしてくる相手に対して、右足を一歩引き、同時に左腕で、正面受けをする、次に相手の胸をめがけて、右こぶしで正面突きをする。このとき、自分も相手も突きをする際に、掛け声を出すが、それは割愛させてもらう。
・二本目
同じく正面突きをしてくる相手に四股立ち(ちょうど相撲取りが四股を踏むときに取る、あの姿勢)で、右足を後ろに引きながら、払い落としをする。続いて、右こぶしで正面突きをする。
・三本目
相手の正面突きを左によける。このとき左手で相手の突いた腕をそらし、右こぶしで、金的を守る。この体勢で相手の腹が開いているので、正面蹴りよりも、すこし横から足を出して、蹴りをする。


・基本型
両こぶしを腰に据え、呼吸を腹の底から、全部出し切る。
「始め。」の号令がかかったら、左で払い落としをしながら、四股立ちで、右の足を引く。
右で正面突きをし、後ろの右足が弧を描くように前に出して、四股立ちの体勢から左で正面突き。
左足を一歩出して、ハの字立ち(スキーで言うボーゲンの姿勢。足は伸ばす)で右正面突き。
この動作を左右対称でもう一度行なう。
左足を左斜め前に出して、前屈から、右方に右正面突き。
右足を右斜め前に出して前屈から、左方、正面に正面突き。このとき「えい!」と掛け声をする。
右足を左足の前にクロスさせ、左腕で正面受けをしながら身体を半回転させる。このときハの字立ちで自分から見て、右足が後ろに来ていることに注意。
足はそのままで右正面突き。
右足を前に出し、ハの字立ちで左正面突き。
左足を大きく前に踏み出し、前屈から右正面突き。
右足を左足とクロスさせるように、大きく前に踏み出し、前屈からの左正面突きをするや否や、振り返って、右正面突き。このとき「えい!」という掛け声をする。
前屈の姿勢から、右足を右にスライドさせ、四股立ちから、右に手刀を入れる。
真っ直ぐ横に左足をスライドさせ、背を向けた状態の四股立ちから、左に手刀を入れるや否や、右を向き、右に手刀を入れる。
同じく真っ直ぐ横に左足をスライドさせ、正面を向いた状態の四股立ちから左を向いて左に手刀。
左足を右足につけ、後ろに引き前屈の構えになったところで、正面を向き、上段突き、下段突き、最後に、「えい!」と掛け声を出しながら、正面突き。

組手
組手は奥が深いので、ここでは、基本の構えと、突き、蹴りなどの留意点だけを紹介する。ちょうど剣道で竹刀を持った姿勢があるが、あれの竹刀を取り払った姿勢、といえばわかり易いかもしれない。右利きの方の場合、左こぶしをあごの前辺りに置き、右こぶしは、それより少し身体の内側で、腹の前辺りに置く。足は前屈よりも少し股関節を閉じた状態で、決して半身にはならない。足の置き方からして、半身になり易いが、半身になると、横からの蹴りを入れられ易く、すぐに一本を取られてしまうので、必ず、上半身は正面を向く。
 突きや蹴りなどは、基本動作でも少し触れたが、引く動作を素早く行なうのが重要である。これは、柔道家に腕や足を取られない為でもあるだろうし、スポーツとして見せるとき、観客に爽快感を与える意味も含まれているかもしれない。
 尚、組手は「拳サポ」と呼ばれる、柔らかいサポーターで、こぶしから相手の身を守る。

 以上、空手の序の口をざっと紹介したが、文字だけで、動作を伝えるのは難しい。興味のあられる方は、近くの道場に足を運んでいただきたい。尚、「お願いします」や「ありがとうございました」などの挨拶、師範の話は正座をして聞き、終わったら礼をして、「ありがとうございました」を言うこと、組手の前後には必ず礼をすることなど、礼儀作法がこれまでに書いてきた動作よりも基本中の基本で、重要であることを忘れてはならない。空手は野蛮なスポーツではなく、相手を思いやる気持ちを突き詰める、まさに「道」なのである。