第63回3000字小説バトル

エントリ 作品 作者 文字数
1夜空の瞬くこの星空で3000
2兄弟の手のぼりん3000
3二枚舌深詰(霜月)
4鍋奉行 〜鱈ちり〜ごんぱち3000
5千里花青野岬3000
6『宇宙刑事シャリオン』橘内 潤2785


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    エントリ1 夜空の瞬くこの星空で 双


夜風が頬をなでながら通り過ぎていく
朝や昼に感じられない感覚
夜だから思い出せる、君といたあのときを
今も見てるだろうか?この夜空を、そしてこの星空を・・・

夜空の瞬くこの星空で――

「ふわぁ・・・」
朝、か・・・かったりぃ・・・
いったい何時だ?時計に視線を移す
0.270833333333333
仕度するには十分だな・・・。
いつものように部屋にかけてある学生服を取り手馴れた手つきで着替えを済ます。
「ねみぃ・・」
着替えたときでも時間はまだあった、もう一度寝ようとすると・・・
「優ーご飯よー」
寝る事ははあえなく断念した。
「今行くよー・・」

はむえっぐとトースト一枚か。
こたつ部屋につくなり目に映ったのは新鮮な飯。
出来たてらしく白く湯気のようなものまで出ている。
さすが母さんだ。
自慢じゃないのだがウチの母さんは若い。
歳は今年で30、まぁ俺の歳が15歳だから・・・15で俺を生んだ。
親父がロリコンだということに触れられるだろうがそれは事実なので否定はしない。
まぁ親父は確かにロリコンだ、それもどうしようもないくらいのロリコンだ。
幼稚園児みながらたまに「いいなぁ・・。」とかいってやがる時もある。
それでもそこさえ除けば普通の良い親父なんだがな・・・。
まぁロリコンという時点ですでにアウトなのだが。
「ごちそうさまー」
食べ盛りの俺にはすぐだった。
「あら?もういいの?おかわりは?」
「いらね。」
「そう、じゃぁ片付けしてくれる?」
「りょーかい。」
食器を持ち、こたつ部屋を出る。
やば寒ぃぃ・・
そりゃ寒い、だって季節は冬だ。
寒い、食器片付けたらすぐこたつの中で暖まろ・・・。
カチャ。
よし、こたつ部屋に行くかっていうかもう着いた。
ぁったけー・・つか時間だし。
「いってくるわ・・」
「いってらっしゃ〜い」
寒い、つか痛い。
大きくなったらこの町出てぇな・・・、都会を見てみてぇんだよな・・・。
そうこうしてると学校が見えた。
だりぃなぁ・・・。
門をくぐれば一日が始まる。
「危ないっ!!!」
「ぇ?」
その視線の先には女子が一人突っ立っていた。
トラックが向かってくるのによけない、恐怖で足がすくんでしまっているのだろう。
「チッ!」
走った。
何のために?
わからねぇ、でも、体が自然に動いた。
ただ一人の女子のタメに・・・。
トン・・・。
後先なんて関係ねぇや。
トラックの向かってくる方向、女子の突っ立っている方向へ走りヘッドスライディングのように突っ込み手を出しトラックの走行範囲外へ突き飛ばした、そして彼は・・
キキィィィィィイイイ!!!ガッシャァァァアァアン!!!
メキメキ・・と音を立て体が吹き飛ぶ。
トラック相手だ、一気に吹っ飛んだ体は近くの民家の壁にぶつかりグシャ・・と音を立て倒れこむ、立つ力なんて勿論、ない。
ガチャ・・バターン!
タッタッタッタッタッタ!!
誰かが来る。
わからない、誰だ?
「大丈夫か兄ちゃん!?あぁぁぁぁぁ・・・しっかりしろ!誰か!病院へ連絡しろ!」
車の運転手だろうか・・・なん、だ?頭が白く、視界、が・・・。

ガバッ!
「・・・何処だここ。」
目覚めた先はいつもと違い白いベッドに古い型のテレビが置かれている見覚えの無い部屋だった。
ガチャリ!バァン!
激しい音と共に血相抱えて母さんが入ってきた。
「大丈夫!?優!?」
「は・・・?」
なんだってんだ?なんで母さんが・・・ッ!?
「いっつうぅ・・・」
は?なんで腹とか頭とか色々といてぇんだ?
「大丈夫なの!?おなかが痛いの!?」
「なんだよコレ・・・」
んだよ・・・ってかなんで医者がいんのさここに。
視線の先には見覚えの無い医者が立っていて急にしゃべりだした。
「あなたはトラックにはねられたんですよ、それで骨折だけですんだのが奇跡です、痛いところはありますか?」
トラック・・あぁ・・・あのときか。
「体全体がいてぇ」
「そうですか・・・生きている証拠です、安心しました、痛みに関しては鎮痛剤を渡しますので痛いと思ったら飲んでください、少しは和らぎますから。」
つーかトラックにひかれて生きていたな・・・。
「体のほうが丈夫なんですね、1ヶ月くらいの入院で十分ですよ」
「1ヶ月・・わかりました。
「それでは」
ガチャ、バタン。
母さんも一緒に出たようだ。
外を見ればあたりは暗く夜になっていた。
星空は綺麗で、月も綺麗に見えた。
夜空に光っているのは色々な星々。
どうやら今日は満月みたいだな、外出るか・・つっても屋上くらいだが・・。
屋上に繋がる階段を上りドアを開け外に出る。
「ふぅ・・・」
夜風が心地良い。
冬なのにな・・・。
「・・・」
人がいた。
近くに。
どうやら入院患者のようだ・・・まぁ俺もだけど。
「星・・綺麗ですね」
気付けば話かけていた。
「・・そうですね・・・こんな空の時の星は特にです」
ほっ。
この人入院暦なげぇな・・。
何故かわからないがそう感じた。
「あなた・・・入院しているの?」
唐突な質問だった。
「ぇ、あ、今日からなんだけどね」
「そうなんですか・・病院暇ですよ?」
「そうなんだ・・・もしよかったら明日でも病室行っていいかな?」
ナンパに近いことをやっている自分に気付いたが特に何も思わなかった。
「星空・・・好きなんですか?」
・・・無視された。
「星空より俺は夜空が好きかな」
昔から夜が好きであまり朝や昼は好きじゃなかった、基本的に明るいところが嫌いで学校でもあまり人とは話をしなかった。
「わたしは星空が好きなんですよ、あ、勿論夜空も好きですよ」
「そうなんですか・・改めてみたら星って綺麗ですね・・・」
「でも、今にも消えそうなくらい光を放ってて儚くて消えちゃいそう・・・命のように。」
・・・大病にでもかかってるのかこの人・・・?
「病気なんですか・・?」
表情が曇ったような気がする。
「はい・・・、ずっと前からの病気なのでもう慣れてますがね〜・・」
愛想笑い。
こんなまだ社会のことをまだまだ知らないような人が・・・。
「もしかしてずっと病院にいるんですか?」
「そうですねー・・・、生まれてから体が弱かったので小学校の頃体育の途中で倒れちゃって・・・それで入院したんです」
俺は元から体が強かった、体の強さだけは異常なまでに強くて、喧嘩しても負けることがないくらいに・・。
「それで夜空を・・」
「性格には星空をなんですがね、ふふっ」
ふわぁっ・・・
風が吹いた。
彼女の長い髪が、顔を隠していた髪が風になびいて姿を現した。
可愛かった――
風はすぐにやみ、その顔を隠した。
もう一度その顔を見たいと思った、どうやら一目惚れって奴をしてしまったようだ。
「私、そろそろ部屋に戻りますね」
季節は冬だ、夜風も良く考えれば冷たくて体に染みる。
この人もなんだろうけど、もっと話していたい――
「あ、あのっ」
「・・・?」
ここで前に出なくちゃ――
「い、いえ・・おやすみなさいっ!」
俺の、馬鹿野朗。
「はい、おやすみなさい・・・」
彼女が出て行ってしばらくの間夜空を見つづけた。
頭から焼きついて離れないあの顔が。
今まで見たことも無いくらいに可愛くて、クラスの女子なんかとは比べ物にはならなかった。
一言、ただ一言『逢いにいってもいいですか?』とか言っていればよかったんだ、でもいえなかった。
後悔し続けた、この夜空に瞬いている星空の元で。
僕らは同じ星空の下で生きている。
生きていれば逢う事は容易い、でも逢いに行くことは厳しい。
近いはずの距離、でも遠く感じてしまう。
心に出来た穴が大きくなる前に、小さな内に逢いに行こう・・・。







  エントリ2 兄弟の手 のぼりん


 かなり吹雪がひどくなってきた。
 ライトが照らしているのは、果てしなく白く深い暗闇である。
「おいおい、なんてことだよ」
 頭の後ろから、うんざりしたような声が聞こえた。兄の声である。
「だからいわないこっちゃない。こんな車で、山を越えよう何て考えがいけなかったんだ」
「いつもは電車を使って田舎に帰っていたんだろ。なんで今年に限って、車に乗って帰ろうなんて思ったんだよ」
 そのとなりから兄に同調し、責めるような口調で文句を言っているのは弟だ。ひとりでは何も言えないくせに、調子良く兄の尻馬に乗っている。
「新しい車に、みんなを乗せたかっただけなのよ。いいじゃないの、そんなに言わなくたって。お兄さんだって、田舎へ帰るのなら車に乗る方がずっと楽だって言ってたじゃない」
 となりにいる姉は、さすがに僕の事を少しは理解してくれている。こういう時には決まって僕をかばってくれるのだ。
「そりゃそうだが、こんな山道を……」
「山道を…ってね」
 場合を考えてくれない兄弟たちのかしましさに、いい加減うんざりした僕は、思わず大きな声をだした。
「こんな吹雪になるなんて思ってもいなかったからね。天気予報だってそんなこと言ってなかったんだ。昨日の新聞にある天気欄をもう一度見てみなよ」
「山の天気なんてな、そんなもんなんだよ。お前は田舎の事をよく知らないからだ。山道をなめているね。俺はお前よりもずっと、田舎暮らしが長いからな、よくわかってるんだ。だいたい、なんでもっと早く街を出なかったんだ。午前中に出発しておくべきだった」
「それは、姉さんの支度が手間取ったからだよ」
 弟がまた横から口をはさんだ。
 なんで話をかき混ぜようとするんだか。もちろん、全部自分のせいのように言われては、姉も黙ってはいない。
「何を言ってるのよ。じゃあ、なに、私が悪くてこんな吹雪になったとでも言うわけ?」
 さすがの僕も嫌になってきた。
 兄弟が自動車のような狭い密室に一緒にいると、どうしてもこういう結果になってしまう。仲が悪いのか、というと日頃はそうでもないのだが……。
 例えば個性とか人格と言うものは風船のようなものかもしれない。それぞれにちゃんと大きさがあって、狭い空間に無理して押し込んでしまうと、どうしても爆発しそうになる。
 それにしても、車内のヒーターが暑すぎる。
 いつ故障したのだろうか。温度の調整ができなくなってしまったようだ。汗がだらだらと流れて、バンドルのうえにぽたぽたと落ちた。不安と焦燥に加えて、密室での兄弟たちの喧燥である。
 しかし、いつの間にか冗談抜きで大変な事になってしまっている。みんなが勝手なことを言い合って騒いでいるどころの話ではない。
 僕はいらついた。
「今ごろそんな事がたがた言わないでくれよ。とにかくみんな黙って。運転に集中できないじゃないか」
 泣きそうな声がでた。
 すると、兄弟たちのうるさい会話が、ぴたりと止まった。が、しばらくすると、再び兄の声が呟くように頭の後から聞こえてきた。
「お前、ちゃんと病院へ行っているのか」
「病院って何の話だ」
「しっ!」
 姉が諌めるように、弟の質問を遮った。
「精神分裂症とかいってなかったか?」
「おおげさなこと言うなよ、兄貴」
 数ヶ月前から、僕が精神を患って病院に通っている事を兄と姉は知っていた。ただのノイローゼに違いないが、彼らは必要以上に僕の事を心配しているようだ。
 実は、僕が突然、田舎へ帰ろうと思い立ったのも、そのことと無縁ではなかった。田舎の静かで穏やかな風景の中に数日間のんびりとすることが、どんなに気休めになる事だろう。主治医の提案に兄弟たちはそろって賛成してくれた。
 もちろん、僕自信も納得した。田舎は、いつでも僕をやさしく癒してくれるはずだ、と信じていた。
 ところが、僕たちを歓迎してくれたのは、のっけから思いもよらない悪天候だ。しかも風と雪つぶてはますます激しくなってきている。目の前には、とうに道らしい道など見えはしなかった。
 そのうち、フロントガラスに積もる雪を振り払うワイパーが軋んで動かなくなってしまった。こうなってしまうと立ち往生するしかない。へたに進めば、道をはずれて、どうしようもなくなってしまう。
 が、しばらくして、ハンドルが別の力に引っ張られて、車がずるずると滑り出した。
 肝を冷やす暇も無かった。
 制御できなくなった車はそのまま坂道を後ろ向きに下って行き、何かを踏み抜いたような音がして、斜めに傾いて止まった。
「見てくる」
 僕は上着を掴むと、あわてて吹雪の車外へ飛び出した。
 雪がつぶてのように頬を打ち、目を開けていられないぐらいにすさまじかった。立ち止まってしまうと、降雪がどんどん上に積み重なっていって、あっという間に体が埋もれてしまう。
 車の下の雪を、もがくようにかき分けてみると、後方の片輪が完全に路側の溝に落ちていた。これでは、車は前にも後ろにも動かない。
 しかし、この状況をすぐにどうにかしないと、車ごと雪の下に埋もってしまう。
「これは大変な事になった。このままだと、みんなここで死んでしまう」
 僕は動転した。
 転がるように車中に戻った僕に、兄弟たちが思い思いに状況を尋ねた。不安感が狭い空間に溢れた。
「やばいよ」
 僕の声はうわずっていたに違いない。
「やばいってどういうことよ。車、動かないの」
「ここでじっとしていると、朝までに四人とも凍え死ぬ」
「どうすんだ」
 僕はできるだけ気持を落ち着かせてから説明した。
「後輪が片方、溝に落ちている。このままじゃどうしようもない。三人で車の前に乗って体重をかけてみよう。そうすれば後輪が浮く。お前はここでエンジンを吹かすんだ。いいね」
 弟はうなずいた。
 車内に弟を残して、僕を含めた残りの三人は吹雪の中に出た。ボンネットに乗っかる。わずかに車体が傾いたような気がした。
「よし、エンジンをかけろ」
 僕は車の前部にしがみついたまま叫んだが、エンジンの音が聞こえない。 
「どうした?」
「だめだ。エンジンがかからない」
 弟がドアを開いて泣きそうな声を出した。
「馬鹿な代わってみろ」
 今度は僕が車内に入ってエンジンをかけてみる。
 エンジンはかかった。ところが、車輪は空回りするばかりだ。
「どうなってるんだ。ちゃんと車を押さえてくれ」 
 ところが、何度やっても駄目だった。エンジンの悲鳴だけが暗闇の中に吸い込まれて行くだけだ。
 じわじわと、死ぬことの恐怖が心の中に迫ってきた。
 とにかく…と僕は思った。
 このままではどうしようもない。残った手段は兄弟四人が力を合わせて車を持ち上げる他ない。火事場の馬鹿力ともいうではないか。やればできるはずである。
 僕はまた吹雪の外へ飛び出した。
 車体はすでに半分以上雪の中に没している。ぐずぐずはできなかった。
「兄貴」
「おう」
「それからみんな、四人で力を合わせるんだ。こっちへきて、パンパーを掴んでくれ。きっと車は持ちあがるはずだ」
「わかった」
 ところが、バンパーを掴む手が二本しかない。
「何をしているんだ。早く手を貸してくれ!せーの、でいこう」
 僕は叫び声を上げて、振り返った。
 どうして、みんなで力を合わそうとしないんだ。兄弟みんなで……。

 なんてことだ。
 いざという時には、まったく役たたずの奴ら。
 四人集っているくせに、いつまで待ってもたった二本の手……。







  エントリ3 二枚舌 深詰(霜月)


 脳味噌がとろけて耳から漏れ出てしまいそうなほど生温くふやけたまどろみの彼方で、掃除機の吸気音に負けないように妻が声を張り上げている。あしたは古紙回収の日だから古新聞を束ねておいてね。子供はとうにサッカーの練習に出かけていて、春眠暁を覚えていないのは僕だけらしい。決算前で毎晩、終電帰りだったのだ、日曜日くらい、自由に眠らせてくれ。などと言ってもつまらない角が立つので、しかたなく起きることにした。
 テレビ台の中に乱雑に放り込まれた新聞をひとつずつ開いて折り目を合わせ、四隅を整えながら回収袋に積み重ねていく。配達された状態のまま見もしなかった日の新聞もあった。たぶん早朝から家族で出かけた日のものだろう。そのまま処分するのもなんだかもったいない気がして、広告も一枚ずつ広げて、買えもしない地上波デジタル対応の液晶テレビを比較検討したり、そろそろプリンタも買い換え時か、などと不毛な想像をしていた。
 中古車の広告をめくるとその下に、いまどき珍しい片面印刷の広告があった。すべて手書きで、お世辞にも上手とは言えないのだが、レイアウトや罫線、空間の使い方に妙な味がある。中でも、角張ったきちょうめんな文字で、サンプル二枚舌一ヶ月無料おためしキャンペーン実施中! とあるのが目に付いた。二枚舌?
「同時に二人を相手に別々の会話が可能! 二枚舌を装着して、二倍の人生をエンジョイしよう!」
 へたくそなイラストで、妙に鼻の高いステレオタイプなアングロサクソン系の女性と人民服を着た、いかにもな、というよりはあんまりな中国人を相手に、スーツ姿の男の口から、二枚の舌と英語と中国語のフキダシが描かれている。さらにはひとり二重唱を楽しめるとかボケ防止とか、そんなことまで書いてあった。
 くだらない、と思ったのだが、利用者の声の欄に、僕が勤めている会社の執行役員の推薦文が掲載されていて驚いた。仕事柄、海外との交渉も多く、会議では日本語と英語で同じ説明をしなければならず、非常に骨が折れたのですが、二枚舌を使い始めてからは、交渉もスムーズに運ぶようになり、先日も大きな取引を成功させることができました。我が社の社員にも、自信を持ってこの二枚舌を勧められます。
 どういうわけか都合よく、日曜日も開いているショールームがすぐ近所にあるらしい。どうせ会社から押しつけられるのなら、先にどんなものか、見ておいてもいいだろう。手早く新聞の束を十字にしばり、身支度を整えて早速その二枚舌とやらを見に行くことにした。
 最寄り駅の裏手に存在していたことすら記憶にない古い雑居ビルの四階に、そのショールームはあった。動きの遅い、薄汚れた狭いエレベーターを降りると、昔ながらの団地にありそうな、緑色のペンキが塗られた鉄の扉が、手の伸ばせば届きそうなほど目の前にあった。エレベーターとの間には、その扉を開けるのが精一杯の余裕しかないのだが、飲み屋なんかの店先によくあるタイプの、蛍光灯が内蔵された安っぽい立て看板が無駄に明るい光を放っている。ダブル・トーキング・ラボラトリ・ファー・イースト・インク・ジャパン有限会社南千住支店。チラシと同じ筆跡だ。おまけにあのイラストが、いらっしゃいませ、WELCOME、熱烈歓迎、全力で僕を脱力させる。なんかもう、いかにも怪しくて、というよりアホ臭くなって引き返そうと振り向いたら、エレベーターが一階へ向かってのんびり動き出していた。ああ気が滅入る。下向きに三角形が刻印されているボタンをやけくそに連打し、エレベーターを待つ。待つ。待つ。ンゴアー、とけだるそうに開いた扉の向こうから、三十前と思われる地味な服装の女性が降りて来て微笑んだ。
「い『ハジメ』らっ『テノ』しゃ『ゴラ』い『イテン』ま『デスカ?』せ!」
「はいぃ?」
 自分でも情けなくて笑ってしまうほど間抜けな声がつむじのあたりから抜けていった。
「いま、なんと?」
「ハジ『い』メテノ『らっ』ゴライ『しゃ』テン『い』デス『ませ!』カ?」
 テレビで時々お目にかかる関西弁の双子の姉妹が、並んで同時に似たようなことをしゃべっている、あの感じに近いようでいて、現実の視覚と聴覚がリンクしないのが、何とも薄気味悪い。腹話術とも違う。いわばひとり二カ国語放送みたいなものだが、テレビの経験と根本的に異なる目の前の不自然な現象を、身体が拒否したがっているのがわかる。へその穴を指先でグリグリとほじくられているみたいな不快感が、目と耳から身体内に侵入してくる。
「ああああの、普通にしゃべってもらえませんか?」
「ええと、チラシをご覧に?」
「はあ、そうです」
 とりあえず中へどうぞと鉄の扉を押し開けた地味な女に案内されて、室内へ入る。元は歯科医院だったのだろう、受付からベンチから虫歯予防デーのポスターから、設備一式いますぐ開業できそうな勢いでそのまま設置してあった。
 いきなり歯医者独特のあの椅子に寝かされた。二枚舌の説明が始まる。白衣に着替えて来た女が傍らに立ち、僕を見下ろすようにひとしきり商品の利点を解説して、ふん、と鼻から息を吐いて腕を組んだ。
「ところで、何か楽器を演奏した経験はありますか?」
「楽器、ですか? 高校の頃にフォークギターの練習をしていたのが、たぶん最後だと思います」
「あら、それは好都合、ピアノやギターは、右手と左手を別々に動かして演奏しますよね? 二枚舌も、あれと同じようなコツが必要なんですよ」
「はあ、なるほど」
「訓練を積めばある程度までは上達はしますけど、残念なことに、楽器の演奏と同じで、思うような成果の見られない方も少なからずいらっしゃいます」
 ということは。
「あのチラシの、海山商事の磯野本部長は?」
「ええ、あの方は、とてもお上手でいらして、装着してすぐ英語と日本語でお話しされてましたね、私も驚きました」
 その向き不向きを確かめる上でも最低、三週間は試用期間が必要なのだそうだ。歯の検査に使う器具類で口の中をいじくり回され、下顎と舌の間に、入れ歯装着剤のようなもので小振りな二枚目の舌を貼り付けられた。
「最初は生活上、不便かもしれませんが、とにかく練習してみてください。上達具合によっては、磯野様のように広告に出ていただくことでお代をいただかないプランもございますので」
「で、ところで、値段って」
「お買い上げの際は、税込みで三十八万円になります、お得な提携クレジットのご利用も可能です」
「うーん、手が出そうで出ない微妙な値段設定だな」
「自在に操れるようになれば、二倍でもお安いかと思いますよ、まずは三週間、お試しを」
 ところが三週間経っても、一向に上達する気配が見られない。せいぜい同時に「おはよう」と「こんにちは」をたどたどしく発音できる程度だったのだ。
 が。
「……でも、お買い上げになるんですか?」
 店員が治療台に寝ている僕の顔をのぞき込んで、やや心配そうに理由を尋ねてきた。
「いや、あの、妻が、ね、なんというか、せっかくだからもう少し練習したらって、なぜか、お金を出してくれることになって」
 ニヤリと口元だけで、店員が微笑する。わかってますから、それ以上の言い訳は結構ですと言いた気な目が、非常に気まずい。というか恥ずかしい。
「ご夫婦円満で、なによりじゃありませんか」
 ああ、やっぱりばれている。寝床の妻に大好評だってことが。







  エントリ4 鍋奉行 〜鱈ちり〜 ごんぱち


 田原在勝は、表通りから路地を一つ入った場所にある、小料理屋の戸に手をかける。
「――拙者の袴はどうせよと言うのだ!」
 同時に、怒鳴り声が聞こえてきた。
 怒鳴っているのは、田原と同じ永山家臣の若い武士とその仲間たち。膳が畳に転がり、一人の袴が濡れている。
「そう言われても、洗うしかないと思うがの」
 盆を抱えて縮こまっている女中をかばうようにして、旅姿の武士がのんびりと応える。
 この男。
 小柄であるのに、ぎょろりとした大きな目、同じく大きく開いた鼻の穴、口も大きく、時折見えるその舌は五寸はある。舌先三寸が常人であるから、この武士の舌は二倍近く長い。手も妙に大きい割りに、指は細工仕事にでも向いていそうに細く長い。
 一度でも目にしていれば、嫌でも忘れそうにない異形であった。
「愚弄するかっ!」
「おい」
 田原が声をかける。
 思いもよらぬ方向からの声に、若い武士は、びくり、と身を震わせる。
「た、田原殿?」
「旅の御仁や女中相手に大声を出すものではない」
「女中が拙者の袴に汁をこぼしまして」
「濡れたがどうした。永池殿、貴殿の袴は紙細工か?」
「ですがこのままでは帰る事も」
「ならば換えを貸してやろう」
 田原は袴を脱ぎ、差し出す。
「田原殿、そんな」
「ほれ、遠慮はいらぬ」
「し、失礼いたす」
 若い武士たちは、逃げるように店から出て行った。
「――いやぁ、助かった」
 異形の武士はにっこりと笑う。が、余計に異様で、化け物に威嚇されているようだった。
「わしは鍋代味善と申す」
 甲高い声だった。
「おれは永山家臣、田原在勝と申す。道場の若い者の無礼、ご容赦下され」
「ほぅ、師範じゃったか。道理で道理で大した風格じゃ、いやいや助けられた」
 笑いながら鍋代は立ち上がった。
「今度、必ず礼をさせて頂くからの」

 藍川国永山家の屋敷に建つ蔵の中に、田原たちは集まっていた。
 棚には、刀、槍、甲冑がぎっしりと並んでいる。
「子の門、巳の門の守りは堅いが、それ故に両の塀は死角になる」
 宮緒屋敷の見取り図を指しながら、永山家当主、永山省全は策を話す。
「梯子で乗り越え内に入ってしまえば、宮緒武士など、藁束よりも容易く斬れるであろう」
 永山は皆に顔を向ける。
「戦国の世、宮緒は、我らが祖、永山正竹様を、一揆を煽るという卑怯な手で討った。その恨みは晴らさねばならぬ」
「はっ」
「命はとうに捨てております」
「赤穂に倣いましょう!」
 皆は、力強く頷いた。
 永山は田原を見つめる。
「田原、期待しておるぞ」
「剣より他に取り柄のないこの身、粉と砕けようとも宮緒法賢の首級、上げて見せましょう」

「こんな時期に支払いとは珍しい事で」
 酒屋が不思議そうな顔をしつつも、田原の支払った金を数える。
「金が出来てな」
 田原はそれ以上なにも言わず、酒屋もなにも訊こうとはしなかった。
「毎度ありがとうございます」
「うむ」
 田原は酒屋から出、空を見上げる。
 寒空は青く澄んでいた。
 通りを踏みしめるように歩く。
 今宵、宮緒の屋敷に討ち入る。
(負ければ死、勝っても喧嘩両成敗、赤穂のように切腹。ここを歩くのも最後か)
 妙に景色が美しく見える。
 ゆっくりと、しかし軽い足取りで田原は道を歩く。
 田原は口元に、笑みを浮かべる。
(妻も子もなし、何も惜しくは、ない)
 言い聞かせるように、心の中で呟く。
 その時。
 ふわり。
 香りが鼻をくすぐった。
 気が付けば、鍋代と出会った小料理屋の近くだった。
(鍋代味善……か。あの異形、案外、地獄の鬼が仏の下見に来たのかも知れぬ)
 漂ってくる香りは、いつもの小料理屋から流れるそれを遙かに凌駕する。
 灯りに誘われる蛾のように、気が付けば田原は戸を開けていた。
「おお、おんしは、田原殿」
 土間には、醤油樽に腰掛け、土鍋を置いた七輪を前にした鍋代の姿があった。

「いやあ丁度良かった。人を使いに寄越そうと思っておったところじゃ」
「おれを?」
 鍋を挟んで向かい合わせに田原が座る。
「礼をすると言うたじゃろ」
「しかし、でかい鍋だな」
「将軍様に出せる唯一の温かい料理法なんじゃ。毒見役と一緒に食べられるでの」
「はは、冗談も言えるとはな」
 鍋代は土鍋の蓋を取る。
 鍋の中は、椎茸、舞茸を始めとする茸類と、白菜、人参が見える。他に、姿はないが昆布の香りが混じり、店の外で田原を捕らえた芳香を作り出していた。
 火は煮立てて風味を落とさぬよう加減され、また、炭も良いものを使っているらしく、煙一筋上がらない。
 上がりかまちに置かれた皿には、白身の魚の切り身が並んでいた。
「それは?」
「鱈じゃ」
 菜箸を取ると同時に、鍋代の眼付きが変わった。
 鱈の身を取り、す、と、鍋に入れる。
 うっすら透き通った鱈の身が微かに白く色づいていく。
 正しく雪のように。
「後、三呼吸したら食べ頃じゃの」
 田原は息を吸う。
 だし汁から漂う湯気に、微かに微かに鱈の香りが混じる。
 最高と感じられた店の外で嗅いだ香りが、正しく収まるべき処を見つけたようだった。
 ふた呼吸目。
 鱈の身がチリと縮んで来る。
 田原の視線は、もう鱈から離れず、箸は意に反して伸びそうになる。
「まだじゃ」
 三呼吸目。
「それ、今」
 息を吐く暇も惜しみながら、田原は鱈の身を取り、口へ入れる。
 だしの風味と鱈の旨味が、舌触り、温度すら味方につけ、口の中に広がる。
 噛み砕くうちに消える、春の雪片のようなその儚さに、次のひときれを探し鍋に視線を向ける。
「ほれ、今じゃ」
 正しくその瞬間に食い時になるよう、鍋代は鱈を煮る。
 入れて、喰い、喰う間に煮上がる。
 大皿の鱈がすっかりなくなるまで田代は食い続けた。
 そして鍋代は、最後のひときれまで、煮具合を損ねる事も、待たせる事もなく、煮続けた。

 夜更け、蔵に集まった武士の視線が、田原に集まる。
「今、なんと?」
 家伝の古びた甲冑姿の永山が目を見開く。
「討ち入りへの加勢、お断り申し上げる」
 田原は永山の目を見つめ、はっきりと言い切った。
「は、はは、何を言っておる、田原。冗談が過ぎるぞ」
 永山の表情が強張る。
「冗談ではございません」
 田原の声は、蔵の中に響いた。
「まだ死にたくはございません」
「本気、か」
「本気も本気」
「不忠者、裏切り者、斬れ!」
 永山が怒鳴る。
「笑止!」
 田原は刀の柄に手を添える。それだけで、皆は雷に打たれたかのように動きを止める。
「死ぬつもりの者が、生きるつもりの者に勝てるかっ!」
 皆は動かない。
 いや、動けない。
 田原を斬れる者など、いなかった。
「では、御免」
「何故の……心変わりか」
 出て行こうとする田原に、永山がかすれる声で訊ねる。
「この田原」
 振り向いた田原は、にやりと笑った。
「明日の朝飯が、楽しみになってしまい申した」

 金と漆で彩られた火鉢の上で使い込まれた大きな鍋が湯気を立てる。
「煮えてございます、将軍様」
 給仕の武士がアンコウの皮を引き上げ、朱塗りの椀に取る。
「おうおう温かい。月一度、これを楽しみに生きているようなものよ」
「冷めぬうちがおいしゅうございますぞ、ささお早く」
 ひとしきり食べ終えてから、将軍が尋ねる。
「――のう」
「なんでございましょう?」
「今回の買出しの旅で、何ぞ面白い事はあったか?」
「いつも通りにございましたの」
 給仕の武士は笑うが。
 大きな目と口と五寸はあろうかという舌のせいで、まるで化け物が威嚇しているようであった。








  エントリ5 千里花 青野岬


 開け放たれた縁側から吹き込んでくる風が、畳の上をやわらかく舞う。気持ちよく晴れ渡った、春の日の午後。私は荷物をまとめながら、最後の挨拶をするため父の背中に声をかけた。
「新しい住所は紙に書いて、テーブルの上に置いておいたけん。無くさんようにしとってね」
 縁側で爪を切っていた父は、視線を自分の足先に向けたまま曖昧に頷いた。
「お父さん! 私の話、ちゃんと聞いとぉと?」
 パチン、パチンと、小気味いい音が響くたびに、小さな三日月のかけらが広げた新聞紙の上に落ちる。背中を丸めた父の後ろ姿が急に年老いたように見えて、私は思わず目をそらした。
 先月、私は三年越しの交際相手と、ささやかな式を挙げた。三年、とは言ってもこの一年間は、福岡と東京の遠距離恋愛だった。サラリーマンの彼は会社からの辞令には逆らえず、私たちは離れ離れの暮らしを余儀なくされた。
 思うように会えない辛さに、くじけそうになったことも一度や二度ではない。けれどもお互いを必要とする強い想いを支えに、なんとか無事に結婚まで漕ぎつけることができた。
「お父さんも、お酒はほどほどにね。あと、しょっぱいものも。塩分の摂りすぎは体に毒やけん。体を大切にして、長生きしてもらわんと……」
「わかっとぅよ」
 今にも消え入りそうな声で、父が答えた。
 私が中学一年生の頃、体の弱かった母が死んだ。それからというもの、父は男手ひとつで私を育ててくれた。「新しいお嫁さんをもらったら」という周囲の声にも耳を貸さず、定年退職を経て私の結婚が決まってからも、父はひとりのままだった。
「あ、ゴミの収集日と分別のしかたが変わっとったろ。冷蔵庫のドアに貼っておいたったけん、よく読んで間違わんようにせないかんよ。向かいのオバちゃん、あれでけっこう厳しいったいね」
 今日を最後に、私は生まれ育ったこの家を出る。そして東京のマンションで、新しい家族との新しい生活がはじまる。それは同時に、これまでたったひとりの家族だった父との別離を意味していた。
「福岡と東京なんて飛行機で一時間ちょっとやし、たいした距離でもなかろ。お父さんに何かあったらいつでもすぐに駆けつけるけん、心配せんでよかよ」
 父は何も答えずに、うんうんと何度も頷く。子供の頃、身長を計るたびにつけた柱のキズを指先で撫でながら、私は父と過ごした時間をゆっくりと思い出していた。
 
 母が亡くなってから、私は一度だけ父にぶたれたことがある。
 あれは高校二年生の夏のことだ。私はアルバイト先で知り合った大学生に恋をした。コンビニのバイトは完全シフト制だったので、私と彼はだいたい同じ時間帯に一緒に仕事に就くことが多かった。そして客足が途切れると、仕事の手を休めていろんな話をした。
 そんなふたりが深い仲になるのに、それほど時間はかからなかった。私は彼に夢中になり、私の生活の全てが彼中心に動いた。志賀島に一緒に海水浴に行った。春日あんどん祭りの花火大会も観た。生まれて初めて、ふたりだけで糸島半島に旅行にも行った。暑い熱い夏の日々は、瞬く間に過ぎていった。
 灼熱の太陽に照らされた海の砂が冷める頃、私は自分の体調の変化に気づいた。妊娠していた。
 そのことを話すと彼は驚きうろたえて、やがて手のひらを返したように冷たくなった。そしてコンビニでのバイトを辞めて、住んでいたアパートも引き払い、私に黙って逃げるように実家へ帰ってしまった。
 顔色も悪く、絶え間なく吐き続ける娘を見て、父もただごとではないと思ったのだろう。嫌がる私を無理やり病院に連れて行き、私の妊娠は父の知るところとなった。
 全ての処置が済み、帰ろうと待合室に向かったときだった。私の頬に、父の平手が飛んだ。
「お父さん、何するんですか! 暴力はいけませんよ、暴力は!」
 近くにいた看護婦に制されて、父は肩で息をしながら涙をこぼした。そして体の奥底から搾り出すように、私にひとこと「このバカチンが……」と言った。

「新しい電話番号も、住所と一緒に書いておいたからね。ちゃんと見とってね。携帯の番号も、前に電話台のとこに書いとっちゃろ? いつでも電話してね。それから面倒くさがらずにちゃんと病院に行って、薬を切らさんようにせんとね。ねえお父さん、わかっとうと?」
「……わかっとぅよ」
 父はまだ、爪を切っている。何かに没頭していないといけないかのように、丁寧に時間をかけて爪を切っている。

 父にぶたれたのも、父が泣いているのを見たのも、そのとき一度きりだ。身内だけで挙げたささやかな結婚式の席でも、父は決して涙を見せなかった。もしかしたら父は高校時代のあの忌まわしい出来事を、まだ怒っているのだろうか。そう思うと、どうしようもない寂しさが胸に込み上げた。
 けれども挙式後、それは父の精一杯の強がりであることがわかった。後日、式に参列していた父の友人が、そっと私に耳打ちしてくれたのだ。
「義ちゃん、控え室で泣いとったよ。でも娘に涙は見せられんって、挙式の間は我慢しとったみたいやね。自分が泣いたら、美和ちゃんが後ろ髪を引かれて嫁に行きづらくなるって、心配したんやろな」
 私は父の想いを推し量って、たまらない気持ちになった。そしてひとりになってから、誰にはばかることなく号泣した。

「美和子……」
 父が爪切りバサミを持つ手を止めて、ふいに私の名前を呼んだ。
「なに?」
 それまでずっと一定の間隔で響いていた、爪切りの音が止んだ。
「……オレは年金暮らしやし、おまえに充分な支度もなぁんもしてやれん。それは本当に、申し訳なく思っとぉと」
「お父さん、そんなこと気にせんでもよかよ」
 思いがけない父からの言葉に、驚いて目頭が熱くなる。
「でもな、美和子。あれ見てみい」
 父は静かにそう言って、庭先に目をやった。
「あれや」
「あれって……沈丁花?」
 父の視線の先には、小さな白い花弁をほころばせている沈丁花があった。風が吹くたびに、甘く清楚な香りが家の中にも満ちる。死んだ母が大好きだった花だ。
「沈丁花は、千里離れた遠いかなたまで香りが届くったい。だから別名、千里花とも呼ばれとぉと」
「千里花……。ふうん、初めて聞いた」
 沈丁花は新婚当時、両親がこの家に引っ越してきたときに、父が母のために植えたんだそうだ。生前、よく母が嬉しそうにそう語っていたことが、まるでつい最近のことのように鮮やかに甦る。
 思い起こせば生活の節目には、いつもこの花の香りがあった。学年が変わるたび、学校が変わるたび、そして卒業、就職と自分を取巻く環境が変わるたびに、この香りにどんなに励まされたことだろう。
それはもしかしたら父も同じ気持ちだったのかもしれないと、今さらながら思う。
「なあ、美和子。この庭に咲く沈丁花の匂いは、きっとおまえの住む東京まで届く。そのたびにこの家のことを思い出してくれたら、オレはそれで満足ったい。他には何もいらん」
「ん……わかった。ありがとう、お父さん」
 私は涙で視界が滲んで、それだけ言うのがやっとだった。
「ほら、もうすぐ飛行機の時間やろ。早く行け。空港で石橋君が待っとろうが」
 父はゆっくりそう言って、ふたたび爪を切りはじめた。今度は左手の爪だ。私は指先で溢れる涙を拭いながら、逆光に煌く父の背中を見つめる。
「幸せにな」
「うん」
 沈丁花の甘い香りが、風に乗って穏やかな春の空に溶けていった。








  エントリ6 『宇宙刑事シャリオン』 橘内 潤


 二十一世紀後半、地球は宇宙からの侵略者を迎えた。宇宙魔族による地球侵略が始まったのである。
 地球全土の危機に際して人類はついに一致団結し、各国首脳陣による「地球会議」が組織された。
 宇宙魔族の送り込んでくる怪人どもに対抗するべく、地球会議によって結成された戦隊こそが「地球戦隊ジャスティスファイブ」だ。

 全世界から選りすぐられた戦士はジャスティスレッドを筆頭に、ブルー、グリーン、イエロー、ピンクの五人だ。五人の戦士は専用の超音速ジェット機で世界中を飛びまわって、怪人を引き連れて現れる宇宙魔族との戦いを繰り広げた。
 しかし激しい戦いの最中、グリーンは宇宙魔族の手によって連れ去られてしまう。無事に生還したグリーンだったが、彼はすでに宇宙魔族の手によって洗脳されていた。
「怪人はすべて地球会議が造っていて、宇宙人がいる場所に送り込んでいるだけだ。宇宙魔族の侵略そのものが地球会議の自作自演だったんだ!」
 電波封鎖されたテレビ局内での戦闘の末、グリーンは拘束されて治療施設に送られた。世界全域に流されかけた誤情報は寸でのところで差し止められ、宇宙魔族の策謀したかく乱作戦はあと一歩のところで失敗に終わったのだった。
 地球戦隊は新たなメンバー、ブラックを迎え入れて生まれ変わり、これまでと同様、宇宙魔族との戦いをつづけてきた。
 しかし、破局の時はふたたび訪れたのである。

「どういうことだ、答えろ、ブルー!」
「これが答えさ、レッド」
 ブルーの手にした熱線銃がイエローの胸を撃ちぬいた。レッドの足許には、イエローと同じように胸部を熱線で炭化させたブラックが倒れていた。
 五色のカラースーツを身にまとって邪悪な侵略者と戦ってきた地球戦隊ジャスティスファイブは、レッドとブルーがそれぞれ手にした熱線銃によって射殺され、五人から三人に減っていた。
「ブルー、貴様……ブラックが宇宙魔族のスパイだと言っていたのは嘘だったんだな?」
「半分は本当だ。ブラックはスパイだったが、その飼主は地球会議の爺ども――要するに秘密警察の人間さ」
「なんだと――!?」
 レッドは己がブルーの口車に踊らされていたという事実を知らされて絶句した。新参者のブラックより戦隊結成時からの仲間だったブルーを信じた挙句が、この惨状だった。
 レッドが、ブルーの提示した偽りの証拠を信じてブラックを銃殺したのと同時に、その光景に注意を奪われていたイエローがブルーに殴り倒され、無慈悲にも撃ち殺されたのだった。
「言え! 何が目的だ、ブルー!」
 レッドが銃口をブルーに向けようとすると、鋭い銃声がそれを制してレッドの足許に球形の穴を穿った。頭部をすっぽり覆う防護マスクの下で息を飲むレッドに、ブルーは嘲笑を放つ。
「動かない方がいい。ピンクが反物質ライフルで君を狙っているぞ」
「な――! 貴様、どうやってピンクを懐柔した?」
「あれも戦士である前に女だった、ということだ。はじめは反抗的だったが、お前にばらすと脅したら大人しく従ってくれたよ」
 レッドのピンクへの想いを知っていればこそ、さらにつづいたブルーの言葉はなおのこと悪魔的だった。
「そうそう、ピンクは新型更生剤の実験にも役立ってくれたな」
 更生剤とは、地球戦隊が捕えた宇宙魔族に対してつかう薬品――自分たちがいかに邪悪で、正義である人間のために奉仕しななければ生きている価値がないのかを身体に教えこむ「更生」時に用いられる麻薬である。
 すなわちブルーは、ピンクを陵辱した上に薬品と肉欲をもって洗脳した、と告げたのだ。
 レッドの視界は激昂で朱に染まった。
「ブルー、貴様は許さん!」
 だが跳ねるように光線銃を構えた右手は、肘から先が千切れて吹き飛んだ。宇宙魔族の貧弱な武装を寄せつけない防護服も、反物質ライフル弾の前では濡れた半紙に等しかった。
 肘から大量の血を流して悶絶するレッドを、ブルーの哄笑が打ち据える。
「いつ見てもいい光景だな、無力な虫けらが泣叫ぶ様というのは。どうだレッド、狩られる側にまわった気分は?」
 街宣車を乗りまわして宇宙魔族を追いたて、五人で一発ずつ銃を撃ちあって誰が止めを刺すかで夕食を賭ける――それが、正義と地球平和の使者ジャスティスファイブに許された特権だった。そのリーダーであるはずのレッドがいまは、激痛でのた打ち回っているのだ。その理不尽さが出血の激痛を超えてレッドを吼えさせた。
「貴様が何を企んでいるかは知らんが、無駄だ。地球会議が貴様の悪事を裁いてくださるに決まっているぞ!」
「ところが、だ。君の始末については地球会議のお爺さま方も了解済みなんだよ」
「なんだと!?」
 レッドはふたたび絶句した。
「最近、市民の皆様方から“地球戦隊はやりすぎなんじゃないか?”という声が漏れ聞こえるようになってね。街宣車で街中を追いまわすのはやりすぎだったようだよ、レッド」
「あれは貴様が、万人に正義を知らしめるために、と提案したことじゃないか!」
「ああ、レッド。君のような男が親友で本当によかった。直情的で短絡的で短慮で無礼で不躾で――騙してもまったく心が痛まなかったよ」
「き、きさまああ!!」
 痛みを忘れ、レッドは咆哮を上げて突進した。
 しかしブルーの射撃がレッドを迎え撃った。赤い防護服は至近距離からの射撃でなければ貫けない。だが、衝撃でレッドの身体を弾き飛ばすには十分だった。もんどりうったレッドの身体を熱線が容赦なく打ち据える。肩、腿、腹、頭と何条もの熱線に殴られて、レッドは転げまわる力すら奪われた。
 発砲の熱がのこる銃口がレッドに近づいて、羽を捥がれた羽虫を傲然と見下ろした。
「地球会議に対するクーデターを企てていた君は、仲間に諌められて暴走した末にその場で射殺される。これが爺ども承認済みのシナリオだ。現場監督の責任で、イエローとブラックの殉職も書き加えさせてもらったが――もう終幕だ。さあレッド、最期の台詞は何がいい?」
「……宇宙魔族の犬野郎め」
 それがレッドの最期の言葉となった。

 この後、地球戦隊はオレンジ、パープル、ホワイトを加えて再編される。リーダーに任命されたブルーの提言によって、レッド時代のオープンな掃討作戦は行われなくなった。地球戦隊の活躍がメディアに露出する回数は減っていき、地球会議に提出される報告書のみが地球戦隊の活動実体を示すものになっていった。
 地球会議がオレンジ、パープルが死亡していたことと、秘密警察員であるホワイトが更生剤中毒にされていた事実を知ったのは、ブルーがカラースーツと光線中で武装した宇宙魔族の集団を従えて地球会議本部を占拠した日のことである。
 クーデターの翌日、メディアに姿を現したブルーは、
「私は宇宙警察の潜入捜査官だ。地球会議の資料を押さえたことで証拠は揃った、この星を宇宙難民法違反で検挙する」
 と宣言したのだった。