第65回3000字小説バトル

エントリ 作品 作者 文字数
1自信回復の方法のぼりん3000
2死神太郎丸3000
3市営住宅401号室中川きよみ3000
4風景深詰3000
5シー・カミングるるるぶ☆どっぐちゃん3000
6コリキといっしょ青野岬3000
7死神に愛されるということごんぱち3000
8芥乃姫霜野浩行3000


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エントリ1 自信回復の方法 のぼりん


 明るい書斎に二人の男が向かい合って座っている。
 世の中が高度化し複雑になるにつれて、心の病を患う人も増えてきた。青年はなにごとかの悩みを抱えてここへ来ている。その彼を穏やかに見つめる中年の男は、心理療法のプロ、いわゆる心療カウンセラーだった。
 だが、カウンセリングが始まる前から、青年の顔つきは晴々としていた。
「思ったとおり、いいことがあったんですね」
 と、カウンセラーは青年のことを何から何までお見通しだとでもいわんばかりだった。
「まさかこれって、治療の成果なんですか?」
 カウンセラーはその質問には答えず、ただにこやかにカルテを拡げた。
「どうぞ、お話ください。まず、いつものようにリラックスすることが大切です」
「何から話していいのか……」
「前回は、あなたの心を支配していた、とらわれ、自信のなさ、ストレスなどのあらゆるマイナスの要因が、あなたから集中力や気力を削ぎ、緊張症や不安症、あるいはうつ症状として顕在化しているという話をしました。そして、あなたの潜在意識の中に巣くっているマイナス要因を理解することから始めて、いくつかの問題を探っていきました」
「はい、その中に自己回復の方法があると……。でもお話が難しすぎてよくわかりませんでした」
「しかし今、あなたは確実に心と体のメカニズムの調和を取り戻してきているはず」
「その通りです。これまで形の見えなかった不安のようなものが薄れ、なんだか自信が湧いてきたようにも思いますし、集中力が増してきたようにも感じます」
「ここ数日で、何か変わったことがあったと思います。それは何でしょう」
 青年は瞼を閉じて深呼吸をした。
「夢を見ました」
「ほう……どんな夢ですか?」
「夢の中で、同じ職場のある女性を休憩時間に屋外に呼び出し、愛の告白をしたんです。彼女は、仕事上いつも僕といがみ合い、競争しあっていた同僚でもありました。でも、そのとき始めて、僕は彼女に恋愛感情を抱いていたことを知ったのです」
「彼女に対する抑圧された愛情。それがまさにあなたの潜在意識の中で、あなたの心を蝕んでいた原因のひとつだったのでしょうね。あなたはそれに気づき、自己回復のために行動する勇気をもった。すばらしいことじゃないですか」
「でも、夢ですよ」
「原因を知ることが一番大切なことです。そこから、あなたにもっとも適した自己回復法が見つけられるのです。さて、夢の中であなたの告白は成功しましたか?」
「最初はダメでした。彼女は僕に対して頑なに心を閉ざしていたからです。でも僕は誠意を込めて一生懸命彼女を口説きました。自分にこんな情熱があるとは思いもしなかった。どうせ夢なんだから、と気分が大きくなっていたせいかもしれません。そのうち、僕の気持ちが少しずつ彼女に伝わっていくのが、実感できるようになりました」
「夢だという認識があったにせよ、あなたはそこで立派に自己解放できたということです」
「ところが不思議なのは、上手くいったのは夢の中ばかりではなかったということでした。翌日、会社で彼女と顔を会わせたのですが、なんだか僕を見る目がいつもと違うんです。僕に対する優しさというか、恥じらいというか、明らかにそういうものが言葉や行動の端々に感じられるんです。まるで夢の中の出来事が現実になったみたいでした」
「なるほど、それから……」
「また、彼女に対して別の夢をみました」
「別の夢? ほう……」
「彼女を口説いた後、結婚の申し込みをしました」
「なんと、結婚の申し込みまで……で、どうでした」
「悩んでいるようでしたが、これも成功するような気がします。夢だと思うと何でもできるもんですね。ついでに、別の課の女の子にも求愛しました。これもばっちりでした。それから、アパートの隣の奥さんにもデートの約束をしました。なんだか、自分って思ったよりももてるんじゃないかと……」
「ううん、しかし、そこまで効果があるとは!」
「効果?」
 青年は眉をしかめた。
「ってことは、これらの夢はあなたの治療法に関係あるってことですか?」
 カウンセラーは苦々しい笑顔で答えた。
「実はそうです。だが、効果を上げすぎたようですね。その治療法を説明する前に、もうひとつ、あなたは別の夢を見たはずですが、それについてお尋ねしておきたい」
「別の夢? 確かにもうひとつ、上司の命令を断る夢を見ました。あれほどすっきりしたことはない。考えてみれば、僕は今まで彼の命令に逆らったことはありませんでした。今まで長い間、僕はその上司に抑圧され、コントロールされてきたのだということが始めてわかりました」
「そして、その夢を見た後、現実でもその上司はあなたに一目置くようになった……」
「その通りです。まさにここでも夢が現実になりました」 
「それを聞いて安心しました。私の治療はすべて終わりです」
 カウンセラーは大げさな動作でカルテを閉じた。
「あなたは自分自身の力で自己を解放することに成功しました。すでに対人恐怖症、パニック障害、強迫神経症、うつ症などの心身症は克服されたはずですよ。おめでとうございます」
 青年は首を捻った。
「どういうことですか、さっぱりわかりません」
「説明しましょう。あなたが抱えてきた重度の心身症は、カウンセリングの段階でふたつの要素から起因していたことがわかりました。ひとつは職場のある女性に対する抑圧された愛情、もうひとつは恐ろしい上司に対する強迫観念です。その原因を解消するためには、あなたの心の中にわずかの勇気とわずかの自信が必要だった。私はそれをあなたの深層心理の奥から、催眠術という手法を使って導き出したのです」
「催眠療法、ってやつですか」
「まあ、似たようなものです。実は、あなたが見た夢は、夢ではありません。私の仕組んだ催眠術のプログラムでした。私の催眠術に操られて行動している間、あなたはまるで夢の中で自分を観察するように、現実を認識していたのでしょう」
「では、あれは夢ではなく現実だったと!」
「そうです。夢の中のあなたは劣等感の欠片もない、すばらしい自信と能力の持ち主だということがお分かりになりましたか? ただ、あなたの場合、催眠効果が大きすぎる傾向がある。ついでに別の女の人を何人も口説いたりするとは、さすがの私も思ってもみませんでした。まあ、たまにこういう体質の人もいらっしゃるようですが……」
 カウンセラーは屈託のない笑い顔を見せた。
 ところが、逆に青年の顔が見る見る曇ってきた。
「あれが夢じゃないとすると、別の日に文句をいってきた上司を、力いっぱいぶん殴ってしまったのも現実だってことですか?」
「ありゃ、そんなことまで」
「ついでに転んだ頭を踏んづけて、パイプ椅子で何度も叩き、彼の頭を潰してしまいました。それから、前から上司に僕の失敗を告げ口ばかりする隣の席の同僚を、屋上に呼び出して、そこから突き落としたりもしましたよ。夢なら何でもできると思って」
「ま、まさか」
「いつも思っていたんですが、このクリニックの受付の女、口の聞き方が生意気なので、これも夢の中でやっつけてしまいました。窓口のボールペンを鼻の穴に刺して、ぐりくりっと。きっと脳みそまで突いてるよ!」
「き、君」
「だって、夢だとばかり……」
「あ、あれは、私の妻だぞ!」
 それは、この自信満々のカウンセラーにとっては、まさに悪夢のような現実だった。








  エントリ2 死神 太郎丸


 借金して買ったマンションが、耐震構造の欠陥だとかで住めなくなった途端にリストラされ、職安から戻ったら女房と子供が少しの家財道具と退職金の入った通帳や印鑑と一緒に消え、離婚届が留守番をしていた。
 暫くは再就職を考えたが、フリーターも馬鹿らしくどうでもよくなり、そのうち棲家も無くし、何もしないでいたら浮浪者の仲間入りをしていた。
 なんとかゴミを漁って食料を調達し駅近くの地下通路でダンボールの家を持てたが、初雪が降ったら死のうと決めていた。
 寒いと思って目が覚めたら、地上では雪がちらついていた。拾った子猫を暖房代わりに腹に入れ、最後の食事に料亭のふぐ会席を店裏の路地で食べた。ふぐのから揚げが旨かった。
 どうやって死のうかと考えながら歩いていると、横道から男が近寄って来た。
「アンタはまだ死ねないよ」
「え?」
 私は驚いた。
「突然のこんち。死神です。あぁ他の人は見えませんから念のため。今死のうと思ったでしょ。判るんですよ」
 その男は、私と同じ浮浪者のような身なりだが、目は異様に深かった。
「そう変な顔をしないで。一応私だって神様の一人ですから」
「お迎え…?」
「いやいや、だからアンタにはまだ寿命がありますから、死ねませんって」
 話によると、8代前の先祖が変り者で祠を作って死神を奉った。その功徳で末裔の中で一番落ちぶれたヤツを助けるという事になったそうだ。
 死にそうな人の傍には必ず死神がいるが、足元に居る時に決まった呪文を唱えると死神は消える規則で、消える時にはどんな病気や怪我も全快してしまうという。但し枕元にいる場合はもう寿命だから諦めろという。都合8人助けられるそうだ。
 呪文を忘れるなと、何度も教えられた。エロアノマゲコミ、イクオィベッタヌ、カニイマギニィと唱えて、拍手をパンパンと二度叩けば良いという、半信半疑ながら練習していると、死神は消えていた。
 これは幻覚でも見たかと道を歩いていると、交通事故に居合わせた。大きく跳ね上げられた女性が、壁にぶつかって動かない。車から出て来た男は真っ青だ。
 女性の足元に死神がいて辺りは血だらけ。ちょっと試してみるか。
 側に寄って「エロアノマゲコミ、イクオィベッタヌ、カニイマギニィ」で拍手をパンパンと2度打つと、死神は恨めしそうに消え女性のケガは見る間に治った。捲れ上がったスカートの裾を直して女性が私を睨んでいる。
 真っ青だった男は、女性を病院へ連れて行こうとしていたが、私はそのままその場を離れた。
 これは奇跡だ。流石に神様だ。
「ちょっとすいません」
 後ろから疲れた顔の紳士に声をかけられた。
「今の女性を助けたのは貴方でしょ? 見てましたよ」
 私が何も言わないでいると、男は続けた。
「私の妻を見て頂きたい」
 男の妻はどんな病院へ行っても首を横に振られるだけで、もう長いことなしと宣告を受けているという。新興宗教でも何でも良いから助けたいらしい。この浮浪者に言っているのだから、本当に藁にもすがりたいのだろう。
 病気を治したら5百万くれるという。大金だ。
 タクシーで男の家に着くと、寝室に土色の顔の女性が寝ていた。死神が足元に手持ち負沙汰に立っている。
「ちょっと二人だけにして貰えますか」
 私が言うとしぶしぶと男は部屋を出て行った。
「エロアノマゲコミ、イクオィベッタヌ、カニイマギニィ」パンパンで死神は消え、女性の頬は桜色に輝いた。
 男を呼び入れると、感激した男は私を風呂に入れ食事をご馳走し金をくれた。何度も礼を言われ、住む所まで紹介してくれた。
 暫くすると、旦那が死にそうだという女をこの男が連れてきた。礼金は3千万。
 しかしその病人には頭の方に死神がいた。
「これはもう寿命が尽きています。これは私にもどうしようもない」
 そう言って玄関を出ないうちにガクっと息を引き取る。
 法力があると新興宗教の教祖みたいで、噂が噂を呼び礼金が5千万以上の話ばかりがやってくるようになった。

 6人治した後で途方もない依頼が来た。10億円。使い切れない。
 断ろうと思ったが、体格の良い男達に連れていかれた。
 ヤクザの屋敷だった。
 しかも死神は頭の方でウトウトしている。病人を寝ずに見張って疲れているのだろう。もう駄目だと部屋を出ようとすると、治さない限り生きては帰さないという。私は震えながら考えた。
 妙案が浮かんだ。
 死神に気づかれないよう衝立を部屋に持ち込み病人を死神から目隠しして、病人の寝ている布団に若いやくざを病人とは逆向きに寝させ、病人の顔を布団で多い、若いやくざの足を出した。
 衝立を外した途端に、死神が慌てて移動したのを見計らい。私は呪文を唱えて拍手を打った。キョトンとした死神が気づいた時は遅く、悔しそうに消えていった。

「ちょっとついて来なさい」
 突然死神が現れた。やっぱり不味かったなと神妙に付いていくと、そこはだだっ広い清潔な所だった。
「何だか、コンピュータルームみたいですね」
「まぁこっちの世界も技術革新が進んでるからね」
 薄暗い空間には、至る所に無数の端末が明かりを放っていた。
「モニターに丸だったり四角だったりの模様があるだろ」
「綺麗ですねえ、色んなのがありますよ。こっちのは赤くて大きいけど、こっちのは小さくて青いですよ」
「それが人の寿命ってヤツだよ」
「これが? へえぇ。このモニターの星型の模様は何だか消えそうですよ」
「それはアンタのだよ」
「え? だってまだ寿命があるって言ったじゃないですか?」
「この間私を騙したから、アンタの寿命データはそっちの赤いのと交換されたんだよ」
「それじゃ私はどうなるんですか?」
「そりゃ、もう直ぐ死ぬ事になる」
「まだ7人分しか使ってないんだから、残りの1回で私を助けて下さいよ」
「……。仕方が無い一度約束しましたからね。それじゃアンタの寿命データをこっちの端末に移しなさい。あんたは死にますが、今のままのアンタが生き返る事になるからね。まぁアンタのクローンを作るって事です」
「クローン人間になるんですか」
「まぁ似たようなもんだけど、自分がクローンだなんて意識は無いから心配はいらないです。とにかくこっちからデータを取り込んで、こっちの端末に入れれば出来上がりです」
「データを取り込むたって、何でやれば良いんですか」
「ipod持ってるでしょ。そのメモリに入れて移せばOK」
「これじゃそんなに入らないですよ」
「なあに、アンタの今までの経験からいったら、十分です。あたしもよくは判らないけど随分圧縮されてコピーされる見たいですから」
「で、どうすればいいんですか?」
「その端子にipodを接続して、カーソルをアンタのこのちっちゃい模様に合わせてこのボタンを押す。そしてランプが消えたら、こっちの端末に接続してこのボタンを押す。簡単でしょ。でも早くコピーして移動しないと間に合いません。ほらipodを出して接続してごらん」
「判りましたから。そんなに言わないで。カーソルが合わせられないじゃないですか」
「ほらコピー。コピー」
「ちょっと静かにして下さい」
「でも早くコピーしなきゃ死にますよ」
 慌てながらも取り込んだデータを別の端末に移そうとipodを繋ごうとしたが、なかなか接続出来ない。
「ほら。早くコピーしないと間に合わない」
「ちょ、ちょっと待って」
「ほら、コピー」
「コピーコピーって、そう簡単に出来たらクローンはいらない」

○作者附記:ごめんなさい。乱取りバトル(落語ネタ)に投稿するつもりだったのが、長くなり過ぎて3000字に投稿です。







  エントリ3 市営住宅401号室 中川きよみ


 化石のような市営住宅の生活は静かに朽ち果ててゆきそうだった。
「だからムラヤマさんがダメだったんじゃ」
 茶をすすりながら遠い目に怒りの火を灯らせてジイさんは決まり文句をつぶやく。ここ最近は少し調子も良いようで、3時間に1回くらいは感情を高ぶらせている。今となってみれば四六時中噴火しっぱなしだったジイさんの姿すら懐かしいというものだ。
「ムラヤマァッ! ¢∽≦∀△★……」
 呪いの文言はすでにカラカラに干からびていて、せいぜい段ボールの吸湿作用があるくらいだ。
 最終的に官庁からの受注が途切れたのは村山元総理の時だったにしても、それよりずっと前から先細りの一途を辿っていたし、我が家が赤貧にあえいでいるのはむしろここ数年のことだ。インターネットや携帯電話がすでに魔法みたいなものなのだから、敢えて魔法使いに頼む用事などないのも納得だ。ハリーポッターの流行に期待を寄せた両親も、今ではがっくりとうなだれて日々内職に精を出している。1個2円30銭と割の良いキャラクターグッズの型抜きシートが入った数多の段ボールで、狭い我が家は備品倉庫さながらだった。
 でも僕は特にジイさんに反論もしないし、第一できない。なぜなら今僕は猫だからだ。
 ニャー
 猫舌なので冷めた茶が欲しかったのに、ジイさんが投げて寄越したのは特価の羊羹の切れ端だった。ジイさんは棺桶に片足どころか半ば腰くらいまで突っ込んでいるので、もう猫が僕だということも忘れているのだろう。

 ピンポーン
 ずっと壊れていた玄関のベルが久しぶりに鳴った。母がいそいそと出迎えに行く。
「ああ、どうぞ」
 母は反射的に笑顔を浮かべそうになって無理やり口元を仏頂面したので、顔のパーツが崩壊しかけた。でも玄関先で姉の隣には、さらに崩壊寸前の男が立っていた。
 ニャー
 すごいのを連れてきたもんだ。
 姉はいつも通りぼんやりと薄笑いを浮かべた顔のまま不注意に僕の尻尾を踏んづけたり、やたら段ボールにぶつかりながらずんずん入ってくる。後ろをついて歩く男は毛玉がいっぱいついた強烈な異臭を放つ正体不明の靴下を履いていたので、僕は脳髄が痺れそうになった。
「あー、ねこちゃん」
 男は僕の横を通り過ぎてからふいに間延びした声を発した。後頭部に目がついているか、恐竜並に長い神経を持ち合わせているようだった。どちらにしても姉の恋人としての資質は備えている。
「弟なのよー。シンちゃーん、ここ、どうぞー」
姉はジイさんの向かい側に座り込んで血豆色のマニキュアをした手をヒラヒラ振っていた。
ニャー
 段ボールの陰からシンちゃんを見ている小さな父が不憫で仕方ないので、僕はすりよって大きな声で鳴いてやった。
「あー、お父さんも、ここー」
 姉は狭い隙間にある炊飯ジャーを指差す。この場に居る誰よりも緊張している小さな父は、娘に指示されたまま炊飯ジャーの上にちょこんと座り込む。まるで木製の座る動物の人形みたいに。
「それで何ヶ月なの?」
 ぬるいカルピスを配りながら母がぶっきらぼうに訊いた。小さな父の顔だけがボッと赤くなる。
「うーん、5か月かなー」
 姉は薄笑いを浮かべたまま適当に答える。
「えー? 先生は6か月だって言ってなかったー?」
 シンちゃんが無邪気に異議を唱えて、僕はまた脳髄が痺れそうになる。
「あんた達、どうするつもりなの?」
「どうするって、ねえ? 耳ちゃん?」
「別にぃ、その内生まれてくるでしょー」
「シンゴさんでしたっけ? 分かってると思うけれど、耳子はこういう子なんですよ。産むのは産むでしょうが、あなたその後責任持てるんですか?」
「はぁー」
 シンちゃんはぽりぽりと頭を掻く。荒塩のようなフケが降ってくる。一体、母は相手のシンちゃんだって姉とほとんど同じ『こういう子』だということに気付いているのだろうか。
「みっ耳ちゃん、おっお父さん、孫の顔を見るのもいいなと思うよ」
 小さな父は小さな声でフォローしようと試みた。
「お父さんっ! あんたは黙っときなさいっ!!」
 母は激高してカルピスもろとも食卓を粉砕させた。哀れな父はさらに一回り縮み上がり、姉とシンちゃんは母のパワーに素直に感嘆の声をあげた。ジイさんはと言えば常に震えている手を置く場所がなくなったので困りながら「マゴ、マゴ、マゴ」とつぶやき、その響きに何かを思い出してきょろきょろしていた。
 ジイさんの震える手が僕の頭部に触れ、ざわりと不気味な感触で撫でられので、もしかして僕のことを思い出しでもしたのだろうかと見上げたが、濁った両眼は焦点を結ぶ気配もなく「マゴ、マゴ、マゴ」とやっている。そればかりか、トランス状態のジイさんはかつてのように奇怪な煙を後頭部からもうもうと立ちのぼらせている。
 心も身体も小さな父も、舅の異変に気付くと気の毒なほどビクついた。
 稀代の魔法使い鮫山紋治郎の孫弟子であることを誇りにしているジイさんは、幼い頃より才能を噂されていた父を婿養子に迎えたが、如何せん父は小心者すぎた。気が弱いところへ来て舅はこのジイさんである。ジイさんが片時も休まず吹き上げ続ける硫黄の臭いの憤怒の煙にやられて、父の才能の芽は瞬く間に枯れ果て、全く伸びることなく終いには身体まで縮んでしまったのだ。
「くっさいねー」
 家の中には硫黄の臭いが充満している。姉とシンちゃんは笑いながら突っつきあってふざけている。妊娠して嗜好が偏ったのか姉はどうやらメロンに執着しているらしく、笑うたびに制御が効かなくなり手近なものが次々とメロンに化けた。
 父の才能を受けた姉は恐らく天才の部類に入るのだろうけれど、天才にはありがちなタガの緩んだ人物で、緩み具合は年齢を追うごとにひどくなっていった。数年前、可愛がっていたイタチを油断した隙にジイさんに食われた際、弟の僕をイタチの代わりにネコにしてしまったほどだ。ネコにしたのは、別段ネコを意識した訳ではなく、可愛がっていた割にはイタチを正確に再現できずにネコになってしまっただけだ。あいにく、我が家で最強の姉がかけた魔法は他の家族の誰にも解くことができず、当の姉はますます緩んで僕を人間に戻すことなど思い付きもせず、だから僕はネコのままだった。

 硫黄の臭いに熟れたメロンの香が混ざって窒息しそうだった。
「マゴーッ!」
 ジイさんも窒息しかけたのだろうか、雄叫びをあげて輝いた。それは美しいローズピンクの輝きで、煙と一緒にジイさんの後頭部から溢れたかと思うと塊になって光量を増し、あろうことか姉の腹部へ突き刺さった。
「……それじゃ、ひ孫じゃーん」
 ジイちゃん、孫になりたいのはいいけど間違えてるよ、と姉は一人で膨らんだ腹を抱えてげらげら笑い出した。傍らにはジイさんの抜け殻が落ちている。
「やれやれ、ボケてんだから仕様がないね。まぁその内曾孫になってまた生まれてくるさ」
 母はよっこらしょと立ち上がり、ジイさんの後片付けを始める。場はお開きとなった。
 僕は大きく伸びをする。そして、自分は最初からネコで「人間だった」夢をみただけのことではないかと、また思う。どちらにしても証拠はないし状況は変わらない。確かな筈のものたちの隙間にはいつだって不確かなブラックホールが口を開けているのだ。
 背中に心地よい熱さを感じた。見れば雲間が切れて明るい陽光がまっすぐ僕の背中にまで届いている。僕はもう一度大きく伸びをする。








  エントリ4 風景 深詰


 土曜の最終レースで起死回生の六十倍が付いた。払い戻し機から出て来た、近頃見たこともない現金を手にして気が大きくなり、家の近所のわりと大きな金物屋で網戸を買って帰ることにした。
 会社のそばのアパートに引っ越して来て四年、汚れを拭いたこともない網戸のことは、春先からずっと気になっていた。あちこちが破れて虫は入り放題、エアコンの調子もおかしくなり始めているし、今年の夏は窓を開けて眠ることになりそうなので、網戸のサイズはコンビニのレシートの裏に書いて、財布にずっと入れっぱなしにしてあった。いざ金物屋に入ると、あれこれ欲しくなってしまい、つい、醤油さしに、使いもしないドイツ製のミキサーと小さな中華鍋まで買ってしまった。
 網戸を脇に抱えて帰るのも面倒そうなので、ナイロンひもでくくって、プラスチックの持ち手を付けてもらったが、自分の身長より大きな手さげカバンのようなものをぶら下げて帰るのは案外、骨が折れた。気を許すと背後でガリガリと地面を引きずる音がするし、後ろを気にし過ぎて網戸を足元の段差に引っかけて棒高飛びしそうにもなった。細い横道に入る時には、周囲にぶつからないようにわざわざ楯のように掲げて歩いた。すると網戸の向こうがよく見える。アパートまではあと数分だ、見た目に格好が良いとは思えないが楽なので、網戸に隠れるようにそのまま帰ることにした。
 すでに日が暮れていたが、説明書きを見ると取り付け一分、なんてあるので早速ビニール包装を破く。もともと取り付けてあった古い網戸の安全ストッパーは、ほこりでこびりついていてややてこずったが、新品のはさすが新品と思わされる手軽さで、本当に一分で済んだ。外した網戸はそのままベランダに寝かせておき、部屋のなかから、青く澄んだ美しい格子の向こうに見える、見慣れた近隣の景色をしばらくぼんやり眺めていた。
 規則正しく並んだ座標のなかに、昨日と同じ風景が、昨日と違うきちょうめんさで広がっている。片目をつむり、景色を見つめると、霞んだ水色のベールが隣家からこぼれる照明を細かな十字に分解し、網戸に焦点をあわせると、方眼紙に描いた淡い水彩画が現れてくるようで楽しい。すべてが網戸の格子によって極小の正方形に区切られている。
 左最上部のおよそ百マス四方の夜空を風呂屋の煙突が区切り、その真下はここと風呂屋の中間地点、五階立ての細長いマンションが格子を明るい灰色に塗りつぶしている。その五百マスほど右側の、縦に二百、横に八百マスぐらいの範囲は、二等辺三角形の、使い道のなさそうな空き地をはさんだこのアパートの大家さん宅の屋根だ。屋根の上にはいくつかの星が、それぞれの位置関係を正確に指し示すように、座標のなかでかすかに明滅していた。こうして見てみると、大家さんの家と、その右隣の家との隙間は上辺のほうが長い台形をしているのが分かる。大家さん宅が、やや左へ傾いているらしい。縁起でもないな、などと、思わずひとりごとを言う。網戸を通して見える下半分はステンレスで出来た鈍い色したベランダの手すりと空き地のこちら側に建っているブロック塀、その向こう側のトイレの高い窓。朝になれば、空き地の雑草ぐらいは見えるかもしれない。せっかくだからガラスを水拭きして、窓を閉めても景色がくすまずに眺められるようにしよう。あした金物屋でガラスクリーナーでも買ってくるか。
 日曜の朝、珍しく自分の意志で早起きした。窓際に立ち、念入りに歯を磨く。ゆうべは気付かなかったが、空き地に壊れた自転車がひっくり返っていた。前部のカゴがひしゃげていて、礼儀正しい格子の中では居心地が悪そうに見える。床に脱ぎ捨ててあったジーンズに穿き替えて、自転車がブロック塀に隠れる位置に移動させた。再び部屋から見下ろす。なんだかよくわからないが満足だ。
 窓拭きを済ませても、まだ昼前だった。特にすることもないので、無地の大学ノートに一ミリ四方の格子を描き、精密に雨戸の外にみえる光景を写してみることにした。左上のから順番に、マスの中に見えるものに近い色の色鉛筆で塗りつぶしていく。雲雲雲雲、空空空、煙突煙突煙突、雲雲。飛行機が見えたが無視。五十五列とちょっとの作業を済ませた時に、真下に住んでいる会社の同僚の佐藤さんが「カレー食べる?」と鍋を抱えてやってきた。なぜか僕に親近感を持ってくれる明るくてよい女の子なのだが、バレー部出身らしい大変な長身で、僕にはどうしても下心を抱けない。それを知ってか佐藤さんも僕に対してまるで警戒心を持っていないようだ。
「あれ、網戸替えたんだ?」
 部屋に入るなり、外を指さして僕の横を通り過ぎて窓に近寄っていく。よく気付いたねと佐藤さんの背中に語りかけると、普通気付くでしょと、ガラス窓を開いて振り向いた。
「昨日競馬で十万近く勝ったからさ、真夏に窓開けて眠れるようにと思って」
「そのお金で壊れたエアコン買い替えられたんじゃないの?」
「あ。安いのだったら買えたかも」
「おっちょこちょいだね相変わらず。ところでいま、ヒマだった?」
「ん、絵、描いてた」
「何の?」
「ここから見える景色」
「景色なんて、何も見えないじゃない」
 手渡した大学ノートを見て、ナニコレ? と腹に響くような低い声で、座っている僕を高いところから見下ろす。しかしデカいなこの女。
「ほら、網戸を通した景色をドット画みたいな感じでさ」
 僕の視点と彼女の視点では格子それぞれの構成は違うわけで、この絵と彼女の視覚はすぐには一致しなかったらしい。かがんだり、網戸に近づいたりしながら大学ノートと見比べて、「ああ、そういうこと」と半ばあきれた顔をして僕に振り向いた。
「ヒマだねえ、キミも」
 佐藤さんが素足のままベランダに出て、手すりに寄りかかった。ここから見えるものなんて、面白くもなんともないじゃない。どうせ描くならもっとキレイな風景描きなよ、海とか山とか渓谷とか。
 それは確かにそうかもしれないが、海とか山とか渓谷とかは、その場に行かないでも、バランスよく描いた想像上の風景画の方が、かえって感覚に訴えたりするものだ。山っぽいもの、雲っぽいもの、鳥が空を飛んでいるように見えるつぶれたMの字、そういった「風景」を構成する観念を情緒的に描けばよいわけで、あるべき場所にあるべきものだけを、正確に写し取る必要なんか、たぶんない。佐藤さんの好きな風景もきっと、この世に実在している必要性がないのだろう。
 ベランダで佐藤さんが、まだ新しいにおいがするね、と閉めた網戸に顔を近づけた。実はちょっと気になってたのよ、穴だらけホコリまみれの網戸が。ま、しょうがないか、ウチ給料安いもんね。
 網戸越しの佐藤さんが、直角だけで出来た秩序に従って分解されて見える。空も雲も風呂屋の煙突も、網戸のマス目を埋める風景の一部、さまざまに塗り分けられた細かな正方形の集合体でしかない。そこには想像で描かれた風景画のような感性も情緒も排除された、絶対的な位置情報と色の違いしか存在していない。
「なにぼんやりしてるの?」
「いや、佐藤さんの絵でも、描いてみようかな、と」
 なんでもない景色の前で両手を重ねる佐藤さんが、なんとなくモナ・リザのように見えた。道端に咲く雑草や水平線に浮かぶヨットのように、風景画の一部として描かれた佐藤さんは、佐藤さんに見えるのだろうか。







  エントリ5 シー・カミング るるるぶ☆どっぐちゃん


 さて実際世の中には思いがけず愉快なこと、面白いことがあるのであるがこの店も一例であろう、というのも仕事が早く終わり、そのまま家に帰るのがちょっとあれだねっていうことで適当な店に入ってちょいと一杯ひっかけたろと思って入っただけなのであるが、うまい。思いがけずに、この店は、うまい。うまいし気が利いている。壁にずらっとメニューが並び定番物からちょっと珍しいものまでお手ごろ価格でご提供であり、ひゅっと頼むとしゅっと出てくる。実に気が利いている。つるつるっと、テーブルに皿が並び、良い感じに飲んでいるとあれですよ、安酒でも全然いけるんですよ。安酒でも全然問題ないのですよ。それでもってさらに愉快であったのがカウンターで飲んでいた男で、変な帽子をかぶっていてちびちびやっているのだが、わたしと目が合うとにこりと笑って実に丁寧にお辞儀をしたのであった。その男の話がなかなかに面白く、まったくもって寄り道をして良かったなあと思ったのである。どうせ家に帰ったところでだらだらシャワーちゃらしてビールちゃらしてテレビに文句ちゃらして寝るだけであるのでね。テレビを見ると、いけない。文句言って、それで疲れてしまうからね。疲れて、それでちゃらってしまうからね。男は服飾関係のデザイナーであると話した。そして、全く売れていないのであるとも話した。そうであろうそうであろう。頭にかぶった帽子は自作であるらしいのだが全く変であり、そりゃあ売れんであろうよとわたしが言うと、そうですかねえ、そうですよねえ、と言い、にこりと笑って、実に丁寧にお辞儀をするので、わたしははあははは、わははははは、と笑ってしまうのであった。ふはははは、実に君は面白いのだねえ、愉快であるねえ、と肩をばんばん叩いて笑ってしまうのであった。男は全く売れていないので、女と同棲していて、そこで食べて風呂に入って服飾をデザインしていると言った。全く物好きな女がいるものだねえ、君をねえ、ふうん、君を食わせているのかい、まあでもあれだね、君はほっそりしててなんていうかあれだから、まあ男の僕が見るには貧乏そうな奴だねえ食えてないんだろうねえ、とかしか思わないのだけれど、あれだねえ、まあ女の子が見る分にはなんていうかそうだねえ、素敵に思う部分があるのかもしれないねえ。男、まあそうですかねえ。そうですねよねえ。にこり。ぺこり。さらに愉快であったのが、男は先ほど女を殺してしまって、これから先どうしようか、と思っている、と語ったことであり、ははははは、そいつは大変だねえ、どうする? どうするどうするう? 君は一人でやっていけるのかい? ふふ。ふふふふ。全くもって君は駄目な奴だねえ。色男、金と力は無かりけりって奴だねえぷふふふ、僕なんてぶさいくで良かったと思うよおぷふふふ。とわたしはなってしまった。男、そうですよねえ。どうしましょうか。にこり、ぺこり。
 女はどうしているのだい、と聞くと、部屋にそのままにしてある、と男は答えた。
 では見に行こうじゃあないか、と言うと、ああ、そうしてくれますか、と男は答えてにこりと笑い、ぺこりとお辞儀をしたので、わたしたちは店を出た。もちろん奢ってやりましたよ。ちょっとした寄り道のつもりが思ったより高くついたが、カードが使えたので助かった。使えるんだねえ最近の店は。こんなに小さな店でも。金なんてものは、ためてはいけない。ためても、仕方が無い。使う。愉快に使う。こういう愉快なことにばんばん使うべきであるよ。
 夜道は街頭のせいでひどく明るく、夜風が気持ち良かった。べたべたと張られたポスターがひらひらと風に揺られている。ポスターの中の女が、首をかしげてこちらを見ている。こちらを見て微笑んでいる。
「なんで殺したのだい」
「殺して、って言われたのです」
 男によると、あなたのことが好きで好きでたまらないのだけれど、あなたはきっとあたしのことなんて忘れてしまうから、絶対に、あなたは忘れてしまうから、だからその前に、忘れられてしまう前に、あたしはあなたに殺されたいの、と女は語ったそうである。
 愛してる、と言っても、愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してると何度言っても、殺して、殺して殺して殺してお願い殺して殺して殺してお願い殺して殺してあなたがあたしを忘れる前に殺してお願い、と聞かなかったので、わたしは女を殺しました。と男は語った。
「ここです」
 男に連れられ小奇麗なマンションの一部屋に、わたしは入った。
 中は広く、綺麗にしつらえられていたがその中に一部屋だけ、少しだけ開いた扉のその向こうにごちゃごちゃとした様子が見えた。多分男の部屋であろう。男のアトリエなのであろう。あの珍妙な色合いの帽子や服や奇異な形の物体がたくさんならんでいるのだろうか。ちらりとだけみえたそこは、凄まじい色合いであった。ぞくりとした美しさを、わたしはちょっとだけ感じてしまった。
「こちらです」
 ベッドの上に、女は裸で寝ていた。黒髪の美しい女である。首には絞められた跡があり、胸に手を当てると心臓は確かに動いていなかった。ここに来るまで殺しなんて信じていなかったが、男は本当に女を殺していたのであった。
「じゃあ行きます」
 男の声にわたしは振り返る。
「どこへ」
「警察へ。自首します」
 最初からそうしろよ、と思ったが、ともかくそう言って男は出て行き、わたしは女とともに残された。
 女は美しかった。
 わたしは女が嫌いであった。自分は醜い顔をしているしから相手にされないし、女はくだらないことにばかり夢中で、くだらないことばかりしている。わたしは女が嫌いであった。わたしは、だから、今でも、童貞であった。
 しかし今解った。わたしは女が嫌いなのでは無かった。怖かったのであった。とても怖くて、だから嫌いなふりをしていて遠ざけていたのであった。
 寝ている女は、怖くなかった。もう動かないことが解っているからか、怖くなかった。美しかった。
 わたしは女の股を開いた。女性器を、わたしは初めて見た。もしゃもしゃとした毛に覆われたそこを、わたしは初めて見た。
 ズボンを脱いでみる。勃起しない。勃起しないまま、女のそこに、わたしはねじ込んでみた。
 ねっとりとした、柔らかな暖かさが伝わってきた。勃起しないまま、動いてみる。
(これが女か。これが)
 わたしは少しだけ泣きたくなった。女に。自分に。が、泣かなかった。泣かないで驚いた。背後から声が聞こえたからだ。
「君、わたしは警察なんだがね」
 振り向くと、そこには警官が立っていた。毛皮のコートを着て、青い瞳で、美しかった。あの男に、どこか似ていた。
「ああ、まあ良いよ。女が裸で寝ていたんだからね。当然だよ。話はもうあの男から聞いているから。大丈夫だよ」
「はあ」
 あの男は何故か何処にも居なかった。何処に行ったのだろうか。警察に居るのだろうか。
「ふうむ」
 警官がしゃがみこみ、わたしの耳元で囁く。
 近くで見ると、あの男に、本当に似ていた。
「ところでねえ、屍姦、というのは、良いのかね?」
「いや、はあ、ええ、まあ」
 ひどく恥ずかしかった。その恥ずかしさに、わたしの性器はぎしぎしに勃起していた。
「どうなんだい? 興味があるところだけどねえ。ん? どうなんだい? 言ってご覧よ」
 わたしは体をびくりと震わせ、射精した。






  エントリ6 コリキといっしょ 青野岬


 犬の「コリキ」が死んでしまってから、もう一週間になる。
 コリキは僕が生まれる前からずっと家にいた、オスの柴犬だ。昔、お父さんが近所で生まれた子犬の中からもらってきたらしい。
 茶色っぽい短い毛にピンと立った耳、そしてくるりと巻いたしっぽ。コリキはとてもおとなしく利口で、一人っ子の僕にとって兄弟みたいな存在だった。
 僕はコリキと一緒に大きくなった。嬉しいとき、楽しいとき、そして辛いことがあったときも、いつも僕の隣にはコリキがいた。コリキのいない生活なんて、考えられなかった。
 それなのに。
 コリキは死んでしまったんだ。僕ひとりを残して。
「コリキはもうおじいちゃんだったから、仕方がないわよ」と、お母さんは言う。でも僕は納得できない。生まれたときから一緒で、これからも僕が大人になるまでずっとずっとそばにいてくれると信じていたのに。
 たしかに息を引き取る前のコリキは、かわいそうだった。年老いて足腰が弱くなり、自由に動き回ることもできなくなっていたし、食欲も落ちて、大好きだった散歩にも行かれなくなっていた。コリキは玄関に置かれた専用の毛布の上で、うとうとと眠ってばかりいた。
 朝、起きると、コリキはいつもの毛布の上で既に冷たくなっていた。何度名前を呼んでも、ぴくりとも動かない。苦しんだ様子がなかったことだけが、せめても救いだとお母さんは言った。僕はコリキの体を擦りながら、わあわあと声をあげて泣いた。
「ほら祐樹、あんたも自分の荷物をまとめてちょうだい。お母さん忙しいのよ」
「わかってるよ」
 僕の家は来月早々に引っ越しすることが決まっている。行き先は横浜ってところだ。今はお父さんだけが先に行って、ひとりで暮らしている。でもこのまま家族が離れ離れで暮らすのは寂しいので、僕の中学進学にあわせてお母さんと一緒にお父さんのところへ行くことになったんだ。
 本当は横浜になんか、行きたくない。僕は密かにそう思っていた。
 だってこの家には、コリキとの思い出がたくさん染みついている。コリキの魂はまだ、この家にいるはずなんだ。それなのに僕が引っ越してしまったら、きっとコリキは寂しがるに違いない。だから僕は、この家から離れるわけにはいかないんだ。
「……でも祐樹。新しい家はマンションだから、動物は飼えないのよ。だからコリキにとっても、考えようによってはいいタイミングだったのかもしれないわよ。長年育ったこの家で、人生をまっとうすることができて」
 テレビゲームのソフトを段ボール箱に詰めていたら、台所で夕食のしたくをしていたお母さんが言った。僕はその言葉に驚いて、手に持っていたゲームソフトを投げ出して立ち上がった。
「そんな……お母さんはコリキが死んで悲しくないの? 僕は嫌だよ! コリキと一緒にずっとこの家で暮らしたかったよ! 横浜なんて僕、行きたくない!」
 お母さんは包丁を手に持ったまま、呆然と僕を見た。
「祐樹……」
 ひどい、ひどいよ。お母さんだってコリキのことを、すごく可愛がっていたはずなのに。あんな酷いことを言うお母さんなんて大嫌いだ。そして僕とコリキを引き離そうとするお父さんも大嫌いだ。
 サイドボードの上に飾られたコリキの写真が、僕を見つめている。僕はそのまま自分の部屋に篭り、布団にもぐって泣いた。

 ふんふんと、湿った温かな息が顔にかかる。あれと思った瞬間、濡れた鼻先が僕の頬に触れた。
「コリキ……?」
 目を開けると、そこには元気そうなコリキの姿があった。毛布の上にぐったりと横たわっていたコリキではなく、もっと僕が幼かった頃の若いコリキだ。コリキは僕の顔を覗き込みながら、長い舌で何度も舐め上げた。
「コリキ、生きてたんだね! 死んだなんて、嘘だったんだね!」
 僕はコリキの体を思い切り抱きしめた。柔らかな毛並みと懐かしい臭いが、僕の体をそっと包み込む。コリキの体は、とても温かかった。
「もう離れないからね……僕たちはこれからも一緒だよ。ずっとずっと」
 コリキは嬉しそうに激しく尻尾を振りながら、僕の顔をぺろぺろと舐め続けた。

「祐樹、ごはんよ」
 お母さんに揺り起こされて目を開けると、窓の外はすっかり暗くなっていた。どうやら泣きながら眠ってしまったらしい。時計を見ると、時刻は夜の七時をまわっていた。
「うん……」
 体にはまだコリキを抱きしめたときの感触が、生々しく残っている。僕は腫れぼったい目を擦りながら、ベッドから下りた。台所からカレーの匂いがする。その匂いを嗅いだ途端に空腹を感じて、お腹がぐうと鳴った。
 ダイニングテーブルに座り、もくもくとカレーを口に運ぶ。僕は何も喋らなかったし、お母さんも無言のままだ。なんとなく重苦しい空気が部屋の中に満ちていて、胸が苦しい。こんなときコリキがいてくれたら……と、思わずにはいられない。
 そのとき、リビングに置かれた電話が鳴った。
 お母さんがあわてて席を立って、受話器を取る。電話はどうやらファックスだったみたいで、お母さんがボタンを押して受話器を置くと、少ししてびりびりと音を立てながら何かが送られてきた。
「祐樹、お父さんからファックスきてるわよ」
「僕に?」
 僕は驚いて立ち上がり、送られてきたファックス用紙を受け取った。「祐樹へ」と書かれた紙にはなぜか、日本列島の地図が大きく描かれてあった。
「何、これ? 日本地図……?」
 よく見ると、その地図の真ん中あたりに丸いしるしが書き込まれてある。そしてそれを囲むように、県の形が太いペンでくっきりと縁取られてあった。
「あら何なの、これ。神奈川県だけ縁取ってあるけれど」
 お母さんも横から覗き込んで不思議そうな顔をしている。お父さんは一体どういうつもりで、僕にこのファックスを送りつけてきたんだろう。
 そう思っていると、再び電話が鳴った。
「もしもし。はい。ええ、いるわよ。祐樹、お父さんが話したいことがあるって」
 電話はお父さんからだった。さっきのファックスと、何か関係があるのだろうか。僕は口の中にあったにんじんをあわてて飲み込んで、受話器を受け取った。
「もしもし」
「おう祐樹か。地図、見たか?」
「うん、見たけど……でも何なの、あれ。全然意味わかんないよ」
 それを聞いたお父さんは、思いがけないことを僕に言った。
「それじゃあ、ここで問題です。地図の中にはコリキがいます。さて、どこにいるのでしょうか?」
「えっ、コリキが?」
 僕は半信半疑のまま、地図を見つめた。お父さんのいる横浜は、神奈川県にある。そして地図上にくっきりと縁取られた神奈川県の形は、よく見ると右を向いた犬のような形をしていた。
「本当だ! お父さん、コリキがいるよ!」
 僕は思わず叫んだ。
「だろ? だから祐樹。これからはまたずっと、コリキと一緒に暮らせるんだぞ。何があっても、きっとコリキが守ってくれる」
「うん……」
 僕はまた泣きそうになって、鼻をすすった。
「来月から一緒に暮らすマンションは、このしるしのところだ。ちょうどコリキの前足の付け根あたりだな」
 お父さんに言われて、僕はもう一度送られてきた地図をじっと見つめた。
 ありがとうコリキ。そしてこれからも、僕達はずーっと一緒だからね。
 電話を切ってから、僕はもう一度サイドボードの上に置かれたコリキの写真を見た。どこからかワンワン! と、コリキの元気な声が聞こえたような気がした。








  エントリ7 死神に愛されるということ ごんぱち


 アキがふと目を醒ますと、死神がいた。
 同い歳ぐらいの、穏やかな笑みを浮かべた青年が、窓の外から、アキを見つめていた。
「死神って、こういう風に見えるんだ」
 アキは呟く。
「おや、気付かれましたか」
 死神は窓をすり抜け、入って来る。
「最近の人には珍しい」
 心に直接語りかけて来る声だった。
「昔の人はよく見えたの?」
「そうらしいですよ」
「ふうん……けほっ」
 アキは小さく咳き込む。
 口の端から、血が筋になって流れる。
「あたしの命は、もうおしまいって事だね」
 アキは血で汚れた口を、ちり紙で拭う。
「はい」
 タカイが振り出し式の鎌の刃を開いた。
「はは、怖い」
 アキは笑った。
「死にたく、ないなぁ」
 タカイは振り下ろそうとする。

 する、が。
「どうしたの――げほっ」
 アキはちり紙をひとつかみ取り、血混じりの痰を吐く。
「……お医者さんには、行かないんですか?」
「死神さんが言う台詞じゃないよ」
 アキはゴミ箱にちり紙を投げるが、半分も届かず落ちた。
「もう、普通の人の一生分ぐらいは、医者には行ったもんね」
 アキの呼吸は弱まっていた。
「この肺の事で、何度も、何度も、何度も、何度も、検査して、手術して、検査して、手術して。でも、ちっとも治らないで、金ばかりかかって、それで、母親は逃げて、父親も家に寄り付かなくなって」
 アキは胸を押さえる。
「こういうの、何て言うんだっけ。リグレット?」
「ニグレクト」
「そうそう、それ。この前考えてて、出なくてイライラしてたんだ。スッキリした」
「そうですか」
 タカイの目には、弱った身体からズレ出るアキの魂がはっきり見える。
「これで思い残す事ないや」
 だが、魂は尚も身体にしがみつこうとしていた。
「さっぱりやっちゃってよ」
 タカイは彼女の言葉に後押しされるように、鎌を手に取る。
「鋭そうだね、その鎌」
「魂砕きですから」
「砕くの?」
「砕いて世界に帰し、次に転生させます」
「へえ……地獄とかない訳?」
 アキはゆっくりと寝返りを打つ。
「魂は死んだら、すぐに次のものに転生します」
「そうなんだ」
 弱々しく笑う。
「だったら、悪い事したら地獄に落ちるって、あれ、嘘?」
「人間が社会の秩序を維持する為に作ったお伽噺ですよ」
「なーんだ、そうだったんだ、ばかみたいだな」
 アキは笑い顔を作る。
「あたし、さ。良い子だったんだよ」
「良い子ですか」
「うん。勉強とかはしなかったけど、友達思いでさ、病院行く時も逃げなかったしさ、お母さんが出て行く時も一発しか殴らなかったしさ、お父さんにぶたれた時も近くに包丁あったけど使わなかったしさ」
 おどけた風に笑う。
「それも、悪い事したら地獄に落ちちゃうって、ちょっと思ってたからなのにな。こんな事なら、遠慮しないで好きな事したら良かったのに」
 涙がこぼれた。
「もっと、ワガママ言って、好きにして、思い残す事なんて、なんにも、なんにもなくして」
 涙は止まらない。
「やりたいこと、いっぱい、いっぱいあったのに。まだ、なんにも出来てないのに。何ひとつ」
 タカイの鎌を持つ手が下がる。
「やだよ、死にたく、死にたくないよ。生きてたいよ。いなくなるなんて、いやだよ。助けて。怖いよ、死にたくないよ……」
 叫びと呼ぶには、あまりに弱々しい声だった。
「殺さないで、あたしをあたしでいさせて。あたしを消さないで。消えたくないよ。あたしはいるんだよ、いなくなりたくないよ。ねえ、死神さん、死神さん! なんでもするから、なんだってあげるから、もっと、もっと生きさせて! 生きさ――」
 興奮と恐怖の呼吸に肺が耐えられず、アキは意識を失った。
 魂はいかにも切り取りやすく、身体から露出している。
 しかし、タカイの鎌を持つ手は、振り上げられる事はなかった。

「まだ刈れていないのか?」
 死神長のオワリの口調に、少々非難めいた調子が混じる。
「……別の魂が緊急だったもので」
 鎌を研ぎながら、タカイは言葉を濁す。
「タカイ」
 オワリは、丁度空いている隣のデスクの椅子に座る。
「情でも移ったか?」
「いえ」
 タカイは激しく首を横に振る。
「命には必ず終焉が訪れ、魂は転生する。それは、新陳代謝とでも言うべきものだ」
「……分かってます」
 鎌を拭いて、タカイは出て行こうとする。
「まあ待て」
 オワリは静かに、しかしただならぬ気配を込め、呟くように言った。
「造物主が世界を作った後、生物を生んだ。土くれから生み出されたそれは、本来動くようなものではなかった」
 立ち上がりかけていたタカイは、気まずそうに座る。
「そこで造物主は己を砕き、全ての生物に宿った。造物主は、気まぐれに様々な魂に意識を集中させ、生物の一生を『体験』している」
「造物主の遊び場」
「そう。それが世界だ」
 オワリは笑う。
「造物主は『飽きた』から、世界を生んだ。造物主でさえ、同一の状態に耐えられなかった。いわんや、そのカケラである、生物たちをや」
 オワリは自分の鎌を振り出す。
「魂は記憶をリセットされ、次々に新しい命に流れていく。その流れを滞らせない為に、俺達はいる。世界を生かし続ける為に、造物主の記憶と意思を僅かばかり残された神というものが、存在する」
「……それは」
 タカイは、視線を逸らした。
「目の前の生き物が、どんなに死にたくないと言っても、さしたる意味はない。例えそれが、造物主を模した人間であっても、所詮は命の戯れ言だ、魂の言葉ではない」
「でも」
「少し別の仕事をすると良い」
 オワリが立ち上がる。
「い、いえ」
 慌てて、タカイはオワリを追い越してドアに手をかける。
「僕がやります」

 ベッドのシーツは、血のシミがあちこちに出来ていた。
「……死神さん?」
 アキは壁をすり抜けて入って来たタカイを見る。
「ありがとね、待ってくれてるんでしょ?」
「期ではないだけです」
「はは、死神なのに、ウソが下手なんだ」
「う、嘘なんて言ってません」
 タカイは何も言わずに目を逸らす。
「ありがとう。でも、やっぱり、自分がなくなるなんて、やっぱり残念」
「……いきましょう」
「寝るまで、待ってくれない?」
「いや、いきましょう」
「逝くんでしょ?」
「生きましょう。僕が守ります。死から!」
「ええっ?」
「――それが、答えか」
 次の瞬間。
 タカイの影から現れたオワリが、鎌を真っ直ぐアキの魂に振り下ろした。
 一瞬早く、タカイは鎌を振り出し、受け止めようとする。
 だが、タカイの鎌は、持っていた右手もろとも切断される。
「考え直せ、タカイ」
「嫌だ!」
 タカイは左手一本で刃が半分ほどになった鎌を投げ付ける。
「残念だ」
 オワリの鎌が、タカイの鎌もろともタカイに振り下ろされた。タカイは肩をざっくりと切り裂かれ、魂が削られていく。
 しかし。
 膝をついたのは、オワリだった。
 タカイの手には、切られた鎌の破片が握られていた。
「無駄な……ことを」
「無駄なものか!」
「役割を失った神は……無価値だ」
「僕は、生きてるんだ」
 タカイはオワリに鎌の破片を振り下ろした。何度も、何度も、形がなくなるまで。
「助かった……の?」
 アキが恐る恐る尋ねる。
「うん」
 タカイはそっとアキを抱く。そっと、そっと。
「死神さん?」
「なんですか?」
「名前、教えてくれない? あたしを殺さないなら、死神さんって呼ぶのはおかしいし」
「タカイ、といいます」
 タカイは微笑んで、アキの――蛆に食い荒らされていく――瞳を見つめた。







  エントリ8 芥乃姫 霜野浩行


 昔、琉球の按司の娘に芥乃姫というものがいた。
 姫はたいそう美しい姿をしていたが、稚の頃物の怪に憑かれ、その詛いに苦しんでいた。
 泪塵之怪──と坊主が名付けた詛いは、名の通り流れ落ちた涙が塵に変わってしまう恐ろしいものだった。按司は様々な加持祈祷を坊主に行わせたが効果はなく、遠方に邪を払う水があれば人をやって飲ませたが、これも効かなかった。
 原因は自害した按司の側女の呪いだとすぐにわかった。側女は子を産む事を叶わず、果ての自害であったが、按司は側女の遺体を風蔡にせず、土に埋めた。按司は坊主の忠告を受け、葬礼を取り直し、風蔡を行った。しかし、姫の涙は塵のままであった。
 塵は面妖極まりないものだった。燃やすことも出来ず、時に出来ても、辺りに毒を撒き散らした。田畑の肥料にすれば、一日を待たず作物を枯らし、馬や牛に与えれば、たちどころに肉を腐らせ、骨が溶かした。
 特に魚や海草の海産物は甚だ深刻だった。海に沈んだ塵が、たちまち毒に変わり、海面を魚の死体に埋め尽くした。当然、漁夫や海女は頭を抱えた。
 燃やすことも叶わず。埋めることも禁じられ、流すことさえ出来ない。折角見目麗しい娘だと云うのに、これでは縁談の話など来るはずもない。按司も困り果てていた。楽師を呼んだり、談笑を生業とする者を呼んでは、娘が泣かないように努めた。だが、芥之姫は父の恩義に涙を流し、また堆く積まれた塵の山を見ては涙した。
 芥乃姫は一度死を予感し身を投げたが、一刻程海底に沈んでも溺れず、手首を切ってもみたが、経ち所に傷が治ったと云う。
 腹に据えかねた按司は、根所の人間に大きな穴を作らせた。その大きさたるや、あの遠く東大寺の毘廬遮那がそのまま入るほどであったと云う。按司は実の娘をその中に入れ、大きな鍋蓋で穴を閉じた。根所を見ては涙する娘を、父はとうとう閉じこめた。
 塵の山を見なくなっても、芥之姫は暗い穴の中で泣き続けた。塵は溜まっていったが、大穴に一杯になるには数年はかかる。その間に飢えて死ぬだろう、と誰もが思っていた。
 三年が経った。その年は日照りが続き、川や池が干上がり、作物が枯れた。根所の人間は明日生きることもままならず、芥之姫のことなどすっかり忘れていた。
 そんなある日、旅の楽師が姫を封じた鍋蓋の前で、三線を弾き、琉球の伝統歌──「おもろ」を唄っていた。すると、地の底から咽び泣く声を聞いた。楽師は驚き、「もし」と蓋を叩いて尋ねてみた。
「私は芥之姫と申します」
 根所の人間から話を聞いていた楽師は、姫は餓死したと思っていた。
 芥之姫は言った。
「詛いの影響でしょうか。どんなに腹を空かそうとも、喉が乾こうとも死ぬことは出来ず、自害しようとも考えましたが、懐刀もなく、舌を噛み切るにも、もはやそんな力も残っておりません。試しに塵を喉に入れましたが、骨すら溶かす毒も効きません。死ぬことも許されず、ただただ三年、暗い大穴の中で泣いているだけの毎日でした」
 あわれ、と思った旅の楽師は、姫を穴の中からだそうとした。だが、芥之姫は「無用」と答え、もうすぐ自分は死ぬと言った。
 楽師は理由を問うと、姫は答えた。
「すでに私のいる穴は、三年間溜め続けた塵で一杯になっております。おそらく数日もしないうちに、私は蓋と塵に挟まれ死ぬでしょう。そうすれば泪塵之怪も死に、根所は塵に頭を抱えることはなくなります。開ければ、塵が溢れ、根所をたちまち腐らせましょう」
 それを聞き、楽師は胸がつかえ、何も言えなくなった。そして自分に何か出来ることはないか、と訊ねた。芥之姫はか細くしゃがれた声で、楽師におもろを唄ってほしいと言った。
 承知して、楽師はなるべく楽しいおもろを選び唄った。そうすれば姫は涙を流すこともないと考えた。
 旅の楽師は三線をかき鳴らし、懸命に唄った。その間、月が二回昇り、陽が三回上がった。途中、芥之姫も楽師と一緒に唄った。その歌声はとても美しかった。しかし、どんなに楽しいおもろも、悲しく聞こえた。
 その声を聞いた根所の人々は、大蓋の周りに集まってきた。飢饉にあえぎ、明日食う物もなく、体が皮や骨だけになっても、人々はその美しい歌声に耳を貸し、喝采を送った。干上がった喉で、ともに唄う者まで現れた。芥之姫と楽師は何度も拍手を受けた。
 さらに、七回唐の海から陽が昇った。
 鍋蓋は、多くの遺体に取り囲まれていた。どれも干物のように痩せ、皮膚は草色をし、地獄の餓鬼のような姿をしていたが、その顔は満面の笑みであった。
 その中心で、楽師は未だに唄い続けていた。照りつける陽の下。もはや三線の弦は切れ、声は空気を震わすこともおぼつかない。撥を持った腕も木皮のように皺が走り、固くなっていた。
 突然、芥之姫は唄うのを止めて、言った。
「あなたと初めてお会いした時のことを覚えていますか?」
「ええ、あなたは泣いておられた」
「実はあの時私はあなたの唄を聞き、父が私のために楽師を呼んだことを思い出し懐かしくなり、つい泣いてしまいました」
「それは申し訳ないことをした」
「いえ詫びる必要は御座いません」
「いや。私の無責任な行動があなたの命を縮めてしまった。どうか私のおもろを聞いて、笑って頂きたい」
「笑う?」
「あなたは澄んだ声をお持ちだ。きっと琉球の海と空のように澄んだ笑顔をお持ちなのだろう。願いが一つだけ叶うというのであれば、私はあなたの笑顔を見たかった」
「叶うのであれば、私も琉球の海と空を見ながら、あなたと一緒におもろを歌いたかった」
 楽師は再び撥を握り直す。
 その時、楽師はふと思い出した。
 芥乃姫は情の厚い方。その昔、按司を務める父が楽師を呼んだ時、父の恩義に涙を流したと云う。
 ――しまった!
 楽師は愕然とし、自分の失態を恥じた。姫を勇気づけるはずの唄が、逆であったことを今さら気付いた。
 姫は……芥乃姫はずっと泣いていたのだ。
 慌てて楽師は鍋蓋を開けようとしたが、一人の力ではビクともしない。
「楽しかった……そして、嬉しかった」
 楽師が聞いた芥之姫の最後の言葉だった。蓋を叩いてみたが、返事はない。唄ってみたが、あの湧水よりも澄んだ歌声はいつまで待っても聞こえてこない。
 それでも楽師は諦めなかった。押したり引いたりしているうちに、少しだけ鍋蓋が動いた。その刹那、どぉという音を立てて、透明な水が穴から噴き出した。
 津波のように押し寄せた水は干上がった川や池に雪崩れ込み、未だ堆積していた塵も遠く海の方へと流してしまった。土が割れ乾ききった田畑も水が張った。生き残っていた人々は躍り上がり、仏の慈悲に感謝した。
 それは芥乃姫の涙であったかどうかは定かではない。そもそも涙であれば、塩が作物を枯らしたであろう。ともかく奇跡は起き、根所は救われた。
 楽師は姫を探したが、穴の中にはいなかった。海まで流されたのかと思い岸を巡ったがついぞ見つけることはかなわなかった。しばらく楽師は、根所に留まり海に向かって、おもろを歌い続けた。しかし芥乃姫は現れず、楽師も唐の国へ探しに行くと言ったきり、二度と戻ってはこなかった。
 以来、琉球の海の向こうで三線と楽師のおもろが聞こえてくる時がある。その日は決まって波が立ったが、荒れる事もなくむしろ魚が大量に取れた。
 沖に出た漁夫はその日一日おもろを歌い、漁をするのが、伝統となったと云う。