ぬかるみに足を取られないように浅瀬へ向かって歩き、太陽を背にすると、来栖は壊れたボートのエンジンを直しはじめた。長年の風雨にさらされたボートはところどころ錆びついていて、とても直せそうな代物には見えなかった。僕は桟橋に座って湖に釣り糸を垂れていた。浮きはぴくりとも動かない。餌がレーズンであるのが問題なのかもしれない。魚はレーズンを食べないというのが来栖の持論だった。 「釣れない」と僕は言った。 「だから言ってるだろ」 「ひどいよな、そのボート。戦火でも抜けてきたみたいだし」 「グレゴリー中尉」 「誰?」 「知らない。たぶん、戦争の英雄」 微風が湖にさざなみを広げていった。暑い日だった。この湖にやってきて、もう三週間になる。避暑地に行かないか、と誘ってきたのは来栖で、僕らは休暇を取って夏のあいだのニ週間をこの別荘で過ごすことにした。僕らは町の薬品会社で働いていた。その職種は来栖に言わせれば、大いなる流れ作業の遊撃手と言ったところだ。県境に位置する湖はかつては釣りが盛んな美しい場所であり、「リバーランズ・スルーイット」が公開された頃にはちらほらとフライフィッシングをする人を見ることもできた。でもそれも、湖周辺の工場が公害を撒き散らしはじめるまでのことだ。湖は汚染され、魚は大量死した。汚染は人体に影響がないと発表されても釣り人はもう戻らなかった。 避暑地、と来栖は言ったけど、暑さは僕らが住む町と変わらないように思えた。木陰にいても僕の背中はすでに汗ばんでいたし、壊れたエンジンを凝視する来栖の額からは大粒の汗が流れていた。別荘はモルタルの平屋で、湖に面して開け放たれた窓は涼しげだったが、空調設備が壊れているせいで、その景色は大きな額縁に入れられた風景画のように常に鑑賞を求めてきた。いずれは眼をつぶっていてもその風景画を細部まで模倣できるようになることだろう。町に戻る予定だった二週間目の最後の夜、僕が窓の外を眺めていると、来栖が何本目かの缶ビールを飲みながら言った。 「中途半端なポジション」 「なんの話?」 「いてもいなくても、変わらねえだろ」 「だから何が?」 「それにさ、もう白衣は着たくない」 「悪くないユニフォームだとは思うけどね」 「おまえ、あのチームに正式入団したい?」 「うんざりだね」 その翌日から、僕は釣りをはじめ、来栖は壊れたボートを直しはじめた。僕らの休暇は無期限に延長された。食料がなくなったときには、駅前まで車で買い出しに行ってインスタント食品を大量に買い込んだ。思考のほかには何も生み出さない生活が続いたが、たぶん僕らはそうした日々を必要としていた。僕はレーズンで魚が釣れることを夢見ていて、来栖は薬品会社の受付の女の子を夢見ていた。実際、来栖はいいところまでいった。その冬、彼女は僕らが働く薬品会社へやってきた。彼女が椅子に座るだけで、重々しい工場の受付が華やいだことは僕も認めよう。冬のあいだは、来栖も彼女を眺めるだけで満足していた。たわいもない朝の挨拶を通して、来栖は少しずつ彼女の実像を得ることに成功し、それに伴って町の草木は芽吹きはじめた。春になると二人は花見に出かけ、町でいちばん洒落た店で向かい合って食事をした。その夜、来栖は彼女の部屋のベッドに偉大なる一歩を踏み出した。鷹は舞い降りた。翌朝になって僕と顔を合わせたとき、来栖は興奮気味にそう言った。来栖の月面生活は二ヶ月間続いた。結局のところ、彼女が求めていたのは大いなる流れ作業の遊撃手ではなかった・ 「このボートが直ったら、彼女をメキシコに連れていくんだ」 「ふられたのに?」 「メキシコ、ちょっといいだろ?」 「この湖はメキシコに繋がってないよ」 「気持ちの問題だよ、それって」 浅瀬に脛まで浸かった来栖の足元を琥珀色の魚が泳いでいた。釣り糸をそちらに向けると、魚は水面にきらめきを残して消えていった。来栖は工具を手に、食い入るようにエンジンを覗き込んでいる。僕は小さく微笑んだ。暑い日だった。夏はそこにとどまったまま、永遠に滞在を続けていくように思えた。どこかで鳥が鳴いていた。湖畔の静かな午後、僕は釣り糸を見つめ、魚がレーズンに食いつく瞬間を思い描いていた。
警告音のように、何度もポケットの携帯が震える。その度に、綾の心の襞は水を得た魚の如く嬉々として羽を伸ばし、アルコールの深海に心おきなくダイブする。それを隣の男に感づかれぬよう、余裕の笑みでグラスをあける。気のあるふりをしては、見ず知らずの男の心を誑かす。演技者として成功するには、この余裕が必要なんだ。 煙草を摘む瞬間から、酔いを纏った心地よい緊張が足元から突き上げてくる。 また携帯がコートの中で震えてるのを確認すると片手でそれを弄り、そのまま心臓へと震えを伝える。耳たぶに男の溜息がかかる。そのまま含まれてもいい、とさえ思う。無表情なバーテンの後ろで、時計が止まって見えた。 「お前、昨日どこ行ってた?」 隆の無機質な声が鼓膜に響き、日曜の休日を告げた。 懸命に感情を堰き止めている、彼の背中の微動。 「どこだっていいでしょ」 こちらも対抗して、つっけんどんに答える。 「お前な、遅くなる時は電話ぐらいしろよ!」 せっかく押さえていた感情の堰が語気の強さで、荒っぽく崩れる。 その瞬間、あの深い安堵がズシンと鼓動に伝わった。即座に彼の胸へと滑り込む。 「隆が怒ってる顔なんて、はじめて見た!」 おかしくて嬉しくてたまらず、ゲラゲラ笑い転げた。 「笑い事じゃねぇぞ……」 その言葉は、更に微妙な綾の心の隙間を、いじらしく、くすぐった。 「ごめん、もうしないって」 やっとのことでそう言うと、ブスッとした彼の背中を、綾はぎゅっと両腕で抱いた。 しばらく普通に生活しているうちに、突然、綾は荷物ごと失踪した。ただ、机の上に、キーだけ置かれていた。 「テメェ、どういうつもりだ?」 綾の実家の玄関前で、ぼーっと街頭に照らされた隆は、肩が震えて怒りながら泣いてるように見える。 彼が震えたら震えるほど、そこに自分を重ね合わせたくて、さっきまであった意地悪な気持ちが一辺に冷め、ボトボトと舗道を濡らした。 「ごめんね、もうしない」 綾は彼の腕の中へ沈むと、怒りが静まっていくのを腕の中で感知した。塩辛い、彼の指が綾の指の股を押し広げる。指を絡めて、思い切り握り締めた。ここに確かに、私と隆がいる。湧き出る互いの泉が、蜜のような接着剤になり、このまま何もかも解決するんだと思えた。 次の日、隆は仕事の休暇をとるとカーテンを全開にした。 「ちょっと今日1日デートでもするか」 不自然に声が明るく、昨日までの感情が微塵も見えないことに、安らぎと同時に不安を覚えた。女の子を器用にデートで楽しませるタイプとは到底思えない隆から、そんな提案が出たのは、やはり自分の挙動のせいだろうか。妙に明るい隆の横顔が、強張ってる気がして、何度もチラチラと彼を横目で追った。 「何だよ?」 「珍しいじゃん」 「たまにはいいだろ」 目を伏せたまま、朝ごはんを簡単に作る。包丁の入れ方が、いつもより、ブツブツと途切れてる気がした。 “池本心療内科”と、うらびれた地味な看板をぶら下げた雑居ビルの前で、隆は立ち止まった。 「どうしたの?」 「ちょっと、入ってみない?」 「なんで?」 「お前、ここんとこ調子悪そうじゃん」 「でもこんなとことは関係ないよ!」 と口では言いつつ、隆が仕事を休んでまで、自分をここに連れてきたがった気持ちは充分分かっていた。疎らに人が通り過ぎる。主婦の雑談、おじいちゃんやおばあちゃんが散歩し、猫がビルの合間からこちらを覗く。 長い沈黙の中で、隆は道端の缶を足で踏み潰すと、それをサッカーボール変わりにしてカンカンと、爪先で蹴った。 「ちょっとだけだからね……」 今までの隆への申し訳なさから、少しだけ、入ってやろうという気になった。 「あ、でも、隆は待ってて。ここで。私、一人で行ってくる」 「大丈夫か?」 「大丈夫。変なとこ、見られたくないもん」 綾は、カンカンと階段を駆け上がると振り向きもせず、そのままバタンと扉は閉まった。 「ったく、変なとこなら充分見てるぜ」 消毒臭い灰色の壁に囲まれた地下室のような院内に入ると、受付でテスト用紙のようなものが手渡された。 「初診の方は、皆さん記入して頂いてるんです」 ぶっきら棒に言い放つと、無愛想な受付のおばさんは、鉛筆と古びたボードを突き出すと、さっさと事務仕事へと戻っていった。 手渡された用紙は、マルバツ式のテスト問題のようなものだった。 ・自分には価値があると思いますか? ・生きていても仕方ないと思いますか? ・人が怖いですか? ……と、100項目ぐらい続く。 「これ、書かなくちゃいけないんでしょうか?」 「はい、最初だけですので」 また、顔も見ずに答えられる。綾は適当に、三角や菱形を書きながら、用紙を塗りつぶした。 診察室に入ると、まるで寝起きかというようなボサボサ頭の黒縁メガネをかけた医者が、だるそうに手招きする。 「これ、真剣に書いて下さいよ」 先ほどの用紙をヒラヒラと目の前でふる。 「軽い鬱だと思いますよ」 何の質問も対話もないのに、そう言い切られた。 「眠れますか?」 「普通ですけど」 「念のため、抗鬱薬と、睡眠薬とを出しておきます。眠れないときは、それ飲んで。とりあえず14日分ね」 そそくさとカルテを受付へと持っていく。 「これだけですか?」 「まぁ、経過を見なければなんとも言えませんからね」 この医者こそ何らかの病気なんじゃないだろうか、いや、あの受付も。 そんな疑惑を抱きつつも、さっさと終わってくれたことにほっとし、薬を受け取り支払いを終えると、真っ先にビルの外に出ていった。青々と広がる空が眩しかった。 「隆!」 「あ、どうだった?」 「軽い鬱だって」 「そうか」 それだけ言うと、隆は先々と歩を進めていく。 「たまには映画でも見るか?」 「うん!」 病院で手渡された薬をバックに押し込むと、隆の左腕の内側へスルリと滑り込んだ。 それ以来、あの病院には薬だけもらいに行った。決して飲まず、ただ、透明の瓶の中に、白やオレンジの奇妙な錠剤がチャリンとコインのように溜まっていくことに快感があった。あの病院だけでは飽き足らず、色んな病院を梯子しては、眠れないとだるそうな声で告げると、どこでもあっけなく処方してくれた。 ある晩、瓶の中の錠剤を木っ端微塵に砕くと、アルコールと共に一気に飲み干した。 気がつけば、パリパリと人工的な匂いのする病院のベッドで、天井の染みの数を数えていた。 「お前、何でそんなことする?」 隆の声が遠くに聞こえる。 肩を落とした、 ガッカリした声。 涙が、腕に落ちる。 一滴、二滴……。 「ごめんね、もうしない……」 ふらつく手で彼の濡れた腕を掴む。彼は嗚咽しながら、痩せ細った私の体を抱きすくめた。 「もう、お前には耐えられない……」 私を抱きすくめた腕の力は強くなる一方。彼の両手が、私の首の根っこを、掴む。全身の血が、隆の手の熱さにざわついた。 ガラッと急に開けられた扉の勢いに、意識が霞んだ。 ひとりになった部屋に戻ると、鏡に自分の顔を写した。 あるべき場所に、それぞれのパーツが収まった、正しい顔。 輪郭を維持し、人格を持った、顔。 私、であることの現実的な、目に見える証明書。 カッターの刃を新しいものと交換する。 顔の皮膚に、真っ直ぐ、深く、線を入れた。髪の毛もバッサリとランダムに、切っていく。 落ちた髪の上に滴る、私を仮に証明、してくれていたものたちの、真っ赤な痕跡。 人格を持たぬ、崩壊した鮮血の顔。 右眼をカッターで抉った。 ねぇ、これでもアイシテくれる?
成野涼香の驚きように、声をかけた滝沢恵一の方が逆に驚かされた。 「ばっ、そんな声出すな、俺だ、俺!」 他の患者や看護師や薬剤師たちの非難と怪訝が入り混じった視線が、恵一に向けられる。 「中高ずっとクラスメイトで、しまいにゃ大学まで同じの、滝沢恵一君だ!」 「きゃあっ、やっぱり知らない人!」 「悪質なボケ方すんな、ったくそんなに驚く事も――」 恵一は、涼香が落とした薬袋を拾おうとする。 「神経……外科?」 「あっ!」 薬袋を取り返そうとした涼香の手は、人差し指と親指の間の筋肉がごっそりと落ちていた。 「何だよ、それ、え?」 「良平には内緒にして! さもないと、あんたの股間をこの場で握って潰す!」 「わったわーった、言やぁしねえよ」 「本当に?」 「何年友達やってんだ」 「えと、これで七年目ぐらいかな? あれ、あんた引っ越して来たの何月だっけ?」 「はぐらかすな!」 「へいへい。まあ、ぶっちゃけ死ぬんすよ、あたしゃ」 恵一は無言で涼香を見つめる。 「マジ……だな。お前、意外とウソ下手だし」 「失敬だな、女ってのは魔物よ? 気付いた時には騙されてんだよ?」 「は・ぐ・ら・か・す・な」 「なんと申しましょうか」 苦笑いを浮かべ、涼香はそっぽを向く。 「筋萎縮性側索硬化症ってヤツでね。すごく急激に進行しとるんだと。後半年もしたら、心筋がやせ細ってジ・エンド」 「ウソ……だろ?」 「そうだったらどんなにいいか」 涼香の目には光るものがあった。 「……って、待て、それこそ、岡崎に知らせなきゃダメだろ」 「アホだねあんたは」 涼香は恵一に人差し指を突き付ける。 「容姿・性格・才能その他諸々兼ね備えた最愛の自分史上最高彼女が、不治の病なんて知ったら、良平がどんなに悲しむと思ってんの」 「うわー、健常者ならつっこみどころなのに」 「つっこまないでいいから、内緒にしといて」 「でもいずれバレるだろ? 付き合ってんだし」 「そこなんだけどさ」 駅前には、きらびやかな大きなツリーが立てられていた。 「んで、成野にはどこで『偶然鉢合わせる』予定なんだ?」 「居酒屋『くわた』前だよ。サークルのクリスマス忘年会が今日の五時に――あ」 「あ」 横断歩道を、ほわわんとした笑顔で手を上げて渡っているのは、正しく岡崎良平だった。 「なにをぼさっとしてるのっ!」 涼香は恵一を引っ張って、柱の陰に隠れる。 「髪の毛引っ張るんじゃねえっ!」 「しょうがないでしょっ、指に力入らないんだから」 「都合の良い時だけ病人ぶるなっ」 「ひどいっ、病人に向かってそんな口のききかた、あんた鬼だよ、鬼嫁だよ!」 「……嫁の要素ねえだろ、俺」 恵一はそうっと柱の陰から顔を出す。 「なんで隠れるんだよ? 今すぐ計画通りやりゃあ良いじゃねえか」 柱の陰を伝いながら、涼香は良平の後を尾け始めていた。 「って、問答無用で追跡かよ!」 デパートの観葉植物の陰に隠れながら、涼香と恵一は良平の様子を伺う。 「なあ、覗き見って良くねえぞ?」 「あたしは可哀想だから、見る権利があるのよ」 「可哀想だと偉いんかい」 「当たり前でしょう。可哀想な存在に、人はお金も出すの、涙も流すの。人魚姫が可哀想じゃなかったら、ただのキメラ生物よ?」 「お前の図太さがありゃあ、人魚姫も幸せになれたろうな」 良平に、一人の少女が駆け寄って来た。 「おお? 岡崎のヤツ浮気――」 「あれは妹さん。顔そっくりでしょうが」 良平と妹は、婦人服売り場で春物のコートを試着し始めた。 恵一と涼香は、隠れ場所を向かいの試着室移す。 「あたしのクリスマスプレゼントみたいね」 涼香が呟く。 「――自意識過剰じゃねえか?」 「妹さんの身長、あたしと同じぐらいでしょ。色だってあたしの好みの色で、少女少女した妹さんの服装と、全然合ってないでしょ」 涼香は試着室のカーテンをぴったり閉める。 「ったく、意味ない事、しちゃって」 「成野……」 その時、唐突にカーテンが開き店員が顔を出した。 「あのー、お客様、お二人でのご使用はお止め下さい」 「あっ、はい、ごめんなさいです」 「失礼しましたあっ!」 街の時計は、十六時五十分を指していた。「来たっ」 車の陰から居酒屋『くわた』を伺っていた涼香が呟く。 恵一は車の陰から出る。同時に、涼香が恵一の腕に自分の腕を絡める。 「あれ、涼香……ちゃん?」 デパートの紙袋を持った良平が、立ち止まった。 「え? なんで滝沢、と?」 「ええとな、涼香は」 「気付いたの」 涼香は、恵一に、ぐっと寄り添う。 「一番好きなのは、昔からずっと一緒で、あたしのこと全部分かってくれてる、恵一だって」 「何の、冗談?」 「大マジよ」 涼香は恵一の首に腕を絡め、頬にキスをする。 「あなたと付き合い始めた時にね、あたし涙流したの、覚えてる?」 「も、勿論」 「あれって、あの後よく考えてみるとね」 行き交う人々は、好奇の視線を向けつつ通り過ぎる。 「恵一と恋人になる機会が、永遠になくなったかも、って思ったからだったんだ」 「何があったの? 本当は事情が」 「しつこいよ」 涼香は冷ややかに良平を見つめる。 「あんたはふられたの。行こ、滝沢」 駅前のツリーの下で、ようやく涼香は足を止めた。 「迫真の演技だったでしょーが」 「大したもんだよ」 緊張で出た汗を、恵一は拭う。 「女は生まれ付いての女優だからね」 「女優、ね」 「これで、良平の記憶には、元気で綺麗なあたし、しか残らない。めでたし、めでたしって、ね」 「なら、どうして泣いてんだよ」 「芝居、だよ」 涼香の言葉は、涙でぐずぐずに崩れていた。 「のさ」 恵一が、ツリーを見上げる。 「結婚式で死が二人を分かつまでって言うけど、あれ、嘘だぞ。多分、死んだぐらいじゃ分かれねえ」 「え……」 「半年後に死ぬ病気だからってなんだ。俺だって、車に轢かれりゃ一秒後にだって死ねるんだ。死ぬまで生きてられるなんて自惚れるな!」 「死ぬまでは生きてられるでしょうが」 「ニュアンスが分かりゃいいんだよ! しゃんとしろ、成野涼香! お前はまだ生きてんだよ!」 「よくもまぁ、余命幾許もない可憐な美少女に」 「命短し恋せよ乙女ってんだ」 「古っ」 「ツッコミ無用!」 恵一は携帯電話を取り出す。 「あー、岡崎か? 切るな! 成野な、余命半年だ。お前を悲しませたくねえから死ぬ前に別れようとひと芝居打っただけだ、これから行かせるから、外で待ってろ!」 「あ、あーーー、なんて事を」 「さあどうする? あいつ絶対待ってるぞー。悪くて凍死、少なくとも肺炎にはなるわなぁ、へへへん」 「でも、今さら、どんな顔して」 「どんな表情だって格好が付く造作のクセに、ガタガタ抜かすな!」 「本当? 化粧、崩れてない?」 「崩れてねえよ」 「髪型大丈夫?」 「大丈夫だ!」 「あたし可愛い?」 「世界一可愛い!!」 「一発頼むわっ、元気ですかー!」 「元気ですかー!」 ビンタの音が、ツリーの上まで響き渡る。 「ありがとう、二番目に愛してるっ!」 叫ぶなり、涼香は元来た方へ走って行った。 急に静かになった駅前で、恵一は独りツリーを見上げる。金属とプラスチックの樅ノ木に、空っぽのプレゼントの箱と、作り物の星が一杯に飾られていた。 「奴らの上には雪でも降るのかねぇ」 空に星は見えない。 「なーにが女優だ、大根が」 ツリーに背を向ける。 閉店したデパートのショーウィンドウでは、正月用ディスプレイへ替える作業が始まっていた。
街の港に、箱舟が到着した。鉄さびを踏み越えて、皆は港へと行く。 箱舟にはいっぱいの花が積まれていた。それらはバルト海はルギャニェ島から持ち帰ったものだ。花びらは風に舞い、青空の中をくるくると漂っている。港で待つ人々の上に、静かに舞い落ちていく。 レムは兄を殴った。詩なんてもう良いじゃないか。働こうよ。詩なんてくだらない。レムは兄の詩が好きだった。レムは兄を殴る。良いじゃないか今は。兄さんは賢いのだから、いくらでもあいつらを見返せるのに。本気になったらいくらでもあいつらを見返せるじゃないか。兄は何も答えない。ずれたメガネを直しただけだ。 もう良い。レムは叫ぶ。手を振り回し、鏡を叩き割る。がしゃああん。鏡の裏にも詩が書かれている。レムは家を飛び出した。 港では人々はぞくぞくと箱舟へと入り始めた。マネキン業者は売り物のマネキンを三つ抱えたまま甲板へと登る。 < 真っ青な空の下 全くの静寂の下 女は何故か 世界中に響き渡る爆音を聞いているかのような 恍惚の表情! 「そういえば世界は何で出来ているのか」 ここから見ると 見える全て 石が薔薇で銃のよう > レムは道を歩き続ける。ポケットを探るとメガネがあった。道端に咲く花へと手を伸ばし乱暴に引きちぎり、腕へ巻く。なだらかな水平線。新しく出来た厩舎が道へ影を落としている。 箱舟では説法の時間だった。人々は花の敷き詰められた甲板に座り、牧師が来るのを待つ。 レムは気がつくと、屠殺場にたどり着いていた。 丘の上の道から屠殺場を見下ろす。砂埃が舞っている。目がかすむ。 少女が一人立っていた。黒い皮のエプロンを身につけ、手には短刀。 檻から一匹、獣が放たれた。少女へと向かいよろぼい歩く。 少女は獣の体をつかみ、首筋へと短刀を這わせる。獣は少女の手の中で、ゆっくりと青空を仰いだ。 次の瞬間、大きな泣き声をとともに真っ赤な血が宙を舞う。獣は咆哮し少女のてを離れよろぼい歩き、少し進んだあと、どさりと身を横たえる。 ぜえ、ぜえ、と息をしている。ずっと離れたレムにもそれが解る。 次。どこからか声がする。また獣が放たれる。先ほどの獣はまだよろぼい歩いている。 次の獣が放たれる。少女は獣に抱きつき、耳元に優しく囁き掛ける。少女はひどく優しげな表情。獣の体を撫で、獣に口づけする。 < とにかく私たちは救われています 生まれた瞬間に 存在そのものが救われているのです 神がお救いになられた 有難いことに 私たちは救われているのです 私たちは救われた あとは日々感謝し 己の出来ることを全うし とにかく誠実に生き > 血煙が舞う。手慣れたものだ。少女は器用に短刀を使い、獣に致命の一撃を見舞う。 獣は鳴く。喚く。咆哮する。 少女が最後の抱擁をする。獣は離れ、歩き出す。 歩き出す。歩き出す。歩き出す。 砂埃。風がひどく吹く。 どさり。獣は倒れる。 少女はレムに気づいたようだ。陽気に手を振った。血にまみれた短刀。脂にまみれた細い脚。少女は手を振る。 次。声がかかる。少女は身構える。 猛獣が檻から解き放たれた。すさまじい勢い。 少女は抱きかかえる。猛獣をその手に抱きかかえる。 猛獣は黒い剛毛で全身を覆っていた。ぐるぐると折れ曲がった長い角。信じられないくらいに大きなそのからだ。叫び声。咆哮。少女は抱きかかえる。耳元へ、囁きかける。 箱舟では説法の時間だった。マネキン業者はその上等とはいえない売り物のマネキンをマストに立てかけ花が敷き詰められた、殆ど花園のようなその甲板に腰をかける。牧師があらわれる。椅子に座り、説教を始める。皆で歌を歌う。 猛獣は突然暴れだした。少女に抱きしめられたまま、めくらめっぽうに走り出す。少女は抱きすくめたままだ。耳元へずっと囁きかけている。猛獣は暴れる。ぐるぐると回る。呻き、叫び、飛び跳ね、その曲がりくねった角を振り回す。少女を抱えたまま、猛獣は丘の中腹のフェンスへと激突した。 少女のおなかには、くろぐろとしたその角が突き立っていた。 少女は猛獣の首元へ短刀を振り下ろす。真っ黒な血煙が舞う。猛獣は叫び、その角を少女の小さなおなかへ何度も突き立てる。少女は幾度も短刀を振り下ろす。幾度も、幾度も、幾度も。 黒い血溜まりが足元に出来た。少女の腹の肉が破れ、鈍い光沢を放つ内臓がその中へと落ちていく。ぽしゃり。ぽしゃり。猛獣は呻く。呻く。呻く。歌のように、猛獣は呻く。血煙。ぽしゃり。少女も呻く。リズムを取るように短刀が振り下ろされている。 ぽしゃり。 やがて猛獣は静かになり、動きをやめ、その背を撫でていた少女も、猛獣を抱くようにしてその動きを止める。 気がつくとレムのとなりに人がいた。 二人組みの若い男女である。 男は女に何かを指示した。女は大きな黒いケースをいじり、何かを引きずり出そうとしている。 レムを男は目が合った。男は笑いかけない。レムも笑いかけない。 少女の臓物からは、かすかに湯気が立っていた。ふわふわと砂埃にまみれ、それは漂った。 女がいじっていたものはバイオリンのケースだった。男はケースから取り出されたバイオリンを手にし、演奏を始めた。 男はバイオリンを弾く。弾く。弾く。弾く。弾く。弾く。弾き続ける。その音色はろうろうと青空の下、流れる。 バイオリンのf字孔から花が溢れていた。はらりはらりと花は風に舞い、漂う。箱舟からくすねてきたものであろう。色彩豊かな花びら。はらりはらりと風に舞い、漂う、漂う、漂う。赤色、黄色、紫、だいだい、ピンク、紫、赤、黄色、だいだい、ピンク。女が花びらを手に取り呟いている。女は色盲なのであろうか、手に取った花びらとは関係の無い、めちゃくちゃな色を呟き続けている。赤色、黄色、紫、だいだい、ピンク、紫、赤、黄色、だいだい、ピンク、赤色、黄色、紫、だいだい、ピンク、紫、赤、黄色、だいだい、ピンク……。 レムは家に帰る。静かだ。兄も誰も居ない。 レムはテレビのスイッチを入れる。 「もう良い、まったく」 「博士!」 博士はそう言ってフラスコを地面へ叩き付けた。 「もう良いやめじゃ。詩なんてやめじゃ。もう詩なんてやめじゃよ」 助手の手を振り切り、博士は書きかけの原稿の続きにSEXSEXSEXSEXSEXSEXSEXSEXSEXSEXSEX……と書いた。 SEXSEXSEXSEXSEXSEXSEXSEXSEXSEXSEXSEXSEXSEXSEXSEXSEXSEXSEXSEXSEXSEXSEXSEXSEXSEXSEXSEXSEXSEXSEXSEXSEXSEXSEXSEXSEXSEXSEXSEXSEXSEXSEXSEX……。 そして博士は鏡を叩き割る。 砕け散る、花園。
私は彼のことを先生と呼んでいます。実際に大学で教わっているわけですし、年齢も父親くらいですので、一向問題がないはずなのですが、どうしても先生という呼び名がふさわしくない気がするのです。容姿も大変なやせぎすで、白髪混じりの耳を覆う長髪。仙人というほど威厳のある面立ちでもなく、声も深夜放送のアナウンサーのようでしたが、それだって先生と呼ぶべき人はどっさりいるはずです。でも、やはり彼は先生ではないのです。 先生の家は表玄関がひとつ。脇の車庫の裏手から家の中に入れますので、ここが勝手口になっています。勝手口の向こうは狭いながらも鯉のいる池になっていて、掛かった橋を渡ると、ようやく玄関にたどり着きます。 寿司を取ったが客と言い合いになってしまったので帰してしまった。ついては寿司がもったいないので、君、手伝って呉れないかね。云われて電車を乗り継ぐと、たいてい駅前で舟和の芋羊羹を買って出かけます。先生は玄関で私の顔を見、そして手元を見て「莫迦だね、寿司を食うってのに甘いものを買ってくるやつがあるかい」とい云って奥へ引っ込みます。奥さんを呼ぶのです。 先生の奥さんをはじめてみたとき、ずいぶん年の離れた奥さんだなぁという印象でした。並ぶと母と子のようです。しかし話を聞くと、奥さんは先生の教え子だった、とだけ教えてくれました。教え子だ、と云ってもなにぶん大学のことですので、やはりもちろん奥さんのほうが年上であると思われます。 応接間のテーブルはガラスの天板をしています。奥さんに勧められてソファーに座ると、テーブルの上に一抱えもある巨きな瓶がありました。中には砂や木などの黒々としたものが入っています。この巨きな瓶をどこかでも見たことがある、なにかの生々しい思い出とともに記憶がざわざわとするのですが、なんとなくまじまじと眺めるうちに、奥さんがこれから食事だというのにお邪魔よねえ、ごめんなさいね、と私のはす向かいのソファーに除けるのでした。照明の加減でガラスの繊維が反射されて、私ははたと思い当たったのです。高校の時分の生物の時間、ねづみの解剖の時に見たのでした。 瓶の中に、幾匹ものラットねづみが麻酔で眠らされて折り重なっています。折り重なったねづみを生物のYという先生が取り分けて机ごとに渡してくれるのです。このねづみたちは無菌室で実験用に育てられた子達だから、外の世界に出すとあっというまに細菌に感染して死んぢゃうんだよ、と云っていましたが、あまり信用の出来ない先生ではあります。なぜって、血液型による子供への遺伝の授業の時に、AB型とO型の両親で自分はO型だ、という生徒がいた時に、一億人に一人はそういう例外がある、ということを云っていたからです。悪い嘘ではありませんが、嘘をつくのが平気な人種ですから。 寿司は五皿ありました。なぜにこんなに取ったかは分かりませんが、食べろと云うので食べることにします。 皿のうちのひとつが瓶の前に置かれています。テーブルをはさんでソファー二席ずつで挟んでいます。私の前に先生、左隣に奥さん。先生の隣に件の瓶があって、瓶の前にも寿司が一皿あるのです。私は不思議な心持で居ましたが、先生があまりにも黙々と寿司を喰うので、どうにも聞きそびれて、先生や奥さんに気づかれないように瓶を覗き見るのですが、やはり、なにもないのです。灰と、焼けぼっくいとが入っているだけです。もしかして中でこおろぎや鈴虫でも飼っているのか知らん、と思っても何も動くものはありませんでした。 先生がお茶を啜ります。最近は何だね、あんまり寿司にはワサビを効かさない風潮なのかね。そういえば効きませんねワサビ。袋の中に練りワサビの小さいのでも入っていたかもしれません、取ってきますか。いやいいよ、わざわざ台所にまで立つほどぢゃない。でもね、こういうときに使わないと、ずっと溜まりますのよ、ワサビのちっちゃいパックばかり。まぁ、そういうなら好きにしたがいいや。じゃあいってきます。それじゃあお前、ついでだからゼリーを持っておいでよ。岸和田先生がお中元に呉れたろう。けっきょく台所ぢゃ無いですか、わかりましたわよ。 結局ワサビは無かったので、寿司屋がワサビを入れない心積もりなのだと云うことになりました。たいてい食べ終わると、先生は瓶の前の皿を取り上げ、あまり食欲が無いようだから君、食べてくれんかね、と私の前に置きました。 湯にでも行かんかねと云われたので、先生と一緒に外に出ました。芋羊羹のことを忘れていたのが心残りでしたが、それはこちらで美味しくいただきます、と奥さんに言われては仕方ありません。私は二人分の風呂桶を持ち、先生はガラス瓶を抱えて、横丁から近所の川に出ます。川べりをしばらく歩くと鉄橋があって、車道の脇を貫けると銭湯があります。夕方の風は川面から街へ吹き、煙突の煙も街へ流れていきます。コインランドリーからの生暖かい風を浴びて暖簾をくぐると、カウンターまわりは冷房のおかげで冷たく湿気ていました。銭湯などずっと昔に行ったきりでしたが、もう番台のようなものは設けていないようです。 着替えるのに床に瓶を置くと、瓶は湿気のせいか、触りもしないのにするすると三十センチほど動きました。ダメだねこの風呂屋はぼろで。先生がぼそりというと、瓶がまたつるりと動きました。脱衣所のテレビでは大相撲中継をやっています。横綱阿南闘対大関大覚の結びの一番です。最近の四股名は外国人ばかりでよくわかりません。 銭湯と云うところは大相撲中継の後にどっと混むようになっていて、ちょうど瓶を抱えて入るにはいい按配でした。掛き湯もそこそこに風呂に入ると、先生も瓶を膝に乗せたままじっと目をつむっています。瓶の中は相変わらずでしたが、先ほどよりもずっと近くで見ることができました。瓶の底に溜まった灰のほかに、一本の燃えさしが瓶一杯をつかって斜めに入っています。燃えさしは炭化と灰化と槁木のいずれでもありました。よほど樹液の強い木なのでしょうか、燃えたひびの間に沢山のヤニが飴色にあふれています。風呂の湯気でなのかどうなのか、うっすらとガラスが曇っています。ガラスが曇っていると云うことはつまり、内側か外側に水分があると云うことなのだな、ということを意味も無くぼんやり考えます。 君、不思議ぢゃなかったかね。 急に声をかけられます。 あんなに寿司を一杯取って、変だと思わなかったかね。いや、お客様が大勢いらしたのだと思ったのですが。ああそうか、その発想は無かった、いや実はね、いつもの出前ぢゃ無くて、駅前に出来た安い寿司屋あったろう、あそこで私が買ったのだよ。ただ、あまりにも安いものだから嬉しくなってね、五皿も買ってしまったんだよ。本当に困ったものだ。自分でもどうかしていたよ。 先生は目が痒いのか、ひとしきり擦ったあと、続けました。 君、人というのは死ぬとね、腸内の制御装置が働かなくなるから、細菌が一斉に自分の宿主である人間の内臓を分解し始めるのだよ。だからどうだい。土左衛門でもなんでも、死んでしまえば水を吸って重くなっても、よく浮かぶわけだ。先生は淡々とそういうと、ずっと瓶に掛けていた手を放しました。瓶はひっくり返るかと思いきや、そのままの格好でぷかぷかと、湯船に沿ってぐるぐると周りはじめました。