饅頭怖い
Suzanna Owlamp
神戸の第二の中心地ハーバーランドには、休日ということもあり、多くの若者の姿が目立つ。港に面して作られた、この街は、映画館、レストラン、ハンバーガーショップ、洋服店、靴屋、アクセサリー店、ゲームセンター、ディスカウントショップ、ホームセンターなどのテナントがはいっており、仕事を終えたサラリーマンや主婦たちよりも、どちらかと言えば、若者や家族連れ向けに作られたスペースになっている。
葛西翔一は、職業柄、こういう街には、何か違和感を感じるものの、女友達の慶子に連れられ、よくここに足を運ぶ。少し、小雨は降っているが、それでも、周りは休日の女子高生や、翔一と慶子同様のカップル達で賑わっている。こんな日まで、デートに連れ出さなくても、と少々、後れ毛を取る翔一に対し、慶子は、シーフードパスタを食べながら、次はどこに行こうか、などと翔一を急き立てる。映画も見飽きたし、ゲームセンターにも、かなりの給料を注ぎ込んだ。
「ほな、ポートタワーでも昇ろか」
ハーバーランドとポートタワーは、目と鼻の先だが、神戸の人間もそう多くは昇らない。慶子は、どうやら春物のアクセサリーが見たかったらしく、一瞬、残念そうな顔を見せたが、少し間を空けて、うん、と頷いた。慶子の言うところでは、落語家が高いところに登るのは、高座だけで十分だと、いかにも売れない落語家のような口ぶりで、そう話すが、神戸に住む以上、一度は訪れたい場所は、北野坂にある異人館、新神戸から登る布引の滝、そして、このポートタワーが、三大名所だと、翔一は勝手に決め込んでいる。
師に当たる三代目松風亭魯之輔は、高座での笑顔とサービス精神とは裏腹に、出稽古の厳しさといえば、日本全国の落語家を探しても、そういないだろう。
松風亭きい魯。これが、師匠と出会った当時、翔一が最初に付けられた芸名だった。落研に入り、色んな落語会を見て回っていた学生時代、本当に腹の底から笑えた芸人は、この魯之輔ただ一人であった。それも息を止めて笑わせるという、高等なテクニックを持っていた。芸人は、あまり客を笑わせてはいけない、と稀に言われるようだが、面白すぎて、笑い声が出ない落語家は、関西では、この人を置いて他にいなかった。大学を卒業したら、すぐにこの人の門を叩こう。翔一はそう思っていた。
着物のたたみ方、太鼓、三味線の稽古、前座の挨拶。学生時代に生温い生活を送った翔一には、かなりきつい稽古だった。
「おい、きい魯! 饅頭怖い知ってるか」
「名前だけは聞いたことあります」
「一回しかやらんからよう見とけ」
これが、弟子入りして、六年目のことである。
-八っつぁん、あんたは何が怖い?
-俺は、蛇や。あのにょろにょろした体つき見てたら背筋がぞっとしよる
-ほぉ~、人は見かけによらんもんだんなぁ。熊さん、あんたは?
-俺は、何にも怖いもんないねんけれども、その~、幽霊
-幽霊が怖い。まぁまぁ、わからんではないな。松っつぁん、あんたは何が怖いねん?
-ないな~
-え?
-ない
-ないっていうたかて、一個ぐらいはおまっしゃろ。なんかゆうてみなはれな
-う~ん、……
-えっ!? 饅頭?
-あの甘くて丸~い饅頭。聞いただけでも、さぶいぼ立つねん。頼むからそれだけは、言わんといてくれ
-うひょっ! こらおもろいわ。何べんでも言うたろ。饅頭、饅頭、饅頭!
-ひぃ~、勘弁してくれぇ~
芸人は所見で覚えないと、二度と同じネタは、教われない。あとは、舞台袖から、師匠の高座を見たりして、覚えていくしかない。翔一は、ずっと師匠の高座を見て、ネタを吸い取り紙のように吸収していった。しかし、その吸い取り紙も、白紙の状態ではなく、前に聞いたことのあるネタに若干、汚されたものであった。その面で、松風亭きい魯こと葛西翔一は、癖から抜け出すのにかなり苦労したといえる。しかし、得をすることもある。前に同じネタが頭にある分、理解力と解釈能力は、人より優れているのだ。師匠の高座が終わって、6畳一間のアパートで、大家の目を気にしながら、何度も同じネタを繰る翔一の後ろ姿は、まるで悪霊に取り憑かれた妖怪だった。
数日後、魯之輔が翔一を呼び出した。
「きい魯、ええか。あの女とは別れろ」
「どうしてですか、師匠」
「お前の勝手な夢のために、堅気の子を巻き添えにするのは気の毒や」
ぐうの音も出なかった。
確かにあの器量なら、どこかの男が幸せにしてくれるだろう。それをどう伝えようか、悩んだ挙句、翔一は、慶子をある公園に呼び出した。
「今度、『饅頭怖い』を高座でさしてもらえることになった」
「へぇ~、よかったやん」
慶子は少し上ずった声でいった。
「俺が、もっとうまくなったら見に来てほしい」
翔一は、真剣な表情かつ、やや小さめの声でいった。
「今じゃあかんの?」
翔一が黙っていると、慶子は、少し笑顔を見せて頷いた。
「今のレベルじゃよう見せん」
「わかった。もう翔ちゃんには会われへんのやね」
翔一は、尚一層、稽古に精を出した。
-ひぃ~! 怖い怖い! 俺の一番嫌いな饅頭や~
-どうじゃ、これでも喰らえ!
-勘忍してくれ~。もうどうにもならんわ~!
-おい、全部投げ込んでしもたぞ。声が聞こえんようなったけど、松っつぁん、中で死んでるんちゃうやろか。一遍、覗いてみ
-ほんまに死んでたら、どないすんねん。怖~てよう見んわ
-ほな、俺が開けたるさかい。おい、松っつぁん……、大丈夫か? 生きてるか?
中の様子を覗いてみると、ひんやりとした部屋の暗闇でムシャムシャと何かを食べる音がする。
-おい、松っつぁん! 何してんねん
-あぁ~、こら怖い。こんな怖い饅頭食べるの久しぶりや
-松っつぁん、おのれほら吹きよったな! ほんまに怖いもんは何や! 言うてみぃ!
-せやなぁ、今度は熱ぅて濃ぃ~い、お茶が怖い
ハーバーランドに花火が上がる頃、翔一は、魯之輔から、あるスナックに呼び出された。一番奥のカウンターで、客と話している薄化粧の女が、やけに目についた。
「あら、師匠やないの。長いこと見ぃひんかったけど隣の男前はどちらさん?」
ゆうてたやっちゃ、言って、師匠はキープして置いたボトルを開けた。翔一は、それでピンと来た。
店に馴染むまでに、半年はかかる。よく言われることではあるが、翔一にとっても、それは例外ではなかった。例のスナックに足しげく通うようになったのは、年末の寄席にかけるネタを仕上げる秋のことだった。
「きいちゃん、あたし今日でスナック辞める」
何でそんなこと言うねん、聞き返す間もなく、「ママに言われてん」とゆかりは言った。挙式や新居は、師匠と師匠の姉さんが決めてくれた。年明けに、式は粛々と行われた。披露宴に集まってくださった諸先輩に心ばかりの感謝を告げて、例に習い引き出物は、少し奮発した。
次の春がやってくる頃、翔一は、慶子とほかの男を喫茶店で、目撃した。こういったとき、相手が楽しそうにしているのを見れば見るほど、つらくなるのは、男心も女心も変わりない。慶子はこちらには見向きもせず、ひたすら前の男に相槌を打っている。スーツ姿のその男は、周りのものを寄せ付けない、独特のオーラを持っていた。勘のいい翔一は、その男の正体が一目でわかった。一年前より、少し化粧が濃くなった慶子は、喫茶店で何かを書類に書き込んでいる。そうやって女は磨かれていくのか。冷たい潮風が翔一の頬を撫でた。