≪表紙へ

3000字小説バトル

≪3000字小説バトル表紙へ

3000字小説バトル
第77回バトル 作品

参加作品一覧

(2007年 5月)
文字数
1
田村タカユキ
3000
2
3000
3
Suzanna Owlamp
3000
4
ごんぱち
3000
5
とむOK
3000
6
(本作品は掲載を終了しました)
ウーティスさん

結果発表

投票結果の発表中です。

※投票の受付は終了しました。

  • QBOOKSでは原則的に作品に校正を加えません。明らかな誤字などが見つかりましても、そのまま掲載しています。ご了承ください。
  • 修正、公開停止依頼など

    QBOOKSインフォデスクのページよりご連絡ください。

なくしたびい玉
田村タカユキ

 誰でもたまに見かける光景とは思うけれど、びい玉を無心で覗き込んでいる子供がたまにいる。そして子供は僕らが見ているのに気付くと、覗き込むのを止め、宝物を隠すようにして、そのガラス玉を大事そうにポケットにしまいこむのだ。
 僕らはそんな子供を見ると、ため息を一つつき、そこになにもありはしないのに、などとは思いながらも、どことなく微笑ましく、そして、少しだけ悲しいような気持ちが、その光景を見ると沸いてくる。何故なら、僕らも昔、同じことをしていたからだ。
 あの頃、びい玉の中には、確かに何かが見えていた。僕らもまた、疑問など少しも抱かず、その何かを無心になって見ていたのだ。
 あのまんまるの、小さな、くだらない、そして美しいガラス玉の中には、確かにもう一つの世界が存在していたのだ。
 
 僕の見えていたその世界は、透明にほんの少し碧の混じった、綺麗ではあるけれど、どこにでもある、ありふれたびい玉の中にあった。それはいつの間にか、僕の持ち物の中に当然のように紛れ込んでいた。そして僕は、いつの間にかそれを覗き込むことを覚えていた。
 その世界は、一面の草原だった。何もない、ただっ広い草原。そこには常に微かな風が吹き、一面に生えた、じゅうたんのような短い草がそよいでいる。そして僕は、無心になってその世界を覗いていた。いつからとも知れず、そうするのが当然のように。
 そして時々、そこには一人の少女が座り込んでいた。顔はよく見えなかった。少女はいつも僕に背を向けていたし、長い髪が邪魔で、顔が隠れていたからだ。ただ、確かに少女はそこに座り、長い髪を風に乗せて、ずっと空を見上げていたのだ。
 何をしているの?
 声には出さず、僕は少女に尋ねた。
 風を待っているの。
 少女もまた、声も出さず答えた。
 風なら、吹いているよ。
 いいえ、この風ではないの。
 それは、本当に吹くの?
 ええ、いつか必ず。
 そう言って、少女はただ延々と空を見上げ、そして、いつの間にか去っていく。その繰り返しだった。
 その世界も、その少女も、僕にとって当たり前の存在だった。そのびい玉を覗き込めば、いつでも草原が広がっていて、そして、時々少女がそこにいて、ただじっと座って空を見上げている。
 僕はそのびい玉をいつも持ち歩き、そして、ときどきこっそりと、誰にも見られないように、びい玉を光に透かして、その世界を覗き込んでいた。その世界は永遠にそこにあり、僕だけのものにしておけると、漠然とではあるが思っていた。

 ある日、僕は学校の授業を受けていた。もう忘れてしまったが、何かの授業ではさみが必要なことがあった。
 「あっ」
 隣から微かに声が聞こえた。見ると、隣の席の女の子が、うろたえた様子でかばんをごそごそと探っている。はさみを忘れてしまったのだろう。僕は別に深くも考えず、当然の流れで、彼女に黙って僕のはさみを差し出した。
 「ありがとう」
 そう言って、隣の席の女の子は、にっこりと笑った。瞬間、何かが僕の中で、まるで時計に電池を差し込んだかのように、かちりと音を立てて動いたように感じた。僕は戸惑い、何と言っていいのかわからなくて、頭を掻いてぷいと前を向いてしまった。それは、そこで終わった。
 だが、帰り道の途中、僕がいつものようにびい玉を覗き込むと、いつもとは何か様子が違っていた。
 びい玉の中には、やはりいつものように草原が広がり、そして、その日は少女が座っていた。だが、何かが違った。草原にはいつもとは違う、強い風が吹いていたのだ。草はざわざわと揺れ動き、少女の髪は風でばさばさと乱れた。
 少女は僕に気付くと、すっと立ち上がり、静かに僕に言った。
 じゃあ、私はもういくね。
 突然のことに、僕はうろたえながらも、いつものように声を出さずに尋ねた。
 どこに行くの?
 そして、少女はそのとき、始めて僕のほうを向いた。顔の大半は、風に踊る前髪で隠れていたが、微かに、本当に微かに微笑んでいるのがわかった。
 わからない。ただ、行かなければならないの。
 どうして? ここにいてはいけないの?
 ここはもうじきなくなってしまうの。だから、その前に行かなければならないの。
 なくなるって、どうして? どうしてなくなってしまうの?
 僕の問いに、彼女は困ったように、だが、優しく首を振った。
 ここは、いつかはなくなってしまう。それが定めなの。あなたにもいつか、もっとはっきりとわかるのでしょうね。
そして、最後に言った。
 さよなら。
 そう言った瞬間、一段と強い風が草原を吹きぬけた。そして、彼女の瞳が始めて見えた。
それは、僕の隣に座っていた、あの女の子と同じ瞳だった。
少女は僕に背を向けて、草原の奥へと消えていった。いつまで眺めても、少女はもう、戻ってはこなかった。
 
 次の日から、僕はびい玉を覗くのをやめた。持ち歩くのも、もう止めてしまった。持っていれば思わず覗いてしまいそうだし、そのときの僕には、びい玉を覗くのが、なんとなく怖かったのだ。
 やがてそのびい玉は、熔けて消えてしまったかのように、どこかにいってしまった。不思議なことに、僕はびい玉を別に探そうともせず、そのまま忘れ去ってしまった。

 それから何年か経って、ふと思い立った僕は、引き出しの中から出てきたびい玉を光に透かした。すると、あのときの世界が、本当に微かに映し出されていた。それは、なくしたと思っていた、あの薄い碧のびい玉だったのだ。
 映し出される世界はもう、ほとんどまともには映らず、向こう側が透けて見え、景色はゆらゆらとゆれ、今にも消え去りそうだった。
 不意に、彼女の去り際の台詞を思い出した。
 あなたにもいつか、もっとはっきりとわかるのでしょうね。
 僕はもう一度、昔そうしていたように、びい玉の世界に向かって話しかけた。
 誰もいないのか? そこにはもう、誰もいないのか?
 返事はなかった。そして、僕は悟った。僕の世界は、もう無くなるのだ。そしてもう二度と、見えることはなくなるのだ。
やがて、びい玉の中の世界はゆっくりと薄れていった。そして、完全に消え去り、何も映らなくなった。びい玉は、もはや完全にただのガラス玉になってしまったのだ。
 僕はびい玉を握り締めると、思い切り床に叩きつけた。びい玉は粉々に砕け散った。僕の大切なあのびい玉は、もうどこにもなかった。

 僕のびい玉の話は、これで終わり。たぶん、これはありふれた話なんだと思う。誰もが子供の頃、経験して、やがて、きれいさっぱりと忘れ去っていく出来事なのだろう。僕もやがては、この話のことを忘れるのだろう。
 それでも、僕らはびい玉をこっそりと覗き込む子供を見つけるたびに、何故とはわからず、微笑ましく、そして少し悲しい気持ちを味わうのだろう。
 今日も、公園の隅っこでこっそりと、びい玉を覗き込む少年を見つけた。そして僕は、微かに声が聞こえた気がした。懐かしいその声は、もはや何と言ったのかすらわからず、すぐに風の音に溶け込み、聞こえなくなった。
 少年は僕に気付くと、照れくさそうに頭を掻いて、そそくさとびい玉をポケットにしまいこんだ。
 「どうかしたの? ぼうっとして?」
 「ああ、なんでもないよ。ごめん」
 はっとなって、僕は隣を歩く人に笑いかけた。
 そこには、あの日、微かに見えた少女と同じ瞳が、僕を不思議そうにじっと覗き込んでいた。
なくしたびい玉 田村タカユキ

言い澱む事件

 潜水艦で育てられた。父が自衛官だったとか、大企業のエンジニアで米軍基地に出向していたとかじゃない。他人に言うと笑われた。僕の潜水艦は土に埋まっていた。多分、記憶力はいい方だと思う。短いけれど今まで生きてきた中で、生後二ヶ月か三ヶ月のことを憶えている人はいなかった。
 土の中の潜水艦。短い草が点々と生えた広い空地。錆びた鉄条網。すえた塩辛い香り。甘く臭い香り。薄暗がり。冷えた鋼の感触。天井のハッチが開いて、母親が夕暮れに逆光でやって来て、飲み物や食べ物をくれた。母親は若かった。覚えのある母親の姿は今にして思えば、義務教育も終えていない少女だったんじゃないかとも思えてくる。
 一度、記憶をたどって潜水艦を探してみたが見つからなかった。
 母親はいくら話しかけても僕が声も出さないことを知ると、ただ義務的に毎日僕の面倒を見に来た。何年も、何年も。
 僕が病気になった時、母親は大人を連れて来ようか迷った様子だったのも薄っすら憶えている。自分も病気になったみたいに汗だくになりながら、当時はまだ珍しかっただろう携帯電話を手にしていた。どういう理由があったのか分からないが、母親が苦しんでいると分かる程度には成長していた僕は、電話が彼女を苦しめているのだと勘違いし、母親の手を激しく打った。以来今でも電話は嫌いだ。
 母親との毎日は不衛生でいつも空腹感に溢れていて暗くて楽しいことなど何もなかったが、だけど、安心感というか、水が澱んで流れない湖の底にいるような感じがして好きだった。今昔に戻れと言われれば嫌だけど。
 捕まり立ちが出来るようになって、初めて潜水艦の外に出た。当然、その時は自分の住んでいる場所の名前など分からなかったが。朝から母親が来るまでの夕方まで、ずっと外にいた。潜水艦の中よりも気温が熱く、汗をかいて服の中が蒸れ、初めて自分の匂いを嗅いだ気がしてふと、外の空気の不思議さを感じた。全く人の気配のない匂い。鉄の気配でもない匂い。薬の匂いでもない匂い。今思うと、草や土の匂い。眩しくて閉じていた目をゆっくり開くと、目の前に母親が立っていた。母親は僕の手を取って何事か言ったが意味がよく分からなかった。
 魔が差したと言うのか、潜水艦を出るキッカケになった出来事はよく憶えている。腹が空いて、暗がりを手探りしていた時に、下の階層へと向かう扉を見つけた。それまでは自分の力が足りなかったのか、錆びて動かなかった鉄のハッチがその日は開いた。僕が育ったのは狭い艦橋の部分だけだと今にして思う。夜になり、母親が去るとよく冒険して遊んだ。自分の体が何倍にも大きくなった気がした。幾つもの船室らしきものや、エンジン制御室、司令室、目には見えなかったが手の平が憶えている。今でも絵に描こうと思えば、描ける気がする。
 だから、船体の横腹に大きな穴が開いていることに気づいたのもあながち偶然のことじゃなかった。まず間違いない、敵の魚雷が当たった跡なんだ、と後に思うようになったが、昔の僕はただただ夢中になった。
 穴の向こうに、暗闇が続いていた。手の平はささくれたり錆びたりした鉄の感触から自然の、前に外に出たときに嗅いだ匂いのする岩石の感触に変わっていた。最初は少し行ってもどろう、徐々にこの先には何があるだろう、そうしていくうちに後戻りできないほど深みまで足を進めている自分に気づいた。母親とはだから、その時から会っていない。
 洞窟の中をどんどん進んでいくしかなかった。次第に水が足元を濡らし始めた。もう元来た道は分からないが、水で進めなくなったら戻ろうと考えながら進んだ。不思議と恐怖や不安は感じなかった。暗がりが好きだったからかもしれない。
 水は胸まで来て、段々引いた。少し安堵した反面、残念な気もした。これから自分は色々なことを知るんだろうと思った。知らないでいるのも悪くなかったんじゃないかと今、思う時もある。
 洞窟の岩は次第に整った石の形に変わっていった。規則正しくまるで機械みたいに綺麗に並んだ石の感触はどうにも落ち着かなかった。戻りたい衝動に駆られたが、結局戻らなかった。好奇心と言えば言えるかもしれないが、前方から香ってくる植物の濃い匂いに惹かれたことの方が大きいような気がする。
 昼だった。洞窟を抜けると山の中で、後で養護施設の先生に教えてもらって分かったが、それは防空壕だった。植物の中でしばらく座り込んでいたが、空腹に耐えきれず、山を降りた。
 長年慣れ親しんだ鉄の香りが僅かにする物体が無数に走りぬけていた。母親よりも萎んだ人が自分を奇異の目で見るのが分かった。震えが止まらなかった。怖さじゃなく、嬉しいような恐ろしいような、僕は興奮していた。初めて感じるやり場のない衝動に、喉の奥から音が勝手に出てきた。叫んだ。叫んで、手足をメチャクチャに振り回した。気持ち良かった。僕は有頂天だった。
 その日一日、街中を走り回って、車に轢かれそうになったり、他人に掴みかかられたり、大声を出されたり、店に入って追い出されたりして、疲れて気分が落ち着くと、やはり空腹が襲ってきて、今度は急に動けなくなった。寝るしかないと思い、薄れる意識の中で、母親の匂いを思い出した。
 今僕があるのは、無理矢理保護してくれた交通課の沢宮さんが僕に戸籍がないことを調べてくれたお陰というのがやっぱり大きい。沢宮さんはまだ独身だが、僕ではやっぱり申し訳ない。いい人が現れることを本気で願っている。
 養護施設に入っても、やっぱり僕みたいなのは変り種だった。まだ小さい子が多かったが周りはあんまり違和感を感じていないようだった。言葉を喋らなかったし、常識をしらなかったからだろう。言葉は喋れないわけじゃなかったけど、どう喋っていいのか分からなかった。そういう意味で、安達先生には沢宮さん以上に感謝したほうがいいのだろう。
 僕の文章をいつかだれか読んでくれるんだろうか。弁護士は僕に精神鑑定をすると言うが、そういう問題ではないと思うし、精神に異常はないと思うし、全て生い立ちのせいにするのも間違っているように思う。僕がやったことは悪いことだと分かっているし、反省もする。だけど、自分のように育った人が自分のようになるわけじゃない。自分と同じことをするわけじゃない。自分だって、僕と同じことをするとは限らなかったはずだ。でも、運が悪かったとか言訳するつもりじゃない。
 あの潜水艦は僕の何だったのだろう。どうしてあんなところに捨てられたのだろう。母親だった少女はなぜ僕を大人に引き渡さなかったんだろう。世の中の全部が、優しいのか冷たいのか分からない。
 今日読んだ新聞で、中国政府の外交についての記述が心に残った。中国政府の外交は常に内側の権力闘争を向いているという話だった。だから反日になるも親日になるもその時の政府次第らしい。
 世の中は全てのものに平等に興味がない。
 世の中は全てのものに平等に興味がある。
 そう思った。
 僕にも、土の中の潜水艦にも、短い草が点々と生えた広い空地にも、錆びた鉄条網にも、すえた塩辛い香りにも、米軍基地にも、甘く臭い香りにも、薄暗がりにも、母親のような少女にも、携帯電話にも、交通課にも、洞窟にも、養護施設にも、手の平のささくれにも、中国政府にも、天井のハッチにも、草や土の匂いにも、暗闇にも、逆光にも。
言い澱む事件 葱

饅頭怖い
Suzanna Owlamp

 神戸の第二の中心地ハーバーランドには、休日ということもあり、多くの若者の姿が目立つ。港に面して作られた、この街は、映画館、レストラン、ハンバーガーショップ、洋服店、靴屋、アクセサリー店、ゲームセンター、ディスカウントショップ、ホームセンターなどのテナントがはいっており、仕事を終えたサラリーマンや主婦たちよりも、どちらかと言えば、若者や家族連れ向けに作られたスペースになっている。
葛西翔一は、職業柄、こういう街には、何か違和感を感じるものの、女友達の慶子に連れられ、よくここに足を運ぶ。少し、小雨は降っているが、それでも、周りは休日の女子高生や、翔一と慶子同様のカップル達で賑わっている。こんな日まで、デートに連れ出さなくても、と少々、後れ毛を取る翔一に対し、慶子は、シーフードパスタを食べながら、次はどこに行こうか、などと翔一を急き立てる。映画も見飽きたし、ゲームセンターにも、かなりの給料を注ぎ込んだ。
「ほな、ポートタワーでも昇ろか」
ハーバーランドとポートタワーは、目と鼻の先だが、神戸の人間もそう多くは昇らない。慶子は、どうやら春物のアクセサリーが見たかったらしく、一瞬、残念そうな顔を見せたが、少し間を空けて、うん、と頷いた。慶子の言うところでは、落語家が高いところに登るのは、高座だけで十分だと、いかにも売れない落語家のような口ぶりで、そう話すが、神戸に住む以上、一度は訪れたい場所は、北野坂にある異人館、新神戸から登る布引の滝、そして、このポートタワーが、三大名所だと、翔一は勝手に決め込んでいる。
師に当たる三代目松風亭魯之輔は、高座での笑顔とサービス精神とは裏腹に、出稽古の厳しさといえば、日本全国の落語家を探しても、そういないだろう。
松風亭きい魯。これが、師匠と出会った当時、翔一が最初に付けられた芸名だった。落研に入り、色んな落語会を見て回っていた学生時代、本当に腹の底から笑えた芸人は、この魯之輔ただ一人であった。それも息を止めて笑わせるという、高等なテクニックを持っていた。芸人は、あまり客を笑わせてはいけない、と稀に言われるようだが、面白すぎて、笑い声が出ない落語家は、関西では、この人を置いて他にいなかった。大学を卒業したら、すぐにこの人の門を叩こう。翔一はそう思っていた。
 着物のたたみ方、太鼓、三味線の稽古、前座の挨拶。学生時代に生温い生活を送った翔一には、かなりきつい稽古だった。
「おい、きい魯! 饅頭怖い知ってるか」
「名前だけは聞いたことあります」
「一回しかやらんからよう見とけ」
これが、弟子入りして、六年目のことである。

-八っつぁん、あんたは何が怖い?
-俺は、蛇や。あのにょろにょろした体つき見てたら背筋がぞっとしよる
-ほぉ~、人は見かけによらんもんだんなぁ。熊さん、あんたは?
-俺は、何にも怖いもんないねんけれども、その~、幽霊
-幽霊が怖い。まぁまぁ、わからんではないな。松っつぁん、あんたは何が怖いねん?
-ないな~
-え?
-ない
-ないっていうたかて、一個ぐらいはおまっしゃろ。なんかゆうてみなはれな
-う~ん、……
-えっ!? 饅頭?
-あの甘くて丸~い饅頭。聞いただけでも、さぶいぼ立つねん。頼むからそれだけは、言わんといてくれ
-うひょっ! こらおもろいわ。何べんでも言うたろ。饅頭、饅頭、饅頭!
-ひぃ~、勘弁してくれぇ~

 芸人は所見で覚えないと、二度と同じネタは、教われない。あとは、舞台袖から、師匠の高座を見たりして、覚えていくしかない。翔一は、ずっと師匠の高座を見て、ネタを吸い取り紙のように吸収していった。しかし、その吸い取り紙も、白紙の状態ではなく、前に聞いたことのあるネタに若干、汚されたものであった。その面で、松風亭きい魯こと葛西翔一は、癖から抜け出すのにかなり苦労したといえる。しかし、得をすることもある。前に同じネタが頭にある分、理解力と解釈能力は、人より優れているのだ。師匠の高座が終わって、6畳一間のアパートで、大家の目を気にしながら、何度も同じネタを繰る翔一の後ろ姿は、まるで悪霊に取り憑かれた妖怪だった。
 数日後、魯之輔が翔一を呼び出した。
「きい魯、ええか。あの女とは別れろ」
「どうしてですか、師匠」
「お前の勝手な夢のために、堅気の子を巻き添えにするのは気の毒や」
ぐうの音も出なかった。
 確かにあの器量なら、どこかの男が幸せにしてくれるだろう。それをどう伝えようか、悩んだ挙句、翔一は、慶子をある公園に呼び出した。
 「今度、『饅頭怖い』を高座でさしてもらえることになった」
「へぇ~、よかったやん」
慶子は少し上ずった声でいった。
「俺が、もっとうまくなったら見に来てほしい」
翔一は、真剣な表情かつ、やや小さめの声でいった。
「今じゃあかんの?」
翔一が黙っていると、慶子は、少し笑顔を見せて頷いた。
「今のレベルじゃよう見せん」
「わかった。もう翔ちゃんには会われへんのやね」

 翔一は、尚一層、稽古に精を出した。
-ひぃ~! 怖い怖い! 俺の一番嫌いな饅頭や~
-どうじゃ、これでも喰らえ!
-勘忍してくれ~。もうどうにもならんわ~!
-おい、全部投げ込んでしもたぞ。声が聞こえんようなったけど、松っつぁん、中で死んでるんちゃうやろか。一遍、覗いてみ
-ほんまに死んでたら、どないすんねん。怖~てよう見んわ
-ほな、俺が開けたるさかい。おい、松っつぁん……、大丈夫か? 生きてるか?
中の様子を覗いてみると、ひんやりとした部屋の暗闇でムシャムシャと何かを食べる音がする。
-おい、松っつぁん! 何してんねん
-あぁ~、こら怖い。こんな怖い饅頭食べるの久しぶりや
-松っつぁん、おのれほら吹きよったな! ほんまに怖いもんは何や! 言うてみぃ!
-せやなぁ、今度は熱ぅて濃ぃ~い、お茶が怖い

 ハーバーランドに花火が上がる頃、翔一は、魯之輔から、あるスナックに呼び出された。一番奥のカウンターで、客と話している薄化粧の女が、やけに目についた。
「あら、師匠やないの。長いこと見ぃひんかったけど隣の男前はどちらさん?」
ゆうてたやっちゃ、言って、師匠はキープして置いたボトルを開けた。翔一は、それでピンと来た。
 店に馴染むまでに、半年はかかる。よく言われることではあるが、翔一にとっても、それは例外ではなかった。例のスナックに足しげく通うようになったのは、年末の寄席にかけるネタを仕上げる秋のことだった。
「きいちゃん、あたし今日でスナック辞める」
何でそんなこと言うねん、聞き返す間もなく、「ママに言われてん」とゆかりは言った。挙式や新居は、師匠と師匠の姉さんが決めてくれた。年明けに、式は粛々と行われた。披露宴に集まってくださった諸先輩に心ばかりの感謝を告げて、例に習い引き出物は、少し奮発した。
 次の春がやってくる頃、翔一は、慶子とほかの男を喫茶店で、目撃した。こういったとき、相手が楽しそうにしているのを見れば見るほど、つらくなるのは、男心も女心も変わりない。慶子はこちらには見向きもせず、ひたすら前の男に相槌を打っている。スーツ姿のその男は、周りのものを寄せ付けない、独特のオーラを持っていた。勘のいい翔一は、その男の正体が一目でわかった。一年前より、少し化粧が濃くなった慶子は、喫茶店で何かを書類に書き込んでいる。そうやって女は磨かれていくのか。冷たい潮風が翔一の頬を撫でた。
饅頭怖い Suzanna Owlamp

同病相憐れまず
ごんぱち

 診察を終えた医師の袖が、棚のファイルに引っかかった。
 ファイルが落ち、カルテが床に飛び出す。
 医師はさっとカルテを拾い上げる。
 『AC』『CD4』『HAART』そして。
 『HIV』
 通常なら見逃すほどの短時間。しかし、カルテに書かれた殴り書きの文字のいくつかは、香坂勝洋のカルテでも何度となく見かけたものだった。
 ファイルの見出に書かれた『栗林翔太』の文字が、写真のように香坂の目に焼き付いていた。

 三ヶ月後の通院日。
 診察室前の待合い用椅子に座り、香坂が図書館で借りた小説を読み始める。
 少しして、女の看護師が診察室から出て声をかける。
「診察番号三二一番の患者様ー! 診察番号三二一番の患者様ぁー?」
 看護師の声に、誰も応えない。
「クリバヤシ様、クリバヤシショウタ様!」
(……!)
 香坂は本から顔を上げて、辺りを見回す。
 すると。
「あー、悪い悪い」
 受付のカウンターの前で、女の事務職員に一方的に話しかけていた男が、弛んだ笑いを浮かべて走って来る。
(あいつ、が?)
 香坂と同じ三〇台前半と思しいが、髪を金色に近い茶髪にし、スーツに派手な色のシャツを合わせ、指輪やネックレスがやけにピカピカと光っている。目鼻のバランスが悪い顔は、良く言って滑稽、悪く言えば不快感をもたらす。
 香坂が普段、関わり合いを持たないように視線を逸らすタイプの人間だった。

 香坂が、小説を二ページ程読み進めたところで、診察室から栗林が出て来た。
「あんたさ」
 香坂の隣りに、栗林がどっかり座る。
「オレの方見てたけど、用あった?」
「気のせいでしょう」
 小説に視線を向けたまま、香坂は答える。
「そっかー、ははは」
 どうもそれで納得したらしく、栗林は笑う。
「で、あんた病気なに?」
「はぁ?」
 香坂はまじまじと栗林の顔を見る。悪意も、思慮もなさそうだった。
「風邪か、何かですよ」
「へー、いーなぁ。オレね」
 弛い笑いを浮かべながら、栗林は両手を頭の後ろに組み、天井を見上げる。
「エイズだって」
 一瞬。
 待合室の空気が変わった。そして、その空気は、すぐに波が引くように元に戻っていく。
 その変化は、香坂にとって、既に有り触れた――かといって決して慣れる事の出来ない、ものだった。

 栗林の名と顔が結び付いてから、半年が過ぎた。
「風邪長引いてんだ? ダメだよ、ちゃんとあったかくして寝なきゃ」
 香坂の隣に座った栗林は、一方的に話しかけて来る。
「そうですね」
 香坂は自分の頬を撫でる。顔が近すぎて、たまに栗林の唾がかかる。
「甘く見ちゃいけないよ? エイズの最初も、風邪みたいだって」
「はあ」
「最近、フーゾクとか行って、ハッスルしちゃったんじゃないの?」
「行ってませんよ」
 香坂は、手に持ったままの文庫本を、栗林の視界に入るように動かして『本を読みたいんだ』とアピールしてみる。
「じゃあナンパだ。女って病気持ってても全然言わねえんだもんねぇ。怖い怖い」
「伝染された、んですか」
「ん? ああ、そう。まあ誰だか分かんないけどさー」
 栗林は声を立てて笑う。
「オレってほら、ひと夏に七人ぐらい喰うからさ、誰から伝染されたか、誰に伝染したかさっぱり分かんねえんだよね。女七人エイズ物語つーかさ」
 香坂の相槌も必要ない様子で、栗林は大声で話し続ける。
「でもコンドームとか萎えるじゃん? オレ結構、ムードとか大事にするタイプだからさぁ。まあ一緒に楽しんだんだから、自己責任かなぁ、エイズってのは」
 香坂は息を一つ呑み込んで、静かな調子で言った。
「エイズは別に、セックスだけで伝染する訳じゃないでしょう」

 香坂は、妻の理帆と並んでカニ鍋をつつく。
「おいしいよ」
「そう、良かった。昇進祝いだし、ちょっとは贅沢しないとね」
 理帆は微笑む。
 ふと、香坂はテーブルの向こう側に視線を向ける。
 誰も座らない二つの椅子。
「あ、また見てる」
「え?」
「子供のこふぉかんがへてたでしょ?」
「食べるか喋るかどっちかにしろって」
 ごくん。
「子供の事でしょ?」
「……かなわないな」
「それぐらい分からなくてどーしますか」
「ごめん」
 理帆はビール瓶を差し出す。
「被害者が謝るなんておかしいよ」
「うん」
 ビールを注がれながら、香坂は小さく頷いた。
「養子でも貰えば良いのよ。気にしない気にしない」
「まあなー」
「その時までに」
 ほんの少し上気した顔で、理帆は笑った。
「たっぷりと非生産的な事をやり尽くそうじゃありませんか」

 数カ月後の通院日。
「ねえ、あんた」
 支払いを済ませた香坂に、栗林が駆け寄って来る。
「風邪、長すぎるよ、マジで」
「お気遣いなく」
 香坂は病院から出て、駐車場を歩く。
「あのさ、それ風邪じゃないかも知れねえよ? エイズ検査受けたら?」
「間に合ってます」
 香坂は足を早めるが、栗林もそれに合わせて早足になる。
「いや、親切で言ってやってんの」
 栗林は香坂の肩を掴む。
「エイズ、甘く見ちゃいけねえよ?」
「分かってる!」
 香坂は怒鳴っていた。
「なるべくしてなったあんたよりずっと分かっていた!」
「へ、は?」
 栗林は、何故香坂が怒っているのか、さっぱり分かっていない顔をしている。
「私も、HIV感染者だと言っている!」
「んだよ」
 少し下がりかけた栗林だが、しかし一歩踏み出した。
「同じかよ?」
「私は非加熱製剤の被害者だ! 子供の時に、何一つ知らずに感染させられた、被害者だ!」
 車の陰になっていたのか、他の客の姿も病院の職員の姿もない。
「貴様らなんかと、一緒にするな!」
「キサマなんかとは、なんだよ!」
 栗林が香坂の顔面を殴りつける。
「避妊も、しない」
 香坂は栗林の顔を掴んで地面に叩き付けようとする。
「バカだろうが!」
「ひがんでんじゃ、ねえ」
 バランスを崩しながらも踏み留まり、栗林は香坂の腹を殴る。
「この、フニャチン野郎!」
「なら」
 香坂は踵で栗林の脛を蹴る。
「今、貴様と寝ても良いって言ってくれる女は何人、いる!」
 動きの鈍くなった栗林の頬を殴り飛ばす。
「あ、あんたなんかに!」
「セックスの後に長い時間シャワーを浴びるようになったか? 食器を煮沸消毒しているのを見たか? また今日もエイズ検査に行く姿を見たか?」
「ねえよ! でも、届かねえんだよ、泊まりがけのクラス会の知らせとかよ! 全然パタリとよ!」
「自業、自得だ」
 既に二人とも気力が萎え、殴る手に力が入らない。
「オレがバカだった、でも」
 栗林は香坂にすがりつく。
「バカってダメか? そんなに、悪い事か? ただ、女とやりたくて」
 涙と、鼻血が流れていた。
「それ、こんなにみじめな目に遭わなきゃいけねえほど、いけねえ事か? 畜生、健康保険使うのに、なんでこんなに、後ろめたいんだ」
「一緒な訳、ねえだろう、貴様なんかと」
 二人はそのまま地面に座り込み、互いに寄り掛かるようにして、嗚咽を漏らしそれから、声を上げて泣き始めた。
 ――ひとしきり泣いた後。
「栗林翔太」
 車のタイヤに寄り掛かったまま、香坂は声をかける。
「あ?」
 同じ態勢で、栗林は空を見上げながら、鼻の下の固まった血を手で拭う。香坂も、自分の唇のかさぶたを爪で掻き取る。
「血、付いたな」
「はは、付いたな」
 日が傾きかけていた。
「洗うか?」
「洗うよ、汚ねえし」
 笑ってから、顔を合わせる事もなく、ただ、藍色の空を見上げた。
 金星が、いつもよりほんの少しだけ明るく光っていた。
同病相憐れまず ごんぱち

SAMURAIリミックス
とむOK

 こんないい月夜を、まさか侍に邪魔されるとは思わなかった。
 昼から世間の喧騒を完全無視して部屋で一人の時間を満喫しまくり、今まさに月を見ながらチャットしていたケンイチの前に、その侍は現れた。机の引き出しからである。
 パッパパパパパ~パ~パ~
 そんなお気楽なファンファーレの聞こえてくるような勢いだった。
「拙者の名は三郎衛門。略してブラちゃんと呼んで欲しいでござる」
「は?」
「拙者は二十二世紀から貴公の子孫に頼まれてやって来た平社員型ロボッ、ぶっ!」
 ケンイチは引き出しを力任せに閉める。
「な、何を。やめるでござる」
 侍は両手の指だけ出して必死に抵抗する。
「問題発言はやめろ。そもそも引き出しってのがダメだから」
「それは何ゆえ」
「もうやった人がいるから。二番目から後は切ない目に遭うんだよ」
「よくわかりませぬが、まあそれなら」
 引き出しの隙間の指が引っ込み、机のゆれがおさまった。かと思うと足元がいきなり持ち上がり、ケンイチは部屋の反対の隅まで吹き飛ばされた。畳を跳ね上げて現れたのは、やはり三郎衛門であった。
「これでよいでござるか」
 三郎衛門は畳を戻して正座し、ひっくり返ったままのケンイチに三つ指突いて頭をたれる。
「ふつつか者でございますが…」
「それ違う」
 三郎衛門は丁髷に裃、腰に朱鞘の大小、いかにも武士といういでたちである。これで平社員型ロボだというのは、一体どういう了見なのか。ケンイチは尋ねた。
「二十世紀にはサムライマンという漢気あふれる平社員どもが日帝資本主義のために滅私奉公しまくっておったと資料で読みましてな。カモフラージュの意味も兼ねましてこうしたいでたちで参った次第でござる」
 聞かなくても良かった気がする。
「それはサラリーマンのことか」
「そう呼んでも良かろう」
「良かろう、じゃねえだろ」
「では夜も遅いし、」
「おう。じゃあな。もう来るなよ」
「拙者そろそろ休むでござる」
 三郎衛門はケンイチの部屋の押入れの戸を開ける。
「おいこら」
 押入れの中はエロマンガやらフィギュアやら二次元系萌えDVDやらでいっぱいだ。三郎衛門はケンイチを振り返り、大げさに肩をすくめて「HA!」という。
「きさま欧米か」
 三郎衛門は押入れに山積みされたオタグッズを床に落とし始めた。
あらかた中のものを掻き出すと、今度はどこから出したのかせんべい布団を一枚、押入れの上の段に敷いて片足をかけた。
 ケンイチはスパナを取り上げ、三郎衛門の丁髷めがけて振り下ろした。気配を察した三郎衛門は振り向きざまに白刃取り…に失敗して顔面で受ける。
「やめるナリ」
「ナリってつけんな! とにかく、引き出しとか押入れとか著作権的にやばいとこに出入りしない! Fの人が涅槃で怒っちゃうから!」
「拙者狭い所好きなんでござるが…どこか良い場所はありませぬか」
「誰も泊めるなんて言ってねえ」
「おお、ここでよいでござる」
 三郎衛門はケンイチの話も聞かずに机の下に潜り込むと、ヨガの達人みたいな格好になって目を閉じる。引きずり出そうにも机の脚に絡まってびくとも動かない。ケンイチはため息をついた。夜も更けた。というより間もなく明け方である。文句は明日まとめて言ってやることにして、自分も布団に入った。
「む」「やや、曲者」「だめでござるよ、そんなところ」「うふ」「ふふふ」
 …ロボのくせに寝言か。ケンイチはガムテープを取り出し、三郎衛門の口を厳重に封印した。
 働かぬケンイチには眩しすぎる朝が、やがて訪れる。とは言っても既に日は正午近い。閉めっぱなしのカーテンの上の隙間が集中的に輝いていた。
「あー苦しかった。機能停止するかと思ったでござるよ」
「お前何で動いてるの」
「原子りょ…な、何するでござるか」
 ケンイチは畳をめくって三郎衛門を押し込もうとする。
「帰れ。もー帰れ」
「僕らはみんなアトムの子どもでござる」
「ふざけんな」
「ほんとのところは空気中の元素を口から取り込んで、元素転換でエネルギーを生成するでござる」
「それは危なくないんだろうな?」
「核分裂はクリーンなエネルギーでござる」
 ケンイチはため息をついた。
「そもそもお前、何しに来たの?」
「大事な使命があるのでござる」
「大事な使命とかがあって来る奴がこんな時代考証でいいのかよ」
「実は拙者の時代はかなり荒んでしまっていて、あまり昔の資料とか残ってないでござる」
「そうなんだろうよ」
「何しろ世界が一度核の炎に包まれておりますから」
「ちょっと待て。何かいろいろ混ざってないか」
「拙者の使命は、暴力の世紀末に救世主となる伝説の男のご先祖を護ることでござる」
「こらこら」
「そうして先祖のガードのために過去に跳ぶのは、拙者の時代では普通のことでござるよ。そもそもはタミなんとかいうサイボーグが奥田姓を名乗り二十世紀人とデュオを組んで西暦一九九七年、ありがとうありがとうと感謝の大安売りで敵の戦意を削いだのが始まりで」
「嘘つけ!」
「グラサンの井上陽水ってロボっぽくね?」
「お前ほんとに二十二世紀から来たのか?」
「ご理解いただけたでござるか」
「…もういいよ。何でも」
 ケンイチはひどい脱力感に囚われた。先月面接に落ちた時よりもひどい。
「というわけでご先祖様」
「お前の先祖になった覚えはねえ」
「いい年こいて稼ぎもない男と一つ部屋で寝食ともにするのも、豊かな未来を護るためでござる。何卒よしなに」
「帰れ。すぐ帰れ」
「そう邪険にしないでくれでござる。貴公を護れないと未来でたくさんメッされるでござる。拙者にも立場というものが…」
「知るか」
「此処だけの話、未来の便利道具が使い放題でござるよ」
「何、使い放題」
「今なら五千円ポッキリでござるが」
「…お前に言葉教えたやつに会ってみたいよ」
 三郎衛門が懐に手を入れる。パパパパッパパ~という脳天気な音楽が聞こえる代わりに、窓ガラスを震わせて大きな獣の雄叫びがして、腕が肘の上まで引きずりこまれた。
「いたたたたた。やめるでござる。ちょ、ちょっと、指、指ちぎれるから」
 三郎衛門は畳の上をしばらく一人で転げまわって暴れていたが、ようやく腕を引き抜いた。腹の奥の方でまだ低い唸り声がしている。
「何飼ってるの? ねえ、そこで何飼ってるの?」
 腕には幾つも鋭い噛み傷がついて、奥からコードが覗いていた。ロボってのは一応ほんとだったんだな、とケンイチは思った。
 三郎衛門は懐に向かって叫んだ。
「今日はこのへんにしといてやるでござる」
「おい、便利道具は?」
「今日はこのへんにしといて欲しいでござる」
「それでいいのか? 未来を護るってそんなんでいいのか?」
「そんな日もあるでござる。それより拙者張り切って早起きしたので眠いでござる。健康のためにそろそろ昼寝を…」
 三郎衛門はもそもそと机の下にもぐる。
「ふざけんな、こら! お前何しに来たんだよ!」
「いやあ。もうそのへんで」「だめ、だめでござるよ」「おお、そんなにされても」「受話器は食べられないでござる」
 早くも三郎衛門は怪しげな寝言を言い始める。にやけた口にガムテープを貼りながら、ケンイチは誰かにとんでもなくいらないものを押しつけられたのじゃないかという考えが頭をよぎった。
 がんばれケンイチ。君が救世主の父祖となるには、まだまだ数多の障害が待ち構えているのだ。例えば面接とか就職とか貯金とか恋愛とか結婚とかだ。道は遠いぞケンイチ。
SAMURAIリミックス とむOK

(本作品は掲載を終了しました)