いろいろな人々(にゃん)
紫生
☆ 幻偽屋 ギン
銀は器用な少年だった。器用な上に手癖が悪かった。
本屋でマンガをかっぱらっては売り飛ばし、ブランドバカのお嬢様からサイフを失敬し、スーパーで惣菜をガメては空きっ腹を満たすのが彼の日常だった。
それというのも、銀の家はとびっきりの貧乏で父親は絵に描いたような大酒呑みのならず者、年がら年中債鬼に小突きまわされているようなどうしようもない人物なのだった。母が昼夜、寝る間も惜しんで働いたが、肝心の酒乱オヤジが改心しない限りまともな暮らしなどとうてい望めるものではなかった。
銀は生きるために腕をみがいた。そのことで良心を痛めたりはしなかった。
銀の目はいつだってキラキラと据わっていた。
気が向けば、デパートの屋上や公園で、トランプやコインを使った鮮やかなマジックを披露した。いくらか投げてよこす者もいた。そんな時にはスマートに一揖し、感謝のハグを求める。それがメインイベント。魔法の指で客のサイフが銀のふところへ転がりこむという、その一番の妙技はもちろん観客には秘密。
ひと仕事を終え、トイレでピカピカハデハデの道化じみた衣装から学生服に着替える。
コインロッカーに商売道具をしまっていると背後から「ヤッホー」と気安く呼ばわる者
がいる。
ここは山ではないし、オレはやまびこではないし、なんせおまえは知らない女。
一べつをくれて立ち去ろうとすると「あれ、手癖の悪い坊やは愛想も悪いんだね」と、嬉しくないことを言う。あわてて口をふさぐ。女はしてやったりとばかりに笑いの花を咲かせた。意外に可愛かった。
「短刀直入に言うね」女は笑顔のまま上目を遣ってこう言う。「寝よ」
この女、ゆすりなのか、美人局なのか、はたまた宇宙最強のバカなのか……。あっ、バカで思い出した。この女この前サイフをいただいたブランドバカ!
「あのさ、何か勘違いされているようですが、僕はしがないマジシャンの卵で女性を悦ばせる手練手管など一切きたえておりません」
「いいのよ、最初は誰でも素人なの。だから、そんなよこしまな稼業からはさっさと手を引いてきちんとからだでかせぐことを覚えなきゃ。社会の目はごまかせても今に神様のバチが当たるわよ。あっ、言い忘れていたけど、私こういう……」
女が差し出した名刺を銀の左手が叩き落した。
よこしまな稼業だと、神様のバチだと、オレ様のわざは芸術だ。芸術に投資するってのは市民の義務なんだよ。おまえみたいなアバズレには理解できないだろうがな。
「いいか、よく聴け。金がないっていうのはあんたが考えている以上に地獄なんだよ。地獄の底からほんのわずかの光を求めて、神にすがる人間もいる。神なんかいないってわかっていても祈らずにはいられない人間の気持ちなんて、どうせあんたみたいな上等な娼婦様にはわかりっこないだろうよ」
可能な限りの重低音で噛んで含めるように言って聞かせると、視線で死ね、とばかりに女を睨みつけた。
女は子猫のような丸い目で銀を見つめた。臆する色などアリのションベンほどもなかった。
(で、その神様ってやつにまでたっぷりしぼりとられて世をすねてるってわけだ)スーッと細められた目はそう語ってきた。が、耳に届いたのは、
「うん、わかんない。だから、とりあえずやろ」だった。
銀は穴の開いた風船のように一気に脱力した。バカにはスリも怒りも通じないことを学んだ。
落ちた名刺には『美娼年演出家・白鳳桃』と、あった。
☆ 桃色ハンター モモ
桃は良家の子女だった。出自は良かったが、身持ちが悪かった。
昼間は甚だしく礼儀と規律を重んじる品行方正な名門女学院に通う楚々とした一学生を気取ってはいたが、それこそ夜ともなれば高級娼婦さながらの色と欲で全身を艶めかせながらきらきらしい闇をほしいままに謳歌する日々だった。
冒険家が山へ登るのはそこに山があるからだという。それにならえば桃が快楽を求めるのもそこに男がいるからで、その意味では桃の脳ミソと冒険家のそれはよく似ているのかもしれなかった。いつだってある種の麻薬ホルモンで頭の中を幸せにしておくのがお気に入りの人種なのだ。
「なんか“生きてる!”って、感じがしないじゃない」と、桃は言う。
良い服を着て美味しいものを食べ世界のあちらこちらをへめぐって、使い切れないほどの品物に囲まれ豪華なベッドで眠りに就いても、桃には一向に鮮やかな夢など訪れなかった。
唯一命を実感できるのが秘戯の裡にのぼりつめるそのつかの間で、そこには愛など薔薇の露ほどもありはしない。愛を受け取る変わりに金品を受け取るのが桃の流儀で、それは与えられるという立場に慣れきった、多少いびつな毛並みの良さに由来した。
その愉しい遊戯のかたわら、桃にはもうひとつの顔があった。
「今の時代、主体的に生きようとしなければ死んでいるも同然だって、私は思うの。とりたてて不満もなく痛みもなく、空腹も恐怖も感じることなく、ぬるま湯につかったような日常に安んじているなんて “生きているのに死んでいる”、例の物理学的難問の猫ちゃんのように、重ね合わせの不安定を生きながら死んでいるも同然じゃないかしら」
小首をかしげて、スカウトしたての少年の目の色をうかがう。目の前の少年は長いまつげを伏せ、桃の差し出した名刺に視線を落としたまま「それで、このようなお仕事をしているのですね」と、感心した風に言った。
別に感心されるほどのものじゃない。むしろ年齢を考えれば軽蔑されるべき所業なのだが、そこはそれ。
少年のなかなか如才ない言動に自分の目の確かさが裏付けられたようで、桃は気を良くした。そもそもこの年でこんな仕事に手を染めたのも、目利きと経営手腕を計るための瀬踏みに過ぎない。仕事は楽しんで学ぶに越したことはないし、しないよりはした方がいい。
「で、とりあえず私と寝て、採用かどうかはそのあと決めるね」
「お話はよくわかりましたが、実はわたし、戸籍上は女なのです」
「へ?」
桃は自分の目が節穴だったことにがく然とした。
そんな桃を尻目に少年は恬淡と語った。
「ええ、男であるのに女である。多くの物理学者たちにも毛嫌いされたコペンハーゲン解釈の電子のように、波であるのに粒であるような存在なのです。でも、たとえ人様から奇異な目で見られようとも、わたしはアンチノミーとアンビバレンスを上手に飼いならし中庸であろうとすることに誇りを持っているのですよ。その意味では重ねあわせという概念を超えて、わたしは男でも女でもないのかもしれません。もしもそのことでわたしの存在自体が否定されるとすれば、それはとても哀しいことです」
中庸ねえ……。
オールオアナッシングが信条の桃にはちょっとした衝撃だった。人生ジェットコースターに乗ってなきゃ意味がない、と思っていたから。昇ることも沈むこともせずにたんたんとした安定に居場所を定め、それを楽しんで暮らすなどとは考えもしなかった。
桃は得体の知れない胸の痛みを感じた。それは恋の痛みにひどく似ていた。
「ねえ、名前は?」
少年であり少女である、その美しい生きものは水面の微笑できらきらと言った。
「名前ですか……。では、“オウ”というのはどうでしょう」
「キング?」
「いいえ、黄色の黄と書いて、オウ。子供の頃から黄色が大好きなのです」
オウねえ。桃と合わせて黄桃か。庶民的でいいかも。