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第1回6000字小説バトル Entry1

記憶

 小さな女の子が泣いている。なぜだろう。女の子の向こうには何か黒い群衆が蠢いているような、そんな空気が漂っている。僕はその女の子に近づこうとするが、何か大きな幕が張られているようで押し返されてしまう。心配だ。どうしたんだろう。何か僕にできることはないのか。僕はもう一度、女の子に近づこうとした。でも、だめだ。どうしてだ。
「いや、理性ではそうすべきだと思っていても、本心は近寄りたくないと思っているからだ」
 どこからかそんな声がする。そうなのかもしれない。いや、きっとそうだ。僕は本心でこの女の子を助けたいだなんて、少しも考えていないのだ。関わりたくないと思っているのだ。だから近寄れないんだ。僕はそんな人間なんだ。きっと僕はそんな人間なんだ…。

 夢はいつだって現実だ。しかし目覚めて直ぐに、こんな現実的に目の前に現れる夢はない。いつだって夢は数時間経った後に、霧の中からぼんやりと現れてくるのが常なのだ。
「やけに生々しい夢だな」
 女の子に近寄れない、あの押し戻される感覚やその泣き声が、今も肌や鼓膜に残っている。まるで今さっき体験したかのように…。

 そろそろ梅雨が明ける。
 水気のある空気を吸い込むと、僕は一年の中で一番好きな季節の到来に生唾を飲み込んだ。外は梅雨の終わりらしく、不思議な天気だ。太陽は照っているのに、細かい雨がまるで霧吹きのように地上に降りてくる。
 田舎のあぜ道を歩いていると、どこからともなく蝉の声が聞こえてきた。一瞬、空耳かと疑った。いくらなんでも早すぎる。まだ僕には蝉の声を聞いて夏を意識する心構えができていないのだ。何かの間違いならすぐに消え去るものの、僕が靴の中に入った小石を取ろうと身をかがめても、蝉の声は耳の中で鳴り響いた。雨に湿った土の匂いを近くに感じたとき、地面が大きく傾いた感覚に襲われ、地上が天と入れ替わった。危ないと思って土を踏みしめ、何とか踏みとどまったがにわかにひどい頭痛がする。見上げると天上には目がくらむほどまぶしい光にあふれていた。

 頭痛はなかなか治らなかった。それどころか、さっきよりも平衡感覚が失われてふらふらした感じが増した気がする。なぜかこげくさい匂いをかぎ、僕はそんな中でぼんやりと何かを想い出そうとしていた。

 僕は小学生の高学年の頃だろうか、静岡県のどこか山の中の小学校に行ったことがある。それは「ふるさと交換児童」という企画で、その小学校の児童と僕の通っていた小学校の児童が入れ替わり、一ヶ月ほどを過ごすというものだった。僕はその交換児童に選ばれ、静岡の山の中の小学校に“短期転校”をしたのだった。
 その小学校はひどく田舎で、生まれも育ちも都会で慣れ親しんだ僕には、何もかもが新鮮だった。向こうの学校の子たちと仲良くできるだろうか、家が恋しくならないだろうか、などといろいろ心配はしたけれど、いっしょに行ったのが仲の良い友だちだったことと、やはりこの環境の変化が楽しくてそんな心配事はどこかに吹き飛んでしまっていた。都会より明らかに濃いと感じる空気や澄んだ川の水、虫の声は、そのすべてが別世界だった。まだ来たばかりだというのにここに住めたら毎日どれだけ楽しいだろうか、と思ったほど気に入った。
 僕を受け入れてくれた家は大きな農家で、かやぶき屋根を持っていた。今でははっきりと憶えていないが、田舎訛の言葉で歓迎してくれたことは印象に残っている。僕は着替えや筆記用具の入ったカバンを置くと、さっそく外に出た。

 まるで研ぎたての包丁のように鋭く降り注ぐ太陽は、何か肌に刺さっているのではないか、と疑うくらい強烈な熱を持っていた。僕は何度も自分の腕を見ながら、時間が経つに連れて赤みを帯びていく様が変にうれしかった。聞いたことのない声で鳴く蝉は、どんなに目を凝らしても見つからないし、掌ほどある蝶があまりにも堂々と飛んでいる姿を見て、その美しさにしばらく動けなかったことも憶えている。家のまわりをサンダルで歩き回って、僕は何に魅力を感じるかなど考えもしないで、ただその目に映るすべてのものを吸収しようと一生懸命になっていた。なぜそんなに一生懸命だったのだろうか。今考えてみてもそんなことは分かるはずもなく、僕はさっきより痛みの増した頭を抱えて、追憶の世界から現実へ舞い戻った。

 家に戻り縁側の窓を開けた。すだれから風鈴をチリリと鳴らしながら入ってきた風は、ただ空気を動かしている現象だ。しかし、ここで感じる風はあの頃、熱い陽射しに照らされた腕で感じたものとは天と地ぐらい違うものだった。僕は部屋の畳にごろんと寝転がると、90度回転した景色をみた。ちょうどすだれ越しから外の色あせた空が見える。この空はあのときの空とつながっているのだろうか。そう思った瞬間、僕はいじわるな睡魔に背中を押された。額から流れる汗が耳をくすぐった。

 人は年を重ねるごとに退屈も重ねていく。退屈よりも飽きと言ったほうがいいのだろうか。そう考えると小学生の僕は飽きや疲れや失望感、あるいは遠い将来の不安感など持ち得るはずもなかった。ただ思慮のない動物と同じように生きることを生きていただけだった。

 外から帰ると、家には夕食の準備が出来ていた。見たことのない大きな魚が茶色いテーブルの上に、大きな皿や小さな皿といっしょに乗っていた。僕はそれを見ると急に静かになってしまって、一緒に来た友達の横にしずしずと座った。友だちも肩をこわばらせ、黙っている。さっきまでは未知の空間に大きな好奇心を抱いて喜々としていた僕なのに、目の前の未知の巨大魚には好奇心が湧いてこなかった。「たくさん食べてね」と促され、おそるおそる箸を伸ばしてみた。それは魚だということは分かっているのだけれど、一般的な魚のイメージとは明らかにかけ離れていた。口に運んだ瞬間、果たしてそれは何か畑の土を口いっぱいほおばったような、そんな味がした。それがどんな名前の魚なのか、今ではもう忘れてしまったが、これからこんな夕食が毎日続くのかと思うと、腕の日焼けも少し色あせて見えた。

 田舎の学校生活も二週間が過ぎた。慣れと飽きが交互にやってくる毎日は僕を退屈させた。しかし、その頃の僕はそれが退屈だという意識もなく、それが感じられるといつも外に出て何かを探そうとしていた。仲の良い友だちは「暇だ、ひまだ」としきりに嘆いていたように思う。僕が「外に行こう」と誘うと「暑いからやだ」と言うばかりだった。
 僕は外に出た。ここ二週間、雨は一滴も降らないばかりが、曇りの日すらなかった。ただ毎日同じ晴天。たんぼの稲も体の水分をすべて奪い取られてしまったようだった。ときどき風が吹くと、かさかさとたてる音が物憂げなのだ。その音を聞いて僕は急にさみしくなった。
 白く、照り返しのきつい道を歩いていると、道ばたの祠で、ひとりの女の子がしゃがんでいるのを見つけた。手にはスコップを持ち、何かを埋めているようだ。僕は立ち止まって遠巻きにその光景を見ていたが、その女の子が肩をふるわせて泣き出したのを見て、何をしているのかを直感した。そして立ち止まった僕は、その瞬間に後悔したのを憶えている。そこから立ち去ることもできず、声をかけることもできない自分に不甲斐なさを感じた。僕に背を向けてしゃがんでいる女の子までの距離が近くて遠く感じた。
 そんな葛藤をしていると、女の子はすくっと立ち上がり、そしてすぐに振り向くと、きっと情けない顔をしているだろう僕の顔を見て、驚いた表情を見せた。と同時に涙で濡れた頬を手でゴシゴシとやった。悲しんでいる女の子を前に、何一つ言葉が出てこない僕。頭の中が真っ白になった僕は、初めて言いようのない男を実感した。そしてほぼ同時にそんなことを実感している自分が妙に滑稽だった。あるいはまた、喜劇役者の悲しみを知ったかのようだった。
「小鳥が死んじゃったの」
 女の子は小さく言った。その幼くも憂いを持った声を聞いた瞬間、僕は時間の溝を感じた。同い年くらいの女の子が、急に大人びて見えたのだ。僕はそれを聞くとおもむろに歩き出し、その小鳥の墓の前にしゃがんで手を合わせた。そのときの僕はきっとそれが精いっぱいの、彼女への表現方法だったのだろう。何も言えなかった僕は、長い間じっと目を瞑って、じっと頭を垂れていた。
 しばらくして振り返ると女の子は待ちかまえていたように僕に言った。
「夜、お祭りにいかない?」
 さっきまでの泣き顔はどこへいったのだろう。女の子は出し抜けにそう投げかけた。僕はその顔を見て初めて女の子が同じクラスの羽田道子だったことに気が付いた。その事実とその誘いの言葉に僕は恥ずかしくなって俯いた。その恥ずかしさのなかには、さっきまで泣いていたのに、どうしてそんなあっけらかんと僕を誘えるのだろう? という戸惑いも含まれていたと思う。しかし、僕には断る理由もない。
「別に、いいよ」
 と返事してみたものの、にこっと笑った羽田には見えない蜘蛛の糸が引っかかっているような、そんな居心地の悪い感じがした。

 今夜の祭りはこの町で最後の夏祭りだった。山車が出るとか、打ち上げ花火が上がるとか、そんな派手なものはないけれど、テレビドラマで見た田舎の祭りそのものの雰囲気は僕を興奮させた。和太鼓の音、赤と白のちょうちん、金魚すくい、綿菓子、浴衣…。まさに日本の祭りそのものの光景は、できすぎていて、それこそ映画のセットのようだ。僕はあたりをきょろきょろしながら羽田の前を早足で歩いた。
「もっとゆっくり歩いてよ」
 羽田はそう言って僕の前に来ると、顔をのぞき込むようにして口を尖らせた。学校でもほとんど話したことがないのに、羽田はずっと前から知っている友だちのように僕に喋りかける。浴衣の彼女はときどきつまづきながら、歩きにくそうだ。僕はなぜだかそれを知っていても、つい早足になってしまう。
 そして僕は突然、羽田に言った。
「金魚すくいをやろう」
 羽田は急に立ち止まって振り向いた僕に、
「う、うん」
 と、少し驚いた顔で返事をした。

 実は、金魚すくいなど、今まで一度もやったことがなかった。薄い半紙が張られた小さな団扇のようなもので金魚をすくうことはテレビで知っていたが、実際にやってみると難しいことが分かった。しかし、このゲームに夢中になった僕は屋台のおばさんに何度も銀貨を渡した。羽田はそんな様子を横でただじっと見ているだけだった。僕はますます金魚すくいにのめり込んだ。そして一番大きな黒い金魚に悪戦苦闘し、ついに水槽の縁まで追い込んだ。その暴れ回る黒い物体は、僕にとってもはや生き物ではなく、単なるゲームの対象だった。そして今にも茶碗のなかの獲物となる瞬間だった。
 しかし、突然、羽田は僕の腕を強い力でつかむと、何も言わずにその場から引き離そうとするのだ。僕は不意を取られて腕が抜けそうになったが抵抗することもできず、彼女の動きになびいた。女に力ずくで引っ張られている状況をやっと第三者の目で見たときどのように映るのかを自覚した僕は、足を止め、無理矢理羽田の手から腕を振りほどいた。
「なんだよ。もう少しで捕れるとこだったのに」
 僕は声を荒げた。しかし、その僕の言葉以上に彼女は最強の武器を持って待ちかまえていた。
 彼女は泣いていた。僕は高温に熱せられた鉄の塊が、一気に水の中へ沈められたように冷たくなった。そしてまたあの時と同じように戸惑いながら、しかし、今度はまるで理解できない彼女の行動に疑念すら感じていた。
「なんでだよ」
 戸惑いと疑念が再爆発を繰り返し、僕は叫んだ。しかし、彼女は僕の怒りの言葉を聞くと、ますます大きく嗚咽し、その行動がさらに僕の怒りを高揚させた。だが、僕は次に用意した言葉を飲み込んだ。夏の終わりを告げるかのような、涼風が首筋をふっとなでたのだ。すると遠くから祭りの雑踏が、まるで糸電話のコップから聞こえてくる音のように、大きく、小さく僕の耳に届いた。タイミングを逸した僕は何も言えなくなり、それから長い沈黙が続いた。遠くから風に乗ってガラスの風鈴の音が軽く乾いた音を運んできた。

 僕はゆっくりと目を開けた。90度回転した風景は依然そのままで、空気の匂いだけが少し変わっただけだった。僕は今見た過去の夢に驚くこともなく、いや、むしろ自然なこととして受け止めていた。夢は断片的でありながら、その空白の部分を埋める部分は記憶が付け足した。僕はそのままの姿勢で、そのまま夢の続きを思い出そうとしていた。

 沈黙を破ったのは羽田のほうだった。
「ごめん、ごめんなさい。なんか、急に悲しくなって…。金魚がかわいそうで」
 彼女は喉の奥を詰まらせながら、たどたどしい口調で言った。金魚すくいは金魚を捕まえる遊びだ。それをかわいそうだなんて。僕は彼女の言葉を聞いても、なぜなのか納得できなかった。
「どうして悲しいの。どうしてかわいそうなの」
 僕はゆっくりとやさしくそう尋ねた。鉄の塊は夏の終わりを告げる夜風ですっかりと冷めていた。しかし、彼女はわからない、と首を振るだけだった。

 ゆっくりと体を起こした僕は縁側に出て、すだれを上げた。昼間の太陽は力を使い果たし、西の山並みに寄り掛かっていた。そして夢のなかとは違う生ぬるい風が風鈴を数回チリリンと鳴らした。地面には走り回る蟻の群が、ひからびてしまった蚯蚓を一生懸命巣まで運ぼうとしていた。
 彼女はあのとき、どんな衝動を受けたのだろう。暴れ回る金魚が、まるでその後訪れるであろう死を想像させたのだろうか。彼女の飼っていた小鳥の死と瞬間的に重なって見えたのだろうか。しかし、理由が何であろうと、そのとき僕が何も感じなかったのに対して、彼女は何かしらの揺さぶりを受けていたことは確かだ。
 僕は縁側に座った。僕は無関心なのだろうか。関心があるように装っているだけなのだろうか。彼女は小鳥の死も金魚の死の予感も同等に扱った。僕は人の不幸に順位をつけるようなことを、知らない間にしているのだろうか。もしくは人の幸福に順番をつけていることはないだろうか。いや、もしそうだとしても、それに善悪の判断はつけることができないはずだ。一瞬、開き直ってみたが、あのころ僕より先に死の匂いを嗅いだ彼女には太刀打ちできない気がした。そして今朝の夢と今日のできごとが今の僕に何かを訴えかけてきているように思えて仕方がなかった。僕らは空気がなくては生きていけないこと、いろいろなものを犠牲にしなければ生きていけないこと。そして何よりも生きることを実感しなくても生きていける人間の怠慢さを、どこかで痛感させられたほうがいいのかもしれない。地面を見ると蚯蚓を運ぶ蟻の群は、ようやく人間の一歩分を進んだところだった。

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